山田智三郎

没年月日:1984/04/11
分野:, (学)

元国立西洋美術館館長の美術史家山田智三郎は、4月11日午前4時40分、急性心肺不全のため横浜市戸塚区の大船共済病院で死去した。享年75。明治41(1908)年10月11日、東京府日本橋に生まれ、大正15(1926)年上智大学文学科予科にドイツ文学を志望し入学する。この年ターナーの論文を通して矢代幸雄に師事、以後長くその指導を受ける。昭和2(1927)年同大学を中退し渡欧、ミュンヘン大学哲学部に入学し美術史学を専攻するが、翌年ベルリン大学哲学科に入学、同じく美術史学を専攻する。昭和9年同大学博士課程を卒業、「17、18世紀に於ける欧州美術と東亜の影響」を著す。同年帰国し、7月より帝国美術院附属美術研究所嘱託として勤務、9月より同研究所明治大正美術史編纂部で任に当たる。翌10年ベルリン大学よりドクトルの学位を授与され、13年ベルリン日本古美術展開催に際し文化使節随員として児島喜久雄と共にドイツに赴く。17年東洋美術国際研究会編集主任、19年同会主事となり、戦後21年駐日米軍の東京アーミーイデュケーションセンター勤務を経て、28年共立女子大学教授(43年まで)となる。29年フルブライト及びスミス・マント研究員として1年間渡米、また33年イスラエル・ハイファ市日本美術館館長として2年間当地に赴いた後、37年カリフォルニア州スタンフォード大学客員教授、翌38年ニューヨーク・ホイットニー財団派遣教授としてノースカロライナ大学、アイオワ州ドレーク大学でそれぞれ1年間東洋日本美術史を講義した。この間国内の大学での講義も数多く、上智大学(15、26年)、東京芸術大学(32、36、40年)、国際基督教大学(39年)、早稲田大学(40年)などで講師をつとめている。42年国立西洋美術館館長に就任、54年までその任に当たる傍ら、40年ブリヂストン美術館運営委員となり、また評議員として43年東京国立近代美術館、彫刻の森美術館、45年ニューヨーク近代美術館、46年日本美術協会、49年東京国立博物館、50年池田20世紀美術館、52年京都国立近代美術館、山種美術財団、またMOA美術館運営委員となる。54年国立西洋美術館館長を退任後、同年同美術館評議員、海外芸術交流協会理事、ジャポネズリー研究学会会長、55年岐阜県美術館顧問、日仏美術学会常任委員、56年財団法人美術文化振興会理事長、57年財団法人鹿島美術財団理事を歴任し、また安井賞(42、49年)、文化功労者(45、46、52、54、56年)、文化勲章(45、46、52年)の選考委員もつとめるなど、美術文化の振興と国際交流に多大の功績を残した。49年フランスより芸術文学勲章のオフィシェ章、50年イギリスより名誉大英勲章(CBE)、52年オランダよりオランジュ・ナッサウ・コマンダー勲章を受章、55年勲二等瑞宝章を受章した。著書に“Die Chinamode des-Spatbarock”Wurfel Verlag,Berlin-邦訳『十七、十八世紀に於ける欧州美術と東亜の影響』(蘆谷瑞世訳、昭和17年、アトリエ社)、『ダ・ヴィンチ』(アルス美術文庫、同25年)、『18世紀の絵画』(みすず書房、同31年)、『美術における東西の出会い-現代美術の問題として-』(新潮社、同34年)、『浮世絵と印象派』(至文堂、同48年)他がある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(246-247頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山田智三郎」『日本美術年鑑』昭和60年版(246-247頁)
例)「山田智三郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10221.html(閲覧日 2024-04-26)

以下のデータベースにも「山田智三郎」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top