渡邉武夫

没年月日:2003/09/11
分野:, (洋)
読み:わたなべたけお

 日本芸術院会員の洋画家渡邉武夫は9月11日午後9時50分、呼吸不全のため東京都青梅市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年7月2日東京市本所区亀沢町(現東京都墨田区)に生まれる。幼少時に浦和に転居し、1929(昭和4)年埼玉県立浦和中学校(旧制)に入学する。同校在学中、美術教師であった福宿光雄に影響を受け、十代半ばで画家を志す。33年黒田清輝に師事した洋画家小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に入り、デッサンを学ぶ。34年浦和中学校を卒業し、東京美術学校油画科予科に入学。翌年同校油画科本科に進学し、南薫造教室に学ぶ。また、同年から寺内萬治郎に師事する。東京美術学校在学中の38年第25回光風会展に「長老坐像」「停車場の一隅」「グハルの午後」を出品してF氏賞を受賞。同年第2回新文展に「騎馬像のある部屋」を初出品し入選する。39年第26回光風会展に「本屋の一隅」「男」を出品して船岡賞受賞。同年東京美術学校油画科を卒業する。40年第27回光風会展に「男たち」「神父さんと子供たち」を出品して光風賞を受賞し、同会会友となる。41年第28回光風会展に「S先生の像」を出品して光風特賞を受賞。また、第4回新文展に椅子に座して読書する老紳士をやや俯瞰してとらえ、写実的な画技を示した「老図書館長Tさんの像」を出品して特選受賞。43年第8回新文展に「診察室の宮崎先生」を出品して、二年連続して特選を受賞する。44年光風会会員となる。また、同年寺内萬治郎門下生による「武蔵野会」を結成する。戦後も官展および光風会展に出品を続ける。55年、初めて渡欧し、パリのグラン・ショーミエールで学ぶほか、ヨーロッパ各地を旅行。この留学中、グラン・ショーミエールでの学友に啓発され、それまで人物を主に描いていた作風が風景画中心に変化する。翌年帰国し、58年に留学の成果を東京銀座松屋における「渡邉武夫滞欧作品展」で発表。61年社団法人日展会員、66年日展評議員となる。71年再度渡欧しヨーロッパ各国を巡遊。73年秋、パリ近郊および南フランスに取材旅行。翌年第6回日展に「カアニュ好日」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。武蔵野の風景にも取材するが、近代化による景観の変化が少ないフランス風景に次第に傾斜を強めていき、しばしば渡欧して制作するようになる。77年初夏にパリ近郊を、79年1月および5月に南仏を、82年5月および84年7月にはブルターニュを訪れる。85年、日展出品作「シャンパァニュの丘」により第41回日本芸術院賞を受賞。また、同年、社団法人日展理事となる。88年日本芸術院会員、89年社団法人日展常務理事、1990(平成2)年光風会常任理事となる。91年「画業60年渡邉武夫展」(東京銀座、松屋)を開催。97年光風会理事長に就任した。また、美術教育にも従事し、47年から51年まで東京美術学校師範科講師、51年から埼玉大学教育学部美術学科講師、66年から73年まで女子美術大学洋画科講師を勤めた。初期には人物画を、最初の渡仏以降は風景画を中心に描いたが、一貫して堅実な写実に基づき、人々の生活に思いを到らせる画風を示した。没後の2005年埼玉県立近代美術館で「渡邉武夫の世界―武蔵野の風・南仏の光」展が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(302-303頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「渡邉武夫」『日本美術年鑑』平成16年版(302-303頁)
例)「渡邉武夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28277.html(閲覧日 2024-03-29)

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