本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





福王寺法林

没年月日:2012/02/21

読み:ふくおうじほうりん  日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

読み:こいずみじゅんさく  日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された«聖武天皇・光明皇后御影»対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

読み:こやつまさみ  日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

工藤甲人

没年月日:2011/07/29

読み:くどうこうじん  日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

曲子光男

没年月日:2011/07/19

読み:まげしみつお  日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

読み:みわりょうへい  日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

石田武

没年月日:2010/12/24

読み:いしだたけし  日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

濱田台兒

没年月日:2010/09/01

読み:はまだたいじ  日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

読み:いわさきはじん  日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

毛利武彦

没年月日:2010/04/13

読み:もうりたけひこ  日本画家で創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授の毛利武彦は4月13日、肺炎のため死去した。享年89。1920(大正9)年8月25日、東京市荒川区日暮里に生まれる。父の教武は高村光雲門下の彫刻家。1935(昭和10)年、父の友人である川崎小虎に師事。38年東京美術学校日本画科入学、42年同校を繰上げ卒業となり徴兵され、45年台湾の山中で終戦を迎える。翌年復員し、家族が日本画家森村宜永宅に仮寓していた関係で、宜永より大和絵の技法を学ぶ。49年にかねてより敬愛していた山本丘人宅を突然訪ね、以後丘人に師事する。50年創造美術春季展に「風景」が入選。創造美術が新制作派協会と合流し新制作協会が設立された後は、新制作展日本画部に出品。55年第19回展、61年第25回展、62年第26回展で新作家賞を得、64年新制作協会会員となる。74年に新制作協会日本画部全員が同協会を退会し、創画会を結成した後は創画展に出品を続けた。クレーの作風を取り込んだ50年代の風景からビュッフェやミノーの影響を受けた骨太な表現を経て、70年代の馬シリーズや80年代のキリスト教に題材をとった作品などで自らの絵画世界を構築。重厚な構成と筆致により精神性を秘めた作風を築いた。55年に山本丘人門下の研究・発表会である凡樹画社、74年には美術団体の枠を超えて組織された遊星会、85年の創画会主力メンバーによる地の会の結成に参加。制作の一方、48年から82年まで慶應義塾高等学校の美術科教諭を務め、また58年より武蔵野美術大学で教鞭をとるなど長年後進の指導にあたった。1989(平成元)年武蔵野美術大学図書館において作品展を開催。91年同大学を定年退職、名誉教授となる。同年『毛利武彦画集』を求龍堂より刊行。没して間もない2010年夏には「毛利武彦の軌跡展」が練馬区立美術館で開催、翌年の一周忌には『幻駿忌 毛利武彦随想集』が刊行された。

堂本元次

没年月日:2010/01/04

読み:どうもともとつぐ  日本画家で日展参事の堂本元次は1月4日、胸部動脈瘤破裂のため死去した。享年86。1923(大正12)年4月9日、京都市に生まれる。旧姓塩谷。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業後、京都市立絵画専門学校日本画科に学び、43年繰り上げ卒業。学徒動員で出征し45年復員。叔父堂本印象に師事し、51年その画塾東丘社に入塾、東丘社展では非具象性の強い実験的な作品を発表した。この間、47年第3回日展に「石庭」が初入選し、50年第6回日展で「白壁の土蔵」が特選を受賞、52年第8回日展「室内」が再び特選となる。54年より日展に依嘱出品し、60年第3回新日展で「窯壁」が菊華賞を受賞。62年初の審査員をつとめ、翌63年日展会員となった。63年ヨーロッパに旅行し、64年第7回新日展「コロッセオ」、68年第11回「或る日」等ヨーロッパに取材した作品を発表。72年日展評議員となる。79年日中文化交流使節団の一員として訪中してからは中国の雄大な風景に魅せられ、同地に取材した詩情豊かな作品を発表。82年第14回改組日展で「土匂う里」が内閣総理大臣賞を受賞。87年日展理事となる。同年「懸空寺」で日本芸術院賞を受賞。同年京都市文化功労者の表彰を受け、1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。2001年脳内出血で倒れるも、その後回復し翌年の第34回日展に「神苑の新雪」を出品した。

平山郁夫

没年月日:2009/12/02

読み:ひらやまいくお  仏教やシルクロードを題材に描き続けた日本画家で、国際的な文化財保護に尽力した文化勲章受章者、平山郁夫は12月2日午後0時38分、脳梗塞のため東京都内の病院で死去した。享年79。1930(昭和5)年6月15日、広島県の生口島(現、尾道市瀬戸田町)に生まれる。45年広島市の修道中学校3年の時、勤労動員先の広島市陸軍兵器補給廠で原子爆弾のため被爆。46年大伯父で彫金家の清水南山に画家への道を勧められる。47年東京美術学校日本画科予科に入学し、49年同校が東京藝術大学となって後、52年に卒業、卒業制作「三人姉妹」は藝大買上げとなる。卒業と同時に前田青邨に師事し、同大学美術学部日本画科副手、53年助手となる。53年第38回院展に「家路」が初入選し、以後院展に出品、55年40回院展「浅春」で院友となる。被爆の後遺症に悩む中、59年第44回院展に「仏教伝来」を出品、高い評価を得る。以後仏教世界に画題を求め、61年同第46回「入涅槃幻想」、62年第47回「受胎霊夢」がともに日本美術院賞・大観賞を受賞。62年から翌年にかけてユネスコ・フェローシップの第1回留学生としてヨーロッパへ留学。帰国後の63年第48回院展に出品した「建立金剛心図」が白寿賞・奨励賞、64年第49回「仏説長阿含経巻五」「続深海曼荼羅」は文部大臣賞となり、64年院展出品作を中心とする一連の作品により第4回福島繁太郎賞を受賞した。61年日本美術院特待、64年同人、70年評議員となり、65年第50回院展「日本美術院血脉図」、69年第54回「高耀る藤原宮の大殿」等を出品。この間66年から画商村越伸の企画による轟会に参画し、横山操・加山又造・石本正とともに作品を発表。また63年東京藝術大学非常勤講師、69年同助教授、73年教授となり、後進の育成にあたる一方、66年同大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加。四か月間トルコに赴き、73年には同大学イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団としてアッシジで壁画を模写した。以後毎年のように中近東、中央アジア、中国などに取材旅行し、仏教東漸を遡行してシルクロードをたどる。その成果として70年「ガンジスの夕」、第55回院展「塵耀のトルキスタン遺跡」、71年第56回「中亜熱鬧図」、74年第59回「波斯黄堂旧址」、76年第61回「マルコポーロ東方見聞行」、77年第62回「西蔵布達拉宮」等を発表。76年、80年には「平山郁夫シルクロード展」を開催、折からのシルクロードブームもあり、幅広い人気を獲得した。75年日本文物美術家友好訪中団団長として中国を訪問。76年には一連のシルクロード作品で日本芸術大賞を受賞。77年日本仏教伝道協会賞を受賞。78年第63回院展では前年に亡くなった恩師前田青邨を偲んで描いた「画禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞を受賞。79年には自らの被爆体験をもとに描いた「広島生変図」を第64回院展に出品。82年美術振興協会賞を受賞。81年には日本美術院理事となる。88年東京藝術大学の美術学部長、1989(平成元)年には同大学の学長に就任、95年末で一度退いたが、2001年に再度選ばれ05年まで務めた。92年には日中友好協会会長となる。96年日本美術院理事長に就任。97年故郷の広島県豊田郡瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。98年には文化勲章を受章。2000年に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を構想より二十年余を経て完成。同壁画は、薬師寺が始祖として仰ぐ玄奘三蔵法師の足跡を全七場面にわたって描いたもので、同寺が写経寄進で伽藍を建て、平山は自費で壁画を寄進するという、両者が願主であり施主となっての建立であった。旺盛な制作のかたわら、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、前田青邨班で第三号壁を担当。72年に発見された高松塚古墳壁画も73年より翌年にかけて模写し、82年より東京藝術大学敦煌壁画調査団長として敦煌壁画の保存修復に尽力。その他、北朝鮮の高句麗壁画古墳、カンボジアのアンコールワット遺跡など、世界の文化財保護活動に心血を注ぎ“文化財赤十字”構想を提唱、その拠点のひとつとして88年に文化財保護振興財団を設立。同年ユネスコ親善大使に任命。96年にはフランスのレジオン・ド・ヌール四等勲章、01年にフィリピンのマグサイサイ賞、04年に高句麗古墳群の世界文化遺産登録に寄与した功績で韓国政府から修交勲章興仁章を受けるなど、その国際的な文化財保護活動は海外でも高く評価された。01年、アフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン石窟破壊に際してはユネスコ親善大使として文化財保護を求める緊急声明を発表、さらには国外で破壊を免れている古美術品を“文化財難民”としてユネスコが管理保全し、政情安定後のアフガニスタンに返還する計画を提案した。04年には、画家としての長年の功績と文化遺産保存への国際的貢献が評価され、朝日賞を受賞。平山が提唱する“文化財赤十字”構想に応じるかたちで06年「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」が成立し、その交付を受けて同年、効率的に文化遺産の国際協力に取り組むべく文化財に関わる研究者、支援機関、行政関係者等多彩な人材が参加する“文化遺産国際協力コンソーシアム”が設立された。04年には山梨県長坂町に平山郁夫シルクロード美術館が開館。07年には東京国立近代美術館・広島県立美術館で回顧展「平山郁夫 祈りの旅路」が開催。没後の11年には、その文化財保護活動を顕彰する特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」が東京国立博物館で開催されている。

岩澤重夫

没年月日:2009/11/07

読み:いわさわしげお  日本画家で日本芸術院会員の岩澤重夫は11月7日、肺炎のため死去した。享年81。1927(昭和2)年11月25日、大分県日田郡豆田町室町(現、日田市豆田町)の米穀商の家に生まれる。父親の反対を押し切って画家を志望し、47年京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)に入学。在学中の51年第7回日展に「罌粟」が初入選、52年京都市立美術専門学校卒業後、54年堂本印象に師事し東丘社に入塾。東丘社展では実験的な抽象作品、日展では構築性の強い風景画を併行して発表する。この間55年には印象の筆頭弟子三輪晁勢の長女で、印象の姪にあたる蓉子と結婚。60年には東丘社の先輩達と位双展を組織、さらに抽象表現の可能性を追究する。59年の京都市展「古墳石室」、翌年の同展「葦のある沼」がともに市長賞となり、60年関西総合展「河岸」が第一席を受賞。同年の第3回新日展「堰」、61年第4回「晨暉」がともに特選を受賞。翌62年より日展委嘱となり、68年第11回新日展「昇る太陽」が菊華賞を受賞、72年日展会員、80年評議員となる。69年より毎年、京都市の文化財防火ポスターを手がけ、また77年福生市民会館ホール、78年日田市文化センター、82年東京歌舞伎座等の緞帳原画を制作、79年には日田市長福寺襖絵「大心海」を描き、83年銅版画集『瀧聲・春秋二題』を発刊する。83年から85年にかけて日中文化協会派遣の日本美術家訪中団に毎年参加、この訪中体験をもとに描いた「古都追想(西安)」が85年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。同年の第17回日展に出品した「氣」で文部大臣賞を受賞。手堅い手法による静謐かつ雄渾な風景画を描き続けた。1990(平成2)年、東京・銀座松屋他で開催した個展「現代日本画の俊英 岩澤重夫」に、故郷耶馬渓の奔流に取材した大作「天響水心」を発表。同年、原画を手がけた京都祇園祭の菊水鉾見送り画「深山菊水」が完成。同年、京都府文化功労賞を受賞。92年、第5回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。93年、前年の日展出品作「渓韻」に対して日本芸術院賞を受賞。2000年に日本芸術院会員となる。01年日展常務理事に就任。09年に文化功労者となるも、その直後に逝去。日田市の旧制中学の後輩で、その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬賴底より04年に依頼され、構想・制作に5年を費やした金閣寺客殿の障壁画63面が遺作となった。なお02年に西日本新聞に連載された聞き書きをもとに、10年には宇野和夫『日本画家 岩澤重夫聞き書き 天響水心』(西日本新聞社)が刊行されている。

石川義

没年月日:2009/09/12

読み:いしかわただし  日本画家で日展評議員、金沢学院大学名誉教授の石川義は9月12日、心不全のため死去した。享年78。1930(昭和5)年10月10日、石川県金沢市に生まれる。47年金沢美術工芸専門学校に入学、当初彫刻を専攻するが、のち日本画科に転科。大学在学中の52年第8回日展に「杉」を初出品して入選、以後日展に出品を続ける。53年堂本印象の主宰する画塾東丘社に入塾。54年金沢市立美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)を修了、活動の拠点を京都に移す。59年第2回新日展で「礁」、68年第11回新日展で「火口原」が特選を得、69年改組第1回日展では「阿蘇」が菊華賞を受賞。78年東丘社を退会し、日本画研究グループ「玄」を結成。80年改組第12回日展で「山里」が会員賞受賞、88年日展評議員となる。日本の自然景を主なモティーフに描き続け、岩肌や樹の様相をうねるような曲線を交えて捉えながら、自然が内蔵する生気の表出につとめた。とくに82年、1994(平成6)年に開催した個展では、杉の生命力をテーマにした屏風を含む作品群を発表している。2000年金沢学院大学美術文化学部日本画教授に就任。01年「経堂への道」で第33回日展文部科学大臣賞を受賞。07年、石川県立美術館で同館へ寄贈した作品を中心に「日本の自然・原風景を描く―郷土が生んだ日本画家 石川義展」が開催されている。

大山忠作

没年月日:2009/02/19

読み:おおやまちゅうさく  日本画家で文化勲章受章者の大山忠作は2月19日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。1922(大正11)年5月5日、福島県安達郡二本松町字下ノ町(現、二本松市根崎)の染物業を営む家に生まれる。小学校卒業後上京、名教中学を経て40年東京美術学校日本画科に入学する。44年学徒出陣のため繰上げ卒業となり航空部隊に配属、南方を転戦し46年台湾から復員した。同年の第31回院展に「三人」が入選、また第2回日展に美校の師小場恒吉を描いた「O先生」が初入選、以後落選を経験することなく日展に入選を続ける。47年高山辰雄らの一采社に参加、同年より山口蓬春に師事する。またこの年、法隆寺金堂壁画模写に橋本明治班の一員として参加し、第九号壁を担当。49年第5回日展に「群童」、50年同第6回に「室内」等人物画を出品し、52年第8回日展では「池畔に立つ」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。翌年の第9回日展に「浜の男」を無鑑査出品し、55年第11回日展で「海浜」が再び特選・白寿賞を受賞する。61年日展会員となる。67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事、第十一号壁の普賢菩薩を担当。68年第11回日展の「岡潔先生像」で文部大臣賞を受賞。川越喜多院の五百羅漢に取材し、72年の第4回改組日展に出品した「五百羅漢」により73年、日本芸術院賞を受ける。70年日展評議員、75年理事となる。78年より2年をかけて成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面を制作、84年には同襖絵「杉・松・竹」22面を完成させる。人物画をはじめとして、花鳥、風景等さまざまな主題を手がけながら、抑制の効いた色調と堅牢な古典的形態による画風を展開した。86年日本芸術院会員となる。87年福島県立美術館で「大山忠作展・画業40年の歩み」開催。1992(平成4)年日展理事長に就任。同年成田山新勝寺聖徳太子堂壁画6面を完成。99年文化功労者に選ばれる。2005年日展会長に就任。06年には文化勲章を受章。07年に二本松市へ自作169点を寄贈、没後の09年10月、二本松市市民交流センター内にそれらの作品を中心に収蔵展示する大山忠作美術館が開館した。画集に『大山忠作画集』(講談社、1982年)、『大山忠作画集』(朝日新聞社、1994年)がある。

片岡球子

没年月日:2008/01/16

読み:かたおかたまこ  日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

髙山辰雄

没年月日:2007/09/14

読み:たかやまたつお  日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

岡本彌壽子

没年月日:2007/06/25

読み:おかもとやすこ  日本画家で日本美術院同人の岡本彌壽子は6月25日午前4時30分、老衰のため死去した。享年98。1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。

白鳥映雪

没年月日:2007/06/15

読み:しらとりえいせつ  日本画家で日本芸術院会員の白鳥映雪は6月15日、心筋梗塞のため長野県小諸市の病院で死去した。享年95。  1912(明治45)年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現、小諸市)の農家に生まれる。本名九寿男。1932(昭和7)年周囲の反対を押し切って上京し、遠縁にあたる水彩画家丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門、美人画を学ぶ。夜間は川端画学校、本郷洋画研究所でデッサンを学んだ。深水や山川秀峰らが結成した日本画院展に39年「母と子」が入選したのち、40年から41年にかけて報知新聞社委嘱特派員を兼ね従軍画家として中国に渡る。43年第6回新文展に「生家」が初入選。戦後47年より日展に出品。50年第6回「立秋」が特選・白寿賞となり、57年第13回「ボンゴ」が再び特選・白寿賞を受賞する。その後も美人画や人物群像を中心に制作しながら、仏像と美人画を組み合わせた72年第4回改組日展「掌」、74年同第6回「追想(琉球ようどれ廟)」などを制作。86年には名古屋の尼僧堂に参禅して取材した「寂照」を第18回展に出品して内閣総理大臣賞を受賞。この間65年日展会員、82年評議員となる。女性の人物画を中心に清新な作品を数多く残した。また51年新橋演舞場での日本舞踊「大仏開眼」をはじめ、5年間にわたり舞台考証を手がけ、66年林芙美子の小説挿絵(『現代日本文学館』30 文芸春秋)を描いた。85年佐久市立近代美術館で「日本画の歩み50年―白鳥映雪展」が開催。晩年はとくに能楽をテーマにした作品を発表し、1994(平成6)年には前年制作の「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。97年に日本芸術院会員となる。2003年には脳梗塞で倒れ右手が使えなくなるものの、左手で再起をはかり日展への出品を続けた。故郷の長野県小諸市には、代表作を展示する市立小諸高原美術館・白鳥映雪館がある。

岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19

読み:いわかべふじお  日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

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