本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1963/07/28 一水会々員の女流洋画家甲斐仁代は、かねて療養中のところ江古田にある中野療養所で死去した。享年61才。明治35年佐賀県に生れ、大正11年女子美術学校西洋画科を卒業して翌年二科会に初入選した。以後二科会には毎年出品をつづけ、また婦人洋画協会の創立に参加するなど活躍した。岡田三郎助の教えを受け、牧野虎雄の旺玄社に属するなどの時期もあったが、後一水会に出品し戦後会員に推された。作品は終始純粋な芸術観に貫かれ、豊潤な色彩感覚とデリケートで風格ある画面に魅力を示していた。しかし戦後はあまり目立つこともなく。朋友の石橋夫妻に支持されながら自己の画境を深めていた。略歴明治35年 佐賀県に生れる。大正8年 青島女学校卒業。上京。女子美術学校西洋画科入学。大正11年 同校卒業。卒業制作「眼帯をした人」大正12年 二科会展初入選。大正14年 婦人洋画協会展出品。昭和12年 一水会展出品。昭和22年 一水会々員に推薦される。昭和32年 日展出品。昭和38年 7月28日死去。9月一水会展に遺作特別陳列。昭和39年 6月、女流画家協会展に遺作特別陳列。10月、日動サロンにて遺作展開催。
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没年月日:1963/07/18 東光会々員桑原福保は、明治40年山梨県東八代郡に生れた。昭和2年山梨県立師範学校を卒業ののち、昭和8年に上京、熊岡美彦の門下となり油絵を学んだ。翌9年東光会展に初入選以来毎年同展に出品をつづけ、昭和17年には「緑陰」「黄色い傘」「少女像」を出品し東光賞をうけ、翌年会友、さらに昭和22年第13回東光会展で「ぶらんこ」で会員に推された。また、昭和11年、文展に初入選、以来、官展出品をつづけ、戦後は日展に連続入選して、29年岡田賞、31年以後は出品依嘱者となって毎年出品している。33年から35年までアメリカ経由で渡欧留学したが、38年7月18日病没した。享年56才。
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没年月日:1963/06/27 日本画家江崎孝坪は、6月27日脳軟化症のため目黒区の自宅で死去した。享年62才。本名孝平。明治37年6月15日長野県に生れ、のち前田青邨に師事した。終始官展を発表の場とし、人物画を多く描き、強い線描と、明快な色彩に特色を示した。晩年は挿絵や映画、舞台芸術等にも多く活躍している。主要作品昭和2年 第8回帝展 「晩秋」(初入選)昭和4年 第10回帝展 「山路」昭和11年 第1回改組帝展 「浜正月」昭和15年 日本画大展覧会(大礼記念京都美術館)「雲と防人」(大毎・東日賞)昭和15年 2600年奉祝展「出発」昭和16年 第4回文展 「撃て」(特選)昭和17年 第5回文展「基地」昭和18年 第6回文展 「出発」(招待)昭和19年 戦時特別展 「海犬養岡麿」昭和22年 第3回日展 「像造」(招待、特選)昭和33年 第1回日展 「フラメンコ」昭和35年 第3回日展 「スパニッシュ」昭和36年 第4回日展 「少年」挿絵「乞食大将」(大仏次郎作)、「太閤記」(吉川英治作)「雲と風と砦」(井上靖作)。映画「七人の侍」他(衣裳考証)舞台装置「新忠臣蔵」他。
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没年月日:1963/06/10 光風会々員遠山清は、明治36年11月15日名古屋市で生れた。中学卒業後上京し、東京美術学校図画師範科に学び大正15年卒業した。昭和3年第9回帝展に「青島風景が初入選となり、また同年の光風会展では光風賞を得て洋画家として第一歩を印した。以後帝展及び光風会に出品をつづけ、昭和9年光風会々員となり、16年第28回展の「婦人像」で岡田賞を受賞した。光風会々員として出品をつづけるかたわら戦後は日展にも出品し、日展の出品依嘱となり、更に35年に会員、38年審査員となったが同年6月10日、脳卒中で逝去した。享年59才。なお33年~34年の間欧州に遊学している。
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没年月日:1963/05/22 日本芸術院会員、帝室技芸員、日展顧問、文化勲章受章者松林桂月は、5月22日午後9時、東京信濃町の慶応病院で脳軟化症のため逝去した。享年87才。桂月は、明治9年8月18日、山口県に伊藤篤一の次男として生れた。本名篤。明治31年松林家を嗣いだ。これより前、明治26年上京して野口幽谷に師事した。はじめ日本美術協会、展に出品し、つづいて文展に出品して屡々受賞した。大正8年以来帝展審査員となり、昭和7年帝国美術院会員同12年帝国芸術院会員に推され、同19年帝室技芸員を、命ぜられた。同33年美術界につくした功績によって文化勲章を授与された。近代に於ける南宗画界の代表作家で、南宗画の振興につくした功績は大きかった。略年譜明治9年 山口県に生る。明治26年 上京して野口幽谷に師事す。明治29年 日本美術協会展に「菊花双鶏」を初出品、二等褒状を受く。明治30年 日本美術協会展に「怒濤健鵰」を出品、銅牌を受く。明治31年 松林家の養子縁組成り孝子(号雪貞)と結婚す。病気療養のため郷里荻に帰省。明治34年 再度上京警視庁医務局に奉職。麹町三番町に新居を営む。明治34年 東京南宗画会委員嘱託。警視庁を辞職し、土手三番町に転居。明治37年 米国セントルイズ万国博覧会に「菊に鶏」出品。明治39年 岩溪裳川に就き漢詩を学ぶ。明治40年 正派同志会に参加、文展不出品。明治41年 第2回文展に「遊鴨図」を出品。明治42年 東京市麻布長谷寺前に転居。第3回文展に「葡萄図」出品。明治43年 第4回文展「夏山浴雨」出品、褒状を受く。明治44年 日本美術協会展委員、日本画会評議員。第5回文展に「秋山晩晴」出品、3等賞を受く。大正元年 麻布笄町に転居。第6回文展に「寒汀」出品、3等賞を受く。同年 第3回東京勧業博覧会審査員となり、「秋塘真趣」を出品。第7回文展に「松林仙閣」出品、3等賞を受く。大正3年 日本美術協会展委員。第8回文展に「秋晴」出品、3等賞を受く。大正4年 日本美術協会展に「春溪」出品、金牌を受く。大正8年 帝国美術院創設され、第1回展より審査員となる。大正9年 平和記念展審査員。大正11年 第4回帝展審査主任。大正14年 世田谷区に転居。大正15年 聖徳太子奉讃展審査員となり、「潭上余春」を出品。中央公論社より「田能村竹田」を出版。昭和4年 朝鮮総督府美術展審査員。台湾総督府美術展審査員。第10回帝展に「長門峡」出品。昭和7年 帝国美術院会員となる。昭和8年 明治神宮絵画館壁画「鳥羽伏見戦争図」完成。昭和11年 「愛吾盧」成る。昭和12年 満州国第1回美術展審査員。帝国美術院会員となる。三越にて個展。昭和14年 紐育万国博覧会に「春宵花影」出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展審査員となり、「秋樹林」を出品。昭和16年 第4回文展に「晩秋」出品。昭和17年 大東亜戦争美術展審査員。満州国美術使節として出張。昭和18年 大日本美術工芸資材統制会特別会員。第6回文展「秋郊」出品、政府買上となる。昭和19年 帝室技芸員を命ぜらる。昭和21年 文部省主催第1回日展審査主任。昭和22年 東京都美術館20周年記念展審査員。日中文化協会理事に推さる。昭和23年 日本美術協会理事長に推さる。東京都美術館顧問となる。横山大観、川合玉堂、上村松園野田九浦等と白寿会結成。昭和24年 日展運営会常任理事。第5回日展審査主任となり、「秋陰図」を出品。昭和25年 横山大観、川合玉堂、和田三造、佐藤朝山等と無名会を結成。日本芸術院会員選考委員となる。国立博物館主催「日本南画名作展」の選考委員となる。昭和26年 芸術院賞選定委員。第7回日展に「長門峡」出品。昭和27年 「桜雲洞詩鈔」出版。昭和29年 日展理事満期のため辞任。昭和32年 「桜雲堂画集」出版。昭和33年 文化勲章を授けらる。昭和34年 日本橋三越にて個展。昭和35年 日本南画院結成、会員に推さる。昭和36年 山口県荻市名誉市民に推さる。昭和37年 日本橋三越にて個展開催、「夏橙」「白梅紅梅」「池畔」等出品。南画振興のため後素会結成。紺綬褒章を受く。昭和38年 脳軟化症のため慶応病院にて逝去。
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没年月日:1963/03/04 独立美術協会々員菅野圭介は3月4日東京信濃町の慶応病院で食道ガンのため死去した。享年54才。葬儀は豊島区雑司ヶ谷霊園斎場において、独立美術協会葬としてキリスト教式で行なわれた。彼は明治42(1909)年4月27日東京牛込区に、宮城県石巻市出身の早大文学部英文科教授菅野徳助の末子として生れた。母は岐阜県の医師の娘である。姉ふみ子、兄健介。5才のとき父が没し、土居晩翠の許にしばらく預けられた。牛込愛日小学校、東京府立六中、東京高校(文丙)を経て、京都帝大文学部を中退後、渡欧し、フランスのグルノーブル市で、ジュール・フランドランに師事し(1935~1937)、また児島善三郎にも師事した。1936年より独立展(第6回)に出品し、1938年に協会賞を受賞、1940年会友に推挙され、1941年I氏賞、1942年岡田賞を得て、1943年会員に推挙された。戦前二回(1938、1941)日動画廊で個展開催。戦後は朝日新聞社の秀作美術展や毎日新聞社の国際美術展等にも出品している。先妻との間に男子があったが、1948年に三岸節子と再婚し、1953年に解消した。1949年12月、画号を「圭哉」と改め、1954年以後には「恵介」を用いた。風景や静物を写しながら、それを単純で大まかな形体の平面的な色面として用いるその画風は、デビュー時代よりほぼ一貫するもので、地味な色調とともに一種の東洋的なのびやかな味わいをかもしだしていた。独立展出品作品を列挙すると「フランダース古城」「ノルマンディの秋」(昭和12年)、「北欧祭典」「ワルソーの宿」(13年協会賞)、「静物」「山脈」(14年)、「伊豆風景」「北都」「山脈」(15年会友推挙)、「磯」「飛騨地方」「静物」(16年I氏賞)、「秋」「湖水」「島影」(17年岡田賞)、「夏」「静物」「伊豆風景」(18年会員推挙)、「勝下」「果実」「鹿島灘」「花」「漁村」(22年)、「花」「静物」「静物」「静」「風景」(23年)、「果実」「静物」「夏」(25年)、「リスボン湾」「キール岬」「ハイデルベルク」「静物」「ボン」「ハイデルグ丘陵」「ビルバオ」「白都リオ」「モンブラン」「ブレーメン」(28年)、「蔵王山」「秋」(29年)、「冬」「秋」「夏」(30年)、「阿武隈流域」「黒潮」「静物」(31年)、「丘陵秋」「静物」(32年)、「夏の港」「槍ヶ岳秋」「常念晩秋」(33年)、「晩秋」「秋」「夏」(34年)、「夏」「静物」「雪山」(35年)、「秋」「野菜車」(36年)。(参照文献)菅野圭介「ジュール・フランドラン」独立美術1957、「近況の石」同1958、「亡霊」同1959、「自画像」美術手帖29号1950、今泉篤男「菅野圭介」みづえ532号1950。
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没年月日:1963/02/08 二科会理事山本敬輔は2月8日、せきつい炎、肝硬変のため兵庫県姫路市の阿保病院で逝去した。享年51歳。山本敬輔は明治44年12月2日姫路市で生れた。家は代々姫路城主の御殿医をつとめ、彼もまた、初めは家業の外科医となるつもりで姫路高等学校に学んだが、昭和4年、画家を志望して中途退学し、藤川勇造をたよって上京、昭和9年第21回二科会展に「狂態」が初入選となり画家としての第一歩を踏み出した。超現実主義が画界を賑わした時代で「狂態」も超現実風の作品であった。そのご、前衛画家の集団、黒色会に加わり、次で斉藤義重、広幡憲等と絶対象派協会を設立する頃は、抽象的傾向へ移り「アブストレーA」のような作品から更にモンドリアンの影響を強くうけて、方形の構成による「V-X-38.5」などを制作発表している。絶対象派協会は、まもなく解散したが、13年11月に、二科会新傾向作家とともに九室会を創立し、二科会展の会場の第九室で前衛活動をつづけていった。然し、戦争の拡大によって14年8月には召集をうけ、18年に一度復員したものの再び召集され、昭和20年終戦迄兵役に服していた。戦後、20年二科会再建とともに会員に推され、23年第33回二科会展で「ヒロシマ」三部作で会員努力賞をうけた。この頃は、他にも「戦争と平和」「殉教」など、思想的テーマを好み、表現にも、ピカソの「ゲルニカ」などの影響をつよく示す作品が描かれていった。26年には昴会を、荒井竜男、桂ユキ子、斎藤義重、末松正樹らと創立し、翌27年第1回展をタケミヤで開いている。然し、そのごはピカソの影響を離れ、再び純粋造型の世界へ移り、又、昭和35年頃にはアンフォルメルの仕事を試みるなど、晩年まで前衛的な活動をつづけていた作家であった。作品略年譜昭和9年 21回二科会展 「狂態」昭和10年 22回二科会展 「馬」昭和12年 24回二科会展 「100-X-37」昭和13年 25回二科会展 「100-X-86」昭和14年 26回二科会展 「100-X-39」昭和21年 31回二科会展 「花の風景」昭和23年 33回二科会展 「ヒロシマ」昭和24年 34回二科会展 「戦争と平和」昭和25年 35回二科会展 「北海道」昭和26年 36回二科会展 「殉教者」昭和27年 37回二科会展 「狭土」「赫土」、日本国際美術展「父と子」「審判」昭和28年 38回二科会展 「作品」(1、2、3)昭和29年 第1回現代日本美術展 「芽生え」「連鎖」昭和30年 40回二科会展 「牙」「決定された地点」日本国際美術展「吹溜り」昭和31年 41回二科会展 「壁」、現代日本美術展「穴のあいたオールマイテイ」昭和32年 日本国際美術展 「ウーッ!」昭和33年 43回二科会展 「像OP58の2」昭和34年 44回二科会展 「作品59」(2、3)、日本国際美術展「作品」昭和35年 45回二科会展 「時点(A、B)」「間隙」、現代日本美術展「赤の作品」「青の作品」昭和36年 46回二科会展 「作品61」(A、B)
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没年月日:1963/01/11 光風会々員鮫島利久は、1月11日逝去した。享年69歳。明治26年1月22日東京に生れ、大正7年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。光風会に所属して同展や帝展等に作品を発表した。また、美術教育に従い、美術教育学会委員、教科用図書検定調査審議会調査員等をつとめ、昭和38年1月目白学園短大教授となった。
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没年月日:1963/01/05 生涯富士の絵を描きつづけた洋画家大森明恍は、1月5日死去した。享年61歳。本名桃太郎。明治34年10月18日福岡県遠賀郡に生れ、大正8年本郷洋画研究所に入った。同10年二科会展に「浪懸夏光」を出品し、昭和8年富士山研究のため、御殿場に一家をあげ移住した。その後、昭和13年2月東京銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回富士山画個展開催をはじめ、北海道九州等各地で個展により多くの富士図を発表した。なお、芸術新潮(4巻7号)に「富士を描いて30年」の一稿がある。
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没年月日:1963/01/02 二紀会会員山田等は、明治37(1904)年9月13日香川県綾歌郡に生れた。大正14(1925)年12月香川師範学校本科第一部卒業、昭和2年3月同校専攻科卒業。大正14年3月より香川県小豆郡大鐸小学校に勤務し、1926年には同香川郡円座高等小学校、昭和2(1927)年には東京府荏原郡深沢小学校に勤務し、同19年より35年まで香川県立高松高等女学校(現在高松高等学校)に勤務した。昭和7年に二科会に「少女」を出品、入選し、以後「画室余技」(1934)、「三人」(1935)、「バリ島の女」(1936)、「木蔭に憩う」(1938)、「浜辺遊戯」(1939)、「雪降りの街道」(1940)、「働く蘭印の女」(1941)、「更紗を描く」(1942、会友推挙)を出品した。昭和22年二紀会創立とともに同人に推挙され、以後「男木島風景」(1947)、「石切」(1948)、「若人」(1949)、「画室」(1950)、「二人」(1951)、「オリーブ園」(1952)、「鏡」(1953)、「踊る女達」(1954)、「僕等の仲間」、(1955、同人優賞)、「小公園の午後」、「室の中の子供達」(1956)、「憩のひととき」、「牛舎と少年」(1957、審査員に推挙さる)、「漁港」、「出漁」(1958)、「子供と牛」、「働く少年」(1959)、「浜辺の歌」、「森の歌」(1960)、「放鳩1・2」(1961)が二紀会に出品された。なお昭和8年から10年にかけて満州、インドネシア方面に旅行し、戦後は37年に5カ月ほどヨーロッパ旅行をしている。
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没年月日:1962/12/30 日本画家横田仙草は、12月30日病気のため死去した。享年67才。本名専三。明治28年10月17日東京市本所区に生れた。大正4年私立早稲田実業学校を卒業。初め五島耕畝、織田観潮に絵を学び、大正13年小林古径に師事した。以後、日本美術院研究員として同院の展覧会に出品し、昭和9年院友となった。作品は其他帝展、聖徳太子奉讃展、白御会、璞友会等に発表した。戦後は、昭和26年新興美術院の再興にあたり之に参加し会員となる。主な作品に「早春葡萄図」(院展第27回)、「叢」(新興美術展第1回)、「果樹枝伸長図」(新帝展)等がある。
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没年月日:1962/12/18 日本画家渡辺聖空は12月18日脳溢血のため市川市の自宅で急逝した。享年69才。本名辰左右。明治26年3月12日岐阜県に生れた。名古屋商業を卒業後上京し、松林桂月に師事したが、後に門下を退き、新しい墨絵の技法の研究に向ひ、小杉放庵、小川芋銭、中川一政等と図り墨人会を結成した。墨人会は芋銭の没後休会したが、その後、更に古来の墨絵を研究、新しい手法を創り出し、新生面を求めて日本墨絵会を結成、その会長となった。昭和9年第1回個展を資生堂で開き、以後資生堂、文春ギャラリー、産経ホール等で14回個展を開いている。著書に「大虚画芸」と「墨絵の描き方」がある。
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没年月日:1962/12/15 洋画家木田金次郎は12月15日脳出血のため北海道の病院で逝去した。享年69才。昭和26年7月16日、漁業家木田久造の二男として北海道に生れた。明治41年上京し、開成中学に入学したが4年の秋、中途退学して帰京、家業に従事するが、かたわら絵画修業に打込む。この頃、札幌で北大の黒百合会展で有島武郎の作品を見て感銘をうけ有島武郎を札幌の私邸に尋ねた。有島武郎の小説「生れ出づる悩み」に出てくる木本という青年は若き日の木田金次郎の姿をモデルにしたものである。大正8年、有島武郎の尽力により有島生馬のアトリエで初めてのデッサン展を開いた。その後昭和3年満州、蒙古方面に写生旅行をしている。昭和19年岩内の近郷、堀株村(ホリカップ)に疎開、22年再び岩内に戻ったが堀株村はその後主要なモティーフとなっている。28年に個展を開いたが翌29年9月岩内町大火のため類焼、全作品約2000点を焼失してしまった。この年11月北海道文化賞、更に31年北海道新聞文化賞をうけている。34年、38年の2回に亘り朝日新聞社主催による個展を東京高島屋を初め、仙台、札幌(34年)、大阪、福岡、札幌(37年)で開催した。北海道の疎林や漁村或は海辺の荒涼とした風景を奔放な筆致で、激しい情熱をこめたフオーヴ風の作品で「荒れゆく原野」「台風の朝」「初秋」「青い太陽」「灯台のある風景」「暮れゆく原野」等約60点が出品された。
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没年月日:1962/11/18 行動美術協会会員山中春雄は11月18日没した。享年43才。大正8年8月28日大阪市に生れた。難波商工学校中退後、昭和10年から14年まで大阪中之島洋画研究所で学び、二科会展、全関西美術展に出品、二科会には連続出品していた。昭和15年現役兵として満州に赴き18年除隊後も暫くハルピンに居住していた。終戦後、内地に帰還し、昭和21年から行動美術協会展に出品し、22年会友、23年会友賞をうけ25年同会会員となった。28年、約6ケ月フランスに遊学、29年から行動美術展のほか、現代日本美術展などにも出品していた。なお昭和37年6月大阪日仏画廊で個展をひらいた。作品略年譜昭和23年 「流る女達」第2回行動美術展昭和27年 「歌うたひ」「月しろ」第6回行動美術展昭和28年 「裸婦」 第7回行動美術展昭和30年 「小年と壮年」「退屈な二人」第9回行動美術展昭和31年 「飛ぶ」「黒い覆いもの」「地に座す人達」第10回行動美術展昭和32年 「糸」 第11回行動美術展昭和33年 「イエス」 第12回行動美術展昭和34年 「髪」 第13回行動美術展昭和35年 「二人」 第14回行動美術展昭和36年 「人」「馬と人」第15回行動美術展
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没年月日:1962/10/29 挿絵画家清水三重三は10月29日脳溢血のため東京都渋谷区の自宅で逝去した。享年69才。明治26年三重県四日市に生れ、大正8年東京美術学校彫刻科を卒業した。大正11年帝展に「閨怨」を出品、入選しその後も官展に出品していたが、挿絵に活躍するようになり、出版美術家連盟理事、捕物作家クラブ副会長をつとめるなどむしろ、挿絵画家として知られていた。挿絵の代表作に「鉄火奉行」(毎日新聞連載)、「お伝の方」などがある。
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没年月日:1962/10/15 旺玄会会員金井文彦は10月15日脳溢血のため東京都杉並区の自宅で逝去した。享年76才。明治19年8月30日東京に生れた。東洋大学文学科を卒業、川端画学校に学び、また長田雲堂について南宗水墨画も修めた。大正8年第1回帝展に応募、「豊島の秋」が初入選となった。帝展では第6回「花」、第7回「秋日赴釣図」、第9回「水辺裸婦」第10回「ロシア服女」、第11回「画史像」第12回「磯」などがある。大正13年、牧野虎雄、田辺至、斎藤与里ら10名とともに槐樹社を結成、同時に槐樹社発行の美術雑誌「美術新論」の編集主任を約7年間つとめている。槐樹社は昭和6年12月解散し、9年5月には金沢重治、大久保作次郎ら6名と白朝会を創立した。昭和10年以降改組後の帝展には出品せず、独自の制作に専念、昭和23年旺玄社に迎えられてからは同展に作品を発表していた。
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没年月日:1962/09/10 独立美術協会会員、青柳暢夫は9月10日都内杉並区の自宅で脳軟化症のため死去した。享年53才。明治41年(1907)福岡市に青柳茂の二男に生れ、県立福岡中学時代に美術教師杉江春男に絵の才能を認められた。大正13年(1924)には上京して片多徳郎に師事し、大正15年(1926)には川端画学校に入る。昭和4年(1929)から清水登之に師事し、また帝国美術学校にも入学した。1931年清水登之もその創立会員となった独立美術協会展が開かれ、これに「庭」と「荻窪風景」を出品した。会の主調であるフォーヴィスムの影響をうけ、1930年代の後半には、スュールレアリスムへの動きが有機性をおびた形体感の中にいくらか感じられはするが、それは昭和15年(1940)に結婚した河村春をモデルとしてその後の3、4年にわたって描かれた婦人像にみられる柔軟な心理のかげりをみせる作品の中に連なってゆく。戦後1950年代の前半までは静物画が多く、形体のキュービスティックな構成を探求している。1950年代の後半に再び風景画が現われると、硬化した樹木が荒々しい力で前面にはだかり、つぎには建築や風景の断片の凝集した画面が、やや騒がしいがうっ積した意欲を示すようになった。斗酒を辞さなかった頑健な体が病を知ってからは、さらに以前の様式化した型の集積から解放され、もう一歩新らしい内面的な画境に進むことを予想させていたときに倒れたのである。略年譜明治40年 福岡市に生れる昭和6年 独立1回展に「庭」「荻窪風景」出品。文房堂で1回個展を開く。河村春と福岡で知る。昭和7年 独立2回展に「落合風景」「郊外の道」外品。大連、新京、ハルピンを旅行。昭和8年 独立3回展に「平尾風景」「樫並木」出品。福岡独立作品家協会および研究所を友人とつくる。昭和9年 独立4回展に「山と岩」「密柑山」「女」出品。昭和10年 独立5回展に「胡爪」「残雪」「蓮鷺」出品。昭和11年 独立6回展に「白装」「建築現場」出品。昭和12年 独立7回展に「雪景」「姉妹」出品。昭和13年 独立8回展に「風景A」「風景B」出品。昭和14年 独立9回展に「月の岩」「海浜風景」出品。独立賞受賞。昭和15年 独立10回展に「少女と夫」「破船と岩」出品。河村春と結婚。昭和16年 独立11回展「野の少女」「黍と女」「小鳥と母娘」出品。昭和17年 独立12回展「秋の少女」「薪割」「牧場の人」出品。善福寺池畔にアトリエを作り住む。昭和18年 独立13回展「小猫」「花の実」出品。昭和19年 独立14回展「出演の前」「かえりを待つ子」昭和20年 栃木県下都賀郡に疎開。昭和21年 日動画廊で栃木風景を主とした個展開催。独立会員となる。昭和22年 独立15回展4点出品東京のアトリエに戻る。昭和23年 独立16回展「静物」2点「風景」3点出品。児島善三郎と北海道旅行昭和24年 独立17回展「干魚」「静物」出品。岩田屋で夫妻展開催。昭和25年 独立18回展「壷とさかな」「魚」2点昭和26年 独立19回展「裸婦」3点 北海道旅行昭和27年 独立20回展「木の実と魚」「黒い壺と魚」「ひまわりと魚」昭和28年 独立21回展「静物」3点昭和29年 独立22回展「壺のある静物」「果物篭の静物」第1回現代日本美術展出品「作品(花)」「作品(干魚)」昭和30年 独立23回展「樹」第3回日本国際美術展出品。「静物」「どくだみの花」。資生堂で個展開催昭和31年 独立24回展「さぼてんのある丘」「湖畔の静物」2回現代日本美術展「かたつむりのいる風景」「小鳥と花」昭和32年 独立25回展「木と土と石」第4回日本国際美術展「くさむら」昭和33年 独立26回「明るい郊外」「崖」「秋」。3回現代日本美術展「めだつ庭」他1点「鷹の会」結成昭和34年 独立27回展「紋」3点5回日本国際美術展「皿山」。この秋の終りに顔面神経けいれんを発病。昭和35年 独立28回展「黒い鳥」4回現代日本美術展「白い空地」「芽」。2月に病状は軽くなり、11月に欧州旅行の計画をたてる。11月に入院、昭和36年 独立29回展「霧」1月から3月まで入院昭和37年 独立30回展「黒い鳥」(朝日秀作美術展出品1963)「花」「飛ぶ」。9月19日死去昭和38年 11月遺作集「青柳暢夫」(田近憲三、青柳春執筆)出版される(発行者青柳春)。12月、「青柳暢夫のこと」中間冊夫(「三彩」168号)
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没年月日:1962/08/04 一陽会員丹下富士男は8月4日、日本歯科医科大で死去した。享年60才。父は農林省技官で、日本馬の品種改良に尽した人で、その四男として明治35(1902)年岩手県種馬所で生まれたが、その直後上京し東京で育った。番町小学校、成蹊中学校卒業大正8年(1919)後川端画学校を経て、東京美術学校油絵科に入学(大正10年)藤島教室に学んだ。在学中に「オーケストラ」で帝展に初入選したが、酒を好み体をこわして、美術学校卒業後(大正14年)病床につくことが多かった。昭和3(1928)年の暮に山川亮子と結婚した。同7年19回二科展に初入選(「波止場」)。それ以後二科展会に毎年出品し、昭和14年には特待となり、昭和16年には会友に推薦される。また古河電気株式会社の宣伝部に、昭和17年まで週2回勤務してインテリア・デザインを主に担当した。この間昭和10年には5ケ月間ほど台湾に滞在。二科会出品作品を列挙すると「室内」(20回)、「遊ぶ馬」(21回)、「コンポジョン」(22回)、「岡と桃畑」(23回、焼失)、「晴れ間」(24回)、「庭」(25回)、「中間種応召」(26回)、「障害(馬の)」(27回)、「えんばくがら」(28回、「新馬図」(29回)、「帰厩」(30回)、であり、このころから戦争が激化して絵を描くことが困難になり、日本ゼラチン株式会社に入った。昭和19年10月には二科会も一時解散し21年に31回展が開かれるが、丹下富士男が出品するのは23年(33回展)からである。26年から再び会友になった。「踊り」(34回)、「スポットライト」(35回)、「スポットライト」「バレー」「サーカス」(36回)、「人と馬A、B」(37回)、「曲馬」「海」(38回)、「月」「曲馬」(39回)と二科会に出品して来たが昭和30年7月二科を脱退して一陽会創立会員となる。一陽会への出品は「隅」「台所」「海」「食後」「曲馬」「明暗」(1回)、「静物」「漁港」「静物」「登山電車」「台所」(2回)、「台所」「キュイジーヌ」「静物」「静物」「楽器をもつ女」(3回)、「魚の静物」「灯台のある風景」「山幸海幸」「富士のみえる風景」(4回)、「静物」「仔馬」「舟」(5回)、「灯台」「静物」「桃」(6回)、「碁盤乗」「海」「駒」(7回)、「馬の群」「花束を持つ少女」「海」「二人」「花」(8回、遺作陳列)であり、この間昭和33年4月には新橋の画廊ひろしにおける個展に25点の作品を出品している。
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没年月日:1962/07/16 日展評議員の日本画家吉田登穀は、第2国立病院に入院中であったが、7月16日死去した。18日世田谷区の自宅で天香画塾葬が行われた。享年79才。本名喜代二。明治16年12月1日千葉県に生れ、郷里村社日月神社の神職をつとめていた。絵は松林桂月に師事し、花鳥を専ら描き、日本美術協会、帝展、文展、日展等に発表した。大正9年第2回帝展に「あぢさい」が初入選し、昭和16年第5回文展で無鑑となった。また戦後は昭和21年の第2回日展「春深く」が特選となり、以後審査員を3回つとめた。主な作品に「春光」(回文展)「春深し」(2回日展)「山梨の花」(3回日展)等がある。
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没年月日:1962/07/07 示現会員清水敦次郎は7月7日死去した。68才。明治27(1894)年8月15日新潟県三条市に生れた。大正4(1915)年太平洋画会研究所に入り、同7年12回文展に「寺島の工場」が初入選し、9年2回帝展に「畔の木」、8回帝展に「並木」、紀元2600年奉祝美術展には「山の牧場」、昭和19(1944)年6回文展に「和尚台」などを出品し、戦後は昭和21年1回日展に「木曽の巌」を出品し、2回「水車への流れ」は特選となり、3回「木曽谷の魚」4回「春ゆく木曽谷の三岳」、5回「木曽川の源泉」、6回「木曽の谷間」、7回「田への谷水」、8回「春間近か」、9回「昼の神苑」、10回「神域」、11回「急湍」、12回「爽風渡る」を出品し、5回展以後は出品依嘱となる。財団法人となってからの日展には1回「泉」、2回「湲泉」、3回「苔動く」、5回「湲谷」を出品した。なお昭和22年には示現会創立会員となり、3回「木曽御岳」、「時雨」、4回「雪どけ」、12回「地吹雪」、14回「岩を縫う」、15回「湲韻静か」(1962)などを出品している。個展は37年まで20回開催した。彼は昭和10年から22年まで太平洋画会員であったが、29年示現会を結成した。この間昭和16年には三井コレクション嘱託となり、同19年には東洋高等女学校で教鞭をとった。同25年には白土会をつくってその同人となった。画風は太平洋画会出身らしく終始地味で刻明で、やや冷たい写実主義に基く風景画で通した。山林美術協会にも関係していた。ことに戦後は長野県西筑摩郡に独居して信州の山や渓谷を好んで描いた。
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