本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





村田潔

没年月日:1973/11/03

東北大学名誉教授、武蔵野美術大学教授、西洋美術史専攻の村田潔は、11月3日午前11時8分、東京・武蔵野市の森本病院で心筋硬ソクのため急逝した。享年64歳であった。村田潔は、明治42年(1909)2月28日、長野県松本市に生まれ、昭和7年(1932)東北大学文学部美学美術史学科を卒業、児島喜久雄の指導をうけ、卒業と同時に同学科の助手となったが、同年10月、美学・美術史研修のためにヨーロッパに留学した。主としてイギリスに滞在して古代ギリシャ・ローマ美術を研究、昭和12年(1937)5月帰国した。帰国後は直に東北大学文学部講師に就任、同14年助教授、同22年教授に昇任、同25年「印象派美術の研究」で文学博士の学位をうけた。昭和37年、東北大学評議員、大学院研究科教授を兼任、同47年(1972)3月、退官して名誉教授となった。同年4月武蔵野美術大学教授に迎えられて、東京に転居、同大学西洋美術史教科の中心として今後の活躍が期待されていた矢先に急逝した。著書には『ギリシャの神殿』(昭和19年、築地書店)、『希臘芸術試論』『ギリシャ・ローマの美術』(昭和23年、東京堂)、『岩波小辞典・西洋美術』(昭和31年)、『西洋古代美術論』(昭和46年、岩波書店)。

早川芳彦

没年月日:1973/09/22

旧日展委員の洋画家早川芳彦は、9月22日東京新宿の東京医大病院でジン不全のため死去した。享年77歳。明治32年8月6日山梨県東山梨郡に生れ、川端画学校で洋画を学んだ。昭和10年春洋会に「室内」「窓辺の静物」が初入選し、同会に昭和12年~15年までの出品がみられる。ついで、昭和13年太平洋画会に「絵を描く女」「椿のある庭」「卓上の花」を出品、NYK賞を受ける。同会では、また15年に「婦人座像」「椅子に倚る女」「子供」「荏」などを出品、太平洋画会賞となった。同15年には会員となり、28年委員に推された。昭和29年同会有志を中心に光陽会が創立され、その創立会員となった。そのほか、紀元二千六百年奉祝展、戦争美術展等の出品があり、戦後第2・3回日展委員を依嘱されている。代表作―「浅間山」「昇仙峡」「赤城」など。

小林敏夫

没年月日:1973/09/15

國画会会員小林敏夫は、9月15日死去した。明治37年11月姫路市に生れ、昭和6年長崎医科大学を卒業した。同28年第27回國画会展に「老シリヤエフ像」(A)(D)(B)の三点が初入選となり、國画賞になった。同30回展で会友、同34回展で会員に推された。絵画は独学だが、初期には野口弥太郎に私淑した。長崎県展、同美術協会事務局長をつとめ、長崎県文化団体協議会、長崎国際文化協会、世界連邦建設同盟等に関与する。医学博士。

元橋音治郎

没年月日:1973/09/12

日本工芸会正会員、染色作家の元橋音治郎は、腸閉塞のため、9月12日、京都市の第二日赤病院で死去した。享年75歳。京都市の出身で、小学校を卒業後60余年手描友禅一筋に打ち込み、京都市伝統産業技術功労者となる。元喜屋会長。

八木一艸

没年月日:1973/09/02

陶芸家の八木一艸(本名榮二)は、心肺機能不全のため、9月2日、京都市の京都桂病院で死去した。享年79歳。大阪市出身で、大正初め京都市陶磁器試験所で陶磁を学び、京都陶芸界の古い指導者である。大正9年、楠部弥一らと共に「赤土社」を結成し、わが国近代陶芸の道を開いた。戦後は無所属を通し、特に中国宋風の青磁、均窯などに優れた作品を残した。端正な作風で知られ、ロクロ技術は名人芸といわれた。

長谷川昇

没年月日:1973/08/26

日本芸術院会員の洋画家、長谷川昇、8月26日午前11時、心不全のため東京・新宿の社会保険中央総合病院で死去した。享年87歳。長谷川昇は明治19年(1886)5月11日、長谷川直義の長男として福島県会津若松市に生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育され、明治36年(1903)札幌中学校を卒業、医師を志望して上京、第一高等学校受験に失敗して、明治38年東京美術学校西洋画科に入学、同43年同校を卒業した。同級に藤田嗣治、山脇信徳、田辺至などがいた。在学中の明治41年第2回文展に「海辺」が初入選となり、同43年第4回文展に「白粉」入選、褒状を受けた。明治44年(1911)ヨーロッパに行きパリに居住して、イタリア、スペイン、イギリスなどに旅行、セザンヌ、ルノアールの作品にひかれ、ヴァン・ドンゲンらと交友、大正4年(1915)帰国した。小杉放庵の勧誘で日本美術院洋画部同人となり、大正4年再興院展洋画部に「オランヂユ持つ女」「オペラの踊子」を出品した。大正10年(1921)、再度フランスに遊学、スイス、ベルギー、オランダを歴遊して翌大正11年帰国、旧院展洋画部同人を中心とする春陽会の創立に同人として参加した。ヴァン・ドンゲン風の色調をもった裸婦像、人物像を発表、大正14年春陽会第3回展「髪あむ少女」「安息」「裸女」、同15年第4回展「べに」「髪」「つめ」「書見」などを出品、大正15年聖徳太子奉讃展に出品した「母性」は当時の摂政官の買上げとなり、また、同年明治神宮絵画館に「大婚二十五年祝典」を制作した。昭和2年(1927)、第3回外遊、パリの画廊ベルネイム・ジュンヌで日本の題材による紙カンパスに描いた作品で個展を開催、さらに翌年同画廊で滞欧中の作品による個展を開催し、「裸婦」がフランス政府の購入するところとなった。昭和3年帰国、翌4年第7回春陽会展に「裸体」「若き女」「小憩」「レクチュール」「オペラに於けるブルガ嬢」「髪むすぶ女」「ブランシュ・エ・ノアール」「プティ・ラ」などの滞欧作品を出品した。 昭和6年第9回春陽会展「ロバと少女」「髪」「レヴューの女」「鴨遊ぶ池」「女優恵美子」出品、この年第4回目の外遊。 昭和7年、帰国。第10回春陽会展に「熱帯梅林」「S嬢」「伊豆風景」出品。 昭和8年、第11回春陽会展「桃の節句」「オリーヴの樹」「アフガニスタンの女」「ゴードの小村」「ピアニスト」「裸体」「立てるアフガニスタンの女」「パリジェンヌと愛女」「ゴード風景」を出品。 昭和9年・第12回春陽会展「少女と子猫」「緑蔭」「裸体」「Y夫人」出品。 昭和10年、第13回春陽会展「モデル」出品。 昭和13年、春陽会を脱会し、昭和16年の文展に審査員として参加、以後、文展、日展に出品し、昭和18年第6回文展出品作品「おをぎ」が文部省買上げとなった。日展では参事となり、昭和32年(1957)日本芸術院会員に選ばれた。昭和30年の第11回日展に「戸浪に扮する福助」を出品、以後、歌舞伎役者絵の制作に情熱を傾け、昭和38年には連作歌舞伎役者絵101点による個展を日本橋三越で開催、さらに同39年には文楽人形絵を開催した。昭和41年、勲三等旭日中綬章を受章。昭和42年1月、日本経済新聞社主催による回顧展が日本橋三越において開催された。

村上鉄太郎

没年月日:1973/08/24

白日会会員、日本水彩画会会員、日展委嘱の洋画家村上鉄太郎は、8月24日、死去した。享年73歳。村上鉄太郎は明治32年(1899)12月23日、東京に生まれ、太平洋美術学校に学んだ。中沢弘光に師事し、白日会展に出品、昭和4年(1929)第6回白日会展に「鱒の静物」を出品して白日賞を受賞、その後静物の連作を出品、昭和7年に白日会会員に推挙された。昭和39年(1964)第40回白日会展では「訪春」「雪どけの川」、で中沢賞を受賞した。日展にも出品し、昭和26年第7回展「河岸」、同27年「晴れた日」、同28年「窓ぎわ」、同30年「山手雪景」、同32年「残雪」など連続入選して昭和42年日展委嘱にあげられた。

菊地精二

没年月日:1973/08/20

独立美術協会々員、菊地精二は48年8月20日、脳出血のため逝去した。享年65歳。葬儀は世田谷区のカルメル会修道院カトリック教会で独立美術協会葬を以て行われた。明治42年8月15日、北海道札幌市に生れた。昭和2年頃、上京、同舟社洋画研究所に油絵を学び、昭和4年二科会展に初入選となったが、昭和6年1931年、独立美術協会の創立に際し同会へ出品と決め、同8年第3回展でD氏賞、さらに10年第5展で独立賞を受け、15年に独立美術協会の会員となった。

大久保為世子

没年月日:1973/08/12

女流画家協会会員、朱葉会会員の大久保為世子は、8月12日死去した。享年76歳。明治30年(1897)1月東京に生まれ、実践高等女子学校を卒業、昭和7年(1932)より洋画を小林万吉、耳野卯三郎に就いて学び、光風会展、朱葉会展に出品した。昭和22年には、国際親善のために在日外国婦人と交友、協力して芸術を探究することを目的とした青葉会を創立し、その理事をつとめた。

安島雨晶

没年月日:1973/08/10

日本画家安島雨晶は、8月10日急性肺炎のため京都市第一日赤病院で死去した。享年66歳。本名理作。明治40年石川県に生れ、京都絵専を卒業した。西山翠嶂画塾青甲社に入り、師没後は同志と牧人社を結成した。この間、新文展、日展等に出品し、昭和45年には伏見稲荷大社の祭礼絵巻を完成した。

中津瀬忠彦

没年月日:1973/08/10

独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦は、8月10日、交通事故のため死去した。享年57歳であった。中津瀬家は京都伏見の公家の出といわれ、中津瀬忠彦は大正5年(1916)1月18日、滋賀県大津市に生まれ、昭和11年(1936)、岡山師範学校本科(美術・音楽)を卒業、同13年第8回独立美術協会展に初入選した。その後、昭和18年文展に出品入選したほかは独立展に出品をつづけ、昭和23年第16回独立展において「風景A」「風景B」で独立賞を受賞し、翌年独立美術協会準会員、さらに翌年の昭和25年には同会会員に推挙された。同年の第1回アトリエ新人賞候補に選ばれ、昭和29年には朝日秀作展にも選出された。昭和33年(1958)に留学生として渡欧し、同35年までフランスに滞在、34年(1959)にはサロン・ドートンヌに入選した。帰国後も独立展、独立十人の会を中心に作品を発表、昭和38年、42年の安井賞候補展に選抜され、同41年日動画廊太陽展にも出品した。昭和42年再渡欧して1年間ヨーロッパに滞在した。独立展出品作品略年譜昭和13年・宇野港 同17年・川岸の馬 同22年・働く人、風景 同23年・風景A、風景B 同25年・風景(B)、後楽園外苑、風景A 同27年・働く人々、人と馬 同28年・馬A、馬B 同29年・働く人々A、働く人々B 同30年・風景A、風景B、風景C 同31年・山湖、後楽園外苑、砌場 同32年・岩山、後楽園 同33年・風景B、風景A、風景C 同35年・Santa Lucia、Parc de Sceaux、paris 14、paris 5、Montparnasseの街角 同36年・後楽園、Parc de Sceaux 同38年・マドリッド 同39年・南伊風景、南伊の女 同40年・奢れる伊呂具 同41年・黎明、罌粟と少女 同43年・ゼゴヴィヤ城外 同44年・黄昏時、らくがき 同45年・蝶を追う、田植時 同46年・五月 同47年・内海を望む丘 同48年・マドリッド、風景

浜田信

没年月日:1973/08/06

二紀会々員の浜田信は、8月6日肺水シュのため東大病院で死去した。享年58歳。本名信次。大正4年5月16日大阪市に生れ、大阪市立都島工業学校機械科を卒業し、昭和21年帝国美術学校(現武蔵野美大)西洋画を卒業した。同25年第4回二紀会展に「白壁の家」「夜のパッキャント」が初入選し、佳作賞を受賞した。又8回展「裏街(ハルピン)」、10回展「降魔成道(仏伝)」「太子降誕(仏伝)」で同人努力賞を得、第12回展では審査委員に推されている。昭和37年チェッコスロヴァキア文化省より招待を受け、約1カ年滞在し、この間、プラハとヴラチスラクで個展を開催した。翌年東欧、オーストリア、スイスを経て巴里に滞留、サロン・ドートンヌに出品し、またスペインに旅行した。さらに翌39年仏アンデパンダン、仏ル・サロンに出品、後者は銀賞をうけ、無鑑査となった。この年、イタリア、ドイツ等欧洲各国を巡り、東南アジアを経て帰国した。なお葬儀は13日千日谷会堂で二紀会葬により行われた。

跡部白烏

没年月日:1973/08/04

日本美術院々友、大調和会運営委員で日本画家の跡部白烏は、8月4日喘息のため死去した。享年73歳。本名正人。明治33年9月28日東京に生まれ、早稲田大学中退後、画家を志して堅山南風に師事し、院展に出品した。大正12年第10会院展に初入選し、その後院友となり現在に至る。戦後は、日本画府、大調和会等を発表の場とした。主な作品「雪の山」「雨後」「篁」(いづれも院展出品作)

安藤軍治

没年月日:1973/07/28

一水会委員、日展委嘱出品の安藤軍治は、大正4年12月31日、神奈川県小田原市に生れた。昭和9年小田原中学校卒業、東京美術学校に学び昭和17年同彫刻科を卒業した。在校中、同校の命により、西田正秋教授に随行して大同石仏調査研究のため同地へ赴く。昭和18年小田原で大陸スケッチ展を開く。作品は、一水会展及び日展に出品し、昭和26年一水会々員となり、又、昭和38年、41年の日展で「サイゴン市場の女達」「Yさん」が各々特選となり、43年日展の出品委嘱作家となった。また同年一水会委員に推されている。46年欧州旅行ののち、48年7月28日逝去した。享年58歳。 略年譜大正4年 神奈川県小田原市に生る昭和17年 東京美術学校彫刻科塑造部を卒業昭和18年 大陸スケッチ展(於小田原)昭和26年 一水会々員に推挙される昭和34年 皇太子・美知子妃謹写 琉球スケッチ展(銀座松屋)昭和38年 東南アジアスケッチ旅行 第25回一水会展会員佳作賞 第6回日展特選昭和39年 第26回一水会展会員優賞昭和40年 カナダスケッチ展(新宿伊勢丹)昭和41年 ヨーロッパ、エジプト旅行 第9回日展特選昭和42年 第10回一水会々員展記念賞 第29回一水会展岩倉具方賞昭和43年 一水会委員に推挙される 日展依嘱出品昭和44年 「最高裁長官横田正俊氏像」昭和46年 欧州旅行昭和48年 7月28日没

中本達也

没年月日:1973/07/22

多摩美術大学教授で元自由美術協会会員であった洋画家の中本達也は、7月22日午後1時49分、脳腫瘍のため東京・府中市の都立府中病院で死去した。享年51歳。中本達也は、大正11年(1922)2月13日、山口県大島郡に生まれ、昭和18(1943)帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科を卒業、学徒動員で軍隊に入り、昭和20年復員した。はじめ、舞台美術、新劇運動に従事したが、自由美術家協会展に出品、昭和26年同会15回展「人と人」「間(ま)」、同27年16回展「回想」などを出品、27年に自由美術家協会会員にあげられた。昭和34年(1959)みづゑ賞選抜作家展でみづゑ賞を受賞し、中南米巡回展に出品、同年、「群れ」で第3回安井賞を受けた。昭和35年ギャラリー・キムラで第1回個展、翌年東京大丸ギャラリーで第2回個展、昭和37年大阪関西画廊で個展、同年大阪フオルム画廊でエッチングによる個展を開催した。昭和38年(1963)自由美術協会を退会したが、それまでに昭和28年「土壌」「思策」「誕生」、同30年「水浴」、同31年「牛飼い」「洪水」、同32年「憩える海人」、同33年「とり」「供物」、同34年「窟の声」、同35年「火山帯(動物)」、同36年「狩」、同37年「東洋の声」を同展に発表した。昭和38年から翌年(1963-64)までイタリアに滞在、昭和42年壱番館画廊で個展「残された壁」、翌年同画廊で個展「人間断片」を開催した。昭和45年、多摩美術大学油画科教授に就任、同47年、千葉県の鋸山に広大な岩壁彫刻「岩の声」を制作した。内面的な思考と叫びを彫直な形体で造型化した作風はその特異性を評価されて、昭和48年(1973)、東京セントラル美術館で『岩の声まで』と題して回顧展が開催された。

松野一夫

没年月日:1973/07/17

雑誌『新青年』の表紙絵などで知られていた挿絵画家の松野一夫は、7月17日午後7時半、心筋こうそくのため東京文京区の自宅で死去した。享年77歳。松野一夫は本名一男、明治28年(1895)10月1日、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれ、小倉中学校を中退して上京、東京の中学校(校名不詳)を卒業。大正10年(1921)、第3回帝展に油彩画「ときちゃん」が初入選した。そのころから雑誌『新青年』(大正9年1月創刊)の表紙を描きはじめ、戦後廃刊になるまで同誌の表紙絵を全部描いている。その間、昭和6年(1931)9月から約1年間フランスに滞在しパリにあってグラン・ショミエールに通い絵画を勉強、帰国後は雑誌『少年倶楽部』の表紙絵、また昭和12~15年には『新女苑』の名作絵物語の挿絵などを描いている。そのほか、朝日、読売、東京、日経などの各新聞の挿絵でも活躍した。

伊藤彪

没年月日:1973/07/06

独立美術協会会員の洋画家、伊藤彪は7月6日朝、食道ガンのため東京品川区の松井病院で死去した。享年61歳。伊藤彪は、明治44年(1911)12月10日、山口県萩市に生れ、昭和4年神学校を卒業、同8年(1933)独立美術研究所に入り、川口軌外に師事、その後、熊谷守一、林武に指導をうけた。昭和12年第7回独立美術展に初出品、以後毎回出品し、昭和22年第15回展に『真夏』『海ちかく』を出品して独立美術協会奨励賞を受賞した。昭和25年、独立美術協会会員にあげられ、同27年ころには藤田鶴雄、多田栄二、野口弥太郎らと白鳥会を結成した。作品略年譜(独立美術展出品作)昭和13年・造船場 同16年・樹間 同17年。鳩小舎と少女 同25年・新橋駅附近、ニコライ堂、神保町のひととき 同27年・新橋風景 同31年・河岸、越前堀 同32年・ポンモイ風景 同34年・牧舎と車、農場 同38年・とら河豚、まんぼう 同39年・駒形風景、浅草の屋根 同40年・池袋駅附近、拘置所の見える風景 同41年・池袋風景、越前堀 同42年・新宿の屋根、浅草の見える風景 同43年・艀のある風景、艀と橋 同44年・小樽港 同45何・札幌の街 同46年・札幌風景 同48年・池袋風景、浅草の屋根

松本弘二

没年月日:1973/06/29

二科会会員、理事の洋画家、松本弘二は、6月29日午後2時25分、肺気腫のため東京世田谷の自宅で死去した。享年77歳。松本弘二は、佐賀県佐賀郡(現・佐賀市)に生まれ、中学を中途で退学となり、高木背水を頼って上京、洋画を学ぶことになったが、葵橋洋画研究所に入って黒田清輝の指導をうけた。また、広津和郎との交友から文学にひかれ、青年期には雑誌の編集に携わり、思想的にも開眼、『種蒔く人』同人となっている。アルス社企画部長などを勤めて出版活動のあと、絵画に専念するようになるのは、昭和4年(1929)3月から、昭和6年(1931)7月にいたる2年間のフランス滞在以降である。それ以後、終始二科会に所属して大きな筆触で描かれた漁村風景、海港風景、花の静物などの作品を発表してきた。晩年は二科会の長老的存在として理事をつとめ、後身の指導にも情熱を傾けていた。年譜明治28年(1895) 9月21日、松本伊七、たけの次男として佐賀郡(現佐賀市)に生まれる。明治39年 兵庫県尋常高等小学校尋常科卒業明治41年 佐賀県立佐賀中学校入学明治45年 佐賀中学校中途退学後、叔母の計らいで当時東京鍋島候邸内で画塾を開いていた高木背水を頼って上京、洋画の手ほどきを受ける。またしばしば高木を訪ねていた広津和郎を知り交遊を結び、文学への興味を示す。大正3年 高木背水から渡鮮同行をさそわれたが辞退、黒田清輝の葵橋研究所入る。徴兵検査のため帰佐した際、第1回佐賀美術協会展への出品を請われて油絵2点(4号)を出品。大正4年 出版社飛行社に入社。「飛行少年」「飛行幼年」「活動画報」の編集に携わる。第2回佐賀美術協会展に出品(画号龍骨)「鍋島屋敷」大正5年 広津和郎と共に大鎧閣解放社に入社。大正6年 雑誌「解放」の編集に携わる。また「種蒔く人」同人となる。大正8年 第6回佐賀美術協会展に出品。大正10年 二科展に「水道橋駅風景」を出品し初入選。雑誌「解放」「文芸戦線」の編集に携わる。11月29日、吉岡藤枝と結婚。大正11年 秋田土崎地方風景を写生する。以後随時秋田へ赴き製作する。大正博覧会に「郊外」を出品二科展に「秋田土崎港」「冬」を出品入選。大正13年 アルス社に入社。大正15年 アルス社の「美術大講座」の編集に携わる。昭和3年 アルス社企画部長となり新刊の選定にあたる。二科展に「桐畑」を出品昭和4年 3月11日、藤枝夫人とともに渡欧。パリ到着後、美術学校グラン・ショミエールに学ぶ。昭和5年 サロン・ドートンヌに「ル・バザール」「旧市街の一角」入選。二科展に「コントア・ド・マルシャン・ド・ヴァン」「ノートルダム・ド・パリ」「梨子の花咲く頃」を出品。昭和6年 サロン・ドートンヌに「丘の上」入選。二科展に「リュー・ド・パリのほとり」「春色」「ル・バザール」「丘の上」「夏のボア・ド・ムードン」「旧市街の一角」「ペール・バレルとその家族」の7点が特別陳列される。7月帰国。昭和7年 二科会の中堅作家で結成されていた鉦人社が、新美術家協会と改称。宮本三郎氏らのさそいを受け入会。二科展に「東京の屋根」「静物」を出品。昭和8年 第5回新美術家協会展に「レモンのある静物」等5展を出品。二科展に「窓」を出品。二科会会友に推される。昭和9年 大阪阪急百貨店で最初の個展、30点出品。第6回新美術家協会展に「岩礁」「雪の北アルプス連峰」を出品。昭和10年 二科展に「立秋」「夏果」「ブッペー」を出品。文展改組に際し文部省から無鑑査出品の待遇を受けたが出品せず。第7回新美術家協会展に「夏果園」「吹雪の道」を出品。昭和11年 二科展に「花火大会所見」「太陽島の夏」出品。第8回新美術家協会展に「花を持つ女」を出品。銀座資生堂ギャラリーで個展。18点出品。昭和12年 二科展に「滞船」「赤坂見付」出品。昭和13年 京城三越で個展(5/12~14)二科展に「川岸」「思い出の海金鋼」「雪の蓼科」「高原」出品。第10回新美術家協会展に「滞船」「御嶽を望む」出品。昭和14年 佐賀市公会堂で個展(6/3~7)満州、朝鮮地方を写生旅行。二科展に「高原にて」出品。第11回新美術家協会展に「雪、月、花」「贈られた花」出品。昭和15年 紀元2600年奉祝展へ男鹿二題「龍ヶ島」「鳥海山」を出品し推奨受賞。小倉菊屋百貨店個展。(5/10~14)30点出品。昭和16年 下関商工会議所で個展。(4/2~3)二科展へ「雪の上」「ゲレンデ・スキー」を出品し二科会会員に推される。昭和17年 中国上海を中心に写生旅行し、その時の作品を「孔子廟附近」(南通)「バンド」(上海)を二科展へ出品。昭和18年 二科展へ「大宝」「芍薬」を出品。昭和22年 第1回美術団体連合展へ「春の関門海峡」A・Bを出品。下関で個展。二科展へ「田園」「閑庭」を出品。昭和23年 第2回美術団体連合展へ「初夏」を出品。二科展へ「ちまた・A」を出品。昭和24年 第3回美術団体連合展へ「花」を出品。佐賀市玉屋百貨店で個展。(2/4~8)二科展へ「ちまた」出品。昭和25年 春季二科展へ「梅林」を出品。二科展へ「滞船」「釣橋」「海女」「海の見える丘」を出品。昭和26年 二科展へ「海鹿島の夏」「嵐の後」「海女」「ダリア」「夏の海」を出品し会員努力賞受賞。豊橋市浦柴屋画廊で個展(11/7~13)25点出品。昭和27年 東京高島屋で個展(3/6~9)。福島県平市と福間で個展。二科展へ「原釜の夏」A、B「小名浜港」「野地の雲」を出品。昭和28年 東京兜町画廊主催で個展(4/6~12)。「大島元村にて」他17点出品。二科春季展へ「三原山」出品。二科展へ「木曾川の夏」「木曾路の夏」「濤」「静物」A、Bを出品。昭和29年 第1回現代日本美術展へ花二題「牡丹」「ダリア」を出品。二科展へ「宣伝戦」「貧しき部屋」「水辺」を出品。二科展へ「鰯漁」「満潮」を出品。昭和31年 第2回現代日本美術展へ「室内」を出品二科展へ「銀座風景」「漁港風景」「海浜」を出品。昭和32年 第3回日本国際美術展へ「ブルヴァール」A、Bを出品。二科展へ「ガード下風景」「漁村風景」「白い花黄色い花」を出品昭和33年 第3回現代日本美術展へ「夜の風景」を出品。二科展へ「ひなげし」「ダリア」「満潮の頃」「海辺の丘」を出品。秋田市で個展。24点出品。昭和34年 第4回日本国際美術展へ「内牧の阿蘇」を出品。二科展へ「街頭にて」「花」「遊ぶ鳶の子」を出品。宮本三郎、田崎広助、寺田竹雄氏らと友人会を結成。以後毎年東京高島屋で友人会展を開催。昭和35年 第4回現代日本美術展へ「春雪」を出品。二科展へ「シャトウのネオン」を出品。サロン・ド・コンパレゾーン展(パリ)へ「木曾川の夏」を招待出品。昭和36年 二科展へ「瓜痕」「黎明」を出品。平戸、鹿児島地方へ写生旅行。メキシコ二科展へ招待出品。二科会理事となる。昭和37年 第5回現代日本美術展へ「平戸港」を出品。二科展へ「海女のいる浜」「海猪の郡」「放牧」を出品。母校兵庫小学校の開校65周年記念に「バラ」を寄贈昭和38年 北海道写生旅行二科展へ「出漁」「夏」を出品。昭和39年 第6回現代日本美術展へ「新雪」を出品。二科展へ「廃墟」「日照る雨」を出品。秋田市木内ホールで個展。24点出品。昭和40年 二科展へアルプス三題「陳馬姨拾連峰」「白馬槍連峰」「戸隠妙高連峰」出品。銀座資生堂で個展(5/17~22)20点出品。東京都美術館運営審議会委員となる。(~46年3月まで)昭和41年 二科展へ「競馬」を出品し、青児賞を受賞。日動画廊にて個展。(10/17~22)30点出点。昭和42年 二科展へ「吾子の初旅」を出品。サロン・ドートンヌ展へ招待出品。昭和43年 二科展へ「逍遥遊」(荘子より)を出品昭和44年 二科展へ「広場(一)サンマルコ」「広場(二)」「李朝の壺」を出品。昭和45年 東京高島屋で個展(5/19~/24)25点出品。二科展へ「男鹿の夏」「雷窓」を出品。「男鹿の夏」で総理大臣賞受賞。昭和46年 二科展へ「渚の朝」「花」出品。昭和47年 二科展へ「富士黎明」「花」出品昭和48年 6月29日午後2時15分、肺気腫のため逝去。絶筆「アルプス」二科展へ「雄物川の冬」出品。第16回友人会展へ「春雪」「庭の秋」出品。昭和49年 5月29日生前の功績により紺綬褒章を藤枝夫人に追賞される。佐賀県立博物館主催で「松本弘二遺作展」開催。(7/20~8/4)(本年譜は佐賀県立博物館主催松本弘二遺作展目録より転載)

青木生冲

没年月日:1973/06/28

日本画家青木生冲は、6月28日脳軟化症のため、京都市の自宅で死去した。享年82才。本名桂之助。明治24年10月12日京都に生まれ、大正3年京都市立美術工芸学校を卒業、同6年京都絵専本科を経て8年研究科を修了した。同年竹内栖鳳に師事し、竹杖会々員となった。大正15年第7回帝展「白鹿」が初入選し、以後新文展、日展等に出品した。また昭和16年には、塾員多数とともに目黒雅叙園壁画制作に当った。代表作「秋爽」(8回帝展)、「白孔雀」(9回帝展)ほか。

伊東種

没年月日:1973/06/14

彫刻家、五元美術会会長の伊東種は、6月14日、千葉県茂原市の自宅で死去した。享年68歳。明治38年10月8日茂原市に生れた。昭和4年3月東京美術学校彫刻科塑造部選科を卒業。昭和7年美術団体国土会を設立、9年宗教団体生長の家本部設立の実行委員となりここに就職した。14年には、中国・満鮮旅行をなす。戦後の28年には、日本画家山田皓斎らと協力して新美術協会を創立し関東地方の責任者となると共に、同会展には毎年独自な解釈の精神性の濃い彫刻作品を出品し続けた。その主題には、大黒像、キリスト像、釈迦像、吉祥天像、観音像、木の花開★姫、合掌及び手、無量寿の顔、静物小品などを扱った。30年からは千葉県文化財保存調査員をつとめた。41年日本教文社停年退職。43年五元美術会を設立し会長となった。著書に「無韻の美」(昭和38年10月新美術協会出版部発行)がある。

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