亀倉雄策

没年月日:1997/05/11
分野:, (デザイン)

 グラフィックデザイナーで、文化功労者の亀倉雄策は、5月11日、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年82。大正4(1915)年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれた。旧制日大第二中学校卒業後の昭和10(1935)年に、川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだ。同13年、日本工房に入社、写真家名取洋之助のもと、デザイナー河野鷹思、そして友人であった写真家土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわった。戦後の同26年には、公告美術を、単なる商品宣伝から、社会的、文化的な意味をも担わせる目的から、全国のデザイナーを糾合する団体日本宣伝美術会(日宣美)の創立に、呼びかけの人のひとりとして参画した。同会は、公募展を主催するなど、戦後日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野をひろげたことで大きな功績があった。また、デザイナーとしての亀倉の才能が発揮されるのも、50年代から60年代にかけてであり、代表的な作品には、直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした日本光学(NIKON)のカメラの一連のポスター、そして写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した東京オリンピックのポスターがあり、ことに後者は、同41年の第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて芸術特別賞を受賞し、国際的にも高い評価を得た。以後、同45年の万国博覧会、同47年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名がひろく知られるようになった。同53年に日本グラフィックデザイナー協会の創立に参加し、会長に就任するなど、70年代から80年代にかけては、デザイナーとして活躍する一方で、デザイン会のリーダーとして中心的な役割をはたした。同59年には、毎日芸術賞の美術部門賞を受賞し、平成3(1991)年には、文化功労者に選出された。同8年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後からの代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開催され、それぞれの時代にあって人々の感覚と嗜好を先取りし、社会的にも文化的にも、メルクマールとなるようなポスターの数々が回顧された。

出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(394頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「亀倉雄策」が含まれます。
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