東山魁夷

没年月日:1999/05/06
分野:, (日)

 日本芸術院会員、文化勲章受章者日本画家東山魁夷は、5月6日午後8時、老衰のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。1908(明治41)年7月8日、横浜に生まれる。本名新吉。11年父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居。兵庫県立第二神戸中学校を経て26(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、川合玉堂結城素明らに師事する。同級生には橋本明治加藤栄三山田申吾らがある。在学中の29(昭和4)年第10回帝展に「山国の秋」で初入選。翌年第11回帝展に「夏日」で入選し、以後、官展に出品を続ける。在学中、実家のあった神戸に隠棲していた村上華岳の人と作品に惹かれる。31年、東京美術学校日本画科を卒業して同研究科に進学。この頃からドイツ留学を志し、翌年からドイツ語を学ぶ。33年東京美術学校研究科を修了し、同年秋よりベルリンに滞在。34年ベルリン大学哲学科美術史部に入学し、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史およびキュンメル博士による日本美術史の講座を聴講する。35年、父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国。36年、帝展に出品するが落選。同年の第1回新文展に「高原秋色」で入選し、以後同展に出品を続ける。39年第1回日本画院展に「冬日(三部作)」を出品して日本画院賞第一席を受賞。40、41年と同展で3年連続同賞を受賞する。この間の40年11月日本画家川崎小虎の長女すみと結婚。43年北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国する。44年から45年まで山梨県、岐阜県、長野県などに疎開。45年末から千葉県市川市に居を定め、46年の第1回日展に出品するが落選し、同年の第2回日展に「水辺放牧」で入選を果たす。47年第2回日展に「残照」を出品して特選となる。この作品の制作を契機として風景画に専念することを決意。50年第6回日展に出品した「道」により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まった。55年第11回日展に「光昏」を出品し、この作品により翌年第12回日本芸術院賞を受賞。59年宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼され翌年「日月四季図」を完成。62年4月から7月にかけてデンマーク、スウェーデン、ノルウェ一、フィンランドを写生旅行し、北欧の風景に自己の根源に響き合うものを見出す。63年、杉山寧、高山辰雄、西山英雄山本丘人とともに五山会を設立する。65年日本芸術院会員となる。68年皇居新宮殿の大壁画「朝明けの潮」を完成。翌年この制作と東山魁夷展の業績により第10回毎日芸術大賞を受賞し、この受賞を記念して「東山魁夷展」(毎日新聞社主催、大丸神戸店、大丸大阪店)が開催される。同年春から秋にかけてドイツ、オース卜リアを旅行。同年11月文化勲章を受章し、また、文化功労者として顕彰される。71年に唐招提寺障壁画制作を受諾し、唐招提寺と鑑真についての研究を始め、山と海を主題に選んで「山雲」「涛声」を75年に完成。同年、唐招提寺障壁画習作展をパリ吉井画廊、ドイツ・ケルン日本文化開館で開催のため渡欧。76年中国を訪れ、北京、西安、南京、桂州などを歴訪する。この旅以降、水墨表現が試みられ、その成果が青を基調とする彩色画にも認められるようになる。70年代後半からは、大規模な展覧会が相次ぎ、78年千葉県立美術館で「東山魁夷展」、79年東ベルリン国立美術館およびライプチヒ造形美術館で東山魁夷展、81年東京国立近代美術館で「東山魁夷展」、83年西ドイツのミュンヘン・フェルカークンデ美術館、デュッセルドルフ・クンストハレ美術館、ブレーメン・ユーバーゼー美術館を東山魁夷展が巡回、88年代表作80点による「東山魁夷展」が京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館を巡回、89(平成元)年西ベルリン、ハンブルグ、ウィーンで東山魁夷展が開催されている。93年「東山魁夷―青の世界―展」が北海道立近代美術館、名古屋松坂屋美術館、姫路市立美術館で開催され、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。その画業は、初期から人のいない風景画を中心に展開され、対象の再現描写を離れて、画面を独立した平面として形や色彩で構成し、心象を表現する姿勢に貫かれていた。学生時代から写生に訪れた長野県に自作、画集など約650点を寄贈し、これを受けて、90年、長野市城山公園に長野県信濃美術館東山魁夷館が開館した。文章もよくし、著書に『東山魁夷画文集』全10巻(新潮社1978―79年)などがある。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(257-258頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「東山魁夷」が含まれます。
to page top