高村豊周

没年月日:1972/06/02
分野:, (工,鋳金)

 鋳金家、日本芸術院会員、重要無形文化財保持者の高村豊周は、6月2日午前9時42分、気管支肺炎のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年81歳。告別式は6日午後2時から文京区の吉祥寺で行なわれた。明治23年(1890)7月1日、高村光雲の三男として東京に生れた。彫刻家、詩人の光太郎は長兄にあたる。18歳で津田信夫の門に入り、大正4年3月東京美術学校鋳造科本科を卒業した。東京美術学校在学中、光太郎作「光雲還暦記念像」の鋳造を手がけ、同校卒業後「无型」(大正15年)や「実在工芸美術会」(昭和10年)などグループを組織し、それらのグループを通じて長年工芸の近代化運動に没頭した。東京美術学校教授、金沢工芸専門学校教授。鋳金界にあって造型のフレッシュさと、惣型・込型・蠍型など伝統的な技法の駆使によって斯界の大御所的存在であり、鋳造家協会長をつとめた。殊に晩年の回転体による円壷の成形は余人の追随を許さぬ至芸であった。代表作に小諸懐古園の「藤村詩碑」をはじめ、「斜交紋花筒」(昭和3、帝展特選)「提梁花瓶」(昭和22、日展出品、政府買上品)などがある。また美校在学中、与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事して短歌を学び、「露光集」「歌ぶくろ」「おきなぐさ」などの歌集や「光太郎回想」「自画像」などの著書がある。
略年譜
明治23年 7月1日 高村光雲の三男として東京に生まれる。
大正4年 3月 東京美術学校鋳造科本科卒業。
大正7年 農商務省展覧会2等賞 宮内省買上
大正8年 岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉その他と装飾美術家協会をつくる。
大正15年 東京美術学校助教授。「无型」を組織、新工芸運動を興す。
昭和2年 藤村詩碑を作る。(小諸懐古園)、我国最初の詩碑なり。この年より3回に亘り帝展連続特選。
昭和4年 帝展推薦。
昭和9年 東京美術学校教授。この年より帝展、文展、日展の審査員歴任、商工省輸出工芸展、輸出工芸図案展の審査員歴任。
昭和10年 「実在工芸美術会」を結成、新興工芸運動に尽す。九條武子歌碑を作る(築地本願寺)。
昭和11年 生田春月詩碑を作る(瀬戸内海小豆島)。
昭和13年 4月5日 朝鮮総督府美術展覧会審査員、鮮満支の工芸調査。
昭和15年 6月 文部省及び商工省貿易局嘱託として北米合衆国及び中米メキシコの工芸調査。
昭和16年 商工省工芸指導所嘱託。東京教育大学講師。
昭和19年 東京美術学校退官。
昭和22年 日展出品「提梁花瓶」政府買上。
昭和24年 金沢美術工芸専門学校教授。
昭和25年 7月、皇居前楠公銅像修理、12月、日本芸術院会員任命。
昭和27年 8月 三越にて個展。
昭和29年 如水会館にて作品展示会。
昭和31年 金沢美術工芸大学退職。
昭和32年 高村光太郎詩碑を作る(岩手県花巻市太田山口)。
昭和33年 4月、金沢美術工芸大学名誉教授。
昭和35年 銀座・和光にて古希記念個展。12月、歌集「露光集」出版。東宮御所及び皇后陛下御座所の為に花瓶制作。
昭和36年 文化財専門技術審議会専門委員。
昭和37年 「光太郎回想」出版。
昭和39年 新年御歌会始に召人となる。重要無形文化財保持者に指定さる。
昭和41年 11月、第二歌集「歌ぶくろ」出版。
昭和42年 11月、勲三等旭日中綬授与。
昭和43年 10月、「自画像」出版。
昭和44年 7月、第三歌集「おきなぐさ」出版。
昭和47年 6月2日午前9時42分、自宅で死去。9日、従四位銀杯一個を贈らる。

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(73-74頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「高村豊周」が含まれます。
to page top