井上正
日本彫刻史の研究者である井上正は6月14日、肝臓癌により死去した。享年85。
1929(昭和4)年1月12日、長野県飯田町(現、飯田市)箕瀬において井上善一の三男として生まれる。35年飯田尋常高等小学校大久保部入学、41年長野県飯田中学入学、43年海軍飛行予科練入隊、45年終戦により予科練除隊、47年長野県飯田中学四年修了、第四高等学校文科甲類入学、50年東京大学文学部美学美術史学科に入学、53年同大学文学部大学院特別研究生、56年同大学文学部助手、63年文化財保護委員会事務局美術工芸課(文部技官)に着任、67年京都国立博物館学芸課美術室に移動、翌68年同館学芸課資料室長に昇任、79年同館学芸課学芸課長に昇任、87年同館を退職する。京都国立博物館名誉館員。同年、奈良大学文学部文化財学科教授に就任、1989(平成元)年飯田市美術博物館長を兼務、93年奈良大学総合研究所長に就任、95年奈良大学を退職し、佛教大学文学部仏教学科教授に就任、2000年佛教大学を退職し、京都造形芸術大学芸術学部教授に就任、06年京都造形芸術大学を退職、飯田市美術博物館の館長職も退くが、引き続き同館の顧問を引き受ける。
井上は、67年に刊行が開始された『日本彫刻史基礎資料集成』(中央公論美術出版社)の平安時代造像銘記篇、これに続いて73年より刊行がなされた重要作品篇の作例報告に携わり、「善水寺薬師如来坐像」「神護寺薬師如来立像」をはじめとする21件について分担執筆を行うほか、68年から刊行が始まった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店)では彫刻24件、工芸ならびに文様46件の解説を、続く『大和古寺大観』では2巻・当麻寺(1978年)と6巻・室生寺において彫刻4件、工芸2件の解説を担当するなど、今日に至る日本彫刻史の基礎・基盤研究に大きな足跡を残した。その一方で、井上の研究の対象作品・方向性については、81年に勤務先である京都国立博物館刊行の『学叢』3に発表した「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」を契機として、その前・後で大きく志向を異にしている。すなわち、それ以前の研究においては平等院鳳凰堂阿弥陀如来像以降の定朝様式の展開を中央・地方に及んで実作例に臨んで研究成果を積み重ねるとともに、定朝の父とされる康尚とその時代の作風の解明に心血を注いだ。代表的な論文として「浄厳院阿弥陀如来像に就いて」『國華』791(1958年)、「法界寺阿弥陀如来坐像」『同』834(1962年)、「遍照寺の彫刻と康尚時代」『同』846(1962年)、「東福寺同聚院不動明王坐像」『同』848(1962年、のち改稿したものを、『不動明王像造立一千年記念誌』<同院、2006年>に収載)、「浄瑠璃寺九躰阿弥陀如来像の造立年代について」『同』861(1963年)、「関東の定朝様彫刻」『関東の彫刻研究』(学生社、1964年)、「誓願寺毘沙門天像」『國華』907(1967年)、「藤原時代の二王像―旧蓮台寺像を中心に―」『佛教藝術』80(1971年)、「法金剛院阿弥陀如来像について」『國華』940(1971年)、「万寿寺阿弥陀如来坐像について」『MUSEUM』246(1971年)、「皇慶伝説の仏像―池上寺、如願寺―」『日本美術工芸』412(1973年)、「皇慶伝説の仏像―円隆寺―」『同』413(1973年)、「雙栗神社周辺の仏像」『同』414(1973年)、「三つの毘沙門天―京都市中に伝わる」『同』415(1973年)、「童顔の仏・菩薩―本山寺聖観音立像と真如堂阿弥陀如来立像―」『同』417(1973年)、「摂津・安岡寺の千手観音像」『同』418(1973年)、「藤原彫刻のプロポーションについて」『同』421(1973年)、「焼失壬生地蔵尊」『同』422(1973年)、「横川中堂の聖観音像」『同』423(1973年)、「旧巨椋池周辺の仏像」『學叢』1(1979年)、「康尚時代の彫刻作例三種」『同』2(1980年)などをあげることができる。集英社『日本古寺美術全集』所載の「和様彫刻の成立と展開」(15巻・平等院と南山城の古寺、1980年)、ならびに「定朝以後の諸相」(6巻・神護寺と洛北の古寺、1981年)、筑摩書房『日本美術史の巨匠たち(上)』(1982年)に執筆した「定朝」は、いずれもそれまでの研究を集大成した感がある。また、この時期にあっては、これらの研究と併行して工芸ならびに文様研究にも関心があったことが「飛鳥文様の一系列」『美術史』24(1957年)、「春日大社平胡―について―平安工芸の編年的考察 其一」『國華』867(1964年)、「春日神筝考―平安工芸の編年的考察 其二」『同』883(1965年)、「檜扇二種―平安工芸の編年的考察 其三」『同』894(1966年)、「平安時代装飾文様の展開について」『佛教藝術』67(1968年)、「東洋における雲気表現の衰滅」『月刊文化財』149(1976年)などの論文から窺がわれる。
一方、81年に「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」(上掲)を発表し、ことに「檀色」という概念を深く掘り下げたことで「檀像」の概念を広く捉え直すとともに、それまで基準となる作例との比較・対比が難しく漠然と十世紀頃と認識されることの多かった平安木彫の諸作例について、都鄙を問わず積極的に取り上げて再考を促し、制作年代についても従来漠然と考えられてきた年代より大きく引き上げる試みを行った。その際、これらを「古密教系彫像」「霊木化現仏」「感得」という視点から論じ、檀像研究のありように一石を投じた。この井上の研究により八・九世紀の木彫像研究が以後、活況を呈し、その見方・考え方は後続の彫刻史研究者に少なからず影響を及ぼすこととなった。この時期の代表論文には上掲の論文に続く「観菩提寺十一面観音立像について―檀像系彫刻の諸相Ⅱ」『学叢』5(1983年)、「愛知高田寺薬師如来坐像について―檀像系彫刻の諸相Ⅲ―」『同』6(1984年)、「法華寺十一面観音立像と呉道玄様―檀像系彫刻の諸相Ⅳ―」『同』9(1987年)がそれに当たる。さらに『日本美術工芸』には続々と関係作例の紹介を兼ねた論文が発表された。当時、彫刻史研究者の間で同誌への関心が著しく跳ね上がった。そして、これらの研究を俯瞰するものとして87年には至文堂『檀像(日本の美術253)』が、91年には岩波書店『七〜九世紀の美術 伝来と開花(岩波日本の美術の流れ 二)』が上梓された。なお、『日本美術工芸』に掲載された論文の多くは、のちに『古佛―彫像のイコノロジー―』(法蔵館、1986年)、『続古佛―古密教彫像巡歴』(同、2012年)に収録された。ただし、93年1月から翌年12月にかけて「古仏への視点」の副題のもと集中的に『日本美術工芸』の誌上において在地の古仏紹介を兼ねて発表された諸論文については未収である。すなわち、「和歌山東光寺薬師如来坐像」『同』652、「和歌山法音寺伝釈迦如来坐像」『同』653、「天部か神像か―法音寺・東光寺の例―」『同』654、「和歌山薬王寺十一面観音立像」『同』655、「和歌山満福寺十一面観音立像」『同』656、「島根南禅寺の仏像群(一〜三)」『同』657〜659、「島根禅定寺の仏像群」『同』660、「島根巖倉寺聖観音立像」『同』661、「島根仏谷寺の仏像群」『同』662、「島根大寺薬師の仏像群」『同』663、「島根清水寺十一面観音立像 付・大寺薬師仏像群(続)」『同』664、「滋賀鶏足寺仏像群(一〜二)」『同』665・666、「滋賀黒田観音寺伝千手観音立像」『同』667、「滋賀来現寺聖観音立像」『同』668、「大阪久安寺薬師如来立像」『同』669、「大阪常福寺千手観音立像」『同』670、「新潟宝伝寺十一面観音立像(水保の観音)」『同』671、「岩手天台寺仏像群」『同』672・673、「秋田の霊木化現像(上)―中仙町小沼神社―」『同』674、「秋田の霊木化現像(下)―土沢神社、談山神社、白山神社―」『同』675がそれらに当たる。この一連の研究を踏まえつつ井上の関心が神像彫刻研究へと向かったことは、「神仏習合の精神と造形」『図説 日本の仏教6 神仏習合と修験』新潮社、1989年)、「霊木に出現する仏―列島に根付いた神仏習合―」『民衆生活の日本史・木』(思文閣出版、1994年)、「神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像―怨霊世界の造形について―」『佛教大学 仏教学会紀要』7(1999年)などから窺がうことができる。
井上の著作を網羅した目録は、『続古佛―古密教彫像巡歴』(上掲)の巻末に収載されているが、あわせて詳細な年譜を付したものが『文化財学報』13(奈良大学文学部文化財学科、1995年)、『佛教大学 仏教学会紀要』7(上掲)、『伊那』1039(伊那史学会、2014年)に収められている。ことに『伊那』には生前、井上の謦咳に親しく接した安藤佳香、櫻井弘人、織田顕行、林英壽によるそれぞれの思い出と追悼文、および、実妹の清水好子による「井上家と兄・井上正のこと」を併載している。
登録日:2017年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「井上正」『日本美術年鑑』平成27年版(502-504頁)
例)「井上正 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/247366.html(閲覧日 2024-12-04)
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