本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1974/03/15 日本芸術院会員、日展顧問の洋画家、耳野卯三郎は、3月15日午後2時10分、心不全のため東京・中央区の加藤病院で死去した。享年82歳。耳野卯三郎は、明治24年(1891)11月12日、大阪市に生まれ、天王寺中学校をおえたあと、葵橋洋画研究所に学び、大正5年(1916)東京美術学校西洋画科を卒業した。初入選は、大正3年(1914)第8回文展「カフェの朝」で、光風会展、文展、帝展、日展とに出品を続け、昭和8年(1933)光風会会員となっている(のち昭和40年退会)。昭和9年第15回帝展「庭にて」が特選となり、昭和11年「鞦韆」が文部省買上げとなった。昭和14年第3回新文展「少女と猫」、同15年紀元二千六百年奉祝展「緑衣」、同17年第5回文展「少女座像」、同年審査委員、また大正末期から昭和初期にかけては童画や児童雑誌の挿絵でも活躍した。戦後の日展では審査員などをつとめ、昭和36年第4回日展「静物」で同年度の日本芸術院賞を受賞、昭和41年1月日本芸術院会員に選ばれ、同42年勲三等瑞宝章を受章した。
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没年月日:1974/03/08 シベリア・シリーズといわれた虜囚生活を絵画化した作品で知られた、もと国画会会員の洋画家、香月泰男は、3月8日、午前7時10分、心筋こうそくのため山口県大津郡の自宅で急逝した。享年62歳であった。香月泰男は東京美術学校在学中に国画会に入選し、梅原龍三郎の知遇をえ、また福島繁太郎に認められた。郷里の山口県で高等女学校の図画教師となり、召集をうけて満州に従軍、敗戦後ソ連軍の手によってシベリアのセーヤ地区のラーゲルに抑留されて2年間の虜囚生活を送った。飢えと寒さに死んでいく戦友の老兵たちを眼のあたりにし、「軍隊毛布に包んで通夜をし、コーリャンの握り飯を供えた(そのお供えすら夜中に盗まれることもあった)」という極限的な情況を経験した。帰国後、再び郷里に住んだ香月は終生、その地に住み、戦争と敗戦、抑留の体験を昭和24年(1949)、「埋葬」から描き始めてその後約20年間にわたって45点余の作品を制作、それらが“シベリア・シリーズ”と呼ばれている。作風の単調さからある時期には万年新人候補と云われていたが、陶器の肌のような画肌を基調とした色数の少ない色調の画面で、静謐のなかに戦争の暗黒と死者への鎮魂の詩を描きだし、昭和46年(1971)、第1回新潮社日本芸術大賞を受賞した。昭和31年以降は、「地方在住のため、ややもすれば仕事が独善になり小さくまとまる懸念」しばしば海外旅行を試み、ヨーロッパ諸国からアメリカ、南太平洋、ギリシヤ、スリランカなどに旅行した。 葬儀は、3月17日、山口県美術文化葬として三隅町明倫小学校体育館で行われ、政府は15日、勲三等瑞宝章を贈った。シベリヤ・シリーズの45点が山口県に寄贈され山口県立博物館に保管されることとなった。 年譜明治44年(1911)10月25日、山口県大津郡の医師の長男として生まれる。昭和4年 中学校(現・大津高等学校)を卒業して上京し、川端画学校に学ぶ。昭和6年 東京美術学校油画科に入学し、藤島武二教室に学ぶ。昭和9年 第9回国画会展に「雪降りの山陰風景」が初選。昭和11年 東京美術学校を卒業し、北海道倶知安中学校教諭となる。文展に「二人坐像」、国画会展「雪庭」入選。昭和13年 山口県立下関高等女学校教諭に転任、結婚する。国画会展「猫」入選。昭和14年 国画会展「犬」「少年」入選、国画奨学賞を受賞。文展に「兎」特選となる。、このとき、福島繁太郎と初めて会う。昭和15年 国画会展「棚と壺」「枯カンナ」入選、佐分賞を受賞、国画会同人となる。紀元2600年奉祝展「石と壺」入選。昭和16年 国画会展「門石垣」「枝」。昭和17年 国画会展「釣床」。文展「水鏡」。昭和18年 1月、山口西部第4部隊に入隊。4月、満州興安省ハイラル地区第19野戦貨物廠営繕係に配属される。国画会展「砂上」「帰途」。文展「波紋」入選。昭和19年 友人に託して文展に「ホロンバイル」出品。昭和20年 満州鄭家邨地区に転進、敗戦。シベリヤのクラノヤルスク地区に抑留され、森林伐採作業につく。昭和22年 5月、復員。下関高等女学校に復職する。昭和23年 出身校の大津高等学校に転任。国展「雨」「風」、毎日連合展「蝶々」。昭和24年 国展「埋葬」「水浴」、シベリヤ・シリーズ第1作である。毎日連合展「施療」。サロン・ド・プランタン賞受賞。4月、東京フォルム画廊で第1回個展、11月、第2回個展、以後毎年同画廊で個展を開催する。昭和25年 毎日連合展「頭骨」、国展「朝」「昼」。第1回朝日秀作展「ホロンバイルの落陽」。国画展中堅会員による型成派結成され、同人となる。昭和26年 朝日秀作展「白木連」、毎日連合展「水仙」「折尺」、国展「室内」「卓上」。ロックフェラー夫人「白木連」買上げ、初めて作品が海外に出る。昭和27年 第1回日本国際美術展「仕事場」、パリ第8回サロン・ド・メ展に「人と籠」「裸鶏」出品。カーネギー国際美術展「朝」(1950年作)。昭和28年 第2回日本国際美術展「ペンキ職人」「電車の中の手」、国展「休憩」「散歩」。萩焼窯元で陶画を始める。昭和29年 第1回日本現代美術展「鳩と青年」「青年」。国展「牡牛」「盥舟」。昭和30年 第3回日本国際美術展「新聞」「二人」、国展「遊泳」「山羊」。初めて地方での個展を開催。昭和31年 第2回日本現代美術展「左官」、国展「路傍」「砂上」、第3回インド国際美術展に「埋葬」(1949年作)出品。個展出品作「ヒューザンス」がメルボルン近代美術館に買上げとなる。10月29日、第1回渡欧、6ヶ月にわたりフランス、スイス、イタリア、スペインを旅行する。昭和32年 4月パナマを経由して帰国する。第3回サンパウロ・ビエンナーレ展に「鳩と青年」他2点を出品。第4回日本国際美術展「太陽」、渡欧作品展を東京、大阪、長府、下関、福岡で開催。昭和33年 第3回日本現代美術展「乗客」、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「遊泳」「左官」「砂上」。個展「告別」「奇術」など。銅版、古材などで人物、動物の玩具をつくりはじめる。昭和34年 ヒューストン美術館日本美術展「鳥籠」「えい魚」「ダモイ」。第5回日本国際美術展「1945」。個展「北へ西へ」「ダモイ」。西日本秀作美術展「人と梟」「北へ西へ」。中国新聞文化賞を受賞。昭和35年 学校を退職し、教員生活をやめて制作に専念する。第4回日本現代美術展「ホロンバイル」。個展「避難民」「六掘人」、国際具象派展「運ぶ人」。昭和36年 日本洋画商展「湿地」、第6回日本国際美術展「涅槃」。国展「流雲」、カーネギー国際美術展「冬田」。日本橋高島屋において「埋葬」以後の作品52点による香月泰男展開催される。昭和37年 第5回日本現代美術展「アムール」。国画会を退会する。パリのノドラ画廊で個展が開かれる。昭和38年 第7回日本国際美術展「雪」。個展「雪(窓)」。昭和39年 第6回日本現代美術展「餓」。個展「鋸」「神農」「伐」など。「久原山」文部省買上げとなる。昭和40年 第8回日本国際美術展「凍土」。個展「★囚」「朝陽」。昭和41年 第7回日本現代美術展「星、有刺鉄線」。「海冬」。個展「マポルカ」「凍河」「エニセイ」など。ジャパン・リサイティの招きでアメリカに旅行する。昭和42年 第9回日本国際美術展「復員タラップ」。4月神奈川県立近代美術館において香月泰男、高山辰雄二人展開催され、シベリヤ・シリーズを中心とする57点が出陳される。画集『シベリヤ』(求竜堂)刊行される。滞米スケッチ展を東京、大阪、名古屋、福岡で開催。銀座松屋において香月泰男(戦争、虜囚、人間愛)展開催される。NHK教育テレビ「沈黙の画集」放映される。昭和43年 第8回日本現代美術展「別」「私の地球」。個展「雨」「雲」。谷川俊太郎との詩画集『旅』刊行される。NHKラジオ「私の戦争画」、12チャンネル・テレビ「私の昭和史・執念の画集」でシベリヤ・シリーズの作品について語る。西日本文化賞を受賞。昭和44年 第1回日本芸術大賞(財団法人新潮文芸振興会)を受賞。第9回日本現代美術展特別陳列「アムール」。個展「麦の太陽」「護」「煙」。初めて版画・リトグラフを発表。日本橋高島屋でを開催。昭和45年 東京芸術大学非常勤講師を依嘱される。個展「朕」「業大」「奉天L」「奉天R」。北九州市立美術館・香月泰男シベリヤ・シリーズ展、日本橋高島屋・版画と玩具による香月泰男展、山口県立博物館・県出身作家現代美術展。自伝『私のシベリヤ』(文芸春秋社)刊、『香月泰男のおもちゃ筐』刊。リトグラフ版画集『動物シリーズ』1、2。エッチング版画集制作。昭和46年 第10回日本現代美術展「-35°」「バイカル」、個展「点呼L」「点呼R」。安井賞選考委員を依嘱される。三隅町明倫小学校の壁画を制作。タヒチ島へ旅行。『シベリヤ画集』(新潮社)刊、『海拉爾通信』(新潮社)刊。石版画集(母子、裸婦、パリーの屋根、北海道)を制作。昭和47年東京セントラル美術館で「香月泰男シベリヤ・シリーズ展」開催される。個展「日本海」「雪山」「滝」。九州一周、北海道、山陰から京阪・奈良・山陽道をそれぞれ自動車でスケッチ旅行。春、ギリシャへ旅行。11月、スペイン・モロッコ・カナリヤ諸島へ旅行。『ギリシャ風物版画集』刊。香月泰男スケッチ集(ニューヨーク、パリ1、パリ2、タヒチ)刊。昭和48年 個展「デモ」「絵の具箱」「海拉爾」「道」。セーシェルズ・モーレシャス・レュニオン・スリランカ旅行。第2回タヒチ島旅行。ニース旅行。木版画集「タヒチ」、石版集「ギリシャ小品集」「モロッコ」。昭和49年 三越で陶画・色紙展。3月8日、心筋こうそくのため自宅にて死去する。木版画集「ニース」、石版画集「グランカナリア」、随想集「画家のことば」刊。シベリヤ・シリーズ45点山口県に寄贈される。昭和50年 4月20日~5月11日山口県立博物館、7月15日~8月17日東京国立近代美術館、8月23日~9月21日京都国立近代美術館、9月27日~10月19日北九州市立美術館において香月泰男遺作展が開催される。
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没年月日:1974/02/20 彫刻家・日展参与の長谷川義起は、2月20日午後7時インフルエンザによる肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。 享年81歳。明治25年3月3日富山県射水郡(現・高岡市)に生れた。本名勝之。大正4年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。大正9年第2回帝展に「靈光」が初入選してより連続入選を重ね、昭和5年第12回帝展では「円盤」が推薦となり以後無鑑査出品を続け、終始官展系作家として重きをなした。戦後の日展では、依嘱出品を続け、審査員、評議員をつとめ、また日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。作品には、大正13年東伏見依仁親王北征記念碑制作、昭和11年10月の帝国教育塔の懸賞浮彫に一等入選した「明暗」(大阪大手前公園入口に設置)など例外もあるが、殊に相撲関係のものに特技を発揮した。昭和12年文展出品の「四ツ(梅ヶ谷・常陸山)は政府買上げ(同作品は現在国技館正面玄関にある)となり、昭和7年8月のロサンゼルスオリンピック大会芸術競技招待に「円盤投げ」を出品、昭和11年ベルリンオリンピック芸術競技には、「両構(力士)」が入賞した。また昭和13年1月の双葉山五連勝の表彰額「龍虎」があり、戦後には「大鵬像」などがある。死去前の1月には紺綬褒章を受けた。
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没年月日:1974/02/19 有職糸組物師、唐組平緒製作重要無形文化財指定保持者の深見重助は老衰のため、2月19日京都市の自宅で死去した。享年88歳。明治18年3月16日京都市に生まれ、高等小学校卒業後は専ら家業の宮中御用の糸組物技術を習得、13代目であった。わが国でただ1人の唐組技術伝承者で、特に宮中・神社の祭事用装束に用いる平緒を最も得意とし、伊勢神宮の過去4回の式年遷宮に平緒を納めた。また明治神宮、石清水八幡宮、北野天満宮などの神剣に使われている唐組も彼の作で、昭和48年伊勢神宮に納めた平緒が最後の作品になった。 昭和31年4月、重要無形文化財保持者に指定され、昭和35年紫綬褒章、昭和42年4月勲四等瑞宝章、昭和46年11月京都市文化功労賞を受けた。
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没年月日:1974/02/06 日本画家小早川秋声は、2月6日京都市の病院で、老衰のため死去した。享年88歳。本名盈麿。明治18年9月26日神戸市(摂津三田藩主九鬼子爵邸内)に生れ、京都市立絵画専門学校に学び、谷口香嶠塾、山元春挙塾等で教えを受けた。大正3年より同6年まで、東洋芸術研究のため渡支、同9年より12年にわたり西洋芸術研究のため渡欧した。この間、北京、奉天、慶州、ロンドン、パリ等の各博物館で研究をすすめた。また昭和6年満州事変に際し、軍嘱託として興安嶺を越え、ホロンバイル地区、マンチュリー国境地帯へ、同7年熱河省地区へ出張している。昭和12年8月には陸軍省新聞班より従軍画家として北支へ派遣され、爾来同16年末に至るまで北支、中支に従軍画家として屡々派遣された。また昭和18年6月には、大東亜戦争記録画作製のため、ビルマ地区最前線へ陸軍省より派遣された。作品は主として官展に発表し、第8回文展「こだました後」が初入選している。その後同9回「幕切れの刹那」、同11回「寂光の都」(二曲半双)、同12回「微笑」等があり、帝展では第3回「語られぬなやみ」、第5回「ヴェニスの宵」、第6回「盲目の春」、第7回「未来」、第8回「万相有情(歌僧円位)」等があり、人物画が多い。その後、軍事画も多く描き、主なものに次の作品がある。「護ノ図」(九段軍人会館)。「九段国防館壁画九面」。「歩哨図」(陸軍航空士官学校)等。戦後は宗教画も多く手がけ、また京都詩仙堂の「三十六詩仙」「夢」などの作品もある。
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没年月日:1974/02/02 彫刻家、日本芸術院会員の齋藤素巌は、2月2日午前6時15分、老衰のため東京都世田谷区の久我山病院で死去した。享年84歳。明治22年10月16日東京に生まれた。本名は知雄。同45年東京美術学校西洋画科を卒業、大正2年渡英しロンドンのローヤル・アカデミーで彫塑を修め、同4年帰国した。6年第11回文展に「秋」を出品して入選し、第12回文展の「敗残」は特選となった。8年第1回帝展の「朝暾」を無鑑査出品し、11年、13年には帝展委員に推された。15年日名子実三と彫塑を主とする美術団体「構造社」を創立し、翌昭和2年から東京府美術館で展覧会を開催した。構造社展出品の主なものには「相」(第1回)、「タイス」(第3回)、「母子像」(第6回)、「楠木正成像」(第9回)、「豊穣」(第12回)などがある。同展覧会は18年まで継続開催したが、昭和19年戦争苛烈となって構造社を解散した。昭和10年帝国美術院会員、12年帝国芸術院会員。昭和11年文展「貝」、15年奉祝展「日は昇る」、18年第6回文展「構図」などの官展出品作があるが、戦後は専ら日展に作品を発表した。その出品年譜は次の通りである。 昭和21年第1回日展「戦争・飢餓・甦生」、23年第4回日展「衣と食と」、24年日展運営会理事(29年常任理事)、26年第7回日展「みのり」、27年国立近代美術館評議員、28年第9回日展「自然科学者」、30年第11回日展「晦冥」、32年第13回日展「エゴイスト」、33年第1回新日展「珠」社団法人日展常務理事、35年第3回日展「沼童の一家」、38年5回日展「競技への招待」、39年6回日展「相」、40年7回日展「「老人」、41年8回日展「父と子」、42年9回日展「誕生」、43年10回日展「おちる」、44年11回日展「先人の幻覚」、46年改組第2回日展「誘惑」、47年3回日展「木の実」。 一貫して浪漫的な主題のレリーフを得意とし、殊に構造社時代には建築と彫刻との綜合につとめた。また戦後の晩年には、その主題に社会的諷刺をもとめた場合が多い。
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没年月日:1974/01/29 特異な作風で注目を集めつつあった難波田史男は、九州旅行の帰途、1月29日未明、小倉発神戸行きのフェリー「はりま」より転落、溺死した。遺体は1月以上あとの3月7日、香川県三豊郡の粟島沖2キロ附近で底引き網操業中の漁船によって発見された。難波田史男は、抽象画の画家、難波田龍起の二男で早稲田高等学院卒業後、村井正誠、山本蘭村などの指導をうけたが、独自に内的世界を探索し、曲折をへたあと早稲田大学文学部美術科に入学、在学中、大学紛争を経験、その苦悩の傷痕をひきづりながら制作し、卒業論文を執筆した。数度にわたり個展を開催、パウル・クレー風の思考の痕跡を刻みつけるような作品は一部の鑑賞者、批評家の注目をひきつけていた。フェリーからの転落は、事故によるものか、自殺であったか詳かではない。 略年譜昭和16年 4月27日、父龍起、母澄江の次男として東京都世田谷区に生まれる。昭和20年 3月、東京空襲が激しくなり母の出生地山口県へ母、兄紀夫、弟武男と疎開する。11月、経堂の家へ帰る。クレヨンで幼時の戦争恐怖のイメージにつながる飛行機や火を吐く戦車などを描いている。昭和23年 4月、世田谷区立桜丘小学校へ入学。小学校時代に描いたものでは、スケッチ板の油絵「自画像」「赤い家のある風景」「動物園のキリン」(1949)などがある。52年にも油絵「自画像」や「静物」があるが、それは図工の教師勝田寛一氏(モダン・アート協会員)のすすめで描いたものらしい。昭和29年 4月、世田谷区桜丘中学校へ入学。真面目に諸学科に励んで優等生だったが、先生や親に叱られるのを極端に嫌う性質があった。昭和32年 3月、中学校卒業。都立青山高校にも合格したが、本人の希望で早稲田高等学院に入学。しかし、早稲田に抱いていた憧憬の夢が消え、一学期にしてすでに煩悶し、単身東北に旅する。昭和33年 このとし読書が旺盛になる。日記にヒルティの「幸福論」の読後感があり、『こういう良いものを知らずに死ぬのはいやだ。人間自身を知らずに死ぬのはいやだ。読むんだ。読むんだ。生きるんだ。生きるんだ。』と記す。ベートーヴェンの言葉にも大変感動し傾倒する。学院では絵画よりむしろ音楽を好んで選択している。昭和34年 8月、外房に避暑に行き一週間ほど泊り、無報酬で宿の営む海辺の売店を少女と一緒に手伝う。少女の面影は史男をとらえる。11月、学友が九州の修学旅行中にホテルにて自殺したショックは大きく、自分は彼の倍は生きたいと日記に記す。昭和35年 このとし自分の好きな本を読み、内面の聲を聞くと、正規の学業はむなしくなったらしい。将来を考えてせめて高校だけは卒業しなければいけないという両親の忠告に従い、3年の3学期に猛烈に勉強し卒業に漕ぎつける。大学進学はあきらめ、父のごとく絵画の道を志向する。4月、文化学院美術科に入学。村井正誠、山本蘭村の両先生の指導をうける。石膏デッサンにはあまり興味を示さなかったが、デッサンの重要性を考えて、神田の街の建物をスケッチしたり、自由に抽象的な線描をノートにたんねんに描き、片面には自分の詩や尊敬する作家の言葉を書きつけ、次第に芸術の思考を深める。7月、北海道恵庭の牧場で自ら二週間余働き、労働の苦労を知る。小品の油絵をボール紙や板、キャンバスに描く。昭和36年 ベートーヴェンの音楽を聴きながら、曲を絵巻風にデッサンすると、造形力に富んだ美しいハーモニーの絵巻、三本ができた。このとし、全紙のグワッシュ画が多くなる。昭和37年 文化学院を中退してから、さらに独自の制作活動が盛んになる。クラシック音楽のレコードをかけては内部のイメージを誘い出し、作画に没頭する。交友の機会も殆んどなく、孤独の時間を過ごしていた。このとし、全紙の彩色画を多数描いた。昭和38年 このとし、「土竜の道」(全紙10枚連続)その他多数のペンによるデッサン及び彩色画を制作。昭和39年 このとし、「イワンの馬鹿」(全紙2枚つづき6面)を制作。たまたまイトウ画廊(現在はない)の壁画を見て、宿題の絵巻風の作品の陳列が可能として個展を希望したので、父の紹介する伊藤氏に作品を見せたところ、新人として世に出ても生活がむずかしいから、むしろその前にイラストに進んだ方がいいと忠告された。そこで史男は記憶を頼って相撲のデッサンを描き、大相撲シリーズ(横長19枚連続)を制作する。だが、結局イラストの作品には入り込めずに終った。この頃、大学に行かないことのコンプレックスを感じるとともに、自己の絵画論の確立の必要を痛感して、早大入学を志し受験勉強を始める。昭和40年 4月、早稲田大学第一文学部美術科に入学。青柳正廣教授や大沢武雄教授等の指導をうける。大学祭のために「早大行進曲」A(全紙5枚連続)とB(全紙4枚連続)を制作する。1年は楽しく過ごして制作も進んだ。昭和41年 大学紛争が始まり、過激派と一般学生の間にあって苦しみ、しばしば興奮状態に陥った。その傷痕はあとまで続いた。昭和42年 1月、史男の作品を認めて下さった岡本謙次郎氏のすすめで第一回個展を第七画廊で開催する。「土竜の道」「ある日の幻想」「終着駅は空間ステーション」(1963)「イワンの馬鹿」(1964)「太陽讃歌」(1967)などの全紙の作品と水彩の小品多数出品。油絵「夢の国の人々」(100号)「夢」(10号)その他を制作する。昭和43年 「太陽の国境線」「夜の太陽}など一連の“太陽シリーズ”をテンペラで数多く制作する。このとし、「太陽をデッサンする」「世界をデッサンする」「水の街角」「東洋美術―実存主義と仏教―」等の随想を書く。昭和44年 6月、学園紛争の悩みは続いていたが、第七画廊で第二回個展を開催する。油絵「サン・メリーの音楽師」(100号7枚連続)同盟の水彩全紙(11枚連続)その他全紙の水彩、デッサン等を出品。諸新聞に批評が掲載されて好評であった。9月、ギャラリーオカベ「テンペラ画展」は“太陽シリーズ”として、「七色の虹の彼方に、太陽の花々は開く」の文章を掲載する。12月、神戸トアロード画廊で個展を開催。昭和45年 3月、早稲田大学第一文学部美術科卒業。「青春の思索」を窪田般彌仏語教授へ提出レポートとして書く。卒論は「現代美術における小説の役割―現代フランス小説―」であった。北海道旭川梅鳳堂で個展を開催。12月、東邦画廊で個展を開催。昭和46年 6月、第1回新鋭選抜展(三越)に選ばれて、中版の水彩4点を出品。7月、北海道の牧場で働いて、晴耕雨読の生活をしようと本のいっぱいつまった重いバッグをさげて出かけ、洞爺湖の知人宅に滞在するも、適当な牧場が見つからず帰京する。11月、東邦画廊で個展を開催。昭和47年 6月、第二回新鋭選抜展に油絵「幻花」(50号)その他3点出品。11月、東邦画廊で油彩と水彩の個展を開催。油絵「海」(15号)は多くの人に注目された。このとしフジテレビのミュージックギャラリーに出演、作品が紹介された。昭和48年 6月第三回新鋭選抜展に油絵「神話」(50号)その他3点出品。7月、旭川画廊にて、龍起・史男の油絵と水彩の親子展開催。北海道を楽しく旅行する。この年油絵、水彩多数制作するほかエッチングの習作20点を作成。美術雑誌「日本美術」(99号)の対談「制作日記」には史男の絵画思考と人間観が語られていて、終わりに「自分の心にうまれてくるもの、それを自由に表現していきたい。キャンバスは自分の世界観を表現する唯一の場なのである」とある。昭和49年 1月29日、九州の旅行の帰路、瀬戸内海にてフェリーより転落溺死す。32歳であった。遺体は3月6日香川県三豊郡箱崎沖にて漁船により収容される。第四回新鋭選抜展に水彩小品1973年作「ひとり」「彼方」「女神」「空」「星空の下」の5点を父の選択により出品。入賞す。昭和50年 11月、難波田史男遺作展がフジテレビギャラリーで開催され、60余点が出品される。昭和51年 2月、ある青春の挫折の歌・難波田史男遺作展が新宿・小田急百貨店≪本館≫11階グランドギャラリーで開催され、作品170余点が展示される。(難波田龍起・編)(本年譜は、難波田史男遺作展目録より転載いたしました)
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没年月日:1974/01/28 日本画家若木山は、1月28日胃ガンのため千葉市柏戸病院で死去した。享年63歳。本名山。明治45年4月3日熊本市に生れ、帝国美術学校日本画科に学んだ。昭和10年樫山南風に師事し、翌年帝展改組第1回展に「山の女」が初入選した。昭和14年横山大観の内弟子となったが、動18年応召により満州部隊に配属され、22年シベリアより復員した。戦後、23年第33回院展に「常陸乙女」が初入選し、第36回同展「安房海處女」は奨勵賞となった。その後、屡々奘勵賞を受け46年第56回院展「夏の水」で日本美術院賞となった。また、40年から没するまで丸善画廊で個展を度々開催し山種美術館賞展にも出品した。なお、没後49年2月日本美術院同人に推挙された。
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没年月日:1974/01/26 独立美術会会員の洋画家、高間惣七は1月26日午後零時5分、心筋硬ソクのため横浜市の自宅で死去した。享年85歳。高間惣七は、明治22年(1889)7月25日、東京、京橋に生れ、大正5年(1916)3月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。美校在学中の大正2年(1913)第7回文展に「午前の日」が入選、翌第8回展では「養鶏場」入選、褒状をうけた。その後大正4年「漁師町」、同6年「浮雲」が入選、同7年第12回展「夏草」が特選となった。続いて大正8年第1回帝展から無鑑査となり、「幽村の春」、第2回展「海浜」「裏庭」、第3回展「花園の鶏」と連続特選となり、大正14年には帝展委員にあげられた。その後も帝展、新文展で委員、審査員をつとめ、戦後も第9回日展まで審査員をつとめた。その間、大正13年(1924)3月には、牧野虎雄、斎藤与里らと槐樹社を設立(昭和6年12月解散)、昭和7年(1932)東光会創立に参加してのちに顧問、そのほか新光洋画会、主線美術協会などにも関係した、昭和30年(1955)、突如、官展系との関係を絶って独立展に出品。勇気ある行動として話題となったが、同年独立美術協会会員となって、以後、独立展を中心に主要な作品を発表してきた。昭和34年(1959)第5回日本国際美術展では「海風」を出品して優秀賞を受賞、昭和39年には渡米してマイアミ近代美術館で個展を開催し、同48年4月勲三等瑞宝章をうけた。鳥類を好み、自宅にも多数飼育して鳥を題材とした作品も多く暖色系の明るい色調を特色とした作風で知られた。独立展出品作品年譜昭和30年第23回展・「二羽の鳥」「鳥」「月」同31年・「花咲く庭」「鳥「月とハンマー」同32年・「凪」「赤と青と」同33年・「九月」「八月」同34年「海」「蝶」同35年・「作品(A)」「作品(B)」同36年・「奔泉」同38年・「解放」「解放」同39年・「鳥B」「鳥A」同40年・「白い鳥」「白い太陽」同41年・「赤の中の鳥」「南国の鳥と花」同42年・「とり」同43年・「藍と黒」「赤の中に遊ぶ色」同44年・「紅綬雞」同45年・「A赤い鳥と黒い鳥」「B白い鳥と朱の鳥」同46年・「飛鳥」
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没年月日:1974/01/26 独立美術協会会員で、映画美術監督としても著名であった久保一雄は、腸閉そくのため、1月26日、東京世田谷の木下病院で死去した。享年73歳。久保一雄は明治34年(1901)2月16日、群馬県藤岡市に生まれ、群馬県立藤岡中学校を卒業して、川端画学校で洋画を学び大正12年(1923)に修了、東京向島の日活映画撮影所に入所したが、関東大震災の後、京都日活に移った。労働運動、政治運動に参加し、昭和3年(1928)3月15日のいわゆる3・15事件で5年の刑をうけた。昭和8年東京に移り、映画P.C.Lに入社、同11年東宝映画株式会社創立と共に東宝に移った。昭和23年の東宝争議の時には従業員の先頭にたって活躍したが、その後、東宝を退社、フリーの美術監督として独立プロダクションの仕事を多く担当し、昭和27年(1957)には今井正監督の映画『どっこい生きている』の美術を担当し、毎日映画コンクールの美術賞をうけている。そのほか、『妻よバラのように』、『人情紙風船』、黒沢明監督の『素晴らしき日曜日』、『樋口一葉』、山本薩夫監督『太陽のない街』、『真昼の暗黒』、『松川事件』『荷車の歌』などの美術を担当した。そのかたわら、昭和13年第8回独立展に初入選してから以後、出品を続け、昭和19年第14回展に「雪の石狩牧場」を出品して独立賞をうけ、昭和22年独立美術協会準会員、翌23年(1948)同会会員に推挙された。晩年は健康を害して映画の仕事からも遠ざかり、専ら絵画制作に熱中し、「小さなタワーのある港」など港や船、サーカスを題材とした作品や、花の小品を多く描いた。
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没年月日:1974/01/12 新制作協会会員の洋画家、西田勝は、1月12日午前10時50分、脳卒中のため川崎市の自宅で死去した。享年55歳。西田勝は、大正7年(1918)2月19日、神奈川県川崎市に生まれ、神奈川県立川崎中学校をへて、昭和17年(1942年)帝国美術学校西洋画科を卒業した。在学中の昭和14年(1939)、第4回新制作派協会展に出品した「男の肖像」が初入選となった。以後昭和16年同会の第6回展に「ひなた」「画室」入選、第7回展「ブランコ」「お勝手」入選し、新作家賞を受賞した。昭和17年から敗戦まで兵役にあり、復員後、新制作派協会展に出品、昭和21年10回展に「泣虫小僧」「ひとり」「上野の子供達」を出品、子供たちの姿をとおして敗戦後の現実を表現、新作家賞を受賞、翌22年第11回展においても岡田賞を受賞、昭和26年第15回展では「電車ごっこ」が15周年記念賞をうけ、昭和28年新制作協会員にあげられた。昭和42年ニューヨークに行き、2年間滞在して帰国した。
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没年月日:1973/12/18 色彩研究家の佐藤信弘は12月18日脳出血で急逝した。号亘宏。大正2年12月10日東京に生れ、群馬県中之条高等小学校高等科2年を卒業した。昭和15年和田三造会長の日本標準色協会配色部主任となり、同16年5月日本色彩研究所(会長和田三造)配色部主任となった。同18年陸軍技術本部第十一研究所嘱託となる。戦後は、21年3月東京配色研究所を創立し、その所長となった。23年現代美術協会会員となり、35年10月には現代美術家協会代表者となる。なお、これより先の30年には武蔵野美術学校に色彩学を講じ、さらに教授となった。また同大学短大通信部色彩学講師となった。38年より43年に至り、建設省建設大学講師をする。主要作品―「D日」「黒い柱」「紫の沸」(現代美術協会展)ピンクシリーズ。雑草シリーズ。ハートの一連の作品。反体制的テーマ(公害他)。
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没年月日:1973/12/17 旧日本美術院彫塑部同人・粲々会会員の村田徳次郎は、12月17日午前8時、膵臓癌のため、東京都板橋区の日大病院で死去した。享年74歳。明治32年10月15日大阪市南区心斎橋筋の半エリ専門店「ゑ里徳」の長男として生れた。父村田徳松、母ハマ。はじめ家業をつぐため私立大倉商業学校に入学したが、大正3年3月、同校2年修了で中退、4月京都市立美術工芸学校、本科4年制の準備過程予科2年に編入され、翌年4月同校本科(図案科)へ進学、大正8年4月同校を卒業した。本科2年生になってから卒業まで特待生に選ばれたという。卒業の年、徴兵適齢に達し、同年12月一年志願兵として輜重第四大隊へ入営し、翌9年12月現役満期除隊した。同年末の12月30日父徳松が死去したので2年あまり家業に従事した。大正13年4月より家業を義兄にゆずり日本美術院に所属、専ら彫刻研究をはじめた。大正15年第13会院展に「小児像」が初入選してより毎回入選した。昭和2年東京府北豊島郡にアトリエを新築して住居を移し、12月5日から日本美術院研究会員となった。昭和5年5月には日本美術院院友に推挙された。同7年、第19回院展出品の「女座像」他2点で日本美術院賞を受け、同13年第25回院展に「肘つける少女」「女立像」「男半伽像」を出品、同人に推挙された。以後第二次大戦中をはさみ昭和36年2月、日本美術院彫塑部解散にいたるまで、その中堅作家として、とりわけ石井鶴三に尊敬私淑し、また同門の喜多武四郎、松原松造らと共に研鑽、終始きびしい製作態度をもって、対象の外形よりも内面性追究に重きをおいた作品を発表し続けた。戦後は、昭和23年2月末東京美術学校講師に任ぜられ、昭和40年3月31日、定年で東京芸大美術学部基礎実技≪工芸科・建築科≫塑造担当(昭和34年4月以来)を退官するまで後進の指導に尽力した。昭和34年5月には、同士相寄り粲々会(第1回展を日本橋三越で開催)を結成し、昭和47年10月の第12回展開催の晩年にいたるまで中心的存在として活躍した。殊に、かねて会員の分担によって読売ランドに仏教祖師像(村田は「親鸞聖人像」を担当)を建立するため製作中だったのが、いよいよ完成の運びとなり、昭和40年10月の第5回展(読売新聞社主催・新宿京王百貨店)をその成果披露の場となした。また昭和47年10月の第12回展「巨人軍を彫る」(読売新聞社主催・東京読売巨人軍後援)を渋谷東急百貨店で開催、「オーナー正力氏像」「長島選手」「渡辺投手」を出品して、いわば「彫刻と一般大衆との結びつき」を計るなど、会員相互の研究と共に一種の彫刻普及運動を積極的に行った。没後、昭和49年5月の第13回白呂会展(旧称粲々会・銀座ゆうきや画廊)には、「腰かけた女(絶作)」「足を組む」など6点が遺作として出品された。なお故人の全貌は、東京芸大講師時代の教え子たちが中心となった作品集編纂会による『村田徳次郎作品集』昭和50年7月15日発行に詳しいことを附記しておく。
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没年月日:1973/12/02 春陽会々員の洋画家伊藤善は、12月2日死去した。大正5年1月12日宮城県黒川郡に生れ、東京美術学校に学び、昭和18年帝國美術学校西洋画科を卒業した。終戦まで海軍航空隊に従軍、昭和21年第1回日展に「冬の日」及び第24回春陽会展に出品した。春陽会には以後毎年出品をつづけ、昭和26年準会員、同28年会員となった。そのほか東京大丸、資生堂、兜屋等で屡々個展を開催し、20数回に及ぶ。また昭和38年より40年にかけ北アフリカ諸国及び欧州9ヶ国を歴遊し、主としてイタリアに滞在した。春陽会出品主要作品―「女とパイプ」(26回)「木の葉」「化石」「手をくむ三人」(29回)など。
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没年月日:1973/11/27 京都大学名誉教授、美学会顧問の植田寿蔵は、11月27日、老衰のため吹田市の自宅に死去した。享年87歳であった。植田寿蔵は、明治19年(1886)2月26日、京都府綴喜郡に生まれ、私立奈良中学校、大阪の私立桃山中学校、奈良県立郡山中学校をへて、明治38年(1905)第三高等学校入学、同41年に卒業し同年京都帝国大学文科大学哲学科に入学、明治44年(1911)に卒業し、大学院へすすんだ。明治45年6月大学院を退学し、京都帝大文学部助手となった。大正8年文学部講師となり、同11年(1922)2月助教授、同14年(1925)5月、美学美術史研究のためヨーロッパに留学、ドイツ、フランス、イタリアに滞留し、昭和2年(1927)10月帰国、11月九州帝国大学文学部教授となり美学美術史講座を担当した。昭和4年4月九州帝大教授のまま、京都帝大教授を兼任、同7年5月九州帝大教授の兼任を解かれ、京都帝大教授を専任することとなった。昭和19年12月正四位に叙せられ、同20年12月勲二等瑞宝章をうけ、同21年7月13日、京都帝国大学教授を定年退官した。昭和22年11月、京都帝国大学名誉教授。京都大学における初代美学教授深田康算のあとをうけて二代目教授としていくたの後進の育成につとめ、退官後は著述に専念し、多くの著作を発表した。主要著書目録『芸術哲学』(改造社、大正13年)『近代絵画史論』(岩波書店、大正14年)『美学』(岩波講座・哲学、岩波書店、昭和2年)『芸術史の基礎』(弘文堂書房、昭和10年)『日本美術』(弘文堂書房、昭和15年)『視覚構造』(弘文堂書房、昭和16年)『日本の美の精神』(弘文堂書房、昭和19年)『美をきはめるもの』(弘文堂書房、昭和22年)『佛教美術論』(弘文堂書房、教養文庫、昭和22年)『美の批判』(弘文堂書房、昭和23年)『美学短篇』(角川書店、昭和23年)『ミレエ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『文芸の存在・小説をとほして見出された文芸の根源的構造』(弘文堂書房、昭和24年)『セザンヌ以後―フランスの絵画』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和24年)『ファン・ホッホ』(弘文堂書房、アテネ文庫、昭和25年)『近代の絵画の方向―絵画における美の歴史的構造』(弘文堂書房、昭和26年)『西洋美術史』(弘文堂書房、アテネ新書、昭和28年)『傑作と凡作との論理』(弘文堂書房、昭和29年)『芸術の論理』(創文社、昭和30年)『絵画の論理』(創文社、昭和42年)『日本の美の論理』(創文社、昭和45年)『絵画における南欧と北欧』(創文社、昭和47年)
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没年月日:1973/11/25 東京芸術大学教授・漆芸家の六角穎雄(号は大壤)は心臓マヒのため、12月25日、奈良・東大寺二月堂で絵馬奉納式の席上死去した。享年59歳。大正2年12月21日名古屋に生まれ、昭和12年3月東京美術学校漆工科卒業、日展、伝統工芸展、日本工芸会、ウルシクラフト体などに出品、審査員を歴任し、日本漆工協会常任理事、日本工芸会理事であった。代表作は乾漆蒔絵提盤虚空蔵、和合食篭二段龍鳳文朱溜。 略歴大正2年12月21日 名古屋に生まれる昭和12年3月 東京美術学校漆工科卒業昭和12年~同18年 文部省美術展覧会出品、特選昭和18年昭和21年~同33年 日展出品、特選2回昭和22年5月 東京美術学校工芸科漆工部講師嘱託昭和24年4月 東京芸術大学助教授昭和33年~同34年 日本工芸会出品昭和35年 ウルシクラフト体設立運営委員長昭和37年5月 社団法人日本漆工協会理事長昭和38年以降 日本伝統工芸展、日本工芸会出品昭和43年5月 社団法人日本工芸会理事昭和47年 盛岡産業会館にて個展昭和48年11月 東京芸術大学教授同年11月25日 奈良二月堂にて死亡、正四位勲四等
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没年月日:1973/11/13 一水会会員の洋画家、木村辰彦は、11月13日、死去した。木村辰彦は、大正5年(1916)9月6日、東京、銀座に生まれ、昭和8年(1933)東京都立第四中学校を四学年で中途退学し、二科会美術研究所に入所、同12年以降は安井曽太郎に師事し、昭和13年一水会展に初入選、以後、毎回出品、昭和16年には岡田賞を受賞した。昭和18年文展無鑑査となった。
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没年月日:1973/11/10 彫刻家、日展会員の浜田三郎は、11月10日死去した。享年80歳。明治25年12月21日北海道函館市に生れた。大正7年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。大正15年第7回帝展に「母」が初入選してより、終始官展系作家として活躍した。その間、帝展・新文展時代には、無鑑査出品を重ねた。また斎藤素巌・日名子実蔵らで彫刻の単一団体として起こされた構造社展には、創立当初の昭和2年より参加し、様式化の強い個性的作品を発表して注目された。戦後は専ら日展で活躍、昭和39年には菊華賞をうけ、40年には審査員をつとめて、翌年から日展会員となった。その主要作品には、「少女と猫」(昭7、構造社)、「ジャズ」(昭33、日展)、「楽人」(昭39、日展)、「仮面」(昭40、日展)などがあり、他に「藤村詩碑」がある。死去した折が第5回日展開催中であり、その出品作「陽」が絶作となった。
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没年月日:1973/11/07 日本画家山下摩起は、11月7日老衰のため西宮市の自宅で死去した。享年83歳。本名正直。明治23年4月21日兵庫県有馬町の旅館「下大坊」山下庄衛門の長男として生れた。明治43年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入り、大正4年同研究科を卒業した。在学中第4回文展に「溪風」が初入選し、以後文、帝展に出品する。また国画創作協会展、院展、独立展等にも作品を送っている。昭和3年ヨーロッパに渡り、フランス、ベルギー、イタリア、イギリス、オランダ等を巡り5年に帰国した。昭和10年以後は中央への公的な展覧会出品を止め、専ら個展を制作発表の場とした。昭和35年には大阪四天王寺五重塔壁画を揮亳し、朝日賞(35年度)を受賞した。そのほか代表作として41年東本願寺難波別院南御堂後門壁画「音声菩薩」同じく43年には東本願寺名古屋別院後門壁画「弥弥」等がある。また、昭和14年以降美術雑誌の表紙絵、口絵等も担当し、主なものに「画室」「新美」「八潮」等がある。なお号は最初馬山で大正11年摩耶と改め、ついで昭和25年摩起と改めた。昭和49年兵庫県立近代美術館で「山下摩起展」を開催、107点が出品され、同展の図録が刊行されている。
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没年月日:1973/11/06 木版画家、木和村創爾郎は、明治33年1月松山市に生れた。本名正次郎。大正13年京都市立絵画専門学校を卒業、昭和17年東京に居を移し、翌年から版画に転向し、21年第1回日展に「霊廟好日」、第14回版画協会展に「浅草観音」また20回国画会展に「浅草観音内陣」の版画を出品、版画家として活動をはじめた。以後、毎年日展に出品、また、25年からは光風会展に作品を毎年出品している。33年からは、日展、光風会、日本版画協会の各展覧会が出品の場となっている。44年には2月から11月迄渡欧、巴里に滞在し、ル・サロンに出品し「帝釈峡」が同展で受賞した。45年再び渡仏、ル・サロンで「蝶々夫人の家」で受賞、46年4月3回目の渡欧で、各地を写生し、ル・サロンで「Lopera」が受賞した。47年4回目の渡欧、ル・サロンで「Cast’s Angero」が金賞となり、同展の無鑑査待遇となった。48年、30年に亘る全作品集製作を企画、作製に当り8月刊行となったが惜しくも11月逝去した。自宅は東京都葛飾区。主要作品は、「霊廟好日」(21年)「海辺麦秋」(25年)、「野ばらの園」(26年)、「ステンド・グラス」(31年)、「連峰妙義」(33年)、「帝釈峡」(39年)、「蝶々夫人の家」(41年)「Cast’s Angero」(47年)等。
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