本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





金山平三

没年月日:1964/07/15

日本芸術院会員、帝室技芸員の洋画家、金山平三は、7月15日心外腹炎のため東京大塚のガン研附属病院で没した。享年80才。明治16年神戸市に生れ、同42年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。暫くの間同校助手をつとめたが、同45年渡欧し、4ケ年にわたり欧州各地を巡歴し、大正4年帰国した。その後は専ら文展、帝展に出品し、風景画、静物画に佳作を発表して特選を受け、大正8年以来昭和9年まで帝展の審査員をつとめた。昭和10年の帝国美術院改組以来官展から遠ざかったが、同19年には帝室技芸員を命ぜられた。戦後日展審査員に任命されたが辞退し、個展によって発表した。殊に同31年には画業50年展を日本高島屋に於いて開催し、その代表作を回顧的に陳列した。外光派に出発した彼は、練達した筆さばきによる独自の東洋的な油彩画に到達していることがわかる。代表的な作品には「夏の内海」(大正5年文展、国立近代美術館蔵)、「氷すべり」(同6年文展」、「菊」(昭和3年帝展、東京国立博物館蔵)、「下諏訪のリンク」(同11年帝展三井コレクション蔵)等がある。略年譜明治16年 12月18日兵庫県神戸市において、金山春吉の次男として生る。明治42年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。明治45年 1月渡欧。4ケ年にわたり欧州各地に留学。大正4年 12月帰国。大正5年 第10回文展に初めて「巴里の街」「夏の内海」出品、後者特選。大正6年 第11回文展「氷すべり」「造船所」出品、前者特選。この年無鑑査。大正8年 第1回帝展に審査員となる(以降15回展まで審査委員をつとむ)。「雪」「花」出品。京都市牧田久吉次女らくと結婚。大正11年 第4回帝展に「菊」「下諏訪リンク」出品。昭和3年 帝展9回出品「菊」、帝室買上げとなる。昭和7年 明治神宮聖徳記念絵画館に「平壌の戦」奉納。昭和10年 帝国美術院改組に際し、同志と共に同展への不出品を声明。二部会に「東北の春」「信濃雪」(李王家買上)。昭和15年 奉祝展に「信濃路」出品(宮内省買上)。昭和19年 7月帝室技芸員を拝命。昭和20年 5月、山形県の庄司薬局方に疎開。皇太子に「菊」、義宮に「ダリヤ」を献上。昭和21年 10月、日展第2部の審査員に任命されたが辞退。昭和30年 4月、大阪美交社において近作発表展を開く。昭和31年 5月、画業50年展を日本橋高島屋に開催。昭和32年 2月28日、日本芸術院会員となる。昭和39年 7月15日東京大塚のガン研附属病院で逝去。

須田珙中

没年月日:1964/07/10

日本美術院同人の須田珙中(本名善二)は、7月10日食道ガンのため文京区の自宅で死去した。享年57才。明治40年1月21日福島県岩瀬郡に生れ、昭和9年東京美術学校日本画科を卒業した。在学中の昭和7年第13回帝展に「白河の夏」が初入選となり、翌8年同展に「秋」が入選、この年松岡映丘に師事した。同9年第15回帝展に「高原」が入選した。昭和11年の改組文展には「渓の葉月」を出品し、同13年には松岡映丘の死去により前田青邨門下となった。この後も官展への出品をつづけ昭和15年2600年奉祝展「梢」、同16年第4回文展「南覇の井」、同5回「楽士」などがあり、第6回文展「琉球」では特選となり、政府買上となった。戦後は昭和21年第2回日展「ピアノ」、同3回「燁燭」、同5回「夕映」、同6回展「浴女」(依嘱出品)などがあるが、昭和26年には東京芸術大学美術学部講師となった。翌27年には長年出品をつゞけた日展を脱退し、日本美術院に所属し第38回院展に「牛」を出品し、佳作賞、白寿賞を得た。また同34年には芸大助教授となり、同38年には大学院研究科生等も指導し、後進のため尽力した。尚昭和36年には日本美術院同人となったが、院展での主な作品には第40回展「馬」(奬勵賞・白寿賞)、同41回展「山水石組」(日本美術院次賞・大観賞)、42回展「念持仏」日本美術院次賞・大観賞)、43回展「深海曼陀羅」、44回展「篝火」(日本美術院賞・大観賞)、45回展「正倉院」(日本美術院賞・大観賞)などがあり、穏健な近代的傾向を帯びたアカデミックな作風を示した。

宮脇憲三

没年月日:1964/06/16

光風会会員宮脇憲三は、6月16日午後4時死去した。享年48才。大正4年12月15日姫路市に生れ東京美術学校卒業。昭和24年および25年光風会でO氏賞をうけ、26年会員に推挙。33年から34年にかけて外遊。

中村好宏

没年月日:1964/06/07

国画会会員、中村好宏は胃ガンのため東京新宿区の慶応病院で死去した。享年60才。明治37年4月25日香川県高松に生れ、大正11年香川県立工芸学校卒業。昭和3年東京美術学校図案科卒業後梅原龍三郎に師事。昭和2・3年には春陽会に出品したが、5年より国画会に出品、8年と12年に国画奨学賞をうけ、18年会友、19年会員となり、会務委員として活躍した。戦後21年にハマ展の初代委員長として横浜の画壇復興に尽力した。没後39年9月10日から13日まで横浜有隣堂で、また40年6月5日から13日まで高松美術館で遺作展が開かれた。国画会出品作品目録8年「静物」(国画会奨学賞)、12年「風景」(国画会奨学賞)、18年「人物」、19年「椿と子供」、31年「樹」「どぶ川と舟」「沼の淵々」「裸婦」、32年「沼(舟と裸婦)」、33年「2人」、34年「池」「沼」、35年「沼」「沼」、36年「裸婦」「裸婦」、37年「田園風景」「田園風景」、38年「沼の朝」「風景」、39年「バッタ」

辻愛造

没年月日:1964/06/03

国画会会員、辻愛造は6月3日、兵庫県西宮市の自宅でガンのため逝去した。享年68才。明治28年12月21日大阪市南区に生れた。大正元年、大阪で赤松麟作に師事し、4年に上京、太平洋画会研究所に学んだ。大正6年第4回院展洋画部に入選して以来、8年第6回展まで出品、入選している。その後、春陽会にも出品したが、同15年国展洋画部創設以来、同展に出品、毎年入選、昭和3年には国画賞をうけ、昭和4年に会友、同9年「摂津耶馬渓」など出品して会員に推挙された。風景画が主で、自選作品として「丸山夜桜の図」、「室津」、「片田の浜」などをあげている。また、大阪回顧風景の連作を、水彩やガラス絵で数多く描いている。昭和32年11月に兵庫県文化賞を授賞した。作品略年譜大正6年 第4回院展「日盛り」大正7年 第5回院展「夏山」「夏の果樹畑」大正5年 第5回国展「円山夜桜之図」「道頓堀風景」昭和10年 第10回国展「麦崎」昭和15年 第15回国展「曇日」昭和22年 第21回国展「家島」昭和29年 第28回国展「普門の浜」昭和33年 第32回国展「奥香落」昭和36年 第35回国展「志摩風景」昭和37年 明治・大正・昭和大阪懐古風景・素描淡彩150景完成昭和38年 日本風景ガラス絵20余点完成、個展を開く37~39年 大阪懐古風景(ガラス絵)40余点制作昭和39年 第38回国展「塩津」昭和40年 第39回国展に遺作として39年作の「麦崎」「奥香落」を出品する。昭和40年 5月辻愛造ガラス絵画集を発行昭和40年 6月「大阪懐古風景ガラス絵遺作展」開催

小川翠村

没年月日:1964/05/11

日本画家小川翠村(本名俊一郎)は、5月11日胃ガンのため京都市東山区の自宅で死去した。享年61才。明治35年5月15日大阪府泉南郡に生れ、19才で京都に出、西山翠嶂に師事した。大正9年第2回帝展に「朝」が初入選し、後第6回展「庭園晩秋」、9回「老園逢春」、10回「残る秋」が特選となった。昭和5年第11回帝展で推薦となり、戦後は日展に出品し、依属になっている。作品は専ら花鳥風景を得意とする。

小杉放庵

没年月日:1964/04/16

小杉放庵は、明治14年栃木県日光に生まれた。父は蘇翁と号し平田派の国学者で神官をつとめていた。放庵は国太郎と名付けられ、少年時代を日光の山中で過し、父に国学の素読を習い、中学は一年で退学している。この頃、当地の洋画家五百城文哉に絵を習い、西洋名画の図版などを手本に模写をし、或は風景写生を試み、油絵、水彩を自由気儘な作画をみてもらっていた。4年ほど五百城文哉の許で学んでから上京、さらに小山正太郎の不同舎に入って学ことになった。この頃、小杉未醒の号を用い、漫画、挿絵で先づ名を知られるようになり、油絵は、文展に力を入れ、明治43年第四回文展から「杣」(三等賞)、「水郷」(二等賞)、「豆の秋」(二等賞)、と三年連続受賞して一躍画壇に認められるようになった。大正2年フランスに留学しむしろ東洋画への認識を新たにして東洋人という自覚を強めて帰国してきたようである。大正3年帰国した年には日本美術院が再興され、かねてから親友の横山大観に誘はれて、美術院の洋画部設立に盡力した。帰国後は、フランスで心惹かれたシャヴァンヌの装飾画が、そのごの作品に大きな影響を与えて、壁画や装飾画風の油絵が、院展時代から春陽会時代初期へとつゞき、東京大学、安田講堂の壁画は、その代表作の一つであろう。大正9年日本美術院洋画部はなくなり、同12年に春陽会を創立、晩年迄同会の中心となって制作に当っていた。昭和初め頃から、油絵と同時に日本画にも筆をとる様になる。油絵もまた、油気を抜いた絵具を渇筆風に画布にすり込んでゆく技法で、画面の肌は日本画を思わせるようなマチュールを好んだ。題材も、古事記、奥の細道、歌人、孫悟空、おとぎ話など古典によるものが多く、次で花鳥、風景に及んでいる。かつて芸術院会員に任命されていたが、晩年近く、33年には会員を辞し、作品も油絵より日本画に移り、新文人画とでもいうべき水墨の、気品に富んだ作品を多くのこしている。又歌人としても知られる歌集が出版され「山居」、或は隨筆集「帰去来」などの著書がある。第二次大戦中から新潟県中頸城郡に疎開していたが、4月17日同地の自宅で老衰のため逝去した。享年82才。略年譜明14 1歳 本名国太郎。12月30日栃木県に生る。父は富三郎、母は妙、6人兄弟の末弟。明19 6歳 この頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう。明21 8歳 日光小学校に入学。明28 15歳 宇都宮中学一年で中退。明29 16歳 父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る。明31 18歳 画業に志し上京(師匠文哉には無断で出奔)夜、赤坂溜池り白馬会研究所に通う。まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷。再び文哉宅に帰る。明32 19歳 吉田博日光へ来遊、はじめて知る。明33 20歳 師匠の許をえて再上京。吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門。同期生に青木繁、荻原守衛らがいた。明34 21歳 田端で自炊生活。(漫画の外に教科書の挿画、日光、横浜などで外人相手に売る水彩画などを描いた)。この年太平洋画会創立。明35 22歳 太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催。会員となる。明36 23歳 不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品。未醒と号す。明37 24歳 1月渡鮮、日露役勃発して9月で従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信。帰国後近事画報社の正社員として入社。詩集「陣中詩篇」(蒿山房)を刊行。第三回太平洋画会に「海辺」他8点出品。明38 25歳 太平洋画会第4回展に「戦友」他数展出品明39 26歳 独歩、独歩社をおこす。同社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす。独歩の仲人で春夫人と結婚。第5回太平洋画会展に「捕虜と其の兄」他出品明40 27歳 5月美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍、画壇に新風をおくった。10月明治文展開設。明41 28歳 10月第2回文展に「湟槃会」初入。明42 29歳 第7回太平洋画会展に「黄昏」出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり。明43 30歳 第8回太平洋画会展に「浦島」「一本杉」出品。第4回文展で「杣」が三等賞。明44 31歳 第9回太平洋画会展に「河原の杉」出品。第5回文展に「水郷」出品二等賞。シャヴァンヌの影響ありとされた。明45 32歳 第6回文展に「豆の秋」出品、二等賞無鑑査、画壇的地歩を確定する。この秋、横山大観と知り設立の計画を発表。大2 33歳 渡辺六郎の後援で渡欧、主に仏国に滞在イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学、翌年シベリア経由にて帰国「小湾」「ブルターニュ風景」「アルハンブラの丘」等が滞欧作品である。欧州紀行「画筆の跡」を刊行した。大3 34歳 再興日本美術院の創立に参加、同人として洋画部を担当。はじめ二科会にも出品したが、のち院展に専従して「飲馬」(第1回)「黄初平」(第2回)「或日の空想」(第3回)「山幸彦」(第4回壁画)「出関老子」(第6回壁画)等を出品した。大9 40歳 院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退。大11 42歳 春陽会創立に参加、前記院展脱退組の外に会員梅原龍三郎、客員岸田劉生、万鉄五郎、石井鶴三、中川一政、木村荘八、椿貞雄、山崎省三、今関啓司等後客員は会員となる。大12 43歳 第1回春陽会展に「泉」出品、この秋関東大震災。大13 44歳 第2回春陽会展に「採薬」出品。大14 45歳 第3回春陽会展に「泉」出品、東大安田講堂に壁画製作、アーチ形「泉」「採薬」を両側に「静意」「動意」の半円形二面を添える。昭2 47歳 芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ。以後しだいに水墨画に親しみ、「奥の細道帖」の製作に没頭。第5回春陽会展に「奥の細道帖」翌同第6回展に「奥の細道」15題を出品。昭4 49歳 中国に遊ぶ。この機会にと改号。春陽会展出画では「帰牧」(第5回)「羅摩物語」(第6回)「山童遊嬉」(第7回)「娘」(第9回)等が油絵、「奥の細道帖」「水荘有客」(第5回)「漁樵閑話」「奥の細道」15題(第6回)「古事記」(墨素描第7回)「後赤壁画巻」(第8回)「呉牛」(第10回)「石上」(第11回)「草木春秋」(第12回)「山居十趣」「松下人」(第13回)等が水墨画である。昭和5年著書「放庵画論」(アトリエ社)昭10 55歳 松田改組により帝国美術院会員となる。つづいて近衛内閣、安井改組による帝国芸術院会員となる。主な作品には「楽人」(紀元二六〇〇年奉祝展)「金太郎」(春陽会)「うずめの舞」(芸術院会員展)「僧」(ニューヨーク万博展)等。昭20 65歳 戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する。戦後は春陽会のほかに珊々会、墨心会展等に出品、続「本朝道釈」(春陽会第23回展)「曽遊江南画冊」(同24回展)「童話四題」(同25回展)「西遊記連図」(同27回展)「童話八題」(同28回展)「僧の顔」(同35回展)等の日本画「浦島の顔」「大伴旅人」等の油絵がある。昭34 79歳 日本芸術院会員辞退。本来の野人にかえる。主なる戦後著書、隨筆「帰去来」洗心書林、歌文集「石」美術出版社、絵と紀行「奥のほそみち画冊」竜星閣、歌隨筆「炉」中央公論社、隨筆「故郷」竜星閣、画集「小杉放庵」三彩社その他多数がある。昭35 80歳 4月小杉放庵の画集60年展を開催。初期以来の洋画、日本画素描等51点を展示。昭36 81歳 肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」出品。昭38 83歳 再三の肺炎に体力を失い寡作となる。昭39 84歳 三月病床につき再起せず四月十六日黄泉の客となる。

原勝四郎

没年月日:1964/04/14

洋画家原勝四郎は、脱ソ症のため4月14日和歌山県田辺市紀南病院で死去した。享年78歳。明治19年(1886)4月5日和歌山県田辺市に生れ、同市の中学校卒業後東京美術学校予備科に入学し、本科に進学して間もなく同校を退学。以後白馬会溜池研究所で黒田清輝に学んだ。大正6年(1917)印度支那から船員としてフランスに渡航、パリで働きながら、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールに学び、またイタリア、アルジェに放浪旅行をして、大正10年帰国。同年8回二科展に「風景」2点が入選。昭和5年(第17回展)に大阪から出品しているが、ほとんど郷里を出ず、自らを画工とよぶ一種の隠遁生活を送る。昭和15年岡田賞受賞、特選となり、翌年会友に推挙された。戦後二科会から二紀会に分離するとき、彼も行動を共にしたらしい。二紀会の15回展では同人努力賞を受賞しているが、14回展を最後に無所属になった。渋い色調であるが、フォーヴ的な荒々しい大きな筆触で風景と人物画を描いた作品が多い。二科展出品目録8回「風景」「風景」、16回「海岸風景」、「母子像」、17回「風景」、18回「風景」、19回「画工像」「風景」、20回「婦人像」「海辺松林」、21回「画工像」「風景」、22回「画工とその婦」「初冬風景」、23回「自画像」、24回「海岸風景」「少女像」、25回「青シャツ」「海岸」「風景」、26回「海岸新緑「画工」、27回「頭像」「小湾」、28回「道化」「番所鼻」、29回「少女像」「窓際」。二紀会出品目録1回不明、2回「裸婦」「海辺松林」、3回「裸婦」「四月島」、4回「風景」「裸婦」、5回「娘の像」「江津良の海」、6回「海辺」「樹蔭」「海岸裸景」、7回「婦人像」「海辺」「路傍」、8回「海辺」「顔」、9回「裸婦」「海辺」、10回「田辺湾遠眺」「老人像」11回「海辺」、12回「風景」「老人」、13回「不明」、14回「裸婦」。

野長瀬晩花

没年月日:1964/03/31

国画創作協会で活躍した日本画家野長瀬晩花は、昭和39年3月31日東京都北多摩郡の自宅で逝去した。享年76才。本名弘男。明治22年和歌山県に生れ、15才の年大阪に出て中川芦月の門に入った。後谷口香喬に師事し、明治42年京都絵画専門学校設立に際して第一期生として入学した。同校中退後、大正7年国画創作協会の創立に参加し、同会の主要メンバーの一人となった。また大正10年には土田麦僊、小野竹喬らと欧州各地を巡遊し、2年の後帰朝した。後満州にも数回旅行し、此際の著書「北満国境線をかく」(昭和11年発行私家版)がある。国画創作解散後は無所属として在ったが、晩年は実業面にたずさわり制作からは遠ざかっていた。主要作品は次の通り。「初夏の流」(大正7年国展1回)「休み時」(大8年2回国展)「夕陽に歸る漁夫」(大9年3回国展)「スペインの田舎の子供」(大13年4回国展)「水汲みに行く女」(大15年5回国展)「海近き町の舞妓」(昭和2年6回国展)

登内微笑

没年月日:1964/03/02

日本画家登内微笑(本名正吉)は、3月2日脳血せんのため京都市北区、鞍馬口病院で死去した。享年72才。明治24年長野県に生れ、大正14年京都絵画専門学校を卒業した。其後菊池契月、寺崎広業に師事し、官展に活躍した。この間大正9年第2回帝展で「奈良の作」(春日若宮、不退寺3枚、末社の山)が初入選となり、第6回「歓喜光」、第8回「多武之岸春雪」では特選となった。又昭和3年9回展では推薦になり翌10回展では審査員となった。新文展では無鑑査による出品をつゞけ、戦後日展では依嘱となった。

高橋周桑

没年月日:1964/02/27

新製作協会会員の高橋周桑(本名千恵松)は、2月27日心臓衰弱のため、東京都目黒区東京共済病院で死去した。享年63才。尚葬儀は、目黒区の自宅で新制作協会葬により行われた。明治33年12月23日愛媛県周桑郡に生れ、大正12年速水御舟の門に入った。昭和5年第17回展で「秋草」が第二賞となり、同17年第29回展で「双華」、32回展で「陳列室」を出品し、無鑑査となった。となった。昭和23年には新日本画の創造を目ざして、新しく「創造美術」が結成された。これを機会に周桑は、長年出品していた院展を退きその創立会員となったが、昭和26年同会が新制作協会と合併したので、新制作協会会員として現在に至ったものである。師御舟の作風を追ったかに見える沈静な趣の画風を特色とし主な作風に次の様なものがある。「春開」「春の枝」「秋草」(昭和5年)「銀座」(第1景~第3景)(昭和7年)「競馬」(昭和9年)「樹と鳥」(昭和13年)「文楽」(吉田栄三)(昭和8年)(陳列室)(昭和22年)「ダリヤ」(昭和23年)「群像」(昭和24年)「松林」(昭和26年)などがある。

滝沢邦行

没年月日:1964/02/19

日本水彩画会名誉会員滝沢邦行は、2月19日埼玉県飯能市の自宅で心筋こうそくのため死去した。享年76歳、大正2年4月日本水彩画会創立に際しては、37人の発起人の一人として、それ以後も会務に協力した。滝沢馬琴の子孫で、日本各地の桜の花を写生した総合図鑑を著した。

奥村博史

没年月日:1964/02/18

もと国画会洋画会員で金工家でもある奥村博史は、2月18日東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄白血病のため死去した。享年72歳。神奈川県に生れ、17歳のとき画家を志したが、父に許されず、19歳の春家出して日本橋浜町の奇寓から水道橋の日本水彩画会研究所に徒歩通学して絵を学んだのち日本各地、中国を旅行しながら描く。はじめ二科会に出品、うち国画会にうつり、国画会同人、日本水彩画員会となる。晩年は無所属。夫人明子は、筆名平塚らいてうで、自伝「めぐりあい」がある。略年譜明治22年 10月4日藤沢に、奥村市太郎の長男として生れる。藤沢小学校、逗子開成中学校卒業。明治42年 上京。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学、水彩画を学。大下藤次郎逝去後油絵に転向。明治45年 巽画会に初めて油絵「青いリンゴ」を出品、受賞。大正3年 日比谷美術館で第一回油絵個展開催。第1回二科展に油絵「灰色の海」出品入選、続いて「畑」「植物園?」など初期の二科展に連続出品、入選。中途で、孤独を守るようになり、以後個展以外にはあまり発表しない。大正14年 日本水彩画会会員に推薦される。成城学園の画の教師となる。昭和5年 この頃、自宅アトリエで、デッサンの勉強会を毎週開く、武者小路実篤他、新しき村美術部のメンバー等集る。昭和7年 油絵個展を交詢社4階で開催。昭和8年 冨本憲吉氏に勸められ自作の銀指環を国展に出品、受賞。国画会会員に推薦される、以来画業とともに指環の制作は晩年まで続く。昭和9年 大阪天賞堂画廊で油絵小品と指環の個展開催。昭和11年 日本水彩画研究所時代からの旧友赤城泰舒氏と中国へ写生旅行。上海滞在中制作した臨終の魯迅像(油)は現在上海魯迅記念館蔵。昭和12年 大阪の中村ギャラリーで第2回指環個展開催。この頃から戦争に入るまでの間に、新交響楽団のバッヂ、文化学院の卒業記念のクラスリング等も制作。どの団体に所属することも好まなかったが、戦後新しき村美術部の会員となり、稀に村の展覧会に油絵デッサンを出品。昭和28年 晩年の10年の裸婦デッサンが千枚ほどに達したので、整理して二・三冊のデッサン集を作る企画中発病入院。昭和39年 2月18日死去11月、「奥村博史素描集」出版、(奥村博史遺作集刊行会編、平凡社発行)昭和40年 10月「奥村博史わたくしの指環」出版。(奥村博史遺作集刊行編、中央公論美術出版刊行)

小畠鼎子

没年月日:1964/01/26

青竜社社人の小畠鼎子は、宿痾の心臓病のため、1月26日東京武蔵野市の自宅で死去した。享年65才。明治31年2月14日東京神田美土代町に生れ、大正4年東京府立第1高女(現白鳳)を卒業した。この年池上秀畝に師事し、後大正13年より川端竜子に就いた。昭和4年第1回青竜社展で「山百合」が初入選となり、その後第6回展「ペリカン」出品により社友となった。また昭和23年の第20回展では白孔雀と蘇鉄を描いた「白冠図」により社人に推された。この間14回展「睡蓮池」、19回展「山6月」等で奨励賞を受け、第25回展では、連続25回出品記念賞を、第35回展では連続35回出品により表彰された。画壇でも稀なこととされる35回連続出品の記録は、この年出品した「秋雨海裳」の制作を最後に終った。家庭の主婦として育児の傍ら続けられた画道精神を讃えた小文が、35回展の出品目録にみられる。作品は専ら花鳥が多く、美しい色感と、女性らしい素直な観照に特色がみられる。

片岡銀蔵

没年月日:1964/01/26

光風会会員片岡銀蔵は、明治29年1月18日岡山県小田郡に生れた。大正10年東京美術学校西洋画科を卒業し更に同研究科に学んだ。在学中の大正8年第1回帝展が初入選となり、その後帝展に出品をつづけ第9回展で「裸婦」が特選、更に11回展でも「仰臥裸婦」が特選となっている。昭和2年より巴里を主として西欧に約2ケ月遊学、また、満州事変、第二次世界大戦に従軍している。戦後派日展に出品、かねてから出品していた光風会展では昭和31年に会員に推された。殆ど裸婦を主とした制作で、晩年に祭礼に取材した「鬼」の作品などがある。ぜんそくのため1月26日没した

三輪孝

没年月日:1964/01/01

阿佐ケ谷美術学園園長・光風会会員三輪孝は1月1日胃癌のため東京赤坂の虎ノ門病院で死去した。享年53才。明治44年1月7日大阪に生まれる。昭和5年大阪国学院立浪速中学校を卒業し、同10年東京美術学校油絵科卒業。同9年帝展に初入選し以後文展、日展の他、東光会にも9年から11年まで出品、光風会への出品は12、16年の2回受賞し、18年には同会会友に推挙された。また同年陸軍美術協会会員になり、19年には社団法人日本美術統制会代議員に推挙された。この間12年から18年まで松坂屋宣伝部に勤務したが12年より徴兵により中国各地に戦い陸軍輜重兵伍長となり、同15年には勲八等白色銅葉章を授与され、17年には指令部報導部に奏任官待遇嘱託。戦後は昭和20年に阿佐ケ谷美術研究所を設立し所長となる。同研究所は39年阿佐谷美術学園となり、附設機関として総合デザイン研究所が附置され、所長は園長が兼任した。一方22年に光風会会員、32年には出品作が日展特選となった。著書に「デッサンのプロセス」(アトリエ社、昭和37年)などがある。

福田眉山

没年月日:1963/10/28

日本画家福田眉山は、10月28日芦屋市の自宅で脳出血のため死去した。享年88才。本名周太郎。明治8年兵庫県赤穂に生れ、同28年久保田米僊に従って東上し、国民新聞社に入社した。苦学して東京美術学校に通ひ、この間徳富蘇峰に敬事する。明治33年在学3年にして学校を中退し、同年日本美術院に所属する。ここで岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受けた。明治42年より45年にわたり中国大陸を、また大正10年には朝鮮各地を昭和13年には再度中国旅行を試み、内外の山水を探索し、それに材を得た絵巻、屏風等の作品が数多い。主なる作品に「兄の刺嘛」(平和博覧会大正3年)、「支那大観」(二冊大正5年)、「支那三十画巻」(大正8年)「金剛秋色図巻」(大正12年献上)「「洞庭湖真景」(大正14年大覚寺客殿襖)「大峨眉」(昭和11年神護寺地蔵院襖絵)他。

榊原苔山

没年月日:1963/09/18

竹杖会々員の日本画家榊原苔山は、9月18日夕狭心症のため京都市の自宅で死去した。享年74才。本名秀次。明治23年京都に生れ、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校本科を卒業後同研究科を経て竹内栖鳳の門に入った。以後第3回文展に初入選以来主として官展に作品を発表し、昭和5年には帝展推薦となった。榊原紫峰は実兄にあたる。

勝田蕉琴

没年月日:1963/09/09

日本画家勝田蕉琴は、9月9日老衰のため東京都北区の自宅で死去した。享年84才。本名良雄。明治12年福島県に生れ、若くして南画家野出蕉雨に師事した。明治32年橋本雅邦の門に入り、同35年東京美術学校日本画選科に入学した。同38年同校卒業後岡倉天心の推薦により印度王族タゴール家に招聘され渡印、仏画製作並びに仏教美術の研究に従事し、また印度政府の依嘱により、同国美術学校で東洋画を教授する。明治40年帰国し、その後は第1回文展をはじめ、戦後まで官展を舞台に活躍した。尚昭和26年以後は毎年革新美術協会に出品していた。主要作品明治40年 第1回文展「出城」「降魔」明治45年 第7回文展「林の中から」大正4年 第9回文展「曾根づたい」大正8年 第1回帝展「粉雪降る朝」大正15年 第7回帝展「無塵地」昭和3年 個展開催。「玉子と玉葱」他。昭和4年 第10回帝展「海濤図」昭和14年 第3回文展「仔牛」昭和16年 第4回文展「玄豹」(伊大使館買上)昭和17年 第5回文展「夏の夕」(文部省買上)昭和25年 第6回日展「鮮菜」

菅楯彦

没年月日:1963/09/04

日本画家で関西画壇の長老である菅楯彦は、4日肝硬変のため大阪市の自宅で死去した。享年85才。本名藤太郎。明治11年3月4日日本画家菅盛南の長男として鳥取市に生れた。幼時父母に従い大阪に移り、明治22年父の病気により高台小学校高等小学科第2年を中退し、絵筆により一家を支えることになった。終生画道の師につかず独学で研究をすすめたが、その間大和絵、四条円山、北南宋、狩野派、浮世絵等、実地研究の他国学を本居派鎌垣春岡に、漢学を山本憲に就いて学び、併せて仏教美術史、宗教史等の研究も積んだ。ことに鎌垣師には有職故実を学び、後年歴史画を描く基礎をつくった。又雅楽を好み、舞楽を習って、晩年は四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献した。明治33年より37年迄大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、ここで多くの歴史参考図を製作した。作品は、きめの細い大和絵風の歴史画や、洒脱な大阪の庶民風俗に画材を求めたものが多い。昭和24年に大阪府芸術賞、同26年大阪市民文化賞のほか、同33年には日本画家としては最初の芸術院恩賜賞を授与された。また同37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。略年譜明治11年 3月4日 鳥取県に生れる。明治22年 大阪高台小学校高等小学第2年中退。この頃より絵筆により一家を支えた。明治33~37年 大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、多くの歴史参考図を製作した。大正12年 東京三越にて個展開催。昭和4年 「春宵宜行」(仏国政府買上)日仏展出品。昭和10年 明治神宮聖徳絵画館壁画制作「皇后冊立」。昭和24年 大阪府文芸賞受領。昭和26年 大阪市文化賞を受ける。「山市朝雨」日展招待出品。昭和33年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和37年 大阪市名誉市民にえらばれる。昭和38年 9月4日没す。代表作明治神宮絵画館壁画、「菊池千本槍」(大阪市立美術館)他、鏑木清方と共著の画集「東京と大阪」(毎日新聞社刊)などがある。

to page top