熊田千佳慕

没年月日:2009/08/13
分野:, (その他)
読み:くまだちかぼ

 花や昆虫の細密画で知られる熊田千佳慕は8月13日、誤嚥性肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。享年98。1911(明治44)年7月21日、現在の横浜市中区住吉町3―31に生まれる。本名五郎。生家は代々医師で、父は欧米留学経験のある耳鼻科医であった。1917(大正6)年横浜市尋常小学校に入学。23年関東大震災で被災して家を失い、一家で生麦に移り住む。これに伴い鶴見町立鶴見尋常小学校に転入。1924年、同校を卒業し神奈川県立工業学校図案科に入学。在学中、博物学の教諭であった宮代周輔に影響を受ける。また、同校での軍事教練中、地面に腹ばいになる経験から草叢の虫たちの観察に興味を抱く。1929(昭和4)年、同校を卒業して東京美術学校鋳造科に入学。前衛的な工芸作品を制作していた高村豊周に惹かれたのが動機であった。34年、長兄で後に詩人となる精華の友人であったデザイナー山名文夫を知り、師事する。同年9月、名取洋之助が主宰する日本工房(第二期)に入社し、山名文夫の助手として『NIPPON』ほか対外グラフ雑誌のデザインに従事する。同社には翌年、写真家の土門拳が入社し、親交を結ぶ。39年、体調不良により同社を退社。41年7月に応召するが病を得て9月に除隊。43年、日本工房での同僚高橋錦吉の紹介で日本写真工藝社に入社し、終戦まで在籍。この間、内閣情報局の元で『NIPPON PHILLIPIN』などを制作。戦後の47年に初めて挿絵を手がけた『ともだち文庫 狐のたくらみ』(中央公論社)が刊行され、その後の挿絵のしごとの端緒となった。48年、化粧品会社カネボウに勤めてポスター等のデザインを行う一方、『月刊少年少女』『金と銀』などの雑誌のレイアウトデザインなどを行う。49年、カネボウを退社し、以後、絵本作家に専念。同年『こども絵文庫 みつばちの国のアリス』(光吉夏彌著、羽田書店)で児童書装幀賞を受賞する。以後、『世界名作童話全集』(講談社)、『講談社の絵本』、『世界絵文庫』(あかね書房)、『幼年世界名作全集』(あかね書房)、『なかよし絵本』(偕成社)、『児童名作全集』(偕成社)などに挿絵を描く。1980年に岡田桑三からファーブル昆虫記の絵画化について激励され、81年、これらを描いた作品でイタリアボローニア国際絵本原画展に初入選。同年『絵本ファーブル昆虫記1』(コーキ出版)を刊行し、82年に第二巻、83年に第三巻を上梓する。88年より『Kumada Chikabo’s Little World』(創育)の刊行を始め、1989(平成元)年に7巻シリーズが完結、これにより第38回小学館出版文化賞を受賞する。96年8月、本格的な回顧展「小さな命の大切さを描く―熊田千佳慕展」が横浜高島屋で開催され、以後、98年「花と虫を愛して―熊田千佳慕の世界展」(横浜高島屋で開催ののち、99年に京都高島屋ほかに巡回)、2001年「熊田千佳慕展」(横浜有隣堂ギャラリー)などの展覧会で作品原画を発表。02年には福島県立美術館で「熊田千佳慕の世界―はな・むし・とり・ゆめ」展、06年には目黒区美術館で「熊田千佳慕展 花、虫、スローライフの輝き」展が開催された。花や昆虫を微細に観察し、昆虫の体毛や植物の葉脈などをも描出する細密な描写と、ケント紙の白地を活かした明澄な彩色を用いて詩情ある画面を作り上げた。「日本のプチ・ファーブル」と称され、子供にも親しまれる平明な作風を示した。

出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(473頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「熊田千佳慕」『日本美術年鑑』平成22年版(473頁)
例)「熊田千佳慕 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28464.html(閲覧日 2024-04-24)

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