本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





下村良之介

没年月日:1998/12/30

読み:しもむらりょうのすけ  日本画家の下村良之介は12月30日午前11時8分、肺気腫のため京都市上京区の病院で死去した。享年75。大正12(1923)年10月15日、大阪市の能楽師の家に生まれる。本名良之助。5歳より謡・仕舞の稽古のために桃谷の能楽堂に通う。昭和10(1935)年12歳の時に京都に移り、翌年京都市立美術工芸学校に入学。同16年からは京都市立絵画専門学校に学び、同18年学徒動員のため繰り上げで同校を卒業。同年、卒業制作の「暖日」を第8回市展に出品するが、落選する。満州・台湾に赴いた後、同21年復員。同23年3月には新たな芸術活動を目指して山崎隆・三上誠・星野眞吾ら京都の若手日本画家を中心にパンリアルが結成されるが、同年10月星野眞吾の推薦により下村も大野秀隆(俶崇)とともに入会。翌年第1回パンリアル展を京都藤井大丸で開催、日本画の革新を唱えるパンリアル美術協会が公にスタートする。下村は「祭」「作品」「デッサン」を出品し、以後晩年に至るまでパンリアル展を発表の中心にすえることになるが、昭和20年代から30年代前半にかけてはキュビスム的な群像表現から次第に鳥にテーマを集中させ、建築用の墨つぼを使用した鋭い線描による画面へと移行していく。同33年カーネギー財団主催のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、同35年中南米巡回日本現代絵画展に出品するなど海外展にも発表するようになるが、この頃から紙粘土を画面に盛り上げてレリーフ状にし、あたかも化石のような鳥の形象を表現するという、独自の質感を持った強靱な作風を完成させていく。同36年第1回丸善石油芸術奨励賞(留学賞)を受賞し、翌年より一年間ヨーロッパ、中近東、東南アジア等を遊学。同41年大谷大学幼児教育科助教授に就任(同46年同大学教授に就任)。同44年関西歌劇団公演の歌劇「椿姫」(大阪厚生年金会館大ホール)以後、舞台美術の仕事も多く手がけ、また“やけもの”と称する陶器や宮尾登美子「序の舞」(同56~57年『朝日新聞』連載)等の挿絵も試みるなど多彩な表現活動を行った。同57年に美術文化振興協会賞を、同62年には第5回京都府文化賞功労賞を受賞。平成元(1989)年にO美術館で回顧展を開催。作品集に『反骨の画人・下村良之介作品集』(京都書院 平成元年)、著書に『題名に困った本』(私家版 昭和58年)、『単眼複眼』(東方出版 平成5年)がある。

星野眞吾

没年月日:1997/12/29

読み:ほしのしんご  日本画家の星野眞吾は12月29日午前2時3分、呼吸不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年74。大正12(1923)年8月15日、愛知県豊橋市に生まれる。昭和19(1944)年京都市絵画専門学校図案科を卒業後、同校日本画科に入学。同23年卒業し、研究科に進む。在学中より三上誠と親交し、24年三上、下村良之助、大野秀隆(俶嵩)ら京都市立絵画専門学校卒業生でパンリアル美術協会を結成、伝統的な日本画と決別すべく、敢えて“膠絵”と称し、現代美術としての可能性を摸索する。同24年同協会展第3回「巣」、翌年第五回「割れた甕」などの具象表現から、同35年第18回「厚紙による作品」、同37年第20回「心象」など抽象的表現に移行。同39年、矢野純一・針生一郎が主宰した日本画研究会に参加。同年の父の死を契機に身体を画面に押しつけた“人拓”による作品を多く制作。同49年中村正義らとともに日本画研究会を発展させて先鋭的な作家集団として从会を結成、個性的な展覧会を開催する。この間、同26年中村正義、平川敏夫、高畑郁子らと画塾中日美術教室をはじめ、同37年第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同46年には東京造形大学非常勤講師となる。同60年福井県立美術館で三上誠・星野眞吾二人展、平成8(1996)年には豊橋市美術博物館、新潟市美術館で星野眞吾展が開催された。

佐多芳郎

没年月日:1997/12/16

読み:さたよしろう  日本画家の佐多芳郎は12月16日午後5時17分、心筋こうそくのため横浜市港北区の病院で死去した。享年75。大正11(1922)年1月26日、東京麹町に医師の長男として生まれる。昭和14(1939)年より日本画家北村明道に基礎を学び、翌15年より安田靫彦に師事、同16年にはその研究会である一土会に参加する。その後チフス等で療養を余儀なくするが、同19年に入営、終戦まで軍隊生活を送る。同25年の第35回日本美術院展覧会に「浪切不動」が初入選。翌年、『読売新聞』連載の大佛次郎『四十八人目の男』の挿絵を担当、その後、山本周五郎の『樅ノ木は残った』、池波正太郎の『鬼平犯科帳』といった数々の時代小説の挿絵を手がけた。同54年より宿願の絵巻物制作の準備に入り、翌年小下絵を制作、同60年に三巻からなる「風と人と」を完成させた。平成元(1989)年に日本美術院を退院。同4年、毎日新聞社より『風霜の中で 私の絵筆日記』を出版。

浦田正夫

没年月日:1997/11/30

読み:うらたまさお  日本芸術院会員で元日展事務局長の日本画家浦田正夫は11月30日午前9時15分、肝臓ガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年87。明治43(1910)年5月1日熊本県山鹿市に生まれる。大正4(1915)年東京市小石川区音羽に転居。昭和3(1928)年松岡映丘に入門、また本郷絵画研究所にも通う。翌年東京美術学校日本画科に入学し、同9年に卒業。この間、津田青楓洋画研究所の夜学に通い一年あまり洋画を学ぶ。同8年第14回帝展に「展望風景」が初入選。同9年映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を、15年には高山辰雄、野島青茲らと一采社を結成、その中心的役割を果たす。同13年には現地嘱託として満蒙地区に赴き、四ヶ月の間巡遊、また同17年には大同雲崗石仏研究のため一か月間滞在する。戦後は同26年より山口蓬春に師事し、同28年第9回日展で「関口台」が白寿賞、同30年第11回日展出品作「湖映」、同32年第13回日展出品作「磯」がともに特選・白寿賞を受賞。さらに同35年第3回新日展で「池」が菊華賞、同45年第2回改組日展で「双樹」が桂花賞、同48年同第5回展で「蔓」が文部大臣賞を受け、同53年には前年の第9回改組日展出品作「松」により日本芸術院賞を受賞。自然景をモチーフに穏やかで温かな、その中に質朴な自然感を滲ませる作調を展開した。昭和47年より日展評議員、同54年より同展理事をつとめ、同63年日本芸術院会員、平成元年には日展事務局長となった。

阪口一草

没年月日:1997/08/19

読み:さかぐちいっそう  日本画家の阪口一草は8月19日午後5時35分、急性肺水腫のため東京都町田市の病院で死去した。享年95。明治35(1902)年2月28日、大阪市港区に生まれる。本名政次郎。初め友人の竹内未明らが絵を描くのに刺激され、大正6(1917)年藤田紫雨に手ほどきを受けた。翌7年上京し、新聞配達などをしながら一年ほど太平洋画会研究所に通う。9年御形塾に入り川端龍子に師事。昭和2(1927)年第14回院展に「静閑」が初入選するが、翌3年龍子の院展脱退に際してこれに随伴、青龍社結成に参加する。 翌年第1回青龍社展に「新粧」「雨煙る」を出品、昭和6年第3回展に「炎風」「爽風」を出品し、社人となる。以後塾頭もつとめ、同16年第13回「大仏寺」、同19年第16回「潮を待つ」、同24年第21回「千手観世音」などの大作を発表。洋画的表現もとりいれながら豪快な作風を展開した。しかし同25年愛娘を失ったことに端を発して龍子と意見を違え、青龍社を脱退。日展出品ののち、32年新興美術院に移り、同34年には同志と青炎会を結成、以後57年に解散するまで毎年展覧会を開催し、また同50年より日本画院の客員となった。なお姓は昭和31年頃まで“坂口”を使用、その後戸籍の記載に従い、“阪口”を用いた。

月岡榮貴

没年月日:1997/06/21

読み:つきおかえいき  日本画家で日本美術院同人・評議員の月岡榮貴は6月21日午前9時35分、肺炎のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年81。大正5(1916)年4月22日、東京の切金砂子師の家に生まれる。本名榮吉。初め太平洋美術学校で油絵を学んだのち、昭和12(1937)年東京美術学校日本画科に入学、とくに人物画いおいてそのデッサン力を発揮する。同17年同校を卒業し、前田青邨に師事。同23年第33回院展に「漁夫」が初入選し、以後院展に出品する。同26年院友となり、同31年第41回院展「幕間」、同32年第42回「和楽」、同43年第53回「竹取」、同47年第57回「鉢かつぎ姫」、同50年第60回「白夢」、同54年第64回「念(耳なし芳一より)」、同55年第65回「愛鳥図」がいずれも奨励賞を受賞。同56年第66回「やまたのおろち(古事記より)」は日本美術院賞を受け、同年同人に推挙。同57年第67回展出品作「風神雷神」にみられるような、古典的な題材ではりのある描線を駆使した力強い作風を展開した。この間、41年法隆寺金堂壁画再現模写事業、同48年高松塚古墳壁画模写事業に参加し、同45年からは愛知県立芸術大学で講師をつとめた。また同53年より東京裕天寺奥書院の襖絵を、平成元年には建長寺妙高院の天井画を制作している。

加藤東一

没年月日:1996/12/31

読み:かとうとういち  元日展理事長で文化功労者の日本画家加藤東一は12月31日午後零時2分、肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年80。大正5(1916)年1月6日、岐阜県岐阜市美殿町1番地に生まれる。6男5女のうちの五男、第9子で生家は漆器商を営み、三男の兄栄三は後に日本画家となった。昭和9(1934)年岐阜県立岐阜中学を卒業し、画家を志しながら家業の手伝いをすることとなる。同12年千葉県在住の叔父宅に寄宿し、柏市の広池学園で道徳科学を学ぶ。同15年12月東京美術学校を受験するため千葉県市川市に住んでいた兄栄三を頼り上京し、翌16年同校日本画科に入学する。結城素明、川崎小虎らに師事。同17年応召し、同20年復員。同21年東京美術学校に復帰し、小林古徑、安田靫彦らに師事する。同22年同校を卒業。同年より高山辰雄を中心とする「一采社」に参加し同第6回展より出品を始める。また、同年第3回日展に「白暮」で初入選。以後同展に出品を続ける。翌23年より山口蓬春に師事。同27年第8回日展に「草原」を出品し特選となる。同30年第11回日展に「砂丘」を出品して特選・白寿賞を受賞し、翌年より日展出品委嘱となった。同32年山口蓬春の勧めにより大山忠作らと研究団体「三珠会」を結成し、展覧会を開催する。同33年日展が社団法人として発足したのちも同展に出品を続ける。同36年日展審査員となる。同38年5月から7月まで大山忠作とともにギリシャ、エジプト、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ等を巡遊。同42年12月、日本縦断を主題に1年を費して制作した「津軽風景」等8点の新作を兼素洞で発表する。同43年末から翌年1月中旬にかけて兄栄三、大山忠作らとともにインド、ネパールへ旅行する。同45年第2回改組日展に「残照の浜」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。同50年日展理事に就任。同52年第8回改組日展に「女人」を出品して第33回日本芸術院賞を受賞。同54年同監事となる。同55年日本放送出版協会から現代日本素描集第15巻『長良川流転』が出版される。同59年9月東京銀座松屋で「加藤東一展」(日本経済新聞社主催)が開催され、昭和24年以降の日展出品作を中心に回顧展的な展観が行われた。同展は岐阜県美術館、大丸心斎橋店(大阪)に巡回した。平成元(1989)年日展理事長となる。同3年岐阜市に加藤栄三・東一記念館が開館。同7年文化功労者となった。昭和44年サカモト画廊、同45年彩壷堂、同47年名古屋松坂屋、同54年北辰画廊、同57年日本橋高島屋など、画廊、百貨店での個展を数多く開催し、作品の発表を続けた。一貫して風景、人物等に取材した具象画を描き続けたが、昭和30年代の一時期、抽象表現を試みたのち、色面や形体の構成に緊密の度を増した。日展での受賞作のほか、5年の歳月をかけて平成5年に完成させた金閣寺大書院障壁画などが代表作として挙げられる。この壁画を展示する「加藤東一金閣寺大書院障壁画展」が平成8年1月4日から29日まで東京の伊勢丹美術館で開催された。

塩見仁朗

没年月日:1996/04/06

読み:しおみにろう  創画会会員の日本画家塩見仁朗は4月6日午前6時16分、心不全のため京都市北区の社会保険京都病院で死去した。享年67。昭和4(1929)年宮崎市に生まれる。同26年京都市立美術専門学校日本画科を卒業し、同研究科へ進学する。在学中の、同29年第18回新制作協会展に日本画「青島風景」で初入選。同31年京都市立美術専門学校研究科を卒業する。同36年第25回新制作展に亜熱帯の植物を描いた「林間緋桐A」「林間緋桐B」を出品して新作家賞を受賞。同40年第29回同展に「樹陰青熟」「樹間白花」を出品して新作家賞、同42年第31回同展に「樹叢間隙」「樹陰白光」を出品して新作家賞を受賞し、翌43年第32回同展でも同賞を受賞して、同44年同会会員となった。同49年新制作協会日本画部が同会を連袂退会して創画会を結成するのに参加し、同会設立会員となる。同52年より57年まで京都日本画専門学校副校長をつとめ、平成4年から京都市立芸術大学客員教授となって教鞭を取った。初期には火山に興味を抱き、桜島、霧島などを描いた作品が多いが、昭和30年代後半から奄美、沖縄、南太平洋の島々などを訪れ亜熱帯、熱帯の植物をモティーフに生命の横溢する情景を神秘的雰囲気で描いた。

日下八光

没年月日:1996/03/23

読み:くさかはっこう  東京芸術大学名誉教授で装飾古墳壁画の模写で知られる日本画家日下八光は3月23日午後5時45分、肺機能障害のため東京都清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。享年96。明治32(1899)年9月18日徳島県那賀郡羽浦町大字岩脇に生まれる。本名喜一郎。大正13(1924)年東京美術学校日本画科を卒業。昭和3(1928)年から4年にかけて大谷光瑞の請来品で当時、朝鮮総督府博物館所蔵となっていた西域壁画を東京美術学校の委嘱により模写し、同6年より約10年にわたり当時の帝室博物館で古画の模写に励む。この間、同12年東京府豊島師範学校講師、同15年東京府女子師範学校講師をつとめる。同18年より東京美術学校に奉職し、同19年同校助教授、同20年同校教授となった。この間、昭和5(1930)年第11回帝展に「錦の秋」で初入選。この後、同7年第13回帝展に「晩秋」を出品し、後第15回帝展、第5、6回新文展、第2、5回日展に出品し、官展でも活躍した。同28年から30年にかけて文化財保護委員会の委嘱により宇治平等院鳳凰堂装飾画の現状模写および復元を行い、つづいて同30年から同じく文化財保護委員会の委嘱により装飾古墳壁画の模写に従事した。陰湿な古墳内部での模写作業に忍耐強くのぞみ、技法、画法等に関する学究的な姿勢を失わず、模写を手がけた古墳についての研究書として昭和42年に朝日新聞社から『装飾古墳』を刊行。また模写された絵画は同44年2月から3月にかけて東京国立博物館で行われた「装飾古墳模写展」ならびに、平成5年国立歴史民俗博物館で開かれた「装飾古墳の世界」展に展示された。経年変化や表面の凹凸により明瞭に認識できない古墳壁画を、美術材料学、考古学、美術史学などの学識者の研究成果をもとに現状模写、復元模写し、関連学界の調査研究に寄与した。昭和42年東京芸術大学を定年退官し、同学名誉教授となった。著書に『装飾古墳の秘密』(講談社)、『東国の装飾古墳』(近刊)がある。

矢野文夫

没年月日:1995/12/16

読み:やのふみお  長谷川利行の評伝を著し、自らも詩、画をよくした矢野文夫は12月16日午前9時33分、肺炎のため川崎市の川崎市立井田病院で死去した。享年94。明治34(1901)年5月16日、神奈川県小田原市に生まれる。同40年一家で上京し、同41年東京市立麻布尋常高等小学校に入学。大正3(1914)年、同校を卒業して麻布中学へ入学する。同5年一家で本籍のある岩手県一関市に移るのに伴い、県立一関中学へ転校する。同8年同校を卒業して早稲田大学文学部予科に入学。同11年ローマ・カトリック教に興味を抱き、一関の天主公教会へ通い、同教会の神父を介してボードレールの生涯を知り、フランス語を学んで原書に接する。同年家庭の事情により大学を中退する。同12年5月仙台の河北新報社記者となるが同年12月に退社。翌年10月読売新聞社に入社し婦人部記者となるが翌14年9月に退社する。この頃より雑誌「詩聖」「詩と音楽」などに寄稿。同15年1月「婦女界」に入社し編集にたずさわる。このころ画家長谷川利行を知る。翌年9月「婦女界」を退社して詩作、評論活動に入る。昭和3(1928)年詩集『鴉片の夜』(香蘭社)を刊行。同9年ボードレール詩集『悪の華』の全訳本を耕進社より、また長谷川欣一との共著『ボオドレエル研究』を叢文社より刊行する。同10年文学、美術、映画を対象とする雑誌「美術手帖」(美術手帖社)を主宰創刊。同11年自ら経営する邦画社より「月刊邦画」「美術及美術人」を創刊する。同16年前年に死去した長谷川利行についての著『夜の歌―長谷川利行とその芸術』を邦画社から刊行。同18年出版界の企業整備により他社数社と合同して株式会社愛宕書房を創立してその取締役となる。この頃社団法人日本文学報国会会員となる。戦後、同24年前後は小説を多数著したが、同25年「芸術新聞」(芸術新聞社)を創刊し、翌年は戦前に5巻まで刊行しながら戦中の雑誌統合で廃刊になった「美術検討」を改題復刻する生活美術誌「色鳥」を創刊するなど、美術評論活動を再開する。また、同28年最初の個展「矢野茫土個展」を東京上野松坂屋で開催し、以後作品の発表もたびたび行う。同35年モデル小説『放水路落日―長谷川利行晩年』(芸術社)を刊行。同37年従来主宰していた「らーる(L’ART)」を改題し「色鳥美術ニュース」として芸術社から主宰創刊。同51年『放水路落日―長谷川利行晩年』に若干のエッセイを加えて改題した『野良犬―放浪画家・長谷川利行』(芸術社)を刊行する。その後もたびたび開催される長谷川利行の展覧会企画に参加、協力するとともに、自らの制作を個展で発表している。平成6(1994)年10月岩手県一関文化センターで「矢野茫土展」が開かれたほか、没後も同センターで同8年7月に「矢野文夫と茫土の世界展」が開かれ、同9年1月には東京ストライプハウス美術館で「茫土・矢野文夫全貌展」が開かれた。年譜、著作などは同展図録に詳しい。

丸木位里

没年月日:1995/10/19

読み:まるきいり  日本画家の丸木位里は、10月19日午前11時15分、脳こうそくのため埼玉県東松山市の自宅で死去した。享年94。明治34(1901)年6月20日、現在の広島県広島市安佐北区安佐町に生まれ、飯室高等尋常小学校卒業後、絵を独学、大阪出て一時大阪精華美術学院に学んだのち、大正12(1923)年上京して同郷の田中頼璋の天然画塾に入門したが、この年の関東大震災により広島にもどった。広島では、広島県美術展覧会に出品していたが、昭和9(1934)年に再び上京、落合朗風主宰の明朗美術研究所に入門した。同11年の第8回青龍社展に「池」が初入選、翌年の第9回展にも「峡壁」が入選した。また、この頃、同じ広島県出身の靉光と親交し、同11年広島市で開催された第1回藝州美術協会展にともに出品した。同14年歴程美術協会結成に参加したが、同年の第2回展に出品した後、岩橋英遠、船田玉樹とともに脱退した。翌年福沢一郎の勧誘をうけて、唯一の日本画家として美術文化協会結成に参加、同21年の第6回展まで、出品をつづけた。また、同16年に二科展に出品していた赤松俊子と結婚。同20年、広島に原爆が投下されたことを知ると、数日後には肉親の安否をたしかめるために広島に行き、遅れてきた妻とともに惨状を目のあたりにしながら被災者の救護にあたった。戦後は、原爆の記憶がうすれていくことの批判をこめて、「原爆の図」第一部「幽霊」を完成させ、「八月六日」と改題して同25年の日本美術会主催第3回日本アンデパンダン展に出品した。このシリーズは、俊子との共同制作で同30年までに第10部が完成し、各種の展覧会にそのつど出品された。またその間、国内はもとより、同25年と同31年には、この作品をたずさえて、ヨーロッパ各国、中国などで世界巡回展を開催し、各地で反響をよんだ。同30年代からは、日本アンデパンダン展のほか、毎日新聞社主催により隔年で開催された現代日本美術展、日本国際美術展(東京都美術館)などに毎回出品した。同42年には、埼玉県東松山市の自宅の敷地内に原爆の図丸木美術館が開館、また同年第9回サンパウロ・ビエンナーレに出品した。同51年、第2回从展に、妻俊(同31年に改める)との共同制作による「南京大虐殺の図」、翌年の第3回展には「アウシュビッツの図」を出品。同54年には、第3回反ファシズムトリエンナーレ国際具象展(ブルガリア)に俊との共同制作「三国同盟から三里塚まで」を出品、大賞を受賞。同55年の第6回从展に「水俣の図」、同58年の第9回从展に「沖縄の図」のシリーズを出品した。このように、「原爆の図」シリーズ(同57年までに15部が完成)を起点に、社会性の強い作品を制作しつづけた一方、中国、ヨーロッパ各地を写生旅行し、その作品をもとに俊との三人展をたびたび開催し、剛胆な水墨表現を一貫して追求していた。

加倉井和夫

没年月日:1995/09/24

読み:かくらいかずお  日本芸術院会員で、日展常務理事の日本画家加倉井和夫は、9月24日午前8時33分、急性心不全のため横浜市旭区内の病院で死去した。享年76。大正8 (1919)年9月11日、横浜市青木町に生まれ、昭和13(1928)年旧制茨城県立太田中学校を卒業、東京美術判交日本画科に入学、山口蓬春に師事した。本格的な作品発表は戦後からで、同22年の第3回日展に「林」が初入選、同24年の第2回創造美術展にも出品した。同27年の第8回日展からは毎回出品し、澄んだ川の流れと水に浸る石を装飾的にとらえた「流れ」を同33年の第1回新日展に出品、特選白寿賞を受けた。以後、同展で無鑑査、委嘱出品をかさね、同42年に会員となった。同55年の第12回日展出品の孔雀を華麗に描いた「青苑」によって、翌年日本芸術院賞を受ける。平成元(1989)年日本芸術院会員に選出された。

尾山幟

没年月日:1995/09/17

読み:おやまのぼり  日展評議員の日本画家尾山幟は、9月17日午後4時34分、間質性肺炎のため東京都多摩市の多摩南部地域病院で死去した。享年74。大正10(1921)年5月5目、北海道釧路市に生まれ、昭和20(1945)年多摩美術学校日本画科を卒業。同26年の第7回日展に「緑苑」が初入選、以後同展に出品をつづけ、同27年の第8回展出品の「蒼苑」で特選・朝倉賞、同30年の第11回展出品の「叢」で特選・白寿賞を受けた。その後、同展の審査員、会員をつとめ、評議員となり、平成7年の第27回展に「寂」が遺作として出品された。自然のなかで遊ぶ鳥をモチーフに、明るい色彩と装飾的な画面構成でまとめあげた作品を出品していた。

田中青坪

没年月日:1994/05/07

東京芸術大学名誉教授、横山大観記念館理事長、日本美術院評議員の日本画家田中青坪は、5月7日午前11時5分、心不全のため、東京都杉並区の病院で死去した。享年90。明治36(1903)年7月13日、群馬県前橋市に生まれる。本名文雄。東京神田の錦城中学校を3年で中退した後、太平洋画会洋画研究所に学んだが、大正10年に小茂田青樹に師事するようになる。同13年の第11回院展に「子女図」が初入選。簡潔な描写ながら、存在感のある少女と小児を描いた作品であった。その後は、昭和7年の第19回院展まで、毎回入選し、この年に、奥村土牛、小倉遊亀とともに同人に推挙された。同19年には、山本丘人とともに東京美術学校助教授となる。同34年には、東京芸術大学教授となる。また戦後もひきつづき院展に出品をつづけ、同42年の第52回展に出品の「春到」で、文部大臣賞を受けた。本作品は、自然の一角を濃密な描写と色彩でとらえた、情感豊かな扉風(四曲半双)の大作であった。さらに、同49年の第59回展出品の「浅間」からは、浅間山を主題に、スケールの大きい景観と近景の森や自然の対比を巧みに生かした風景画のシリーズを発表しつづけた。同60年の第70回展に出品した「武蔵野」が、院展への最後の出品となった。

立石春美

没年月日:1994/04/27

日展参与の日本画家立石春美は、4月27日脳こうそくのため静岡県熱海市の病院で死去した。享年85。明治41(1908)年5月16日佐賀県に生まれる。本名春美。昭和2年上京し、翌年から朗峯画塾に入り伊東深水に師事する。同6年第12回帝展に「淑女」で初入選し、以後、帝展、新文展に出品した。戦後は日展を中心に制作発表を行い、同21年の第1回日展に「年寄」で特選を受け、同26年の第7回日展では「山荘の朝」で特選、朝倉賞を受賞した。同39年日展会員に推挙され、のち評議員、参与をつとめた。師深水に連なる美人画、人物画を得意としたが、簡略化した構図に独自の領域を築いた。また、昭和31年には、がんの権威中山恒明医博の依頼により、華岡青洲を題材に「麻睡実験する図」を制作した

望月定夫

没年月日:1994/04/08

日展評議員の日本画家望月定夫は、4月8日心不全のため新潟県長岡市学校町の自宅で死去した。享年80。明治45(1912)年5月7日山梨県西山梨郡住吉村増坪に生まれる。日本画家望月春江は実兄。山梨県立甲府中学校を経て、昭和12年東京美術学校日本画科を卒業、また、中村岳陵の蒼野社に学んだ。新文展に4回入選し、戦後は日展に出品、会員、評議員をつとめた。

神保朋世

没年月日:1994/03/10

読み:じんぼともよ  日本画家で俳人でもあった新保朋世は3月10日午前8時20分老衰のため東京都新宿区中落合の自宅で死去した。享年91。明治35年4月25日東京に生まれる。本名貞三郎(ていざぶろう)。日本画家鰭崎英朋に師事し、後、伊東深水にも教えを受ける。社会主義への共感から大衆芸術に関心を抱き、挿絵の制作を中心とするようになり、講談倶楽部、週刊朝日、週刊新潮、オール読物などの雑誌のほか、各種新聞の挿絵を描いた。戦前から「オール読物」に連載の始まった野村胡堂の「銭形平次」には、著者野村が死去するまで30年に渡り挿絵を描きつづけた。

竹山博

没年月日:1994/02/26

創画会会員で、日本画家の竹山博は、2月26日午後8時37分、胃ガンのため、横浜市の病院で死去した。享年70。竹山は、大正12(1923)年6月30日、東京府文京区曙町に生まれる。本名博二。昭和15年、京北中学校4年修了後、東京美術学校日本画科予科に入学。同18年、学徒出陣により応召、翌年9月、出征中ながら同校を卒業。同20年復員後、翌年の第30回院展に初入選、さらに同22年の第31回展に「晩秋」、また第3回日展に「秋暮」が入選した。一方、戦後間もなく、山本丘人宅で開かれていた若い日本画家たちによる研究会「凡宇会」に出入りするようになり、その世話係をする。そして、同23年に山本丘人、上村松篁、吉岡堅二等が中心になって結成された美術団体「創造美術」の第1回展に「藁家」を出品、つづいて同26年、同会が新制作派協会と合同し、日本画部となると、これに出品するようになった。同38年、第27回同協会展に出品の「巌と滝」によって、さらに同40年の第29回展出品の「源流」、「凍雪」によって新作家賞を受け、同41年には会員となった。同49年、同協会の日本画部会員が創画会を結成、以後、同会展に毎回出品する。同会展への出品は、平成5年の第20回展の「海棠(未完)」が最後となった。色彩表現を抑制した、精緻な線描による花鳥画を多く描いた。

川島浩

没年月日:1994/01/09

日展会員で、日本画家の川島浩は、1月9日午後2時15分、胆管ガンのため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年83。川島は、明治43(1910)年2月20日、京都市伏見区深草願成町40に生まれる。昭和2年、京都府立桃山中学校卒業後、京都絵画専門学校予科に入学、本科を経て、同12年研究科を卒業。在学中は、西村五雲、山口華楊に師事した。また、同7年の第13回帝展に「大和の麦秋」が初入選、同10年には、第1回京都市美術展覧会に「獲物」が入選した。以後、帝展、新文展に入選をかさね、戦後も日展に出品をつづけた。同41年の第9回日展に出品した「湖」により、特選・白寿賞を受けた。さらに同48年の第5回改組日展に出品の「山頂湖」が、再び特選となり、同58年の第8回展では、審査員をつとめ、翌年同展会員となった。同63年、京都府文化功労賞を受けた。山中の湖や湿原の景観を題材に、簡潔な構図と整理された色彩表現による、静謐な情感を漂わせる風景画を多く残した。

杉山寧

没年月日:1993/10/20

読み:すぎやまやすし  日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業した翌年の昭和3(1928)年に東京美術学校日本画科に入学。同校在学中の同6年の第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となる。同8年、同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となる。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえている。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催、同13年の第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励んだ。戦後は、同21年の文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応ぜず、同26年の第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品する。以後、日展には、同組織が社団法人となった同33年から会員として、同49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめたが、同51年に退会、しかし請われて顧問に就任した。そのほか、同26年に東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を同31年4月から同57年6月号まで毎号制作する。同32年の第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、同13回日本芸術院賞を送られる。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となった。しかし、同36年の沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(同39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていった。さらに、同48年頃から、夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していった。同53年、56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれた。同49年には、文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰された。同57年11月から61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめた。同62年8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催された。さらに、平成4(1993)年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。)

to page top