本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





望月信成

没年月日:1990/05/28

読み:もちづきしんじょう  元大阪市立美術館長・元大阪市立大学教授の望月信成は5月28日午後2時34分、肝不全のため大阪市天王寺区の大阪警察病院で死去した。享年90。明治32(1899)年6月14日、京都市に生まれる。父は、仏教大辞典の著者である知恩院管長も勤めた信享である。大正15年3月に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、同年4月京都帝国大学大学院に進んだ(昭和4年卒業)。そして同年の9月に恩賜京都博物館鑑査員として永きにわたる公務のスタートを切る。その後、昭和6年4月より文部省帝国美術院付属美術研究所嘱託を勤め、昭和11年に大阪市美術館主事に転じた。以後、昭和24年9月同美術館長・昭和25年大阪市立大学教授に任ぜられるのをはじめ、様々な役職をこなし大阪の文化の発展に尽くした。その役職には、昭和21年大阪府史跡名勝天然記念物調査協力委員、同年大阪財務局書画骨董調査協力会委員、昭和23年大阪府社会教育委員会委員、昭和24年大阪市理事、昭和25年大阪ユネスコ協会理事、昭和29年大阪府文化財専門委員、昭和40年大阪緑化委員、同年大阪屋外広告物審議会委員などがある。大阪市立美術館時代の美術館行政については、後に自伝として『一筋の細い道』(昭和59年・前田清文堂)で語っている。 昭和39年に大阪市立美術館長・大阪市立大学教授退職の後は、昭和43年より同54年まで帝塚山学院大学教授、昭和43年より同60年まで財団法人美術院理事長と、美術教育及び文化財保護事業に継続して尽くした。この他後進の教育には、高野山大学、甲南女子大学に於て係わった。また、理事・評議員として関与した美術館には、藤田美術館、白鶴美術館、逸翁美術館があり、昭和41年には兵庫県美術館建設委員会委員となっている。 僧籍にあった関係上、昭和9年知恩院什宝係主任、昭和10年知恩院保存会委員、昭和28年浄土宗美術部講師、昭和31年浄土宗本派審議会委員を勤め、昭和39年浄土宗大僧正となっている。 以上の業績に対して、昭和33年日本博物館協会総裁より永年博物館事業尽力表彰、昭和39年大阪府社会教育功労者表彰、同年大阪府大阪市文化賞、昭和45年勲四等旭日章を受けている。 昭和40年第19回毎日出版文化賞を受賞した『仏像-心とかたち-』(共著、日本放送出版協会 昭和40年)をはじめとして仏教美術を中心としたその著作は多い。主要著書絵巻物鑑賞 宝雲社 昭和15支那絵画史 白揚社 昭和16日本上代彫刻 創元社 昭和18仏像仏画の話 大東出版社 昭和24美の観音 創元社 昭和35広隆寺 山本湖州写真工芸部 昭和38大阪府文化財図説(彫刻扁) 大阪府教育委員会 昭和38続仏像-心とかたち- 日本放送出版協会 昭和40わびの芸術 創元社 昭和42日本の水墨画 河原書店 昭和42日本仏教美術史 教育新潮社 昭和43常識としての仏像知識 浄土宗務庁 昭和50仏像をみる 学生社 昭和61神・仏と日本人 学生社 昭和62地蔵菩薩 学生社 平成1阿弥陀如来 学生社 平成3

前田藤四郎

没年月日:1990/05/19

日本版画協会名誉会員、春陽会会員の版画家前田藤四郎は、5月19日大阪府堺市の市立堺病院で死去した。享年85。関西における創作版画の草分け的存在として知られ、豪放で庶民的な人柄から関西画壇の象徴的存在として慕われていた前田は明治37(1904)年10月18日兵庫県明石市に生まれた。兵庫県伊丹中学校時代から水彩画に親しみ、神戸高等商業学校在学中の大正13年には、妹尾正彦、井上覚造らとグループ青猫社を結成し油彩画を描いた。昭和2年神戸高商を卒業。翌3年、平塚運一著『版画の技法』を参考に版画制作を試み「監的鏡」などを制作、同4年の第7回春陽会展に版画「散髪屋」を初出品、以後、同展へ継続出品するとともに、同6年には第1回日本版画協会展へ出品、また同年大阪に版画グループ羊土社を結成し指導に当たった。同7年日本版画協会会員となり、同年、版画グループ黄楊を結成、大阪の洋画グループ艸園会に加わった。一方、この年の作品「時計」は、版画に写真製版をとり入れたわが国最初の試みとして、また、そのシュール・レアリスム的表現でも注目される。この間、恩地孝四郎らの創作版画運動に共鳴し、木版、石版、銅版の諸技法を独習するなかで、次第に独自ののびやかで華麗な作風をつくりあげ、技法上はリノリウム板に油絵具を用いるリノ・カット技法に特色があった。同14年、第17回春陽会展に「紅型A」「紅型B」などを出品し春陽会賞を受賞、春陽会会友となり、翌年同会員に推挙された。戦前は新文展にも出品する。戦後は、同21年朝日美術展に「竜安寺石庭」で朝日新聞社賞を受賞したのをはじめ、春陽会展、美術団体連合展、日本版画協会展、現代日本美術展、日本国際美術展、東京国際版画ビエンナーレ展などに制作発表を行い、昭和20年代後半からは、廃材の木目のフロッタージュを利用した制作を始めた。同32年、大阪府芸術賞を受賞。同40年にはヨーロッパ各地を取材旅行した。また、同45年開催の大阪万国博覧会に伴い開設された万博美術館を、大阪府立現代美術館として再開するための推進協議会委員(同47年、国立現代美術館推進協議会代表)となり、同52年に国際美術館として開館する間、運動の中心的存在として尽力した。同57年から翌年にかけては、国鉄(現JR)大阪駅の中央コンコース改札口北面壁の陶版レリーフ作成に従事し、「大阪の四季・まつり」として完成した。個展、回顧展をしばしば開催した他、新聞等の挿絵も手がけた。主要出品歴昭和4年春陽会第7回展 「散髪屋」帝展第10回 「都会展望」(水彩)昭和5年春陽会第8回展 「婦人帽子店」昭和6年春陽会第9回展 「華麗なるエスプリ」「屋上運動」日本版画協会第1回展 「登場人物」「貯水池」「聴音」昭和7年春陽会第10回展 「女」日本版画協会第2回展 「香里風景」「花」「婦人像」昭和8年春陽会第11回展 「葡萄の静物」「鹿」「石膏の静物」日本版画協会第3回展 「車輪」「香里風景」「鹿」「葡萄」「時計」「水源地」昭和9年春陽会第12回展 「道化者」昭和10年春陽会第13回展 「鳥」「チューリップ」日本版画協会第4回展 「山」「静物」「きつつき」「花束」「朝顔」「道化役者」昭和11年春陽会第14回展 「ラグビー」日本版画協会第5回展 「牛」「静物」昭和12年春陽会第15回展 「蝶」「静物」昭和13年春陽会第16回展 「飛ぶ鳥」「風景」日本版画協会第7回展 「鳥」「七月の白浜」昭和14年春陽会第17回展 「紅型A」「紅型B」「手」「竜舌蘭と墓」昭和15年春陽会第18回展 「藍型」「花芭蕉」「琉球の魚市場」紀元2600年奉祝美術展 「紅型」日本版画協会第9回展 「ヤップの人形(男)」「ヤップの人形(女)」昭和16年春陽会第19回展 「琉球の魚市場」「琉球の青物市場」「老婆」「市場附近(琉球)」「首里展望」「魔除けのある屋根」文展第4回 「南の国」日本版画協会第10回展 「紅型」昭和17年春陽会第20回展 「紅型」「孔子廊(首里)」「琉球風景」「市場の帰り」「琉球の魚売り」日本版画協会第11回展 「新緑」昭和18年春陽会第21回展 「曽爾秋色」「東福寺の庭」「龍安寺の庭」「静物」文展第6回 「南国勤労」昭和19年春陽会第22回展 「金玉満堂」文部省戦時特別美術展 「愛染明王」昭和21年朝日美術展 「竜安寺石庭」春陽会第23回展 「大和路」昭和22年春陽会第24回展 「三河の春」「東北の街(ハイラル)」第1回美術団体連合展 「苔寺石庭」昭和23年春陽会第25回展 「社頭春色」日本版画協会第16回展 「椿」「石庭」第2回美術団体連合展 「住吉大社」「椿」昭和24年春陽会第26回展 「梅・椿」「桜島」「女優P」第3回美術団体連合展 「カストリ横丁」昭和25年春陽会第27回展 「大原女」「牛」「花」第4回美術団体連合展 「土の家」昭和26年春陽会第28回展 「文楽人形」「大阪風景・桜之宮」「焼跡」日本版画協会第26回展 「つばめ」第5回美術団体連合展 「裏街」昭和27年春陽会第29回展 「建築」「迷路」日本版画協会第20回展 「老婆」昭和28年春陽会第30回展 「岬」「回想の琉球」「壷とさざえ」日本版画協会第21回展 「花」昭和29年川西英・前田藤四郎創作版画展(神戸・元町画廊)春陽会第31回展 「坂道」「鳥篭を持つ少女」日本版画協会第22回展 「花と子供」第1回現代日本美術展 「母子」「裏街」昭和30年春陽会第32回展 「スラム街」「住吉祭」「明石原人の海」第3回日本国際美術展 「平和」「昆虫」前田藤四郎版画展(大阪・梅田画廊)昭和31年春陽会第33回展 「遊ぶ子供達」第2回現代日本美術展 「小魚を喰う蟹」「観世音菩薩」昭和32年春陽会第34回展 「昼の裏街」「夜の裏街」日本版画協会第25回展 「愛鳥週間」「湖畔」第4回日本国際美術展 「顔」第1回東京国際版画ビエンナーレ 「海浜」「追想」昭和33年春陽会第35回展 「母と子」「水の精」「立春」「厨房」日本版画協会第26回展 「あむしる」第3回現代日本美術展 「夜の花」「立春」昭和34年日本版画協会第27回展 「月の出」「石庭」春陽会第36回展 「ハイティーンM」「内海航路(昼)」「内海航路(夜)」「勲章」「ハイティーンW」第5回日本国際美術展 「故郷」昭和35年日本版画協会第28回展 「森の会話」「伝説」春陽会第37回展 「サンドイッチマン」「古代人」「神話」第4回現代日本美術展 「古代」「民話」第2回東京国際版画ビエンナーレ 「春」「冬」昭和36年日本版画協会第29回展 「夜の童話」「昼の童話」春陽会第38回展 「今」「呪」「幻」昭和37年日本版画協会第30回展 「1月」「8月」春陽会第39回展 「薫風」「原始」「奇妙な花」第3回東京国際版画ビエンナーレ 「白亜の海」「白亜の空」昭和38年日本版画協会第31回展 「コバルト」「開」春陽会第40回展 「銀」「狙」「哭」「群」「紅」昭和39年日本版画協会第32回展 「虫」「作品」春陽会第41回展 「気」「虫」「螺」昭和40年春陽会第42回展 「湖畔」「火の鳥」昭和41年春陽会第43回展 「パリの壁」「パリの広告」昭和42年日本版画協会第35回展 「巴里」春陽会第44回展 「イビサにて」「巴里」昭和43年日本版画協会第36回展 「白夜の海」春陽会第45回展 「奇妙な家」「遺跡」昭和44年日本版画協会第37回展 「壷を売る女」「裏窓」春陽会第46回展 「バザール」「船を待つ女」昭和45年昭和版画協会第38回展 「崖」「港近く」春陽会第47回展 「住めば都」「はかなき夢」昭和46年日本版画協会第39回展 「鎧岳」「わらべ歌」春陽会第48回展 「春雪」「まぼろしの港」昭和47年日本版画協会第40回記念展 「グリン・マダム」「上がったり下がったり」春陽会第49回展 「楽しい日曜日」「御食事處」昭和48年日本版画協会第41回展 「P.Q.R.」「今日は,今日は」春陽会第50回展 「首を売る男」「めぐり逢い」昭和49年日本版画協会第42回展 「斗牛」「君の名は?」春陽会第51回展 「カッパドキヤ」「狂乱」昭和50年日本版画協会第43回展 「王家の谷」「祈り」春陽会第52回展 「ペルセポリス」「ウルカップ」昭和51年日本版画協会第44回展 「ペルシャ追想」「一人ぐらいは…」春陽会第53回展 「コーランは流れる」「デート」昭和52年日本版画協会第45回展 「股のぞき」「日本昔話」春陽会第54回展 「神々の休日」「遺跡観光」昭和53年日本版画協会第46回展 「メッカへの道」春陽会第55回展 「屈折の論理」「異邦人」前田藤四郎・版画の50年展(大阪府立現代美術センター 主催=大阪府)昭和54年春陽会第56回展 「病いの国に遊ぶ(窓内)」「病いの国に遊ぶ(窓外)」昭和55年日本版画協会第48回展 「紳士の散歩」「草花の下」春陽会第57回展 「ファッション・ショウ」「デコイ」前田藤四郎版画展(大阪・サントリー文化財団)昭和56年日本版画協会第49回展 「華麗なる腐蝕」「密室」春陽会第58回展 「生殖」「右と左」前田藤四郎近作版画展(京都・朝日画廊)昭和57年日本版画協会第50回記念展 「時計」(1932年)春陽会第59回展 「華麗なる仲間」「黒と白」昭和58年日本版画協会第51回展 「自画像「スカタン」」春陽会第60回展 「高い山から…」前田藤四郎個展-風展(大阪・茶屋町画廊)昭和59年日本版画協会第52回展 「ジャンケン・ハサミと待って」「手と花」春陽会第61回展 「手と花」「ジャンケン・グーとパー」前田藤四郎・遊展-オブジェ(大阪・茶屋町画廊)前田藤四郎版画展(大阪・阪急)昭和60年日本版画協会第53回展 「じゅう」「10」春陽会第62回展 「風船」「TEN」昭和61年春陽会第63回展 「天文学入門」「いき・いき」昭和62年春陽会第64回展 「近」昭和63年春陽会第65回展 「GREEN(A)」「RED(B)」平成元年春陽会第66回展 「野の詩」「テノール」前田藤四郎展(伊丹市立美術館)

白井保春

没年月日:1990/05/15

戦前は院展、帝展、新文展などで活躍し、戦後は太平洋美術会彫刻部で活動を続けた彫刻家白井保春は、5月15日午後零時41分、急性肺炎による呼吸不全のため、東京都練馬区の東武練馬病院で死去した。享年85。明治38(1905)年1月24日、東京日本橋に生まれる。大正12(1923)年東京美術学校彫刻科に入学し、同年第10回院展に木彫「水辺」で初入選、翌年第11回同展に木彫「海」で、同14年第12回同展に塑像「裸婦」で入選を続け、エジプトやギリシアなど西洋古典彫刻に学んだ簡略な造形で注目された。昭和5(1930)年第17回院展に「女立像」「上田氏像」を出品して院友に推され、同8年第20回同展に「父の像」を出品して日本美術院賞を受ける。同展には昭和10年まで出品を続けた。また、昭和4年第10回帝展に「海」で初入選、同11年文展招待展に「婦人姿態」を出品、新文展には第1回展から無鑑査出品し、官展でも活躍した。戦後は昭和35年から太平洋美術展に出品し、同年会友に推挙され、翌年同会会員となった。同43年第64回同展に「トルソ」を出品して藤井記念賞、同49年同会会員秀作賞、同50年も「母子像」で同賞を受賞した。日本メダル協会にも属し、昭和53年芸術メダル協会文部大臣賞を受賞している。木彫のほか石、乾土を素材とする塑像も手がけ、作風も伝統的仏像、対象の科学的観察にもとづく写実的人物像、様式化を進めた裸体像など多様に展開した。官展出品歴第10回帝展(昭和4年)「海」、文展招待展(同11年)「婦人姿態」、第1回新文展(同12年)「童子」、第2回同展「観自在」、第3回同展「小兒の像」、紀元2600年奉祝展(同15年)「施無畏者」、戦時特別展(同19年)「猛進」院展出品歴第10回(大正12年)「水辺」、11回「海」、12回「少女半身像」「裸体習作」、15回(昭和3年)「座像試作」「少女像」、16回「水のほとり」、17回「女立像」「上田氏像」、18回「習作」「坐像」、19回「浴婦半身像」、20回「父の像」、21回「花筺」「肖像試作」、22回「婦人裸像」

山下大五郎

没年月日:1990/05/13

安曇野など、日本の山間・田野の自然を深く愛し、清澄な画風で知られた立軌会会員の洋画家山下大五郎は、5月13日午前1時50分、直腸ガンのため、東京都新宿区の河井病院で死去した。享年81。明治41(1908)年10月2日、神奈川県藤沢市に生まれる。後に洋画家となった原精一が近くに住んでおり、早くから親交があった。また、神奈川県立湘南中学校在学中に萬鉄五郎宅に出入りし、学ぶところがあった。大正15(1926)年同中学を卒業して東京美術学校師範科に入学。同校在学中は田辺至に師事し、また先輩である林武に指導を受け、同3年第9回帝展に「卓上静物」で初入選する。同4年、東美校を卒業し、神奈川県奈珂中学校(現県立秦野高校)で教鞭をとる。官展にはたびたび入選を重ねていたが、同12年第1回新文展に「中庭の窓」を出品して特選、同14年第3回同展では「おもて」で再び特選を受賞し、同17年第5回展には無鑑査出品している。また、同16年第1回創元会に「早春」「家庭風景」を出品する。同19年歩兵補充兵として召集され、終戦後3年間、カスピ海沿岸で俘虜生活を送った後、同23年に帰国する。戦後は官展、創元会を退き、牛島憲之、須田寿らと立軌会を結成して同展を中心に活動する。初期から風景を多く描いたが、戦後しばらくは暗い鉄条網の中の俘虜をモチーフとし、その後、農村を描き始める。同28年第4回選抜秀作美術展に「開懇地風景」を招待出品、同33年第2回国際具象派展に「工場のある風景」「北海道(白老)風景」を出品するなど、立軌会以外でも作品の発表を行なった。同39年、中間冊夫、島村三七雄、原精一ら林武門下の友人達と欅会を結成する。同52年第16回展より国際形象展にも出品を続ける。この頃から安曇野の風景を描き始め、同54年「安曇野田植え」が長野県信濃美術館に買上げられたほか、同58年には立軌展35周年記念展出品作「安曇野春風」で第7回長谷川仁賞を受賞、同60年にその受賞記念展が銀座日動画廊で開かれた。また、平成2年3月、東京セントラル美術館で「日本の叙情詩 山下大五郎回顧展」が開かれ、萬鉄五郎の影響の認められる初期の作品から、日本の風景にとりくんだ長い画業が跡づけられた。その画風は、当初から構成力やマチエールへのこだわりを見せ、実景写生から離れた知的な制作態度をうかがわせるが、安曇野風景に至って、従来の試みが融合した清らかでみずみずしい画境が開かれることとなった。昭和62年『山下大五郎画集』(日動出版)が刊行されている。立軌展出品歴第1回(昭和24年)「収容所にて」「虜囚」他、2回「死(或記録)」「夜」「少年と花」、3回「少年」「少女」「姉と弟」、4回「庭」「開懇地風景」「少女」「少年」「女」、5回「工場の裏」「停車場の道」「本を見る子」「海水着のN子」「おほり端」「にしんの静物」「静物」、6回「静物」他、7回(同30年)「阿波の町」「港の水門」「とうがんの静物」「はすの実の静物」「栗のある静物」「鉄塔の風景」、8回「失調」「帰ってきた人」「ある静物」「街頭にて」、9回「堀割」「風景(A)」「風景(B)」「静物」、10回「がけ上の家」「線路の風景」「鉄塔の風景」「公園の入口」、11回「新開地風景(A)」「新開地風景(B)」「新開地風景(C)」「花」、12回(同35年)「長崎の家」「長崎の教会」「長崎の丘」「砂丘(鳥取)」「佐多岬」「桜島」、13回「長崎の屋根」「長崎の寺(A)」「畠」「砂丘」「長崎の寺(B)」、14回「箱根残雪」「麦の岡」「田園風景」、15回「紅葉」「高原」「高原の道」、16回「湖畔残雪」「田圃の風景」「麦秋の丘」、17回(同40年)「田」「砂丘」「静物」、18回「漁師の家」「漁村」「子浦の家」、19回「洛北残雪」「早春農家」「洛北花背陽光」「洛北の春」、20回「丹波秋色」「山村」「椿」「さざんか」「水仙」「飛鳥いかずちの丘」、21回「温井の村」「山村風景」「佐那河内風景」、22回(同45年)「出雲の野」「築地松」「出雲風景」、23回「築地松投影」「簸川野雨後」「雪の簸川野」、24回「出雲風景」「北国の風景」「会津の倉」「はでば」、25回「杉の里」「日光杉並木」「丹波の家」「たも木の風景」、26回「杉邑」「庄屋の家」「丹波風景」、27回(同50年)「越後の野道」「出雲の家(簸川にて)」「新潟の家」、28回「礪波初夏」「段田の風景」、29回「出雲の道」「みずたの風景」、30回「越後風景」「榛の小道」、31回「安曇野田植え」「安曇野稔り」「田毎の風景」、32回(同55年)「安曇野暮色」「芋井の段田」、33回「山つづく」「田面映ゆ」、34回「安曇野冬近し」「五月の風景」、35回「有明への道」「安曇野春風」、36回「山に新雪の頃」「高原の朝」、37回(同60年)「戸隠の春」「山田の風景」、38回「田植頃」「山新田木立」「白樺林早春」、39回「戸隠早春」「戸隠への道」、40回「山新田たうえ」、41回「山麓風景-白馬」「山新田の雨」

海老原一郎

没年月日:1990/05/07

憲政記念館や霞が関ビル設立以前には日本で最も高いビルであったディック・ビルの設計で知られる日本芸術院会員の建築家海老原一郎は、5月7日午前10時15分、急性心不全のための東京都品川区の自宅で死去した。享年84。明治38(1905)年8月4日、東京都墨田区に生まれ、大正13(1924)年に東京美術学校建築科に入学。山口文象と知り合い分離派運動に加わる。昭和5(1930)年東京美術学校を卒業して石本建築設計事務所に勤務し始める。同13年海老原建築設計事務所を設立し、同28年それを株式会社に改組してその代表取締役となった。同33年尾崎記念会館(現、憲政記念館)設計競技に応募し、美校時代から持ち続けた前衛的造形思考をモダニスム建築としてあらわして注目され一等に当選する。同46年、尾崎記念館等一連の作品により戦後のモダニズム建築に先鞭をつけた業績を認められ日本芸術院賞を受賞、同51年より55年まで日本建築家協会会長をつとめた。同56年、日本芸術院会員となる。他の代表作に大日本インキ化学総合研究所、川村記念美術館などがあり、晩年には昭和57年より61年まで母校の東京芸術大学で客員教授として教鞭をとり、同58年より全国の建築家、建築学者の組織「核兵器の廃絶を求める建築人の会」代表をつとめるなど、技術面、思想面で後進への指針を示した。

横溝洋

没年月日:1990/05/07

読み:よこみぞひろし  国画会会員の洋画家横溝洋は、5月7日午前6時10分、食道ガンのため、東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年62。昭和3(1928)年4月25日、東京都大田区に生まれる。小学校高学年の頃から絵に興味を抱き、同26年、早稲田大学理工学部応用化学科を卒業して同年猪熊弦一郎に師事する。翌27年、第4回読売アンデパンダン展に対象を抽象的形体にデフォルメした「工場」を出品し、安部公房により新聞展評に取り上げられる。同31年第30回国画会展に「かつぐ」で初入選し、以後同展に出品を続け、同37年同会会友となる。同48年、インド、スリランカへ、翌年インド、ネパールへ、同51年トルコ、イラン、アフガニスタンへ赴き、帰国のたびに個展によってその成果を発表。同55年前後から中国、西域を中心に旅している。作品は早くから抽象的傾向が強く、晩年には「系」のシリーズを追求し、幾何学的形体と強烈、明快な色彩で宇宙の律を表現するような画面を示した。同61年、国画会会員に推挙された。絵画のほか著述もよくし、著書に『表現とは何か–系の世界1」(築地書館、昭和59年)、『私的空間池上村–系の世界2」(同、昭和61年)、『柿くへば 食から見た明治以降の文学–系の世界3』(同、昭和63年)などがある。 国画会展出品歴第30回(昭和31年)「かつぐ」、31回「装置」、32回「穹」、33回「祭(女)」、34回(同35年)「開」、35回「律」、36回「晨」、37回「圏」「覇」、38回「汎」、39回(同40年)「渺」「湛」、40回「域」、41回「府」、42回「圏」、43回「圏」、44回(同45年)「典」、45回「念」、46回「覇」、47回「汎」、48回「殖」、49回(同50年)「系-’75」、51回「系-’77」、52回「系-’78」、53回「系-’79」、54回(同55年)「系-’80」、55回「系-’81」、56回「系-’82」、57回「系-’83」、58回「系-’84」、59回(同60年)「系-’85」、60回「系-’85」、61回「系-’87」、62回「系-’88」、63回(平成元年)「系-’89」

葛西四雄

没年月日:1990/04/27

読み:かさいよつお  日展会員、示現会理事の洋画家葛西四雄は、4月27日肝不全のため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年64。大正14(1925)年青森県南津軽郡に生まれる。県立青森師範学校を中退、昭和28年から同36年まで小学校助教諭をつとめ、この間、同32年奈良岡正夫につき、同年の第10回示現会展に初入選する。同37年第5回日展に「滞船」が初入選、翌年示現会会員となる。同44年から安井賞候補展へもしばしば出品する。同46年改組第3回日展に「北の漁村」で特選を受け、翌年日展無鑑査。同53年、第10回日展に「北の浜」で再度特選となり、同60年には日展会員に推挙された。また、同57年新宿小田急で葛西四雄油絵展を行ったのをはじめ、翌年には奈良岡正夫らとの四人展を銀座松屋で開催、同展は以後6回続いた。示現会理事をつとめ、日本美術家連盟会員でもあった。北国の海を題材に力強い写実の作風で知られ、特選受賞後の日展への出品作には他に、「北の海辺」(14回)、「岬」(16回)、「北の漁村」(17回)などがある。

堀井香坡

没年月日:1990/04/18

日本画家堀井香坡は、4月18日午後8時14分、老衰のため京都市左京区の松ケ崎病院で死去した。享年93。明治30(1897)年3月9日京都市に生まれ、本名清太郎。大正4年京都市立美術工芸学校を卒業後、京都市立絵画専門学校に進み、同7年同校を卒業する。菊池契月に師事して、大正4年第9回文展に「ねがひ」が初入選。同6年第11回文展にも「雷鳴」が入選し、帝展には第2回よりほぼ毎年出品した。大正9年第2回「鷺娘」、10年第3回「異端の女」、11年第4回「春宵」、13年第6回「童女」、15年第7回「太夫」、昭和2年第8回「山姥」と、大正期の京都画壇に特有の官能性をいくぶんおびた女性像を描く。昭和3年第9回「百万」、4年第10回「夕凪」が連続して特選を受賞、昭和期に入って師契月風の端正な美人画を描くようになる。5年の第11回帝展より無鑑査出品し、6年第12回「夏日遊戯」、8年第14回「夏日清遊」などを出品し、「南島暮色」を出品した9年第15回帝展で審査員をつとめている。また18年第6回新文展「傘蓋行道」、19年戦時特別展「将軍閑日」などの歴史画も発表。戦後は昭和25年第6回日展からしばしば招待出品し、31年第12回日展「熊野」などを出品。日展への出品は、昭和42年の第10回新日展「舞妓」が最後となった。悠采会、菊重社などに所属し、古美術の収集にも関心を持っていた。

大熊喜光

没年月日:1990/04/09

東京造形大学教授の環境デザイン家、大熊喜光は4月9日午後4時26分、高血圧性脳内出血のため、東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年49。昭和16(1941)年2月12日、東京都に生まれる。東京、九段高校を経て武蔵野美術大学造形部産業デザイン学科を卒業。都市、建築を含む環境デザイン、インテリア・デザイン、色彩・知覚心理学等環境心理学を専門とし、オフィス環境研究所(プラス株式会社)所長、建築事務所(都市計画同人)取締役をつとめたほか、デザイン事務所「アトリエ35、4」を主宰した。また、東京造形大学環境デザイン研究室で教鞭をとった。昭和47年東京大聖堂納骨堂、同55年プラス株式会社横浜支店ショールーム、同54年同社本館改築及び同社アネックス、同61年ハイパーチェア「MEGA」計画、同62年オフィス環境研究所オフィス環境設計、平成元年コミュニティオフィス武蔵野オフィス環境設計等のデザインを行ない、著書に『近未来のオフィス環境について』(ORBIT研究部会)等がある。

坂宗一

没年月日:1990/04/09

二紀会名誉委員の洋画家坂宗一は、4月9日肺炎のため福岡県三輪町の朝倉記念病院で死去した。享年87。明治35(1902)年5月福岡県三潴郡に生まれる。小学校卒業後、郷里の先輩坂本繁二郎を頼って上京し、一時川端画学校で素描を学んだ他は油彩画は独学により、坂本や古賀春江に制作を見てもらっていた。昭和4年、第16回二科展に初入選し、同12年の第24回展では「農具」で二科特待賞を受けた。この間、朝鮮や中国大陸、東京を転々と放浪し貧窮生活を送ったのち、郷里へ居を据えた。戦後は、同22年創立の第二紀会(のち二紀会)に参加、同36年二紀会委員となり、主に同展に制作発表を続けた。九州洋画壇の長老として活躍し、晩年手がけた水墨画も高い評価を得ていた。

北澤映月

没年月日:1990/04/07

美人画家で知られる日本美術院評議員の女流画家北澤映月は、4月7日午後2時41分、肺炎のため神奈川県川崎市の柿生病院で死去した。享年82。明治40(1907)年12月9日京都市下京区に生まれ、本名智子、のち嘉江。京都市立第二高等小学校6年の時に父が死去し、大正11年同校卒業後、画家を志し、翌12年上村松園に師事する。昭和7年松園の紹介により土田麦僊に入門、映月の号を受け、その画塾山南塾で学ぶ。同11年春、第1回改組帝展に「祇園会」が初入選するが、同年6月、師麦僊が死去。その後、13年第25回再興院展に「朝」を初出品し入選、以後院展に連年出品する。15年第27回院展に「婦人」を出品して院友となり、翌16年には同第28回院展で「静日」が日本美術院賞第三賞を受賞、小倉遊亀に続く女性2人目の同人に推挙された。戦後21年第31回に「文五郎の人形」を出品し、その後現代的な女性風俗を扱った作品に移行、35年第45回「舞妓」、36年第46回「花と舞妓」(文部省買上げ)、40年第50回「三人のモデル」、41年第51回「A夫人」などを発表する。また、大磯の安田靫彦邸に通った写生による39年第49回「錦の紅梅」なども出品。そして、45年第55回「ねねと茶々」は内閣総理大臣賞、細川ガラシャと淀君を題材にした55年第65回「朱と黒と」は文部大臣賞を受賞、歴史画にも秀作を残した。このほかにも48年第58回「想(樋口一葉)」、49年第59回「焔(八百屋お七、朝顔日記深雪)」、51年第61回「近松の女(おさんと小春)」、52年第62回「寂光(淀どの)」など、晩年は文学や歌舞伎などに取材した歴史人物画を多く制作した。この間、35年住みなれた京都から東京に転居し、翌36年から日本美術院評議員をつとめる。秋の院展には、61年第71回「緑蔭」が最後の出品となった。 院展出品歴昭和13年 第25回 朝昭和14年 第26回 待月昭和15年 第27回 婦女昭和16年 第28回 静日 日本美術院賞 第三賞 同人推挙昭和17年 第29回 好日昭和18年 第30回 新果昭和21年 第31回 文五郎の人形(酒屋のお園)昭和22年 第32回 婦二題昭和23年 第33回 緑衣昭和24年 第34回 小憩昭和25年 第35回 母の日昭和26年 第36回 二面像昭和27年 第37回 道成寺昭和28年 第38回 白川学園の子供達昭和29年 第39回 花昭和30年 第40回 婦女曼荼羅昭和31年 第41回 二婦人昭和32年 第42回 羅昭和33年 第43回 壷と坐婦昭和34年 第44回 花と実昭和35年 第45回 舞妓昭和36年 第46回 花と舞妓昭和37年 第47回 花の中昭和38年 第48回 彩裳昭和39年 第49回 錦の紅梅昭和40年 第50回 三人のモデル昭和41年 第51回 A婦人昭和42年 第52回 或る日の安英さん昭和43年 第53回 きもの昭和44年 第54回 蘆刈の佳人昭和45年 第55回 ね々と茶々 内閣総理大臣賞昭和46年 第56回 華昭和47年 第57回 女人卍(にょにんまんじ)昭和48年 第58回 想(樋口一葉)昭和49年 第59回 焔(八百屋お七 朝顔日記深雪)昭和50年 第60回 江戸と上方昭和51年 第61回 近松の女(おさんと小春)昭和52年 第62回 寂光(淀どの)昭和54年 第64回 一途昭和55年 第65回 朱と黒と 文部大臣賞昭和56年 第66回 綵裳(さいしよう)昭和57年 第67回 朧(憩の阿国)昭和58年 第68回 彩華昭和59年 第69回 華と花昭和60年 第70回 叢昭和61年 第71回 緑陰

赤津實

没年月日:1990/03/27

東京学芸大学名誉教授の洋画家赤津實は3月27日午後4時2分、急性腎不全のため神奈川県厚木市の厚木佐藤病院で死去した。享年80。明治42(1909)年11月23日東京に生まれる。昭和11(1936)年東京美術学校油画科卒業。その後、福井県立敦賀高等女学校、東京府立第十一中学校等の図画専科教員を歴任する。この間、同14年第3回新文展に「休日」で初入選する。戦後は、同21年第2回日展に「養護室」を出品して官展に復帰し、同23年8月、東京第一師範学校助教授、同26年3月、東京学芸大学助教授となった。同27年第11回創元展に「青衣少女」「黄色セーターの少女」「室内」を初出品して創元会賞を受賞し同会会員となり、同会委員もつとめた。また、光風展、一水展などにも一時出品したが、同34年諸団体を退いて無所属となった。以後は制作を続ける一方、美術教育に尽くし、同38年社団法人「日本美術教育連合」の設立発起人として同会会員となり、同39年文部省より中学校美術教科書検定調査審議会調査委員を委嘱される。同43年東京学芸大学教授となり、同48年定年退官後は、女子聖学院短大児童教育学科図画工作科教授として教鞭をとった。著書に『図画・略画基本ハンドブック』『図案手帖』などがある。

安藤菊男

没年月日:1990/02/27

二科会評議員の彫刻家安藤菊男は、2月27日肺炎のため愛知県西加茂郡の三好中央病院で死去した。享年74。本名大沢菊夫。大正4(1915)年3月3日名古屋市に生まれる。昭和10年第22回二科展に初入選、同17年の第29回展には「働ク男」で受賞、二科会会友となる。同18年から21年まで南方に応召、帰還後、MC彫塑家集団結成に参加する。また、翌22年には中部二科会結成に加わり、同年の第32回二科展に「座像」「女ノ首」を出品受賞し、二科会会員に推挙された。同25年MC彫塑家集団を脱退。また、同年「詩聖ヨネ・野口顕彰碑」を完成した。戦後の二科展出品作に「清純」(第33回)、「或る記念像」(第35回)などがある。

林鶴雄

没年月日:1990/02/24

元一水会会員で無所属の洋画家林鶴雄は、2月24日心不全のため東京都世田谷区の国立大蔵病院で死去した。享年82。明治40(1907)年2月26日兵庫県揖保郡に生まれる。兵庫県立龍野中学校卒業。昭和10年第5回独立展に「教室」を出品、翌年上京し藤田嗣治の知遇を得る。同年第23回二科展の「黒板」をはじめ同13年迄は二科展に制作発表したが、安井曽太郎に師事するに及び、同14年からは一水会展(「身体検査」第3回)に出品した。同15年紀元二千六百年奉祝展に「砂場」を出品、翌年の文展には「草と子供」で特選を受けた。戦後の同21年一水会会員に推挙され、同32年第19回一水会展に「白壁の家」を出品し会員優賞を受賞したが、同38年一水会を退会し渡仏、以後無所属として個展を中心に制作発表を行った。在仏中は、マルセイユやパリのバンドーム画廊等で個展を開催、同58年帰国する間在仏20年に及んだ。国内では日動画廊他で個展を催した。

村岡正

没年月日:1990/02/12

庭園文化研究所長、文化庁文化財保護審議会専門委員の村岡正は、2月12日心不全のため京都市下京区の武田病院で死去した。享年64。日本庭園史研究の第一人者であった村岡正は、大正15(1926)年1月20日京都市に生まれ、昭和24年京都大学農学部林学科を卒業した。その後、森蘊と各地の庭園調査を進め、同43年6月自宅に庭園文化研究所を設立し自らは次長(同63年所長)に就いた。京都府加茂町の浄瑠璃寺、岩手県平泉の毛越寺などの庭園の復元、整備を手がけ、同53年5月、日本造園学会賞を受賞、同60年には地域文化功労者として文部大臣表彰を受けた。この間、京都大学農学部、千葉大学園芸学部の非常勤講師をつとめた他、奈良国立文化財研究所調査員(同58年5月)、京都市文化財保護審議会委員(同59年8月)、滋賀県文化財保護審議会委員(同59年7月)となる。同61年7月、文化庁文化財保護審議会専門委員に就任、同年8月には平城、飛鳥、藤原宮跡調査整備指導委員会委員となる。また、同62年から財団法人日本造園修景協会評議員、京都市史跡管理協会理事を、翌年から社団法人日本庭園協会理事をつとめた。復元、整備に携わった庭園は、他に西本願寺滴翠園、高台寺庭園、東本願寺渉成園、観自在王院庭園など数多く、著書に『桂・修学院』『京都枯山水庭園図譜』などがある。

中畑美那子

没年月日:1990/02/04

行動美術家協会会員の洋画家中畑美那子は、2月4日午前7時40分、急性心不全のため兵庫県尼崎市の自宅で死去した。享年85。明治37(1904)年11月1日、大阪市に生まれる。大阪府立梅田高等女学校(現、大手前高校)を経て、昭和8(1933)年恵美須町独立研究所に学ぶとともに、小出三郎に師事する。同13年新関西美術展に入選し、同17年同展で新関西美術賞受賞。同年関西女子美術学校1年を修了する。同18年より小林武夫に師事し、同年全関西展に初入選する。戦後は同21年第1回展より行動美術家協会展に出品し、同28年第8回同展に「鮭とかれい」「机上静物」「枯蓮とかれい」を出品して行動美術賞を受け、同32年同会会友、同51年同会会員に推された。大阪を中心に個展での作品発表も行なった。初期から一貫して静物画を描き、対象の形体、色彩を写実的に描くことにとらわれず、自由で素朴な作風を示した。

益田義信

没年月日:1990/01/10

国際美術家連盟名誉会長で美術の国際交流に尽くした洋画家益田義信は、1月10日午前6時55分、老衰のため横浜市中区の警友病院で死去した。享年84。三井物産創業者益田孝を祖父に、劇作家益田太郎冠者を父に持つ益田は、明治38(1905)年3月1日、東京・品川御殿山に生まれた。慶応義塾幼稚舎より普通部に進み、同部三年在学中に油絵を始める。昭和元(1926)年、中川一政ら春陽会の若手画家たちと慶応の学生グループの合同展である桃源展を設立し日本橋丸善などで展覧会を開く。昭和2(1927)年第6回国画創作協会展に「アネモネ」で入選し、梅原龍三郎の知過を得、以後梅原を師に仰ぐ。翌3年慶応義塾大学経済学部を卒業し、美術研究のための渡仏、パリでは宮田重雄、伊東廉、林重義、佐分真と交友し、3年間滞在の後、同6年帰国する。同7年第7回国画会展に初出品し、「ボーリュー」「コルテの家」「南佛風景」等滞欧作11点を展観して同会会友に推される。同18年国画会会員となり、戦後も同展に出品した。同24年、伊原宇三郎らと日本美術家連盟を組織してその委員となり、芸術家の社会的地位の改善に尽力する。同27年日本が初めてヴェネツィア・ビエンナーレに参加するに際しその副委員となり、その折の体験から同展日本館の設立を企画して同31年これを完成する。同30年、アメリカ国務省の招待を受け3ケ月間アメリカの美術館、美術学校を視察。この間、カーネギー国際展日本参加を交渉し、また、後にはヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ等の国際展に委員として参加。同41年にはユネスコの国際造型芸術連盟(IAA)会長となり、同44年退任と同時に同会名誉会長となった。ヨーロッパ風景、花、庭などを好んで描き、版画の制作も行ない、昭和30年には国画会版画部会員ともなったが、同53年12月、同会を退いた。戦後間もない昭和24年よりアマチュア画家による『チャーチル会』の指南役をつとめたことでも知られ、訳書にオリビエ著『ピカソと其の友達』などがある。

三輪勇之助

没年月日:1990/01/01

読み:みわゆうのすけ  二紀会理事の洋画家三輪勇之助は1月1日午後1時20分、心不全のため東京都江東区の昭和大学付属豊洲病院で死去した。享年69。建築物と人物像を重ね合わせて描く二重映像で知られた三輪は、大正9(1910)年2月26日、三重県四日市市に、四日市油脂会社社長三輪蔵之助の次男として生まれた。旧第六小学校を経て、昭和12(1937)年、三重県立富田中学校を卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)西洋画科に学び、同18年同校を卒業する。同20年、舞台装飾美術家山崎醇之輔に出会い、その舞台装飾を手伝うようになる。また、山崎の建築図面から透視図(パース)を描くことを学び、泥絵具など舞台美術の画材に触れる。同33年第12回二紀展に「パストラル」「昆虫採集にいったとき」を出品して褒賞受賞、翌34年第13回同展に「聞く」を出品して二紀会佳作賞を受け、同36年同会同人に推挙される。同37年第16回二紀展に「青い森林の樹」を出品して同人努力賞受賞、同42年第10回安井賞候補新人展に「明治の館」「東京日本橋」を出品し、同年第11回同展に出品した「司令部跡の階段」は安井賞候補作となった。同43年、二紀会会員に推され、同44年第23回同展では「濠」で文部大臣奨励賞受賞。同60年第39回二紀会に「螺旋階段」「まわりかいだん」を出品して菊華賞を受け、同62年同会理事となった。初期には動植物をモチーフとするシュール・レアリスム的作風を示し、その幻想性は昭和40年代に入って透視図法で描かれた建築物同士、あるいは人物、仏像などを重ねて描き、それによって複雑な時空間を画中に出現させる作風へ展開した。著書に『西の京を描く』(美術出版社、新技法シリーズ、昭和52年)があり、没後の平成3年3月、世田谷区立世田谷美術館・区民ギャラリーで「三輪勇之助遺作展」が、同年6月、郷里の三重県立美術館で「三輪勇之助展」が開かれた。年譜、参考文献は同展図録に詳しい。 二紀展出品歴第12回(昭和33年)「パストラル」「昆虫採集にいったとき」、13回「聞く」、14回(同35年)「しぶき」、15回「断相」、16回「青い森林の樹」、17回「もりの樹」、18回「森と樹」、19回(同40年)「明治の館」、20回「東京日本橋」、21回「司令部の階段」、22回「館の揺椅子」、23回「濠」、24回(同45年)「清水門」、25回「老師の夢」、26回「燭」、27回「の老師」、28回「文殊さんのお堂」「西の京」、29回(同50年)「燭光」「香煙」、30回「古刹新緑」「古塔新堂」、31回「TOKYO」、32回「誕生」、33回「蔦の館」、34回(同55年)「老樹の館」、35回「ステージ」、36回「東京水道発祥の地」、37回「西新宿の道路」「高架高層」、38回「新宿の台湾館」「新宿ナイアガラの滝」、39回(同60年)「螺旋階段」「まわりかいだん」、40回「城下町の学舎」「城郭」、41回「らんとモデル(瞑)」、42回「追想-シンガポールの歴史館にて」「白い館」、43回「明治の小学校-作法室」「明治の小学校-沓脱石」

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