谷口鉄雄

没年月日:1995/03/17
分野:, (学)
読み:たにぐちてつお

 美学者、東洋美術史家で、九州大学名誉教授、元北九州市立美術館長、元石橋財団石橋美術館館長の谷口鉄雄は、3月17日午前10時30分、肺がんのため福岡市南区の九州中央病院で死去した。享年85。
 谷口は、明治42年11月23日、福岡県八幡市折尾町陣原834番地(現在の北九州市八幡西区陣原)に生まれた。昭和5年3月、旧制福岡高等学校文科を卒業、昭和8年3月、九州帝国大学法文学部哲学科を卒業して、昭和8年5月、九州帝国大学法文学部の副手となった。この後、昭和10年5月に助手、昭和11年5月に副手、昭和13年4月に助手を経て、昭和14年4月、九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学を講じている。この時期、九州帝国大学法文学部において哲学、美学を講じていたのは、矢崎美盛教授であった。学生、副手、助手の時代を通じて、谷口は矢崎教授の薫陶を強く受けており、昭和23年に矢崎が東京大学教授に転じて5年後、昭和28年4月7日に逝去した時には、「矢崎先生を憶う」と題した追悼の文を4月15日付の毎日新聞に発表した。また昭和60年4月7日、矢崎美盛の三十三回忌を迎えるに当たり、九州大学、東京大学、東北大学の矢崎門下生たちから師を回想する文章を募り、それらを『回想 矢崎美盛先生』という小冊子にまとめて、師の霊前に捧げた。師弟の強い紳を感じさせるとともに、谷口が、哲学、美学、美術史、特にドイツ、オーストリア系の美術史学への強い傾倒と学問に対する厳しい態度を師より受け継いだことが知られる。昭和15年5月、目制の広島高等学校教授に就任し、敗戦後の昭和21年5月、再び九州帝国大学法文学部講義嘱託となり、美学及び美術史を講じた。昭和22年7月講師嘱託、昭和23年4月、九州大学法文学部講師、昭和26年3月、九州大学文学部助教授、昭和30年7月、九州大学文学部教授となり、美学、美術史論、仏教美術、中国の画論・画史、書論・書史を講じて、学生の指導、育成に当たった。昭和37年11月には、九州大学に奉職して20年を経たため、永年勤続者表彰を受けている。昭和40年4月、九州大学評議員となり、昭和40年12月には九州大学文学部付属九州文化史研究施設の併任になった。昭和41年7月から43年6月まで九州大学文学部長に就任した。昭和43年11月に九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員、昭和44年6月にも九州大学文学部長事務取扱及び九州大学評議員を務め、昭和44年7月から同年12月まで再び九州大学文学部長及び九州大学評議員となった。また昭和44年8月から同年11月までは九州大学学長事務取扱にも就任して、大学に紛争が絶え間なく続いた時期に、その重責を果たした。昭和46年4月、九州大学文学部付属九州文化史研究施設長に就任、昭和46年12月には日本学術会議の第9期会員に選ばれた。昭和48年4月1日付を以て九州大学を定年退職し、昭和48年5月に九州大学名誉教授となった。
 九州大学退官後は、昭和48年4月から昭和59年3月まで九州産業大学芸術学部教授に就任し、昭和53年4月には九州産業大学芸術学部長になっている。また、昭和48年4月から昭和53年3月まで北九州市立美術館長を兼ね、昭和49年11月の開館展「漢唐壁画展」や昭和52年秋の開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」等の企画や準備に自ら当たり、同美術館の礎を築いた。昭和53年4月から昭和57年3月まで、北九州市立美術館の顧問を務めた。その後、昭和57年9月から昭和63年3月まで石橋財団石橋美術館館長に就任した。これ以前にも、昭和31年4月から石橋美術館運営委員、昭和47年12月から石橋財団評議員、昭和52年4月から石橋財団美術館運営委員を務めており、前から同美術館との関わりは深かった。昭和59年6月に石橋財団理事となり、昭和63年4月には館長を辞して、石橋財団石橋美術館顧問となった。
 美学会、美術史学会、九州芸術学会、佛教芸術学会などの会員であり、それぞれの学会の委員や常任委員を務め、学会の充実と運営に尽力した。また、九州大学在職中より、福岡県文化財調査委員、福岡県文化財保護審議会専門委員、福岡県文化財保護審議会委員、九州歴史資料館協議会委員、福岡県立美術館協議会委員などを歴任し、九州の文化財の調査、指定、保護、保存、美術館等の運営方針の策定などに指導的な役割を果たした。海外での調査、研究も少なくない。その成果が研究論文や随想にまとめられたものを取り上げると、次の通りである。昭和37年1月10日から4月10日まで、東南アジア諸国、すなわちインド、セイロン(現スリランカ)、パキスタン、アフガニスタン、ビルマ、マラヤ、カンボジア、ベトナム、タイ、台湾、シンガポール、香港へ出張し、伝統的な美術・工芸の視察調査をおこなった。昭和41年8月27日から10月5日までアメリカ合衆国に出張し、サンフランシスコ市のアジア・ファウンデーションにおける国際シンポジウムに出席するとともに、アメリカ各地の美術館が所蔵する東洋美術品を研究した。昭和45年6月17日から6月25日まで台湾へ出張し、故宮博物院の開館を記念して6月18日から24日まで開催された中国絵画の国際シンポジウムにおいてチェアマンを務めた。(Proceedings of the International Symposium on Chinese Painting,N ational Palace Museum,Republic of China,1972)九州大学退官後の昭和48年秋の中国訪問、昭和49年夏の中国訪問は、北九州市立美術館開館展「漢唐壁画展」の準備のためであった。昭和51年3月から4月にかけて、ロンドン、パリ、アムステルダム、ミュンヘンを視察し、この折に、その前年に傷つけられたレンプラントの「夜警」の修理作業を見学している。(「レンプラント『夜警』の修理をみて」『美術の森』7号、北九州市立美術館、昭和51年5月)また、昭和52年夏の中国訪問は、北九州美術館開館三周年記念展「中華人民共和国出土文物展」の議定書調印のためであったが、この時に国立北京図書館に秘蔵される四庫全書の中の歴代名画記の調査を果たした。(「四庫全書本のマイクロフィルム-北京図書館での感激」『ひろば北九州』、昭和54年5月)昭和61年12月初旬、広東省韶関市曹渓の南華寺、広州市の光孝寺の六祖慧能石刻像碑を調査するため、中国を訪れた。(「広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺」『仏教芸術』178号、昭和63年5月)
 谷口は、中国の画論・画史、書論・書史の研究に大きな功績を残した。しかし、研究の領域はそれらにとどまらず、絵巻、宗達、雪舟、仏教美術、石仏、美学・美術史の基礎理論など、多岐にわたった。助手時代の昭和14年に書いたものであるという「伴大納言絵詞小考」(『清閑』15冊、昭和18年3月)「信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について」)(『清閑』19冊、昭和19年1月)は、発表こそ遅れたが、最も古いものである。美学・美術史の基礎理論の確立は、美術史学の実証的な研究と哲学的理論とを媒介するとともに、両者を兼ね備えた研究のために大きな土俵を用意することをめざしていた。奉職の地が九州であったため、九州の仏教美術を論じたものも少なくないが、それらは理論に基づく美術史の実践であった。画論、更に画論の背景にある書論へと研究を進め、それらに現われた中国の思想や概念を究めようとした。この時期、九州大学では、目加田誠教授を中心に六朝芸術論の総合研究がおこなわれており、荒木見悟教授、岡村繁教授など互いに啓発し合う同僚にも恵まれていた。谷口の研究はきわめて精密であることを特徴とし、その最も顕著な例が、『校本歴代名画記』 (中央公論美術出版、昭和56年4月)である。詳しい脚註を付した校本で、今日望み得る最も詳しい索引を備えており、今後長く、歴代名画記の標準的なテキストとして利用されるであろう。谷口の学聞に対する姿勢は厳しく、還暦の折に『羊欣古来能書人名(六朝の書論1)』を自費出版し(昭和46年4月)、九州大学の退官時には『東洋美術論考』(中央公論美術出版、昭和48年1月)を刊行して、それぞれの節目を自ら祝ったのも、彼の学問に対する姿勢であった。
 谷口は多くの後進たちを孕み、産みだしている。また、九州における現代美術の動向に対して積極的に発言し、その真撃な批評態度によって、多くの美術家たちに慕われていた。谷口が九州の美術界や学界に残した功績は大きい。
著書
日本の石仏(朝日新聞社、昭和32年4月)
臼杵石仏(臼杵石仏保存会、昭和38年初版)
観世音寺(中央公論美術出版、昭和39年9月)
臼杵石仏(中央公論美術出版、昭和41年9月)
石仏紀行(朝日新聞社、昭和41年9月)
羊欣古来能書人名(六朝の書論1)(自費出版、昭和46年4月)
東洋美術論考(中央公論美術出版、昭和48年1月)
中国古典文学大系54・文学芸術論集(共著)(平凡社、昭和49年6月)
校本歴代名画記(中央公論美術出版、昭和56年4月)
西日本画壇史-近代美術への道-(西日本文化協会、昭和56年4月)
美術史論の断章(中央公論美術出版、昭和58年7月)
回想  矢崎美盛先生(編著) (非売品、昭和60年4月)
蘭亭序論争訳注(共編)(中央公論美術出版、平成5年2月)
東洋美術研究(中央公論美術出版、平成6年11月)
論文

    『図像紗』の編纂過程について『哲学年報』1輯(昭和15年3月)
    我が国に於ける仏教図像集の編纂-特に『図像紗』について-日本諸学振興委員会第六編「芸術学」(昭和15年3月)
    伴大納言絵詞小考『清閑』15冊(昭和18年3月)
    リーグル「自然の作品と芸術の作品(翻訳)『皆実』29号(広島高等学校、昭和16年2月)(再録)『美術史学』79号(昭和18年7月)
    信貴山縁起絵巻に於ける同一構図の反復について『清閑』19冊(昭和19年1月)
    宗達雑考『美術史学』85・87号(昭和19年1・4月)
    玉虫厨子の所謂「多宝塔図」について『哲学年報』9輯(昭和25年7月)
    上代彫刻の光背に関する二・三の問題『哲学年報』10輯(昭和25年12月)
    筑紫観世音寺の梵鐘(共同執筆)『哲学年報』12輯(昭和28年2月)
    筑紫観世音寺の大黒天(共同執筆)『哲学年報』14輯(昭和28年2月)
    リーグル研究 1の1・1の2『哲学年報』14・15輯(昭和28年2月・29年3月)
    ヴァフィオの盃-リーグルの古代美術史論に対する疑問-『美学』14号(昭和28年9月)
    隋代彫刻銘文集録 上・下(共同執筆)『哲学年報』17・18輯(昭和30年3・11月)
    豊後高田市の熊野石仏(共同執筆)『仏教芸術』30号(昭和32年1月)
    臼杵石仏案内『仏教芸術』30号(昭和32年1月)
    九州石仏一覧表『仏教芸術』30号(昭和32年1月)
    延久二年銘の梵字石碑『大和文化研究』4巻3号(昭和32年1月)
    ヴェルフリンのペシミズム『美学』35号(昭和33年12月)
    歴代名画記索引『哲学年報』22輯(昭和35年3月)
    中国の自画像 -越岐の場合-「美学」46号(昭和36年9月)
    張彦遠の品等論にみえる「自然」について『哲学年報』23輯(昭和36年9月)
    「合作」の意味について『仏教芸術』50号(昭和37年12月)
    天開図画楼記について『仏教芸術』54号(昭和39年5月)
    顧愷之の佚文『美術史』56号(昭和40年3月)
    顧愷之と瓦官寺『九州大学文学部四十周年記念論文集』(昭和41年1月)
    書の品等論の成立について-虞龢の「論書表」を中心に-『美学』64号(昭和41年3月)
    On the historical position of the “Yamato.e” in the far eastern history of art. (Lecture at the Asia Foundation,S an Francisco,U .S.A.,1966.8.30)
    羊欣の伝記とその書論-「天然」の概念の発生について『仏教芸術』69号(昭和43年12月)
    羊欣『古来能書人名』附羊欣伝『哲学年報』28輯(昭和44年8月)
    デューラーの芸術論『美学』80号(昭和45年3月)
    一隻眼の大鑑禅師像『仏教芸術』76号(昭和45年7月)
    対馬・壱岐の美術調査について『仏教芸術』95号(昭和49年3月)
    対馬の仏教美術『対馬風土記』12号、対馬郷土研究会(昭和54年3月)
    禅宗六祖印像について-豊後・円福寺本を中心に『仏教芸術』155号(昭和59年7月)
    特健薬『デアルテ』2号(昭和61年3月)
    王義之の生卒年の一資料『デアルテ』3号(昭和62年3月)
    顧愷之の生卒年『デアルテ』4号(昭和63年3月)
    張延賞と元の雑劇『デアルテ』4号(昭和63年3月)
    広東の六祖慧能石刻像について-曹渓の南華寺と広州の光孝寺『仏教芸術』178号(昭和63年5月)
    西田直養『金石年表』について『デアルテ』5号(平成元年3月)
    王羲之「蘭亭序」の説話『デアルテ』6・7号(平成2年3月・3年3月)
    劉世儒筆「墨梅図」と「雪湖梅譜」『仏教芸術』201号(平成4年4月)
    随想、美術批評など

      『芸術史の課題』-植田寿蔵著に寄せて- 九州帝国大学新聞、140号、昭和10年12月22日
      シュマルゾー逝く 九州帝国大学新聞、148号、昭和11年5月22日
      デューラーとロダン -造形芸術における運動の表現について- 九州帝国大学新聞、166号、昭和12年6月20日
      絵画の近代性について 九州帝国大学新聞、179号、昭和13年5月1日
      北斎と印象派 夕刊フクニチ、昭和23年4月15日
      ブルトゥス違い 「若人」1巻2号、不二出版社、昭和24年2月
      ピカソとハト 朝日新聞、昭和27年1月22日
      矢崎美盛先生を憶う 毎日新聞、昭和28年4月15日
      学問の流れ -美学- 朝日新聞、昭和31年6月18日
      ピカソ版画展をみて 朝日新聞、昭和32年7月22日
      現代美術と歴史 朝日新聞、昭和32年9月20日
      「ルオ-展」に想う 朝日新聞、昭和33年4月23日
      西日本画壇史(連載) 朝日新聞、昭和34年1月20日~35年8月31日
      王義之の自画像 「石橋美術館ニュース」3、昭和35年8月
      私の見たエジプト美術 朝日新聞、昭和38年6月5日
      今日からみたフォーブ 朝日新聞、昭和40年10月22日
      「黄金のマスク」の芸術 朝日新聞、昭和40年12月9日
      日本美の二つの祖型 朝日新聞、昭和41年5月28日
      ピカソ芸術の語るもの 毎日新聞、昭和45年1月12日
      デッサン -画家の詩心の軌跡- 朝日新聞、昭和46年7月7日
      レンブラント「夜警」の修理をみて 「美術の森」7号、北九州市立美術館、昭和51年5月
      世説新語と王義之・顧愷之 『新釈漢文大系』季報44、明治書院、昭和51年6月
      発生期の書論 -画論との対照から 『中図書論大系』月報1、二玄社、昭和52年7月
      ドガの色彩と線 読売新聞、昭和52年1月12日
      四庫全書本のマイクロフィルム -北京図書館での感激『ひろば北九州』昭和54年5月
      『校本歴代名画記』の索引 『書誌索引展望』6の2、昭和57年5月
      法隆寺薬師如来像の台座絵 日本最古の沙羅双樹の絵か 西日本新聞、昭和63年1

      出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(312-315頁)
      登録日:2014年04月14日
      更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

      引用の際は、クレジットを明記ください。
      例)「谷口鉄雄」『日本美術年鑑』平成8年版(312-315頁)
      例)「谷口鉄雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10687.html(閲覧日 2024-03-29)

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