本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





児玉幸雄

没年月日:1992/02/20

西欧の広場を描いた作品で知られる洋画家児玉幸雄は2月20日午後9時5分、心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年75。大正5(1916)年8月9日、大阪市に生まれる。関西学院大学の美術部弦月会に参加し田村孝之介に師事。昭和11(1936)年全関西洋画展に初入選し、翌12年第24回二科展に「赤い背景の人形」で初入選。その後二科展には連年入選。同14年関西学院大学経済学部を卒業したのち入隊。同15年紀元2600年奉祝展には二科会から推薦されて「戦線風景」を出品した。戦後は同22年に創立された二紀会に第1回展から参加し、同年同会同人となる。同25年第4回二紀展に「家族」「夏の庭」を出品して同人賞を、同27年第6回同展に「黒い上衣」「画室の親子」「働く家族」を出品して同人優賞を受賞。同年同会委員となる。同31年東京に転居。同32年渡欧し、同34年日本橋三越、大阪阪急百貨店で渡欧作品展を開いた。その後、同40年に欧州、アメリカ、メキシコを巡遊したほか、同44年に渡欧。同46年以降は平成3年まで毎年渡欧して、欧州各地、特にフランスの広場、市場の情景を主に描き、二紀会のほかに日動画廊、梅田画廊等での個展で制作を発表して人気を博した。同51年病をえて二紀会を退会。その後は個展を中心に作品を発表していた。初期には人形や着衣の婦人像を多く描いたが、渡欧後は異国の人々の生活感と活力がみなぎる広場を主なモティーフとし、堅牢なマチエルとさざめくような色面による画面構成で、具象画界の実力派として認められていた。著書に石版画集『フランスの四季』『パリーの街角』(昭和56年)、石版画集『素顔のパリー』(同58年)等がある。

赤星亮衛

没年月日:1992/02/20

読み:あかぼしりょうえ  行動美術協会会員の洋画家で、絵本作家としても知られた赤星亮衛は、2月20日午前5時5分、心不全のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。大正10(1921)年11月22日、熊本県玉名市高瀬に生まれる。本名亮一。郷里の先輩である海老原喜之助に師事し、昭和27(1952)年第16回自由美術展に「裸婦」で初入選。あかね書房刊「ふしぎなランプ」で初めて挿絵を担当し、同41年サンケイ児童文化賞を受けた。同43年「森のメルヘン」で第23回行動美術展に初入選。同47年27回同展に「涅槃の時」「悟の時」を出品して行動美術奨励賞を受け、同48年同会会友となる。同60年第40回同展に「トレモスの謝肉祭」を出品して柏原記念賞を受賞。同64年同会会員となった。こうした油絵は、社会への風刺を潜めながらも明るく童画風である。その画風をいかし、「三びきのおばけ」「ぷっぷみみずく」などの絵本、「緑の電車は飛んだ」などの童話等、約500冊の本に挿絵を描いて好評を博した。

阿部広司

没年月日:1992/02/03

水彩画家で日本水彩画会理事、示現会理事の阿部広司は、2月3日心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年81。明治43(1910)年3月28日、現在の福島県いわき市に生まれ、福島県立磐城中学校、東京府青山師範学校を経て、昭和9年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業した。卒業後、群馬県立高崎中学校、東京女子高等師範学校などで教え、戦後は東京都教育委員会に奉職、公立中学校校長などを経て、同45年からは日本女子体育短期大学教授をつとめた。この間、はやくから水彩画を専門とし、戦後の同24年に日本水彩画会会員、翌年には示現会会員となって制作発表を行った。また、同23年から日展にも連続入選し、同28年の日展出品作「東京駅八重洲口」は「週刊朝日」の表紙を飾った。作品は他に「大島の秋色」(同37年)、同49-52年間の連作「漁港」などがある。

山川輝夫

没年月日:1992/01/20

洋画家で東京芸術大学助教授の山川輝夫は、1月20日胆管閉塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年51。昭和15年東京に生まれる。同39年東京芸術大学油画科を卒業、卒業制作は「無いものねだり」で、大橋賞を受賞した。同41年同大学大学院を修了。同44年から49年まで女子美術短期大学非常勤講師をつとめたのち、同56年東京芸術大学助教授に就任した。同61年から翌年にかけて、文部省在外研究員としてイギリスで研修を行った。国際形象展、十騎会展、黎の会展、杜の会展などのグループ展と個展で制作発表を行い、平成4年にはみゆき画廊で瀧徹との二人展を開催した。没後、平成4年4月に東京芸術大学芸術資料館で、山川輝夫遺作展が開催され、卒業制作から近作のシリーズに至る30余点が出品された。

堀忠義

没年月日:1991/12/31

一水会会員の洋画家堀忠義は、12月31日脳出血のため金沢市の伊藤病院で死去した。享年86。明治37(1904)年11月13日石川県金沢市に生まれ、県立金沢第二中学校を経て、昭和4(1929)年文化学院美術科を卒業した。在学中の同3年第15回二科展に「茶亭の見える風景」で初入選し、以後同展へ6回入選した。同7年から翌年にかけて渡仏、サロン・ドートンヌ(1932年)に出品した。同12年、第1回一水会展以来同展に所属し戦後の同21年一水会会員に推挙された。日展へも第1回から出品し、同25年の第6回展に「犀川春好日」で岡田賞を受賞した。この間、同8年から18年まで母校の文化学院美術部に勤務し、同19年金沢へ疎開し以後同地で制作活動を行った。一水会展への出品作に「青い馬車」(2回)「多摩川初秋」(7回)「大浦天主堂」(19回)などがあり、犀川を題材にした作品も多い。

水島清

没年月日:1991/12/17

独立美術協会会員の洋画家水島清は、12月17日午前10時、胃がんのため横浜市の国立横浜病院で死去した。享年84。明治40(1907)年7月、新潟県水原町に生まれる。大正13(1924)年東京京華中学校を卒業、昭和2(1927)年に東京美術学校西洋画科に入学した。同4年第16回二科展に「女の像」で初入選。同年より林武に師事し、1930年協会にも出品する。翌5年にも二科展に出品するが同6年の第1回展から独立展に参加し、出品を続ける。同8年東京美術学校を卒業。同9年応召し同21年に復員。戦後も独立展に参加し、同28年「海郷」「水中花」を出品して独立賞を受賞、同30年同会会員に推される。同36年に渡欧。同41年第34回独立展に「横たわる裸婦」を出品してG賞を受けた。強く激しい筆致、緊迫した構図、コントラストの強い色彩を用い、フォーヴィスムを強く意識した画風を示し、独自の空間構成を論じた。同56年インド、ネパールを旅し、西洋的空間のとらえ方から東洋の生命のエネルギーに触発された空間把握へと移行。この頃よりパーキンソン症候群にかかり、闘病しつつ制作を続けた。死去の数日後の12月22日から、東京の望月画廊で「水島清エスキース展」が開かれた。

彼末宏

没年月日:1991/10/27

東京芸術大学名誉教授で国画会員でもあった洋画家彼末宏は10月27日午前4時15分、呼吸不全のため東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年64。暗色の地に明るく鮮やかな色点がきらめく独自の画風で知られる彼末は、昭和2(1927)年8月31日、東京で生まれたが、その後北海道へ移り、同20年北海道立小樽中学校を卒業。陸軍士官学校へ進むが、志望を転向して翌21年東京美術学校に入学し、梅原龍三郎に師事する。同26年梅原が退官すると、久保守に師事。同27年同校を卒業。同29年同校油画科助手となる。同31年第30回国画会展に「森」を初出品。同32年には「CIRQUE」で国画会賞を受賞し,翌33年同会会友となった。また、同年西欧学芸研究所から奨学金を受けて渡欧する。同35年第34回国画会展に「城跡」を出品して国画会会友賞を受け、同会会員に推される。同37年国際具象派美術展(朝日新聞主催)、同40年「具象絵画の新たなる展開」展(東京国立近代美術館)に出品する。同44年東京芸術大学助教授、同55年同教授となり、同63年退官して名誉教授となるまで長く教鞭をとって後進の指導にあたった。この間、同38年サヱグサ画廊で個展、同53年及び57年には高島屋で個展を開き、同60年有楽町アートフォーラムで「彼末宏展」、平成3年には東京芸術大学資料館で退官記念展が開催された。初期から写実を離れた詩的な具象画を描き、戦後の抽象絵画、アンフォルメル運動の中で、対象の形態を明瞭に表わさず、色彩のハーモニーに重点を置いて画面を構成する抽象画とも見まごう制作を展開。同47年6月には国画会を退き、無所属となって活動した。 国画会展出品歴第30回(昭和31年)「森」、31回「CIRQUE」、32回「昔の戦争」、33回不出品、34回「城跡」、35回(同36年)「船」、36回「画室」、37回「花」、38回「工場のある街」、39回「原始時代」、40回(同41年)「黄色いサーカスのための音楽」、41回不出品、42回「天馬」、43回不出品、44回「NOIR」、45回(同46年)不出品、46回不出品

高岡徳太郎

没年月日:1991/10/10

一陽会常任委員の洋画家高岡徳太郎は、10月10日心筋こうそくのため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年89。一陽会の創立会員であり、また、マネキン人形やインテリアの制作会社ノバマネキン社々長をつとめ、陶器の制作も行うなど多面な活動を展開した高岡は、明治35(1902)年7月27日大阪府堺市に生まれた。はじめ、大阪天彩画塾で松原三五郎に洋画の手ほどきを受けたのち、大正13年には、大阪信濃橋洋画研究所へ通い小出楢重に師事した。同年の第11回二科展に初入選した。また、岡田三郎助が指導する本郷絵画研究所へ通ったこともある。昭和6年、第18回二科展に「I氏立像」で二科賞を受賞し二科会友となる。同9年林武とともに靖国丸で渡欧、翌年にかけパリでは自由研究所へ通った。同10年の第22回二科展に「踊り子」「田舎」「モンスリー公園」他の滞欧作品を特別陳列し、翌年二科会会員に推挙された。戦後は東郷青児らと二科会を再建し、同28年の第38回二科展に「岩」で会員努力賞を受けたが、同30年の二科展開催前に鈴木信太郎、野間仁根等と同会を脱退して新たに一陽会を結成し、同会委員(同48年)、常任委員をつとめた。一陽会展への出品作に「朝顔」(1回)「海」(2回)「裸婦」(4回)「犬吠岬の海」(9回)「夏の山A」(15回)「海からの道」(20回)「漁村の晴日」(25回)などがある。

江藤哲

没年月日:1991/09/21

日展参与、東光会会員の洋画家江藤哲は、9月21日午後5時30分、肺動脈りゅう破砕のため鹿児島市の病院で死去した。享年82。明治42(1909)年5月21日、大分県東国東郡に生まれる。本名哲。大分県東国東郡竹田津尋常小学校を経て、昭和2年同県杵築中学校を卒業。同3年東京高等工芸学校図案科に入学。和田香苗、永地秀太に師事。同4年同舟舎に通い始める。同6年東京高等工芸学校図案科を卒業し、通産省特許局に勤務する。同局には工芸学校時代の校長であった松岡寿がいた。同8年熊岡美彦の主宰する熊岡道場に通い始め、同年第14回帝展に「人物」で初入選。翌9年第2回東光展に「緑の着物」「像」で初入選し、第15回帝展にも「黒衣座像」で入選する。同11年第4回東光展に「四人」「画架の前」を出品してY氏奨励賞受賞。同12年第5回同展に「緑衣」「レストラン」を出品して東光賞を受け、翌13年同会会友となる。同14年第7回東光展に「猫の居る庭」「室内」「庭」を出品して再びY氏奨励賞を受け同会会員に推される。戦後も日展、東光展に参加し、同22年第3回日展では小出楢重の自画像に触発されて描いた「画家の像」で特選受賞。同40年日展会員となる。同43年特許庁を退職し、同年夏に欧州へ渡りオランダ、イタリア、ギリシア、スペイン、フランスを3カ月間巡遊。同48年夏にも欧州を旅した。同52年東光会副理事長、同53年日展評議員となり、同55年第12回日展に「静物」を出品して内閣総理大臣賞を受けた。同61年日展参与、翌62年日展評議員となる。特許庁を退いた後、毎年個展を開く一方、同46年より56年3月まで名古屋芸術大学教授として後進を指導。また同47年より隔年で『江藤哲デッサン画集』を出版。平成2年には人物、風景、静物、デッサンの4巻からなる『江藤哲画集』を刊行している。人物、風景、静物と幅広い題材を描き、堅持な写実にもとづきながら、モティーフを知的に配置し、面的にとらえる落ちついた画風を示した。 帝展、新文展、日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「人物」、第15回「黒衣座像」、文展鑑査展(同11年)「裸婦群像」、第1回新文展(同12年)「二人」、第2回「母子」、第3回「人物」、紀元2600年奉祝展(同15年)「二人」、第1回日展(同21年春)「花と少女」、第2回(同年秋)「花」、第3回(同22年)「画家の像」(特選)、第5回「画家の像」、第6回「夏の子供達」、第7回「雨と子供」、第8回「海浜」、第9回「座像」、第10回(同29年)「座像」、第11回「座像」、第12回「座像」、第1回社団法人日展(同33年)「座像」、第2回「座像」、第3回「座像」、第4回「父子」、第5回「座像」、第6回「夏」、第7回「魚屋」、第8回「屋台店」、第9回「夏」、第10回「朝市」、第11回「夏」、第1回改組日展「初秋」、第2回「野道」、第3回「静物」、第4回「菖蒲花」、第5回「静物」、第6回「静物」、第7回「静物」、第8回「静物」、第9回「小菊のある静物」、第10回(同53年)「室内静物」、第11回「室内静物」、第12回「静物」、第13回「室内静物」、第14回「野菊」、第15回「犬吠埼」、第16回「犬吠埼」、第17回「糸車のある静物」、第18回「がくあじさいの花のある静物」、第19回「犬吠埼風景」、第20回(同63年)「果物のある静物」、第21回「松林」

山田新一

没年月日:1991/09/16

日展参与、光風会名誉会員の洋画家山田新一は、9月16日午後7時10分、肺炎のため京都市の病院で死去した。享年92。明治32(1899)年5月22日、台北市に生まれる。父の任地である甲府、東京、青森、北海道小樽、栃木で幼少年期を過ごし、大正6(1917)年宮崎県都城中学校を卒業。同年川端画学校に入る。同7年東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事し、佐伯祐三と交遊する。同12年東美校を卒業して同校研究科へ入学。同年京城より昭和20(1945)年の第二次世界大戦終戦まで同地に住んだ。この間、朝鮮総督府京城第二高等普通学校常勤講師をつとめ、大正13年第3回朝鮮美術展に「花と裸女」を出品して3等賞受賞。昭和8年同展では昌徳宮賜賞を受け、同11年同展参与となった。また、大正14年「リューシャの像」で第6回帝展に初入選。以後同展に出品を続ける。昭和3年より同5年までフランスに滞在し、アカデミー・グラン・ショーミエールでアマン・ジャンに師事。滞仏中はサロン・ドートンヌに出品した。戦後は京都に住み、日展に出品を続けるとともに、同23年より光風会展にも出品し、同年同会会員に推された。同25年第6回日展に「湖上客船」を出品して同展岡田賞を受け、同35年日展会員、光風会評議員、同52年日展参与となった。一方、京都工芸繊維大学、京都女子大学、関西日仏学館で教授をつとめるとともに、同27年開設のヤマダ洋画研究所で後進を指導した。同59年、宮崎県の記念事業として画業60年展を開催。明るく穏やかな色調で室内の婦人像を描くのを得意とした。 帝展、新文展、日展出品歴第6回帝展(大正14年)「リューシャの像」(初入選)、7回「少女の像」、8回「W博士家族」、11回(昭和5年)「読後」、12回「女とグロキシニヤ」、文展鑑査展(同11年)「江畔」、第2回新文展(同13年)「三角巾を持てるF・Y像」、3回「赤いジレ」、2600年奉祝展「庭に憩ふ」、4回「R嬢像」、5回「樹蔭」、戦時特別展(同19年)「うすれ日の北京」、第3回日展(同22年)「九月の庭」、4回「初秋の庭にて」、5回「初秋の子供達」、6回「湖上客船」(岡田賞)、7回「ヨットと遊ぶ」、8回「ヨットの姉妹」、9回「湖畔小憩」、10回(同29年)「ヨットクラブにて」、11回「庭の前」、12回「湖畔のボートハウスにて」、13回「ヨットのかげ」、第1回社団法人日展(同33年)「湖畔の午後」、2回「山荘晩夏」、3回「窓辺」、4回「夏日」、5回「休息」、6回「うすれ陽の琵琶湖」、7回「曇日の比良」、8回「白いシュミーズのダニエル」、9回「初夏の朝」、10回「椅子の人」、11回「リスボンのジュデイト」、改組第1回日展(同44年)「亜麻色の髪のスジー」、2回「窓辺のエディット」、3回「マキシのMelle Annie」、4回「ドミニック像」、5回「スペインの衣裳」、6回「踊る女」、7回「パンタロンのジャニヌ」、8回「休息するジャニンヌ」、9回「フラメンコ」、10回(同53年)「ソファーの裸婦」、11回「長椅子の裸婦」、12回「新秋の装」、13回「椅子に凭る」、14回「裸婦」、15回「夏の装」、16回「ソファーにもたれるカーレン」、17回「ヴァレリー」、18回「盛夏の装」、19回「秋のおとずれ」、20回(同63年)「惜春(フレデリック)」、21回「赤衣」、22回不出品

浦崎永錫

没年月日:1991/08/29

大潮会会長の洋画家で『日本近代美術発達史』の著者としても知られた浦崎永錫は、8月29日午前2時25分、老人性肺炎のため東京都板橋区の病院で死去した。享年91。明治33(1900)年沖縄の那覇に生まれる。大正10(1921)年に上京し川端画学校に入学。藤島武二に師事して洋画を学ぶ一方、検定で小学校教員免許を取得。夜間工業学校の図画教師となり、自由画、用器画、高等図学などを教授。美術関係文献の調査、収集にも興味を持ち、昭和5(1930)年、教師をやめて雑誌「美術界」を刊行。同時に明治期の資料調査にあたった。同10年、美術教育者たちの作品発表の場として大東会を設立。その存続を望む声にこたえて同会を発展解消させて翌八年大潮会を結成。写実に立脚した作品を健康な美術であるとして、それを美術教育者たちの求めるべき美術として提唱し、その発表の場を提供することを活動として唱った。戦後も同会を率い、のち同会会長に就任。同会に作品を発表する一方、明治期の美術に関する詳細な資料にもとづき、昭和49年『日本近代美術発達史・明治篇』(東京美術)を刊行。資料収集の綿密さが高く評価されている。

山内豊喜

没年月日:1991/08/25

読み:やまのうちとよき  もと自由美術家協会会員の洋画家山内豊喜は、8月25日午後10時42分、肺がんのため東京都中野区の病院で死去した。享年80。明治44(1911)年8月7日、茨城県真壁郡に生まれる。昭和7(1932)年、川端画学校を修了。日本美術学校に進むが同9年に中退する。同17年第4回美術文化展に「北鮮の漁場」で初入選しその後も同展に出品。同20年同会会友となったが、同23年に退会。翌24年、第13回自由美術展に「風景」2点で初入選し、以後同会に出品を続ける。同26年同会会員となり、同29年、コングレス・カルチュアル・フリーダムの招聘により渡仏してグラン・ショーミエールに学んだ。同40年、アジア財団の支援により再渡仏。同年自由美術家協会を退会し、以後、東京、パリ双方を拠点に活動した。風景画を多く描き、同55年及び56年に東京、愛宕山画廊で個展を開いたほか、各地で個展を中心に作品を発表した。国内にとどまらず日本文化フォーラム主催国際青年美術家展運営委員をつとめるなど、国際的な場を後進にも開いた。

中村節也

没年月日:1991/08/20

独立美術協会会員の洋画家中村節也は8月20日午後5時2分、じん不全のため、群馬県高崎市の第一病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月3日、群馬県邑楽郡に生まれる。大正13(1924)年前橋中学校を卒業して東京美術学校に入学。在学中の昭和2(1927)年第14回二科展に「読書」で初入選。1930年協会にも参加し、同4年「裸婦と鳥篭」「婦人像」「裸体」を出品して1930年協会賞、翌年同会奨励賞受賞。同4年東美校を卒業。同7年独立美術協会展に「女絵師」「五九郎獅子(対立)」「百姓」を初出品して海南賞を受け、翌8年第3回同展に「肖像」「山」「画室」「母子閑日」を出品して独立賞受賞、同11年同会会員となる。同34年米国ロシクルーシャン美術館及びクロッカー美術館で個展を開催。同36年サンフランシスコ市のJ・A・C(ジャパニーズ・アートセンター)の招聘により渡米し油彩画を指導。同39年第32回独立展に「神樹」「アリゾナ」を出品してG氏賞を受けた。同49年インド、スリランカに取材旅行し、その翌年、昭和元年から50年までの画業を追う回顧展を東京の日動サロンで開催した。同51年、中近東、西欧に渡り、その後もエジプト、メキシコ、東南アジア諸国を訪れて遺跡シリーズを描いた。物の形を正しくとらえる以上に色彩の効果に意を用い、明快な緑、青などを多用して、作家自身の心に映ずる対象の姿を再構成した作風を示した。晩年は群馬県美術会名誉会長を務めた。

遠藤典太

没年月日:1991/08/08

春陽会会員の洋画家遠藤典太は8月8日午前2時10分、心不全のため横浜市中区の横浜市立港湾病院で死去した。享年88。明治36(1903)年1月10日福岡県大牟田市に生まれる。三井三池工業学校応用化学科に学ぶが大正7(1918)年2年次で退学。三井鉱山会社三池事務所に勤め、同13年画家を志して上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。同15年第4回春陽会展に東京大学構内の三四郎池を描いた「池」で初入選。以後同会に出品し、また、昭和4(1929)年春陽会研究所が設立されるとここに学び、小杉放菴、山本鼎、森田恒友、石井鶴三、中川一政らの指導を受けた。同6年第9回春陽会展で春陽会賞受賞。同9年同会会友となり、戦後の同22年同会会員に推挙された。同52年第54回春陽会展に「栢槙」を出品して第54回展賞を受賞。風景画を得意とし、身近な題材をとらえ、鮮やかな色を激しい筆触で用いてその筆触によって画面に動きを生み出す画風を示した。 春陽会展出品略歴第4回(大正15年)「池」(初入選)、5回(昭和2年)不出品、10回(同7年)「子供の顔」「三池風景」「天草風景(二)」「天草風景(一)」、15回(同12年)「雨後」「池畔」「山ふところ」、20回(同17年)「シクラメン」「磯辺」「山家」、30回(同28年)「教会堂」「街角の家」「港」、35回(同33年)「運河の舟」「運河」「山手の破家」、40回(同38年)「古いバラック」「木立」、45回(同43年)「神ノ木台部落」「神ノ木台風景」、50回(同48年)「丘の部落(2)」「丘の部落(1)」、55回(同53年)「栢槙」、60回(同58年)「さるすべりの木」、65回(同63年)「諸磯風景(その二)」

菅野矢一

没年月日:1991/06/15

読み:すがのやいち  日本芸術院会員の洋画家菅野矢一は、6月15日午後零時12分、間質性肺炎のため東京都大田区の中島病院で死去した。享年84。明治40(1907)年1月19日、山形市に生まれる。本名彌一。山形商業学校を中退し、小学校代用教員、会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、昭和11(1936)年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。同14年より安井曽太郎に師事する。翌15年第5回一水会展に初入選。以後同展に出品を続ける。戦後の同21年同展会員となる。同28年渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに学び、ゴエルグ、クラヴェに師事して翌29年帰国。同年第16回一水会展に「赤いコート」など滞欧作を出品して同会会員優賞受賞。同30年第11回日展に「裸婦」を出品して特選、同35年第3回新日展に「海のみえる丘」を出品して再び特選となる。また、同37年第5回日展に「岬の夕」を出品して同展菊華賞を受け、同41年日展会員となった。同46年北極圏に取材旅行。同54年にはスペインへ赴き、同年第11回改組日展に「白い太陽」を出品して同展文部大臣賞受賞。同55年中国雲南省奥地を訪れる。同56年第13回改組日展への出品作「くるゝ蔵王」により同年度日本芸術院賞を受け、同61年日本芸術院会員となった。初期には人物画も描いたが、後に風景画を中心に制作するようになり、海や山など広大な自然を明快な色面でとらえた清新な画風を示した。晩年は「奥の細道」シリーズを手がけ、同60年及び平成元年に日本橋三越での個展で発表している。 日展出品歴第1回(昭和21年春)「雪国」、2回(同年秋)「M子立つ」、4回(同23年)「雨の町」、6回(同25年)「婦人像」、7回「婦人像」、11回(同30年)「裸婦」(特選)、12回「赤いブラウス」、13回「冬山」、社団法人日展第1回(同33年)「夏山」、2回「山脈秋意」、3回「海のみへる丘」(特選)、4回「北国にて」、5回「岬の夕」(菊華賞)、6回「富士」、7回「雲と富士」、8回「樽前の野にて」、9回「教会の丘」、10回「蔵王残照」、11回(同43年)「大雪山」、改組第1回(同44年)「男鹿にて」、2回「石狩の野」、3回「白夜」、4回「蒼い岬」、5回「眺望」、6回「松島」、7回「平原にて」、8回「陽は昇る」、9回「陽はまた昇る」、10回(同53年)「平原」、11回「白い太陽」、12回「霧の岬」、13回「くるゝ蔵王」、14回「濕原にて」、15回「蔵王」、16回「雷鳴の浜」、17回「島の夕」、18回「月と山と」、19回「平原」、20回(同63年)「霧の峰」、21回「山峡の灯」

岡崎勇次

没年月日:1991/05/30

日展および光風会の会員で広島修道大学教授をつとめた洋画家岡崎勇次は5月30日午後8時11分、肝不全のため広島市中区の病院で死去した。享年66。大正13(1924)年9月25日、広島県因島市に生まれる。昭和19年9月、大阪青年師範学校を卒業。同26年第7回日展に「波止場付近」で初入選後、同展に出品を続けたほか光風会展にも出品し、同30年第41回光風会展では「帰船」「やぐら船」でA氏賞、翌31年第42回同展では「赤い船A」「赤い船B」で光風特賞を受け、同年同会会友、同35年同会会員となった。また、同34年第2回新日展では「白い船」で特選受賞。同35年渡仏し、パリのグラン・ショーミエールに通うなどして1年間滞在する。海の風景に多く題材をとり、白を基調色として少ない色数で画面をまとめる。対象の形を明瞭にあらわさず、色面で処理する画風を示す。著作もよくし、著書に『色彩の造形美学』『黒から白へ 生命をみつめる岡崎勇次』がある。同58年中京新聞社・因島市の主催で「岡崎勇次」展が開かれた。

山崎隆夫

没年月日:1991/05/25

国画会会員の洋画家山崎隆夫は、5月25日午後9時50分、心不全のため、神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年7月13日、大阪市東区に生まれる。昭和5(1930)年神戸大学経済学部を卒業。三和銀行に勤務する一方、小出楢重、林重義に洋画を学び、同7年第2回独立展に「新聞紙の擴がれる卓上」で初入選。同会には同12年第7回展まで出品し、翌13年には国画会展に「住吉川風景」「西洋蘭」「花と影の静物」「静物」「海の見える風景」で初入選し国画奨学賞を受賞。翌14年の同展には「千日紅」「梅花」「三輪車、提灯」「庭」を出品して二年連続して国画奨学賞を受け、同15年同会同人となる。また、官展にも出品し、同13年第2回新文展に「阪神水害地風景」で初入選。第6回展まで連年同展に出品した。戦後は国画会展を中心に発表。同30年前後から画風は著しく再現的写実を離れて抽象化したが、晩年は具象画の中で、対象を幾何学的形態と純化した色彩でとらえる画風へと展開した。

平通武男

没年月日:1991/03/28

日展参与で元岡山大学教授の洋画家平通武男は3月28日午前6時10分、心不全のため大阪府箕面市のガラシア病院で死去した。享年83。明治40(1907)年11月18日、大阪府豊能郡に生まれる。大正15(1926)年3月、奈良の天理中学校を卒業。のち上京して川端画学校を終了後、熊岡絵画道場で熊岡美彦に師事する、昭和7(1932)年第1回東光会展に初入選。同8年第14回帝展に「樹蔭」で初入選。翌9年第15回帝展にも「初夏窓邊」で入選する。同10年第3回東光会展には「ミシンと女」「蹄鉄作業」「或るスタンドバー」「室内」を出品して東光賞受賞。同11年文展鑑査展に「洗濯屋」を出品して選奨となる。同12年東光会会員に推される。戦後は同21年第2回日展に「黄衣」を出品して以降、同展に出品を続け、翌22年第3回日展では「潮風」で特選受賞。同33年日展が社団法人となって再出発する年に日展会員となる。同36年8月より約6カ月間フランスを中心に欧州遊学。同37年岡山大学教育学部美術科助教授となり、翌38年同教授に就任。また、同年日展評議員に推される。同48年岡山大学を停年退官。同55年東光会が社団法人となるに際し、副理事長となった。同61年大阪梅田近代美術館で画業60年記念展を開き、同年画集も刊行。同63年日展参与に推挙された。人物画を得意とし、情趣ある一瞬をとらえて絵画化する。古典的な形態把握と堅牢なマチエールを示す。没後の平成4年2月、大阪梅田ナビオ美術館で遺作展が開かれた。 帝展・新文展・日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「樹蔭」、第15回同展「初夏窓邊」、文展鑑査展(同11年)「洗濯屋」(選奨)、紀元2600年奉祝展(同15年)「婦人座像」、第4回新文展(同16年)「湖南の春」、第6回同展「ジャワの市場」、第2回日展(同21年秋)「黄衣」、第3回(同22年)「潮風」(特選)、第4回「バラ咲く」、第5回「鏡の前」、第6回「湖畔」、第7回「午睡」、第8回「稽古前」、第9回「砂丘」、第10回(同29年)「踊り子」、第11回「踊り子」、第12回「浴後」、同13回「耳輪をつけたモデル」、第1回社団法人日展(同33年)「海女」、2回「晩夏」、3回「フイアさんの像」、4回「ジャワの街角」、5回「スペインの思出」、6回「黄色いパラソル」、7回「午後のひととき」、8回「ノートルダム」、9回「母子像」、10回(同42年)「赤いサリー」、11回「梳る女」、第1回改組日展(同44年)「トレド風景」、2回「雪のアッシジ」、3回不出品、4回「踊子たち」、5回「くつろぐエリザベト」、6回「ピアノの憩い」、7回「海女」、8回「青衣」、9回「憩うミシェル」、10回(同53年)「午后のひととき」、11回「レッスン」、12回「オンフルール港」、13回「浄光(アッシジにて)」、14回「大洗の海」、15回「アクロポリスの丘」、16回「A夫人の像」、17回「バイオリニストN子さん」、18回「青いタブリエ」、19回「アベマリア」、20回(同63年)「赤いサリー」、21回「ピンクのサリー」、22回「チゴイネルワイゼン」

佐善明

没年月日:1991/03/23

新制作協会会員で千葉大学教授の洋画家佐善明は、3月23日午前1時45分、心不全のため千葉市亥鼻の千葉大学病院で死去した。享年54。昭和11(1936)年4月3日、新潟県新潟市に生まれる。同35年新潟大学教育学部芸能科絵画科卒業。在学中の同30年第19回新制作協会展に初入選。以後同展に出品を続け、同44年、45年、2年連続して同展新作家賞を受賞する。同46年第5回現代美術選抜展に招待出品。同48年新制作協会会員となる。同51年10月文化庁芸術家在外研修員として渡米し、1年間滞在。University of California at Los Angeles及びMassatusetts Institute of Technologyの客員研究員として研修。滞米中の同52年1月、日本画壇の全貌展に招待出品し、以後57年まで毎年同展に出品を続ける。同54年第22回安井賞展に「小さな訪問者」を、翌55年第23回同展に「シーサイドアベニュー」を出品。同58年第26回同展及び同59年第27回同展にも出品した。同60年10月、文部省派遣長期在外研究者として再び渡米し、UCLA芸術学部美術学科客員教授として滞在した。明快な色彩で描いた都市風景に、映像化された断片的人間像あるいは巨大な鳥の像を配し、自らの手でつくり上げた文明に疎外される人間や、人工物のために生きにくくなった小動物に対するヒューマンな視線を印象づける作風を示した。千葉大学工学部工業意匠科教授として教鞭をとり、日本美術家連盟、日本デザイン学会にも参加した。

矢口洋

没年月日:1991/03/01

光風会会員、日展会友で宇都宮大学名誉教授の洋画家矢口洋は、3月1日午後3時35分、急性肺炎のため宇都宮市の自宅で死去した。享年74。大正5(1916)年6月4日、宇都宮市に生まれる。昭和11(1936)年栃木県師範学校本科を卒業。同年より同15年まで小学校訓導をつとめ、同16年4月東京美術学校師範科に入学。寺内萬治郎に師事し、同19年9月、戦時中のため同校を繰り上げ卒業する。同23年第34回光風会展に「古きラムプ」で初入選。同年第4回日展にも「降りみ降らずみの雨」で初入選する。両展に出品を続ける一方、同25年宇都宮大学教育学部美術科助教授となった。同27年12月から約2年間文部省フランス留学生及び在外研究員として滞仏。この間の同28年、光風会会友となる。同31年第42回光風会展に「女の児のいる群像」「犬のいる群像」を出品して同展岡田賞を受けるとともに、同会会員に推される。また、同年第12回日展に「ポスターのある絵」を出品して日展岡田賞受賞。同43年12月、宇都宮大学教授となり、同55年停年退官して同大名誉教授となった。在職中、同47年より50年まで宇都宮大学付属小学校校長、同53年日本教育大学協会第2美術部門委員長、大学美術教育学会理事長をつとめた。58年渡仏し、病を得て帰国した後は、光風会のみに出品を続けた。人物を多くモチーフとし、堅実な生活をうかがわせる場面を好んで描いた。同63年、宇都宮上野百貨店で自選展を開催している。

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