本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





荒川豊蔵

没年月日:1985/08/11

志野焼の人間国宝で文化勲章受章者荒川豊蔵は、8月11日午後2時10分、急性肺炎のため岐阜県多治見市の安藤病院で死去した。享年91。明治27(1894)年3月17日岐阜県土岐郡に生まれる。小学校卒業後、多治見や神戸の貿易商店に勤めるが、向学の志強く、42年京都市丸太町三本木の塾に入り、諸学を学ぶ。大正2年神戸で陶磁器の販売や行商に従事、4年名古屋の愛岐商会に入社する。この頃上絵付の仕事から宮永東山を知り、12年には京都伏見の宮永東山窯の工場長となる。この頃より陶芸の道に入り、13年東山窯に寄宿した北大路魯山人を知る。また毎月開催された古陶器研究会に出席し、15年叔父清右衛門の案内で岐阜県可児郡久々利村大平の古窯跡を発掘、帰途青織部の陶片を拾う。昭和2年魯山人が北鎌倉に築窯していた星ケ岡窯に招かれ、同地に移住。翌3年には魯山人らと朝鮮半島南部の古窯跡を調査する。5年志野・織部が瀬戸で焼かれたという従来の定説に疑問を抱き、魯山人と美濃の大平、大萱の古窯跡を調査、大萱の牟田洞窯跡で志野筍絵茶碗と同じ模様の陶片や鼠志野の鉢の破片を発掘する。続いて大萱、大平、久尻一帯の古窯跡を発掘調査し、志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの桃山茶陶が美濃で焼かれたことを確信。陶芸史上でも重要な発見となるとともに、以後古陶の復元に情然を傾ける。昭和7年大萱の牟田洞窯近くに陶房を作り始め、翌年魯山人の星ケ岡窯を正式にやめて大萱に桃山時代そのままの古式の窯を築く。16年大阪梅田の阪急百貨店で初の個展「荒川豊蔵作陶並びに絵画展覧会」を開催。戦後21年多治見市虎溪山裏に薪焚き連房式登り窯の水月窯を開き、また同年設立された日本農村工芸振興会の陶磁器部門指導員、翌22年同部門を受けて新発足した日本陶磁振興会の指導員となる。また文化財保護委員会が27年志野工芸技術、28年瀬戸黒をそれぞれ無形文化財に認定、30年新たに設定された重要無形文化財技術指定制度の第一次指定により、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒の技術保持者として人間国宝に指定される。一方、29年第1回日本伝統工芸展に「紅志野茶碗」「瀬戸黒茶碗」「志野菊香合」を出品以後同展に出品を続け、30年日本工芸会の結成に参加、加藤唐九郎と共に同会の長老として活躍する。36年皇居吹上御苑用に「志野タイル」2000余板を焼き、38年チェコ、プラハで開催された第3回国際現代陶芸展で「志野花入」が金賞を受賞。個展も数多く、39年「大萱築窯三十年記念展」(東京日本橋三越)、55年美濃大萱古窯発見50年記念「緑に随う・荒川豊蔵展」(名古屋丸栄)等を開催している。47年頃より「斗出庵」の号を多く用いた。温厚実直な人柄そのままに、重厚で温雅な作風をよくし、淡雪のような白さは、「志野の荒川」の名をとった。代表作に、志野茶碗「随緑」(36年)、同「耶登能烏梅」(51年)、瀬戸黒金彩木葉文茶碗(40年)などがある。46年文化勲章を受章し、同年文化功労者、47年多治見市名誉市民となった。また著書に『日本のやきもの・美濃』(小川富士夫と共著。38年)、長年の研究をまとめた『志野』(42年)、『緑に随う』(52年)、作品集に『荒川豊蔵自選作品集』(51年)などがある。59年自宅近くに荒川豊蔵資料館を開き、古陶器片や自作品2300点を収蔵、一般公開した。

吉仲太造

没年月日:1985/07/26

前衛芸術家として常に実験的制作を行なってきた吉仲太造は、7月26日午前3時40分、食道静脈りゅう破裂と肝硬変のため東京目黒区の東邦大学医学部付属大橋病院で死去した。享年56。昭和3(1928)年11月8日京都市に生まれ、京都の行動美術研究所に学ぶ。同21年第1回行動展に出品。同26年同会会友に推され、同28年第8回展に「作品A」「作品B」「作品C」を出品して行動美術賞受賞。同29年瀧口修三の選考による初個展を開催。翌年岡本太郎の招きにより行動美術協会を退会して二科会会友となり九室会に参加する。同31年神奈川県立近代美術館「今日の新人」展に「白い物体」「いきものK」を出品。32年世界今日の美術展に「作品6」を出品する。同36年岡本太郎とともに二科会を退き、以後団体に属さずに独自の活動を展開。同36年国立近代美術館の「現代美術の実験」展、40年の「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)などに招待出品。同41年朝日秀作展に出品。同43年第8回現代日本美術展に「真昼のエロス」「昼間の改惨」を出品。同49年第11回日本国際美術展に「空白」を出品する。同50年横浜市民ギャラリーに於て「吉仲太造55-75」展を開催。晩年はモノトーンの表現の可能性をさぐり同56年個展「非色の逆説」を開催した。代表作に「生きものK」「生きものH」「地球人」「窮鼠」「カルナー」「死の売り声」「或る時空間」などがある。

景山春樹

没年月日:1985/07/22

文学博士、帝塚山大学教授、木下美術館長、元京都国立博物館学芸課長、景山春樹は、7月22日午後4時12分、胸せんしゅのため大津市の大津市民病院で死去した。享年69。大正5年(1916)1月9日、滋賀県大津市に生まれる(景山家は比叡山の公人の家すじ)。昭和14年3月、国学院大学文学部史学科を卒業後、同年5月より京都市教育局学務課に勤務。昭和16年1月に、恩賜京都博物館鑑査員となり、昭和19年より同21年までの応召を経て、昭和27年4月、文部技官に任ぜられ京都国立博物館考古室長兼普及室長、昭和45年、同館学芸課長などを歴任し、昭和51年3月、同館退官。この間に、昭和39年7月に『神道美術の研究』に対して国学院大学より文学博士の学位を授与された。昭和51年4月からは帝塚山大学教授となり、昭和52年1月には木下美術館館長を兼任した。この他、昭和32年4月より昭和51年3月まで滋賀県文化財専門委員、昭和38年4月より大津市文化財専門委員として郷土の文化財行政にも力を尽す。昭和60年7月22日、正五位に叙せられ、勲四等瑞宝章が贈られた。その研究は、それまで未開拓であった神道美術史の分野で著しい業績を残し、第一人者として活躍した他、仏教文化史の方面にも及んでいる。主な著書に『神道美術の研究』(神道史学会1962)『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部1965)『神道の美術』(塙叢書1965)『比叡山』(角川選書1966)『神道美術』(至文堂「日本の美術」1965)『近江路(角川写真文庫)』(角川書店1967)『比叡山その宗教と歴史』(NHKブックス1968)『神体山』(学生社1971)『近江文化財散歩』(学生社1972)『神道美術』(雄山閣1973)『考古学とその周辺』(雄山閣1974)『比叡山寺その構成と諸問題』(同朋舎1978)『神像神々の心と形』(法政大学出版局1978)『みやまんだら(近畿日本ブックス3)』(綜芸社1978)『比叡山と高野山』(教育社1980)『続みやまんだら(近畿日本ブックス6)』(綜芸社1980)『神道大系-日吉-』(神道大系編纂会1983)『舎利信仰-その研究と史料-』(東京美術1986)などがある。

伊藤幾久造

没年月日:1985/07/14

「快傑黒頭巾」「まぼろし城」などの挿絵で知られる挿絵画家伊藤幾久造は、7月14日午前10時19分、心不全のため東京都文京区の東京健生病院で死去した。享年84。明治34(1901)年7月13日東京日本橋区に生まれ12歳の頃松本楓湖門下で四条派の画家中山秋湖に入門するが飽き足らず、16、7歳で伊東深水に学び始める。大正9年、深水の紹介で博文館発行の『講談雑誌』に大仏次郎作「鞍馬天狗-御用盗異聞」の挿絵を描いてデビュー。同11年頃より講談社の『少年倶楽部』に執筆を始め、時代物を中心に活躍。満州事変以降は戦争画にも筆を奮い、昭和11(1936)年『講談社の絵本』第1号に池田宣政作「乃木大将」の挿絵を描いて『講談社の絵本』の型式を定着させた。同じ頃『少年倶楽部』に高垣眸作「快傑黒頭巾」「まぼろし城」の挿絵を描き原作の怪奇的イメージを巧みに絵画化して人気を博した。第二次世界大戦中は歴史的人物、特に戦国武将の伝記の挿絵を担当。戦後も主に少年向け雑誌に時代物やSFの挿絵を描いたが、同35年頃からの漫画ブーム以後は一線を退いた。代表作として、他に白井喬二作「神変呉越草紙」、海野十三作「火星兵団」「地球要塞」などがある。

山田栄二

没年月日:1985/07/05

独立美術協会会員の洋画家山田栄二は、7月5日午後3時30分、甲状せんがんのため、福岡市の九州がんセンターで死去した。享年73。明治45(1912)年6月4日福岡県福岡市に生まれ、昭和5(1930)年県立修猷館を卒業。同8年二科展に初入選。翌9年第4回独立展に「静物」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同13年第8回展に「貝殻」「恐怖」を出品して独立賞受賞。同18年同会会友、同22年同会員に推される。同28年渡欧しパリに学んで32年に帰国。同年の独立展に滞欧作を特別陳列する。翌年毎日新人展、朝日秀作展に出品。同48年再渡欧。フランスで個展をたびたび開く一方、49、51、52年に個展などのため一時帰国。同57年滞欧15年を記念して福岡で大個展を開く。絵画は純粋になる程に抽象性を増すが、人間の感性は自然から離れることはできないとし、具体的モチーフを用いながら実物写生から離れた色彩、構図を持つ詩的な作風を築いた。クレー、ミロ、シャガール等の影響が認められる。没後の昭和61年遺作画集が刊行され、福岡市美術館で遺作展が開かれた。独立展出品略歴-5回(昭和10年)「窓際」「魚」、15回(同22年)「魚のある静物」「憩ひ」、20回(同27年)「月夜」「桐の実」「魚」、25回(同32年)「秋の巴里郊外」「静物」「旅愁」「花と廃屋」「黒の中の花」「シューブルーズの冬枯れ」「窓の花」「花と夜」「秋愁」「黄昏のカーニュ、シュールメール」「南欧の夢」「宵」「紫の花」「モンテカルロ」「赤の花」「群花」、30回(同37年)「作品A」「作品B」、40回(同42年)出品せず、45回(同52年)「花と教会」「菊一輪と果実」、50回(同57年)「花祭りの夜」「赤い空」

宮嶋美明

没年月日:1985/06/13

二紀会委員の洋画家宮嶋美明は6月13日午後8時41分、急性心不全のため千葉県船橋市の済生会船橋済生病院で死去した。享年72。大正元(1912)年9月5日新潟県北蒲原郡に生まれる。本名正一。昭和17年第12回独立美術協会展に「赤とんぼ」で初入選し以後同展に8回出品するが、同28年より二紀会に移り「夕暮の街」「工場」を出品、同32年第11回同展に「消えてゆく川」「街の母子」を出品して同人賞、翌年第12回展に「たそがれの家路」「死刑台に死す」「街に狂える人」「夜なかの客」「娘の父は死す」を出品して同人努力賞、翌34年同第13回展に「死」「癌」「喰」「魚」「涙」「夢」を出品して同人優賞、同45年第24回展に「心臓移植」「研究と失敗」を出品して黒田賞を受賞する。人体をモチーフとして現代社会の悲哀を描き問題を提起する。暖かい灰色を基調とする柔らかい色彩と静かな構図の中に強靭な主張を込め、代表作に「生命」のシリーズがある。二紀展出品略歴 10回(昭和31年)「都会の裏街」、15回(同36年)「歌」、20回(同41年)「人工授精」、25回(同46年)「やすらかに」「無情」、30回(同51年)「別れ」「離婚」、35回(同56年)「蝕」「飢」

熊谷好博子

没年月日:1985/05/24

染色工芸家、日本工芸会正会員の熊谷好博子は、5月24日午后5時15分、肝不全のため、東京豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年67。大正6(1917)年11月11日生まれ。若い頃は日本画を川端龍子について学び、好博子は龍子から受けた雅号。後、江戸友禅に日本画の素養を向けて、独自の力量・作風を成した。昭和52年、大腸がんの手術をしたのを契機に、作品をパネルに仕立てることを行い、昭和56年「友禅による障壁画展」を開いた。昭和56年に紺綬褒章、昭和57年に紫綬褒章、昭和60年に勲四等瑞宝章を受章した。作品のうち、美術館蔵品となっているもの。「雪野」、「韻」 東京国立近代美術館「山」、「砂丘」 京都国立近代美術館「神田祭図」、「隅立角通(本藍紋文)」、「江戸解花筏文」 東京都「山湖」、「変わり亀甲文」 ボストン美術館「魚鱗文」、「市松しぼり文」 ハーバード大学付属フォッグ美術館

押田翠雨

没年月日:1985/05/21

日本画院同人の日本画家押田翠雨は、5月21日午後5時25分、肺不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年92。明治25(1892)年9月29日東京小石川に哲学者井上哲次郎の次女として生まれ、本名スガ子。同44年東京府立第二高等女学校(現都立竹早高校)を卒業し、永地秀太に師事、洋画を学ぶ。大正13年二科会信濃橋(大阪)研究所に入り、同15年赤松麟作に師事。昭和3年には岡田三郎助の研究所に入り、また7年小林萬吾に師事する。戦後日本画に転じ、22年水上泰生に学び、26年より野田九浦に師事、日本画院に入会する。以後同会に出品し40年第25回日本画院展で記念賞を受賞した。56年11月新宿三越で「押田翠雨日本画展」を開催、6曲1隻の屏風「孝女白菊」(東京都近代文学博物館)を出品する。これは絵の上に「孝女白菊詩」全文を書いたものであったが、明治21年歌人落合直文が発表した長編の新体詩がよく知られる同詩の原作が、父井上哲次郎であることを示し、話題となった。

田中修

没年月日:1985/05/07

フランス、ドルトーニュに住んで制作を続けていた新制作協会会員の洋画家田中修は、5月7日午後1時、脳こうそくのため静岡県下田市で死去した。享年82。明治36(1903)年3月3日愛媛県温泉郡に生まれる。本名修。昭和3(1928)年東京高等師範学校を卒業、翌4年第16回二科展に「廃園」で初入選。同7年より16年まで同展に入選を続ける。同17年より新制作協会へ出品。同19年第9回同展で新作家賞を受賞、同26年第15回展では「牛」「林」「馬」を出品して岡田賞を受け翌年同会会員となる。同29年11月渡仏。同32年7月帰国し翌年白木屋で個展を開くが同年9月再渡仏。以来フランスに住んで風景画を描き続けた。広やかな田園に建つ白壁の家などを柔らかく滋味ある色彩で描き、アンチームな田園詩を謳った。同59年夏に発病し、帰国して療養していた。 新制作展出品略歴-10回(昭和21年)「兎」「庭」「名園」「山」「夕」、15回(同26年)「牛」「林」「馬」、20回(同31年)「鍵居」「セゴヴィア」、25回(同36年)「作品」、30回(同41年)「落書の壁」「きづた」、35、40、45回出品せず

昆野恒

没年月日:1985/05/03

日本の抽象彫刻の先駆をなし、独自の制作を続けた彫刻家昆野恒は5月3日午後1時33分、肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年69。大正4(1915)年9月23日仙台市に生まれ、宮城県立仙台第二中学校を経て福岡高等学校文科乙類に入学。同校を中退して東京美術学校彫刻科塑造部を昭和14(1939)年に卒業する。朝倉文夫、北村西望らに師事。同23年自由美術家協会会員となる。同28年東京国立近代美術館で開かれた「抽象と幻想」展に「踊り」を出品して注目され、同30年同館主催の「19人の作家」展、同32年の「現代美術10年の傑作」展、同34年の「戦後の秀作」展に招待出品。同34年日本美術家連盟会員となる。同年秋自由美術家協会を退会。同43年渡欧しイタリア、スペイン、フランスを巡遊する。同30年以降、現代日本美術展、日本国際美術展、集団現代彫刻展に出品し、一時期現代日本彫刻展にも出品。初期の「踊り」のシリーズは人体の動きを鋭く観察し動勢を示す造型的要素を抽出する研究から生まれ、同29年作「生長の形態」などの代表作へつながる。同30年代中期から紙や木など素材の多様化が試みられ、40年代には動きのある柔軟で有機的な形態が多く見られる。50年代に入ると作風は柔らかみを残しながら幾何学的に整えられた形によって構成されるようになり、この時期の代表作に「さなぎのような形」、絶作となった仙台駅前広場のモニュメント「青葉の風」がある。日本美術家連盟においては、昭和47年より52年まで常任理事、同55年理事、57年委員をつとめた。自由美術展出品歴-第13回(昭和24年)「首」、14回「午後」、15回(同26年)「海」、16回「芽」「立像」、17回「踊り-遊び」「海」「海-小舟」「雨-マリオネット」、18回「生長の形態1」「生長の形態2」「横たわる形態」、19回「試作」、20回(同31年)「いるか」「風に向う」、21回「おどりNo.14」、22回「まつり」「ものがたり」、23回「白いトルソ」

菊池一雄

没年月日:1985/04/30

彫刻家で東京芸術大学名誉教授、新制作協会会員の菊池一雄は、4月30日心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年76。戦後の具象彫刻を代表する作家の一人であり、その流麗なモデリングによる作風で知られた菊池は、明治41(1908)年5月3日京都市上京区に日本画家菊池契月の長男として生まれた。第一高等学校文科在学中の昭和3年、藤川勇造について彫刻を学び、小林万吾の同舟社に通い石膏デッサンを学ぶ。翌年には創設された二科技塾で塑像をはじめた。同5年17回二科展に「トルソ」「カリスト君」が初入選。同7年東京大学文学部美学美術史科を卒業する。二科展への出品を続け、同9年21回二科展に「A子像」で特待を受賞するが、翌10年故藤川勇造門下で結成された新彫塑協会に早川巍一郎らと参加し、翌年の1回展に「ミューズの女」などを発表する。同11年渡欧、パリでシャルル・デスピオ、ロベール・ブレリックに師事、翌年のサロン・ドートンヌ展に「花束」が入選する。同14年帰国、翌15年5回新制作派協会展に滞欧作「ギリシャの男」「裸婦像」など4点を招待出品し、同会会員となる。同20年京都に転じ、同22年京都市立美術専門学校彫刻科教授に就任する。同23年12回新制作派展に「青年像」を発表、翌24年同作で第1回毎日美術賞を受賞した。また、同24年刊行した著書『ロダン』で、翌25年度毎日出版文化賞を受ける。同27年から51年まで東京芸術大学教授をつとめ、退官後同名誉教授となる。この間、同30年に大作「自由の群像」(東京・千鳥ケ渕公園)を完成したのをはじめ、「原爆の子の群像」(同33年、広島平和公園)「坂本龍馬・中岡慎太郎」(同37年、京都円山公園)、「海の男たち」(同45年、神奈川県三浦半島観音崎)、「平和の群像-あけぼの-」(同58年、高松市中央公園)などの記念像を次々に制作した。一方、日本国際美術展、現代日本美術展へも同44年まで制作発表、同42年には9回アントワープ国際彫刻ビエンナーレ展に出品した。同51年神奈川県立近代美術館と京都市美術館で退官記念回顧展が開催される。同57年10回長野市野外彫刻賞を「転生」で受賞する。同58年には、創設された本郷新賞の運営委員、選考委員をつとめた。作品は他に「坐」(同39年)「アトリエの女王様」(同50年)などがあり、作品集に『菊池一雄』(同51年)がある。

田中寿太郎

没年月日:1985/04/18

春陽会会員の洋画家田中寿太郎は4月18日午後5時20分、肺気しゅのため相模原市の田名病院で死去した。享年80。明治37(1904)年8月30日岡山市に生まれる。葵橋洋画研究所、川端画学校で洋画を学ぶ。林重義に師事。昭和5(1930)年第8回春陽展に初入選し同8年第11回展より毎回同展に出品。同14年第17回展に「ベレー帽の男」「挙闘」「夜の肉店」「サーカス」を出品して春陽会賞受賞。翌年同会友に推挙され、同22年同会会員となる。同39年7月より11月まで欧州を巡遊。初期には静物、風景と広く画題を求めたが、馬を描くことを好み馬と人物を組み合わせた作品は初期から晩年まで一貫して描かれた。主要なモチーフのみを描き、周囲の状況や背景を捨象して簡潔ななかに詩情漂う画風を示した。 春陽展出品略歴-11回(昭和8年)「花」「崖と入江」「石切山に通ふ道」、15回(同12年)「夏の花壇」「温室」、20回(同17年)「腕を組む男」「花」「婦人像」、30回(同28年)「漁船」「漁船」「静物」、35回(同33年)「馬と人」「馬上」「白い馬」、40回(同38年)「馬上」「採石」「馬と少年」、45回(同43年)「サーカス」、50回(同48年)「サーカス」、55回(同53年)「工場風景」、60回(同58年)「農夫と家族」、63回(同61年)遺作「北大植物園」「サーカスの少女」「秋庭」「パンジー」「馬上」

岡崎譲治

没年月日:1985/03/31

大阪市立美術館長、文化財保護審議委員会専門委員岡崎譲治は、3月31日午後8時29分、食道がんのため大阪市立大学付属病院で死去。享年60。大正14年3月24日、福岡県八幡市に生まれる。九州専門学校法政科をへて昭和22年、九州帝国大学文学部に入学、故矢崎義盛・谷口鉄雄(現石橋美術館長)のもとで日本美術史を専攻、昭和25年3月、卒業論文に「雪舟研究」を提出し九州大学文学部を卒業、同年4月より九州大学大学院特別研究生となり、あわせて昭和28年4月より29年3月まで福岡女子大学講師を勤めた。昭和29年8月、奈良国立博物館学芸課に勤務し、以後昭和36年4月より同工芸室長、昭和47年4月より同学芸課長を歴任し昭和52年3月退官。同年4月より大阪市立美術館長に転じ、8年間館長の要職にあった。 奈良国立博物館に勤務後は、仏教考古学・仏教金工史の権威であった故石田茂作・蔵田蔵両館長のもとで仏教工芸、とくに金工品を専門とし、奈良国立博物館における「天平地宝展」(昭和35年4月-5月)「神仏融合美術展」(昭和37年4月-5月)「密教法具展」(昭和39年4月-5月)「大陸伝来仏教美術展」(昭和41年4月-5月)などの特別展開催に参画した。とくに中心となって企画運営にあたった「密教法具展」は、この分野の調査研究を集大成したもので、昭和45年、623点の作品に詳細な解説をのせて上梓した『密教法具』は、学会の大きな評価をえている。 大阪市立美術館にあっては、館長として同館の設備刷新・コレクションの充実をはかり、安宅・山口・カザールなどの著名なコレクションを散逸の危機からすくい、大阪市の公共財産として活用するために尽力した。 昭和57年には、文化財保護審議委員会第一専門調査会専門委員に任命され、豊かな知見をもとに文化財行政の指導助言にあたる一方、長らく『大和文化研究』の編集を担当し、さらに美術史学会、密教図像学会、『仏教芸術』の委員をつとめ、学会の発展に寄与した。 論文には、はやくに「筑紫観世音寺の大黒天」があり、奈良の主要寺院を中心とする仏教工芸に関する調査研究の成果を、昭和33年の「宋人大工陳和卿伝」をはじめとする専門各誌の諸論文、『奈良六大寺大観』『大和古寺大観』などに発表した。代表する論文に「種字鈴考-金剛界鈴と胎蔵界鈴-」「仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連-」などがある。現存作品の実証にもとづく厳格な型式の分析・分類にくわえ、密教図像学の方法を応用して詳細な図像の異同をはかり、精密な作品の編年をあとづける一連の研究は、仏教工芸史の新しい展開をみちびいた。 また、監修・執筆にあたった『仏具大事典』は、研究者必須の手引書となっている。ほかに仏教美術全般についての深い知見をもとにした『浄土教画』がある。 主要著作目録筑紫観世音寺の大黒天 哲学年報 14 昭和28年2月宋人大工陳和卿伝 美術史 30 昭和33年9月長谷寺の金工品 大和文化研究 5-2 昭和35年2月資料・東大寺工芸品目録 大和文化研究 5-7 昭和35年7月先生の青丘遺文に出る高麗佐波理鋺 大和文化研究 6-3 昭和36年3月正倉院のいわゆる(鉗)について 奈良時代の箸試論 大和文化研究 7-10 昭和37年10月東大寺の工芸 近畿日本叢書『東大寺』 近畿日本鉄道 昭和38年11月熱田神宮本地懸仏など(大興寺蔵) 大和文化研究 9-1 昭和39年1月密教法具 図版解説 『密教法具』 講談社 昭和40年9月仏像鈴所顕の五大明王像-円珍請来図像との関連- 美術史 61 昭和41年6月密教法具と舎利納入 大和文化研究 11-6 昭和41年6月西大寺の金工品 仏教芸術 62 昭和41年10月鹿島市誕生院の四天王鈴 大和文化研究 12-8 昭和42年8月舎利容器・密教法具・金剛盤 『奈良六大寺大観』 第12巻 岩波書店 昭和44年2月種子鈴考 金剛界鈴と胎蔵界鈴 仏教芸術 71 昭和44年7月華原馨・梵鐘・泗浜浮馨・舎利厨子 『奈良六大寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和44年7月浄土教画 『日本の美術』 43 至文堂 昭和44年12月黒漆螺鈿卓・五獅子如意・玳瑁如意・鉦鼓(長承三年・建久九年)・仏餉鉢・鏡『奈良六大寺大観』第9巻 岩波書店 昭和45年4月表紙解説 舎利容器 パリ・ギメ美術館蔵 仏教芸術 75 昭和45年5月銭弘俶八万四千塔考 仏教芸術 76 昭和45年7月神門神社鏡とその同文様鏡について 大和文化研究 5-9 昭和45年9月水瓶(胡面水瓶)・黒漆布薩手洗・黒漆布薩花器・水瓶・密教法具・花瓶・六器・火舎・香炉・柄香炉・鐃・黒漆漆箱 『奈良六大寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和46年9月九州の懸仏-北部九州の群集遺品を中心に- MUSEUM 269 昭和48年4月金銅宝塔(壇塔)・鉄宝塔・五瓶舎利・透彫舎利塔・舎利塔(伝亀山天皇勅封)・舎利塔(伝叡尊感得)・密教法具・梵鐘(本堂)・打鳴し・水瓶・餝剣・犀角刀子 『奈良六大寺大観』 第14巻 岩波書店 昭和48年5月対馬・壱岐の金工品 仏教芸術 95 昭和49年3月重源関係の工芸品 仏教芸術 105 昭和51年1月両部大壇具・大神宮御正体 『大和古寺大観』 第6巻 岩波書店 昭和51年9月仏具の種類と変遷 荘厳具、密教法具 新版『仏教考古学講座』 第5巻 雄山閣 昭和51年12月梵鐘・手錫杖・孔雀鳳凰文馨礼盤 『大和古寺大観』 第4巻 岩波書店 昭和52年2月厨子入舎利塔 『大和古寺大観』 第3巻 岩波書店 昭和52年6月竜鬢褥・錫杖頭・鐃・宝塔文馨・胡蝶散文鏡・宝印・阿弥陀三尊来迎図 『大和古寺大観』 第1巻 岩波書店 昭和52年10月興福寺の国宝華原磐 MUSEUM 323 昭和53年2月舎利塔、鏡鑑・鏡像・懸仏、供養具、梵音貝、密教法具、諸具 『奈良市史』 工芸編 昭和53年3月舎利塔、舎利容器、仏具 文化財講座 『日本の美術』 第9巻 第一法規出版 昭和53年3月五鈷鈴・五鈷杵・桶形香炉・釣灯篭・鰐口・舎利塔・舎利厨子・ 『大和古寺大観』 第5巻 岩波書店 昭和53年3月河内飛鳥の仏教工芸 仏教芸術 119 昭和53年8月梵鐘・鰐口 『大和古寺大観』 第7巻 岩波書店 昭和53年8月対馬の金工 『対馬の美術』西日本文化協会 昭和53年11月三尊仏(鎚鍱)(奥院)・梵鐘・梵鐘(護念院) 『大和古寺大観』 第2巻 岩波書店 昭和53年12月二月堂修二会用具 『東大寺二月堂修二会の研究』 中央公論美術出版 昭和54年1月修験道山伏笈概説 MUSEUM  347 昭和55年2月天平時代の美術-東大寺・正倉院の工芸を中心に- 『日本古寺美術全集』 第4巻 集英社 昭和55年11月『仏具大事典』 鎌倉新書 昭和57年9月資料紹介 高貴寺の金銅三昧耶五鈷鈴 美術史 114 昭和58年5月仏像を表現する金剛鈴の展開 MUSEUM 392 昭和58年11月工芸 図版解説 『春日大社』 大阪書籍 昭和59年5月東大寺鎌倉期の工芸 南都仏教 39 昭和59年11月密教法具 『密教美術大観』 第4巻 朝日新聞社 昭和59年11月

杉本哲郎

没年月日:1985/03/20

読み:すぎもとてつろう  日本画家杉本哲郎は、3月20日午前8時14分、急性呼吸不全のため京都市山科区の音羽病院で死去した。享年85。明治32(1899)年5月25日滋賀県大津市に生まれ、初め隣家の山田翠谷に絵の手ほどきを受ける。大正2年山元春挙の画塾早苗会に入塾、また同年京都市立美術工芸学校3年から京都市立絵画専門学校に入学し、同9年卒業する。11年第4回帝展に「近江富士」が初入選。翌年研究会白光社を結成し、これを機に早苗会を離れる。東洋古美術の研究を志し、同12年朝鮮、満州、中国を旅行。昭和10年には仏教美術の研究に着手し、高楠順次郎、松本文三郎に学ぶ。12年外務省文化事業部嘱託としてインドのアジャンタ洞窟壁画の模写に従事し、翌年セイロンのシーギリヤ岩崖壁画を模写、15年には満州史跡調査員としてモンゴルのワーリン・マンハ慶陵壁画模写に従事する。18年東本願寺南方仏教美術調査隊としてインド、クメール、タイ、スマトラ、ジャワなどの仏教美術を調査、26年インド・シャンチニケータン大学客員教授として教鞭をとる。44年東本願寺津村別院壁画「無明と寂光」を完成後、同年福岡市メシア教本部から万教帰一の壁画「世界十大宗教」壁画の制作を依頼される。仏教より制作に着手し、46年ネパールからイラン、トルコ、イスラエルなど各地を巡り、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを研究取材。12年をかけて制作を続け、53年十大宗教壁画の中心となる「神々の座-ヒマラヤ」を完成。すべてのシリーズを終えた。この間51年ブラジルより国際文化勲章(メーダラ・デ・メリート・インチグラシオ・ナショナール」を受章、59年京都市文化功労者となった。著書に『杉本哲郎画集及び画論』(昭和9年 東京アトリエ社)『私の幼少年代』(38年京都白川書院)『こころの風景』(44年初音書房)などがある。

中間冊夫

没年月日:1985/03/04

独立美術協会会員、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家中間冊夫は3月4日脳卒中のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年10月10日鹿児島県川辺郡に生まれる。私立高輪中学校卒業。川端画学校に学び、二科展に出品、また昭和5年5回一九三〇年協会展に「母子」など5点を出品し、H氏奨励賞を受賞する。独立美術協会展には同6年の第1回展に「母子」「四人」を出品したのをはじめ毎年出品を続け、同11年6回独立展に「海の人物」「漁夫三人」「丘上」を出品し独立賞を受賞、独立美術協会会友となり、同15年の10回独立展には「蒙彊」3点を出品し会員に推挙された。戦後は独立展の他、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際形象展などに出品し、また、欅会、十果会を結成する。この間、同37年武蔵野美術大学教授に就任、同58年同学名誉教授の称号を受けた。重厚なマチエールによる半具象的な裸体表現に独自の作風を示し、戦後の具象絵画における一傾向を提示した。作品は他に「青い人」(同40年)などのほか、「うずくまる」の連作がある。

近藤悠三

没年月日:1985/02/25

染付技法の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、京都市立芸術大学名誉教授の陶芸家近藤悠三は、2月25日胃がんのため京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去した。享年83。染付技法を深めることに専心した現代陶芸界の巨匠近藤悠三は、明治35(1902)年2月8日京都市に近藤正平、千鶴の三男として生まれた。本名雄三。家は代々清水寺の寺侍で祖父正慎は勤皇の志士であった。大正3年京都市立陶磁試験場付属ロクロ科に入所し、同6年に卒業、同試験場助手となり、この時期技手をつとめていた河井寛次郎、浜田庄司を知り、浜田に窯業化学等について学んだ。同10年富本憲吉が帰国し大和安堵村に築窯したのを機に試験場を辞し富本の助手となって師事し五年間大和に過す。同13年京都へ戻り関西美術院洋画研究所へ通いデッサン、洋画を学ぶとともに、京都清水新道石段下の自宅で作陶を始める。昭和3年9回帝展に「呉須薊文かきとり花瓶」が初入選、以後15回展まで連続入選し、新文展へも出品、同14年3回文展に「柘榴土焼花瓶」で特選を受けた。同18年には奈良で赤膚焼を研究制作するが、戦後は呉須による染付に専念し、この伝統的技法の研究を深めながら、民芸調の素朴な力強さを加え、ロクロ成形とともに豪快雄暉で伸びやかな独自の染付けの世界を拓いていった。日展には第5、6回展に出品し6回展では審査員もつとめたが、その後は出品せず、同26年富本憲吉の主宰する新匠会会員となり、同30年社団法人日本工芸会発足に際しては富本憲吉、稲垣稔次郎とともに入会、以後日本伝統工芸展鑑査員をつとめ、常任理事、陶芸部部長、近畿支部幹事長を歴任する。また、同28年京都市立美術大学の陶磁器科助教授となり、後進を指導し、同33年教授に就任した。同44年には京都市立美術大学が京都市立芸術大学と拡大改称され、同年初代学長に就任し、同46年までつとめ退官、同学名誉教授の称号を受けた。この間、日本伝統工芸展に制作発表した他、同32年ミラノ・トリエンナーレ展に「染付花瓶」を出品し銀賞を受け、同38年にはアメリカで開催された現代世界陶芸展に日本から選抜された5名の中に入るなど世界的に名を知られるに至り、オークランド美術館、オックスフォード大学等に作品が収蔵された。一方、同38年には新匠会を退会する。同45年紫綬褒章を受章、同48年京都市文化功労者章受章、同52年には染付技法の重要無形文化財保持者に認定された。同57年、京都市名誉市民の称号を受ける。同58年、東京他で人間国宝「近藤悠三展」が開催され、同59年から60年にかけて京都、東京他で「現代陶芸の精華-近藤悠三とその一門展」が開催された。著書に『呉須三昧』(同47年)があるように、その制作態度は「呉須三昧、焼物三昧の人生」と評されていた。作品は他に、「岩染付壷」(同35年)、有田の岩尾対山窯で制作した直径126糎にも及ぶ「梅染付大皿」(同50年)などがある。また、没後遺作27点が京都市に寄贈された。

有元利夫

没年月日:1985/02/24

無所属の洋画家で安井賞受賞作家有元利夫は、2月24日肝がんのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年38。将来を大いに嘱望されながら38歳の若さで急逝した有元は、昭和21(1946)年9月23日疎開先の岡山県津山市に生まれたが、生後間もなく一家が東京都台東区の実家へ戻ったため、以後没年までのほとんどを谷中で生活した。小学校低学年の頃からゴッホに強い興味を抱いたとされ、都立駒込高等学校在学中同校で教えていた中林忠良の指導を受け東京芸術大学進学を決意する。同44年東京芸術大学美術学部デザイン科に入学、在学中の同46年ヨーロッパを旅行し、とくにイタリアでフレスコ画に接して深い感銘を受けた。この体験は帰国後、日本の古画、仏画へと目を向けさせることにもなり、また、フレスコ画と同質の質感をもとめて岩絵具を用い始めることにもなった。同48年芸大を卒業、卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」は芸大買上げとなった。同年電通に入社しデザインの仕事に携わる側ら制作し、翌年にはみゆき画廊で二人展、同50年には同画廊で個展を開催した。翌51年大阪フォルム画廊東京店で「有元利夫展-バロック音楽によせて-」を開催、同年電通を退社し東京芸術大学非常勤講師をつとめながら画業に専念するに至った。美術団体に所属せず、明日への具象展、具象現代展等に出品したが、同55年からは彌生画廊での個展で専ら制作発表した。この間、同53年21回安井賞展に「花降る日」「古典」を出品し、この年のみの特別賞となった安井賞選考委員会賞を受賞し注目され、同56年には安井賞展に出品した「室内楽」「厳格なカノン」の前者の作品で第24回安井賞を受賞した。同58年2回美術文化振興協会賞受賞。版画、彫刻、陶芸にも独自の才能を発揮し、同53年最初の銅版画集『7つの音楽』を刊行したのをはじめ、『一千一秒物語』(同59年)に至るまで幾つかの銅版画集を出した。また、バロック音楽を愛し、自らもリコーダを吹いた。岩絵具、箔、金泥などを用いた独特の油彩技法と、素朴な画情をたたえた作風は、洋画界に新領域を拓くものとして期待されていた。画文集に『有元利夫 女神たち』(同56年)、『もうひとつの空』(同61年)がある。

伊藤隆康

没年月日:1985/02/15

造形作家の伊藤隆康は2月15日肝がんのため東京都港区の慈恵医大附属病院で死去した。享年50。昭和9(1934)年8月31日兵庫県明石市に生まれ、同33年東京芸術大学美術学部油画科を卒業する。在学中は小磯良平教室に属し、同期に高松次郎、中西夏之、工藤哲巳らがいた。卒業後、東横百貨店宣伝部に就職、ディスプレイ・デザインの仕事に従事する側ら、制作活動を行う。当初から石膏などの素材を用いた造形作品をめざし、同34年村松画廊で初の個展を開催、同年の3回シェル美術賞展で第一席を受賞する。同36年2回パリ青年ビエンナーレ展に出品、同年のいとう画廊での個展ではじめて「無限空間」シリーズの作品を発表する。その後わが国におけるライト・アートの先駆をなした「負の球」シリーズ、さらに「同時に存在する」シリーズを展開、この間、個展の他、5回現代日本美術展(同37年)、15回読売アンデパンダン展(同38年)、現代美術の動向展(同39、42年)、現代美術の新世代展(同41)などに出品し、石膏や土管による無限空間作品やオブジェを発表する。また、同39年の秋山画廊での個展では、家庭用土管を一週間展示した。同44年、国際サイテック・アート展「エレクトロマジカ」を山口勝弘らと開催、翌45年には大阪万国博覧会テーマ館の企画、デザインに参加した。同47年スペースデザイン事務所サムシンクを設立、環境・空間デザインを本格的に手がける。同53年、商空間デザイン賞特別賞を受賞。同59年、作品集『無限空間-The Infinite』を刊行する。没後、同60年に渋谷区立松涛美術館で伊藤隆康展が開催された。

深井晋司

没年月日:1985/02/07

古代オリエント美術・考古学の権威で、文学博士、東京大学東洋文化研究所教授、元同研究所長の深井晋司は、2月7日午後5時21分、外出先の東京都中央区の路上で心筋こうそくのため倒れ、救急車で日本橋兜町の中島病院に運ばれたが死去した。享年60。大正13(1924)年9月19日、広島県安芸郡に生まれ、昭和17(1942)年3月に東京府立第一中学校を卒業した。19年9月、第一高等学校文科甲類を卒業し、同年10月、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学したが、20年3月から21年5月まで兵役のため休学し、24年3月に同学科を卒業。続いて同年4月から同大学大学院に進み、28年4月からは同大学文学部助手。さらに31年4月には東京大学東洋文化研究所助手となり、37年5月から同研究所講師、36年1月には同研究所助教授、45年4月からは同研究所教授となり、53年4月から2年間は同研究所の所長をつとめた。専門とした研究領域は、古代オリエントを中心とした西アジア美術史であったが、特に古代ペルシアのガラス器研究に関しては、正倉院伝来の瑠璃碗がペルシア起源をもちシルクロードを経由して伝来したことを証明するなど世界的権威であった。東洋文化研究所においても西アジア研究を担当し、31-32年、江上波夫教授(現在、名誉教授)を団長とする東京大学イラク・イラン遺跡調査団(第1期第1次)の美術史班として参加したのを初めとして、34年(第2次)、35年(第3次)、39年(第4次)、40-41年(第5次)のすべてに加わった。第1期調査に関する報告書の刊行を50年に完了した後、51年からは調査団を改組した東京大学イラン・イラク学術調査の中心となり、51年(第2期第1次)、53年(同第2次)に現地調査を実施した。現地における発掘調査等による最新の資料に基づき、古代ガラス器研究においては、日本における西アジア美術史研究を世界の水準に追いつかせた功績が高く評価されている。43年2月にはペルシア古美術研究の業績により、東京大学より文学博士の学位を得、54年7月には紺綬褒章を授与されている。なお、没後、3月1日付で正四位勲三等旭日中綬章に叙位叙勲された。著書としては、『ペルシアの芸術』(東京創元社、昭和31年)、『ペルシア古美術研究・ガラス器・金属器』(吉川弘文館、昭和43年)、『PERSIAN GLASS』(Weatherhill,New York,1977)、『ペルシア古美術研究』第2巻(吉川弘文館、昭和55年)、『CERAMICS OF ANCIENT PERSIA』(Weatherhill,New York,1981)、『ペルシアのガラス』オリエント選書12(東京新聞社、昭和58年)などがある。著作活動は概説、調査報告、共同執筆になる発掘報告・論文と多数あるが、ここでは定期刊行物所載の邦文の研究論文のみを発表順に記す。シャミー神殿出土の青銅貴人像とパルティアの美術(美術史12、昭和29年3月)ハトラ出土の遺物とパルティア美術(東洋文化研究所紀要16、33年12月)正倉院宝物白瑠璃碗考(国華812、34年11月)沖ノ島出土瑠璃碗断片考(東洋文化研究所紀要27、37年3月)ギラーン州出土銀製八曲長坏に関する一考察(国華842、37年5月)ギラーン州出土切子装飾瑠璃壷に関する試論(東洋文化研究所紀要29、38年1月)アナーヒター女神装飾八曲長坏に関する一考察(国華859、38年10月)ハッサニ・マハレ出土の突起装飾瑠璃碗に関する一考察(東洋文化研究所紀要36、40年3月)アナーヒター女神装飾の銀製把手付水瓶に関する一考察(国華878、40年5月)デーラマン地方出土帝王狩猟図銀製皿に関する一考察(国華892、41年7月)三花馬・五花馬の起源について(東洋文化研究所紀要43、42年3月)ギラーン州出土の二重円形切子装飾瑠璃碗に関する一考察-京都上賀茂出土の瑠璃碗断片に対する私見-(東洋文化研究所紀要45、43年3月)アゼルバイジャン地方出土獅子形把手付土製壷について(国華918、43年9月)アゼルバイジャン出土の鐺の押型について(東洋文化研究所紀要49、44年3月)パルティア期における馬の造形表現(東洋文化研究所紀要50、45年3月)パルティア期における青銅製小動物像について(東洋文化研究所紀要53、46年2月)デーラマン地方のコア・グラス(東洋文化研究所紀要56、47年3月)ササン朝ペルシア銀製馬像に見られる馬印について(東洋文化研究所紀要62、49年2月)イラン高原出土緑釉六曲把手付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要80、55年2月)最近我国に将来されたイスラーム時代初期の陶磁器二点について(東洋文化研究所紀要81、55年3月)イラン高原出土の唾壷とその源流について-正倉院宝蔵紺瑠璃壷に関連して-(正倉院年報2、55年3月)最近我国に将来されたエラムの古代ガラス二点について(東洋文化研究所紀要87、56年11月)伝ギラーン州出土円形切子装飾台付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要97、60年3月)東西交渉史研究における諸問題-所謂イラン高原出土の円形切子装飾瑠璃碗の研究を中心に-(美術史論叢1、60年5月)なお、62年2月に『深井晋司博士追悼・シルクロード美術論集』(吉川弘文館)が刊行された。

宮脇晴

没年月日:1985/02/05

春陽会会員の洋画家宮脇晴は2月5日午後11時14分、前立せん肥大に肺炎を併発し、名古屋市の名古屋大学附属病院で死去した。享年82。明治35(1902)年2月23日名古屋市に生まれ、大正9(1920)年名古屋市立工芸学校図案科を卒業。春陽会会員の洋画家大沢鉦一郎に師事し、同9年第2回帝展に謹直な写実をみせる「自画像」で初入選。昭和2(1927)年より大調和美術展に木彫の能面を出品。同7年第13回帝展に「孫を抱ける老母の像」で再び入選する。翌8年第11回春陽展に「少女立像」で初入選し以後同展に出品を続ける。同17年第5回新文展に「子供達と母」で入選。翌年の同展では「子等遊ぶ谿」で特選となる。戦後の同22年春陽会会友、同28年同会員に推される。子供を描くことを好み、初々しく溌刺たる生命感を明るい色調で表わした。 春陽展出品略歴-第11回(昭和8年)「少女立像」、15回(同12年)「樹上姉弟図」「瀧に遊ぶ」「朝の海を見る」、20回(同17年)「モンペを穿く女」、30回(同28年)「黄衣由美」「ミルクを飲む幼児」、35回(同33年)「T」「S」「C」、40回(同38年)「ポニーと少女」「鳥笛」、45回(同43年)「たき火」「月と薄」、50回(同48年)「挽く」「藍の中の座像」、55回(同53年)「横たわる裸婦」、60回(同58年)「今年竹」、62回(同60年)遺作「犬をひく自画像」「夜の自画像」「ミス・ホディス」

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