伊藤継郎
新制作協会会員で、元京都市立美術大学教授の洋画家伊藤継郎は9月17日午前7時41分、老衰のため神戸市西区病院で死去した。享年86。明治40(1907)年10月15日伊藤粂太郎、津起の次男として生まれる。父は大日本紡績会社の重役を務めた。大正8(1919)年、天王寺第二高等小学校に入学、同10年福島商業学校に入学する。同12年、松原三五郎主宰の天彩画塾に入る。同13年福島商業学校を卒業。同年天彩画塾が閉鎖されるのに伴い、赤松麟作主宰の赤松洋画塾に入る。同15年同塾は赤松洋画研究所と改称。昭和4(1929)年赤松洋画研究所展に「池のある森」「網引き」を出品。同5年第17回二科展に「座像」で初入選する。同年兵庫県美術家連盟の設立に参加。同6年赤松洋画研究所展に「家族の園」「少女」を出品して、丹平賞受賞。この頃から鍋井克之を知り、信濃橋洋画研究所に通い始める。同年第5回全国西洋画展に「庭」「室内の会話」「裸婦」を出品して朝日奨励賞受賞。同10年第22回二科展に「ドヤドヤ(四天王寺の裸祭り)」「親子の行商人」「鳥籠を売る親子」を出品し特待となる。同12年二科会会友に推されるが、同16年同会を退き、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いにより第6回新制作派協会展に「デッサンA」「デッサンB」「デッサンC」「デッサンE」「デッサンF」「室内と女」「森と少女」「静物と子供」「子供の国」を出品し会員に推される。同19年8月満洲へ出征、同20年終戦と共にシベリアに抑留され、同21年復員。同22年より新制作展に出展を続ける。同23年芦屋市美術協会の設立に参加し、この頃より自宅アトリエで研究会を開いて、小磯良平、上村松篁らと交友する。日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。同36年鍋井克之の誘いにより京都美術学校(現、京都市立芸術大学)西洋画科教授となる。同年カンボジア、インドなど、東南アジアに旅行。同42年フランス、スペイン、ギリシア、イタリアへ、同44年イタリアへ旅行。同45年京都市立芸術大学を退職して大手前女子短期大学教授となる。同48年スペインへ、同52年フランス、モナコへ、同62年南フランスコルシカ島へ赴く。平成元年神戸サンパル市民ギャラリーで「伊藤継郎の世界」展、同3年梅田近代美術館で「伊藤継郎展」、同4年2月奈良そごう、3月神戸そごうで「伊藤継郎」展を開催。同5年、大阪府が設立を予定している現代美術館のために作品350点余りを同府に寄贈した。アトリエは昭和5年に建てた当時のまま残されていたが、平成7年1月の阪神大震災により倒壊した。日常的なモティーフを好んで描き、時に工芸的と評される重厚なマティエール、地味な彩色等に特色を示した。
出 典:『日本美術年鑑』平成7年版(353-354頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「伊藤継郎」『日本美術年鑑』平成7年版(353-354頁)
例)「伊藤継郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10610.html(閲覧日 2024-12-03)
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