本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





山田申吾

没年月日:1977/07/07

日本画家山田申吾は、7月7日ジン不全のため、東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年68。本名申吾。明治41年12月5日、当時著名な日本画家山田敬中の次男として東京田端に生れた。大正15年東京美術学校日本画科に入学し、昭和6年同校を卒業した。美校在学中の昭和5年第11回帝展に「水辺初夏」を出品し、初入選した。その後も帝展新文展等に出品をつづけ、戦後は日展を舞台に発表し、役員としても活躍した。官展のほか、戦前には大日美術院、国士会等に参加し、戦後は美校同期生により結成された六窓会、一采社等にも出品した。また昭和19年から10年間、東京麻布中学校(現麻布学園)に教鞭をとった。戦後は、一時病に倒れたが再起して、印度、ネパール、台湾等へ旅行し画なうをこやした。その作品は、穏健な写実にもとずく近代的画面を示した。略年譜昭和6年 東京美術学校日本画科を卒業。昭和9年 「冬日」第15回帝展。昭和11年 「霜晨」新文展(鑑査展)。豊島区要町に移転。昭和12年 「断崖」(大毎東日賞)第1回大日美術展。昭和13年 「海」第2回大日美術展。大日美術院々僚となる。昭和14年 「海」第3回文展。「緑のかげ」」第3回大日美術展。昭和16年 「夏野」第4回文展。昭和17年 「朝和」第5回文展。「麦秋」第5回大日美術展。大日美術院離脱。昭和18年 「地底敢闘」第6回文展。12月、研究グループ国士会結成。昭和20年 3月、海軍に召集され、8月解除となる。昭和22年 「干潟」第3回日展。昭和23年 「良夜」第4回日展。美術学校同期有志による“六窓会”結成。昭和24年 「夏山」第5回日展昭和25年 「馬」(特選)第6回日展。一采社参加。12月国土会解散。「丘」「秋」第1回芝英会(高島屋主催)昭和26年 「森」第7回日展。昭和28年 「山」第9回日展(特選、白寿賞、朝倉賞)昭和29年 「武蔵野風景」(出品依嘱)昭和30年 「雲」第11回日展。日展審査員。昭和31年 「雨後」(出品依嘱)第12回日展。昭和32年 「道」(出品依嘱)第13回日展。昭和33年 「田園譜」第1回新日展。日展会員。新作個展(兼素洞)昭和34年 「麓」第2回新日展。審査員。昭和35年 「牧馬」(文部大臣賞)。第3回新日展。昭和36年 「礁」第4回新日展。審査員。政府買上。昭和37年 「嶺」(日本芸術院賞)第5回新日展。日展評議員。昭和38年 前年度日展出品作「嶺」日本芸術院賞受賞。「群馬」第6回新日展。昭和39年 2月脳出栓で倒れ一時半身不随となったが、半年後に回復する。昭和41年 「蒼原」第9回新日展。昭和42年 「皎」第10回新日展。12月印度、ネパールへ写生旅行。昭和43年 「塔」第11回新日展。日展審査員。個展(三越)。12月ネパール、印度、タイ、カンボジヤへ旅行。昭和44年 「シェルパの歌」改組第1回日展。日展理事。昭和45年 「水を運ぶ娘(ネパール)」改組第2回日展。日展審査員。印度、ネパール方面に写生旅行。昭和46年 「尼蓮禅河」改組第3回日展。2月台湾旅行。昭和47年 「遠いヒマラヤ」改組第4回日展。昭和48年 「宙」改組第5回日展。役員改選により理事就任。新作個展(銀座弥生画廊)昭和51年 「靜かな朝」改組第8回日展。12月虎の門病院入院。昭和52年 「麓」改組第9回日展。3月退院。「山の辺」(緑映会)絶筆。7月逝去。

前大峰

没年月日:1977/06/08

輪島塗沈金技術保持者(人間国宝)の前大峰は、6月8日心筋コウソクのため、石川県輪島市河井町の自宅で死去した。享年86。本名得二。明治23年11月10日石川県鳳至郡に生れ、明治38年粟蔵尋常高等小学校高等科を卒業した。同40年当時輪島で、沈金佐助といわれた名工、三代目橋本佐助に師事し、昭和4年第10回帝展に「蟹と雑草文沈金丸盆」が初入選した。その後、第11回帝展「遊鯰沈金彫手筥」(特選)(宮内省買上)第13回帝展「漆器雉子沈金衣裳筥」(無鑑査)(宮内省買上)、第15回帝展「猫飾筥」(政府買上)、昭和11年新文展第1回展「秋乃野文庫」(無鑑査)(李王職御買上)、第5回新文展「粟鶉飾筥」(無鑑査)(京都市美術館買上)等の作品で沈金家として世に出、また昭和16年には石川県立工業学校教授嘱託となって、後進の指導にあたった。戦後は専ら日展で活躍し、おもな作品に昭和21年第2回日展「ひな鶏飾筥」(特選)、第5回「漆器蘭と猫の図小屏風」(文部大臣賞)、昭和37年「猫文飾筥」(文化財保護委員会買上)がある。また第4回、第10回には日展審査員、第8回では参事に推薦され、昭和30年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。昭和33年には日本工芸会理事となり、また皇居仮宮殿棚飾用飾筥の御用をつとめている。翌34年石川県伝統工芸展で好評を博した「沈金けはい(気配)飾筥」(通称猫文飾筥)は文化財保護委員会買上げとなった。同氏は輪島塗の素朴な沈金技法を新しく開拓し、平面的で品位に乏しいといわれていたその表現技術を、豊かな芸術性高いものにしてその功績を高く評価された。石川県文化功労者(昭和37年)。輪島市名誉市民(昭和38年)。紫綬褒章受賞(昭和39年)

高木晴太呂

没年月日:1977/06/08

洋画家、光風会会員高木晴太呂は、6月8日心筋こうそくのため名古屋市の自宅で死去した。享年65。明治45年3月3日名古屋市に生まれる。本名春太郎。大正15年日本陶器株式会社に入社し陶器のデザインにたずさわる。昭和7年第19回光風会展に初入選、同9年第二部会展に入選し、同14年第26回光風会展に出品した「南の浜」がI氏賞を受賞し会友に推され、翌第27回展では同画題の出品でK夫人賞を受け、同17年光風会会員となった。この間、文展にも昭和11年以来3回入選、戦後も光風会展、日展に出品を続け、同26年第7回日展に出品した「漁村」で特選、朝倉賞を受賞、翌年無鑑査となり、同28年から48年まで委嘱出品を続けた。また、同34年第45回光風会展では「一隅」で会員賞を受賞した

和田香苗

没年月日:1977/06/04

洋画家、光風会会員、元工学院大学教授和田香苗は、6月4日急性心不全のため東京都清瀬市の信愛病院で死去した。享年79。明治30年8月4日東京都港区に生まれ、大正9年東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)を卒業した。卒業の年の11月渡米しシカゴに赴き、翌10年8月パリに移った。パリではアカデミー・グラン・ショーミエールに学び、プリネ、ルシアン・シモン、メナールの指導を受け、また、同12年2月までヨーロッパ各地を遊学して3月帰国、同年4月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌13年助教授、昭和6年教授となり、同20年3月退官後講師として同24年まで勤めた。同24年から工学院大学講師、同27年には教授となる。この間、大正9年第二回帝展に「オルガンノソバ」が初入選し、以後、帝展、文展に出品し、同12年文展無鑑査となり、また光風会展にも出品し昭和8年光風会会員となり、のち評議員をつとめた。戦後も日展、光風会展に出品したほか、同22年同士10名と国際観光美術協会を結成、翌23年には同士7名と日本ミニアチュール協会を設立して第1回展を上野松坂屋で開催した。光風会展への主な出品作に、「横顔」(第21回)、「初夏の富士」(第25回)、「カレドニア」(第41回)、「川越風景」(第55回)などがある。

柏原覚太郎

没年月日:1977/06/02

洋画家、行動美術協会会員柏原覚太郎は、6月2日胆道がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治34(1901)年11月10日香川県高松市に生まれ、大正12年東京美術学校図画師範科を卒業。昭和2年第14回二科展に「少女」「裸女」が初入選し、以後戦前は二科展に出品を続けた。同7年から翌年にかけてヨーロッパに留学し、同8年帰国の年の第20回二科展に「横臥裸婦」「少憩」「黒衣婦人」など滞欧作7点が特別陳列された。同12年二科会会友となり、同16年第27回展に「アンコール」「手風琴」を出品して会友賞を受賞、翌年会員に推挙された。戦後は同20年に創立された行動美術協会に参加し会員となり、以後没年まで同会展に出品した。行動展への出品に「アトリエ」(第2回)、「水辺」(第6回)、「岩の群(室戸岬)」(第12回)、「トレド風景」(第20回)、「岬の漁港」(第25回)、「滞船」(第31回)などがある。

中村順平

没年月日:1977/05/24

建築家中村順平は、5月24日急性じん不全のため横浜市立大学病院で死去した。享年89。明治20年8月29日大阪市北区に生れ、明治40年大阪府立天王寺中学、同43年名古屋高等工業学校建築科を卒業した。東京曾弥中條建築事務所に就職し、旧如水会館、東京大正博覧会会場設計など、大正期の代表的建築設計を手がけた。大正13年フランス国立パリエコールスーペリユールデボザール建築科を修業4ケ年にして卒業、フランス建築士D・P・L・Gの称号を受けた。その後横浜高等工業(現横浜国大工学部)の建築科主任教授として永年建築教育にあたり、昭和34年日本芸術院賞を受賞した。また教育のかたわら客船の船内装飾も手がけ「田丸」「八幡丸」「あるぜんちな丸」などの設計がある。昭和50年日本芸術院会員となる。

山本学治

没年月日:1977/05/20

近代建築史の研究家の工学博士、東京芸術大学美術学部教授の山本学治は、5月20日午後5時5分、急性心不全のため神奈川県川崎市中原区の日本医大附属第二病院で死去した。享年54歳。山本学治は大正12年(1913)2月11日、東京都文京区に生まれ、昭和20年(1945)8月、東京帝国大学第二工学部建築学科を卒業、同時に第2工学部大学院にすすみ、また、同年9月から同24年10月まで文部省特別研究生として「近代建築の技術史的研究」を研究主題として小野薫、関野克両教授の指導をうけた。昭和25年(1950)10月、大学院を修了しまた同24年12月20日東京芸術大学美術学部建築科の文部教官助教授補となり、同26年4月専任講師となった。昭和34年12月、東京芸術大学美術学部助教授、同39年5月教授に昇任したが、その間、建築月刊誌『国際建築』の編集、近代建築史の研究、建築評論で活躍し、昭和37年工学博士号をうけた。昭和49年9月、同50年3~4月にはヨーロッパへ出張、同49年以降50年まで日本建築学会幹事の任にあった。主要な著書に『ミース・ファン・デル・ローエ』(昭和28年、彰国社)、『近代建築史』(共著、昭和33年、彰国社)、『あなたの住宅設計』(共著、昭和35年、池田書店)、『現代建築と技術』(昭和38年、彰国社)、『現代建築十二章』(訳書、昭和40年、鹿島出版会)、『素材と造型の歴史』(昭和41年、鹿島出版会)などがある。また登山家としても知られ、東京芸大山岳部長をつとめたほか、少年向けの著書『もりのめぐり』や、山の歌「ぼくのふるさと」の作詞作曲などがある。

木村雨山

没年月日:1977/05/09

加賀友禅染色家で、人間国宝の木村雨山は、5月9日老衰のため金沢市南新保町の石川県立中央病院で死去した。亮年86。本名文二。金沢市出身で、明治38年高等小学校を卒業後、当時名人といわれた加賀友禅染色家の上村雲嶂に師事し、日本画を大西金陽に学んだ。大正12年独立し、以来加賀友禅の制作ひとすじに打込んだ。昭和3年第9回帝展に「リス文様壁掛」が初入選し、以後帝展、日展、日本伝統工芸展などで活躍した。昭和30年には友禅の部で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定され、染色界での第1人者と評価された。昭和40年10月紫綬褒章を受賞。同51年4月勲三等瑞宝賞を受賞。その作品は日本画の技法を生かし、描線を自由に表現し、彩色では片刷毛を使ったボカシに工夫をみせるなど、京友禅と異なった加賀友禅独自の作風を展開した。代表作「花訪問着」(昭和40年)、「山吹訪問着」(昭和43年)など多数。

永沢永信

没年月日:1977/05/08

陶芸家、日展会員永沢永信は、5月8日肺がんのため兵庫県豊岡市の公立豊岡病院で死去した。享年67。明治43年兵庫県に生まれ、大正15年京都市立陶磁器講習所高等科卒業後、赤松雲嶺に師事して二百年の伝統をもつ新羅白磁風の出石焼(「永信窯」三代目)を伝承する技術者になった。戦後は昭和23年第4回日展に「みのりの図花瓶」で初入選以来同展に出品を続け、同35年第3回日展に壺「馬」を出品し特選、北斗賞を受け、翌年無鑑査、翌々年から出品依嘱となった。同41年第9回日展で審査員をつとめ方壺「浮粒」を出品、翌年日展会員となった。また、同47年には文化使節として陶芸技術指導のためモスクワに招待され、同年黄綬褒章を受けた。作品は他に「幽韻」(改組日展第1回)、花器「瑞雲」(同第3回)「白瓷瓶」(遺作、同第9回)などがある。

松原郁二

没年月日:1977/05/03

多年美術教育面に尽力した松原郁二は、5月3日胃ガンのため東京・板橋の都立板橋養育院付属病院で死去した。享年74。明治35年12月19日広島県に生れ、東京高等師範学校を卒業、教職についた。昭和2年第8回、同9回、11回帝展にそれぞれ静物画の出品がみられるが、以後制作はなく、東京高等師範教授、東京教育大教授等の職に多年あり、他方大学設置審議会専門委員(美術)、教育課程審議会専門調査員(中学校美術科)等の役職に就き美術教育界で活躍した。著書-「図画教育」(昭12年非凡閣)、「美術教育法」(昭和44年誠文堂新光社)、「造形美術教育」(誠文堂新光社)など。

榎倉省吾

没年月日:1977/04/30

洋画家榎倉省吾は、4月30日心不全のため香川県小豆郡内海町の内海病院で死去した。享年75。雅号萬象堂。明治33年7月15日兵庫県加東郡に生れ、神戸県立第一中学校を卒業した。昭和3年第15回二科展「淡路街道」「八月の淡路」が初入選し、昭和9年第21回展「アメリカ村」ほかで特待となり、同12年には会友推薦になった。昭和16年二科会友賞となり、同17年会員推挙となる。昭和18年文展無鑑賞。戦後は昭和21年行動美術協会創立会員となり、日展にも依嘱出品した。作品は専ら風景、静物を多く描いた。作品年譜昭和3年(1928) 「淡路街道」「八月の淡路」第15回二科展昭和5年 「島のバスのりば」第17回二科展昭和7年 「転轍機」「冬」「港」第19回二科展昭和8年 「丘と内海」第20回二科展昭和9年 「アメリカ村」「鎧ケ岳」「ナチス遠望」第21回二科展昭和10年 「Y港」「熊野街道」「切目の丘」「飛驒の谿流」第22回二科展昭和11年 「湖畔」「南紀の丘」第23回二科展昭和12年(1937) 「射的壕」「ダム」第24回二科展昭和13年 「風景」第25回二科展昭和14年 「南苑の戦闘」「船内静物」第26回二科展昭和15年 「北京」「祈年門」第27回二科展昭和16年 「竜城の跡」「北京の秋」第28回二科展昭和17年 「早春」「白鷺城」第29回二科展昭和22年 「港」「雨やどり」「山」第2回行動美術展昭和23年 「蓮池」「樹蔭」「かもめ」第3回行動美術展昭和24年 「湖口」第4回行動美術展昭和25年 「湖口」「合奏」「七夕」第5回行動美術展昭和26年 「朝」「昼」「夕」第6回行動美術展昭和27年 昭和28年 「津軽海峡」「木かげ」「窓」第8回行動美術展昭和29年 昭和30年 「扇」「煙」「月」第10回行動美術展昭和31年 「東京樓街門」「東京港麦秋煙」第11回行動美術展昭和32年 「馬と新芽」第12回行動美術展昭和33年 「冬」(鯱と飛行雲)「秋」(白鷺城解体)「夏」(石垣の歌)「春」(城門の歌)第13回行動美術展昭和34年(1959) 「煙」「木」「浜」「鳥」“長谷川勝人君を悼む”の文あり。第14回行動美術展昭和35年 「稲」「藁」「麦」第15回行動美術展昭和36年 「残雪」「入江」「オリーブの丘」第16回行動美術展昭和37年 「花」「月」「雪」第17回行動美術展昭和38年 「潮」「渚」第18回行動美術展昭和39年 「ミモザの道」「岬」第19回行動美術展昭和40年 「雲」「スモモの花」第20回行動美術展昭和41年 「ミモザとエリカ」「虹」第21回行動美術展昭和42年 「島の秋」「島の春」(梅とエリカ)第22回行動美術展昭和43年 「オレンヂの園」「新緑梅樹」第23回行動美術展昭和44年 「新緑連峯」「蔦もみぢ」第24回行動美術展昭和45年 「暁のオリーブ」「オリーブ園の李花」第25回行動美術展昭和46年 「花すもも」「土讃本線」第26回行動美術展昭和47年 「オリーブの岬」「画室の老梅」第27回行動美術展昭和48年 「画室のオリーブ」第28回行動美術展昭和49年 「北京の秋」第29回行動美術展昭和50年 「北京の冬」「北京の春」第30回行動美術展昭和51年 「北京の夏」第31回行動美術展昭和52年 「スモモの花」(遺作)第32回

摩寿意善郎

没年月日:1977/04/25

西洋美術史家、とくにイタリア・ルネッサンス美術の研究家で知られた東京芸術大学教授の摩寿意善郎は、4月25日午前10時、肝臓ガンのため東京都渋谷区広尾の日赤医療センターで死去した。享年66であった。摩寿意善郎は、明治44年(1911)1月23日、父善太郎、母ツヤの長男として東京府麻布区に生まれ、大正13年3月、麻布南山小学校を卒業、私立麻布中学校にすすみ、昭和3年同中学校を卒業した。昭和4年第一高等学校文科甲類に入学、一高時代に三谷隆正教授よりブルクハルト「イタリア・ルネッサンスの文化」の講義をうけたのが後年ルネッサンス美術史研究の端緒となった。昭和7年京都帝国大学文学部に入学したが、翌8年東京帝国大学に転じ、昭和11年3月、同大学文学部美学美術史学科を卒業、論文は「美術史の哲学的基礎」。大学卒業と同時に都新聞(現・東京新聞)に入社し文化部美術担当記者となる。東大在学時から同人誌『東大派』に参加、同誌は『潮流』と改称、さらに『日暦』と合併した。『日暦』同人には、高見順、渋川驍、新田潤などがいる。昭和12年3月都新聞を退社し、創立されたばかりの日伊学会主事となり、同年10月、イタリア国立ナポリ東洋学院日本学科講師としてイタリアへ赴き、日本語を教授すると同時にイタリア美術の調査研究に従事した。翌昭和13年9月ナポリ東洋学院講師の任期をおえて帰国、日伊学会主事に復帰、日伊学会は昭和15年日伊協会と改組されたが、主事に留任し、翌16年秋から『日伊文化研究』を発行、当時、佐々木基一、福永武彦、茂串茂らが嘱託として編集に参加していた。昭和17年(1942)10月、『サンドロ・ボッティチェルリ』(アトリエ社)を刊行、そのほか美術史論稿、評論を発表している。昭和21年3月、文部省社会教育局事務嘱託(常勤)となり、芸術課において今日出海課長のもとで課長補佐をつとめ、芸術祭、全国巡回美術展などの企画実施にあたった。また、一方、同21年9月から東京音楽学校イタリア語非常勤講師となり、同24年7月東京芸術大学音楽学部教授に就任、同年12月文部省兼務を解かれ、同時に同大学美術学部において西洋美術史を講義した。昭和29年(1954)、東京芸術大学美術学部へ移籍され教授、以降、没するまで西洋美術史、とくにイタリア美術史を講じて多くの後進を指導した。昭和30年8月、イタリア共和国より騎士勲章を授与され、同11月にはローマ大学客員教授として渡伊、翌31年12月までイタリアに滞在した。昭和42年12月、東京芸術大学美術学部長に就任、以後48年12月まで3期にわたり美術学部長をつとめ、その間、大学紛争、学部校舎の改築などの処理に尽力した。昭和48年(1976)8月、同51年(1973)8月、東京芸術大学イタリア初期ルネッサンス壁画学術調査団団長として、アッシージのサン・フランチェスコ聖堂の調査研究に従事した。 日伊文化交流にも尽力し、戦後の日伊協会再発足にともない、昭和25年(1950)同協会専務理事に就任、昭和51年12月には同協会副会長の任についた。 そのほか、平凡社、角川書店、学習研究社、小学館などの各社の世界美術全集の編集委員、監修にもあたった。主要著書目録『サンドロ・ボッティチェルリ』 アトリエ社 昭和17年「ジォットの生涯と作品」 「美術新報」 昭和18年7月「マサッチオについて」 「美術」 昭和19年10月「ルネッサンスの画家ボッティチェルリ」 「ルネッサンスの研究」東北大学刊行 昭和24年6月「フィレンツェ画派」 平凡社『世界美術全集』第16巻 昭和25年「ラファエルロ」 平凡社『世界美術全集』第17巻 昭和26年「『教会の勝利』後の西方ローマにおける初期キリスト教美術」 平凡社『世界美術全集』第12巻 昭和27年「19世紀のイタリア絵画」 平凡社『世界美術全集』第23巻 昭和28年「イタリアの中世彫刻・絵画」 平凡社『世界美術全集』第13巻 昭和29年「18世紀のイタリア絵画」 平凡社『世界美術全集』第19巻 昭和29年「イタリアの現代絵画」 日伊協会刊「日伊文化研究」復刊第1号 昭和29年『ルネサンス』 みすず書房 昭和30年「イタリア・ルネサンスの開花」 平凡社『名画全集』 昭和34年「イタリア・ルネサンスの展開」 平凡社『名画全集』 昭和34年「マサッチオ=マンリーノ問題の再検討」 美学会刊「美学」第41号 昭和35年「レオナルドとその周辺」 筑摩書房刊『世界の歴史』第9巻 昭和36年「イタリア初期ルネサンス美術」 角川版『世界美術全集』第30巻 昭和36年「イタリア盛期ルネサンス美術」 角川版『世界美術全集』第31巻 昭和36年「ローマ美術の世界史的意義」 講談社刊「ローマ美術」(『世界美術大系』) 昭和37年「イタリア中世美術の展開」 講談社刊「イタリア美術」(1)(『世界美術大系』) 昭和39年「イタリア美術の発展」 河出書房刊『イタリア』 昭和40年「ボッティチェルリの『神曲』挿絵」 日伊協会刊「日伊文化研究」第7号 昭和41年「イタリアに開花したルネサンス」 講談社刊「世界の史蹟」 昭和43年「イタリア初期ルネサンス、フィレンツェ絵画」 学研版『大系世界の美術』(ルネサンス1) 昭和46年「16世紀のイタリア美術」 学研版『大系世界の美術』(ルネサンス2) 昭和47年「フィレンツェの画家ボッティチェルリ」 小学館刊『フィレンツェの美術』第4巻 昭和47年「Botticelli:Painter of Florence」 小学館刊『フィレンツェの美術』第4巻(英訳) 昭和47年「ミケランジェロの『聖家族』」 小学館刊『フィレンツェの美術』第5巻 昭和47年「フィレンツェ洗礼堂門扉の彫刻コンクールについて」 小学館刊『フィレンツェの美術』第3巻 昭和48年「ピッティ美術館のラファエルロ」 小学館刊『フィレンツェの美術』第6巻 昭和48年「サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の壁画」 小学館刊『フィレンツェの美術』第2巻 昭和48年「サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂と洗礼堂とジォットの鐘塔」 小学館刊『フィレンツェの美術』第1巻 昭和49年「サンタ・マリア・ノヴェルラ聖堂のマサッチオの壁画『三位一体』」 小学館刊『フィレンツェの美術』第1巻 昭和49年『ボッティチェルリ』 集英社刊『世界美術全集』第4巻 昭和51年

中村正義

没年月日:1977/04/16

日本画家中村正義は、4月16日呼吸不全のため、川崎市高津区の聖マリアナ医大付属病院で死去した。享年52。大正13(1924)年豊橋市に生れ、昭和16(1941)年豊橋市立商業学校を病気療養のため中退した。療養のかたわら日本画家夏目太果に就いたが、昭和21(1946)年には中村岳陵門下となった。この年10月の第2回日展に「斜陽」が初入選となり、昭和25年第6回日展では「谿泉」が特選となった。以後も日展で好成績をおさめ、昭和35(1960)年には日展審査員となった。しかし翌年には日展を脱退し、以後は無所属として、自由で幅広い制作活動を展開する。また病のため屡々入院して絵筆に遠ざかったが、快瘉後は再び制作をつづけ独自の画風を創造して多くの作品を発表した。代表作に「源平合戦絵巻」があり、東洲斎写楽の研究をすすめ著書に「写楽」がある。そのほか昭和50年の東京展では事務局長として活躍している。略年譜昭和21年(1946) 中村岳陵門下となる。「斜陽」第2回日展(10月)昭和22年(1947) 「爽凉」日本美術院展昭和23年(1948) 「少女」第4回日展。昭和24年(1949) 「夕陽」第5回日展。昭和25年(1950) 「谿泉」(特選)第6回日展。一采社同人となる。昭和26年(1951) 「空華」第7回日展無鑑査出品。昭和27年(1952) 「女人」(特選・白寿賞政府買上)第8回日展。朝倉賞受賞。豊橋文化賞受賞。昭和28年(1953) この年より昭和31年まで病気のため、制作中断する。昭和32年(1957) 「女」第13回日展依嘱出品。昭和33年(1958) 「舞妓」(出品依嘱)第1回新日展。昭和34年(1959) 「舞子」(出品依嘱)第2回新日展。中部日本文化賞受ける。昭和35年(1960) 日展審査員。「太郎と花子」第3回新日展。個展-風景と人物-(高島屋)昭和36年(1961) 日展を脱退し、岳陵門よりも去り、以後無所属となる。「太郎と花子」朝日秀作美術展出品。ヨーロッパに旅行。昭和38年(1963) 個展-男と女-(上野、松坂屋)名古屋、御園座の緞帳制作。個展(ロンドン・キャセー画廊)昭和39年(1964) 石原愼太郎作「一の谷物語」(日生劇場)の美術を担当。映画「怪談」のための「源平海戦絵巻」展(日本橋白木屋)(國立近代美術館買上)。名古屋國際ホテル会議場緞帳制作。昭和40年(1965) 個展(東京、大阪、名古屋)昭和41年(1966) 朝日秀作美術展、現代日本美術展などに出品。個展-顔の自伝-(東京日本画廊)。(名古屋・丸栄)。名古屋中日劇場緞帳制作。ヨーロッパ、アメリカ旅行。昭和42年(1967) 病気入院。個展(新宿、紀伊国屋画廊、赤坂・ガラスの城画廊)昭和43年(1968) 個展(名古屋・丸栄)日本國際美術展出品。昭和44年(1969) 現代日本美術展出品。個展-太陽と月のシリーズ-(銀座・三越)(山種美術館買上げ。)昭和45年(1970) 『写楽』(ノーベル書房)出版。個展(名古屋・丸栄)昭和46年(1971) 「美人画の系譜」展(京王百貨店)「戦後美術の展開」展(東京國立近代美術館)等に出品。個展-佛-(大阪・松坂屋、京都・祇園画廊)昭和48年(1973) 現代日本美術展に出品昭和49年(1974) 「人人」展(日本橋・三越)出品。個展-顔の自伝(ギャラリー・ヤエス)昭和50年(1975) 個展-象徴の顔-(紀伊國屋画廊)東京展事務局長となる。昭和51年(1976) 「中村正義展」(横沢市民ギャラリー)「人人」展、「東京展」出品。昭和52年(1977) 「人人」展出品、「中村正義」展(飯田市商工会議所)

伊藤久三郎

没年月日:1977/04/08

洋画家、行動美術協会会員伊藤久三郎は、4月8日脳しゅようのため京都市北区の富田病院で死去した。享年71。明治39(1906)年3月24日京都市下京区に生まれる。大正7年京都市立美術工芸学校に入り、同9年卒業後絵画科本科に入学、同12年卒業。翌13年京都市立絵画専門学校本科(日本画)に入学、昭和3年卒業後間もなく東京駒込に移り、1930年協会洋画研究所に通った。同4年第16回二科展に「ハムのある静物」が初入選、以後同展に出品するとともに、同8年には、佐野繁次郎、佐伯米子、島崎鶏二らと新油絵展を結成し、同11年には新美術家協会に入会、同13年二科会前衛グループによる九室会に参加、同16年二科会会員となった。同20年京都へ戻り、この年行動美術協会結成にあたって会員に迎えられ、翌年の第1回展から同展に出品した。また、同28年「抽象と幻想」展(東京国立近代美術館)に「イカルス」を出品、同30年第3回日本国際美術展に「忘却」、翌31年第2回現代日本美術展に「地表」、同32年代4回日本国際美術展に「作品57」、同年第4回サンパウロ・ビエンナーレに「地表」「猜疑」「イカルス」、同40年「前衛絵画の先駆者たち」展(京都国立近代美術館)に「流れの部分」「合歓の木」「振子」を、同46年「伊藤久三郎、小牧源太郎二人展」に旧作20点を出品した。この間、同28年日吉丘高校講師、七彩工芸嘱託となり、同37年成安女子短期大学講師(40年教授、47年退官後客員教授)となって指導にあたり、同45年府立文化芸術会館、京都府ギャラリー運営委員となり、同46年には京都市美術館評議員となった。同51年京都における抽象絵画の草分けとして、京都府美術工芸功労者に選ばれた。行動展への主な出品作に「遮蔽」(8回)、「猜疑」(9回)、「ラプソディー66」(21回)、「作品70A」(25回)、「773-B(劃)」(28回)、「75a(地)」(30回)などがある。

田中作太郎

没年月日:1977/04/05

美術史家で古陶瓷器研究家として知られる田中作太郎は、4月5日脳軟化症のため東京都練馬の自宅で死去した。享年72。明治38年2月1日東京文京区に生れ、大正14年東京高等工芸学校図案科を卒業した。昭和6年帝室博物館技術雇員となり、昭和13年同出仕、同22年文部技官となった。陶瓷工芸史の研究を専門とし、特に江戸期を中心とした陶瓷の研究家として有名である。東京国立博物館考古課長、文化財専門審議会専門委員。主著-世界陶磁全集(河出書房、昭33)、陶磁全集「上代の壺」(平凡社、昭34)、同「仁清」(同、昭35)、飯食器(至文堂日本の美術9、昭42)、原色日本の美術「陶芸」(共著)(小学館、昭42)。

中谷ミユキ

没年月日:1977/04/03

洋画家、十一会会員中谷ミユキは、4月3日肺炎のため武蔵野市吉祥寺の森本病院で死去した。享年77。明治33年2月10日広島県安佐郡に生まれ、共立女子専門学校を卒業。昭和5年第11回帝展に「静物」で初入選し、以降帝展、新文展に出品、光風会にも出品し、同12年第24回展に「静物」でF氏賞を受け翌年会友となり、戦後の同21年会員となったが同27年退会した。また、同21年11月に創立された女流画家協会の発起人に加わり、創立委員となり翌年の第1回展に「赤い布の静物」など3点を出品してI夫人賞を受けた。同27年光風会退会後二紀会同人となり同年の第6回展に「黄い皿」を発表、同36年まで同展に出品した。また、同33年に結成された十一会にのち会員として加わった。

中田晃陽

没年月日:1977/03/24

日 本画家中田晃陽は、3月24日心不全のため京都市右京区の自宅で死去した。享年75。本名一雄。明治34年5月9日神戸市に生れ、竹内栖鳳に師事した。昭和9年第15回帝展に「山の畑」が初入選し、昭和13年第2回文展では「緑蔭」が入選している。紀元2600年奉祝展には「河原」を出品し、戦後は日展に発表した。この間、大毎展、京都市展、関西展などに出品屡々受賞した。改組日展で会友となった。日展出品目録第3回日展 昭22 春晝第4回日展 昭23 春丘第5回日展 昭24 水辺第6回日展 昭25 洛北(特選)第7回日展 昭26 若狭座古山(無監査)第8回日展 昭27 初秋風景第9回日展 昭28 丘第10回日展 昭29 浅春第11回日展 昭30 池畔第12回日展 昭31 暮色第13回日展 昭32 新緑第1回新日展 昭33 新緑の杜第2回新日展 昭34 叢林第3回新日展 昭35 深秋第4回新日展 昭36 樹第5回新日展 昭37 丘第6回新日展 昭38 森(出品依嘱)第7回新日展 昭39 森(出品依嘱)第8回新日展 昭40 くぬぎ林(出品依嘱)第9回新日展 昭41 北山(出品依嘱)第10回新日展 昭42 水辺(出品依嘱)第11回新日展 昭43 淀(出品依嘱)

村山知義

没年月日:1977/03/22

大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。

高森捷三

没年月日:1977/03/21

洋画家、元一水会会員高森捷三は、3月21日心不全のため死去した。享年69。明治41年2月22日石川県鳳至郡に生まれる。大正14年画家を志望して上京、林重義に師事、翌年第13回二科展に「風景」2点が初入選、同年から二科展とともに日本水彩画会にも出品を続けた。昭和3年1930年協会研究所へ入り、翌年には同展にも出品したが、同5年日本プロレタリア美術家同盟へ加盟し、同年の第三回展に大作「被告会議」他を出品したが撤回され、翌第4回展には、「東セルの兄弟しっかりやろう」、第5回展「労働者習作」を発表した。同7年日本共産党員となったが同年検挙され同9年出獄、翌10年から再出発して二科展に出品した。同12年からは一水会に出品したが、同5回展以後は展覧会出品を止めた。戦後、同21年同士と現実会を組織したが翌々年解散、同34年には友人と斑会を組織した。また同25年から8年ぶりに一水会にも出品をはじめ、同26年会員となり、同29年第16回一水会展出品作「船のおかみさんたち」で優賞を受けたが晩年は退会し無所属となった。同38年3月から11月まで渡欧、主にパリを中心に各国を巡遊し、翌年滞欧作による個展を開催した(文春画廊)。一水会の出品作には他に、「水の上」(第14回)、「火」(第17回)などがある。

丹野良輔

没年月日:1977/03/21

洋画家、日本水彩画会会員丹野良輔は3月21日死去した。享年77。明治32年11月18日青森市に生まれ、青森県立師範学校卒業後上京し曾宮一念に師事、また同舟社でデッサンを学んだ。昭和23年日本水彩展の出品作で三星絵具賞を受け日本水彩画会会員となり、同25年委員となった。また、光風会展、新槐樹社展にも出品、同36年新槐樹社会員、翌37年同委員となった。日本水彩展の出品作には、「静物」(第39回)「岬の家」(第41回)「外房漁港」(第45回)「曇り日の磯」(第60回)などがある。

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