| 2014/04/14 | 日本画家で人形研究と蒐集で知られる西澤笛畝は、10月24日胆のう炎のため板橋区の自宅で逝去した。享年76才。葬儀は27日谷中観智院で、「人形葬」が行われた。旧姓石川昂一、後西澤家を継ぐ。号比奈舎。明治22年1月東京浅草に生れ、荒木寛畝、同十畝に師事した。傍ら人形玩具の研究に志し、多くの蒐集、著書と共に終生つづけられた。昭和6年童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。作品は主として官展に出品し、大正4年9回文展で「八哥鳥の群れ」(対幅)が初入選以来殆ど毎年入選し、昭和9年第15回帝展では審査員となった。戦後日展への出品もみられるが、人形玩具文化での活躍が目立つ。昭和26年文化財保護委員会専門審議員となり、昭和34年には人形保存に寄与した功により紫授褒章となった。 |
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日本画家土味川独甫は、8月20日心臓病のため死去し、翌日杉並区の自宅で葬儀が行われた。享年48才。本名松井基夫。大正7年6月10日静岡県浜松市に生れ、県立浜松工業高校図案科を卒業、川端画学校、本郷絵画研究所等で油絵を学び、昭和20年日本作家協会会員となった。同年全日本画人連盟を創設し、委員長となり、また東京美術研究所を起し、その所長となった。昭和32年新象作家協会の創立委員となったが、その後無所属となり専ら個展によって作品を発表した。昭和39年には銀座画廊で画業30周年記念展を開き、写実からシュールレアリズムに至る新思潮と、日本画を結合した意欲的な実験は、注目され一般にも好評だった。代表作として「女人幻覚」(1947)、「赤松林」(1948)、「女」(1952)、「冬の庭」(1959)、「白夜」(1960)、「伊豆連作」(1962)、「古枯」(1964)等がある。 |
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光風会会員、多摩美術大学名誉教授の日本画家・図案家杉浦朝武(号・非水)は、8月19日午後7時30分、老衰のため藤沢市の自宅で死去した。享年89才。明治9年(1876)愛媛県松山市に生れ、松山中学在学中に絵画の手ほどきをうけ、明治30年上京して川端玉章に師事した。34年東京美術学校日本画科卒業。黒田清輝に私淑し、34年欧州旅行から帰国した黒田のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感動して図案研究を志す。大阪三和印刷所、東京三越、都新聞社などの意匠図案を担当し、劇場の緞帳図案、雑誌表紙、ポスターなどを作成する。45年には光風会の創立に参加、また図案研究団体を創立し、デザイン運動をおこすなど多彩な活躍をなした。美術教育にもたずさわる。工芸図案界の先覚者として長年の功績に対して昭和29年度日本芸術院恩賜賞をうけた。 |
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国画創作協会で活躍した日本画家佐原修一郎は、5月27日死去した。明治28年2月14日長野県東筑摩郡に生れ、大正13年京都市立絵画専門学校を卒業した。同年の第4回国画創作協会展へ「老婆の像」を出品し、樗牛賞を受け、翌14年第5回展「静物」で再び樗牛賞となった。大正15年同展に「風景」を出品して会友となり、翌昭和2年の同展では「秋庭」で国画賞となった。国展解散後は新樹社に参加し、また帝展へ出品した。「幽庭錦繍」(11回帝展)「信濃路の雪」(12回帝展)「桑つむ里」(13回帝展)「木葉刈」(14回帝展)などがある。戦中からは郷里長野に帰り後進の指導にあたっていた。 |
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新興美術院理事養父清直は茨城県に生れた。大正12年に吉村忠夫に師事大和絵を学び、その後日本画院、茨城県展、新興画院展などに出品、31年新興美術院理事となった。5月20日没。 |
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日展評議員、日本南画院会長の日本画家矢野橋村(本名一智、別号知道人)は、4月17日午前8時30分、大阪府豊中市の自宅において脳出血のために死去した。享年74才。明治23年(1890)9月8日に生れ、小学校を卒業して南画家永松春洋塾に入る。大正年間に美術文芸研究を目的として直木三十五らと主潮社を起し、個展を主張して審査をうける展覧会への出品を中止したこともある。斎藤与里らと私立大阪美術学校を設立し、日本南画院の設立にも関与した。昭和34年、大阪市民文化賞をうけ、36年には第17回日本芸術院賞を受賞。39年日本南画院会長に就任した。著書に「浦上玉堂」「南画初歩」がある。 |
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日本画家都路華明は、16日心臓マヒのため京都市北区の自宅で死去した。享年62才。本名辻宇佐雄。明治36年日本画家都路華香の長男として生れ、京都市立絵画専門学校を卒業し、父華香に就き、父没後は金島桂華に師事し、画塾衣笠会に所属した。昭和2年第8回帝展「北野天満宮絵図」が初入選となり、以来官展出品をつづけ、昭和38年第6回日展「残雪」が最後の出品となった。尚、昭和18年迄は本名を用いている。 |
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日本美術院院友の酒井亜人は、1月5日心筋梗塞のため死去した。享年59才。本名忠三。明治37年千葉県に生れ、はじめ萓原黄丘に師事し、後独学で絵を学んだ。昭和12年第34回院展で「冬」が初入選以来毎年出品をつづけ、昭和27年第37回展、同38回展では日本美術院賞・大観賞となった。作品は渋い色調と、簡化された近代的画面に特色があって注目された。尚昭和13年新日本画の樹立を目指して創立された新美術人協会にも会員として参加している。主要出品作-「冬」(昭12)、「久我山風景」(昭23)、「垣根」(昭25)、「山」(昭26)(各奨励賞・白寿賞)、「晩秋」(昭27)、「茶室」(昭28)(各日本美術院賞・大観賞)、「太海」(昭29)、「樹」(昭30)(各奨励賞・白寿賞) |
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日本画家板倉星光(本名捨次郎)は、12月17日心筋こうそくのため、京都府乙訓郡の自宅で死去した。享年69才。明治28年12月2日京都市上京区に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。本科2年在学中の大正4年第9回文展に「露」が初入選し、文帝展を通じて11回入選している。この間昭和4年第10回展「春雪」翌11回展「春雨」が特選となった。翌6年第12回日展で推薦となったが、新文展となってからは無鑑査となった。戦後は菊地塾に拠り日展に依嘱出品をしている。作品は人物を主とし、ことに美人画を得意とした。 |
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日本美術院同人の須田珙中(本名善二)は、7月10日食道ガンのため文京区の自宅で死去した。享年57才。明治40年1月21日福島県岩瀬郡に生れ、昭和9年東京美術学校日本画科を卒業した。在学中の昭和7年第13回帝展に「白河の夏」が初入選となり、翌8年同展に「秋」が入選、この年松岡映丘に師事した。同9年第15回帝展に「高原」が入選した。昭和11年の改組文展には「渓の葉月」を出品し、同13年には松岡映丘の死去により前田青邨門下となった。この後も官展への出品をつづけ昭和15年2600年奉祝展「梢」、同16年第4回文展「南覇の井」、同5回「楽士」などがあり、第6回文展「琉球」では特選となり、政府買上となった。戦後は昭和21年第2回日展「ピアノ」、同3回「燁燭」、同5回「夕映」、同6回展「浴女」(依嘱出品)などがあるが、昭和26年には東京芸術大学美術学部講師となった。翌27年には長年出品をつゞけた日展を脱退し、日本美術院に所属し第38回院展に「牛」を出品し、佳作賞、白寿賞を得た。また同34年には芸大助教授となり、同38年には大学院研究科生等も指導し、後進のため尽力した。尚昭和36年には日本美術院同人となったが、院展での主な作品には第40回展「馬」(奬勵賞・白寿賞)、同41回展「山水石組」(日本美術院次賞・大観賞)、42回展「念持仏」日本美術院次賞・大観賞)、43回展「深海曼陀羅」、44回展「篝火」(日本美術院賞・大観賞)、45回展「正倉院」(日本美術院賞・大観賞)などがあり、穏健な近代的傾向を帯びたアカデミックな作風を示した。 |
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日本画家小川翠村(本名俊一郎)は、5月11日胃ガンのため京都市東山区の自宅で死去した。享年61才。明治35年5月15日大阪府泉南郡に生れ、19才で京都に出、西山翠嶂に師事した。大正9年第2回帝展に「朝」が初入選し、後第6回展「庭園晩秋」、9回「老園逢春」、10回「残る秋」が特選となった。昭和5年第11回帝展で推薦となり、戦後は日展に出品し、依属になっている。作品は専ら花鳥風景を得意とする。 |
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国画創作協会で活躍した日本画家野長瀬晩花は、昭和39年3月31日東京都北多摩郡の自宅で逝去した。享年76才。本名弘男。明治22年和歌山県に生れ、15才の年大阪に出て中川芦月の門に入った。後谷口香喬に師事し、明治42年京都絵画専門学校設立に際して第一期生として入学した。同校中退後、大正7年国画創作協会の創立に参加し、同会の主要メンバーの一人となった。また大正10年には土田麦僊、小野竹喬らと欧州各地を巡遊し、2年の後帰朝した。後満州にも数回旅行し、此際の著書「北満国境線をかく」(昭和11年発行私家版)がある。国画創作解散後は無所属として在ったが、晩年は実業面にたずさわり制作からは遠ざかっていた。主要作品は次の通り。「初夏の流」(大正7年国展1回)「休み時」(大8年2回国展)「夕陽に歸る漁夫」(大9年3回国展)「スペインの田舎の子供」(大13年4回国展)「水汲みに行く女」(大15年5回国展)「海近き町の舞妓」(昭和2年6回国展) |
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日本画家登内微笑(本名正吉)は、3月2日脳血せんのため京都市北区、鞍馬口病院で死去した。享年72才。明治24年長野県に生れ、大正14年京都絵画専門学校を卒業した。其後菊池契月、寺崎広業に師事し、官展に活躍した。この間大正9年第2回帝展で「奈良の作」(春日若宮、不退寺3枚、末社の山)が初入選となり、第6回「歓喜光」、第8回「多武之岸春雪」では特選となった。又昭和3年9回展では推薦になり翌10回展では審査員となった。新文展では無鑑査による出品をつゞけ、戦後日展では依嘱となった。 |
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新製作協会会員の高橋周桑(本名千恵松)は、2月27日心臓衰弱のため、東京都目黒区東京共済病院で死去した。享年63才。尚葬儀は、目黒区の自宅で新制作協会葬により行われた。明治33年12月23日愛媛県周桑郡に生れ、大正12年速水御舟の門に入った。昭和5年第17回展で「秋草」が第二賞となり、同17年第29回展で「双華」、32回展で「陳列室」を出品し、無鑑査となった。となった。昭和23年には新日本画の創造を目ざして、新しく「創造美術」が結成された。これを機会に周桑は、長年出品していた院展を退きその創立会員となったが、昭和26年同会が新制作協会と合併したので、新制作協会会員として現在に至ったものである。師御舟の作風を追ったかに見える沈静な趣の画風を特色とし主な作風に次の様なものがある。「春開」「春の枝」「秋草」(昭和5年)「銀座」(第1景~第3景)(昭和7年)「競馬」(昭和9年)「樹と鳥」(昭和13年)「文楽」(吉田栄三)(昭和8年)(陳列室)(昭和22年)「ダリヤ」(昭和23年)「群像」(昭和24年)「松林」(昭和26年)などがある。 |
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青竜社社人の小畠鼎子は、宿痾の心臓病のため、1月26日東京武蔵野市の自宅で死去した。享年65才。明治31年2月14日東京神田美土代町に生れ、大正4年東京府立第1高女(現白鳳)を卒業した。この年池上秀畝に師事し、後大正13年より川端竜子に就いた。昭和4年第1回青竜社展で「山百合」が初入選となり、その後第6回展「ペリカン」出品により社友となった。また昭和23年の第20回展では白孔雀と蘇鉄を描いた「白冠図」により社人に推された。この間14回展「睡蓮池」、19回展「山6月」等で奨励賞を受け、第25回展では、連続25回出品記念賞を、第35回展では連続35回出品により表彰された。画壇でも稀なこととされる35回連続出品の記録は、この年出品した「秋雨海裳」の制作を最後に終った。家庭の主婦として育児の傍ら続けられた画道精神を讃えた小文が、35回展の出品目録にみられる。作品は専ら花鳥が多く、美しい色感と、女性らしい素直な観照に特色がみられる。 |
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日本画家福田眉山は、10月28日芦屋市の自宅で脳出血のため死去した。享年88才。本名周太郎。明治8年兵庫県赤穂に生れ、同28年久保田米僊に従って東上し、国民新聞社に入社した。苦学して東京美術学校に通ひ、この間徳富蘇峰に敬事する。明治33年在学3年にして学校を中退し、同年日本美術院に所属する。ここで岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受けた。明治42年より45年にわたり中国大陸を、また大正10年には朝鮮各地を昭和13年には再度中国旅行を試み、内外の山水を探索し、それに材を得た絵巻、屏風等の作品が数多い。主なる作品に「兄の刺嘛」(平和博覧会大正3年)、「支那大観」(二冊大正5年)、「支那三十画巻」(大正8年)「金剛秋色図巻」(大正12年献上)「「洞庭湖真景」(大正14年大覚寺客殿襖)「大峨眉」(昭和11年神護寺地蔵院襖絵)他。 |
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竹杖会々員の日本画家榊原苔山は、9月18日夕狭心症のため京都市の自宅で死去した。享年74才。本名秀次。明治23年京都に生れ、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校本科を卒業後同研究科を経て竹内栖鳳の門に入った。以後第3回文展に初入選以来主として官展に作品を発表し、昭和5年には帝展推薦となった。榊原紫峰は実兄にあたる。 |
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日本画家勝田蕉琴は、9月9日老衰のため東京都北区の自宅で死去した。享年84才。本名良雄。明治12年福島県に生れ、若くして南画家野出蕉雨に師事した。明治32年橋本雅邦の門に入り、同35年東京美術学校日本画選科に入学した。同38年同校卒業後岡倉天心の推薦により印度王族タゴール家に招聘され渡印、仏画製作並びに仏教美術の研究に従事し、また印度政府の依嘱により、同国美術学校で東洋画を教授する。明治40年帰国し、その後は第1回文展をはじめ、戦後まで官展を舞台に活躍した。尚昭和26年以後は毎年革新美術協会に出品していた。 |
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日本画家で関西画壇の長老である菅楯彦は、4日肝硬変のため大阪市の自宅で死去した。享年85才。本名藤太郎。明治11年3月4日日本画家菅盛南の長男として鳥取市に生れた。幼時父母に従い大阪に移り、明治22年父の病気により高台小学校高等小学科第2年を中退し、絵筆により一家を支えることになった。終生画道の師につかず独学で研究をすすめたが、その間大和絵、四条円山、北南宋、狩野派、浮世絵等、実地研究の他国学を本居派鎌垣春岡に、漢学を山本憲に就いて学び、併せて仏教美術史、宗教史等の研究も積んだ。ことに鎌垣師には有職故実を学び、後年歴史画を描く基礎をつくった。又雅楽を好み、舞楽を習って、晩年は四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献した。明治33年より37年迄大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、ここで多くの歴史参考図を製作した。作品は、きめの細い大和絵風の歴史画や、洒脱な大阪の庶民風俗に画材を求めたものが多い。昭和24年に大阪府芸術賞、同26年大阪市民文化賞のほか、同33年には日本画家としては最初の芸術院恩賜賞を授与された。また同37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。 |
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日本画家江崎孝坪は、6月27日脳軟化症のため目黒区の自宅で死去した。享年62才。本名孝平。明治37年6月15日長野県に生れ、のち前田青邨に師事した。終始官展を発表の場とし、人物画を多く描き、強い線描と、明快な色彩に特色を示した。晩年は挿絵や映画、舞台芸術等にも多く活躍している。 |