本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





島野重之

没年月日:1966/12/22

光風会会員、日展評議員の洋画家島野重之は、12月22日午後0時5分、肝硬変のため東京・新宿区の西北診療所で逝去した。享年64才。島野重之は、明治35年(1902)4月10日、滋賀県彦根市に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、同4年同校研究科を修了、昭和2年第8回帝展に「偶得信」が初入選、以降、帝展、光風会展に出品し、昭和3年光風会賞を受賞し、同6年光風会々員に推挙され、同12年第1回文展に「水辺初夏」を出品して特選となり、昭和洋画奨励賞をうけ、同14年文展無鑑査となった。戦後は日展の出品依嘱者となり、昭和28年第9回日展に審査員をつとめ、昭和33年社団法人日展の発足のとき評議員に就任した。作品略年譜偶得信(昭和2年8回帝展)、少女と小鳥(9回同展)、中田氏肖像・田端駅附近(昭和4年16回光風会展)、黄い服(11回帝展)、静物(18回光風会展)、アトリエにて(14回帝展)、座像(21回光風会展)、水辺初夏(第1回新文展特選)、室内(2回文展)、お茶時(3回文展)、草の上(5回文展)、水郷(30回光風会展)、早春(昭和21年第1回日展)、婦人と猫(5回日展)、T子の像(39回光風会展)、木蔭(9回日展)、夏(13回日展)、うすれ日(49回光風会展、文部省所蔵)、雪の山路(50回光風会展)、雪国(51回光風会展)。

斎藤五百枝

没年月日:1966/11/06

挿絵画家として知られる斎藤五百枝は、脳出血のため東京都中野区の自宅で死去した。享年84才。明治14年12月21日千葉県上総国長生郡に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中白馬会展10周年記念展に「夕陽」が入選し、卒業後は岡田三郎助に師事した。大正、昭和初期へかけては新聞、雑誌の挿絵家として活躍し、新聞の美術記者、日活映画の美術部主任等の職に従事した。晩年は染色の研究をしていた。

高畠華宵

没年月日:1966/08/31

大正から昭和にかけ挿絵界で一世を風びした高畠華宵は8月31日東大病院で心筋こうそくのため死去した。享年78才。本名幸吉。明治21年4月6日愛媛県宇和島市に生れ、15才の時挿絵画家を志して大阪に出、花鳥画家平直水に就いた。翌36年京都市立美術工芸学校日本画科へ入ったが3年で中退し、同39年洋画家を志し浅井忠の関西美術院に入った。翌年洋画研究をのぞみ上京したが、事情あって就学せず42年寺崎広業の門に入った。ここも暫時にして辞め、以後独習で挿絵を続けた。明治44年中将湯の商標である中将姫を書いて一躍その名を知られるに至った。その後大正に入ってから講談社出版雑誌(講談倶楽部、面白倶楽部、少年倶楽部他)単行本、新聞挿画等広汎な出版物の挿絵、装画に筆をふるった。しかし戦時に入ってからは、感傷的雰囲気をもつその画風から第1線を退き、戦後は児童向出版物などに執筆していた。又昭和34年には渡米して個展を開いたり、日本画の指導にあたったりしたが、晩年は比較的恵まれず、昭和39年明石愛老園に身を寄せ不遇の日を送った。このような境遇を伝えきいた往年のフアン達が集り40年10月「華宵会」(会長鹿野琢見 文京区弥生2-4-2)が発足した。この会が中心となって昭和41年1月4日より上野松坂屋において華宵名作回顧展が開かれた。開会前日心筋梗そくで倒れ、4月全快状態に回復したが、7月再び脳血せんで倒れ、31日逝去したものである。同日勲五等双光旭日章に叙せられ、8月3日出版美術家連盟(会長-岩田専太郎)各出版関係者により鳥居坂教会で「さし絵葬」が営まれた。11月10日より明石天文科学館に於て遺作展「華宵をしのぶ名作展」が開催された。

原勝郎

没年月日:1966/07/16

新樹会会員の洋画家原勝郎は、7月16日午後1時15分、じん臓ガンのため東京都港区の自宅で逝去した。享年77才。原勝郎は、明治22年(1889)6月4日、千葉県山武郡に生れ、葵橋洋画研究所に学び、大正7年(1918)に挿絵画家としてハワイに行き、1920年アメリカへ渡る。1922年フランスのパリへ移り、1924年以後、39年まで毎年サロン・ドートンヌに出品した。1925年サロン・デ・ザンデパンダンに出品、1927年サロン・デ・チュイレリーに出品、1935年にはアントワープのギャラリー・ロワイヤルにおいて個展を開催する。1937年パリのロージェ画廊で個展、1939年12月、第二次世界大戦のために帰国した。昭和17年日動画廊において滞欧作品による個展を開催し、戦後は新樹会に招待され、昭和24年第3回展から会員として参加、以後毎年出品、昭和25年には北荘画廊において木内克と二人展を開催した。昭和41年第20回新樹会展に絶筆を含め遺作9点が陳列された。作品略年譜麦の秋、森A・B、静物A・B、樹、風景、庭、筍(昭和25年第4回新樹会展)冬の畑、リウ・アルマンモアザン、丘と畑、風景、静物A・B(5回新樹会展)干物、村の入口、葱、海老、田と畑(6回新樹会展)裏の畑、樹、リンゴ畑、静物(7回新樹会展)森、新緑、静物、風景、静物(8回新樹会展)風景A・B、自然公園(9回新樹会展)樹、自然公園、椅子と花、風景A・B(10回新樹会展)裏道、裏山、森、風景、静物A・B(11回新樹会展)冬、村の入口、森(12回新樹会展)裏山、山ぞいの畑、樹、風景、静物(13回新樹会展)樹、丘1・2(14回新樹会展)丘、風景A・B(17回新樹会展)樹、静物A(19回新樹会展)静物(絶筆)、ケイ・フラマン、リュ・モンパルナッス、風景1・2・3、樹1・2・3(20回新樹会展)

栗原信

没年月日:1966/07/04

二紀会委員の洋画家栗原信(本名信賢)は、7月4日午後9時56分、東京都中野区の小原病院で脳血栓のため死亡した。享年72才。栗原信は、戦前二科会会員となり、戦争中は陸軍報道班員として従軍、戦後は二紀会創立に参画し、また新潟大学教授として後進を指導、日本美術家連盟理事としても活躍した。著書に「六人の報道小隊」(昭和18年)がある。年譜明治27年(1894) 3月24日、茨城県東茨城郡に生れる。大正元年 茨城師範学校を卒業。大正5年 二科展に「木」初入選。大正6年 二科展に「竹藪」「夕暮」入選。大正7年 東京・本郷区・小学校の図画専科訓導となる。二科展に落選し、小説家を志して井伏鱒二、和田伝らと同人雑誌「世紀」を発刊。昭和元年 再び画業に入り、二科展に「伊豆の山」「夏の庭」入選。昭和2年 太平洋画会展に「曇り日」「夏」を出品、二科展に「佐渡の浦路」「小木浜の岩」入選。昭和3年 5月、小学校訓導を辞し、フランスへ留学、アカデミー・グランショミェールに籍をおく。昭和6年 6月帰国、二科展に「トレド遠望」「冬のノートルダム寺院」など10点を特別出品し、昭和洋画奨励賞を受賞。昭和7年 二科展に「春日野の新緑」他2点を出品、会友に推される。昭和8年 二科展に「四月の妙高山」他1点出品、台湾に旅行。昭和9年 満州に旅行。このあと、昭和20年敗戦にいたるまでに20回におよぶ満州・中国に取材旅行を行なう。昭和10年 二科展に「夏の喇嘛塔」他2点を出品。昭和11年 二科展に「居庸関」他2点を出品、会員に推挙される。昭和12年 二科展「北平」「妙高の春」出品。昭和13年 中支・徐州戦に従軍、二科展に「小休止15分(徐州西方追撃戦)」を出品。昭和14年 陸軍美術協会に参加、二科展に「大陸(黄色い瓦)」「大陸(城外)」を出品。昭和15年 二科展に「蒙古の旅」他2点を出品。昭和16年 二科展に「酪農部落(北満)」他1点を出品、陸軍報道班員としてマレー半島作戦に従軍。昭和17年 二科展に「マレー娘」他11点を出品。昭和18年 二科展に「永豊鎮」を出品。ビルマ作戦に従軍。昭和19年 南支・長沙作戦に従軍。二科会解散。昭和20年 満州・新京において敗戦をむかえる。昭和22年 5月旧二科会会員の正宗得三郎、宮本三郎らと第二紀会を創設、9月第1回展を都美術館において開催し、「夏」「野ばら」を出品。第23年 二紀展に「平野早春」他2点出品。昭和24年 二紀展に「白馬高原」他1点出品。昭和25年 二紀展に「河原の部落」「原始林」を出品。新潟大学芸能学科洋画科教授に就任。昭和26年 二紀展に「雪の日の白樺林」「都会の午後」を出品。昭和27年 二紀展「釣船」他2点出品。昭和28年 二紀展「山の晩秋」他2点出品。昭和29年 二紀展「常盤橋風景」他2点出品。昭和30年 二紀展「北越海岸」「秋(東大構内)」。昭和31年 二紀展「山上湖」「大阪」。昭和32年 二紀展「山門」出品。サンパウロ・ビエンナーレ展に日本委員として参加。昭和33年 中南米諸国を写生旅行する。昭和34年 二紀展に「コーヒー園(ブラジル)」他2点を出品。昭和36~37年 ヨーロッパに写生旅行。昭和38年 二紀展に「ラパンアジール酒場」他2点を出品。昭和39年 ヨーロッパ、中近東に写生旅行。二紀展に「ソレント」「マロニエ林」出品。昭和40年 インド旅行。二紀展に「箱根」他1点出品。12月ギリシャ、アフリカ、東ヨーロッパ旅行。昭和41年 5月帰国。6月24日より新宿・ギャラリー・アルカンシェルで水彩画による個展を開催、同月29日個展会場において脳血栓のためたおれる。7月4日死去。6日、二紀会葬として東京中野の宝仙寺で葬儀が営まれた。

川口軌外

没年月日:1966/06/05

洋画家の川口軌外は、6月5日午前0時5分、脳軟化症のために死去した。享年73才。本名を孫太郎。川口は、長い滞欧生活のあいだにアンドレ・ロートやフェルナン・レジェに学んで、帰国後は二科展、独立展、戦後は国画会展などに作品を発表、幻想的で構成的な作風を展開、しばしば国際展にも出品した。年譜明治25年(1892) 11月10日、和歌山県有田郡に生れる。明治36年 小学校卒業、吉備実業学校に入学。明治38年 吉備実業学校中退。明治39年 和歌山県師範学校に入学。この頃、洋画グループに参加する。明治44年 師範学校を中退、洋画家を志して上京、太平洋画会研究所に入所して中村不折に師事。大正3年 日本美術院洋画部へ移り、小杉未醒に師事。大正5年 結婚。安井曽太郎滞欧作品に感銘する。大正8年 フランスに留学、イタリア、スペインなどを旅行する。大正11年 帰国。10ケ月滞日。「少女とミモザの花」「トアレット」「静物」「風景1、2」を二科展に出品。大正12年 再渡仏する。このころ、佐伯祐三、前田寛治、里見勝蔵らと交遊する。大正15年 アカデミー・ロートに学ぶ。昭和2年 フェルナン・レジェに師事し、作風はしだいに構成的になる。昭和3年 フランスより15回二科展に「ボヘミヤン」「静物」を出品。昭和4年 帰国。二科展に「車のある風景」「寺院」「坐せる女」「キャフェにて」など10点を特別出品し、二科賞を受賞する。1930年協会に加入する。昭和5年 二科展に「月空」「静物」「ビワの実」を出品、二科会々友となる。11月、二科会を脱会して、独立美術協会創設に参画して会員となる。昭和6年 第1回独立展に「詩思」「智」「マンドリン」「写像」など10点を出品。昭和7年 第2回独立展に「スブニール」「地維」「白い花」など7点を出品。昭和8年 第3回独立展に「柘榴」「牡丹花園」「月夜の雪景」「花束」を出品。昭和9年 第4回独立展に「少女と貝殻」「蓮」「瀞峡」を出品。昭和10年 第5回独立展に「鸚鵡と少女」「貝殻」など4点を出品。昭和11年 第6回独立展に「白蓮」「浴女」「貝殻」を出品。昭和12年 第7回独立展に「エスキースB」「偶感A」など4点を出品。昭和13年 第8回独立展に「群鳥」「静物」など4点を出品。昭和16年 第11回独立展に「漁夫A」「ダリヤ」など4点を出品。昭和17年 第12回独立展に「花と果物」「桃」など4点を出品。昭和18年 独立美術協会会員を辞す。昭和20年 和歌山県の郷里に疎開し、専ら野菜、果実などの静物画を描く。昭和22年 国画会会員にむかえられ、21回国画会展に「ビワ」「桃」など5点を出品。昭和23年 第22回国画会に「花」「女」を出品。昭和24年 第23回国画会に「菊と婦人」「花」を出品。昭和25年 和歌山より上京する。第24回国展に「果物と花」「室内」を出品。昭和26年 第25回国展に「月」「人」を出品。昭和27年 第1回日本国際美術展に「鳥の情態」「花と裸婦」「静物」を出品。国展に「油送船」他2点を出品。昭和28年 第2回日本国際美術展に「日傘と人」「作品」を出品。サンパウロ国際ビエンナーレ展、ニューヨーク・アブストラクト・アーチスト展に出品。27回国展に「製油所と船」「異影」「群像」を出品。昭和29年 第28回国展に「円」「港の朝」他1点。第1回現代日本美術展に「円」「製油所の港」を出品。昭和30年 第29回国展に「作品」A・B・C、第3回日本国際美術展に「水浴する人たち」「夏の浜にて」を出品。昭和31年 第30回国展に「群像」「構図」、第2回現代日本美術展に「集団」「人体」を出品。昭和32年 第31回国展に「人体」「港」、第4回日本国際美術展に「人体」を出品。昭和33年 第32回国展に「鳥と樹」「作品」、第3回現代日本美術展に「樹間と鳥」を出品。神奈川県立近代美術館において開催される。昭和34年 第5回日本国際美術展に「三つのポーズ」出品。昭和35年 第4回現代日本美術展に「水浴の人たち」「作品」(水浴の人)を出品。この頃、健康を害する。昭和36年 第6回日本国際美術展に「作品」を出品。昭和37年 第5回現代日本美術展に「群像」「顔のある木」を出品。脳軟化症におかされ半身不随となる。昭和38年 第7回日本国際美術展に「鳥」を出品。国画会々員を辞す。昭和39年 第6回現代日本美術展に「森の中」「人」を出品。昭和41年 6月5日死去。

小谷津任牛

没年月日:1966/05/30

日本美術院同人の小谷津任牛は、5月30日胃潰瘍のため、死去した。本名三郎。明治34年9月4日東京四谷に生れた。小学校卒業後日本郵船に勤め、大倉商業夜学専修科に学んで、卒業後同社社員となった。勤務のかたわら日本大学法文科に学んだが、後転じて川端画学校日本画部に入った。在学中院展に初入選し、小林古径に師事した。昼間会社に勤務し、夜間制作の十数年を送り、昭和15年日本郵船を退職し画業に専念した。この間昭和5年日本美術院院友、同18年無鑑査、同21年同人になった。作品略年譜昭和2年 第14回院展「薄暮」昭和3年 第15回院展「天主教女人」昭和5年 第17回院展「緩歌漫舞」院友となる。昭和6年 第18回院展「少女遊戯図」昭和7年 第19回院展「虫愛づる姫君」「蝶愛づる姫君」昭和8年 第20回院展「六賢台」昭和9年 第21回院展「婦女能楽図」昭和10年 第22回院展「犬」昭和11年 第24回院展「織女」昭和12年 第23回院展「蓮の花開く」昭和13年 第25回院展「名笛初調」昭和15年 第27回院展「秋の客」昭和17年 第29回院展「数珠掛桜」(日本美術院賞)昭和18年 第30回院展「礼楽図」(無鑑査)昭和21年 第31回院展「うたげ」(日本美術院賞)同人となる昭和22年 第32回院展「手毬桜」昭和23年 第33回院展「花蔭」昭和24年 第34回院展「鏡」昭和25年 第35回院展「舞踏」昭和26年 第36回院展「朝」「夕」昭和27年 第38回院展「西施を真似る女」昭和29年 第39回院展「朝霧」昭和30年 第40回院展「江島縁起」昭和31年 第41回院展「月夜」昭和32年 第42回院展「夜の衣をかえし寝る小町」昭和33年 第43回院展「ビグマリオン」昭和34年 第44回院展「なぎさ」昭和35年 第45回院展「青いターバン」昭和36年 第46回院展「燭」昭和37年 第47回院展「白河の花の宴」昭和38年 第48回院展「俊成九十の賀」昭和39年 第49回院展「山のいで湯」昭和40年 第50回院展「円」 以上

河村俊子

没年月日:1966/05/11

洋画家、立軌会・女流版画会・国際アートクラブ会員河村俊子は、2年間の欧米・メキシコ旅行を予定し、海外渡航の手続もすませ、4月初日の出発間ぎわ健康診断にて胆石手術を余儀なくされ、その手術がもとで5月11日午後3時44分、普通なら健康体を保ちながら惜しくも急逝した。享年56才。明治43年2月28日東京に生まれる。聖心女子学院卒業。昭和元年から小林万吾に油絵の指導をうけ、更に14年熊岡美彦の絵画研究所にも学んだ。昭和15年第8回東光会展に初入選し、16年17年と続いて受賞し、18年第11回東光会展で会友に推され、同年第6回文展にも入選した。戦後、昭和21年第2回日展に入選以来、25年第6回日展まで入選を続けた。その間、22年には東光会会員となり、また同年第1回女流画家展、第1回美術団体連合展にも参加出品した。ところで26年から画風の変化により日展出品を断念し、27年には東光会をも退会した。以後専ら個展発表を心がけ、28年・30年・32年・35年と意欲的な個展を開くとともに、30年には版画にも興味をもち、日本板画院に入会した。31年には立軌会の会員に迎えられ、国際アートクラブにも入会、現在に至った。36年には女流版画会にも入会、会員となった。41年1月夢土画廊での第5回目の個展が最後となった。

小穴隆一

没年月日:1966/04/24

春陽会会員の洋画家小穴隆一は、4月24日午前8時、急性肺炎のため死去した。享年72才。両親は長野県出身で、小穴は父の任地の長崎県において、明治27年11月28日に生れた。幼稚園、小学校を北海道函館で終え、開成中学校にすすんだが、洋画家を志して中退し、太平洋画会研究所に学び、中村不折に師事した。はじめ太平洋画会展、ついで二科会展に出品、大正11年第9回二科会展には、芥川竜之介をモデルにした「白衣」を出陳した。その後、小杉放庵を敬慕して春陽会展に出品し、大正15年無鑑査に推薦され、また昭和2年には春陽会所属の若い作家のグループ麗人社に第3回展から参加した。昭和9年春陽会会員に推挙され、昭和32年第34回展まで毎年出品したが、その頃健康を害し長い闘病生活に入っていた。随筆もよくし、著書に「くじらのお詣り」「二つの絵」「白いたんぽぽ」「芥川竜之介遺墨集」などがあり、俳号を一游亭と称した。また挿絵においては都新聞連載の坪田譲治作「子供の四季」「竜彦虎彦」などがある。作品略年譜夏の日(大正9年二科7回展)、一游亭(二科8回展)、白衣・花(二科9回展)、枇杷(二科10回展)、苺(春陽会3回展)、柘榴・風景(春陽会4回展)、裸婦・風景(春陽会5回展)、柘榴・秋田音頭・盆踊・いちご・桜の園(同7回展)、静物・花・撞球・裸婦・花(同9回展)、乾酪とからし・手鏡・鏡・壁鏡(同12回展)、トラともでる・京都小品・舞妓・静物・他(同14回展)、勝負(同20回展)、椿・静物(同27回展)、裸婦(同30回展)、アマリリス・カトレア(同32回展)、まゆみちやん・静物(同33回展)、静物(同34回展)、画室に於けるT夫人(同35回展)、向日葵・椿(同36回展)。

篠原新三

没年月日:1966/04/13

日本水彩画会名誉会員篠原新三は、4月13日脳いっ血のため長野市の自宅で死去した。享年77才。葬儀は、日本水彩画会、北信美術会合同葬をもって行なわれた。明治42年大下藤次郎、丸山晩霞の日本水彩画会研究所に入り、大正2年石井柏亭、白滝幾之助らと同研究所を改制拡張し、新たな出発をした。同会で度々受賞し、昭和22年には日展委員をつとめ、又北信美術会顧問であった。

山下新太郎

没年月日:1966/04/11

一水会委員、日展顧問の山下新太郎は、4月11日老衰のため、港区芝の自宅で死去した。享年84才。明治14年東京根岸、御隠殿前の表具師の家に生れ、東京美術学校で黒田清輝の指導をうけた。後フランスに留学して、ラファエル・コラン、フェルナンド・コルモンに師事し、滞欧中ベラスケス、ルノアールに傾倒してその感化をうけた。初期文展で受賞し、大正3年石井柏亭らと二科会を創立し、その幹部として活躍した。又絵画の修理についての関心も深く、第一次、第二次渡仏の際在仏東洋画の修復にあたった。その功績により昭和7年仏国政府よりレジョン・ドヌール勲章を受けた。昭和10年二科会員を脱退し、帝国美術院会員となり、同12年一水会々員となった。尚この年帝国美術院は勅令改正により帝国芸術院会員となった。同30年文化功労章を受領。著書に「油絵の科学」(昭和23年好学社)がある。年譜明治14年 8月29日東京都荒川区山下七兵衛(表具師)の長男として生る。明治18年 幼時より画を好み、特に天神像を好むことより、父と昵懇であった狩野芳崖に天神図の小品を依頼し手本とする。明治25年 この頃父の友人である新岡久頼(号旭宇)に書を習う。明治32年 西田長左衛門(義兄)に就いて英語、漢文を習う。明治34年 藤島武二に師事し、東京美術学校西洋画科選科に入学。明治37年 同校卒業。東京外国語学校仏蘭西語撰科に学び、後暁星校に転ず。明治38年 4月、米国経由渡仏。はじめコラン塾に学び、次いで国立巴里美術学校に入学。フェルナンド・コルモンの指導をうけた。明治40年 5月、スペイン旅行、(プラド美術館でベラスケス作「ブレダ開城」他の模写に従事)。グラナダ、セヴィリアをみて暮に巴里へ帰る。明治41年 「窓際」巴里サロンに出品。明治42年 「読書」「読書の後」巴里サロンに出品。明治42年 夏の終り頃健康を害し、スイス経由イタリアに旅行す。(ミラノ、ベニス、フローレンス、ナポリ等)11月マントン、マルセーユを経て、巴里に帰る。この年「靴の女」制作。明治43年 6月、帰国(スエズ経由)。7月山崎誉花と結婚。第4回文展「読書の後」(三等賞)「読書」「靴の女」。明治44年 第5回文展「窓際」(三等賞)。明治45年 長女出生。大正3年 長男出生。石井柏亭らと二科会創立。湯浅一郎と朝鮮旅行。(朝鮮鉄道局依頼により京城鉄道局経営朝鮮ホテルの壁画を描く)。大正4年 再度渡鮮壁画完成す。9月、第2回二科展(日本橋・三越)「端午」(長男登10ケ月の像)「供物」(誉花像)。大正6年 奈良に旅行。大正7年 三光町新居落成。昭和4年 16回二科展「鹿子紋」他4点。昭和6年 5月、朝鮮美術展審査員となり、小林万吾と渡鮮。9月23日神戸より渡仏。昭和7年 6月21日巴里発、7月24日神戸着帰朝。年末仏国政府よりシュバリエ・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を授与さる。第19回二科展「春近きセーヌ河」他35点(滞欧作特別陳列)。昭和9年 第21回二科展「神苑」、「薔薇」「海棠」。昭和10年 二科会を脱退。帝国美術院会員となる。昭和12年 同志と一水会を創立。第1回一水会展「神苑朝」「姉妹」。帝国芸術院会員。昭和13年 第2回一水会展「少女林泉」「少女」「中禅寺湖朝」「初夏」。昭和14年 第3回一水会展「北窗」「南窗」「奈良公園藤」。昭和15年 奉祝展「白樺の若木」。昭和21年 第1回日展「露台」。昭和22年 第9回一水会展「群青石の頸飾」。昭和30年 文化功労章受領。昭和36年 日展顧問。昭和41年 4月11日逝去。

川端竜子

没年月日:1966/04/10

青竜社主宰川端竜子は、4月10日老衰のため東京都大田区の自宅で死去した。享年80才。本名昇太郎。明治18年和歌山県に生れ、東京府立第3中学中退後白馬会洋画研究所に入り、後太平洋画会研究所に移って洋画を学んだ。挿絵画家としてはやくその名を知られたが、大正2年渡米し帰国後无声会に加わった。以後日本画に転じ、大正4年同志と珊瑚会をおこし、また院展に奇抜な作品を発表して第3回院展「霊泉由来」で樗牛賞をうけ、翌年同人に推された。昭和4年会場芸術を提唱して青竜社を創立し、以来同社を主宰すると共に、毎回多くの大作を発表した。昭和10年帝国美術院会員となったが之を辞退し、同12年の帝国芸術院会員も辞退した。昭和5年「魚紋」で朝日賞を受け、同34年文化勲章を受けた。又37年自邸内に社団法人竜子記念館を建設し、自作を陳列して一般に公開した。大胆な線を駆使する独特のバロック的画風にその特色があり、没するまで闊達な筆致は衰えをみせなかった。略年譜明治18年 6月6日、和歌山県和歌山市に生る、本名・昇太郎。家業・呉服商。明治32年 日本橋城東小学校卒、府立第一中学校入学、同第三中学編入。明治37年 府立第三中学を中退、白馬会洋画研究所に入る。明治39年 白馬会研究所より太平洋研究所に移る。林夏子と結婚。北沢楽天主宰「東京パック」に入社。明治40年 「東京パック」を退社、「東京ハッピー」「少年パック」を編集。東京勧業博覧会油絵「秋色」第1回文展「隣の人」(油絵)、国民新聞社に入社。「少女の友」挿絵を担当。明治41年 国民新聞編輯局勤務、二回文展「とこしへにさらば」(油絵)。明治44年 「漫画・東京日記」を新潮社より刊行。大正2年 国民新聞社員の儘米国遊学、七月帰朝。国民新聞社退社、日本画団体「无声会」会員となる。大正3年 洋画より日本画に転向、大正博覧会「観光客」(二曲半双)。大正4年 再興第2回院展「狐の径」、同志と「珊瑚会」を組織。大正5年 第3回院展「霊泉由来」樗牛賞を受く。日本美術院院友となる。大正6年 第4回院展「神戦の巻」日本美術院同人に推挙さる。大正7年 第5回院展「慈悲光礼讃」。第4回珊瑚会展「大森八景」(二曲半双)。大正8年 第6回院展「土」及「安息」。大正9年 第7回院展「大安日」「花と鉋屑」「草露行」。第6回珊瑚会展「秋光揺溶図」「猿酒」。第一次作品展を高島屋に開催。大正10年 第8回院展「火生」、日本美術院米国巡回展「野火の巻」「霜の朝」。大正11年 第9回院展「つのづきの巻」「庭上印象」。第8回珊瑚会「牛」「鶏舎」「庭前秋色」。大正12年 第10回院展「鶏の舞踊」「盗心」「賭博者」。小川芋銭との十種展「冬沈潜鱗図」外十点。大正13年 第11回院展「竜安泉石」、中央美術社より「画室の解放」を刊行。大正14年 第12回院展「印度更紗」「佳人好在」。院展試作展「網」紙本襖絵「竹墻四季」制作。昭和元年 第13回院展行者道三部作の一「使徒所行讃」、聖徳太子展「雨を聴く」「水涯遊禽図」(六曲半双)制作。昭和2年 第14回院展「一天護持」(行者道三部作の二)「湯治」院展試作展「不動明王」。昭和3年 第15回院展「神変大菩薩」(行者道三部作の三)。日本美術院同人を辞退、三越主催「竜子作品展」開催。昭和4年 6月28日「青竜社」樹立宣言、第1回青竜展を上野公園府美術館に開催。「鳴門」「請雨曼荼羅」出品、宮中献納作品「南山三白図」(六曲一双)を制作。昭和5年 第2回青竜展「魚紋」「草炎」、「魚紋」に対し朝日新聞社より「朝日賞」を受く。昭和6年 第3回青竜展「真珠」「南飛図」。第1回個展(三越)「月明」外20余点。昭和7年 第4回青竜展「新樹の曲」「立秋」「後圃蒐菜」。第2回個展(三越)に「皐月」他二曲六双を制作。昭和8年 第5回青竜展「竜巻」(太平洋連作の一)「山葡萄」。第1回春の青竜展「春雪譜」「紫雲英」、第3回個展「日光に題す」を三越に開催。昭和9年 第6回青竜展「波切不動」(太平洋連作の二)「白馬苑」。第2回春の青竜展「修善寺風景」「愛染」。第1回大阪個展「花鳥十二ケ月」他八点、九月南洋委任統治領の島々を視察。昭和10年 第7回青竜展「椰子の篝火」(太平洋連作の三)「炎庭想雪図」。第3回春の青竜展「鶴鼎図」「浪戯」、第5回個展「南洋を描く」15点、第2回大阪個展「松鯉図」他10点。帝国美術院官制新たに公布され会員に任命さる。昭和11年 第8回青竜展「海洋を制するもの」(太平洋連作の四)「雷」。第1回新帝展「茸狩図」。第4回春の青竜展「花垣」。東京個展「花鳥に彩す」。大阪個展「双鯉」他18点。帝国美術院会員を辞退。昭和12年 第9回青竜展「朝陽来」(「大陸策」連作の一)「睡蓮」。第5回春の青竜展「十国峠俯観」「十国峠仰観」、東京個展「長城を征く」。大阪個展「熊野路」他15点、「潮騒」(四曲一双)制作、帝国芸術院会員に任命され、ただちに之を辞退。昭和13年 宮中御用命の「松鯉図」大宮御所御用命の「鯉巴図」を制作。第10回青竜展「源義経」(大陸策連作の二)「大同石窟」「草原行」(草描8点)。第6回春の青竜展に「戦勝の春」、東京個展「征馬」他12点、三越主催五作家展に「竜門」「鏑矢」、大阪個展開催、五月北支に赴く。昭和14年 第11回青竜展「香炉峰」(大陸策連作の三)「五鱗図」「中支点描」(草描)。第7回春の青竜展「長寿花」「銃後の春」、東京個展「南船行」と題す。大阪個展「墨心彩裳」他11点。五月中支に赴く。昭和15年 第12回青竜展「花摘雲」(大陸策連作の四)「花下行人」(この回から会場日本橋三越になる)。第8回春の青竜展「献華」「前庭訪春図」。東京個展「葦・金剛」と題す。五月、満ソ国境、北支に赴く、新京特別市の懇請に依り、新設の新京美術院長就任。昭和16年 第13回青竜展「曲水図」(六曲一双)「伊豆の国」(「国に寄する」連作の一)、第9回春の青竜展「春縁二題」(「愛犬図」「愛禽図」)。青竜社社人展として青々会展を設立、第1回を三越に開催「黒潮」「春厩」「紅葉の渡」を、聖戦美術展に「八達嶺頂上攻撃図」出品。大阪個展に「紅唇図」他12点。情報局、大政翼賛会後援にて「太平洋」「大陸策」の全作を高島屋に展示、4月、新京美術院東京研究所を開設、留日研究生の指導に当る。昭和17年 第14回青竜展「国亡ぶ」(南方篇連作の一)「大和の国」(「国に寄する」連作の二)(草描)「南島草描」、第10回春の青竜展「聖雪」「極楽鳥」。第2回青々会展「菊花節」「風神雷神」「稲妻」。大阪個展「薔薇十二題」南方戦線に従軍、聖戦美術展「荊棘に挑む」。昭和18年 第15回青竜展「真如親王」(南方篇連作の二)「越後」(「国に寄する」連作の三)草描「仏印草描」。第11回春の青竜展「牡丹獅子」「征空」。第3回青々会展「宵鯉図」「濁り江」「飛躍」。大阪個展に「花客十二題」。昭和19年 第16回青竜展「水雷神」(南方篇連作の三)「怒る富士」(駿河「国に寄する」連作の四)、草描「盛夏草描」。第12回春の青竜展「編隊」「軍荼利明王」「春の池」、第4回青々会展「断」「春鶏図」「昭和19年秋景」。大阪個展「鯉魚十二ケ月」出品、7月妻夏子没。昭和20年 第17回青竜展「臥竜」「爆弾散華」草描「奈良の寺々」。第13回春の青竜展に「八ツ橋(六曲一双)「松鯉図」出品。第5回青々会展「牡丹獅子」「寒鱗図」「木鼠」「句境四季」。新京芸術学院院長に就任。昭和21年 第18回青竜展「思潮」「倣赤不動」「句意十二ケ月」(草描)。第14回春の青竜展「富貴盤」「種痘」「想春」。第6回青々会展「魚籃観音」「山百合」「果笑図」。大阪個展牡丹を主題に制作。昭和22年 第19回青竜展「虎の間」「秋縁」「東山十題」(草描)。第15回春の青竜展「春窓図」「梅鶴図」「枝垂梅」。第7回青々会「楓溪図」「菊慈童」「千鳥」。大阪個展「近江八景」「太湖風情八趣」制作。憲法記念現代展「水中梅」。俳誌「ホトトギス」同人に推挙される。昭和23年 第20回青竜展「狩人の幻想」「刺青」「湘南点描」(草描)。第16回春の青竜展「花の瀬」「紅薔薇」「玉子」。第8回青々会に「水鶏」「犬山城」「秋暉」。大阪個展に高島屋五十周年記念展として「花王・獣王」「春鱗」(各二曲一双)その他を制作。昭和24年 第21回青竜展「獺祭」「都会を知らぬ子等」「多摩を溯りて」(草描)。第17回春の青竜展「花に潜む形」「暢びる」。第9回青々会「電」「百子図」「秋魚」。大阪個展開催。再建目黒不動本堂天井に「水竜図」を描く。昭和25年 第22回青竜展「沼の饗宴」「金閣炎上」「四国遍路」(草描)。第18回春の青竜展「水巴」「百子図」。第10回青々会「山眠る」「彩果図」「有馬有情」「菊三茎」。大阪大丸のため「向上十題」を制作。大阪個展(高島屋)開催。四国遍路(第一次)に赴く。昭和26年 第23回青竜展「翡翠」「夢」「四国遍路」(二)(草描)。第19回春の青竜展「蘇峰先生像」「山笑図」。大阪個展「吉祥十題」を制作。東京個展(三越)開催「連作奥の細道点描」。四国遍路(第二次)に赴く。講談社より「わが画生活」を刊行。第11回青々会「猿か人か」「柿壺」。昭和27年 第24回青竜展「涼露図」「本尊無事」「四国遍路」(三)(草描)。第20回春の青竜展「春興図」(二曲屏風)「猪苗代湖」「室戸崎」。東京個展(三越)第2回「連作奥の細道点描」。修禅寺宝物館天井に「竜」を描く。兼素洞主催、雪月花展(大観、玉堂、竜子)が「月」を受持ち、「天心」「地心」を出品。大阪個展(高島屋)に「墨客十二ケ月」を制作。6月前年に続いて奥の細道を行脚、第三次四国遍路に赴く。第12回青々会「仙桃図」「秋高し」「双鴨図」。昭和28年 第25回青竜展「風神雷神」「仏誕」「四国遍路」(四)(草描)。第21回春の青竜展「花鳥十二ケ月」(二曲屏風一双)。大阪個展(高島屋)に「水十題」を制作。3月、第2回雪月花展に雪を受持ち「飛雪」「雪峰」を出品。翠芳園の依嘱にて襖絵「千鳥図」(十枚)を制作。奥の細道行脚。11月、東京個展第3回連作「奥の細道点描」。外務省の依嘱にて、在ワシントン日本大使館を飾る作品二点を制作。昭和29年 第26回青竜展「寝釈迦」「夕月」。第四次奥の細道行脚、第五次四国遍路。昭和30年 高島屋にて古稀記念「竜子の歩み」展を催す。第27回青竜展「小鍛冶」「かつぱと毬藻」。第六次四国遍路(満願)句集「古稀」出版。昭和31年 第28回青竜展「渦潮」「酒房キウリ」。春の青竜展「金閣再現」「竜」。「東京愛着」個展開催(三越)。昭和32年 第29回青竜展「御来迎」「ミス・カッパ」。春の青竜展「河童青春」。七月富士登山、「富士と周辺」展(三越)を催す。四国遍路満願。昭和33年 高島屋にて創立30周年記念の「竜子の歩み」展を催す。第30回青竜展「やすらい」「日々日蝕」。ベニス・ビエンナーレ美術展「吾が持仏堂」(7点)。四国33ケ所巡礼、第1回巡礼余恵展(三越)を催す。昭和34年 文化勲章を受く。第31回青竜展「筏流し」「逆説生々流転」。春の青竜展「冬眠」「蟇の紐」。皇太子御成婚記念慶祝「紅白に因む」展(高島屋)を催す。同記念のタバコ「ピース」の図案(双鶴図)制作。第二次西国巡礼、第2回西国巡礼余恵展(三越)を催す。昭和35年 第32回青竜展「はたたく」「天橋図」。春の青竜展に「あやかる」「花下独酌」。第三次西国巡礼(満願)。第3回西国巡礼余恵展(三越)を催す。昭和36年 第33回青竜展「竜子垣」と「坂東33カ寺巡礼」(1)草描。春の青竜展「仮装魚籃観音」「仮装不動明王」。第一次坂東33ケ所巡拝、第1回坂東巡礼余恵展(三越)を催す。昭和37年 喜寿記念の「竜子の歩み展」(第三次)を高島屋にて催す。社団法人竜子記念館竣工。読売新聞社の嘱により大阪四天王寺講堂の壁画(仏教東漸)の揮毫を諾し、この取材のため、1月印度に赴き、釈迦生誕の地を訪い仏跡を巡拝、2月帰京。春の青竜展「白堊と群青」(印度風景)。第34回青竜展「孫悟空」「坂東33カ寺巡礼」(草描)(2)を出品。第二次坂東66ケ所巡拝、第2回坂東巡礼余恵展(三越)を催す。句集「喜寿」出版。昭和38年 春の青竜展「百蟇図」。6月6日社団法人・竜子記念館開館、第一次の作品展示(17点)を行う。第35回青竜展「海鵜」喜寿記念私家版句集を上梓。昭和39年 第36回青竜展「阿修羅の流れ」。春の青竜展「仏誕像」。池上本門寺天井画を描く。昭和40年 第37回青竜展に「伊豆の覇王樹」。春の青竜展「熊野犬」。昭和41年 2月中旬より病床に臥す。4月10日老衰のため死去。享年80才。従三位に叙せらる。和歌山名誉市民に推挙さる。和歌山県立美術館にて、名誉市民受賞記念展を開催。静岡県修善寺修禅寺に埋骨。5月青竜社構成員解散。

大矢黄鶴

没年月日:1966/02/28

日本美術院院友の日本画家大矢黄鶴(本名三郎)は、脳いっ血のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。明治44年2月17日新潟県三島郡に生れ、はじめ児玉希望に師事し、後田中青坪に就いた。戦前は昭和11年文展「初秋」同15年奉祝展「爽秋」等があり、日本画会、日本画院にも出品した。戦後は、昭和21年第1回日展に「雪晴れ」を出品し、以後21年秋より没する前年まで日本美術院に拠った。この間昭和23年には日本美術院院友に推挙され、同25年には「春庭」が奨励賞となり、同32年「卯月の頃」が白寿賞・奨励賞となった。

角野判治郎

没年月日:1966/02/26

光風会会員角野判治郎は、2月26日神戸市の自宅で脳いっ血のため死去した。享年77才。明治22年神戸市に生れ、大正5年東京美術学校を卒業した。昭和5年光風会会員となり、戦後は日展にも出品した。

有岡一郎

没年月日:1966/01/24

立軌会会員の洋画家、有岡一郎は、1月24日午後11時、脳出血のため神奈川県の自宅で死去した。享年65才。有岡一郎は、明治33年(1900)8月26日、京都市で生れ、大阪府堺市で育ち、大正6年大阪市明星商業学校を中途退学して上京、本郷洋画研究所に入所して岡田三郎助に師事した。大正8年、第1回帝展から毎回官展に出品し、昭和9年15回帝展に「玉葱をむく女」を出品して特選となり黒田奨励賞を受賞、翌10年帝展改組のときの第2部会1回展に「T先生像」で文化賞をうけた。また、本郷研究所出身者による春台美術展(昭和5年以降)に創立時から参加した。戦争中には海軍から派遣されてジャワ、バリー島などに行き、昭和12年、大本営の依頼で「ジャワ沖海戦の図」を制作し、大東亜戦争美術展に出品した。戦後は、無所属から一時日展に出品したが、昭和25年立軌会に会員として参加し、第2回展から出品した。作品略年譜自画像(大正8年帝展1回展)屋根と樹(同2回展)安田君の肖像(同3回展)肖像(第4回展)首飾りの女(同6回展)初秋郊外(同7回展)二人の肖像(同8回展)本を持ってる肖像(同9回展)家族(同11回展)赤いチョッキの男(同13回展)樂器をもちて(同14回展)玉葱をむく女(同15回展黒田奨励賞・東京国立近代美術館蔵)T先生の像(第二部会1回展文化賞)マリアーヌと祖父(新文展招待展)港(文展2回展)青い手袋(同3回展)婦人像(二千六百年奉祝展)外誌より得たるモチーフ(同4回展)ジャワ沖海戦(大東亜戦争美術展)赤いチョッキの男(昭和24年5回日展)独唱者・先生・マンジアーレA、B(立軌会4回展)アンサンブル・アシジの聖・先生の肖像他4点(同5回展)食事・或る肖像他3点(同7回展)僧院の歌・祖父と孫たち・祭の日他3点(同8回展)楽隊と児共・習作(同9回展)画家・演劇・スラブの歌(同10回展)子供の歌A・子供たちの歌B・街他4点(同11回展)演劇・歌う聖母・素描(同12回展)歌う・歌う・習作(同13回展)歌う・素描(同14回展)ペトルーシカより・習作など5点(同15回展)

市野亨

没年月日:1966/01/20

青竜社社人市野亨は、肝硬変のため自宅で死去した。享年55才。明治43年愛知県に生れ、はじめ朝見香城の門に入った。名古屋市民美術展、東海美術展、愛知社展等で受賞し、昭和9年第6回青竜社展にはじめて入選した。その後毎回同展に作品を発表し、没する前々年までつづけられた。その間に昭和11年青竜社社子、同13年社友、同17年社人になり、青竜社幹部として中部地方の代表的存在であった。略年譜明治43年5月30日 愛知県海部郡に生る。昭和9年 第6回青竜社展「樹下軍鶏」(六曲屏風片双)初入選。昭和10年 第7回青竜社展「谷間」昭和11年 第9回青竜社展「魚窓」(六曲屏風)(Y氏賞)青竜社社子となる。昭和12年 第10回青竜社展「猛禽舎」(四曲屏風)(奨励賞)昭和13年 第11回青竜社展「檻」青竜社社友となる。昭和16年 第9回春の青竜社展「冬日」(青雲賞)昭和17年 第15回春の青竜社展「初秋」青竜社社人となる。昭和40年 第36回春の青竜社展「暮色」

田之口青晃

没年月日:1965/12/22

日展委嘱日本画家田之口青晃は12月22日心筋こうそくのため、京都市北区の自宅で逝去した。享年68才。明治30年12月兵庫県に生れた。本名甚作。大正13年4月京都市立絵画専門学校に入学、昭和4年に修了、さらに昭和9年まで研究科に学んだ。西村五雲、山口華楊に師事した。京都にあって官民系作家として活動し「鯉」を主題とした作品を得意とした。作品略年譜昭和5年(1930) 第11回帝展「微風」初入選。昭和6年 第12回帝展「雪晨」。昭和7年 第13回帝展「雪解水」(寒鯉)。昭和8年 第14回帝展「水温む」(春鯉)。昭和11年 文展「小春神泉」推奨となり、李王家買上。昭和12年 第1回文展「朝」(兎)。昭和13年 第2回文展「魚暇」(鯉)。昭和15年 紀元2600年奉祝展「月明」。昭和17年 第5回文展「憩」(小牛)無鑑査となる。昭和21年 第2回日展「和憩」。昭和22年 朝日新聞社主催現代展「若鷹」昭和23年 第4回日展「楽苑」(大鶴)。昭和24~25年 病気不出品。昭和27年 第8回日展「ひざかり」。昭和28年 第9回日展「春光」(鯉)。昭和30年 東京日本橋三越で個展開催。昭和33年 第1回「日展」「夕映」招待出品。昭和34年 第2回「日展」「鯉」招待出品。昭和35年 第3回「日展」「禅苑石舟」。昭和36年 第4回「日展」「凍」。昭和38年 第6回「日展」「石仏」。昭和39年 第7回「日展」「夕やけ」。昭和40年 第8回「日展」「精」。

武市政輝

没年月日:1965/11/29

青竜社社人武市政輝は、11月29日胃ガンのため相模原市の自宅で逝去した。明治40年高知県土佐清水市に生れ、東京高等工芸を卒業した。株式会社小西六に勤務し、傍ら絵を学んで、戦後青竜社に出品をつづけた。昭和23年「木蓮」が初入選し、同25年には「竹煮草」を出品して社子となり、38年第35回展では「買はれゆく仔犬」を出品して社人となった。

山川勇一郎

没年月日:1965/11/12

一水会会員・日本山岳画協会会員の洋画家、山川勇一郎は11月12日、チリ国のロ・バルデス・アンデス連峰で遭難、全身凍傷のため死亡した。享年56才。山川勇一郎は明治42年(1909)4月26日、神戸市に生れ、神戸第一中学校を経て昭和9年に東京美術学校西洋画科を卒業、一水会に出品、昭和16年応召、同18年現地除隊となりそのまま中国にとどまって北京を中心にして華北で制作、このころ北京で安井曽太郎に接してこれに師事。昭和21年帰国、同22年一水会会員に推挙され、また安井曽太郎門下生による連袖会に参加した。美校時代から登山をよくし、昭和33年には深田久弥らと「ジュガール・ヒマール探査隊」を組織してヒマラヤ地方に旅行し、昭和34年第21回一水会展に「ランタン・ヒマール」「ドルジェ・ラクパ」を出品して会員優秀賞を受賞した。昭和39年3月単身チリに赴き、4月チリ着。その後、サンチャゴに滞在し、ボリビヤ、ペルー、アルゼンチンなどを旅行、昭和40年11月大阪府岳友クラブ中央アンデス登山隊に同行してサンチャゴを発し、11月9日セントラル・アンデス、ロンバルデス地区のC1キャンプからC2キャンプに向う隊員と同行、中途より作画のため同行隊員と別れ単身キャンプに向ったあと消息をたち3日後の12日、雪原のなかの経40cm深さ23cmのクレバスのなかに遭難しているのをチリ山岳連盟、チリ国空軍ヘリコプターなどの協力によって発見され、救出されたが全身凍傷甚しく、同日17時30分絶命した。昭和41年3月2日~9日、東京新宿・伊勢丹において遺作展が開催された。主要作品 裸婦立像、和服の女(昭和13年2回一水会展)、座像(3回一水会展)、画室の朝食、小憩(9回一水会展)、連雲港(14回一水会展)、造船所(17回一水会展)、ランタン・ヒマール、ドルジェ・ラクパ(21回一水会展)、サンチャゴの裏街、朝のアンデス連峰(昭和40年・遺作展)。

西澤笛畝

没年月日:1965/10/24

日本画家で人形研究と蒐集で知られる西澤笛畝は、10月24日胆のう炎のため板橋区の自宅で逝去した。享年76才。葬儀は27日谷中観智院で、「人形葬」が行われた。旧姓石川昂一、後西澤家を継ぐ。号比奈舎。明治22年1月東京浅草に生れ、荒木寛畝、同十畝に師事した。傍ら人形玩具の研究に志し、多くの蒐集、著書と共に終生つづけられた。昭和6年童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。作品は主として官展に出品し、大正4年9回文展で「八哥鳥の群れ」(対幅)が初入選以来殆ど毎年入選し、昭和9年第15回帝展では審査員となった。戦後日展への出品もみられるが、人形玩具文化での活躍が目立つ。昭和26年文化財保護委員会専門審議員となり、昭和34年には人形保存に寄与した功により紫授褒章となった。 主な著書に「雛百種」、「人形集成」、「日本画の描方」、「虫類百姿」、(いづれも芸草堂発行)、「日本郷土玩具事典」(岩崎美術社)等がある。

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