中山正実

没年月日:1979/01/07
分野:, (版)

洋画家で壁画を専門とし、またカラー銅板画の草分けとして知られる中山正実は、1月7日心不全のため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年81。1898(明31)年1月3日神戸市に生れ、1919年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。同年東京商大専攻部に学ぶ傍ら、川端画学校で藤島武二の指導を受けた。1921年第3回帝展に「鉱山の夕」が初入選し、24年に渡欧した。パリでアカデミー・グラン・ショミエールに学び、またルーブル美術館で模写をすすめ、サロン・ドートンヌに入選した。翌年壁画研究のためイタリアに旅行し、サロン・ドートンヌに再入選した。27年帰国し、第8回帝展に「古都礼賛」、以後31年まで毎年帝展出品をつづけた。32年神戸商大の壁画を依嘱され、以来壁画制作に専念し、前後6年を費やして神戸商大附属図書館の大壁画「青春」、及同大学講堂壁画三部作「光明、富士、雄図」を完成した。39年橿原神宮外苑大和国史館の壁画「阿騎野の朝」を制作依嘱され、翌年これを完成、更に41年には神戸裁判所調停会館壁画「正義」「平和」を完成した。そのほか銅板画を制作し、わが国でのカラーエッチングの創始者でもある。
年譜
1898(明治31年) 1月2日神戸市に生まれる。
父は播州赤松氏の一族。青年時代に神戸に移り商人となる。
1914 独学で油絵を描き、印象派の研究をする。
1915 神戸高等商業学校(後の神戸商大)入学、神戸洋画会会員となる。
1919 神戸高等商業学校卒業。
同年、東京商科大学専攻部に修学の傍ら、川端画学校洋画科に学び藤島武二に師事。
1921 第3回帝展に初入選「鉱山の夕」(50号・神戸大学所蔵)
1924 1月渡欧、巴里アカデミー・グラン・ショミエールで、佐伯祐三と同時同教室に画技を習練、ルーヴル美術館の名画模写(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジオルジオネ、レンブラント、ルノアール等)。
前田寛治、中野和高らと帝展同期の親交が続き、共に日仏フェニックス協会の創立メンバーになる。
同年、巴里サロン・ドートンヌに入選「セーヌ河畔の人々」新人最高の栄誉、ラ・ロトンド(第1教室、100号・神戸大学所蔵)に飾られ、巴里の諸新聞で報道。
1925 壁画研究のため伊太利各地を巡歴。アッシジでヂオットを模写。同年、巴里に帰来後、ポーランド出身巴里派の異才ユージェヌ・ザックに師事。キスリング、パスキン等を画友に、翌年にかけて、フレスコ壁画の実験・カンヴァス壁画貼付技術(マルフラージ)の実習・銅板画法の受講等。
1926 巴里サロン・ドートンヌ再入選「猫と子供等」(30号)。同年12月、巴里郊外オーボンヌ・カトリック教会で、洗礼を受ける。霊名 FRANCOIS
1927 帰国、第8回帝展入選「古都礼賛」(500号・神戸大学迎賓室壁画)。
1928 第9回帝展入選「新秋」(250号・神戸大学図書館所蔵)。
1929 第10回帝展入選「農家の夕」(250号・神戸大学所蔵)。
1930 第11回帝展入選「母子像」(戦災消失)。
同年、聖徳太子奉讃展入選「冬」(250号・神戸大学図書館所蔵)。
1931 第12回帝展入選「幼き霊に捧ぐ」(消失)。
1932 神戸商業大学(現・神戸大学)図書館壁画「青春」の制作を委嘱されて、一切の展覧会出品を絶ち、美術団体等に関与せず、壁画の制作に没頭。
1935 壁画「青春」を完成(2000号)、その後、直ちに同大学講堂壁画三部作の制作に着手(完成までに満3カ年を要す)。壁画制作の傍ら、エッチングの研究を続け、日本最初のカラーエッチング「信仰への道標」その他を制作。
1937 東京大森馬込にアトリエを建設。
1938 神戸商業大学(現・神戸大学)講堂壁画完成(2000号)。
1939 大和国史館万葉室壁画「阿騎野の朝」を制作。
1940 同壁画を完成(スプリット・フレスコ800号)。
1941 紺綬褒章を受ける。
同年、神戸裁判所調停会館会議室壁画「正義と平和」を完成(フレスコ250号)。
1944 第2次世界大戦中、江田島海軍兵学校壁画「海ゆかば」を完成。終戦の翌日、同校校庭にて焼却(スピリット・フレスコ1000号)
1945 戦災、神戸楠町のアトリエを作品数百と共に焼失。
1946 G.H.Q.通信隊の美術顧問を委嘱される。同隊美術教室教官として、米軍将兵に油絵、リノカット、エッチング等を指導。
1947 銀座、資生堂画廊で個展、油絵16点を発表。
1946 G.H.Q.副司令アレン将軍、米空軍ヴァンデンバーグ将軍、その他十二将星の肖像制作を委嘱される。
1950 壁画切支丹三部作のための試作「殉教」(120号)カトリック美術展に出品。この後、毎年宗教画を同展に出品。
1954 彦根市カトリック教会壁画「聖ヨゼフとキリストを中心にした群像」(ケイシンフレスコ)完成。
1955 和歌山県新宮市カトリック教会壁画「聖家族」(ケイシンフレスコ)完成。
同年、和歌山市カトリック教会壁画「聖母被昇天」(ケイシンフレスコ)完成。
1957 カトリック美術展に初めてカラーエッチング十余点を発表。
1958 銀座、兜屋画廊で「カラーエッチングと壁画」個展。
1959 日本橋、高島屋で「カラーエッチング」個展。
1960 日本版画協会会員に推挙され、委員に選ばれる。
東京国際版画ビエンナーレ展出品。
1961 ニューヨーク国際版画協会(IGAS)に選ばれ、銅版作品「無限への飛翔」100点刊行される。大阪、梅田画廊で銅版画個展。
1962 東京国際版画ビエンナーレ展に再び出品。ニューヨークIGASに再び選ばれて、銅版作品「宇宙の花園」200点を刊行。
オーストラリヤ、国立ニューサウスウェルス美術館(シドニー)に銅版画「エデンの園」買上げられる。
1963 フィラデルフィア美術館、ロックフェラーコレクション等に作品買上げられる。同年夏、日本美術家連名版画工房で銅版技法講習指導。同年11月より、1965年8月末日まで日本版画協会事務所運営を担当する。同協会総務、国際版画ビエンナーレ諮問委員。
1964 米国ミネソタ大学美術館、エルキンスパーク美術学校、シラキュース大学アートセンター等に作品買上収蔵。
1966 スイス、ルガノ国際版画展出品(4月)、墺、ウイーンで萩原英雄と二人展(5、6月)、墺政府買上。
同二人展を西独バイロイトで開く(6月)。京王百貨店で回顧展(6月)、ニューヨークで個展(12月)、ニューヨークIGASより作品刊行第3回目。
東京凌霜クラブ開設に際し、神戸大学六甲台図書館壁画「青春」の下絵(250号)を寄贈。
1967 日米版画展出品(1月)。
アメリカ月刊誌“Together”4月号が作品2点を採用(原色刷2頁と解説)。
大阪で個展(5月)。
1968 1月3日「古稀」を迎える。
伊太利ペッシア市、国際版画展に出品3点、いずれも同市立美術館に収蔵。
1969 日本万国博、キリスト教館建築委員。
1970 カラーエッチング2点、D・ロックフェラーコレクションに買上げられる。
同年、現代宗教美術展(東京渋谷、日動画廊)に、作品10点を出品、そのうちの油絵「殉教」120号-1950年作をローマ法王庁に寄贈。
1972 「芸術新潮」に論文「幻の名画を追って十年」を発表(ムリリョ作品「帯の聖母」を発見の記録)。
973 壁画修復の新技法を発見・開発して、旧作の神戸大学壁画「青春」を完全修復し、学長より表彰を受く。
1974 キリスト教美術協会を結成、同士数名と教派を超えて創立委員となる。銀座日動サロンで発表展。
1975 第43回版画展審査委員長、日本版画協会名誉会員。
1976 大阪凌霜クラブ開設に当たり、神戸大学六甲台講堂壁画「光明」「雄図」の下絵(計250号)を寄贈。
同年11~12月、兵庫県立近代美術館に、戦前作品「猫と子供等」及び戦後作品「黙示録の四騎士」を出品。
1977 衆議院25年勤続議員、江田三郎の肖像画制作、2月、国会に納入。(30号F)
4月、第45回版画展に多色銅版画大作(80号)「最後の審判」を発表。之れによって5カ年に亘る黙示録連作を完成。
1978 5月神戸大学に色彩銅版画140点を寄贈、展覧会
6月、神戸「そごう」に於て個展。
1979 1月7日永眠(81歳)
(年譜資料は遺族作成に拠る。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和55年版(257-259頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中山正実」『日本美術年鑑』昭和55年版(257-259頁)
例)「中山正実 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9579.html(閲覧日 2024-04-26)

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