奥田元宋

没年月日:2003/02/15
分野:, (日)
読み:おくだげんそう

 日本画家で日本芸術院会員の奥田元宋は2月15日午前0時10分、心不全のため東京都練馬区富士見台の自宅で死去した。享年90。1912(明治45)年6月7日、広島県双三郡八幡村(現、吉舎町大字辻)に奥田義美、ウラの三男として生まれる。本名厳三。小学校の図画教師、山田幾郎の影響で中学時代に油彩画を始める。同郷の洋画家南薫造に憧れ、広島に来た斎藤与里の講習会などに参加して学ぶ。1931(昭和6)年日彰館中学校を卒業後上京し、遠縁にあたる同郷出身の日本画家、児玉希望の内弟子となる。しかし33年に自らの画技に対する懐疑から師邸を出、文学や映画に傾倒、シナリオライターをめざすが、35年師の許しを得て再び希望に師事し、画業に励む。36年新文展鑑査展に「三人の女性」が初入選、翌年より児玉塾展に発表。この頃師より成珠の雅号を与えられるが、中国宋元絵画への憧れと本名に因んで自ら元宋と名乗るようになる。38年第2回新文展で谷崎潤一郎の『春琴抄』に想を得た「盲女と花」が特選を受賞、また42年頃より同郷出身の洋画家靉光と親交を結ぶ。44年郷里に疎開し53年まで留まり、美しい自然の中でそれまでの人物画から一転して風景画に新境地を開く。この間、49年第5回日展で「待月」が特選を受賞。翌50年官学派への対抗意識のもと児玉塾、伊東深水の青衿会といった私塾関係の作家を糾合した日月社の結成に参加し、61年の解散まで連年出品した。50年代後半にはボナールに傾倒するも、そこに富岡鉄斎に通じる東洋的な気韻生動の趣を見出し、実景を基としながらも一種の心象風景を追求するようになる。58年新日展発足とともに会員となり、62年第5回日展で「磐梯」が文部大臣賞を受賞、さらに翌年同作品により日本芸術院賞を受賞し、73年日本芸術院会員となった。この間62年日展評議員、69年日展改組に際し理事、74年常務理事に就任、77年より79年まで理事長をつとめる。一方、67年頃より歌人生方たつゑに師事して短歌、74年頃より太刀掛呂山と益田愛隣に漢詩を学び、81年宮中の歌会始の召人に選ばれている。75年第7回日展出品の「秋嶽紅樹」を原点として“元宋の赤”と称される鮮烈な赤を主調に描いた風景画を制作するようになり、76年第8回日展の「秋嶽晩照」、77年同第9回展の「秋巒真如」など幽趣をただよわせる作風を展開。81年真言宗大聖院本堂天井画「龍」を制作。同年文化功労者として顕彰され、84年文化勲章を受章。1996(平成8)年京都銀閣寺の庫裏・大玄関、および弄清亭の障壁画を完成。2000年3月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、翌年刊行の『奥田元宋自伝 山燃ゆる』(日本経済新聞社)に再録される。回顧展は97年に広島県立美術館で開催、また2002年から03年にかけて練馬区立美術館、松坂屋美術館、茨城県近代美術館、富山県立近代美術館を巡回して催されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(296-297頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「奥田元宋」『日本美術年鑑』平成16年版(296-297頁)
例)「奥田元宋 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28268.html(閲覧日 2024-03-29)

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