平松譲

没年月日:2013/07/21
分野:, (洋)
読み:ひらまつゆずる

 日本芸術院会員の洋画家平松譲は7月21日、急性肺炎のために死去した。享年99。
 1914(大正3)年4月13日、東京都三宅島三宅村大字神着29に生まれる。1929(昭和4)年に尋常小学校を卒業して上京し、豊島師範学校に入学。在学中、池袋駅近くにあった能勢亀太郎の主催する能勢洋画塾に学び、伊藤清永、関口茂らと交遊する。33年の夏に三宅島に帰郷した際に描いた「樹下」を同年の第14回帝展に出品して初入選。34年3月、豊島師範学校を卒業し、同年4月に近衛歩兵第四連隊に短期現役兵として入隊したのち、教職についた。能勢亀太郎が白日会に出品していたことから34年第10回白日展に「静物」を出品し初入選。以後、白日会創立会員の中沢弘光に師事する。官展には初入選後、出品していなかったが、36年新文展鑑査展に「床上静物」で入選する。37年第14回白日展に「静物」「石膏のある静物」を出品してクサカベ賞受賞。翌38年第15回白日展に「緑蔭」を出品して佐藤賞受賞。41年、第4回新文展に「公園」で入選。44年白日会会員となる。戦後は白日展のほか日展に第1回展から出品し、50年第6回日展に「南窓」を出品して特選となる。画面左に白い洋装の女性の坐像が描かれ、その隣にたくさんの果物の載った籠と白百合を活けた花瓶の載ったテーブル、背後の窓から緑豊かな庭が描かれた同作は「明るい光と鮮麗な色彩との交響」と批評家和田新によって評された。54年第30回白日展に「少年」等を出品して白日会記念賞受賞。57年東京銀座松屋にて初個展を開催。63年に渡欧し約6ヶ月ヨーロッパ各地を巡る。帰国後、教職を辞す。65年に梅津五郎、菅野矢一らと「穹会」を創立し、新宿の画廊アルカンシェルで開催された第1回展に「彫刻の群像」「シャルトルの教会」を出品した。67年第43回白日展に「ノルマンディー古寺」「三宅島の春」「三宅島溶岸(ママ)地帯」等を出品し中澤賞受賞。翌68年日展会員となる。82年日展評議員となる。85年第17回改組日展に「南風わたる」を出品して文部大臣賞受賞。1991(平成3)年第23回改組日展に東京湾越しに臨んだ東京タワーを鮮やかな赤で描いた「TOKYO」を出品。92年、この作品によって日本芸術院賞を受賞。95年第71回白日展に「東京湾岸」を出品して内閣総理大臣賞を受賞し、また、同年日本芸術院会員となった。1930年代には静物をよく描いたが、40年代から人物を主要なモティーフとするようになる。窓辺でくつろぐ着衣の女性を好んで描き、室内の家具や卓上静物、窓外の植物などでのモティーフなどで画面が充填される画風を示した。1980年代に入ると風景画が多くなり、鮮やかな色彩と激しい筆触、画面上部まで島や建築物等のモティーフが配される構図を特色とした。2013年9月26日正午から白日会主催による「故平松譲さんを偲ぶ会」が開催された。
【主要展覧会出品略歴】帝展第14回(1933年)「樹下」、鑑査展(1936年)「床上静物」、日展第1回(1946年)「母と子供」、5回(1949年)「爽朝」、6回(1950年)「南窓」(特選)、10回(1954年)「ひととき」、新日展1回(1958年)「ギターを持つ女」、5回(1962年)「閑日」、10回(1967年)「若い人たち」、改組日展第1回「花と子供」、5回(1973年)「南の島」、10回(1978年)「島の五月」、15回(1983年)「犬吠崎初冬」、17回(1985年)「南風わたる」(文部大臣賞)、20回(1988年)「雨上がる」、23回(1991年)「TOKYO」(日本芸術院賞)、25回(1993年)「丘陵を拓いて」、30回(1998年)「島の切り通し」、35回(2003年)「はまひるがお咲く」、40回(2008年)「ふる里の磯」、45回(2013年)「丘の美術館」

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(460-461頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「平松譲」『日本美術年鑑』平成26年版(460-461頁)
例)「平松譲 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/236754.html(閲覧日 2024-10-16)

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