本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

読み:たかみあきひこ  美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

吉村益信

没年月日:2011/03/15

読み:よしむらますのぶ  現代美術家でネオ・ダダのリーダーだった吉村益信は、3月15日、多臓器不全のため死去した。享年78。 1932(昭和7)年5月22日、大分市で薬局を営む父益次、母幸の九男として生まれる。48年、大分第一高等学校入学。一学年上に磯崎新、赤瀬川隼がいた。高校二年の時に青木繁の画集を見て画家になることを決意。この頃から、地元の画材店キムラヤに出入りするようになる。51年、東京藝術大学受験に失敗し、武蔵野美術学校に入学。同年、大分のキムラヤで結成されたグループ新世紀群に参加し、第1回新世紀群同人展に出品する。新世紀群には、磯崎新、風倉匠、中学生だった赤瀬川原平なども関わっており、後のネオ・ダダの原型となった。52年、新世紀群野外展を若草公園で開催(56年まで)。55年、武蔵野美術学校を卒業。この頃、国分寺の旧児島善三郎アトリエに移り、日本アンデパンダン展(第7~10、12、13回)、読売アンデパンダン展(第7~14回)に出品を始める。また、55年4月に新世紀群主催の座談会に池田龍雄を招いたことをきっかけに、「制作者懇談会」や岡本太郎主宰「アートクラブ」に出席し、アヴァンギャルドの精神を吸収していった。57年、赤瀬川隼の結婚式で磯崎新に描いてもらった図面をもとにしたアトリエ「ホワイトハウス」が新宿百人町に完成。若い前衛芸術家たちが集まるようになる。赤瀬川原平、風倉匠、磯崎新らに呼びかけ、60年に「オール・ジャパン」結成。しかし、本格的に活動を始める前に、篠原有司男が合流し、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を改めて結成する。4月には第1回展を銀座画廊で開き、吉村は折り畳み可能な「携帯絵画」を出品するとともに、ポスターを全身に巻いて街中を練り歩くパフォーマンスで注目を集める。その後も立て続けに、「安保記念イベント」(6月、ホワイトハウス)、第2回ネオ・ダダ展(7月、同上)、「ビーチ・ショウ」(7月、鎌倉安養院/材木座海岸)、第3回ネオ・ダダ展(9月、日比谷画廊)とイベントを行うが、10月に吉村が石崎翠と結婚したことで、ネオ・ダダは事実上解散する。ネオ・ダダ活動中は作品制作の余裕がなかったが、62年の読売アンデパンダン展で展示空間を埋め尽くすような作品「ヴォイド」を出品し話題となる。同年8月、国立市公民館での「敗戦記念晩餐会」、磯崎新邸での壮行会を経て、ニューヨークに渡る。 ニューヨークでは大工やディスプレイの仕事をしながら制作を続ける。その際、他の日本人作家たちにも仕事を斡旋するなど、リーダーとしての資質を発揮。渡米当初は「ヴォイド」シリーズの制作を続けていたが、66年にカステレーン・ギャラリーで開催した個展「HOW TO FLY」では、電球を使用した作品を発表し、ライト・アートの先駆となる。同年、ビザのトラブルで帰国を余儀なくされる。帰国後は、電球やネオンを使った作品の制作を続けるが、アトリエが手狭なために、自身は図面を引くだけで制作は工場に発注する「発注芸術」と呼ばれる制作方法をとる。ライト・アートと発注芸術は、68年の第8回現代日本美術展でコンクール優賞となった「反物質 ライト・オン・メビウス」に結実する。70年の大阪万国博覧会に際しては、「貫通」という会社組織を作り、若い作家たちを雇い、彼らに活躍の場を与えた。万博のせんい館のために作られた巨大なカラスのオブジェ「旅鴉」は、のちにデュシャンの作品になぞらえて「大ガラス」と改名されたことで知られる。吉村のリーダーシップが発揮された「貫通」も、万博の終了と共に仕事の機会が減るなどして解散。テクノロジーに彩られた万博のあと、吉村は第10回現代日本美術展にサヴィニャックのポスターを元にしたオブジェ「豚・pig lib;」を出品し、新しい作風を見せる。翌72年には、サトウ画廊で個展「群盲撫象」を開催し、象の身体部位を切り落としたようなオブジェを発表する。万博前後のこの時期は、異なるスタイルで自身の代表作となる作品を次々と作り出した豊穣な時期となった。75年にこれまで様々な組織を牽引してきた実績をかわれ、国内外の作家から要請されてアーティスト・ユニオン結成に伴うまとめ役を引きうけるが、79年には事実上消滅した。精神的にも疲弊していた吉村は神奈川県秦野市の山中にアトリエを構え、アートシーンの中心から離れていった。90年代に、戦後の前衛美術の再評価が高まるなか、福岡のギャラリーとわーるで行われた石松健男の写真展「60年代ネオ・ダダと!」(1992年)や福岡市美術館の「流動する美術―ネオ・ダダの写真」展(1993年)によって、ネオ・ダダにも注目が集まる。1994(平成6)年の個展「ウツ明け元年」(佐野画廊)で「豚;Pig Lib;」を再制作し、吉村はふたたび表舞台に登場する。その後も、「ヴォイド」や「携帯絵画」などの再制作を行い、ほとんど作品が残っていなかったネオ・ダダの再評価に寄与する。2000年には地元である大分市美術館で回顧展「応答と変容 吉村益信の実験展」が開催された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

読み:せぎしんいち  美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

村野守美

没年月日:2011/03/07

読み:むらのもりび  漫画家の村野守美は、3月7日心不全のため東京都府中市の病院で死去した。享年69。 村野(本名、佐藤守)は1941(昭和16)年9月5日、中国の満洲(現、中国東北部)の大連に生まれた。48年に引き上げ、幼少期を福島県会津若松で過ごした。高校を中退後、上京し手塚治虫に師事する。一時期手塚の虫プロダクションで働き、「鉄腕アトム」などの原画を描いた。60年『少年』の夏増刊号にロボットものの「弾丸ロンキー」でデビューする。78年、『週刊漫画アクション』に連載した「ボクサー」が高い評価を得る。また79年『ビッグコミックオリジナル』におてんばな老婆を主人公にした「垣根の魔女」を連載、ともに代表作といわれる。「草笛のころ」や「だめ鬼」など彼の多くの作品は青年誌に掲載されていった。日常をきめ細かく取材する視点から紡ぎだされるストーリー、そしてやわらかな美しい輪郭線にみられる確かな画力により、多くのファンを持った。漫画家永島慎二は村野を「人間の心を読ませる事の出来る数少ない作家の一人」といった。アニメーションも手がけ、「佐武と市捕物帳」や「ムーミン」の制作演出にも携わり、「ユニコ―魔法の島へ」(1983年)は、脚本・監督をしている。童話や絵本も多数上梓しているが、80年代半ばから、宮沢賢治や高村光太郎などへモチーフを広げていき、外国の古典、「ピーターパン」「シンドバットの冒険」などを描いた。90年代、「神々の指紋」で著名なグレーアム・ハンコックを原作とした作品、また池波正太郎の江戸ものを手がけた。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

読み:なかはらゆうすけ  美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

読み:おのでらひさゆき  文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

杵島隆

没年月日:2011/02/20

読み:きじまたかし  写真家の杵島隆は2月20日、敗血症のため東京都新宿区内の病院で死去した。享年90。 1920(大正9)年12月24日アメリカ合衆国カリフォルニア州カレキシコに、移民一世の父母のもと生まれる。旧姓渡邊。24年にいわゆる排日移民法が施行され、その影響を懸念し、母の実家である鳥取県西伯郡の杵島家に預けられ、養子として育てられる。1938(昭和13)年鳥取県立米子中学校卒業。アメリカ国籍であったため進学に不都合を生じ、電気会社に就職するが、39年養父の知人増谷麟が重役を務める東宝映画株式会社に増谷の推薦により入社し、東宝の委託学生として日本大学専門部映画科に入学する。42年同大学を繰り上げ卒業し、東宝撮影所に勤務。43年杵島家の籍に入り日本国籍を取得、海軍飛行予備学生に志願、海軍航空隊に任官し各地を転戦、福岡の基地で特攻待機中に終戦を迎え、除隊後帰郷。 終戦直後に知人からカメラを譲られ、中学時代にとりくんだ写真撮影を再開、作品を作り始めるとともに、郷里で現像・焼き付けや撮影などの仕事を手がけるようになる。48年には同郷の写真家植田正治に師事。戦後に復刊した『アサヒカメラ』、『カメラ』など写真雑誌の月例懸賞欄に作品を投稿、入賞を重ねる。とくに『カメラ』1950年5月号月例で特選となった「老婆像」は、ソラリゼーションの技法によるマチエールを生かした表現により、同欄の評者を務めていた土門拳に高く評価され、杵島の存在を広く知らしめるものとなった。50年植田を中心に山陰地方の若手写真家が結成した「写真家集団エタン派」に参加。広告写真の懸賞にもたびたび入賞し、53年には上京してライト・パブリシティに入社、広告写真家として活動を始める。55年にフリーランスとなり、56年キジマスタジオを設立。 広告写真家としてさまざまな撮影を手がけるかたわら、「グラフィック集団」(55年の第2回展から参加)、女性写真の分野で活躍する秋山庄太郎、稲村隆正らが結成した「キネグルッペ」(56年に参加)などの活動に加わり、58年には個展「裸」(富士フォトサロン)で、皇居桜田門前で撮影した斬新なヌード作品を発表するなど、作家活動も並行して展開した。 60年代以降も広告写真やファッション写真などの撮影のほか、テレビCMの制作やショーウィンドーディスプレーなど幅広い分野の仕事を手がける。とくに蘭の撮影と、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をめぐる撮影はライフワークとなり、75年に出版された写真集『蘭』(講談社)により76年日本写真協会賞年度賞を受賞した。その他の主要な写真集に『義経千本桜』(日本放送出版協会、全4冊、1981年)、『裸像伝説1945-1960』(書苑新社、1998年)がある。 58年に日本広告写真家協会の結成に参画した他、日本写真家協会副会長(88-90年)、東京写真文化館館長などを務めた。1991(平成3)年に勲四等瑞宝章、2001年に日本写真協会賞功労賞を受賞。また同年には米子市美術館で回顧展が開催された。詳細な年譜が同展図録に収載されている。

井波唯志

没年月日:2011/01/25

読み:いなみただし  漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

門倉武夫

没年月日:2010/12/26

読み:かどくらたけお  保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。 1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。 主要な研究業績は以下の通りである。  「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on the influence of environmental pollution on the cultural properties.- Researching test on copper and bronze test plates by acid rain-(Kadokura,Ninomiya,Ono and Udagawa,Proceedings of the36th International Seminar on the Environmental Acidification,2Dec1997,National Institute of Public Health,1995) 「文化財への影響」(共著、『「酸性雨」-地球環境の行方-』環境庁地球環境部監修、中央法規出版、1997年)

石田武

没年月日:2010/12/24

読み:いしだたけし  日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

清水誠一

没年月日:2010/12/06

読み:しみずせいいち  美術家の清水誠一は12月6日、山梨県北杜市の自宅で死去した。享年64。1946(昭和21)年2月27日、山梨県小淵沢に生まれる。67年新潟大学医学部を中退し、上京。すいどーばた美術学院で学ぶが、ほどなく独学で制作活動に入る。デヴューは69年の第9回現代日本美術展。初個展は72年、神田の田村画廊だった。この年、3回の個展を田村画廊で勢力的に開催する。マルセル・デュシャンに傾倒していた清水は、当時の作品を次のように記述している。1回目は、「動力用モーターが3台廻り、空中に大きな楕円の輪が吊るされ、楕円の中を円形蛍光灯20個が筒状に光を発する」もの。2回目は、「画廊のコンクリートの床に穴を掘り」画廊の名前が入ったガラスの看板を埋めるもの。3回目は1日のみで、「白い傾斜した大きなベニヤ・パネルをトラックに積み、田村画廊と近くにあったときわ画廊とのあいだを20回通過するイヴェント」(引用はいずれも『あいだ』157号「追悼山岸信郎・わが虚無的往還のかたわらで」より)だった。77年には第10回パリ青年ビエンナーレに出品。この頃には、コンクリート板などを線描で覆い尽くす「マーク・ペインティング」をシリーズ化している。79年に小淵沢に制作の拠点を移し、80年代はおもに「クランク・ペインティング」のシリーズを展開、1色の背景に直線と曲線が規則的に並ぶ、運動感をみせる絵画である。個展は主に東京のコバヤシ画廊、田中画廊などで開催、その数44回に及び、毎年のようにグループ展にも参加していた。1998(平成10)年頃からコンピューターを使用し、絵画制作を行なう。写真を取り込みソフトで加工、旧作の画面に入れ込んだりし、しだいに具象的な形象が画面を覆ってくるようになる。2009年6月から11月に開催された香川県のソフトマシーン美術館での個展が最後の発表となった。作品は次のホームページで参照できる。http://lastpainting.main.jp/ (2013年現在)

鈴木慶則

没年月日:2010/11/21

読み:すずきよしのり  画家の鈴木慶則は11月21日、脳こうそくのため静岡市内の病院で死去した。享年74。1936(昭和11)年1月13日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。腺病質で友だちがいなく、孤独な幼少期にひとりでできる遊びとしてクレヨン画をよく描いた。実家はもともと地主であったが農地改革で土地を失い、父は終戦時に結核で亡くなった。高校では美術部に入り、図書館で見つけた福島繁太郎著『エコール・ド・パリ』がきっかけで美術にのめり込む。54年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学。在学中は大沢昌助、川端実、末松正樹らに学ぶ。57年第25回独立展に出品し入選。4年生のときに清水市にある鈴与倉庫に勤める義理の姉の同僚であった木村泰典(石子順造の本名)と出会い、翌年静岡でグループ「白」を結成。大学卒業後は、清水市立第一中学校に美術教師として赴任、教職と並行して作家活動を行う。58年第11回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品、以後61年第14回展まで毎年出品を続ける(第14回展は「グループ「白」、石子順造、鈴木慶則」名義で出品)。58年静岡県展で中部日本新聞社賞を受賞。59年第7回ニッポン展に出品。60年村松画廊で「伊藤隆史・鈴木慶則」展を開催。同年石子順造、伊藤隆史とともに評画・記録漫画の冊子『フェニックス』を創刊。同年第13回前衛美術展に出品、以後出品を続ける。このころ静岡雙葉学園に移り、13年間非常勤として勤務。63年第15回読売アンデパンダン展に出品。同年清水・純喫茶フレンドで個展を開催。64年アンデパンダン’64展に出品。65年椿近代画廊において東京での初個展を開催。同年東京芸術柱展(東京都美術館)に出品。66年静岡の作家とともに前衛美術グループ「幻触」を結成し、中心メンバーとして活動。同年第10回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。67年第11回シェル美術賞展で2等受賞。同年「50A.F.(Apres “La Fountaine”)」展(ギャラリー新宿、企画=石子順造、刀根康尚)に出品。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(村松画廊、東京画廊、企画=石子順造、中原佑介)に出品。同年第8回現代日本美術展コンクール部門で入選。同年第5回長岡現代美術館賞展に招待出品。69年第9回現代日本美術展第2部「現代美術のフロンティア」に招待出品。同年「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)に招待出品。同年「今日の美術-静岡」展(静岡県民会館)に出品し今日の美術展大賞を受賞。60年代後半から、名品とされる絵画や彫刻をモチーフにトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法を用いた平面作品を展開、「高橋由一風鮭」(1966年)、シリーズ(1968年~)など発表。70年京都書院画廊で個展を開催。71年第10回現代日本美術展招待部門「状況-物質と行為との対話」に「Twin endress-ring」と題するインスタレーションを出品。同年「言葉とイメージ」展(ピナール画廊、企画=針生一郎)に出品。72年ギン画廊で個展を開催。73年『芸術生活』で連載を1年間担当、「死角の絵画」と題して毎月新作を発表。74年第11回日本国際美術展国内部門「複製、映像時代のリアリズム」に「長谷川等伯風猿猴捉月図」を招待出品。以後、銀座・ギャラリー手(1974年、1978~88年、1992~2009年)、大阪フォルム画廊東京店(1991年)、ソウル・松川画廊(1994年)、ギャラリーQ(2010年)などで個展を開催し、「今日の静物・展」(横浜市民ギャラリー、1975年)、「現代作家6人」展(静岡・ギャラリー美術舎、1982年)、「日仏合同ALAC」展(1985年)、「石子順造とその仲間たち」展(清水・虹の美術館、2001年)、「幻触1968年」展(静岡文化芸術大学ギャラリー、2002年)など多くの企画展に出品。1970年代からあぶり出しによる平面構成、カンバスに金属粉を吹き付ける技法を用いた作品、シリーズ、シリーズなどを展開、素材の物質性に基づいた表現へと変貌した。2010(平成22)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

武者小路穣

没年月日:2010/11/11

読み:むしゃこうじみのる  和光大学名誉教授で、日本古代・中世文化史の研究者であった武者小路穣は、11月11日、心不全のため死去した。享年89。1921(大正10)年3月27日、奈良県奈良市に生まれる。東京府立一中、第一高等学校(文科甲類)を経て、1941(昭和16)年に東京帝国大学文学部入学し、国史学を専攻する。卒業半年前に、第二次大戦末期の兵力不足をおぎなうため、舞鶴海軍機関学校に教官として入隊、敗戦後復員。翌年の46年から48年まで日本読書講読利用組合に勤務。その後、明星学園高等学校教諭を経て、70年に和光大学文学部に赴任。以後、1991(平成3)年に定年退職するまで後進の育成に取り組んだ。文学、絵巻、襖絵、仏像など、実に幅広い対象を扱い、そこから歴史を説き起こそうとする独自の研究スタイルを追求した。こうしたスタイルの確立には、とりわけ次の3人の研究者に影響を受けたことを述懐している。まず、実証史学のありようや史料の扱いの基本を学んだのは学生時代の恩師坂本太郎からであった。また46~48年の出版関係の仕事を通じて、戦後歴史学に大きな影響を与えた石母田正との知遇を得たが、このことが歴史を考える上で非常に大きかったという。戦後に出版された石母田の一連の論考に、武者小路自身も大きな衝撃を受けており、その石母田から文学・美術分野での古代中世を掘り下げるように励まされたことがその後の研究の方向性を決定したようだ。石母田との共著『物語による日本の歴史』(学生社、1957年初版、ちくま学芸文庫、講談社学術文庫版として再刊)の出版準備過程で、自宅にほど近かった石母田宅に毎晩のように通い、薫陶を受けたという。さらに、美術史学者の宮川寅雄、日本史学者の川崎庸之の誘いを受け、さまざまな分野の研究者がつどった研究会である文化史懇談会に参加。そこで美術史学者の田中一松に出会い、作品を幅広く徹底的によく見るという氏の姿勢に大いに感銘を受ける。後に和光大学赴任後、現地で見ること、記述することを徹底する教育へとつながった。またこの懇談会に参加したことを直接のきっかけとして、川崎のすすめにより絵巻研究に従事し、文学のジャンルから美術史のジャンルへと視野を広げることとなる。その研究成果は『原色版美術ライブラリー 絵巻物』(みすず書房、1957年)、『絵巻―プレパラートにのせた中世』(美術出版社、1963年)等に結実。こうした学術研究のかたわら、『日本歴史物語』(河出書房新社、1955~1962年)、『少年少女人物日本百年史』(盛光社、1965~1966年)、『新しい日本』(盛光社、1967年)等、児童向けの歴史書の共同執筆や監修を手がけた。上記以外の主な著作に、『ものと人間の文化史 地方仏Ⅰ・Ⅱ』(法政大学出版局、1980年・1997年)、『ものと人間の文化史 絵師』(同、1990年)、『絵巻の歴史』(吉川弘文館、1990年)、『ものと人間の文化史 襖』(法政大学出版局、2002年)などがある。なお、妻は作家の武者小路実篤の三女辰子。85年に開館した調布市武者小路実篤記念館の顧問を務めた。

熊谷元一

没年月日:2010/11/06

読み:くまがいもといち  写真家、童画家の熊谷元一は、11月6日老衰のため東京都内の介護施設で死去した。享年101。1909(明治42)年7月12日、長野県下伊那郡会地村(現、阿智村)に生まれる。1929(昭和4)年長野県飯田中学校(現、飯田高等学校)卒業。30年下伊那郡で尋常高等小学校の代用教員となる。33年長野県教員赤化事件(2.4事件)に連座し退職。幼少の頃より絵に関心を持ち、代用教員在職中に童画(子供向けの絵画)にとりくみ始める。32年絵本雑誌『コドモノクニ』に初めて作品が掲載され、以後、郷土を描く童画家としての評価を高め、教職を辞した後は童画に専念。34年指導を受けていた童画家武井武雄の依頼で、童画制作の資料のために案山子を撮影したことから写真に興味を持ち、36年初めてカメラを購入。写真を用いた村誌の制作を思い立ち、約2年間かけて農村の暮らしを撮影する。それをまとめた手作りの写真帳が美術評論家の板垣鷹穂に評価され、板垣の推薦により、38年『会地村 一農村の写真記録』が朝日新聞社より出版される。これを契機として39年拓務省(のち大東亜省に吸収)に嘱託として採用され上京、事務全般を担当する傍ら満州出張の折に現地を撮影。童画家としても絵本『ヤマノムラ』(教養社、1942年)、同『あの村この村』(博文館、1943年)を出版する。終戦後は郷里の小学校の教師に復職。49年より農林省農業綜合研究所駐村研究員に任じられたことを機に、写真撮影を再開。教職の傍ら、農村の婦人の生活を調査、撮影。53年に新評論社から『村の婦人生活』として刊行するとともに、それらの写真を岩波写真文庫編集部に送ったことをきっかけに同写真文庫において、いずれも伊那谷を撮影地とした『かいこの村』(岩波写真文庫84、1953年)、『農村の婦人 南信濃の』(同121、54年)、『一年生 ある小学校教師の記録』(同143、1955年)が出版される。53年に担任したクラスを1年間記録した『一年生』は、第1回毎日写真賞を受賞するなど高く評価された。66年小学校教員を定年退職し、東京都清瀬市に移住。退職後に発表された絵本『二ほんのかきのき』(福音館、1968年)は版を重ね約30年で総部数が100万部に達し、童画家としての代表作となった。清瀬移住後も郷里阿智村の撮影を続け、『ある山村の昭和史 写真記録集 信州阿智村39年』(信濃路、1975年)、『グラフィック・レポート ふるさとの昭和史 暮らしの変容』(岩波書店、1989年)などを出版するとともに、移住先の清瀬でも市内の風景や市民生活にレンズを向け、その成果は『清瀬の三六五日―写真集』(清瀬市郷土博物館、1999年)などにまとめられた。写真と童画によって長年にわたって郷土の暮らしに眼を向け続けた熊谷の営為は、昭和の終わりから平成初頭の時期、昭和という時代を回顧する気運の高まりの中で改めて評価され、その顕彰が進んだ。81年に阿智村で「熊谷元一童画写真保存会」が発足、88年村内に熊谷から寄贈された作品を保存展示するふるさと童画写真館(のち熊谷元一童画写真館に改称)が開設された。1990(平成2)年には第40回日本写真協会賞功労賞を受賞。92年『画集 熊谷元一の世界』(郷土出版社)刊行。93年長野県教育関係功労賞受賞。94年地域文化功労者として文部大臣表彰を受ける。同年『熊谷元一写真全集』(全4巻、郷土出版社)により第48回毎日出版文化賞を受賞。95年には伊那谷の暮らしと文化を童画と写真により記録し続けた功績により信濃毎日新聞社から第2回信毎賞を受賞した。96年阿智村により熊谷元一写真賞創設。97年には『日本の写真家17熊谷元一』(岩波書店)が刊行された。評伝に矢野敬一『写真家・熊谷元一とメディアの時代』(青弓社、2005年)がある。

榊莫山

没年月日:2010/10/03

読み:さかきばくざん  書家の榊莫山は、10月3日、急性心不全のため奈良県天理市内の病院で死去した。享年84。1926(大正15)年2月1日、母方の実家である京都府相楽郡大河原村(現、南山城村)で生まれる。戸籍は三重県名賀郡古山村(現、伊賀市)。本名齊。1937(昭和12)年、伊賀の花垣尋常高等小学校6年次に伊賀学童競書会で「聖恩與天高」が特選受賞。38年、旧制上野中学校に入学し、松本楳園に書を、佐々木三郎に油彩画を習う。43年、三重師範学校に入学。45年、終戦後に復員し、小学校教員となる。46年、奈良で日本書芸院設立者でもある書家の辻本史邑に師事。また、この時期には、京都大学文学部に内地留学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。50年から、日本書芸院公募展に出品。51年、第5回日本書芸院公募展に出品した「放蕩」、翌年第6回展の「何将軍山林詩」で、最高賞にあたる推薦一席を二年連続受賞。このころ、伊賀の文化人菊山当年男の勧めによって、大阪に転居している。また、奎星会展では、52年の第1回から3回連続で最高賞にあたる奎星会賞を連続受賞。20代の若さにして、日本書芸院と奎星会の審査員となる。しかし、書を他の造形芸術を含む広大な領域の中で捉えていた莫山は、書を他の諸芸術から区別し、その独自性を確保しようとする保守的な書壇に対する疑問を抱き、57年11月に師の辻本史邑が死去したことをきっかけに、日本書芸院を離れる。61年には、奎星会同人も辞退し、無所属となる。その後は、「土」「女」「花」などの一文字にイメージを重ねる作品などで独自の道を模索。画廊や百貨店で個展を開くのみならず、同郷の元永定正をはじめとする他分野の美術家との合作や二人展などを行うほか、テレビやラジオへの出演、多数の著作を執筆するなど広範な分野で活躍する。68年、書の研究グループである山径社を主宰(77年解散)。76年、大阪成蹊女子短期大学教授を務める。81年、両親が相次いで死去し、郷里の伊賀へと戻る。故郷の山野を歩き、自然に着想を求めたことで、「大和八景」(84年)や「伊賀八景」(94年)といった連作を生み出し、詩書画一体の作風を確立。1989(平成元)年、近畿大学文学部教授。92年、東大寺南大門仁王像阿形像像内に納入する宝篋印陀羅尼経などを制作。93年から96年にかけては、焼酎のテレビCMに登場し、広く一般にもその人柄が親しまれるようになる。死去の翌年2011年、遺言により作品108点が三重県立美術館に寄贈され、12年4月に同館で榊莫山展が開催された。

高田誠三

没年月日:2010/10/02

読み:たかだせいぞう  写真家の高田誠三は、10月2日扁桃扁平上皮がんのため死去した。享年81。1928(昭和3)年10月14日、大阪に生まれる。49年大阪府立化学工業専門学校(現、大阪府立大学工学部)卒業。ハリス株式会社(現、クラシエフーズ)に入社し、チューインガムの研究に従事。在学中の48年に浪華写真倶楽部に入会。戦後の再興途上にあった同倶楽部において若手の中心的なメンバーの一人として頭角を現し、各種のコンテストで入賞を重ね、評価を高めた。56年、勤務先の会社を辞し写真家として独立、商業写真などを手がけるが、70年代半ばより、風景写真へのとりくみを活動の中心とするようになる。69年より75年までなんばデザイナー学院教授、76年より大阪芸術大学で教鞭を執り、講師、助教授、教授を歴任。1998(平成10)年からは同大学写真学科長を務め、2000年に退任した。大学での教育とともに、浪華写真倶楽部や、理事を務めた全日本写真連盟、02年の創設より参加した日本風景写真協会の活動などを通じ、多くの後進やアマチュア写真家の指導、育成にあたった。風景写真の第一人者として、日本の自然の美を生涯のテーマとし、長年にわたって四季を通じて各地に取材を重ねた。主として35mmカメラを使用し、平明でありながら完璧な風景の美を追究した作風によって知られた。『アサヒカメラ』などの写真雑誌に発表された作品も多く、作品集に『彩々流転』(日本写真企画、1991年)、『高田誠三集』(ブティック社、1998年)など、また写真技法書として『暗室の特殊技法』(朝日ソノラマ、1977年)がある。

一原有徳

没年月日:2010/10/01

読み:いちはらありのり  モノタイプの手法で知られる版画家の一原有徳は10月1日、老衰のため死去した。享年100。1910(明治43)年8月23日、徳島県那賀郡平島村(現、阿南市那賀川町)に生まれる。1913(大正2)年、家族とともに北海道虻田郡真狩村阿波団体(現、真狩村富里)に移住。23年、小樽に移住し、株式会社北海道通信社に入社。同年から小樽実修商科学校(夜間)に通学。そこで書道教師だった小林露竹(俳号、露石)の句会に参加し、俳句創作のきっかけとなる。1927(昭和2)年、逓信省小樽貯金支局(現、小樽貯金事務センター)に入局し、以後43年間勤務。この頃から本格的に俳句創作に携わり、句誌に投句を始める。また、31年には休暇を利用しての登山を始める。44年、月寒(札幌)の大砲小隊に入隊。翌年、広島へ転属。その後、小樽の第五船舶輸送司令部暗号班に配属されるも、終戦によって9月に除隊。51年、小樽貯金支局に勤務していた画家須田三代治から油彩画の道具を譲り受け、指導を受ける。同年10月に第5回小樽市美術展に出品し初入選。翌年の第6回同展では北海道新聞社賞、翌々年の第7回同展で文化クラブ賞。54年、須田の友人である国松登の指導のもと、第9回全道展で「峡」が初入選。その後、第12回まで油彩画を出品し、入選を続ける。この頃、パレット代わりにしていた石版石に残ったペインティングナイフの痕跡に注目し、モノタイプ版画の制作を始める。モノタイプ版画は、石版などの上に均一に延ばしたインクをナイフなどで削ぎ落とし、版画紙に転写するもので、方法としては版画に類するものの、一度しか印刷することができないという点で大きく異なる。58年、モノタイプの手法を用いた年賀状が国松の眼にとまり、第32回国画会展にモノタイプ作品を出品。「RON」、「SRO」が初入選を果たす。このことがきっかけで、国画会の版画家河野薫から版画についての基礎知識を教わり、金属凹版作品、いわゆるエディション・シリーズの制作にも本格的に取りかかる。翌59年、第27回日本版画協会展に出品した「轉」が初入選。この作品がアメリカのコレクターであるフランク・シャーマンに買い上げられたことで、当時の神奈川県立近代美術館副館長土方定一の眼にとまる。60年には、土方の推薦によって、世界を巡回した「現代日本の版画展」(神奈川県立近代美術館主催)に「RON」を含む計9作品が出展される。6月には東京画廊において初の個展を開催。その後は、勤務先の仕事の傍ら、北海道を中心に作品を発表する。この間、モノタイプや金属凹版を応用し、糸や金網、機械部品を直接プレスしたり、あるいは、丸鋸の刃やトカゲの皮、するめをそのまま版として用たりするなど、様々な実験を行っている。定年退職後の71年、下山中に遭難し、右大腿骨骨折。その後、3年にわたって三度の手術を受けることになる。退院後の76年、札幌にあるNDA画廊の長谷川洋行から青画廊の青木彪を紹介され、再び東京での個展を開催。これに先立って、『みづゑ』10月号に谷川晃一との対談が掲載されたこともあって、ふたたび脚光を浴びることとなる。翌年、現代版画センター主催の「現代と声」展に選ばれ、企画者である北川フラムの知遇を得る。北川フラムは、その後もいくつかの個展を企画し、89年には『ICHIHARA 一原有徳作品集』を出版する。79年、第2回北海道現代美術展に選定出品された「KIH(a)」で優秀賞。同年、一原が勤務していた貯金局の建物内に市立小樽美術館が開館。また、版画紙を複数枚つなぎ合わせたり、それを円筒形にして立体的な構造物をつくる手法の第一作となる「SON・ZON」が制作されたのもこの年である。この時期には、金属を熱して焼き付ける「Branding」シリーズ、ステンレスの鏡面を歪ませた「SUM」シリーズなどといったオブジェ作品を多数制作。また、83年「無題」(川崎市営競輪場外壁)、84年「炎」(小樽花園公園)、「炎II」(銭函駅前)とモニュメント作品も制作している。その後も多産な制作活動をつづけ、各地で精力的に個展を開く。主な個展は、88年「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」展(神奈川県立近代美術館別館)、1997(平成9)年「イチハラ・ステンレス・オブジェ」(市立小樽美術館)、98年「一原有徳・版の世界 生成するマチエール」(徳島県立近代美術館、北海道立近代美術館)、2002年「所蔵作品お披露目展その四・一原有徳展」(武蔵野市立吉祥寺美術館)、12年「追悼・一原有徳 ヒラケゴマ」(同)など。また、主な受賞は、1981年、第4回北海道現代美術展に選定出品された「SON・ZON」によって北海道立近代美術館賞。90年、北海道文化賞受賞。96年、地域文化功労者の文部大臣表彰。2001年、第33回北海道功労賞。11年、市立小樽美術館の三階に一原有徳記念ホールが開設され、同年10月に「没後一年 一原有徳 大版モノタイプ~終わりなき版への挑戦」展が開催された。

岡畏三郎

没年月日:2010/09/17

読み:おかいさぶろう  美術史家の岡畏三郎は9月17日午前1時35分、老衰のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年96。 1914(大正3)年1月18日、演劇評論家岡鬼太郎(本名、嘉太郎)の次男として東京に生まれる。兄は洋画家の岡鹿之助。1931(昭和6)年私立麻布中学校を卒業。32年東京の都立高等学校理科乙類に入学し、35年に同校を卒業する。36年4月に東京帝国大学農学部農学科に入学し39年3月に同科を卒業。同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。41年12月に同科を卒業し、42年1月に財団法人国際文化振興会(現、国際交流基金)に勤務する。45年5月15日、同会を退職して美術研究所に助手として入所する。当時、同所助手であった河北倫明が応召するのに伴い、補充採用となったもの。隈元謙次郎、河北倫明らとともに日本近代美術の調査研究事業に従事し、大正期の洋画と18世紀以降の浮世絵・木版画を研究対象とした。51年3月「明治末期に於ける『新傾向』に就て」(『美術研究』160号)を発表して以来、専門分野に関する著作、講演を多数行う。手堅い史料調査による作家研究を行い、日本美術の近代化の中で江戸時代までの造形の蓄積を表現に取り入れた作家たちを積極的に評価した。戦後、美術研究所は東京国立文化財研究所となったが、同所美術部第二研究室長を長く務め、72年4月から同部長となった。76年4月1日、同所を退官。76年から86年まで群馬県立近代美術館館長を務めた。主な著作に以下のようなものがある。 「明治末期に於ける「新傾向」に就て」(『美術研究』160 1951年3月) 「フュウザン会」(『美術研究』185 1956年3月) 「大正・昭和期の洋画史」(『日本文化史大系12』 1957年9月) 『広重』(平凡社、1957年6月) 『近代の洋画人・岡田三郎助』(中央公論、1959年) 「近代洋画の展開と版画芸術の復興」(『世界名画全集』23、平凡社、1960年1月) 「大正期洋画史」(『世界美術全集』11、角川書店、1961年9月) 「奥村・石川派を中心とする美人画の開拓」(『日本版画全集』2、講談社、1961年12月) 「小出楢重・岸田劉生」(『世界名画全集続編』5(共著)、平凡社、1962年3月) 「橋口五葉伝」(『浮世絵芸術』2 1962年8月) 「小出楢重の美術学校時代と初期作品」(『美術研究』223 1963年3月) 「大正期版画」(『浮世絵芸術』4 1963年12月) 「小出楢重の初期作品について」(『美術研究』228 1964年3月) 『浮世絵(平木コレクション)』編集・解説(毎日新聞社、1964-66年) 「小絲源太郎年譜」『小絲源太郎』(美術出版社、1965年10月) 『広重(Ⅱ)』(山田書院、1967年7月) 『北斎(Ⅱ)』(山田書院、1967年10月) 「明治・大正・昭和の版画」(『現代の眼』151 1967年6月) 「岸田劉生と小出楢重」(『近代洋画名作展図録』、中日新聞社、1967年10月) 「近代美術年譜」『現代の日本画(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(三彩社、1967年11月・68年1月・68年6月) 「山下りん筆『十二大祭図』について」(『美術研究』258 1969年3月) 「橋口五葉と大正版画」(『三彩』243 1969年6月) 「末期美人画」(『浮世絵』、日本経済新聞社、1969年3月) 「近代洋画の抬頭と展開」(『日本絵画館・明治』、講談社、1970年1月) 『浮世絵』(1-12巻)(共著)(毎日新聞社、1970年1月-71年3月) 「創作版画の抬頭」(『日本絵画館・大正』、講談社、1971年6月) 「小出楢重」(『現代の眼』201 1971年11月) 『風景版画』(至文堂、1972年1月) 「山下りんの伝記と作品」(『美術研究』279 1972年1月) 『在外秘宝・清長』(共著)(学習研究社、1972年7月) 「岸田劉生」(『現代日本美術全集』、集英社、1972年12月) 『藤島武二』(日本の名画31)(講談社、1973年7月) 『歌川広重』(日本の名画12)(講談社、1974年1月) 『北斎読み本挿絵集成』2巻・5巻(共著)(美術出版社、1973年3月・11月) 「フュウザン会について」(『絵』126 日動出版 1974年8月) 『浮世絵版画大系 8北斎』(集英社、1974年11月) 「草土社の創立について」(『美術研究』297 1975年3月) 「内国勧業博覧会について」(『明治美術基礎資料集』、東京国立文化財研究所、1975年3月) 『高橋コレクション』(第1巻・第2巻・第5巻)(共同編集、解説)(中央公論社、1975年6-12月) 『山下りん-黎明期の聖像画家』(共著)(鹿島出版会、1976年12月) 『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店、1981年) 『劉生日記』1-4(岩波書店、1984年) 

鷲塚泰光

没年月日:2010/09/16

読み:わしづかひろみつ  美術史家(日本彫刻史)の鷲塚泰光は、下咽頭癌のため東京都新宿区信濃町の慶應義塾病院で9月16日午前4時51分に死去した。享年72。葬儀・告別式は21日午後3時から夫人の葬儀の時と同様に国柱会本部(東京都江戸川区一之江6の19の18)で行われた。鷲塚は1938(昭和13)年8月30日に東京に生まれた。62年慶應義塾大学文学部哲学科(美学美術史学専攻)を卒業し、64年には慶応義塾大学大学院文学研究科哲学専攻(美術史)の修士課程を修了する。65年に文化財保護委員会事務局美術工芸課に任用、68年には文化庁文化財保護部美術工芸課に配属。75年5月より同課文化財調査官(彫刻部門)、83年12月より主任文化財調査官(同)を歴任。この間に唐招提寺国宝鑑真和上像のはじめての海外展観(77年パリ・プチパレ美術館、80年中国・揚州と北京)の実現に尽力した。86年より東京国立博物館企画課長、美術課長を歴任。1992(平成4)年には文化庁文化財保護部美術工芸課長、94年には東京国立博物館学芸部長、96年に同館次長、2000年から05年まで奈良国立博物館館長を勤めた。長年の文化財行政ならびに博物館勤務における実績を高く評価され、08年には瑞寶中綬章の叙勲を受けた。鷲塚は非常に後進思いであり、誰もが鷲塚を敬い慕った。また、文化庁時代以来、社寺関係の信頼が非常に厚かった。後者の一端は、奈良国立博物館長の職にあった02年に同館で開催された特別展「大仏開眼1250年東大寺のすべて」において、門外不出の同寺法華堂の国宝塑像である日光・月光菩薩像の出展を実現したのも、ひとえに鷲塚に対する信頼によるところが大きい。当時、東大寺別当だった橋本聖圓長老が「像の移動では、リハーサルの時も含めていつも立ち会っておられた姿が印象に残っている。頭が下がる思いだった」というコメントが『毎日新聞』9月17日付朝刊の鷲塚の物故記事(花澤茂人執筆)に見える。寺社との信頼関係と文化財に対する責任感の一端をよく伝えていよう。鷲塚は文章を多く残し、文化財保護委員会以来の彫刻の現地調査、重要文化財指定後の修理時の知見等については一端が「文化財集中地区特別総合調査報告―滋賀県湖東地区―」『月刊文化財』119(1973年)、「彫刻の修理について」『佛教藝術』139(1981年)に述べられている。また、現場での文化財の扱いを踏まえて「美術工芸品の保存と公開1~5」『博物館研究』140~147(1980年、この論文で日本博物館協会の棚橋賞を受賞)、「美術工芸品の保存と公開」『MUSEOLOGY』4(1985年)が執筆されており、このほか文化財行政に関わっての「文化財保護百年」『博物館研究』354(1997年)がある。活躍の場が東京国立博物館に移った90年代以降は、博物館のあり方について積極的に発言し、「日本美術系博物館への一考察」『博物館研究』277(1991年)、「随筆 『博物館』は生涯学習社会に本当に役立っているのか」『博物館研究』350(1997年)、「歴史の焦点 東京国立博物館『平成館』」『歴史と地理』537(2000年)、「独立行政法人国立博物館」『国立博物館ニュース』647(2001年)などの文章を執筆するとともに、博物館のあり方について求めに応じて国立博物館の責任ある立場として講演者あるいはパネラーとして壇上に立ち、発話内容は「座談会 全国博物館大会を振り返って」『博物館研究』344(97年)、「第44回全国博物館大会報告 シンポジウム 今博物館に求められているもの―博物館相互の連携 特に相互信頼の醸成について」『博物館研究』346(1997年)、「アート・マネジメント研究フォーラム シンポジウム美術館の21世紀をひらく」『慶応義塾大学アート・センター年報』4(1997年)に窺うことが出来る。ことに国立博物館が独立行政法人へと移行する前後の時期が東京国立博物館、奈良国立博物館の要職にあたり、指導力を発揮して博物館改革に尽力し、その時期の発言は「緊急特集 美術史学会東支部シンポジウム 国立博物館、美術館、文化財研究所などの独立行政法人化問題について(ドキュメント)」『ドーム』41(1998年)に収められている。主要編著として『石仏(日本の美術147)』(1978年)、『金銅仏(同223)』(1987年)、『丹後・若狭の仏像(日本の美術251)』(1984年)、『仏像を旅する・山陰線-ふるさとの自然・文学・民俗-』(1989年)、『室生寺』(保育社、1991年)、がある。論文・解説等は70年代から80年代に精力的になされており、「中山寺と相応峯寺の十一観音像」『MUSEUM』248(1971年)、「円応寺の閻魔十王像について」『佛教藝術』89(1972年)、「北陸・越後に遺る金銅仏」『同』91(1973年)、「伊豆善名寺の仏像」『三浦古文化』14(1973年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(松島健と共著)『同』16(1974年)、「十二神将像(亥神) 静嘉堂」/「快成作 愛染明王像 文化庁」『國華』1000(1977年)、「地蔵菩薩像 東福寺」『同』1001(1977年)、「伊豆南禅寺の平安仏」『三浦古文化』29(1981年)、「山梨県・福光園寺蔵の木造吉祥天及び二天像について」『佛教藝術』149(1983年)、「瀬戸神社の彫刻」『三浦古文化』35(1984年)、「東光寺の薬師如来像」『同』40(1986年)、「『公余探勝図』解説」『同』46(1989年)、「源頼朝ゆかりの造像―滝山寺聖観音・梵天・帝釈天立像―」『同』50(1992年)、「康尚・定朝への道 寄木造りを生み出した時代」『日本の国宝(週刊朝日百科)』74(1998年)などがある。90年以降になると執筆は専ら展覧会図録に移行する。すなわち、「仏像内に納入された仏様」『仏教版画入門展』(町田市立国際版画美術館、1990年)、「南禅寺の仏像」『伊豆国の遺宝MOA美術館開館10周年記念展』(MOA美術館、1992年)、「美術に表現された花」『花展』(東京国立博物館、1995年)、「神々の国の仏たち」『古代出雲文化展神々の国 悠久の遺産』(東武美術館、1997年)、「室生寺の建築と彫刻」『女人高野室生寺のみ仏たち国宝・五重塔復興支援展』(東京国立博物館、1999年)、「東大寺の文化財」『東大寺の至宝展』(東武美術館、1999年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念展』(東京都美術館、2001年)、「宝物寸描-紫檀小架の使い方-」『第53回正倉院展』(奈良国立博物館、2001年)、「東大寺の美術」『大仏開眼1250年東大寺のすべて』(同館、2002年)、「黎明期法隆寺の美術」『法隆寺日本仏教美術の黎明』(同館、2004年)、「興福寺鎌倉復興期の彫刻」『興福寺国宝展鎌倉復興期のみほとけ』(東京藝術大学大学美術館、2004年)、「唐招提寺の美術と歴史」『国宝鑑真和上唐招提寺金堂平成大修理記念』(奈良国立博物館、2009年)など。公職を辞してからも、文化庁・国立博物館時代の実績と手腕を買われ、奈良を中心とする寺社関係の展覧会のプロデュースに尽力した。ことに平成の大改修にともなう唐招提寺10年プロジェクトによる国宝鑑真和上展の東京、愛知、宮城、北海道、静岡などの各地での実現は鷲塚の信用と尽力なくしては実現しなかったであろう。なお、鷲塚といえば日本彫刻史の研究者としてのイメージが強いが、慶應義塾大学大学院時代には松下隆章に師事し、文化財保護委員会へは絵画部門での採用であり、この頃の論文・解説類の執筆が専ら絵画作例であったことは意外と知られていない。この時期に執筆されたものとして「住吉具慶筆徒然草絵詞」『古美術』12(1966年)、「新指定重要文化財紹介 祇園祭礼図・慶長遣欧使節関係資料」『MUSEUM』185(1966年)、「古美術用語解説絵画篇Ⅰ~Ⅲ」『古美術』15~17(1966年~67年)、「月の絵画の歴史」『三彩』220(1967年)、「吉野山花見図屏風」『古美術』20(1967年)、「日吉山王祭礼図(京都檀王法林寺蔵)」『哲学』53(1968年)がある。ちなみに、日本彫刻史に本格的な言及がなされるようになるのは「静岡県の彫刻」『月刊文化財』86(1970年)以降である。

井村彰

没年月日:2010/09/13

読み:いむらあきら  美学研究者で、東京藝術大学美術学部准教授の井村彰は、2008年より病気療養中であったが、9月13日脳梗塞のため死去した。享年54。1956(昭和31)年2月16日、広島県竹原市に生まれる。74年3月広島県立呉三津田高校を卒業、翌年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。79年3月同大学卒業、4月同大学大学院修士課程に入学。82年3月、同大学院修了、4月同大学美術学部美学研究室非常勤講師となる。84年から86年まで、ドイツ学術交流会留学生としてミュンヘン大学に学ぶ。帰国後、芝浦工業大学、法政大学、文化学院芸術専門学校にて非常勤講師を務める。88年7月、三村尚子と結婚。1990(平成2)年4月、大分大学教育学部専任講師となる。92年4月、同大学同学部助教授となる。97年4月、東京藝術大学美術学部芸術学科専任講師となる。98年同大学同学部助教授となる(2007年から准教授)。2002年9月、「東京藝術大学美術学部+ワイマール・バウハウス大学造形学部 現代美術交流展」に運営委員として参加。翌年7月、「アーティスト・ガーデン・ワイマール」のプロジェクト事業に参加、ワイマール・バウハウス大学にて講演。2004年6月、東京藝術大学美術学部副学部長となる(2007年11月まで在任)。井村の美学研究は、学生時代のヘーゲル、ヘルベルト・マルクーゼの美学理論にはじまり、テオドール・アドルノの美学へと進み、そこから個人がもつ「趣味」(hobbyとtaste)の問題、また芸術と社会、現代美術、あるいは近現代の構築物と社会の関係を「環境美学」として研究領域を広げ、考察を深めていった。こうした研究のなか生みだされた成果として、「モニュメントにおける文化と野蛮―宮崎市の『平和の塔』を事例にして―」(科学研究費補助金研究成果報告書「メタ環境としての都市芸術―環境美学研究―」、2000年3月)では、野外のモニュメントの芸術性と政治性の関係を、その関係に含まれる諸問題を基点に考察し、美学の視点で論じていた。また、「趣味の領分―雑誌『趣味』における坪内逍遥・西本翠蔭・下田歌子―」(科学研究費補助金研究成果報告書「日本の近代美学(明治・大正期)」、2004年3月)では、上記の「趣味」の問題を、近代日本における翻訳を通した文化受容の問題として論じている。さらに、モニュメントに端を発して考察された課題では、「モニュメント・文化財・芸術作品」(科学研究費補助金研究成果報告書「芸術における公共性」、2005年3月)において、近代、現代における文化生産、文化消費の問題を歴史的に俯瞰しようと試みていた。このように井村の美学研究は、現代における芸術の諸問題を、その背後にある歴史、社会を念頭に考察を深めていこうとするものであり、そこに現代に息づく美学の可能性を見いだいしていたといえる。数多くの論文、報告の他に主要な翻訳書に、下記のものがある。ヨハネス・パウリーク著『色彩の実践―絵画造形のための色彩―』(美術出版社、1988年)、ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(共訳であるが訳者代表、勁草書房、2005年)。なお、『カリスタ』第17号(美学・藝術論研究会編集発行、2010年12月)において、追悼記事が掲載された。謙虚で温和な人柄ながら、研究者としては、ドイツの学問的土壌を敬愛し、つねに時代と社会を視野に入れつつ、美学という位置から確固たる識見のもと真摯に研究をつづけるとともに、後進の指導にあたっていた。

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