本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





田山方南

没年月日:1980/12/31

 文化財保護審議会専門委員田山信郎(号方南)は、12月31日、急逝心不全のため、旅行中京都の知人宅で死去した。享年77。1903(明治36)年10月6日三重県阿山郡の万像寺住職川合松吟の長男として生まれた。21年三重県立上野中学校卒業後、上野市の田山八十吉の養嗣子となる。25年第四高等学校卒業、東京帝国大学文学部国史学科入学、28年大学卒業、29年8月文部省宗教局国宝鑑査官補となり、国宝の調査指定に従事、45年国史編修官兼国宝鑑査官、終戦後は、国立博物館調査課、文化財保護委員会美術工芸課に属し、文化財調査官(書跡部門)から主任文化財調査官をつとめ、65年定年退職するまで古文書・典籍・古写経・墨蹟等書跡関係の指定調査に力をつくした。退官後は文化財専門審議会委員、次いで文化庁の文化財保護審議会所属第一専門調査会書跡部会長、神奈川県小田原市の財団法人松永記念館館長、財団法人博物館明治村理事等をつとめた。 専門とする禪林墨蹟研究については、著書としてまとめられているが、その他陽明文庫・大東急記念文庫等をはじめとするコレクションの分類整理にあたり、執筆した解題等は少くない。また寺院関係古文書・聖教・一切経等の調査の仕事も膨大な量に及び、我国における書跡・典籍・古文書類の保存に関する功績はきわめて大きい。73年勲三等瑞宝章、80年従四位を叙せられた。主著 禅林墨蹟(聚楽社1955年)・続禅林墨蹟(聚楽社1965年)・禅林墨蹟拾遺(禅林墨蹟刊行会)

堅山南風

没年月日:1980/12/30

 日本画壇の長老で芸術院会員の堅山南風は、12月30日午後3時39分、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去した。享年93。同月24日の停電で暖房が切れ、この時ひいた風邪をこじらせたものであったが、寝込む直前まで絵筆をとっていた。南風は、1887(明治20)年9月12日父武次郎、母シゲの三男として熊本市に生まれ、本名熊次。早く父母を亡くし祖父のもとで育ち、土地の画家福島峰雲に師事、1909年上京し同郷の高橋広湖の門に入った。翌年巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して褒状を受けるが、文展には4年連続して落選、13年の第7回文展出品作「霜月頃」はそれまでの歴史画から一転し、紫紅らが押し進めた色彩美を重んずる新感覚的画風への接近を示す作品で、大観の強い推薦により二等賞となった。しかし審査をめぐる意見の食違いから大観は文展審査員を辞し日本美術院を再興、南風もまた美術院に走り、大観を師として仰ぐ、美術院に入った当初スランプに陥り、古径や青邨・靫彦らの陰に隠れた感があったが、写生の基本に戻り次第に花鳥画に活路を見出すようになる。22年第9回院展「桃と柘榴」あたりから作品は充実の度を加え、24年には同人、以後「魚楽図連作」(26年)「夏題十趣」(27年)「銷夏帖連作」(29年)「射翠帖連作」(34年)などを発表し、気負いのない「知足安分」の画境を展開した。戦後45年、日展への参加要請を日本美術院が受諾したこともあり、46年より審査員を度々つとめ55年に参事となっている。戦後の南風芸術を特色づけるものは肖像画であり、54年第39回院展「O氏像」を皮切りに、「武者小路先生」(55年)「横山大観先生」(57年)「静子夫人」(60年)「K先生」(64年)「新涼の客」(69年)など、純粋素朴な南風の人柄そのままに、明るい色彩と大らかな画風の作品を描いた。またこの間、64年より3年をかけて日光東照宮本地堂の天井画「鳴竜」(狩野安信筆、36年焼失)を復元している。米寿の75年にはタヒチへ写生旅行をして色彩は一層鮮明になり、最期まで若々しさを失わなかった。58年芸術院会員、63年文化功労者、68年文化勲章を受章、69年には熊本市名誉市民となっている年譜1887 9月 12日、熊本市で、父武次郎、母シゲの3男として生まれる。本名熊次。1888 8月 1日、母シゲ落雷のため不慮の死をとげる。享年27。1893 5月 21日、父武次郎病没。享年40。以後祖父に養育される。1894 4月、熊本市立壷川小学校に入学する。1898 3月、壷川小学校を卒業、4月、高木高等小学校に入学する。高等小学校では、自由画に才能を発揮、1年の時写生した「ざくろ」が図画教師に激賞される。1900 この頃「鯉の画人」として有名な地元の雲林院蘇山の絵に傾倒する。1903 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する。1904 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する。9月、祖父武八没、享年82。1905 この頃、月に1、2度、図書館へ行き、『日本美術』『国華』などの木版印刷の口絵を模写したり、梶田半古、鏑木清方の挿絵を写す。1906 この頃より地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する。1909 5月 3日、同郷の先輩山中神風に連れられて上京。車中で『十八史略・尭舜篇』の「南風之詩」より「南風」の号を自ら選ぶ。神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る。秋、「燈火」を第三回文展に初出品するが落選。1910 3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける。秋、第4回文展に源義家の故事を題材にした「義家観飛雁行」(現在は「飛雁行を見る」と改題)を出品、落選する。1911 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える。巽画会に甲冑棚を題材にした「弓矢神」を出品して三等銅牌を受賞する。秋、「七媛」第5回文展に出品したが落選。1912 6月 2日、師高橋広湖急逝。巽画会出品の「路辺」一等褒状を受賞。第6回文展に六曲半双の「木曾義仲」を出品したが、落選する。1913 スランプに陥り、巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞になったほか、勧業展、日本画会展と落選する。「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける。「霜月頃」は旧藩主細川護立侯に買い上げられ、以後、細川侯の庇護を受ける。1914 横山大観に師事。夏、熊本に帰省。日本美術院が再興されると文展出品をやめ、「日和つづき」を第1回院展に出品、入選する。1915 3月、佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚。第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選したが、大観から「題材の品が悪い」と叱られる。1916 11月 25日、沈滞ぎみの画境を打開するため、荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう。約2カ月間、市内や郊外に出かけ、風景、人物のほか、博物館の仏像を写生する。1917 2月、ブッタガヤ、デリーを旅し、高原の都市シムラ、ダージリンでヒマラヤ連峯やその周辺の写生をする。帰途ボンベイに立ち寄り、エレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘、15日間写生に費やす。4月、帰国。9月、第4回院展に、インドでの印象を八曲屏風に描いた「熱国の夕べ」を出品したが、赤や緑の強い色彩を使ったため、「南風、色盲となる」と酷評される。1918 この頃より健康をそこね、極度のスランプに陥る。1919 9月、第6回院展に出品した「ダリヤ」が落選。1920 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める。この頃より花鳥画の制作のため東京近郊、山梨あたりまで写生族行する。1921 雪中の美人を描いた六曲一双屏風「雪の朝」を制作。10月、織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する。1922 第9回院展に3年振りに出品した2曲1双の「桃と柘榴」が横山大観に好評され、スランプから脱却し始める。1923 第10回院展に2曲1双の「粟と浦島草」を出品。9月 1日、院展開催日に大震災起こる。1924 3月、日本美術院同人に推挙される。9月 第11回院展に「霜旦」「残照」の双幅を出品。1925 春、帰郷する。第12回院展「梅花遊禽」(6曲1双)。この年、「大震災絵巻」3巻を制作。1926 東京府美術院評議員に任命される。5月、聖徳太子記念奉讃美術展に「讃春舞」を出品。第13回院展に5連作「魚楽図」を出品。12月、巣鴨より小石川区の細川邸の一画に移転する。1927 6月、東京会名家新作展に「淵」を出品。第14回院展に「驟雨」「日ざかり」など夏の風物10種を装飾的、写実的にとり上げた「夏題10趣」を制作する。この頃から民謡踊りに熱中し、写生を兼ねて日本各地を民謡を求めて歩く。1928 3月、第13回美術院試作展に「暮雪」を出品。夏 熊本に帰郷し、兄文八の借金返済のため画会を行う。第15回院展に「暁露」「微風」の双幅を出品する。1929 3月、第14回美術院試作展に「浅春」「水温」「晴嵐」を出品。9月 第16回院展に「巣籠」「朝顔」「細雨」「日明」「秋草」の5連作の「銷夏帖」を出品。秋、横山大観の推薦で、新築した日光東照宮朝陽閣の障壁画揮毫のため、中村岳陵、荒井寛方と日光へ行き、12月30日まで滞在して制作する。1930 3月、第2回聖徳太子記念奉讃美術展に「鱗光閃々」を出品。4月、ローマ日本美術展に「水温」「朝顔」「巣籠」の3点が選ばれ、出品される。1931 第18回院展「争魚」。『美術新論』 10月号に「苦難時代を語る」を執筆。10月中旬、病気保養のため長岡市に赴く。1932 3月 東京・日本橋三越の満州派遣軍慰問展に「うごひ」を出品。3月、第16回美術院試作展に「うごひ」「けし」を出品。第19回院展に「あげ汐」「日午」を出品。1933 第20回院展に「花繚乱」を出品。4月、第6回茨城美術展に「雨後」を賛助出品する。10月、院同人新作画展に「上げ汐」を出品。12月、皇太子誕生を祝して美術院同人一同謹作の画帳を制作、翌9年2月22日、画帳『旭光帖』乾・坤二帳を献上する。1934 2月、美術院同人新作展に「淵」を出品。3月、第18回美術院試作展に「雨霽」「麗」の2点を出品。第21回院展に、小動物、小魚、鳥を水墨、淡彩、設色の様式で10点連作形式にまとめた「射翠帖」を出品。9月中旬より一週間、福島地方へ写生旅行をする。1935 3月、東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「鱗光閃々」が選ばれ、展示される。第19回美術院試作展に「日午」を出品。9月、帝展の西沢笛畝、松本姿水、院展の酒井三良の4名で研究会「伸々会」を結成する。1936 2月、新帝展に「ぼら網」を出品、李王家買い上げとなる。第23回院展「白雨」。10月、府下砧に転居。同月中旬、越後湯沢より秘境清津峡谷へ写生旅行をする。この頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入る。1937 9月、第24回院展「朔風」出品。大観の激賞を受く。1938 3月、東京の広島晃甫、奥村土牛ら、京都側より小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉と丼丼会を結成、第1回展に「白雨」「斜陽」「水温む」の3点を出品。9月、第2回文展審査員。第25回院展に「残照」(六曲一双)を出品。10月、第2回文展に「雨後」を出品。1939 1月中旬より胃腸病の療養のため、甲府市外の油村温泉で10日間滞在する。2月、「惜春」を制作する。9月、第26回院展に「千里壮心」(六曲一双)。1940 4月、前年度院展出品作「千里壮心」が福岡日々新聞社が紀元2600年を記念して創設した第1回西日本文化賞に選ばれる。春、『現代名家自選素描第三輯堅山南風魚類篇』(芸艸堂)刊行。7月、はじめての個展を開催(東京佐藤梅軒画廊)。主宰する南風塾を翠風塾と改称する。この年、『堅山南風』(美術春秋社)が刊行される。1941 9月、国際文化振興会主催の仏印巡回日本画展内示会(日本橋三越)に「泉水」が展示される。9月、第28回院展に「新涼」(六曲一双)を出品。1942 2月、美術院同人軍用機献納作品展に「爛漫」を出品する。日本画家報国会軍用機献納作品展に「春瀬」を出品する。1943 1月、全日本画家献納画展に「薫風」を出品。1944 6月、千葉県安房郡清澄寺の杉戸十面に揮毫する。11月、文部省戦時特別美術展に「赤絵皿の鯉」を出品。1945 6月、横山大観と一緒に山梨県山中湖畔に疎開する。9月 帰郷。11月、美術院小品展に「栗」を出品。帝国芸術院より文部省の主催する日本美術展への参加要請を日本美術院が受諾する。1946 3月、文部省主催第1回日展に「薫風颯々」を出品。9月、第31回院展に「八朔」を出品。10月、第2回日展に「潮」を出品。審査員。1947 第32回院展に「朝凪」「片影」「淙流」の3点を出品する。第3回日展「犬」、審査員。この頃より聴力衰え、補聴器を使用する。1948 第33回院展に「新涼」を出品。1949 第34回院展3点連作「蔬果図」を出品する。1950 6月、第6回日展審査員。秋の第35回院展に「新涼雅品」を出品。1951 5都連合新作展第1回展に「祝い日」を出品する。日展運営会参事、第7回日展審査員となる。第36回院展に「白雨」出品。外務省より外国公館装飾用の日本画の依頼を受け、「曙色」を制作する。1952 3月、「白雨」が文部省買い上げ美術品となる。第8回日展に「新涼」を出品。1953 外務省は4月の皇太子殿下のイギリス女王戴冠式列席を期して、欧米各国大使館の装飾用として30数点の日本画を配置したが、「曙色」はサンフランシスコ総領事館に掲額される。6月、創刊された日本画美術誌『萠春』に「大観、玉堂先生の近業」を執筆する。第38回院展に「向日葵」「睡蓮」の2点を出品。第9回日展に「燦日」を出品。審査員。1954 7月、奥村土牛、酒井三良らと箱根に旅行する。9月、第39回院展に「O氏像」(モデル奥村土牛)出品。第10回日展に水墨淡彩の「雨霽」を出品。11月、三越50周年記念東西大家日本画展に「春流」を出品する。1955 3月、日本美術院創立60周年記念日本美術院回顧展に「霜月の頃」「白雨」が展示される。横山大観企画の水墨小品展玄皎会第1回展に「晴暉」「暁色」の2点を出品する。第40回院展に「M先生」出品(モデル武者小路実篤)。第11回日展に、参事として「花更紗」を出品。1956 3月、堅山南風、郷倉千靭門の合同塾展旦生会が結成され、その第1回展に「青麦」を賛助出品する。第41回院展に「虹鱒」「鯉」の2点を出品。第12回日展「朝暉」(昭和50年「日午」と改題)を出品。審査員。この年、熊本県文化功労者に推挙される。1957 春の美術院小品展にスケッチ2点「養魚池」「浅間晴日」を出品。3月、堅山・郷倉合同塾展第2回旦生会展に「鳩」を賛助出品する。第42回院展に「横山大観先生」を出品する。日展参事として第13回日展に「画室にて」を出品、これが日展出品作としては最後の作品となる。1958 1月、東京・深川富岡八幡宮に「鯉」の大額を奉納する。2月 26日、横山大観没。4月、伊東深水とともに日本芸術院会員に推挙される。5月、日本美術院が財団法人組織となり監事に就任、同年理事となる。外務省・東京国立近代美術館主催のオーストラリア・ニュージーランド巡回の「日本現代美術展」に「白雨」が選ばれる。美術雑誌『造形』10月号に堅山南風特集が掲載される。1959 3月、伊東深水との二人展に「立葵」ほか2点を出品する。4月下旬、熊本に帰省の折肺炎となり、熊本大学附属病院に3ヶ月入院。1960 随想「故郷に病みて」を美術雑誌『萠春』75号に執筆する。6月、堅山南風素描展(銀座松屋)に素描60点を出品する。第45回院展に「静子夫人」(大観夫人)を出品する。1961 4月、仙台、石巻海岸にスケッチ旅行、ついで5月、房州和田浦に滞在。深水2人展に寺内萬治郎、長谷川昇を加えて交晴会と改称する。第46回院展に「凪」出品。1962 アメリカの週刊誌『タイム』の依嘱により制作した「松下幸之助像」が同誌2月23日号の表紙となる。7月、秋田県を旅行。この年、邦画会より『巨匠画家シリーズ第1輯堅山南風画集』が発刊される。第47回院展に「知秋」出品。1963 第48回院展「K先生」(モデル金山平三)と「肥後椿」を出品する。10月、文化功労者に推挙される。1964 4月、妻および養女久彩子ととも帰郷。5月、奈良、大阪方面を旅行、葛井寺(藤井寺市)の国宝千手観音像をスケッチし、第49回院展に「慈眼」と題して出品。東京国立近代美術館に「応接間の人」「K先生」を寄贈する。勲三等旭日中綬章を受ける。11月、先年焼失した日光輪王寺本地堂の天井画「鳴龍」の復元依頼を受ける。1965 4月から6月にかけて京都、奈良の寺社にある龍の絵を見学、11月末、下絵完成する。1966 4月 3日、「鳴龍」の本描きを始め、7月27日完成。12月、東京浅草待乳山聖天本龍院から依嘱の本堂天井画、内陣の大杉戸「朝暾」「夕月」の2面を完成する。この年、難波専太郎著『堅山南風』が美術探求社より刊行される。1967 11月、中禅寺(立木観音)五大堂外陣の大天井画「瑞龍」が完成する。この年、熊本市民開館緞帳の下絵を制作。1968 11月 文化勲章を受章する。1969 1月 11日付『東京新聞』夕刊に「横山大観先生と私」を執筆する。第54回院展に「新涼の客」(モデル同郷の俳人中村汀女)を出品する。この年、熊本名誉市民となる。6月、奥日光、金精神社本殿の天井画「龍」を制作する。7月、日光中禅寺五大堂の杉戸絵「牡丹」「唐獅子」四面を完成する。1970 『鳴龍完成記念図録』を大塚巧芸社より自費出版する。第55回院展に「雅日」出品。1971 2月、盲腸炎の手術をし、2週間入院する。9月、第56回院展に「更紗の中から」「小坂氏の肖像」の2点を出品する。9月、菊地芳一郎著『堅山南風』(時の美術社)が出版される。10月 9日、妻三栄、脳血栓のため死去。1972 9月、静岡県韮山町に山荘を求める。第57回院展に「黄昏」を出品する。この年、熊本市蘇峰記念館のため、「徳富先生」を制作する。1973 1月、日本画の系譜-先生と弟子展に新作「古代壷の花」を出品する。4月、韮山町の山荘手狭のため、静岡県田方郡に山荘を建築する。以後当地に滞在することが多くなる。第58回院展に「野に呼ぶ」出品。1974 佐賀県基山町中山真語正宗滝光徳寺より依頼の「弘法大師像」「教祖像」の2点を完成する。春、飛騨高山、下呂温泉に旅行。第59回院展に「春の雪」を出品する。1975 3月、米寿を記念して松尾敏男とともにタヒチへスケッチ旅行をする。5月~6月、米寿記念堅山南風花・富士展を東京、大阪の両高島屋で開催し、「日本の春」など13点を出品する。第60回院展に「ボラボラ島にて」「椰子と踊り子」を出品。10月、熊本で堅山南風米寿記念展が開催され、「霜月頃」以下50点が出品される。1976 4月、銀座北辰画廊でタヒチの風物を描いたタヒチの旅から-堅山南風近作展を開催し、「薄暮」など11点の絵と30数点のスケッチを出品する。第61回院展に「夕べの唄」を出品。1977 前年暮れより正月にかけて沖縄に旅行する。第32回春の院展に「装える人」を出品する。9月、川崎市川崎大師平間寺より依嘱されていた「龍」が完成。10月、村瀬雅夫著『庶民の画家 南風』が南風記念館から発行される。1978 1月 4日より『読売新聞』紙上に自伝抄「思い出のままに」を連載。3月、日本放送出版協会より『現代日本画家素描集4 堅山南風インド・タヒチの旅から』が出版される。同月、日本橋高島屋で素描集出版記念堅山南風素描展が開催され、インド・タヒチのスケッチ60数点が展示される。6月、神奈川葉山町の横浜孝道教団本仏殿の大壁画、「大雪山施身聞法」「永劫の光」「聖晨」「聖苑追慕」「歓喜のとき」天井画「瑞気一天」の6点が完成する。10月より11月にかけて、東京、大阪、熊本で、堅山南風自選展を開催。11月、日本放送出版協会より『堅山南風素描「花」』を出版する。1979 3月、第34回春の院展に「花瓶と花」を出品する。6月、朝日新聞社より『堅山南風画集』が刊行される。(『堅山南風画集』朝日新聞社 昭和54年 所載年譜参照)

土方定一

没年月日:1980/12/23

 神奈川県立近代美術館館長、全国美術館会議会長の美術史家、美術評論家の土方定一は、12月23日結腸癌のため鎌倉市の自宅で死去した。享年75。現代美術全般に多大な影響を及ぼした土方は、1904(明治37)年12月25日、岐阜県大垣市に生まれる。22年水戸高等学校文科乙類に入学、在学中同人雑誌「歩行者」「彼等自身」を発刊し詩を発表、また、草野心平の詩誌「銅鑼」の同人となるなど文学活動を行い、27年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、大塚保治、大西克礼教授につく。30年卒業後大学院へ進み、同年、ドイツへ赴くが胸を病んで翌年帰国する。32年、『ヘーゲルの美学-唯物論美学への一寄与』を刊行、34年には明治文学談話会に参加し、機関誌「明治文化研究」の編集にあたる。35年、詩誌「歴程」の同人となり、また「アトリエ」誌上にはじめて美術展評を書き、以後、西洋美術並びに日本の近・現代美術に関する論考、批評を精力的に発表するに至る。38年、内閣興亜院嘱託、ついで41年大東亜省嘱託となり、華北綜合調査研究所文化局副局長に就任し北京へ赴く。同年、『近代日本洋画史』、『岸田劉生』を出版。45年中国から引揚げ、49年千葉工業大学教授となる。50年、『世界美術全集』(平凡社)の編集委員となり、翌年千葉工業大学を辞し、同年開館の神奈川県立近代美術館副館長に就任。54年、美術評論家連盟結成にあたり会長となり、61年には柳原義達、向井良吉らと宇部市彫刻運営委員会をつくり、16名の作家に呼びかけ同市常盤公園でわが国初の野外彫刻展を開催する。63年、『ブリューゲル』を刊行、同書で毎日出版文化賞、67年には『ドイツ・ルネサンスの画家たち』を刊行、翌年同書で芸術選奨文部大臣賞をそれぞれ受賞する。また、65年から神奈川県立近代美術館館長に就任、70年には全国美術館会議会長に選出され、全国公私立美術館の活動全般にわたり指導的役割を果すとともに、以後新設された北海道、群馬、熊本、三重などの美術館建設に尽力する。72年、多年の美術評論活動に対し紫綬褒賞を、翌年、美術館、展覧会の企画活動に対し菊池寛賞を、75年には神奈川文化賞を受ける。78年、勲三等瑞宝章を受章。一方、海外の作品を紹介する企画展覧会の用務をはじめ、しばしば外国へ赴き、その芸術文化に関する国際親善の功績により、ノルウェー、ベルギー、フランス、イタリア、ポーランドからそれぞれ勲章を受ける。また、この間、日本国際美術展、現代日本美術展をはじめ各種の展覧会の審査にあたったほか、文化財専門審議会専門委員(67年、絵画彫刻部会)、群馬県立近代美術館顧問(70年)、国立西洋美術館評議員(71年)、東京国立近代美術館評議員(77年)などを歴任し、76年からは半世紀にわたる厖大な著述を集成した『土方定一著作集』(全12巻、78年完結)を刊行した。主要著作目録1932年 カール・ウィットフォーゲル著、芸術理論家としてのフランツ・メーリング(訳) 「季刊・批評」7月号『ヘーゲルの美学-唯物論美学への一寄与』 木星社1933年 正岡子規の文学論 『正岡子規研究』1934年 わが国浪漫主義文学の展望 「明治文学研究」2月号リアリズム問題に寄せて 「文学評論」3月号高山樗牛と浪漫主義 「唯物論研究」3月号明治の文芸評論(後「明治文学評論史」に改題) 『日本文学講座12・明治大正篇』4月芥川龍之介と葛西善蔵 「浪漫古典」5月号島村抱月と明治美学史 「早稲田文学」6月号森鴎外と明治美学史 「浪漫古典」7月号森鴎外と原田直次郎-明治文学史とのひとつの交流 「文学評論」8月号詩に於ける矛盾の拡大 「文芸」8月号高山樗牛論 「歴史科学」10月号島崎藤村と浪漫主義 『島崎藤村研究』11月号石川啄木と自然主義 『石川啄木研究』『坪内逍遥伝』(千葉亀雄の筆名) 改造社11月1935年 二葉亭四迷、国木田独歩と川上眉山 「早稲田文学」1月号明治文学に於けるレアリズムとロマンチシズム 「唯物論研究」4月号『当世書生気質』と長原孝太郎 「評論」(「リーフレット明治文学」改題)5月号明治浪漫主義文学に於ける新詩社の位置 「立命館文学」6月号白樺とその文化史的意義 「書物展望」11月号印象派の移植と『白樺』 「書物展望」11月号美学か芸術学か-政治からの解放 帝国大学新聞12月23日号1936年 原田直次郎とユリウス・エキステル 「邦画」2月号川上冬崖の生家を訪ふ 「南画鑑賞」5月号フォンタネージの日本 「邦画」3月号『近代日本文学評論史』 西東書林6月1937年 大野幸彦と大幸館 「書物展望」2月号キヨソーネのこと 「書物展望」4月号阿部次郎氏の『美学』に関連して 「コトバ」7月号伝統と形式 「アトリヱ」9月号絵画に於ける文学的なもの 「美術時代」11月号1938年 美学時評 「作品」2月号山本芳翠、合田清と生巧館 「書物展望」7月号書間連想-或いは中村彝とエロシェンコ 「学芸」9月号川上冬崖と幕末、明治初期の洋画 「日本評論」10月号ヘーゲル美学の絵画論 「みづゑ」9、10月号鑑画会に於て 文学士岡倉覚三氏演説(註記) 「書物展望」11月号1939年 森鴎外の『独逸日記』とユリウス・エクステル 「アトリヱ」1月号シューラー著、支那文化と支那美術(訳) 「アトリヱ」5、7月号日本的表現意欲 「南画鑑賞」8月号政治と美術 「アトリヱ」11月号現代支那美術の一断面 「アトリヱ」12月号1941年 追憶のうちにある洋画家達 「アトリヱ」3月号現代支那美術の一端 「アトリヱ」6月号高村光太郎論 「現代文学」10月号美の伝統と政府 「セルパン」12月号『岸田劉生』 アトリヱ社 12月『近代日本洋画史』 昭森社 5月『天心』(東洋美術文庫) アトリヱ社 1月1942年 志賀重昂と「南洋時事」 「新亜細亜」2月号戦争と美術 「古美術」2月号晩年の岸田劉生 「知性」3月号大東亜戦争と美術 「季刊美術」1巻2号風景美論 「生活美術」3月号デューラとイタリア 「日伊文化研究」6号伝統と体験 「画論」9号藤島武二『思い出』筆記 「季刊美術」1巻4号主題とモチーフ 「新美術」11号デューラに於ける写実 「画論」15号エルンスト・ディーツ著『印度芸術』(訳) アトリヱ社1943年 野口米次郎論 「文芸」5月号志賀重昂 「セルパン」7月号『デューラの素描』 創芸社志賀重昂著『知られざる国々』(解題-志賀重昂伝) 日本評論社1946年 蒋兆和と現代の支那美術 「美術」2月号現代の出発の意識について 「アトリヱ」9月号フラン・マズレールのこと 「アトリヱ」10月号絵画の領域 「みづゑ」10月号現代洋画の問題 「みづゑ」11月号1947年 昭和期美術の批判的回顧 「世界美術」1号絵画的レアリテの喪失 「世界美術」1号パウル・クレーと近代性 「世界美術」1号日本におけるセザンヌ 「みづゑ」1月号日本的アカデミズム 東京新聞2月4日魯迅芸術学院の木版画 「アトリヱ」2月号日本画と洋画 「美術及工芸」3月号現代美術と現代文学 「花」4月号近代日本洋画の史的展望 「美術及工芸」6月号福沢一郎論 「みづゑ」6月号画人岸田劉生 「伝記」7月号劉生と4人の友人 「花」8月号近代美術とレアリズム 「みづゑ」8月号精神史的にみた近代絵画 「新科学ペン」10月号1948年 近代絵画とデフォルマシオン 「早稲田文学」3月号脱出の画家ゴーガン 「みづゑ」3月号岡鹿之助 「創美」5月号岡倉天心 「博物館ニュース」11月号中国の木刻 「季刊中国」2号『現代美術-近代美術とレアリズム』 吾妻書房 11月1949年 絵画の近代 「アトリヱ」4月号三つのレアリズム 「アトリヱ」5月号近代美術のレアリズム 「みづゑ」5月号ゴッホ、マチスと上村松園 「三彩」5月号クールベとプルードン-或は政治と絵画 「アトリヱ」7月号安井、梅原自選展 「みづゑ」7月号麻生三郎論 「みづゑ」8月号自然主義とレアリズム 「みづゑ」10月号20世紀レアリズム 読売新聞10月3日批評の批評の批評 「アトリヱ」11月号セザンヌとセザンヌ伝説 「アトリヱ」12月号『社会科事典・第8巻 日本-美術』 平凡社『大百科事典補遺2 日本-美術』 平凡社1950年 現代絵画と生活感情 毎日新聞2月25日セザンヌ、ドランと安井曾太郎 「アトリヱ」4月号近代絵画の運命 「芸術新潮」5月号銅像彫刻は何処へ行く 「芸術新潮」6月号美術のヒューマニズムという事 「アトリヱ」6月号自画像 「美術手帖」8月号逆光のなかのファンタジー-香月泰男の絵 「アトリヱ」10月号高村光太郎-訪問記 「美術手帖」12月号贋物の勝利 「芸術新潮」12月号幻想のある映像 「アトリヱ」12月号現代中国の美術 『現代中国辞典』 現代中国辞典刊行会『中国木刻集』(「中国の木刻」) 中日文化研究所『世界美術全集・第24巻・西洋19世紀3-フィンセント・ファン・ゴッホ』 平凡社1951年 特集、近代絵画50年、キュービスム 「美術手帖」1月号藤島武二代表作展 朝日新聞3月20日抽象絵画とレアリズム 「美術手帖」4月号香月泰男個展 毎日新聞(夕)4月24日ゴッホの素描と油彩 「美術手帖」5月号森芳雄個展 毎日新聞6月2日川端実個展 毎日新聞6月28日近代美術館創生期 「芸術新潮」7月号村井正誠個展 毎日新聞7月12日ひとつの心理的映像-井上三綱について 「アトリヱ」8月号ムンクへの回想 「みづゑ」8月号ピカソ展 毎日新聞8月28日アンドレ・ミノー 「美術手帖」9月号現代美術の展望 「アトリヱ」11月号特集・東洋と西洋、芋銭 「芸術新潮」11月号岡本太郎個展 毎日新聞11月3日ゴーガンの芸術とエジプト、ジャヴァ、古代ギリシャ 「アトリヱ」12月号高畠達四郎展 毎日新聞12月12日『美術』(毎日ライブラリー)(編) 毎日新聞社『商業デザイン全集(6巻)』(共編) イヴニングスター社『世界美術全集・第25巻・日本4』 平凡社『文学講座1 文学の問題-文学と美術』 筑摩書房『世界美術全集・第22巻・西洋19世紀1-ジャック・ルイ・ダヴィッド』 平凡社1952年 佐伯祐三展について 神奈川県立近代美術館カタログ 1月海老原喜之助の<騎馬>など 「美術手帖」3月号佐伯祐三について 「みづゑ」3月号海老原喜之助のこと 「みづゑ」5月号イタリアの現代美術 「みづゑ」7、8月号ピニヨンとリュルサの個展 「みづゑ」9月号近代美術館のあり方 「工芸ニュース」11月号1953年 Illustrationの伝統の中のロートレック 「みづゑ」1月号現代芸術の最先端 「芸術新潮」1月号ロルジュと社会諷刺 「美術批評」1月号リュシアン・クートーの心理風景 「芸術新潮」2月号リュシアン・クートーについて 「みづゑ」2月号ブランクーシとマリノ・マリーニ 「みづゑ」3月号高村光太郎、人と作品 「芸術新潮」6月号岸田劉生(本朝洋画家伝6) 「中央公論」7月号デ・キリコとカルロ・カルラ 「みづゑ」8月号エトルリアの遺跡 「芸術新潮」8月号脇田和論 「みづゑ」9月号オランダの現代版画 「みづゑ」10月号ルオー・人と芸術 「国立博物館ニュース」10月号コルマールのウンターリンデン美術館 「美術手帖」10月号デルフト市のフェルメール 「芸術新潮」12月号『ヨーロッパの現代美術』 毎日新聞社『現代世界美術全集・第5巻-パリ近代美術館とフェルナン・レジェ』 河出書房『世界美術全集・第23巻・西洋19世紀2-ドーミエとクールベの写実主義』 平凡社『年刊世界文化事典1953-美術館』 平凡社1954年 ポーランド生れの諷刺画家フェリックス・トポルスキー 「美術手帖」2月号フェルメール 「みづゑ」3月号バルデサリのゴッホ展の設計 「みづゑ」3月号日本美術の国際交流 毎日新聞3月11日レンブラントの家 「美術手帖」6月号テート・ギャラリーとポール・ナッシュ 「美術手帖」8月号デ・キリコとダリの近作 「みづゑ」9月号ピカソ展とシャガール展 「芸術新潮」9月号イタリアの現代彫刻 「日伊文化研究復刊」1号『日本現代画家選3 16・脇田和』 美術出版社『世界文化年鑑1954-美術館』 平凡社1955年 私の認める前衛美術・現在の視野について 「芸術新潮」2月号マンジーとマスケリーニ 「みづゑ」3月号マックス・エルンスト 人と作品 「美術手帖」3月号現代イタリア美術展について 神奈川県立近美術館展覧会カタログ 4月クラナハとその裸婦 「みづゑ」5月号イタリアの現代美術 「みづゑ」6月号特集・メキシコの美術、メキシコ美術の相貌 「美術手帖」10月号荻須高徳展について 神奈川県立近代美術館カタログ 10月荻須高徳論 「みづゑ」11月号『世界美術館めぐり』(1時間文庫) 新潮社『シャガール』(アート・ブックス) 講談社『メキシコ絵画』(原色版美術ライブラリー) みすず書房『クレー』(原色版美術ライブラリー) みすず書房『世界文化年鑑1955-美術館』 平凡社1956年 鳥海青児個展(展覧会評) 毎日新聞1月25日グリューネヴァルトと死の踊り 「みづゑ」1月号ヘンリ・ムア(現代美術7人の巨匠2)「芸術新潮」2月号安井曾太郎の写実について 「みづゑ」2月号彫刻家として詩人としての高村さん 読売新聞4月2日安井曾太郎遺作展(展覧会評) 毎日新聞4月8日棟方版画と現代日本美術 読売新聞6月22日雪舟の回想 「みづゑ」6月号浦上玉堂 「みづゑ」7月号レムブラントとカラヴァジェスク 「みづゑ」9月号銅像彫刻の行方 「芸術新潮」9月号福沢一郎油絵展(展覧会評) 毎日新聞10月6日日本の彫刻 「芸術新潮」10月号ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の歴史 「国立近代美術館ニュース」16『生活の中の近代美術』(共著) 毎日新聞社ジェイムス『ヴァン・ゴッホ1、2』(フェーバー世界名画集)(訳) 平凡社『世界美術全集・第28巻・日本5-断絶から継続、発展への展望』 平凡社1957年 生きている絵画1~7 「芸術新潮」1~8月「美術交流」中央機関の設置を(論壇) 毎日新聞5月29日日展・芸術院問題について 読売新聞7月12日ピカソの版画 「みづゑ」8月号戦後美術賞の価値 「芸術新潮」9月号現代ドイツの美術 「みづゑ」10月号ピーター・ブリューゲルの時代(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・1) 「みづゑ」11月号ブリューゲルとアントウェルペン(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・2) 「みづゑ」12月号野外彫刻展の方向 神奈川県立近代美術館「集団58野外彫刻展」カタログ 12月『ゴッホの水彩と素描』 美術出版社『現代イタリアの彫刻(座右宝美術叢書3)』 河出書房新社『高村光太郎』 筑摩書房1958年 野外彫刻展の方向 朝日新聞1月27日制作の秘密(パウル・クレーの日記)(訳) 「芸術新潮」1月号ブリューゲルとイタリア(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・3) 「みづゑ」2月号海老原喜之助(現代を担う人3) 「芸術新潮」3月号松本竣介・島崎鶏二展(展覧会評) 朝日新聞4月14日佐伯祐三作品展(展覧会評) 朝日新聞4月14日ブリューゲルとボッシュ・1(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・4) 「みづゑ」5月号特集・芸術と人気のからくり-画家の人気と市場 「芸術新潮」5月号特集・最先端に立つ5人の画家-菅井汲 「芸術新潮」6月号東西美術論をこう読んだ-マルロオのフランス中華思想 「芸術新潮」8月号ファン・ゴッホとオランダ 「みづゑ」11月号『美術』(毎日ライブラリー・新版)(編) 毎日新聞社『造型の心理-生きている絵画』 新潮社ブロック『セザンヌ』(フェーバー世界名画集)(訳) 平凡社ストークス『セザンヌ2』(フェーバー世界名画集)(訳) 平凡社1959年 ビュッフェ展(展覧会評) 朝日新聞3月2日現代彫刻50選 「芸術新潮」3月号現代彫刻の方向 毎日新聞7月23日海老原喜之助素描展(展覧会評) 朝日新聞9月16日転換期にある現代彫刻展(アントワープの野外彫刻展を見て) 「芸術新潮」9月号特集・美の典型1-ギリシャ 「芸術新潮」10月号カイエダール・未完の傑作-ダヴィンチ<聖ヒエロニムス>、セザンヌ<水浴する人たち>、ブランクーシ<無限の柱> 「芸術新潮」10月号ブリューゲルとブレダ(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・5) 「みづゑ」10月号ブリューゲルとボッシュ(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・6) 「みづゑ」11月号『近代日本の画家たち』 美術出版社ブリューゲルとボッシュ・2(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・7) 「みづゑ」12月号1960年 特集・シャガール-奇蹟の画家 「みづゑ」1月号ミロの絵がここから生れた 「芸術新潮」1月号国内評価と国際評価 毎日新聞2月11日マリーニの版画 読売新聞2月15日ブリューゲルとボッシュ・3(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・8) 「みづゑ」2月号特集・名画による人間の歴史(編・解説) 「芸術新潮」2月号近代美術と群像 毎日新聞3月28日ブリューゲルと中世の諺(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・9) 「みづゑ」3月号特集・近代美術の捨石-2欧州 ガウディ他の作家 「芸術新潮」4月号荻須高徳の近作 「みづゑ」4月号ブリューゲルの初期風景画(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・10) 「みづゑ」4月号ブリューゲルの初期風景画・2(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・11) 「みづゑ」5月号ブリューゲルと異端(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・12) 「みづゑ」6月号グリューゲルと異端・2(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・8) 「みづゑ」7月号グリューネワルトの復活(ミステリー・古美術8) 「芸術新潮」8月号ブリューゲルと異端・3(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・14) 「みづゑ」8月号20世紀フランス美術展の展望(展覧会評) 毎日新聞9月15日浜田知明の版画 「みづゑ」9月号ブリューゲルと異端・4(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・15) 「みづゑ」9月号深沢幸雄(現代日本の作家像) 「美術手帖」9月号ロッテルダムの都市と彫刻 「美術手帖」10月号ブリューゲルの12ヵ月図・1(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・16) 「みづゑ」10月号ブリューゲルの12ヵ月図・2(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・17) 「みづゑ」11月号ブリューゲルの12ヵ月図以後(ブリューゲルと北方ルネサンスの画家たち・18) 「みづゑ」12月号1961年 円空-この、魔術的造像僧 「みづゑ」1月号聖ルカ組合の成人としての画家(呪術師・職人・美術家・1) 「美術手帖」1月号イタリア現代彫刻の系譜-その伝統と現在 「みづゑ」2月号中世社会のなかの建築家(呪術師・職人・美術家・2) 「美術手帖」2月号ヴェネツィアのガラス職人(呪術師・職人・美術家・3) 「美術手帖」3月号美術展覧会の誕生(呪術師・職人・美術家・4) 「美術手帖」4月号アフリカの彫刻 「みづゑ」5月号仮面の彫刻家(呪術師・職人・美術家・5) 「美術手帖」5月号向井良吉の彫刻-形と建築の意識について 「みづゑ」6月号組合画家と宮廷画家(呪術師・職人・美術家・6) 「美術手帖」6月号クレーの人形芝居 「芸術新潮」7月号蒐集家、鑑定家、画商(呪術師・職人・美術家・7) 「美術手帖」7月号<パウル・クレー研究・1>パウル・クレーと色彩分割 「みづゑ」8月号近代画商の誕生(呪術師・職人・美術家・8) 「美術手帖」8月号イタリアの新人作家たち 「みづゑ」9月号ピカソの画商(呪術師・職人・美術家・9)「美術手帖」9月号建築と彫刻・絵画の融合 朝日新聞(夕)10月13日<パウル・クレー研究・3>晩年のパウル・クレー 「みづゑ」10月号呪術師としての画家(呪術師・職人・美術家・10) 「美術手帖」10月号先史時代のグラフィックの職人(呪術師・職人・美術家・11)(完) 「美術手帖」12月号1962年 大正期の洋画展 「芸術新潮」1月号現代美術の条件測定・国際具象派美術展(展覧会評) 毎日新聞(夕)4月20日リン・チャドウィック(戦後の現代彫刻・1) 「みづゑ」4月号アーミテージ(戦後の現代彫刻・2) 「みづゑ」5月号ペナルバ(戦後の現代彫刻・3) 「みづゑ」6月号アジューの彫刻(戦後の現代彫刻・4) 「みづゑ」7月号セザールの彫刻(戦後の現代彫刻・5) 「みづゑ」8月号リン・チャドウィック-不安の幾何学といわれる彫刻 神奈川県立近代美術館「チャドウィック、アーミテージ彫刻展」カタログ 8月ケネス・アーミテージ-じゃが芋と割箸の彫刻 神奈川県立近代美術館「チャドウィック、アーミテージ彫刻展」カタログ 8月ビザンティン芸術のなぐさめ 「芸術新潮」9月号萬鉄五郎ノート 「三彩」9月号ハンス・エルニーのこと 神奈川県立近代美術館「ハンス・エルニー展」カタログ 9月日本にあるパウル・クレー 神奈川県立近代美術館「日本にあるパウル・クレー展」カタログ 9月レッグ・バトラーの彫刻(戦後の現代彫刻・6) 「みづゑ」9月号ハンス・エッシュバッハー(戦後の現代彫刻・7) 「みづゑ」11月号鳥海青児の芸術 「みづゑ」12月号『クレー』(世界名画全集・14) 平凡社『木内克作品集-木内克の世界』 美術出版社1963年 大正期の洋画 「三彩」1月号複製芸術としての彫刻 毎日新聞(夕)1月14日須田国太郎遺作展 毎日新聞(夕)3月4日ウォトルーバ・四角柱と円筒柱の造型単体・8 「みづゑ」3月号『ブリューゲル』 美術出版社 6月海老原喜之助自選展(展覧会評) 毎日新聞7月19日現代イギリス彫刻(モアからターンブル) 「みづゑ」7月号福田豊四郎展 神奈川県立近代美術館「上村松篁、福田豊四郎展」カタログ 9月ブラックの死に静かな哀悼 毎日新聞9月2日海老原喜之助自選展・海老内喜之助の青(今月の陳列室) 「文芸春秋」10月号『画家と画商と蒐集家』岩波新書 岩波書店 12月『松本竣介画集-松本竣介』 平凡社1964年 浜田知明の芸術 熊本日日新聞6月26日はじめて開かれた高橋由一の回顧展 「芸術新潮」174号鑑賞席・日本古美術展から(3)彫刻-象徴と人間との境 「朝日ジャーナル」6ノ431965年 スペインのアンプリアス遺跡 「みづゑ」4月号三岸好太郎展(展覧会評) 読売新聞5月3日高畠達四郎展(展覧会評) 毎日新聞(夕)6月8日岡田謙三(現代日本の100人) 「文芸春秋」7月号「現代の洋画」と「フューザン」 「本の手帖」1-7号『渡辺崋山』(少年伝記文庫) 国土社『三岸好太郎画集-三岸好太郎』 平凡社1966年 たそがれのミケランジェロ 「芸術新潮」3月号カンピーリの近作展(展覧会評) 「朝日ジャーナル」3月12日号高村さんの彫刻(高村光太郎と智恵子展)(展覧会評) 読売新聞(夕)3月15日現代美術の断層 毎日新聞5月3日ドイツ・ルネサンスの画家たち・1(ルーカス・クラーナハ(1)) 「みづゑ」5月号近代日本洋画の150年展 神奈川県立近代美術館展覧会カタログ 6月ドイツ・ルネサンスの画家たち・2(ルーカス・クラーナハ(2)) 「みづゑ」6月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・3(ルーカス・クラーナハ(3)) 「みづゑ」7月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・4(ラート・ゲープ(1)) 「みづゑ」8月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・5(ラート・ゲープ(2)) 「みづゑ」9月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・6(デューラーとヨハネ黙示録(1)) 「みづゑ」10月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・7(デューラーとヨハネ黙示録(2)) 「みづゑ」11月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・8「デューラーとヨハネ黙示録(3)) 「みづゑ」12月号野口弥太郎 「国際写真情報」189号『日本の近代美術』(岩波新書) 岩波書店『木喰の彫刻』 講談社秀島由己男のこと 「秀島由己男展目録」 南天子画廊1967年 岡田謙三 毎日新聞1月1日ドイツ・ルネサンスの画家たち・9(職人時代のグリューネウァルト) 「みづゑ」1月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・10(グリューネウァルトの自画像) 「みづゑ」2月号現代美術の新世代(上)(下) 毎日新聞(夕)3月21、22日ドイツ・ルネサンスの画家たち・11(デューラーとグリューネウァルト) 「みづゑ」3月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・12(イーゼンハイムの祭壇画) 「みづゑ」4月号石本正 「芸術新潮」4月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・13(アルトドルファーとドナウ派) 「みづゑ」5月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・14(バーゼルのハンス・ホルバイン(子)」 「みづゑ」6月号麻生三郎のこと 「武蔵野美術」6月号ドイツ・ルネサンスの画家たち・15(傭兵隊書記ニクラウス・マヌエル) 「みづゑ」7月号記録画としての戦争美術 毎日新聞(夕)8月23日ドイツ・ルネサンスの画家たち・16(デューラー以後とマニエリスム) 「みづゑ」8月号地下に眠った1900年「ポンペイ古代美術展」(展覧会評) 「国際写真情報」197号『ドイツ・ルネサンスの画家たち』 美術出版社香月泰男の世界 神奈川県立近代美術館「香月・高山二人展」カタログ『画集シベリア-香月泰男』 求龍堂1968年 現代の仮説・世界に通用する12人 「芸術新潮」1月号この人に期待する2・井上武吉 東京新聞2月5日藤田嗣治のこと 「三彩」3月号古典的芸術論は崩壊するか(上)(下) 毎日新聞4月5日、6日レンブラントと現代 朝日新聞4月25日現代の彫刻的状況-野外環境と密室環境 読売新聞(夕)10月21日巨匠とともに・グリューネウァルト・1 「三彩」11月号関根正二 「季刊芸術」2ノ11969年 前田寛治ノート 「前田寛治展カタログ」 1月レンブラント・ファン・レイン(1)~(4) 「季刊芸術」8-11号香月泰男の世界 「芸術新潮」5月号巨匠とともに・グリューネウァルト・2 「三彩」1月号パウル・クレー-人と芸術 「パウル・クレー展カタログ」7月 神奈川県立近代美術館『福沢一郎画集・蟹のよこばい-福沢一郎の世界』 求龍堂1970年 レンブラント・ファン・レイン(5)~(7) 「季刊芸術」12-15号エドヴァルド・ムンク-人と芸術 「エドヴァルド・ムンク展カタログ」9月 神奈川県立近代美術館世界美術の多元性 「仏教芸術」75号高山辰雄の世界 「芸術新潮」4月号『パウル・クレー画集-パウル・クレー』 求龍堂1971年 毎日芸術賞・宇治山哲平 毎日新聞(夕)1月1日鳥海さんの近作のこと 「アート」2月号レンブラント・ファン・レイン(8) 「季刊芸術」5ノ1幻視の画家-関根正二 「世界」4月号高橋由一とその時代展について 「高橋由一とその時代展カタログ」 神奈川県立美術館デッサン・水彩・版画あるいは、いまひとつの海老原芸術 「海老原喜之助デッサン・水彩・版画展カタログ」 神奈川県立近代美術館荻須高徳展に際して 「荻須高徳展カタログ」 神奈川県立近代美術館“ボルドー美術館名作展”の作家と作品 「ボルドー美術館名作展カタログ」 神奈川県立近代美術館『ムンク画集』 筑摩書房海老原喜之助論 「海老原喜之助展カタログ」 毎日新聞社『大正・昭和期の画家たち』 木耳社『岸田劉生』 日動出版『評伝レンブラント・ファン・レイン』 新潮社『神奈川県美術風土記・明治大正篇-鵠沼、鎌倉時代の岸田劉生』 神奈川県立近代美術館『日本絵画館(11) 現代-昭和期の絵画』 講談社1972年 画家と言葉と1~6 「素描」6、7、9、11、16、19青木繁とわが国浪漫主義の晩果 「絵」101号多田美波 「芸術新潮」4月号鳥海芸術を・ひとつの視角から 「三彩」増刊294号ペーテル・ブリューゲルの人と芸術 「ペーテル・ブリューゲル版画展カタログ」 神奈川県立近代美術館回想のジェームズ・アンソール-仮面と骸骨について 「ジェームズ・アンソール展カタログ」 神奈川県立近代美術館ブールデル、マイヨール、ジャコメッティ-ぼくのなかのひとつの連関について 「巨匠ブールデルの全貌展カタログ」 神奈川県立近代美術館『大系世界の美術16・バロック美術-絶対王政下と市民社会下の美術、17世紀のオランダ絵画』 学習研究社『神奈川県美術風土記、高橋由一篇-総論、高橋由一の人と芸術』 神奈川県立近代美術館『Oguiss-荻須高徳、人と芸術』 毎日新聞社1973年 関根正二、遺聞 「絵」107、111号加山又造論 「芸術新潮」7月号若林奮の経験の集約 「三彩」9月号吉原治良さんのこと 「吉原治良展カタログ」 神奈川県立近代美術館黒田清輝と日本的アカデミスム 「黒田清輝展カタログ」 神奈川県立近代美術館村井正誠さんのこと 「村井正誠展カタログ」 神奈川県立近代美術館逃名の人、原勝四郎 「原勝四郎展カタログ」 神奈川県立近代美術館デ・キリコ-この偉大な形而上的美学の表象の司祭 「デ・キリコ展カタログ」 神奈川県立近代美術館形と色のこと 「第5回現代日本彫刻展カタログ」 宇部市パウル・クレー著『造形思考(上)(下)』(共訳) 新潮社『神奈川県美術風土記、近代篇-鳥海青児と平塚、藤沢』 神奈川県立近代美術館『近代日本文学評論史』(日本文学研究基本叢書) 法政大学出版局『高橋由一画集-高橋由一の人と芸術』 講談社『浜口陽三版画作品集-浜口陽三の世界』 南天子画廊1974年 香月泰男を悼む 毎日新聞(夕)3月11日流政之 「芸術新潮」7月号阿部展也回顧展に寄せて 「阿部展也展カタログ」 神奈川県立近代美術館回想のヘンリー・ムア 「ヘンリー・ムアによるヘンリー・ムア展カタログ」 神奈川県立近代美術館原勝郎さんのこと-生活のある絵 「原勝郎展カタログ」 神奈川県立近代美術館木内克さんの彫刻造形 「木内克彫刻展カタログ」 日動サロン柳原義達の最近の仕事、雑感 「柳原義達展カタログ」 現代彫刻センター『大系世界の美術20・現代美術』(共著) 学習研究社『鳥海青児』(日本の名画) 講談社『関根正二』(日本の名画) 講談社『ブリューゲル全版画』 岩波書店『村井正誠作品集』 美術出版社『小熊秀雄、詩と絵と画論-小熊秀雄の素描と油絵』 三彩社1975年 近藤弘明 「芸術新潮」7月号ドーミエ-その人と芸術 「ドーミエ展カタログ」 神奈川県立近代美術館中国の木刻 「中国木版画展カタログ」 神奈川県立近代美術館田中阿喜良君の人間像 「田中阿喜良展カタログ」 神奈川県立近代美術館ポール・デーヴィスという人 「ポール・デーヴィス展カタログ」 神奈川県立近代美術館追憶のなかの林武さん 「林武展カタログ」 日本経済新聞社保田春彦 「個展カタログ」 南天子画廊『清水登之画集-清水登之の人と作品』 日動出版『ヒエロニムス・ボス』(新潮美術文庫) 新潮社『子規写生画-子規、写生画の視覚的、絵画的世界』 講談社『今西中通画集-回想の今西中通』 三彩社1976年 北方的な幻花の画家-三上誠ノート 「三上誠展カタログ」 神奈川県立近代美術館宇治山哲平の沸々たる抽象世界 「宇治山哲平展カタログ」 神奈川県立近代美術館高畠達四郎の絵画世界 「高畠達四郎展カタログ」 日本経済新聞社清水九兵衛 「個展カタログ」 南画廊『土方定一著作集1 呪術師、職人、画家と美術市場』 平凡社『土方定一著作集2 ドイツ・ルネサンスの画家たち』 平凡社『土方定一著作集3 ブリューゲルとその時代』 平凡社『土方定一著作集4 レンブラント』 平凡社『土方定一著作集6 近代日本の画家論1』 平凡社『土方定一著作集7 近代日本の画家論2』 平凡社1977年 第9回「日本芸術大賞」の清水九兵衛 「芸術新潮」7月号近代日本洋画史のひとつの展望-「日本洋画を築いた巨匠展」を機に 「日本洋画を築いた巨匠展カタログ」 神奈川県立近代美術館オスロのムンク美術館とエドヴァルド・ムンク 「ムンク版画展カタログ」 神奈川県立近代美術館関根正二の追跡-幻視の画家 「NHK日曜美術館」2『土方定一著作集8 近代日本の画家論3』 平凡社『土方定一著作集9 美術館、都市と巨匠』 平凡社『土方定一著作集10 造形の心理とその周辺』 平凡社『土方定一著作集11 近代ヨーロッパ美術と現代』 平凡社『土方定一著作集12 近代彫刻と現代彫刻』 平凡社『高畠達四郎画集-高畠達四郎の絵画世界』 講談社1978年 追悼・岡鹿之助、内なる風景感情 「みづゑ」7月号オスカー・ココシュカの「プロメテウス伝説」 「オスカー・ココシュカ展カタログ」 神奈川県立近代美術館近藤浩一路の回顧展に際して 「近藤浩一路展カタログ」 神奈川県立近代美術館マナブ・間部の日本展に際して 「マナブ・間部展カタログ」 神奈川県立近代美術館近代日本画の巨匠展に際して 「近代日本画の巨匠展カタログ」 神奈川県立近代美術館『土方定一著作集5 ヒエロニムス・ボス紀行』 平凡社『岡鹿之助画集-岡鹿之助論』 美術出版社『トコトコが来たといふ 詩・童話』 平凡社1979年 第11回「日本芸術大賞」の前田常作 「芸術新潮」7月号ドガの彫刻のこと 「ドガ・彫刻のすべて展カタログ」 神奈川県立近代美術館片岡球子さんのこと その心理的、幻想的な色彩世界 「片岡球子展カタログ」 神奈川県立近代美術館野口弥太郎-天成の画家の生成について 「野口弥太郎展カタログ」 神奈川県立近代美術館文化ファシズム下の美術と戦後の現代美術 「現代美術・戦後展カタログ」 神奈川県立近代美術館関根正二-近代日本美術史にその比を見ない幻視の画家 「関根正二展カタログ」 白河市歴史民俗資料館『高見順素描集-高見順のスケッチ帖』 文化出版局1980年 藤次郎と森鴎外、原田直次郎 「みづゑ」3月号浜田知明の版画-その孤独なデーモン 「浜田知明・銅版画展カタログ」 神奈川県立近代美術館『岸田劉生画集』 岩波書店『原色現代日本の美術・第10巻・現代の洋画』 小学館『片岡球子画集-片岡球子さんの芸術』 朝日新聞社1981年 『大原美術館-大原美術館へのオマージュ』 大原美術館(本目録は匠秀夫編「著作目録」-『土方定一遺稿』 所収-から作成したものである。)

吉坂隆正

没年月日:1980/12/17

 早稲田大学理工学部教授、元日本建築学会長の吉坂隆正は、12月17日胃ガンのため東京都中央区の聖路加病院で死去した。享年63。雅号に歩歩徒。1917年(大正6)年2月13日東京市小石川区に生まれ、41年早稲田大学建築学科を卒業、45年早稲田大学助教授となり、50年から52年までフランスに留学し、ル・コルビジェのもとで学ぶ。59年早大理工学部教授に就任、61年から翌年にかけてアルゼンチン国立ツクマン大学の招聘教授として都市計画を講じる。この間、57年にベネツィア・ビエンナーレ日本館設計などの業績により芸術選奨を、63年には日本建築学会作品賞を受賞する。69年から72年まで早大理工学部長をつとめ、73年から74年まで日本建築学会会長に就任、また、73年、建設省建築審議会委員、74年日中建築技術交流会会長、75年日本建築積算協会会長、翌年日本生活学会会長になったほか、首都圏総合計画研究所理事長、環境庁自然保護審議委員なども歴任し、日本美術評論家連盟に加わる。78年、ハーバード大学客員教授となり、同年、早稲田大学専門学校校長に就任する。登山家としても知られ、早大アフリカ赤道遠征隊の副隊長、早大アラスカ・マッキンレー遠征隊長をつとめ、日本雪氷学会理事でもあった。著書に『環境と造形』(55年、河出書房)訳書に『ル・モジュロール』(全2巻、52、58年、美術出版社)などがある。主要作品は、アテネ・フランセ、日仏会館、大学セミナー・ハウスなど。主要著作住居学汎論 昭25 相模書房モジュロール(ル・コルビュジエ)訳 昭27 美術出版社ル・コルビュジエ 昭27 美術出版社住居論(建築学大系1) 昭29 彰国社環境と造形 昭30.9 河出書房都市論(建築学大系2) <戸沼幸市共著> 昭35.9 彰国社原始境から文明境へ 昭36 相模書房住居学 昭40.7 相模書房建築をめざして(ル・コルビュジエ)訳 昭42.12 鹿島出版現代住居論・人間と住居(住居問題講座1) 昭43 有斐閣オスカー・ニーマイヤー 昭44 美術出版社告示録 昭47.12 相模書房巨大なる過ち(ミッシェルラゴン) 昭47 紀伊国屋住まいの原型 昭48 鹿島出版アテネ憲章(ル・コルビュジエ)訳 昭51.1 鹿島出版世界の建築(世界の美術13) 昭51 世田文化社ル・コルビュジエ全作品(全8巻) 昭52-54 ADA主要作品イタリヤ・ヴェネチア・ビエンナーレ日本館 (昭31)長崎・海晴学園校舎 (昭33)日仏会館 (昭34)富山・呉羽中学校 (昭35-38)江津市庁舎 (昭37)アテネ・フランセ (昭37)富山県立立山荘 (昭39)八王子・大学セミナーハウスの全体計画ならびに宿舎、体育館、講堂、管理棟、海外文化交流・民族資料館、交友館等一連の施設 (昭40-51)大島町・元町復興計画・他一連の公共施設 (昭40-43)更埴市庁舎 (昭40)生駒山・宇宙科学館 (昭43)盛岡市・働く婦人の家 (昭53)

長谷川潔

没年月日:1980/12/13

 パリ在住の銅版画家長谷川潔は、12月13日パリ市の自宅で老衰のため死去した。享年89。長谷川は、1891(明治24)年12月9日横浜市に生まれ、麻布中学卒業後、1911年頃黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学んだのち、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二に油絵を学ぶ。ついで13年から自画自刻による創作板目木版画や木口木版画、銅版画の制作を始め、同人となった文学雑誌「聖盃」(のち「仮面」と改題)や、短歌雑誌「水甕」の表紙、口絵等の木版画をつくるなど、以後版画の研究、制作に専念、14年には来日中のバーナード・リーチに銅版画法について尋ねる。16年、永瀬義郎、広島晃甫とわが国初の版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、創作版画展を開催。18年、米国経由で渡仏し、以後一度も帰国することなく没年までパリを中心に制作活動を展開する。パリで23年からサロン・ドートンヌに出品、翌年にはデュフィーの勧誘でマチス、ピカソなども所属したソシエテ・デ・パントル・グラヴュール・アンデパンダンに入会。一方、当時フランスでは技法的には消滅に瀕していた特殊銅版画技法マニエール・ノワールの復興を行い、この技法に唐墨の深みをもつ色調による独自の表現を吹き込み注目されるに至る。25年には版画による第1回個展をパリのヌーベル・エソール画廊で開催、翌年サロン・ドートンヌ版画部会員(48年、絵画部会員にも推挙)となる。また、日本の団体では、28年に春陽会会員、31年日本版画協会創立会員となり出品する。34年、広重以後の日本版画を紹介した《L’Estampe Japonais Moderne et ses Origines》展に準備段階から尽力、翌年仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章する。戦後もサロン・ドートンヌをはじめ、国際現代版画展、フランス現代版画展、東京国際ビエンナーレ展等各種の展覧会及び個展で制作発表を行い声価を高める。64年フランス芸術院コレスポンダンス会員となり、66年にフランス文化勲章を受章、翌年パリ市の金賞牌が授与されるなど、日本よりフランスの方ではやくから評価がなされ、72年には、フランス国立貨幣、賞牌鋳造局の肖像メダルに、日本人では葛飾北斎、藤田嗣治につぐ三人目として刻される。死去の年にあたる80年、京都国立近代美術館で「長谷川潔展」が開催され、版画131点、油彩画22点が出品された。長谷川潔年譜1891年 12月 9日、横浜市に、第一国立銀行の神戸、横浜、さらに大阪の支店長となった長谷川一彦、欣子の長男として生まれる。姉・静江、幸子、弟・純、弘の5人姉弟の第3子であった。1899年 この頃から、父から論語の素読をうけ、中国の拓本を手本に書を習わせられるとともに、書画骨董の鑑賞、日本画の筆法の手ほどきをうける。1902年 父が第一国立銀行大阪支店長となったため一家は大阪に移り住み、愛日小学校に通う。1904年 父・一彦が没したため、母と姉・幸子、弟・弘とともに東京にもどり、麻布に居をもとめ、鞆絵小学校に転校する。1905年 麻布中学校に入学する。1910年 麻布中学校を卒業する。母・欣子没す。1911年 この頃、葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。1912年 この頃、さらに本郷洋画研究所に入り岡田三郎助、藤島武二に油絵を学び始める。文学雑誌『聖盃』の同人となる。1913年 我国の伝統的木版画と異る、丸ノミを用いて描く如き方法による自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を制作し始める。『聖盃』は『仮面』と改題され、永瀬義郎とともに同誌の表紙、口絵等に木版画を作り、また短歌雑誌『水甕』の表紙や文学書の装幀にたずさわる。以後、板目木版画、木口木版画、銅版画の研究・制作に専念する。1914年 この頃、フランスから銅版画用印刷機や付属道具一式をとりよせ、来日中のバーナード・リーチに銅版画技法についてたずねた。1916年 永瀬義郎、広島新太郎(晃甫)とともに我国はじめての版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、東京・ミカド楼上及び読売新聞社において創作版画展を開催する。1917年 日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』に木版挿画及び装幀等をする。また堀口大学詩集及び多くの訳詩集に挿画、装幀をする。1918年 11月、第一次世界大戦終結し、12月30日、春洋丸で横浜港を出帆しアメリカ経由でフランスに向かう。1919年 4月 3日、フランス・アーブル港に入り、翌日パリに安着する。この年10月から1921年まで、健康回復のため南仏カンヌとカーネに滞在、またブルターニュ、アルカッション等に旅行し、油絵の外に木口木版、石版、銅版等あらゆる版画技法を研鑽する。1922年 イタリアに旅行後、パリ18区の7Rue Montc-almに住居を定める。1923年 この年からサロン・ドートンヌ(Salon d’Au-tomne)に出品し、漸次他のサロン及び展覧会へ油絵並びに版画作品を発表する。1924年 第一次世界大戦後のフランス版画壇に大きな影響を与えたソシエテ・デ・パントル・グラヴール・アンデパンダン(Societe des Peintres Graveurs Independants)にデュフィーの勧誘により入会する。マチス、ピカソ、ドラン、スゴンザック、ヴラマンク、シャガール、マリー・ローランサン、デュフィー等、当時の新進画家団体である同協会展には、解散する1935年まで毎年作品を発表する。フランスにおいて当時ほとんど試る者のない、かつて17世紀オランダにおいて創始された特殊銅版画技法マニエール・ノワール(Maniere noire)<メゾチント>を苦心研究、かつクラシックな細点刻下地の外に、交叉線による独特の技法を創案し、近代的表現をもって復興、また誰も試みなかった純粋の風景画をマニエール・ノワールで制作し、フランス画壇に認められる。1925年 パリのヌーヴェル・エソール(Nouvel Essor)画廊において版画の第1回個展を開催し、滞仏中の東久迩宮殿下の来観を受け、作品を買上げられる。この年多数の銅版画を制作し、サロン等に出品する。1926年 フランス政府自治減債基金のため、パリ・ミディ新聞社主催のサロン・デュ・フラン(Solon du Franc)がガリエラ美術館(Musee Galliera)で開催され、指名出品により作品献金をする。出品の銅版画大作は当時パリの外国作家美術館であったジュ・ド・ポーム美術館(Musee de Jeu de Paume)の所蔵となり、ジョッフル元帥(Marechal Joffre)から礼状を受ける。また同年フランス政府救済を意味するパトリオティク・プール・ル・ルレーヴマン・デュ・フラン展覧会(Exposition Patriotique pour le Relevement du Franc)にも寄贈出品をする。サロン・ドートンヌの版画部会員に当選する。1927年 東京で開催されたデルスニス招来の第1回仏蘭西現代美術展にフランス美術家作品中に、藤田嗣治とともに加えられ、渡欧後の作品が初めて日本で展観される。スイス・チューリッヒのギャルリー・ヴォルフスベルグ(Galerie Wolfsberg)において在仏日本美術家展が開催され、作品を出品し、展覧会の広告アフィッシュの図案並びにカタログの装幀をする。サロン・ドートンヌ等に出品する。東京での出版の『日夏耿之介定本詩集』(3巻)のため表紙用木口木版画3点、挿絵銅版画9点を制作する。1928年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー(Salon des Tuileries)、サロン・デ・ザンデパンダン(Salon des Independants)、ギャルリー・ズィヴィー(Galerie Zivy)における日本美術家展、イギリスのマンチェスター展等に出品するほか、ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボア・オリジナル(Societe des Graveurs sur Bois Original)展に出品し、同会会員に挙げられ、また春陽会々員となる。1929年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ(Societe des Peintres Graveurs Francais)展及びギャルリー・オドゥベール(Galerie Hodebert)における日本美術家展等に出品する。ビブリス誌31号(Miroir des Arts du livre et del’Estampe,31eFascicule“Byblis”)に銅版画オリジナル2点を挿入する。“Kiyoshi Hasegawa, Graveur Japonais”(P.J.Angoulvent 紹介文執筆)がパリのアルベール・モランセ(Albert Morance)書房から出版される。1930年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ザック(Galerie Zack)の日本美術家展、ジュネーヴにおけるソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル展、春陽会展等に出品する。パリにおける第1回「航空と美術」国際展(Exposition “L’Aeronautique et L’Art”)に銅版画数点を出品、航空大臣1等賞金を獲得し、フランス航空クラブ(Aero Club de France)により「ニューヨーク上空のポアン・ダンテロガッション号)作品20点が買上げられる。パリのリブレリー・ド・フランス(Librairie de France)から出版の豪華限定版、26人短篇集“D’Ariane a Zoe”にデュフィー、スゴンザック、マリー・ローランサン、ブッサンゴウ、イーブアリッキス等とともに石版画挿画を担当する。ヌーヴェル・ルヴュー・フランセーズ(Nouvelle Revue Francaise)書房から出版のThomas Raucat著“L’Honorable Partie de Campagne”の銅版画口絵の制作を依頼される。パリのEdouard Joseph出版の『現代美術家辞典』(“Dictionnaire Biographique des Artistes Contemporains”)1930年版中に作品が掲載される。1931年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及び春陽会展等に出品する。日本において日本創作版画協会が解散し、新たに日本版画協会が創立され会員となる。パリのラ・ジラフ書房(Editions de la girafe)から出版の“Les Colonies Francaises”にフランスの画家20名とともに挿画を担当する。1932年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ド・ルーヴル・ユニック(Salon de L’CEuvre Unique)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ザックでの展覧会、マドリッド及びシカゴでの展覧会、日本版画協会展、春陽会展等に出品する。ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル出版の『フランス民謡集』(“Chanson Populaires Francaises”)中の第5集「支那の夜」(“Nuit de Chine”)に木口木版画挿画をする。イタリアに旅行する。1933年 パリ・装飾美術館(Musee des Arts Decoratifs)におけるフランス版画30年展(Trente Ans de Gravure Francaise-de 1900 a 1933)、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びワルシャワにおいて開催の第1回国際創作木版画展(1erExposition Internationale de la Gravure sur Bois Originale)等に出品する。パリ・日本大使館に在任中の本野盛一子爵の仏訳『竹取物語』に銅版画(ビュラン刻)で多数の挿画をなし、元駐日フランス大使ロベール・ド・ビリー(Robert de Billy)氏を会長とするリーヴル・ダール協会(Societe du Livre D’Art)から“La Legende de la Demoiselle de Lumiere”の書名で豪華限定出版される。1934年 サロン・デュ・タン・プレザン(Salon du Temps Present)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、及びアンヴェール市(Anvers)における展覧会等に出品する。フランスにおいて浮世絵版画から現代版画に至る日本の版画展を開催したことがなく、広重以後の作家について全く知られていないため、1931年頃から日本近代版画展の開催を立案しフランス当局と交渉してフランスにおける一切の準備を引きうけていたところ、これを機に岡田三郎助を会長として日本版画協会が創立され(1931)、当時パリ滞在中の岡田三郎助とフランスの国立工芸美術館長並びにフランス大使ロベール・ド・ビリーと最終打合せをし、東久迩宮殿下を総裁に戴き、日仏両国政府後援のもとに“L’Estampe Japonaise Moderne et ses Origines”と題する日本近代版画60点に及ぶ大版画展が実現する。パリにおける日本版画協会代表、文部省嘱託として、仏文カタログの作成と序文を執筆するなど大いに尽力し、予期以上の成功を収め、翌年リヨン、ジュネーヴ、ワルシャワ、ベルリン、マドリッドの各都市において開催、それぞれ好評を博し、欧米各国への我国文化紹介に貢献する。また、『アール・エ・メチエ・グラフィック』(“Arts et Metiers Graphique”)第40号に「日本版画展」(L’Exposition d’Estampes Japonaises)と題する紹介文を執筆する。パリのアルベール・レヴィ書房発刊の美術雑誌『アール・エ・デコラシォン』(Arts et D’ecoration)3月号にアンリ・エルツ(Henri Hertz)執筆の長谷川潔論が掲載される。1935年 プチ・パレ美術館で開催の現代美術家展(Exposition des Artistes de ce Temps)、サロン・デュ・タン・プレザン、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。スペインに(7月29日から10月2日まで)旅行する。フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール(Chevalier de laLegion D’Honneur)勲章を授与される。在パリ日本大使公邸におけるフランス大統領アルベール・ルブラン氏並びにルブラン夫人招宴の夜会のために、献立及びプログラム用の銅版画を作成し、同夜佐藤尚武大使から大統領と夫人に紹介され、同版画2点を献呈する。1936年 ジュネーヴ及びマドリッドにおいて日本近代版画展を開催する。ポワチエ市(Poitiers)における展覧会並びにソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品し、フランス文部省に作品を買上げられる。また、北米における版画展に出品する。パリのフォンダッション・ロチルド会場における我国人形使節の日仏協会(Societe France-Japonaise)のレセプションのために招待状銅版画を作成する。1937年 リヨン、ワルシャワ、ベルリンにおいて日本近代版画展を開催する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、セルクル・ド・ラ・リブレリー(Cercle de la Librairie)展、ギャルリー・ド・パリ(Galerie de Paris)での展覧会等に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの会員に挙げられる。パリ・国際大博覧会「美術と技術」展第54部に招待出品し金賞牌を獲得する。パリに開催の国際版画会議に日本側代表者として出席、イエナ公会堂においてスライドを用い現代日本版画について講演をする。国立図書館版画部長ルモワンヌ(P.A.Lemoinne)の序文を付し、1929年から1936年に至る自選銅版画原作15点を収めた銅版画集“Garvures de Kiyoshi Hasegawa”を出版する。大英博物館版画部にアクアチント技法による銅版画「二つのアネモネ」(1934)が買上げられる。パリのデュシャルヌ絹商(Soierie Ducharne)で数種の銅版画草花図を絹裂地に模様化する。1938年 サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ベルフォール市美術館(Musee de Belfort)、ボルドー市美術館(Musee de Bordeaux)や、シカゴでの展覧会、スーヴニール・ド・パリ(Souvenir de Paris)展、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ(Galerie Bernheim Jeune)における日本美術家展、春陽会展、日本版画協会展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。杉村陽太郎大使がパリ公邸にフランス大統領アルベール・ルブランを招宴するにあたり、献立及び夜会プログラム用の銅版画を作成する。パリ市へ「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」(1930)を寄贈する。パリ18区から14区3.Villa Seuratの現住所に移転する。1939年 リル市におけるプログレ・ソシアル展(Exposition du Progres Social)、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ、ギャルリー・シャルパンチエ(Galerie Charpantier)及びシカゴでの展覧会等に出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。第二次世界大戦勃発の風雲急となり、8月24日ついに動員告示、国内が騒然となったため、12月サルト県の斎藤豊作宅(Chateau de Venevelles)に疎開し、ル・マン(Le Mans)市の美術館長を知り、銅版画「ヴェヌヴェル風景」をル・マン市美術館に寄贈する。1940年 3月、ヴェヌヴェルからパリに帰る。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びスイスでの展覧会等に出品する。パリが危険となったため、フランス政府がボルドーへ移ったのに伴い、日本大使館も同行、同胞約10名とともに大使館の自動車に同乗してパリを脱出、ボルドーに安着、続いてビヤリッツ市に移る。フランス政府、日本大使館がさらにヴィッシイへ移転したのち、9月4日パリに帰る。パリは占領地帯となり、食糧不足、生活増々困難となる中で制作を続ける。1941年 パリは石炭欠乏、寒冷のため大いに降雪、市民の生活は更に困難を加え、しばしば病臥、喘息発作に苦しみつつ制作を続け、ギャルリー・シャルパンチエにおけるラ・ファム・エ・レ・パントル・エ・スキュルプトゥール・コンタンポレーン(La Femme et les Peintres et Sculpteurs Contemporains)展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ギオー(Galerie Guiot)における在パリ日本美術家10人展及びリエージュ市(Ville de Liege)での展覧会等に出品する。フランス文部省並びに国立図書館版画部に作品が買上げられる。1942年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「水彩画1世紀)(Un siecle d’Aquarelles)展、「コローから今日までのフランス風景」(Le Paysage Francais de Corot a Nos Jours)展、「今日の浪漫的な花と果実」(Les Fleurs etles Fruits du Romantisme a Nos Jours)展、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ドラゴン(Galerie Dragon)、ギャルリー・ド・ベリ(Galerie de Berri)及びオルレアン市美術館(Musee d’Orleans)での展覧会等に出品する。ギャルリー・シャルパンチエにおいて12点の油彩草花図による個展(12Bouquets d’Hasegawa)を開催、好評を博し全作品売約となり、フランス文部省に作品が買上げられる。在仏同胞とともに家族一同日本へ国防献金をなす。1943年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「フランスの庭」展、静物画(草花と果実)展、水彩画展、小品展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びオルレアン市に開催の水画展等に出品する。また、パリのオルフェーブルリイ・クリストフル(I’Orfevrerie Christofle)において開催の銀製品展覧会に図案を自ら彫った銀製大皿と銀製煙草入れを出品する。12月9日、パリにおいてミシェリーヌ・ビアンシ(Micheline Bianchi)と結婚する。1944年 ギャルリー・シャルパンチエにおける水彩画展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グランヴール・フランセ展、ブザンソン(Besancon)市に開催の展覧会、ボルドー市のギャルリー・ゴヤ(Galerie Goya)での展覧会等に出品する。また、オルフェーブルリイ・クリストフルにおけるスポーツ展にテニスとフェンシング等の図案を彫った銀製品を出品する。8月15日頃からパリは数日間無警察状態となり、市内各所で流弾による死傷者が出るなどの中で自宅も襲われ、身辺に危険を感じ一時他所に難をさける。まもなくフランス軍先頭部隊がパリに入り、1ヵ月後自宅にもどる。1945年 フランス現代作家5名とともに各自異る技法による銅版画を制作し、国立図書館版画部のアデマル(Jean Adhemar)の紹介文を付した限定版画集『銅版画』(“La Gravure sur Cuivre”)第1巻がアンジェ(Angers)市のジャック・プチ(Jacques Petit)書房から出版されたが、日独伊敗戦の結果同胞とともにパリの中央監獄及びトランシイの収容所(Camp de Drancy)に次々収監され、版画集も収容所で署名する。病弱の身体で苦難を味わうが、フランス知人有力者の尽力により約1ヵ月後無事出所する。7月に帰宅後もある期間警察に出頭、絶えず看視される生活を続け、心身ともに疲労しほとんど制作を停止する。1946年 精神的打撃が徐々に薄らぎ漸次制作を始め、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。アシェト(Hachette)書房出版の雑誌『フェミナ』(“Femina”)に挿絵をする。夏期、ラニイ・ル・セック(Lagny le Sec)の村に滞在して多くの油絵を制作する。フランスの内務大臣事務室に掛けるため「瓶に挿したる罌粟」(油絵50号)1点とフランスの各省庁用として銅版画20点が、フランス文部省に買上げられる。1947年 ギャリルー・シャルパンチエにおけるイタリア風景展、サロン・ドートンヌ等に出品する。夏期、ヴィレーヌ・ラ・ジュエル(Villaines la Juhel)及びシブール(Ciboure)に滞留して多数の油絵を制作する。アメリカのニューヨーク図書館版画部に銅版画「コップに挿したる野草」が買上げられる。1948年 オルレアン市において油絵および銅版画の個展を開催する。サロン・ドートンヌに油絵2点、版画4点を出品し、既に版画部会員であったがさらに油絵部会員に当選する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。フランスの国立図書館版画部に版画作品が、フランス文部省に油絵静物画1点と銅版画12点が買上げられる。1949年 プチ・パレ美術館に開催の国際現代版画展に、日本からは不出品のためフランス版画部の一員として出品する。サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会(Societe “Le Trait”)展、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「白と黒」(Union des Arts Plastique “Blanc et Noir”)展及びギャルリー・ラスパイユ(Galerie Raspail)での展覧会等に出品する。フランスの国立図書館版画部に作品が買上げられる。1950年 東京と大阪で初めて開催された第1回フランス現代版画展覧会にフランス側から招待され参加出品する。ルーアン市美術館に開催の現代創作版画展、アソシアシオン・アミカル・エ・プロフェッシオネル・ド・グラヴュール・ア・ローフォルト(“Association Amicale et Professionnelle de Gravurs al’EauForte”)銅版画展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギャルリー・ラスパイユでの展覧会等に版画を、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「庭と花と果物」展に油絵3点を出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。1951年 アミアン市(Amiens)に開催のル・トレ協会展、サロン・ド・メ(Salon de Mai)、フランス版画展、セルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)におけるパリ展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ラスパイユにおけるル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー(Salon du Dessin et de la Peinture al’Eau)等に出品し、フランス文部省に作品3点が買上げられる。ルーヴル美術館版画部銅版彫刻部門(Chalcographie)にビュラン刻銅版画「コップに挿した野花(春)」「コップに挿した種草(秋)」特別刷並びに銅原版2点が買上げられる。1952年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展、カールスルーエ(Karlsruhe)における国際グラフィック美術展、ギャルリー・エリアン・ノルベルグ(Galerie Eliane Norberg)等における諸展並びにパリ市主催のバガテル(Bagatelle)の薔薇展に油絵と版画を出品する。日本における毎日新聞社主催の日本国際美術展に出品し、春陽会展に現代フランス版画陳列のためフランス版画家の選定とその作品発送等に尽力する。パリ市に作品が買上げられる。1953年 サロン・デ・ザルティスト・デコラトゥール(Salon des Artistes Decorateurs)、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ルーアン市開催の展覧会、ル・トレ協会展、ランス市(Reins)における現代版画家12人展及びミラノ市における現代フランス版画展に出品する。ランス市に「窓辺の花瓶」、フランス文部省に作品3点が買上げられる。東京サエグサ画廊及び名古屋において個展を開催する。ミラノのラ・マンドラゴラ・エディトリス(La Mandragora Editrice)書房から出版されたガブリエル・マンデル(Gabriel Mandel)著『現代フランス版画』(“L’Incision Francais Contemporanea”)中に掲載される。1954年 サロン・デ・ザルチスト・デコラトゥール、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展及びドイツでの展覧会等に出品する。オルレアン市及び大阪・富士川画廊において個展を開催する。ベルネ夫人(madame Paul Bernet)からパリに版画アカデミーの設立依頼を受けるが種々の理由のため承諾せず、のちヘイター(Hayter)版画研究所が開設された。パリのファロス(pharos)出版の『現代フランス人名辞典(1954-1955)』(“Dictionnaire Biographique Francais Contemporain”)に掲載され、また米国の美術館に作品が買上げられる。1555年 プチ・パレ美術館におけるフランス在住外国美術家展に油絵を出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・ドートンヌ、ル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー展及びセルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)に開催の在パリ日本美術家展に出品し、東京サエグサ画廊で第2回版画個展を開催する。フランス大統領のエリゼ宮における外国貴賓招宴のための献立用小型銅版画を制作する。1956年 パリ市美術館における第1回国際現代造形美術展、フランス並びに諸国美術展に油絵及び版画を出品する。また、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・テール・ラタン(Solon des Terres Latines)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、リエージュ市(Liege)及びネヴェール市(Nevers)に開催の展覧会等に出品する。また、東京・ブリヂストン美術館、神戸市立美術館で開催の展覧会、朝日新聞社主催第1回日仏具象作家協会展、春陽会展、明治大正昭和名作美術展に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの晩餐会献立用銅版画作成を委嘱される。東京サエグサ画廊及び大阪富士川画廊において版画個展を開催する。フランス文部省に作品7点が買上げられる。1957年 パリ市美術館におけるサロン・デ・テール・ラタン及び国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン(“La Jeune Gravure Contemporaine”)展に出品し、かつ同展に日本現代版画30点を特別陳列する。また、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、セルクル・ヴォルネにおける在仏日本美術家展、ランス市立図書館で開催の版画展、東京で開催の日仏具象作家協会展、第1回東京国際版画ビエンナーレ展、日本版画協会展、春陽会展及び神奈川県立近代美術館主催ユーゴスラヴィア版画展等に出品する。フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。パリの美食家協会(Les Compagnons de la Belle Table)のために献立用小品銅版画を制作する。1958年 サロン・ドートンヌ、サロン・ダール・リーブル(Salon d’Art Libre)、サロン・デ・テール・ラタン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、トゥールーズ市立図書館における出版展(Exposition d’Edition)、ル・トレ協会展、ガリエラ美術館(Musee Galliera)における在仏日本美術家展、コンピエーニュ(Compiegne)における日本美術家展等に出品する。東京・中央公論社画廊において1915年から1957年に至る回顧展を開催する。フランス文部省に6点、パリ市に2点の作品が買上げられる。1959年 パリに開催の第1回国際フロラリイ(Floralies Internationales)展、サロン「ランコントル」(Salon “Rencontres”)に油絵を出品する。ル・トレ協会展、国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ディジョン市(Dijon)及びワシントンにおける展覧会、東京における日仏具象作家協会展に出品する。名古屋で個展を開催する。パリ市に作品が買上げられる。1960年 サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品し、会員に当選、版画賞を受ける。サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、モントーバン(Montauban)、ストラスブール(Strasbourg)、マルセイユ、パリにおける版画展等に出品し、神戸の藤田画廊において版画個展を開催する。ミュルーズ市(Mulhouse)版画協会の所望により「小鳥と木の根」を制作する。フランス文部省に「玻璃球のある静物」が買上げられパリ近代美術館所蔵となる。また、パリ市に作品が買上げられる。パリ出版の『ル・クーリエ・グラフィック』(“Le Courrier Graphique”)107号にJ.R.トメ(J.R.Thome)執筆の長谷川潔の紹介文が掲載される。1961年 サロン・ドートンヌ1961年度展覧会の鑑査員に推薦される。サロン・ナショナル・デ・ボザール、アミアン市(Amiens)及びナンシイ市に開催の展覧会に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展に出品し、同協会の委嘱によりオー・フォルト技法による風景銅版画を制作する。ガリエラ美術館に開催の在仏日本美術家展に油絵と版画数点を出品し、パリ市に2点が買上げられる。1962年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、サロン・ナショナル・デ・ボザール、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールでの展覧会、東京国際版画ビエンナーレ展、国際具象展、春陽会展等に出品し、東京・大丸画廊で版画個展を開催する。日本の文部省芸術課に昭和37年度秀作として作品2点が、またフランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。1963年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、パリとニューヨークで開催のソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ブタペストで開催の国際版画展、ギャルリー・ダール・ル・パルナス(Galerie d’Art le Parnasse)における8人展、ルーアン市に開催の「ピカソからビュッフェまでのフランス創作版画展」、サルラ市(Sarlat)での展覧会等に出品し、名古屋・横浜・関内ギャラリー及びパリのギャルリー・サゴ・ル・ガレック(Galerie Sagot le Garrec)で個展を開催する。国立図書館版画部、フランス文部省及びベルフォール美術館(Musee de Belfort)に作品が買上げられる。パリのマヌエル・ブルッケール出版社(Edition Manuel Bruker)から「現代版画の巨匠」豪華限定版叢書『長谷川潔の肖像』(銅版画オリジナル10枚挿画入)がトリスタン・クランソール(Tristan Klingsor)序文、ロベール・レイ(Robert Rey)著で出版される。ソルボンヌ大学チェルゴ講堂に開催の「銅版画におけるエステチックとテクニックの関係に就て」の講演にマニエール・ノワール銅版作品「薔薇と時」がスライドで映写される。1964年 フランス芸術院コレスポンダン会員(Member Correspondant de l’Academie des Beaux-Arts)に当選し、学士院会議室において銅版画作品30余点を展覧する。フランス文部省からフランス国立美術学校1964年度版画科卒業制作試験官に任命され、フランス人教授とともに学生の作品を採点する。サロン・ナショナル・デ・ボザールの1964年度展覧会鑑査員に選ばれる。フォンテンブロー美術館(Musee de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画作品を展覧し、デヴィノイ(Devinoy)校長が技法について説明する。ローマ日本文化会館に開催の日本美術家展、ブリュッセルにおける現代フランス版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展等に出品、フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。また、日本の東京国際版画ビエンナーレ展、現代日本美術展、選抜秀作美術展、日本版画協会展及び春陽会展に出品し、横浜・関内ギャラリーで個展を開催する。1965年 ポワント・エ・ビュラン(Pointe et Burin)版画協会1965年展に「長谷川潔頌」(Hommage a Kiyoshi Hasegawa)特別陳列をする。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ヴァンヌ美術館(Musee le Vannes)における版画展、ル・トレ協会展、ニューヨークにおける版画展、東ドイツでの版画展、第14回パリ市長展(La Mairie des XIVe de Paris)等に出品し、また日本版画協会展、美術出版社「戦後20年日本版画展」、国立近代美術館で開催の在外日本作家展、選抜秀作美術展に出品する。8月18日から10月4日までイタリアに旅行する。1966年 フランス外務省を通じ文化省からフランス文化勲章(L’ordre des Arts et Letrres)授与の通知を受ける。サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品しマレ賞金(Prix Marret)を授与され、また現代日本美術展出品の「メキシコの鳩 静物画」が特別賞を受ける。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・テール・ラタン、ヴァルレア市(Valreas)での版画展、ジュネーブにおける日本版画展、国立図書館版画部主催の北アフリカとレバノンにおける版画展等に出品する。また東京国際版画ビエンナーレ展、選抜秀作美術展に出品する。シャトー・ド・フォンテンブロー(Chateau de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画の展覧をする。『長谷川潔の肖像』天覧を賜わる。フランス出版の『ラルース大百科辞典』に姓名と銅版画の仕事について採録される。1967年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、オルレアン市に開催の国際フロラリイ展、ヴァンクーヴァーとルーマニアに開催の版画展、アソシアシオン・フランセーズ・ダクシオン・アルティスティック(“Association Francaise d’Action Artistique”)展等に出品、また日本国際美術展、春陽会展、日動画廊に開催のパリ展に出品し、東京松屋において銅版画個展を開催する。パリ市長からパリ市の金賞牌(La Medaille de Vermeille de la Ville de Paris)を授与され、日本から勲三等瑞宝章叙勲の報に接する。1968年 1月 25日、パリの松井明大使公邸において瑞宝章授与式が行われる。ピッツバーグのカーネギー・メロン大学における国際20世紀植物画及び挿画展に出品、同大学のハント植物学ライブラリーに版画3点と『長谷川潔の肖像』が買上げられる。ル・トレ協会展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ主催のドイツ・ケルンにおける版画展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴール主催のワシントンにおける版画展、フォンテンブローにおける日本美術展、東京の日動画廊の太陽展等に出品、また東京大丸美術部、プリンスホテル画廊及び京王百貨店において版画個展を開催する。美術出版社から1968年度「長谷川潔版画カレンダー」が出版される。ジャック・ラフィット出版社(Edition Jacques Lafitte)刊行の『フランス人名辞典』(“Who’s who in France”)に採録される。1969年 ル・トレ協会展、カルヴァドス(Calvados)とドイツにおける版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールにおける「1000の版画」展及びミュルーズ市役所における「日本の日々1969」(Journees Japonaises 1969)展等に出品し、市立図書館に作品2点が買上げられる。また日本における国際形象展、現代日本美術展、日動画廊の太陽展、春陽会展、日本版画協会展に出品する。1970年 国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギュスターヴ・ルーシー研究所における展覧会等に出品する。また日本における国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において既に葛飾北斎と藤田嗣治の銅牌が作成されたが、日本の画家の3人目として長谷川潔の肖像を浮彫にしたメダルの鋳造が決定する。メモリアル出版社(Editions du Memorial)刊行のエドモン・デュ・サルス著『偉人功績録』(“Livre d’Or des Valeurs Humaines”)及びジャック・ラフィット出版社刊行の『フランス人名辞典(1969-1970)』に採録される。1971年 ヴィロフレ・イヴリーン(Viroflay-Yvelines)における20世紀版画展、ラ・ヴィル・ド・サン-ブリウク(La Ville de Saint-Brieuc)におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品、またストックホルムに開催の小品版画展、東京の国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において造られるメダル表面の肖像浮彫をチゾン・ミッシェル夫人(Tison Michel)が担当し、裏面の図案浮彫等を作家自身が制作を委嘱され、1972年春に鋳造が確定する。パリのアンパニタン書房(Inpenitent)から出版のマルセル・ベアリュ(Marcel Bealu)短編集“Ville Volante”の口絵を担当する。京都国立近代美術館における回顧展の開催及び版画集出版等の計画実現のための準備にとりかかる。1972年 京都国立近代美術館及び東京国立近代美術館で開催の「ヨーロッパの日本作家」展にマニエール・ノワール作品11点を出品、全作品が京都国立近代美術館に購入される。1973年 河出書房出版の『日夏耿之介全集』に版画挿画を担当する。同全集は造本装幀コンクールにおいて最高賞の文部大臣賞を受ける。1976年 横浜市長から日仏両文の感謝状と黄金の鍵を授与される。1978年 フランス彫刻家ジョルジュ・ゲラール(Georges Guerard)作成の長谷川潔の胸像(ブロンズ)が横浜市民ギャラリーの所蔵となる。1979年 横浜市民ギャラリーにおいて版画個展が開催される。1980年 大阪・フラワーコレクションギャラリー及び大阪フォルム画廊(東京、大阪)、東京松屋において版画個展が開催される。京都国立近代美術館で<長谷川潔展>開催される。(本年譜は<長谷川潔展>目録(1980年6月、京都国立近代美術館)所収の年譜から、主要事項を転載した。)

玉置びん

没年月日:1980/12/04

 記録作成等の措置を講ずべきものとして選択された無形文化財の「かっぺた織技術者」玉置びんは、心不全のため、東京都八丈島の自宅で死去した。享年83。1897(明治30)年9月13日、東京府八丈島に生まれた。八丈島の末吉地方には、かっぺた織という極めて原始的な形の織機で織る方法が伝えられており(越後や結城のいざり機の更に原始的な形のもので、登呂遺跡から発見された弥生時代の織機の断片が恐らくこれであり、アイヌや台湾の布を織る機、インドネシアや中南米のグァテマラやペルーの現地人の使っている機と同種)、しかもかっぺた織は、こうした原始的なものでありながら、綜絖が十枚もついている。経糸をかけたちまきとぬのまきが両方に張られて、その一端は部屋の鴨居か柱に結びつけられ、一方は織り手の腰にいざり機の要領で固定される。上下に五つずつ十枚の綜絖を交互に上下に引くことによって経糸を分け、そこへ刀筬の竹篦を通して、これを立てて杼道を分け、糸巻を通して緯糸を入れ篦でたたいて打ち込んで行くと、経糸に組み込まれた色糸によって、石畳、鱗、そろばん繋ぎ、十字などの幾何模様が織り出される。この至って原始的かつ珍重な技法の文様織を玉置びんは就学前の幼時より好んで見習い、習得したという。文様織の複雑な手間などから伝承者が少く、現今では唯一の伝承者であった。昔は帯のような幅の広いものも織られていたことが島に残っている古い機の部品から知ることが出来るが、明治末年にはすでに幅のせまい帯状のもの、紐状のものしか織られておらず、玉置びんも細帯、紐を、自家用と少量の注文品だけ織るにとどまっていた。 国の「記録作成等の措置を講ずべきものとして選択された文化財」に「かっぺた織技術者 玉置びん」として選択されたのは1962年3月30日。

加藤一雄

没年月日:1980/11/27

 美術評論家で、嵯峨美術短期大学教授の加藤一雄は、11月27日心筋梗塞のため死去した。享年75。1905(明治38)年7月31日大阪市に生まれ、27年第四高等学校を卒業した。31年京都大学文学部哲学科(美学美術史)を卒業し、34年京都市立絵画専門学校の助教授を経て教授となった。50年京都市立美術専門学校を退職し、同年より、京都市美術館学芸課に勤務した。61年7月同美術館を退職、66年関西学院大学文学部教授となった。74年関西学院大学を退職、同76年嵯峨美術短大専任講師となり、ついで翌77年より教授の職にあった。美術関係諸雑誌等に執筆多く、よどみない特有の文体でも知られた。主著に近代日本の絵画(河原書店)、日本近代絵画全集22(村上華岳、土田麦僊-講談社)、現代日本美術全集4(村上華岳、土田麦僊-集英社)、日本の名画4(竹内栖鳳-中央公論社)などがある。

勝田哲

没年月日:1980/11/17

 日展会員の日本画家勝田哲は、11月17日午前11時46分胃ガンのため、京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年84。1896(明治29)年7月8日京都市に生まれ、本名は哲三。1920年東京美術学校西洋画科を卒業後、日本画に転じ、京都市立絵画専門学校に入学、30年同校研究科を卒業した。この間、平等院・法界寺の壁画模写を行ない、25年山元春挙に入門、26年「お夏」が帝展に初入選した。29年第10回帝展出品作「天草四郎」、31年第12回帝展「征旅(ジャンヌ・ダルク)」がそれぞれ特選となり、翌年から無鑑査となる。36年京都市立美術工芸学校に勤務、戦後京都市立日吉ケ丘高校で教鞭をとった。60年日展審査員をつとめ翌年会員となる。77年京都府美術工芸功労者、80年に京都市美術工芸功労者の表彰を受けている。主な作品は上記のほか「雨」(40年)「葵上」(49年)「舞女」(60年)など。

伊東翠壷

没年月日:1980/11/11

 日展参与の陶芸家伊東翠壷は、11月11日午後10時15分老衰のため京都市東山区の自宅で死去した。享年86。1894(明治27)年10月30日京都府に生まれ、本名義治。京都陶磁器試験所で製陶を学び、1929年第10回帝展「水日瓷桃果紋花瓶」が初入選、戦後52年日展審査員をつとめ、同年京都陶磁器協会理事となった。58年日展会員となり、64年から評議員、70年から参与をつとめた。78年京都府美術工芸功労者、79年京都市文化功労者として表彰を受けている。現代工芸美術作家協会委員。日展出品歴1946 「蓮辨彫釉嵌花盛」1949 「磁器彩釉象嵌八稜形花瓶」 依嘱1950 「陶器梅林の図花瓶」1951 「晴靄花瓶」 依嘱1952 「柘榴ノ図花瓶」 審査委員1953 「染付花瓶」 依嘱1954 「鷲の壷」 依嘱1955 「菖蒲花瓶」 依嘱1956 「澱彩百合文花瓶」 依嘱1957 「黄昏」 依嘱1958 「白い壷」 審査員、会員となる。1959 「雪晨壷」1960 「褐渋釉花瓶」1961 「澱彩象嵌萃文花瓶」1962 「暁光泑壷」1963 「黒と朱の壷」 審査員1964 「粟穂釉花瓶」 評議員となる。1965 「靄晨」1966 「真紅の壷」1967 「双耳赫壷」1968 「榴果泑花瓶」1969 「黒泑紅霽」1970 「瀞方瓶」 参与となる。1971 「黒泑楊柳文花瓶」1972 「朧銀泑花瓶」1973 「花瓶慶雲」1974 「静晨花瓶」1975 「連作忍苳缻」1976 「連作忍苳文鼎」1977 「窯変壷」1978 「朧銀泑紅彩壷」1979 「紅彩黒泑壷」1980 「黒泑紅彩壷」

安原喜明

没年月日:1980/10/28

 日展理事の陶芸家安原喜明は、10月28日午前6時30分脳動脈硬化症のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年74。1906(明治39)年6月18日東京目黒に生まれ、初め宮川香山、次いで板谷波山に師事し作陶を学んだ。1927年東陶会会員となり、30年第11回帝展に「透陶板嵌込ドアー」を出品し初入選した。39年第3回新文展「炻器盒子」、48年第4回日展「孔雀文透彫盛鉢」で特選となり、49年以来数度審査員をつとめた。50年より日展依嘱出品となり、60年評議員となる。65年第8回日展出品作「炻炻器花挿」が文部大臣賞を受賞し、次いで67年第10回日展の「炻器花挿」が日本芸術院賞を受けた。現代工芸美術家協会常任顧問。日展出品歴1946 「白泥象嵌炬器香爐」「壁面用状差」1947 「花瓶」1948 「孔雀文透彫盛鉢」 特選1949 「陶器盛花器」 審査員1950 「陶器線彫草花文扁壷」 依嘱出品となる。1952 「花挿」1953 「炻器花器試作」1954 「花器」 審査員1955 「白泥花器(白夜)」1956 「炻器花挿(海底)」1957 「釣花器」1958 「庭園装飾」 審査員、会員となる。1959 「炻器花挿」1960 「炻器花器(植物)」 評議員となる。1961 「炻器花器(市街)」1962 「五人の少女」1963 「夜炻器花挿」 審査員1964 「炻器花挿(宇宙塵)」1965 「炻器花挿」 文部大臣賞受賞1966 「炻器花瓶」1967 「炻器花挿」 日本芸術院賞受賞(翌年4月)1968 「炻器線彫文花器」1969 「炻器花挿」 審査員1970 「炻器花挿」1971 「炻器花挿(パラボラアンテナのある街」 監事となる。1972 「炻器花挿」1973 「炻器多口瓶」 理事となる。1974 「炻器花挿印花文」1975 「炻器花挿」 評議員となる。1976 「炻器花挿」1977 「炻器花挿(華)」 理事となる。1978 「炻器花生」1979 「花生炻器印花文」1980 「炻器花生」

松葉清吾

没年月日:1980/10/25

 二科会会員の洋画家松葉清吾は、10月25日急性心不全のため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年80。1900(明治33)年10月13日堺市に生まれ、上京後20年に本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事する。26年渡仏し、32年までパリに滞在、この間アカデミー・ランソンでジョルジュ・ビシェールに師事、また、アンドレ・ロートにもつく。はじめ光風会展、春陽会展、国展に出品したが、その後出品を止め独自で研究にあたる。50年、第35回二科展に「天使の歌ふ」等を出品し二科会会友となり、翌年「叫び」等を出品し会員に推される。以後、同展に制作発表し、九室会にも属した。64年、第49回展に「作品C」等を出品し、二科展会員努力賞を受ける。また、関西女子美術短大で教えた。抽象作品を専らにし、二科展への出品作に「作品B」(53回)、「緑の作品(2)」(59回)、「私の舟」(61回)などがある。

山畑阿利一

没年月日:1980/10/14

 日展参与の彫刻家山畑阿利一は、10月14日午前6時20分、胆道がんのため東京都文京区の日本医科大学附属病院で死去した。享年72。1908(明治41)年9月12日大阪府枚岡市に生まれ、大阪府立泉尾工業学校窯業科を卒業後上京、小倉右一郎に師事し、また川端画学校で学んだ。1928年第9回帝展出品作「女立像」が初入選、38年、39年の新文展で「母子」「みのり」がそれぞれ特選となり、42年無鑑査となった。一方、第一美術協会、構造社にも出品し、34年第一美術協会に無鑑査となり、38年の構造社第11回展「胸像」が研究賞、翌年第12回展「愛撫」が構造賞を受賞した。戦後、55年の都市美展出品作「大地」が文部大臣賞を受賞、日展では56、62年に審査員をつとめ、58年に日展会員、64年評議員、70年からは参与となった。日本彫塑会委員、日本陶彫会委員も兼務。主な作品は上記受賞作のほか、「関東大震災慰霊碑」「慈愛」「聖観音像」など。主要出品歴1928 第9回帝展 「女立像」1930 第11回帝展 「若き日」1934 第15回帝展 「姿」1936 文展鑑査展 「母と子」1938 第2回新文展 「母子」 特選1939 第3回新文展 「みのり」 特選1940 紀元2600年奉祝美術展 「斧」1942 第5回文展 「慈愛」 無鑑査1944 文部省戦時特別美術展 「名和長年公」1946 第2回日展 「清影」1949 第5回日展 「果物を持つ女」1950 第6回日展 「残夢」1951 第7回日展 「憩」1952 第8回日展 「いづみ」1953 第9回日展 「潮風」1954 第10回日展 「はぐくみ」1955 第11回日展 「髪」1956 第12回日展 「連」 審査員1957 第13回日展 「雲」 依嘱1958 第1回新日展 「腰かけた群像」 会員となる1959 第2回新日展 「浴後」1960 第3回新日展 「ねぐりじぇの母と子」1961 第4回新日展 「母子」1962 第5回新日展 「雲」 審査員1963 第6回新日展 「足を拭う女」1964 第7回新日展 「合奏」 評議員となる1965 第8回新日展 「憩う女」1966 第9回新日展 「腰かけた女」1967 第10回新日展 「海に生きる」1968 第11回新日展 「母子」1969 第1回改組日展 「裸婦立像」1970 第2回改組日展 「はぐくみ」 参与となる1971 第3回改組日展 「髪」1972 第4回改組日展 「若い女」1974 第6回改組日展 「若き女」1975 第7回改組日展 「母子の像」1976 第8回改組日展 「若き母」1977 第9回改組日展 「腰かけた若い女」1978 第10回改組日展 「浴後」

上島長健

没年月日:1980/10/11

 戦後の一時期毎日新聞美術記者として活躍した上島長健は、10月11日肺がんのため東京港区の北里研究所付属病院で死去した。享年68。東京美術学校油彩科を卒業後毎日新聞社に入社、戦後企画展として注目された美術団体連合展などを組織した。同社退職後は、美術の流通面にたずさわり、海外作家の紹介や新人発掘に尽力した。

滝川毘堂

没年月日:1980/10/09

 二紀会委員、日本陶彫会会員の彫刻家滝川毘堂は、10月9日午後8時45分スイ臓ガンのため東京都板橋区の木村病院で死去した。享年66。本名美一。1914(大正3)年3月24日新潟県上越市に生まれる。1928年渡辺長男に師事し、36年構造社彫塑研究所に入り斎藤素巖に学んだ。39年の第3回新文展に「女」を出品し初入選。戦後51年に創設された日本陶彫会に所属し、同会副会長をつとめていた。また53年二紀会の同人、58年同会彫刻部委員となり、76年の第30回二紀展で「花かんざし」が宮本賞を受賞している。主な作品は「謙信公像」(69年、上越市春日山城址)「M画伯頭像」(76年)「花かんざし」「鎮魂像」(79年、三峰山秩父の宮記念館)「武者群像」(80年)など。

後藤捷一

没年月日:1980/09/17

 染織書誌学研究家後藤捷一は、肝腫瘍のため9月17日大阪市淀川区の東淀川病院で死去した。享年88。1982(明治25)年1月2日徳島市に生まれた。1909年、徳島県立工業学校を卒業、直ちに大阪に出て染料の研究を始める。染織関係の業界誌を編集する一方、染織を主体にした文献を収集し、『日本染織譜』など数多くの文献を残し、晩年には約70年にわたって集めた資料や文献を整理、室町時代から明治中期までの計671点からなる『日本染織文献總覧』をまとめた。また、藍の研究でも著名で、特に阿波藍の研究では第一人者であった。主要著書染料植物譜 高尾書店 昭和12年同上 複刻 はくおう社 昭和47年日本染織譜 東峰出版 昭和39年日本染織文献總覧 染織と生活社 昭和55年

松下隆章

没年月日:1980/09/15

 文化財保護審議会委員松下隆章は、9月15日脳出血のため、鎌倉市の自宅で死去、享年71。1909(明治42)年3月31日、長野県飯田市に生まれ、長野県飯田中学校を経て、27年慶応義塾大学文学部に入学、33年同大学美学美術史学科を卒業。34年帝室博物館研究員となり、38年同館鑑査官補に任ぜられたが、44年退職、直ちに新設の根津美術館に入り、同館学芸員として館の発展につとめた。47年国立博物館付属美術研究所に入り、52年文化財保護委員会事務局美術工芸課へ転じ、はじめ絵画部門の担当技官として、59年には美術工芸課長、65年には文化財鑑査官となって、国宝・重要文化財指定や保護等、わが国文化財行政の中心にあって活躍した。その間主な出来事として、永仁の壷事件の処理、韓国文化財返還等を手がけた。69年奈良国立文化財研究所長に就任したが、72年京都国立博物館長に転じ、78年退官するまで、6年間多くの展覧会を手がけ、また同館に文化財保存修理所を設けるなど館の充実と発展に貢献した。70年より、文化庁の文化財専門調査会絵画彫刻部会専門委員となり、さらに76年文化財保護審議会委員に任命され、国の文化財行政の助言・指導に当った。 その専門は日本絵画史で、仏画や水墨画に多くの論文著書がある。その他美術に関する随筆等も少くない。また55年より69年まで母校の慶応大学で美術史を講じた。主要著述目録単行図書1956 宋元名画(共者) 聚楽社1960 室町水墨画1 室町水墨画刊行会1967 水墨画(日本の美術13) 至文堂1967 禅寺と石庭(共著、原色日本の美術10) 小学館1974 如拙・周文・三阿弥(水墨美術大系6) 講談社1974 雪舟(日本の美術100) 至文堂1977 李朝の水墨画(共著、水墨美術大系別巻2) 講談社1979 九十鉄斎 求竜堂1979 如拙・周文(日本美術絵画全集2) 集英社1981 美術随想「野椿」 三月書房定期刊行物1941 前山宏平氏蔵 高士深梅図に就いて 三田文学 16の101943 摩尼宝珠曼荼羅に就いて 美術研究 1311949 法光院不動明王二童子像に就いて 同 153中世に於ける中国絵画摂取の一様相 仏教美術 5普賢十羅刹女像に就いて 仏教美術 61950 嗚呼しづかなる絵-等伯画説の一句- 美術史 1雪舟と四季山水 国華 7001955 金沢称名寺金堂壁画について 仏教芸術 25厳島神社五重塔壁画 仏教芸術 251956 乾山筆十二ケ月倭歌花鳥図について 美術研究 1841963 画人芸愛について 田山方南華甲記念論文集1968 秀盛の数点の作品 仏教芸術 69

般若侑弘

没年月日:1980/09/12

 染色工芸作家の般若侑弘は、出血性脳血せんのため、9月12日、静岡県浜松市の市立医療センターで死去した。享年82。本名は富久造(ふくぞう)で、1898(明治31)年3月12日、東京市下谷区で生まれた。16(大正5)年から岡部光成に、1921(大正10)年から桜井霞洞に、23年からは和田三造に師事し、高島屋染織研究所に入り、従来は着物に附られていたろうけつ染で壁掛や衝立を制作するなど、染織を現代の生活空間の装飾に活用した先駆者の1人。 1929(昭和4)年に帝展に初入選し、以来、帝展、日展に出品を続けた。主要作は、29年の第10回帝展「雷鳥の図壁掛」、50(昭和25)年の第6回日展「けしの花図屏風」(特選受賞)、56年の第12回日展「花と佛頭-壁面装飾-」、68年第11回日展「青い朝連作-壁面装飾-」(内閣総理大臣賞・芸術院賞受賞)等。なお、日展審査員、光風会審査員、現代工芸展審査員、日展評議員、光風会評議員、現代工芸美術家協会常任理事、同参与、光風会理事、日本新工芸家連盟結成代表委員、日本著作権協議専門委員等の任に当たり、工芸美術界に貢献した。

鈴木千久馬

没年月日:1980/09/07

 日本芸術院会員、日展顧問の洋画家鈴木千久馬は、9月7日肺炎のため東京港区の東京慈恵会医科大学付属病院で死去した。享年86。1894(明治27)年7月23日、福井市に生まれ、1908年一家で上京、14年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二教室に学び(同級に中村研一、前田寛治)、20年卒業する。卒業の年、第3回帝展に「緑蔭にて」が初入選、25年から27年の第6-8回帝展で連続特選を受賞し、28年帝展無鑑査となるが、同年渡欧しフランス、イタリー、スペインで学び、29年に帰国する。滞欧中、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受けたが、ことにブラマンクのフォーヴィスムに傾倒する。帰国の年、1930年協会第5回展に滞欧作38点を出品。翌年帝展審査員に推挙され出品、以後、帝展、文展の審査員を毎年つとめる。41年、中野和高ら11名の同志と創元会を創立。戦後は、日展、創元会を中心に制作発表を行い、57年第12回日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞、58年には新日展の評議員となる。72年、日本芸術院会員に任命され、74年勲三等瑞宝章を受章する。この間、51年(日本橋三越)、62年(高島屋ギャラリー)に自選展を、69年には日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」を開催する。また、69年に、『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)が刊行される。後年は、伝統的な東洋画の画趣にひかれ、日本的フォーヴとよばれる淡泊な味わいをもつ独特な画境を拓いた。略年譜1894 7月 23日、鈴木小弥太三男として福井市に生まれる。1901 福井市宝永尋常小学校入学。1905 父小弥太没。1906 県立福井中学校入学。1908 一家で上京、日本中学校に転入。1910 日本中学校卒業。1914 東京美術学校入学。1921 東京美術学校西洋画科卒業(藤島武二教室。同級に前田寛治)。第3回帝展「緑蔭にて」初入選。1922 8月、常盤松高等学校図画科教師となる(-27年12月迄)。第4回帝展「卓上静物」1923 日本美術展「卓上静物」入賞。1924 第5回帝展「静物」1925 1月、日本中学校教諭となり図画を教える(-27年12月迄)。8月、西川正子と結婚。第6回帝展「寝椅子の裸婦」特選。1926 第7回帝展無鑑査出品「椅子による裸婦」特選。1927 第8回帝展「椅子による裸少女」「四人の女」特選。1928 絵画研究のため渡欧、主にパリに滞在し、仏、伊スペイン等を巡歴。滞欧中、ブランマンク、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受ける。1929 帰国。1930年協会展第5回展に滞欧作38点を出品。第10回帝展「裸婦」。1930 帝展審査員(以後毎年)となる。第11回帝展「草上の裸婦」。1931 第12回帝展「家族」。1932 第13回帝展「母子」。日動画廊で旧作による個展。1933 第14回帝展「庭先」。1934 第15回帝展「初秋の朝」。1935 帝展第2部会展「小春日和」。1936 文展招待展「小豆島風景」。四元荘設立。1937 第1回文展(新文展)審査員(以後しばしば)となり、「清流」出品。1938 鈴木絵画研究所設立。第2回文展「春」。1939 第3回文展「滝」、政府買上げとなる。四元荘展「早雲山を望む」「姨捨風景」。1940 母たま没。紀元二千六百年奉祝美術展に「白」招待出品。白日展「富士」。四元荘展「花と少女」「安茂里」。1941 中野和高ら同志11名と創元会を創立、第1回展に「杏村の春」「太平洋を望む」を出品。1942 第5回文展「子供達と母」。第2回創元会展「母性」「秋酣」。1943 第6回文展「山峡の春」。第3回創元会展「黎明」。1944 戦時特別文展「海浜風景図」。第4回創元会展「梅咲く」。1945 福井市に疎開する。1946 第1、2回の日展に出品せず。創元会小品展「梅咲く家」。1947 帰京。第3回日展審査員となり、「晩夏」出品。1948 第7回創元会展「裸婦横臥」「花」。第2回美術団体連合展に「花」(7回創元会展)を招待出品。1949 第8回創元会展「娘の顔」「三宝柑」。1950 日展運営委員会参事を依嘱される(-58年迄)。第6回日展「卓上静物」。第9回創元会展「岬」「静物」1951 日本橋三越で旧作による自選展。第7回日展「鰈のある静物」。第10回創元会展「室内」「アネモネ」。1952 第8回日展「つゆばれ」。第11回創元会展「凝視」「卓上の花」。1953 国立公園協会より国立公園絵画展への製作を委嘱され「奥秩父」を出品。第9回日展「窓際」。第12回創元会展「オリーブ」「静物」「小豆島小景」。1954 第10回日展「花菖蒲」。第13回創元会展「ナチウルモルトアメロディ」「果物」「薔薇」。1955 第11回日展「初秋」。第14回創元会展「花(ダリア)」「静物」「無題」。1956 第12回日展「てっせん」政府買上げ。第15回創元会展「椅(いいぎり)」「ミモザ」「弾奏」。1957 前年度日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞。第13回日展「朝顔」。第16回創元会展「向日葵」「静物」。第4回日本国際美術展(秀作美術展)に「朝顔」(日展出品作)を招待出品。1958 財団法人日展(新日展)の評議員となり、第1回展の審査員(以後隔年)をつとめ、「雪柳」を出品。第17回創元会展「小菊」「庭の雪」「花」。1959 第2回日展「萩咲き初む」。第18回創元会展「蓮池の一隅」「つゆ萩」。1960 第3回日展「椅子による裸婦」。第19回創元会展「櫛けずる」「アトリエの一隅」。1961 第4回日展「竹」。第20回創元会展「紫陽花」「アネモネ」「庭の隅」。1962 高島屋ギャラリーで自選展。第5回日展「寂」。第21回創元会展「夜桜」。1963 第6回日展「叢」。第22回創元会展「かすみ草」「庭の隅」「水蓮」「肖像」。1964 第7回日展「髪」。第23回創元会展「菫を持つ裸婦」「庭の一隅」。1965 第8回日展「帽子の裸婦」。第24回創元会展「かすみ草」「てっせん」「鏡の前」1966 福井県公民館で個展。第9回日展「拈花(ねんげ)」第25回創元会展「雪原に舞う」(政府買上げ)「薔薇と裸婦」「芒咲く」。1967 第10回日展「支那服の娘」。第26回創元会展「なわとび」(政府買上げ)「庭に咲いた花」「知床」。1968 第11回日展「支那服の娘」。第27年創元会展「薔薇と支那服の娘」(政府買上げ)「グラバー邸グリーンルーム入口」「富士(山中湖)」。1969 日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」(9.2-7)を開催。改組日展の評議員となり第1回展に「浴後」を出品。第28回創元会展「支那服の娘」「庭に咲いた花」。『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)を刊行。1970 第2回日展「双鏡」。第29回創元会展「椅子による女」「木の間富士」「五重塔夜景」1971 第3回日展「阿修羅の流れ」。第30周年記念創元展「舞妓」「牡丹」「黎明松島」。1972 日本芸術院会員に任命される。第4回日展「牡丹」。第31回創元会展「夕涼み」「牧場黎明」「浴」。1973 日展顧問となる。第5回日展「薔薇を持つ少女」。第32回創元会展「夜の海」「支那服の娘」。アートサロン銀座ノバで個展を開催(11.1-20)。1974 勲三等瑞宝章を受章。第6回日展「浴衣」。第33回創元会展「舞妓立姿」「鏡の前」「薔薇」。1975 第7回日展「てっせん」。1976 第8回日展「花束を持つ裸少女」。第35回創元会展「藤咲き初む」「横臥裸婦」。1977 第9回日展「椅子に凭る女」。第36回創元会展「白牡丹」。1978 第10回日展「白いレース」。第37回創元会展「髪を洗ふ」。1979 第11回日展「霞草と裸少女」。第38回創元会展「薔薇(2点)」「果物を持てる女」。1980 第12回日展「横たわる女」。第39回創元会展「仔犬を抱く女」「扇子を持てる女」。9月7日没。東京都港区元麻布の竜沢寺に葬る。法名、禅岳院徹心創元居士。

朝妻治郎

没年月日:1980/09/05

 モダンアート協会会員の洋画家朝妻治郎は、9月5日食道ガンのため東京都港区虎の門病院で死去した。享年64。本名金次郎。1915(大正4)年11月18日、東京市本所に生まれ、東京府立第三商業学校を中退後、35年から翌年にかけて本郷絵画研究所に通う。37年、長谷川三郎の知遇を得て師事し、翌年第2回自由美術展に彫刻作品(ベニヤ板、針金による立体)が初入選、39年自由美術協会会友となり木彫を出品する。戦後、同会会員となるが、50年に退会し、同年創立のモダンアート協会に属し、51年の第1回展に「退屈な関係」などを出品、翌年会員となり以後同展に制作発表を行う。モダンアートの他、49年第3回美術団体連合展に「LA VIE」、翌年の第4回展に「人間」他を、53年、国立近代美術展での「抽象と幻想展」に「祈り」を出品する。また、現代日本美術展(第1回「日本の神話」、第2回「十字の像」、第3回「門跡」他、第4回「モナの十字」他)、日本国際美術展(第3回「仮装」他、第4回「春の像」他、第5回「東方」)にも出品した他、個展もしばしば開催する。銅版画、彫刻作品も手がける。モダンアート展出品目録1951 第1回 「退屈な関係」「像・骰子」1952 第2回 「幕は開いた」「冬眠」1953 第3回 「人間と記念碑(扉の為の三部作)」1954 第4回 「人」「冬の像」「冬の影」「仮面1-9(テラコッタ)」「ナルシス」「果実」「像」1955 第5回 「日本の神話 B」「立っている人」「凍る日」「西方の人」1956 第6回 「十字の像」「風景」「像(休む)」「白の像」1957 第7回 「碑」「春の像」「鐘の像(一)」「同(二)」1958 第8回 「東方の門」「冬の像」「北の窓」1959 第9回 「稜」「握」1960 第10回 「モナの十字」「クロス」「ユミ」1961 第11回 「柱」「双十字」「殷の象」1962 第12回 「人と」「周辺」1963 第13回 「アヤ」「リザの壁」1964 第14回 「ヨーロッパ」「東洋の人」1965 第15回 「ローザンヌの扉」「ヨーロッパ65」1966 第16回 「テスト氏の系図」「シルクロードで」1967 第17回 「風景について(其の1)」「同(其の2)」1968 第18回 「’65JAN.29」「風景について(其の五)」1969 第19回 「辺」「会」1970 第20回 「方丈(A)」「同(B)」1971 第21回 「双」「緑」1972 第22回 「出会い(西方)」「同(東方)」1973 第23回 「景(仏伊国境)」「同(ヨーロッパの壁)」1974 第24回 「内と外と(U)」「同(E)」1975 第25回 「北方飛行」1976 第26回 「朱と緑」1977 第27回 「景の印象」1978 第28回 「薫十字」1979 第29回 「ある人々の紋章」「十字誕生」1980 第30回 「解体した八月の十字」

岩田藤七

没年月日:1980/08/23

 日本芸術院会員、文化功労者のガラス工芸家岩田藤七は、8月23日急性肺炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年87。1893(明治26)年3月12日、東京市日本橋区に生まれ、1911年商工中学校を卒業し、白馬会洋画研究所で岡田三郎助に師事して、洋画を学ぶ、12年、東京美術学校金工科に入学、彫金を海野勝珉に学び、また工芸にも関心の深かった岡田の影響を受け、18年に金工科卒業後西洋画科に再入学する。22年、建畠大夢に彫刻を学び、同年の第4回帝展に彫刻作品「深き空」を出品する。23年に西洋画科を卒業、この頃から吹きガラスに興味を抱き今村繁三にガラス製法の手ほどきを受ける。26年、工芸で進むことを決意し、翌年から帝展美術工芸部に出品し、28年から30年迄、帝展で連続特選を受賞する。この間、岩城ガラス研究室に通いガラス工芸に創作活動をしぼり、31年に岩田硝子製作所を設立。また、33年の第14回帝展では作品陳列に関する不当な待遇に対して当局に抗議を申し込み、その主張が受入れられるなど、先駆者としてガラス工芸への認識を高からしめる。36年、第2回の個展を開催時から、勅使河原蒼風の前衛華道と組んで話題を集め、以後もこれを続ける。戦後は、ヴェネツィア・ガラス、スペイン・ガラス、乾隆ガラスの手法を学び、ギリシャ・ローマ彫刻、縄文・弥生土器、さらにフォーヴィスムなど素材を多様にもとめる。50年、日展参事、58年日展顧問となり、この間51年には第7回日本芸術院賞を受賞し、54年に日本芸術院会員に推される。日展、日本伝統工芸展に出品した他、しばしば個展を開催し、68年岩田藤七大回顧展(高島屋)開催を機に、「岩田藤七ガラス作品集」(毎日新聞社)が刊行される。70年に文化功労者に選ばれる。日本のガラス細工を近代ガラス工芸の域に高めた功績者である。略年譜1893 3月 12日 宮内省御用達(美)岩田呉服店店主岩田藤七の長男として東京日本橋に生まれる。幼名、東次郎、母は以ち。1897 幼稚園(日影)を京都で過ごし、岩田呉服京都支店(両替町御池上ル)から通う。1899 4月 日本橋常盤尋常高等小学校に入学、1年上の吉田五十八と相知る。白旗橋畔の菊池塾で漢文と習字を習いはじめる。1900 3月 父没す。藤七の名を襲名。1907 4月 麹町大手町の商工中学校に入学。このころから入谷、浅草、築地、永代、新川などの各地に交友をひろげ、江戸っ子気質を身につけるようになる。1908 築地居留地内の英会話教室に通う。1909 深川八幡境内に住む四条派日本画家稲垣雲隣からツケ立てを習う。1911 3月 商工中学校を卒業。溜池の白馬会洋画研究所(のち葵橋洋画研究所)に洋画を学び、岡田三郎助に師事す。5月 住居を現住地の牛込に移す。1912 4月 東京美術学校金工科に入学。生徒主事大村西崖の影響をうける。彫金を海野勝珉、平田重幸などに学ぶ。漆芸家六角紫水に工芸量産への道なども教えられる。1913 このころイタリア・ルネサンス期の画家・工芸家ニッコロ・ピザノ、ジォヴァンニ・ピザノなどに傾倒する。1914 工芸にも造詣の深い岡田三郎助に強い影響をうける。語学を研究し、英仏の文学、美術の書を原書で読むことに努める。1918 3月 美校金工科を卒業。4月 西洋画科に再入学、同級の佐伯祐三、伊藤熹朔と友だちになる。1919 2月 彫刻家竹内久一の長女、邦子と結婚。1921 10月 長女、澪子生まれる。1922 建畠大夢について彫刻を研究。10月 第4回帝展に彫刻「深き空」を出品。1923 3月 美校西洋画科を卒業。中学同級生林忠雄の開いた美術品店フタバヤ(銀座)で、西洋の工芸品とくに吹きガラスに興味をひかれる。橘ガラス工場社長、美術愛好家今村繁三に知己を得、ガラス製法の手ほどきをうける。勅使河原蒼風と知り合う。1924 10月 第5回帝展に彫刻「ある女」を出品。仏国新美術展の工芸に強くひかれる。1925 10月 第6回帝展に彫刻「聖思」を出品。12月 長男、久利生まれる。1926 工芸にすすむことを決意したが、当時の工芸諸運動には参加せず、自己を磨くことに専念する。1927 10月 第8回帝展美術工芸部に「ルプッセ・ウェストミンスター置時計」を出品。これが東洋時計社長吉田庄五郎に知られ、時計のデザインを依頼される。和田三造、菅原栄造とともに約10年間東洋時計の仕事をつづける。この間にガラスの研究をおしすすめる。岩城ガラス研究室に通う。1928 10月 第9回帝展に「吹き込みルビー色硝子花瓶」を出品、特選となる。このころから絵日記をつけはじめる。1929 10月 帝展無鑑査となり、第10回帝展にガラスと金属との混合製作「硝子製水槽」を出品、再び特選となる。1930 10月 第11回帝展に「はぎ合せ硝子スタンド」を出品、特選となる。特選連続3回により、ガラスもまた陶芸、漆芸、金工と同じく美術工芸の素材となり得ることを世に承認せしめ、草分け時代であったわが国のガラス工芸に光明を与えることとなる。1931 5月 葛飾区に岩田硝子製作所を設立。10月 第12回帝展に「吹き込み鉢」を出品。1932 宙吹法による工芸ガラスの制作をおしすすめる。1933 10月 第14回帝展出品の作品陳列に不当な待遇をうけ、文部当局に抗議を申し込む。主張が通り陳列替えとなるが、同時にガラス工芸の存在を明確に植えつけることとなる。1935 5月 ガラス工芸家としてはじめての個展「硝子のよるげてもの展」を上野松坂屋でひらく。同時に当時全盛であった切り子硝子の世界に、色と姿とその持味とを十分にみせる吹き硝子の復興を提唱、新興硝子として、6月第1回岩田藤七創案新興硝子個展を日本橋高島屋でひらき、吹雪手、絞り手、飛雲手などの日本的要素を加味した作品を出品。以後の個展は同会場でひらく。1936 6月 第2回個展新興硝子器展。勅使河原蒼風が会場に花をいけ、後々もつづく。11月 文部省美術展に「吹き込み硝子花瓶」を出品。李王家買上げとなる。1937 4月 明治大正昭和三聖代名作美術展(大阪市立美術館)に出品を依頼される。6月 第3回個展、トンボ手などの技法の試みをする。9月 第1回新文展の審査員となり、同展に「吹き硝子花瓶」を出品、政府買上げとなる。1938 6月 個展を服部時計店(-1943年まで)、高島屋(第4回)でひらき、泡入り硝子、金箔入り吹き硝子、雲母入り吹き硝子など変化に富む作品の試みをはじめる。9月 パリ万国工芸展に「獅子頭」を出品、銀賞をうける。11月 文展無鑑査となり、第2回文展に「硝子琅玕巧玉尊」を出品。1939 6月 第5回個展。11月 第3回文展に「玻璃黒燿瓶」を出品。1940 6月 第6回個展。網手の手法なども試みる。10月 文展に代る紀元2600年奉祝展に「硝子玻璃興抓文壷」を出品。1941 5月 各務鉱三、小畑雅吉などと工芸作家協会硝子部東京会を結成。6月 第7回個展。9月 東京府芸術保存審議会委員、東京工芸綜合展美術工芸部審査員となる。10月 第4回文展に「玻璃方鼎」を出品。1942 6月 第8回個展。11月 第5回文展に「硝子花瓶」を出品。1943 3月 商工省の重要工芸技術保存資格者に指定され、戦時下のガラス製造残留工場となるも、不当の圧迫をうける。6月 第9回個展。10月 第6回文展に「花器」を出品す。1944 5月 第10回個展。戦争激化のため以後の個展を中断す。11月 戦時特別文展に「花紋鉢」を出品、政府買上げとなる。1946 3月 文展が文部省主催日本美術展覧会と改称され、この年2回開催、10月の第2回日展に審査員となる。同展に「ガラス花器」を出品。1947 6月 戦後初の個展(第11回)を高島屋でひらき、工芸界に活気を呼びもどす。10月 第3回日展に「ガラス鉢」を出品。輸出向け工芸ガラスにも力を注ぐ。1948 6月 第12回個展を高島屋でひらき、以後の個展も同会場でひらく。1949 6月 第13回個展。1950 6月 第14回個展。10月 日展運営会参事となる。第6回日展に「光りの美」を出品。1951 5月 前年度日展出品作「光りの美」で昭和25年度日本芸術院賞(第7回)を受賞。7月 第15回個展。10月 第7回日展に「あやめ」を出品。1952 5月 第16回個展。6月 大阪でも作品展をひらく。10月 第8回日展に「虹彩瑠華」出品。1953 5月 第17回個展、6月 小原豊雲とともに「ガラスと花」の二人展をひらく。京都にても作品発表。10月 第9回日展に「黒水仙」を出品。1954 1月 日本芸術院会員となる。5月 東京(第18回)、6月 大阪、名古屋の各地にて個展をひらく。10月 日展運営会常任理事となる。第10回日展に「野火」を出品。1955 4月 第41回光風会展に賛助出品。5月 第19回個展、6月 大阪でもひらく。10月 第11回日展審査主任となる。同展に「怪鳥と怪獣」を出品。1956 4月 東宝映画「雪国」の伊藤熹朔セットにガラスの氷柱をつくり撮影効果をあげる(翌年封切)。第42回光風会展に賛助出品。6月 第20回個展。10月 第12回日展に彫金「或るミュージックショー」を出品、特選となる。1957 4月 第43回光風会展に賛助出品。6月 第21回個展。高村豊周、山崎覚太郎、楠部彌弌らと葵洸会をつくり、1967年の第10回展まで高島屋で工芸展を開催。ソ連で開催の「現代日本工芸美術展」選定委員となる。7月 「現代美術10年の傑作展」(東横)に「長頸瓶」が選定される。10月 第13回日展に「菱」を出品。日展工芸部理事を辞任。1958 3月 社団法人日展顧問となる。6月 第22回個展。草月会館玄関ホールのシャンデリアをつくる。1959 5月 第23回個展。雑誌『日本美術』に「ガラスの魅力」を書く。1960 6月 第24回個展。新聞(朝日、毎日、読売)に随筆を書くことが多くなる。1961 6月 個展第25回の記念展を高島屋でひらく。同展で、ガラス工芸の近代建築への発展をめざす前衛的な試みとして、平板色彩ガラスを組み合わせて使い、色と光の建築空間をねらう。この平面色彩ガラスに土方定一が「コロラート」(多彩の意)と名づける。8月 雑誌『萠春』に「ガラスで抽象作品を試作する」、『三彩』に「コロラートについて」を書く。10月 横浜高島屋の食堂大壁面に「コロラート」を完成。1962 5月 ホテル・オークラ(谷口吉郎他設計)に照明具を飾る。6月 第26回個展。9月 日本工芸会主催日本伝統工芸展(三越)の授賞選考委員となり、現在までつづく。12月 ローマに開館した日本アカデミーに作品が陳列される。1963 6月 第27回個展としてガラス皿百選展をひらき、わが国伝統工芸の皿の美しさにガラス皿の美を加える。9月 日本生命ビル(村野藤吾設計)内日生劇場入口正面壁面に「コロラート」を完成。第10回日本伝統工芸展に「黄雲」などを出品。1964 1-2月 アメリカ各地を旅行。4-5月 毎日新聞に「ガラス10話」を連載。5月 洋菓子店アマンドにシャンデリアをつくる。6月 第28回個展をひらく。9月 現代日本の工芸展(国立近代美術館京都分館)に「風雪」「雪空」「涛」が展観される。第11回日本伝統工芸展に「回想」「上古」を出品。スケッチ展を新宿アルカンシェル画廊でひらく。1965 4月 第5回伝統工芸新作展に「月影」を出品。6月 荒川豊蔵、加藤士師萌などと「新しい工芸の茶会展」を松屋で開き、ガラスによる茶盌、茶入、水指類を出品、独自の新分野を開く。第29回個展。9月 大阪ロイヤル・ホテル(吉田五十八設計)入口正面に「光瀑」を完成。第12回日本伝統工芸展に「ガラス抹茶盌」を出品。1966 3月 日本工芸会常任理事となる。5月 伊藤熹朔と「ともだち2人会」のスケッチ展を竹川画廊でひらく。千代田生命ビル(村野藤吾設計)に「コロラート」を完成。6月 第30回個展。茶器展を松屋でひらく。9月 第13回日本伝統工芸展に「ガラス天目平茶盌」を出品。12月 芸術新潮に「ガラス拾遺」を書く。1967 3月 宝塚カソリック教会にステンド・グラスを完成。6月 第31回個展。8月 新樹会展に招待出品。9月 第14回日本伝統工芸展に抹茶盌類を出品。小回顧展を資生堂ギャラリーでひらく。1968 4月 第8回伝統工芸新作展に「ばら灰皿」を出品。7月 岩田藤七大回顧展を高島屋でひらく。『岩田藤七ガラス作品集』が毎日新聞社から刊行される。皇居新宮殿に「コロラート」壁面「大八洲」を完成。1969 1月 第10回毎日芸術賞を受賞する。9月 第16回日本伝統工芸展に硝子水指「夕映え」を出品。1970 9月 第17回日本伝統工芸展に「トンボ玉風水指」ガラス花入「湖沼」を出品。10月 文化功労者に選ばれる。1971 9月 第18回日本伝統工芸展に水指「水のかげり」茶碗「小町」を出品。1972 1月 『ガラスの芸術 岩田藤七作品集』(講談社)が刊行される。9月 第19回日本伝統工芸展に硝子茶碗「藤浪」「蝶の夢」を出品。1973 9月 第20回日本伝統工芸展にガラス茶碗「迦陵頻加」ガラス水指を出品。1974 10月 第21回日本伝統工芸展にガラス水指「残雪」ガラス花器「竹」を出品。1975 10月 第22回日本伝統工芸展に「海底に遊ぶ貝」を出品。1976 9月 第23回日本伝統工芸展に「じゃかご」を出品。1977 2月 「岩田藤七制作展」(日動画廊)を開催。9月 第24回日本伝統工芸展に硝子花器「花貝」を出品。1978 9月 第25回日本伝統工芸展に「秋」を出品。1979 9月 第26回日本伝統工芸展に「墨染」を出品。1980 8月 23日没。9月 第27回日本伝統工芸展に硝子水指「涼」「藻」が出品される。〔本年譜は、弦田平八郎編年譜(『岩田藤七ガラス作品集』-1968年、毎日新聞社-所収)を基に作成したものである。〕

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