上野誠

没年月日:1980/04/13
分野:, (版)

日本版画協会理事上野誠は4月13日午後3時15分肝硬変のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。1909(明治42)年6月7日長野県長野市に生まれ、29年長野中学校を卒業、東京美術学校に入学したが、32年に中退、木版画の制作を始めケーテ・コルヴィッツに私淑した。37年国画会第12回展の「石炭を運ぶ人」をはじめ、戦前は国画会版画部に出品した。41年鹿児島の指宿中学教諭となり、以後終戦まで教諭として岐阜県・長野県を移転、その間42年の国展に「戦況ニュース」を出品した。45年新潟県に移り、玩具デザインをするかたわら、48年第2回アンデパンダン展に「自由を求むる労働者」、51年の第4回展に「平和をかたる」等を出品、52年上京して本格的な制作活動に入り、同年第5回アンデパンダン展に「原爆展ポスター画稿」を出品、この頃より戦争や原爆の悲惨さを訴える作品を多く手がけるようになる。57年の第1回展より6回展まで出品した東京国際ビエンナーレ、アンデパンダン展、平和美術展、日本版画協会展などを発表の場として、「ケロイドの脚」(55年)、「焼けた五重塔」(57年)、「ヒロシマ三部作(男・女・鳩)」(59年)、「原子野連作A-H」(68~76年)などを発表、61年には長崎に旅行している。このような作品は海外での評価も高く、59年のライプチヒ国際書籍版画展では金賞を受賞したほか、69年モスクワ、76年ブルガリアで個展を開くなど国際的な活躍をしていた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(246頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「上野誠」『日本美術年鑑』昭和56年版(246頁)
例)「上野誠 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9972.html(閲覧日 2024-03-29)

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