平田寬

没年月日:2013/09/14
分野:, (学)
読み:ひらたゆたか

 美術史家の平田寬は、9月14日膀胱がんのため、福岡県宗像市の自宅にて死去した。享年82。
 1931年(昭和6)1月3日、佐賀県唐津市に歯科医師平田亨(とおる)、小波(さなみ)の次男として生まれる。佐賀県立唐津中学校(旧制)を経て48年官立福岡高等学校(旧制)入学。この年の旧制高校入学者は学制改革により、翌49年3月をもって学籍が消滅、改めて新制大学を受験することになっていたが、平田は肺の病を得て療養生活に入る。53年、九州大学文学部入学。文学部への入学については父から強い反対を受けたと後年述懐している。57年九州大学文学部哲学科卒業(美学・美術史専攻)、同大学院に入り、59年文学研究科修士課程修了(同)、62年博士課程単位取得退学(同)。62年九州大学文学部助手(美学・美術史研究室)。同年同郷の古舘均(まさ)と結婚。九州大学在学中、中国芸術論の谷口鉄雄教授のもと、平田も中国画論を研究し、初の公表論文は60年の「謝赫の品等論の形式」(『美学』43号)、以後64年の「姚最の伝記よりみたる「続画品」の成立の問題」(『哲学年報』25)まで、3本の中国画論の論文を発表した。一方で、在学中に哲学の田邊重三教授の「生の哲学」の講義に強い影響を受け、田邊の導きによりカトリックの洗礼を受けた。この哲学的基盤と信仰は終生続いた。
 64年4月、奈良国立文化財研究所美術工芸研究室に転任、70年4月同美術工芸研究室長を経て、翌年九州大学に転出するまでの7年間、南都を中心とする仏教絵画を中心に研究する。この間、作品調査を精力的に行い、「元興寺極楽坊智光曼荼羅(板絵)のX線調査」(『奈良国立文化財研究所年報』、1966年)を初めとして、調査に基づく作品研究論文を多く著した。また、当時の所長・小林剛の影響を受け、森末義彰「中世における南都絵所の研究」に啓発されて『大乗院寺社雑事記』を史料的に研究するなど、美術研究における史料研究の重要性を意識する。
 71年4月、九州大学助教授に転任(文学部美学・美術史講座。教授は谷口鉄雄)。78年同教授となり、定年退官まで勤める。九州地方に残された美術作品の調査を行うと同時に、ひきつづき南都絵画の研究も行うが、九州大学転任後数年の頃、奈良や京都に赴いて仏画の調査をすることが難しくなっていたこともあり、絵仏師研究を史料の体系的な研究から行うことに着手する。奈良国立文化財研究所時代、彫刻作家の史料的研究で大きな業績を成していた小林剛から、我が国の絵仏師の実態が不明であることを教示されたことが機縁であり、「眼前の仏画の諸相に目を奪われて…花を見て樹を見ず、樹根の生命や地下の水脈のことに心が至らなかった」ことに気づいた、と回想している(『絵仏師の時代』後書)。この方向が、彫刻について小林剛が行ったことを仏画について行った平田の業績の大きな柱のひとつとなった。「絵師 僧となる」(『美学』106、1976年)を初めとして、史料から読み取れる絵仏師の業績はもとより、その消長や体制の変化を仔細に読み取り、時代の所産としての絵画作品の史的変遷、さらにはそこから美的表現の質とその変遷までを視野に入れた多くの論考を発表した。また、論考のみならず、「宅間派研究史料(稿)」(『哲学年報』44、1985年)を初めとして、その源泉となる史料そのものを整理し、研究者が共有できるものとして多く学会誌上で提示したことも、平田の学問的態度の一端を表すものであろう。これら数多くの史料およびその研究は『絵仏師の時代』(中央公論美術出版、1994年)にまとめられている。
 作品研究も南都仏画のみならず、「良詮・可翁と乾峯士曇」(『仏教藝術』166、1986年)など、室町水墨の絵画史的意義にまで関心が及び、史料にもとづく歴史的研究を踏まえながらその変遷の中にあった作品の造形性に視野を及ぼす多くの論考を発表したが、これらの多くは『絵仏師の作品』(中央公論美術出版、1997年)に収録されている。
 また、菊竹淳一とともに、九州・山口地方の作品の実地調査にも精力を注ぎ、調査データ、写真の整理蓄積を研究室の財産として行い、またこれによって学生の実地教育を行うことが大きかった。『九州美術史年表(古代・中世篇)』(長崎純心大学学術叢書4、九州大学出版会、2001年)は、これらの調査によって得られた資料を含む、美術工芸全般におよぶ広範な史料をまとめた800ページを超える大著である。
 教育者としても力を尽くし、美術史を目指す者のみならず、常に親しく学生に接してこれに心を注ぐこときわめて大きく、説くことしばしば学問領域を超え時に数時間に及んだ。
 88年九州大学文学部長、94年九州大学を定年退官、同名誉教授、同年長崎純心大学教授、2003年同大学を退職。
 88~93年文化庁文化財保護審議会第一専門調査会(絵画・彫刻部会)専門委員、85~87年学術審議会専門委員、地方においては64~70年奈良市史編集審議会調査委員、70~80年同専門委員、70~71年奈良市文化財審議会委員、九州に転任後も、福岡県文化財専門委員を初めとして九州・山口各地の県、市、美術博物館の委員をつとめること多く、また宗像市史、津屋崎町史、福間町史などの編纂委員会で専門委員として地方史編纂に寄与した。
 96年博士(文学)九州大学。『絵仏師の時代』により、94年国華賞、95年Shimada Prize(島田賞)、96年日本学士院賞。2002年勲二等瑞宝章。04年講書始の儀にて御進講。
 美術史学会(1975~93年委員)、美学会(1977~92年委員)、九州藝術学会、密教図像学会、民族藝術学会所属。
 著作は上記にまとめられたもののほか、これに収められなかった共著や作品紹介等も多い。経歴と業績が一覧できるものに、九州大学退官時の「平田寬先生 年譜・著作目録」(1994年、九州大学文学部美学美術史講座)、「平田寬 略歴とことば」(2013年、逝去時、次男・平田央(ひさし)氏編、晩年の短文やインタビュー記事を含む)がある。また折々に書かれたエッセイ風の文をまとめたものに『ふうじん帖―美術史の小窓』(中央公論美術出版、1996年)がある。
 平田の学問的態度は、史料と実作品に基づく学問的正確さを期することにはとりわけ厳しくかつ細心であったが、目指すところは、単に手堅い業績を積み上げることにあるのではなかった。その根本には「美は多様の統一である」という哲学があり、研究は、作品を成り立たしめている多様な側面をみちとして、美の「直観」に能うかぎり「接近」しようとすることであり、視線の先は、美のひとにおける意義や美術史のありかたといった根底的問題に遠く向かっていた。その哲学的論を表だって発表することは少なかったが、『絵仏師の時代』、『絵仏師の作品』、『九州美術史年表』の「序言」および「後書」には、その思想の一端が濃密に語られている。このような基盤に西洋哲学におよぶ広い教養があったことは、九州大学における講読演習をE.ジルソンの『絵画と現実』、J.マリタンの『芸術家の責任』、同『芸術と詩における創造的直観』などのフランス語原典によって行ったことにもあらわれている。西洋哲学のみならず、東西のことに古典を重んじ、また幸田露伴、明恵、西行を愛した。
 必ずしも健康に恵まれていたわけではないが、むしろそれだけに諸事努めることにきわめて意志的で、一般的な事柄についても強い意見を開陳することも多かった一方、内省的でもあり一面的既成的安易さをもってものごとを理解したとする態度をきわめて嫌った。
 長崎純心大学を退職後は、表に出ることは少なかった。13年、体調を崩し、がんであることが判ったが、あえて積極的治療をせず自宅で静養することを選び、最期は夫人、家族にみとられながら感謝の言葉を述べて静かに亡くなったという。蔵書は九州大学に寄贈された。均夫人との間の2男の父。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(463-464頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「平田寬」『日本美術年鑑』平成26年版(463-464頁)
例)「平田寬 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/236758.html(閲覧日 2024-03-29)
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