本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





緒方亮平

没年月日:1979/08/20

日展参与、光風会理事の洋画家緒方亮平は、8月20日脳卒中のため東京杉並区の杉並組合病院で死去した。享年78。本名勝。1901(明治34)年3月19日広島県沼隅郡に生まれ、1920年本郷絵画研究所で岡田三郎助の指導を受ける。1927年第8回帝展に「裸婦」が初入選し、34年第15回帝展に「室内」で特選を受け、同36年の文展に無鑑査出品した「画室にて」は政府買上げとなる。一方光風会にも出品し、30年光風会会友、34年会員、35年評議員となる。戦前の文展出品作には「静物」(2回)、「閑庭」(4回)、「庭」(6回)などがある。戦後も日展、光風会展に制作発表し、58年日展会員、64年日展評議員、76年日展参与となる。日展出品作品昭和25年 「静物」(依嘱)昭和26 「瀬戸」(依嘱)昭和27 「室内」(審査員)昭和29 「港」(依嘱)昭和30 「港の見える室」(依嘱)昭和31 「柿の木のある庭」(依嘱)昭和33 「鞆の浦風景」(会員)昭和34 「南の室」(会員)昭和37 「庭」(会員審査員)昭和38 「港」(会員)昭和39 「船着場」(評議員)昭和41 「道越風景」(評議員審査員)昭和42 「港」(評議員)昭和43 「柿の木のある庭」(評議員)昭和44 「鞆風景」(評議員)昭和46 「南の室」(評議員)昭和47 「紫陽花」(評議員審査員)昭和49 「二人像」(評議員)

橋本八百二

没年月日:1979/08/13

洋画家で岩手県会議員をつとめた橋本八百二は、8月13日脳こうそくのため岩手医大付属病院で死去した。享年76。1903(明36)4月21日岩手県紫波郡に橋本善太、キンの四男として生まれた。1913年小学校担任教師に萬鉄五郎と交遊のあった大川英八がいて、この教師より少なからぬ影響を受けた。1921年盛岡農学校卒業後、農業の傍ら大川教師に油絵を学び、師のすゝめで上京し、川端画学校に入学した。1924年東京美術学校西洋画科に入学、在学中に白日会、槐樹社等に出品して受賞し、29年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。この年第10回帝展に「鉱夫作業」が初入選し、以後帝展に毎年出品し、無鑑査となった。32年斉藤与里、高間惣七、堀田清治らとともに東光会を創立した。戦中の44年岩手県黒沢尻町に疎開し、そのまゝ郷里にとゞまり、47年兄の後継者として県議に出馬し当選した。戦後渡欧し、滞欧作の多くを制作し展覧会を開き、75年には盛岡市岩山に盛岡橋本美術館を建設し、その館長となった。代表作「交替時間」(1930)「昼休」(31)「金券配布」(32)「凱旋門」(59)「岩手山」(73)「天に響く」(75)略年譜1903年(明治36年) 岩手県紫波郡に生まれる。橋本善太・キンの四男。1913年(大正2年) 日詰尋常小学校4年のときの担任は萬鉄五郎と交遊のあった大川英八教師で、この師から少なからぬ影響を受ける。1921年(大正10年) 盛岡農学校を卒業後、農業の傍ら大川教師に油絵の手ほどきを受け師のすすめで上京、川端画学校に入学。1924年 東京美術学校西洋画科入学1925年(大正14年) 白日会第2回展に「静物」を出品、白日賞受賞。1926~28年 槐樹社展に「静物」等を出品、田中奨励賞や槐樹社賞を受賞。1929年(昭和4年) 東京美術学校西洋画科本科を卒業、第10回帝展「鉱夫作業」入選。1930年(昭和5年) 第11回帝展「交代時間」(特選)1931年(昭和6年) 第12回帝展「昼休」(特選)1932年(昭和7年) 斎藤与里、高間惣七、堀田清治らとともに東光会を創立。第13回帝展「金券配布」帝国美術院推せんを受け無鑑査となる。1933年(昭和8年) 第14回帝展「馬市」無鑑査出品。1934年(昭和9年) 第15回帝展「収穫」無鑑査出品。1935年(昭和10年) 第4回東光会展「雲海」ほか3点を出品。1936年(昭和11年) 文展招待展「沼畔」世田谷の自宅に橋本八百二絵画研究所を開設する。1937年(昭和12年) 東京朝日新聞社ホールで個展を開催。大作を中心に約100点を展示。第1回新文展「春」出品。1938年(昭和13年) 第2回新文展「再建」。1939年(昭和14年) 神奈川県大和村に転居。第3回新文展「鉱煙」50号。1942年(昭和17年) 陸軍省の委嘱により藤田嗣治等とともに南支、仏印、海南島方面に従軍、戦争記録画を制作。1943年(昭和18年) フィリピン、ニューギニア方面へ従軍。1944年(昭和19年) 「ニューギニア作戦」完成。神奈川県から岩手県黒沢尻町に疎開。戦時特別展「鉄鉱と戦う盛岡中学報国隊」無鑑査出品。1946年(昭和21年) 紫波郡日詰町に転居。第2回日展「梅」。1947年(昭和22年) 兄善太の後継者として推され、県議選に立候補、当選。岩手美術連盟の美術研究所開設に尽力。1948年(昭和23年) 県立美術工芸学校の創設に尽力。1957年(昭和32年) 盛岡市川徳デパートで個展を開催、50余点を展示。1959年(昭和34年) 渡欧。パリを中心に各地で制作。1961年(昭和36年) 盛岡市県公会堂で滞欧作130余点を展示。1962年(昭和37年) 岩手県紫波町に橋本美術館を着工。64年完成、自らの代表作を一般公開。1965年(昭和40年) 盛岡市県公会堂で近作展を開催100余点を展示。1966年(昭和41年) 第9回日展「南部盛岡チャグチャグ馬コ」入選。1968年(昭和43年) 東京大丸百貨店で開催の太平洋戦争名画展に「加藤健夫中佐肖像」出品。1970年(昭和45年) 岩手日報文化賞受賞。1971年(昭和46年) 盛岡市岩山に盛岡橋本美術館を計画、着工。1972年(昭和47年) 橋本八百二画集刊行。岩手県民会館で画業50年記念展を開催。1975年(昭和50年) 盛岡橋本美術館を開館、館長となる。1976年(昭和51年) 河北文化賞受賞(50年度)河北新報社。1977年(昭和52年) 盛岡橋本美術館を財団法人に組織変え。(50年度)1979年(昭和54年) 東北の風景を描き続け、8月13日没。

樋口加六

没年月日:1979/08/09

独立美術協会会員の洋画家、樋口加六は、8月9日0時4分、赤白血病のため東京文京区東大病院で死去した。享年75。樋口加六は1904(明37)年7月2日宮城県宮城郡に生まれ、1923年ころ太平洋美術研究所、ついで川端画学校に学び、林武に師事し1927年青山学院英文科を中退した。1929年第16回二科会回展に「横浜風景」「荻窪風景」が初入選、翌17回展に「横浜風景」が入選した。1931年独立美術協会第1回展から出品、以後、没するまで毎回出品し、1937年第7回展に発表した「庭」「舟」で独立協会賞を受賞し、翌年会友に推挙された。1946年(昭21)独立美術協会会員となり、1962~63年ヨーロッパに滞在、1965年第33回独立展に出品の「風景A」「風景B」でG氏賞を受けた。また、1965年からは毎年国際形象展に招待出品した。

三田村自芳

没年月日:1979/08/06

漆芸家三田村自芳は、8月6日急性肺炎のため東京武蔵野市の西窪病院で死去した。享年94。本名芳蔵。浅草に生まれ、江戸蒔絵の正統をつぐ。日展会員で稲花会を主宰する。代表作「百合花蒔絵文庫」。日本塗工功労賞受賞。

長浜虎雄

没年月日:1979/07/19

彫刻家長浜虎雄は、7月19日脳梗塞症のため死去した。享年77。1902(明治35)年8月30日福岡県三池郡に生まれ、29年東京美術学校彫刻科を卒業する。在学中の28年、第7回国画創作展に「三浦婦人像」、第15回二科展に「顔」が入選、31年からは院展に出品し、34年日本美術院院友に推挙される。55年まで院展に出品し、奨励賞を5回受賞、出品作品に「或る神父の像」(18回)「北原白秋先生像」(24回)「熊谷守一氏像」(25回)などがあり、54回第39回院展に出品した「窪田空穂先生像」で白寿賞を受賞した。この間、40年に渡満する。61年から73年まで二科会に出品し、66年二科会会友となる。出品作品に「作品 一」「作品 鉄」など

瀧口修造

没年月日:1979/07/01

詩人、美術評論家の瀧口修造は、7月1日肺水しゅのため東京新宿区の河井病院で死去した。享年75。1903(明治36)年12月7日富山県婦負郡に生まれ、富山中学卒業後上京、23年慶応大学予科に入学したが関東大震災のため小樽へ行き、翌年上京再入学し、31年同大学英文科を卒業する。在学中の26年山繭同人となり、この頃文学部教授であった西脇順三郎を知る。また、30年には親交のあった仏詩人アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳、これが日本のシュール・レアリスム美術書の草分けとなる。32年から5年間PCL映画製作所(東宝の前身)に勤務、39年から日本大学芸術科講師として近代美術論、現代写真芸術論を講じる。この間、現代西洋、ことにフランスの現代詩と美術を研究紹介し、とくにシュール・レアリスム芸術をはじめ前衛芸術運動の推進に尽力、40年に世界初のミロ論を書いたが、1938年戸坂潤の要請で「近代芸術」を出し、41年政府の前衛美術弾圧により検挙され、8ヶ月間拘留され起訴猶予となった。その後国際文化振興会嘱託となり、戦後は50年まで日米通信社参与をつとめる。1951年読売アンデパンダン展開催、若い前衛的な詩人、美術家、音楽家と「実験工房」を結成、タケミヤ画廊企画展に参画し、前衛的な現代美術の展開に大きな刺戟をあたえた。1952年国立近代美術館開設に際し運営委員となり、53年には国際アートクラブ結成に参加する。58年ヴェネツィア・ビエンナーレ展日本代表として渡欧し、ブルトンやダリらと会見する。59年美術評論家連盟会長に就任し、62年までつとめる。60年最初の個展「私の画帖から」を南天子画廊で開催、翌年第2回目の個展を大阪北画廊で、62年第3回個展「私の心臓は時を刻む」を南画廊で催す。63年以降新聞、雑誌への執筆や美術展の審査などに矛盾を感じたとしていっさいやめる。64年マルセル・デュシャン語録私家版刊行の契機となるローズ・セラヴィの名前を架空のオブジェの店のためにあたえられる。65年千円札事件懇談会に加わり、翌年特別弁護人となり、また同年来日中のミロに初めて会う。67年『詩的実験』(思潮社)を刊行、翌年マルセル・デュシャン急死の一ヶ月後にあたる11月語録が完成する。70年ミロとの詩画集『手づくり諺』完成する。この間、69年2月に脳血栓で倒れ入院、翌年は胃の手術を行う。73年マルセル・デュシャン大回顧展に招待され渡米する。75年アントニオ・タピエスとの詩画集『物質のまなざし』、78年ミロとの詩画集『ミロの星と共に』を完成する。 主要著述目録単行図書1937 詩画集『妖精の距離』(阿部芳夫画) 春鳥会1938 『近代芸術』 三笠書房1940 『ダリ』(西洋美術文庫) アトリエ社『ミロ』(西洋美術文庫) アトリエ社1951 『近代芸術』 三笠書房1952 『日本の彫刻』(共著)1955 『今日の美術と明日の美術』 読売新聞社『一六の横顔-ボナールからアルプへ』 白楊社『ピカソ人間喜劇』(アートブック) 講談社1956 『近代芸術の状況』ジャン・カスー(共訳) 人文書院『現代人の眼』(共著) 現代社『シュールレアリスム』(原色版美術ライブラリー) みすず書房『ゴッホ』 みすず書房『ピカソ、戦争と平和』 みすず書房『クレー』リード(訳)(フェーバー世界名画集) 平凡社『シャガール』エアトン(訳) 平凡社1959 『芸術の意味』H・リード(訳) みすず書房『幻想絵画論』 新潮社1960 『エルンスト』(現代美術5) みすず書房1962 『近代芸術』(美術選書) 美術出版社1963 『点』 みすず書房『パウル・クレー』(解説) 草月会出版部1964 『フォンタナ』(解説) みすず書房『ヴォルス』(共著) みすず書房1965 『余白に書く』 みすず書房1962 『滝口修造の詩的実験1927-1937』 思潮社1968 『シュールレアリスムのために』 せりか書房1970 『ダリ』 S・ダリ(訳) 河出書房新社『ジョアン・ミロ-視覚言語としての芸術』 スゥイーニー(共訳) 平凡社『ジョアン・ミローとカタルーニャ』 ペルーチョ(共訳) 平凡社『新しい世界』 ローゼンバーグ 滝口文 みすず書房1975 『シュルレアリスムの世界』 E・クリスポルテイ(共訳) 平凡社定期刊行物1936 サルヴァドル・ダリと非合理性の絵画 みづゑ 374英国に於けるシュルレアリズム みづゑ 381超現実造型論 みづゑ 3791937 超現実主義の現代的意義 アトリエ 14-6前衛絵画批判 アトリエ絵画は何処へ行く?(訳) アトリエ 14-9詩を書くピカソ みづゑ 385海外前衛美術消息 みづゑ 393近代造型芸術論 上下 ジュディオンウェルカア(訳) みづゑ 390~3911938 造型芸術に於ける主題の拠棄について(訳) みづゑ 405芸術と社会(訳) ハーバード・リード アトリエ 15~3、5~7前衛芸術の諸問題 みづゑ 398写真と絵画の出会ふところ アトリエ 15-171939 影響について 美術 14-11新しい時代について みづゑ 410安全週間 アトリエ 16-10ダリの近況 みづゑ 415ルネ・マルグリット みづゑ 414フロイド主義と現代芸術 みづゑ 419ジェロム・ボォッシュ小論 アトリエ 16-41940 パウル・クレー アトリエ 17-4ルネッサンス芸術の心理 みづゑ 4231941 主題と画因 造型芸術 3-2課題の意味 造型芸術 3-4近代美術の場合 みづゑ 435額椽について 造型芸術 3-3レオナルド展と写真建築 アトリエ 18-2アメリカ現代美術の遠望 アトリエ 18-41947~50 前衛芸術の実態 アトリエ 277新人について アトリエ 282象形と非象形の相剋-阿部展也芸術- アトリエ 286二科会で出会ったもの みづゑ 494クニヨシとノグチ 読売新聞 ’50年8.21イサム・ノグチの世界 みづゑ 537人間像について(福沢一郎個展の感想) アトリエ 24614回新制作派展評 みづゑ 541独立展評 美術手帖 37三角窓-最近のフランス画壇の展望とイタリーの古典美術- アサヒニュース 244最近のピカソとキリコ アトリエ 250シュールレアリスムその後 アトリエ 253ブラックの芸術 アトリエ 260戦後のピカソと制作 アトリエ 264マチスの礼拝堂 アトリエ 275ブラックの立体主義 アトリエ 276前衛絵画の実態 アトリエ 277ヘンリー・ムアとベン・ニコルスン アトリエ 279ミロ現象 アトリエ 285新しきエコール・ド・パリ 美術手帖 26ブラックと東洋思想 美術手帖 33モンドリアンの横顔 美術手帖 34ピエール・ロアとだまし絵 美術手帖 35フォーヴィスムを顧みて マルセル・アストリュック(訳) みづゑ 502フランス絵画の新世代について みづゑ 531ヘンリィ・ムーアの彫刻 みづゑ 535アレクサンダー・コルダー みづゑ 5401951 抽象芸術の論争 アトリエ 295光琳の幻想 みづゑ 550新人の位置 アトリエ 300モダンアートをめぐって 芸術新潮 2-8素朴な画家たち 美術手帖 45サロン・ド・メエを迎えて みづゑ 545日本美術への反省 読売 12.17結晶の造形詩 美術手帖 39造形する植物 美術手帖 44「北斎」シナリオ 美術手帖 50FERNAND LEGER アトリエ 288ピカソの石版画について アトリエ 292アンドレ・マッソンの変貌 アトリエ 301抽象芸術とピューリスム 美術手帖 38ブラックと神話的形態 みづゑ 553映画ブラック 美術手帖 45ピカソの詩 美術手帖 48ダリと「白い恐怖」 美術手帖 511952 芸術と実験 美術批評 5日本におけるフランス美術 ジャン・カスー(訳) 読売夕刊 7.7~8世界から見た日本の画ビエンナーレ国際展出品をめぐって 読売夕刊 9.16ふしぎな芸術の旅行-イサム・ノグチ小論 みづゑ 568或る風景の場合 風間完の絵について アトリエ 306福沢一郎論 みづゑ 560演奏会と造形 美術手帖 61アブストラクト・エージ 芸術新潮 3-5ヴィクトル・ブローネル アトリエ 313ダリ、ミロ、エルンスト 美術手帖 52パウル・クレエ 美術手帖 55ハンス・エルニ 美術手帖 59ブラック小論 美術手帖 62ブラックと本 美術手帖 62ルドンの花など みづゑ 561レオノール・フィニ みづゑ 5621953 国際彫刻コンクール顛末記 芸術新潮4-7瑛九のエッチング 美術手帖 74福田豊四郎(作家訪問) 美術手帖 66わが友アンリ・ルッソォ R・ドロネエ(訳) 芸術新潮 4-3、4クトー偶感 美術手帖 65ピカソ断想 美術手帖 73ホアン・ミロ 曇りのない絵 画ジョルジュ・デュテュイ(訳) みづゑ 570マーク・トビーとモリス・グレーヴス みづゑ 575マリー・レーモンとフレッド・クレーン みづゑ 5781954 現代の宗教美術 芸術新潮 5-12詩と絵画の握手のために 時事 6.19抽象と幻想 美術手帖 78現代絵画 芸術新潮 5-1エキゾティズム 芸術新潮 5-8絵画と写真 美術手帖 84画家と街の画廊 読売 6.23絵を描く子どもたち 読売 8.18ジャン・デュビュッフェ 美術手帖 86ピカソとふくろうの物語 みづゑ 588ピカソの戦争と平和 みづゑ 589ウィフレッド・ラムについて みづゑ 591ルソオは生きている みづゑ 5811955 断層の歴史 美術手帖 90銅版画の復活 みづゑ 596書か絵か-東西書の交流 読売 7.22古典芸術の再評価 読売 11.30今井俊満に みづゑ 604小山田二郎の芸術 みづゑ 598鶴岡政男(現代作家小論) 美術手帖 98アンリ・ミショオの「ムーヴマン」 美術手帖 102レジェとル・コルビュジェの近作 美術手帖 92オエィロン・ルドン 美術手帖 92異色作家列伝 芸術新潮 6-1~121956 シュルレアリズムその後 みづゑ 606閉ざされた古典と開かれた古典 美術批評 (一)現代絵画の風刺性 読売 2.20現代絵画と風刺性 国立近代美術館ニュース 24フランスの現代版画 国立近代美術館ニュース 18日本的非具象絵画の一断面 みづゑ 612福沢一郎の近作 みづゑ 616デュシャンのロート・レリーフ 美術手帖 106ミロ 芸術新潮 7-7セザンヌとピカソ 朝日 10.231957 日本に向けられる眼 読売夕刊 9.19記号について (1)(2) みづゑ 620 622朱の世界 芸術新潮 8-11今日のデザイン 読売夕刊 1.29博物誌の余白に-ピカソ素描集をめぐって 芸術新潮 8-12ジャックスン・ポロック 読売 10.22ジョルジュ・マチュー 三彩 92クレエの版画 芸術新潮 8-2ルドンの復活 芸術新潮 8-31958 現代詩と絵画 美術手帖 141実説近代芸術論 芸術新潮 9-5前衛美術の動向 国立近代美術館ニュース 40ヴェニス国際美術展 芸術新潮 9-8福沢一郎 読売夕刊 3.171959 「本」の中の流れている絵画のもう一つの世界 朝日 2.20詩画集・ミロ「ひとり語る」 芸術新潮 10-4フォンターナ訪問記 三彩 213アンドレ・ブルトンの書斎 みづゑ 646ムナーリ 美術手帖 158クレーの生と死 みづゑ 648クレー巡礼 芸術新潮 10-1来日したイタリアの二作家(ガレーリとアセットオ) 美術手帖 164一品制作とマスコミ 読売夕刊 1.13国際交流に根本的施策を 読売夕刊 7.13プレミオ・リソーネと日本の参加 美術手帖 162パリ・コラージュ3人展 みづゑ 652ヴェニス・ビエンナーレ展雑感 国立近代美術館ニュース 59前田常作 芸術新潮 10-9「新人」と共に30年 芸術新潮 10-71960 サド候爵の遺言執行式 みづゑ 664シュルレアリスム国際展をめぐって みづゑ 663日本の超現実絵画の展開 みづゑ 662加納光於(新人) 芸術新潮 11-5斎藤義重の近作 みづゑ 667フォートリエの沈黙の部分 みづゑ 658ムリーナのダイレクト・プロジェクション 現代の眼 62瑛九をいたむ ひとつの軌跡 美術手帖 1731961 公募団体は無用か 読売夕刊 9.20画家岡本太郎の誕生 芸術新潮 12-12クルト・シュヴィッタース 美術ジャーナル 17クルト・シュヴィッタース みづゑ 670アントニオ・タピエス みづゑ 6771962 MIRIORAMA動く芸術 美術手帖 200美術時評上・下 読売夕刊 3.16、171963 白紙の周辺 みづゑ 697クオ・ヴァディス 美術ジャーナル 45百の眼の物語 美術手帖 2161964 カポグロッシの作品について 世界 1ゾンネンシュターン展 芸術新潮 172ナルシスの変貌-ダリ 世界 2真珠論-ダリ(訳) 女の手帖 4-91965 アルプ・詩と彫刻 美術手帖 258ブルーノ・ムナーリ「フォークの言葉」 朝日ジャーナル 4.111966 変貌する家具-ステルピーニとデ・サンクティスの共同作品- 美術手帖 273ダリ現象 芸術新潮 197追悼・アンドレ・ブルトンの窓 みづゑ 743環境について-ある状況からの発言 美術手帖 2751967 編集部への手紙-ふたたび千円札事件をめぐって SD 361970 超現実主義と私の詩的体験 美術手帖 336ルネ・マグリット 芸術生活 248

高野三三男

没年月日:1979/06/30

一水会委員、日展参与の洋画家、高野三三男は、6月30日午後7時10分、肺気シュのため東京品川区の昭和大学医学部附属病院で死去した。享年79。高野三三男は、1900(明治33)年3月10日、東京都深川区に生まれ、東京府立第一中学校を卒業し東京高等商船学校に入学したが中途退学し、東京美術学校に入学した。1924年(大正13)に中退してフランスへ渡り、1940(昭和15)まで滞在した。その間、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・チュイルリーに出品し、1930年パリのベルネーム・ジュン画廊にて個展を開催した。1928年から二科会展に出品、29年二科賞を受賞、31年二科会会友に推挙されたが、37年二科会を脱会して一水会に会員として参加し、以後、一水会を中心に作品を発表した。1940年、第1次大戦のため帰国、文展のち日展にも出品、文展無鑑査、審査委員・日展評議員、参与をつとめた。 主要作品年譜二科会展:1928年15回展「女と猫」「化粧」、16回展「脱衣」「コメディ・イタリエンヌ」「裸婦」「ビストロにて」「街の女」、第17回展「若き獅子」「調髪」「人形と女」、第18回展「ヴイナスの誕生」「レダ」「伊太利喜劇」「掛合ひ」、 一水会展:1938年第2回展「女と猫」「カルナヴァル」「巴里の女」「裸婦」「夢」第3回展「白衣夫人」「芍薬」「ヱチゥド(一、二、三)」第7回展「雪のマルヌ河」「運河よりスエズ遠望」「メッシナ海峡よりシチリア島の一部を望む」1947年第9回展「シャンダイ・ヂョーン」「裸婦」「ファンム・アン・ヴェール」、第10回展「肖像」「白」、第12回展「白交響曲第三楽章」「白のエチュード」、第13回展「ヴィナスの誕生」、第14回展「ダンスーズA」「アルルキンとユロムビン」「Hサン」「アルルキンとピエレット」「ダンスーズB」、第15回展「素踊」「ターキー」、第16回展「淳子嬢B」「淳子嬢A」、第17回展「花柳昌子さんの羽衣」、第18回展「勢獅子」、第19回展「赤い服」「緑衣」、第20回展「幸運を待つシンデレラ」、第21回展「道化師のセレナート」「一億光年の彼方」「上原美佐さん」「庭の一陽」「アンドロメーダ」、第22回展「道化師B、緑衣」「嬉遊曲B」「道化師A」「道化師C」、第23回展「紅い芍薬」「白い芍薬」、第24回展「桜島(旧島津邸より)」「白の諧調」「枯葉」「桜島(城山より)」「白い芍薬」、第25回展「白い芍薬」「磯A」「磯B」「白い芍薬A」、第26回展「白い芍薬」「花」、第27回展「泰山木」「黄色のシャンダイ」、第28回展「イタリア狂言A」「泰山木」「イタリア狂言B」、第29回展「泰山木」、1968年第30回展「青い鳥」「人は真実を怖れる」、第31回展「花と少女」、第32回展「やすらぎ」、第33回展「白のコンチェルト」、第34回展「ファンテジー」、第35回展「泰山木」、第36回展「白のバラードA」「白のバラードB」、第37回展「白のバラード」、第38回展「シューマンのカルナヴァル」、第39回「赤と黒のエチュード」

星襄一

没年月日:1979/06/17

日本版画協会会員の木版画家星襄一は、6月17日肺ガンのため千葉県八千代市の自宅で死去した。享年65。1913(大正2)年9月27日、新潟県に生まれ、新潟県立六日町中学校を経て、台南師範学校に入学し渡台、卒業後13年間初等教員をつとめ、終戦後郷里へ帰り生業のかたわら版画独習をはじめ、のち上京し武蔵野美術学校西洋画科に入学、56年42歳で卒業する。卒業後再び版画に復し木版に転じる。日本版画協会展に出品し、49年第17回展で日本版画協会賞を受賞、52年同会会員、63年同会委員となる。52年から国画会展にも出品、56年会員となり、59年第38回展で国画賞を受賞する。この他、60、62、64、66年の東京国際版画ビエンナーレ展に出品、66年ジュネーブ日本現代版画展、オクラホマ美術館日本現代版画10人展、台北国立歴史博物館現代日本版画展、67年日本版画展(東京)、サンパウロビエンナーレ展、68年ロンドン現代版画展、69年現代日本版画アメリカ巡回展、71年ブラッセル現代日本版画展、72年イタリー・カルピ国際木版画トリエンナーレ展、74年ジャパン・アート・フェスティバル、76年ジャパン・アート・フェスティバル、ベルギー現代日本版画展などに出品。また76年自選展(和光)を開催する。 主要出品目録日本版画協会展21回 空と水(A) 25回 たまもの 28回 雪の中で(E) 31回 華(C) 33回 星座二番 34回 春のブランコ(星座№26) 35回 星座№42 36回 星座№5237回 星(B) 38回 風景(A) 39回 地平(A) 40回 空と海 42回 樹(B) 43回 老樹 44回 高い梢(A) 45回 夜景(赤) 46回 枝繁る(青)国画会展31回 極地の時計 32回 雪の卓 33回 たまもの 34回 雪の中で(H) 35回 春の槍 36回 漂(B) 37回 花(D)苑 38回 雪の玉(C) 39回 星座5 40回 春ののろし(星座28番) 41回 草(星座№44) 42回 星座№53 44回 風景 45回 地平(D) 46回 赤い地平線 47回 木の風景(E)

甲斐巳八郎

没年月日:1979/06/16

日本画家甲斐巳八郎は、6月16日入院中の福岡市内の病院で死去した。享年76。1903(明36)年1月24日熊本市に生まれ、1927年京都市立絵画専門学校本科を卒業した。中国在住長く満鉄社員会報道部に勤務して、各地を旅行し、制作及文筆活動にたずさわった。1947年引揚げ福岡に定住する。1948年院展に「筑紫路」が初入選し、1952年「みどり野」を出品し院友となった。1955年「露路」を出品後院展を離脱し、以後個展により数多くの作品を発表した。代表作に上記のほか「バーミアンの塔」「インドの城」「遊牧民」ほかの水墨画がある

水町和三郎

没年月日:1979/06/11

日本工芸会評議員、陶磁器研究家の水町和三郎は、6月11日すい臓ガンのため京都市左京区の自宅で死去した。享年89。1890(明治23)年4月23日佐賀市に生まれ、県立佐賀中学を経て1912年東京美術学校図案科に入学したが、14年東京高等工業学校工業図案科に転入学し17年同校を卒業した。20年国立陶磁器試験所に入所し、46年辞任するまで第三図案部長をつとめる。この間、40年に恩賜京都博物館(京都国立博物館)学芸委員を兼務する。46年吉野信次のすすめで陶磁器試験所を依願退職し、石黒宗磨、小山富士夫、荒川豊蔵、日根野作三と日本陶磁振興会を組織して全国陶磁の指導振興にあたる。52年、文部省文化財保護委員会専門委員に任命され、国宝、重要文化財並びに無形文化財の指定選定にあたる。55年文化財保護委員会の外郭団体として発足した社団法人日本工芸会の理事に就任し、毎年開催される日本伝統工芸展の普及振興に尽力する。66年勲四等旭日小綬賞を受賞。77年日本工芸会理事を辞し、評議員をつとめ、特に有田窯、多治見窯の指導に力を注ぐ。陶磁器の意匠の研究と古陶器の発掘につとめ、著書に『唐津』『伊万里染付大皿の研究』『古唐津』『創作陶芸資料』『肥前古窯めぐり』などがある

古賀忠雄

没年月日:1979/06/10

日本芸術院会員、日展顧問、日本彫塑会理事の彫刻家古賀忠雄は、6月10日急性心不全のため東京板橋区の日大付属病院で死去した。享年76。1903(明治36)2月3日佐賀市に生まれ、県立有田工業図案絵画科を卒業し東京美術学校彫塑科に入学、1930年卒業する。在学中の29年、帝展第10回に「仏心」が初入選、39年文展第3回に「岬の男」で特選を受け、翌年文展無鑑査となる。この間、東邦彫塑院展に「マドロスの首」を出品し文化奨励賞を受ける。42年陸軍美術協会展(決戦美術展)に「独立ビルマの像」で朝日新聞社賞を受賞、43年第5回文展出品作「建つ大東亜」で帝国芸術院賞を受ける。戦後も日展に出品し、48年第4回日展で最初の審査委員をつとめ、「夏の作」(政府買上)を出品する。54年日展参事、58年評議員、67年理事、68年常任理事、78年顧問となる。また、64年日本彫塑会委員長、66年日本陶彫会副会長、74年会長に就任。この間、67年に日本芸術院会員となる。65年「古賀忠雄彫刻展」(松坂屋)、67年「デッサンと彫刻小品展」(三越)、69年「古賀忠雄陶塑作品展」(三越)を開催する。73年勲三等瑞宝章を受章する。出品作の他、「森の幻想」(74年、佐賀市森林公園)「日本医学発祥記念像」(同年、大分)、「想」(76年佐賀県総合グランド)などのモニュメントがあり、76年には10米にも及ぶ「現代を見つめる西郷隆盛像」の原型を完成した。没後、81年4月佐賀県立博物館で回顧展が開催された。 作品略年譜昭和4年 帝展10回「仏心」(初入選)昭和7 帝展第13回「丘」昭和8 帝展第14回「秋麗」昭和9 帝展第15回「淵」昭和13 文展第2回「工場の老夜警夫」昭和14 文展第3回「岬の男」(特選)昭和15 奉祝展「新鉱開発」(無鑑査)昭和16 第2回聖戦美術展「独立ビルマの像」(朝日新聞社賞)昭和17 文展第5回「建つ大東亜」(無鑑査、帝国芸術院賞」昭和19 文展戦時特別美術展「闘魂沸る」昭和20 日展第1回「農夫」昭和21 日展第2回「街で拾った男」昭和22 日展第3回「黙想」(招待)昭和23 日展第4回「夏の作」(審査員)昭和24 日展第5回「哀情」(依嘱)昭和25 日展第6回「黙行」(依嘱)昭和26 日展第7回「鶏舎の朝」(審査員)昭和27 日展第8回「知多の漁夫」(依嘱)昭和28 日展第9回「男」(依嘱)昭和29 日展第10回「漁夫三想」(参事)昭和30 日展第11回「山を呼ぶ」(参事)昭和31 日展第12回「伸よ次代」(参事、審査員)昭和32 日展第13回「未完記」(参事)昭和33 新日展第1回「シャモと男」(評議員、審査員)昭和34 日展第2回「星牛の坐」(評議員)昭和35 日展第3回「呆心」(評議員)昭和36 日展第4回「生きる」(評議員、審査員)昭和37 日展第5回「二つのみち」(評議員)「敗戦から立ち上がる日本」(読売ランド)昭和38 日展第6回「幻想」(評議員)昭和39 日展第7回「詩」(評議員)昭和40 日展第8回「限界」(評議員)昭和41 日展第9回「思」(評議員)昭和42 日展第10回「圧」(理事、審査員)昭和43 日展第11回「太陽を知る男」(理事、審査員)昭和44 日展改組第1回「間」(理事)昭和45 日展第2回「自然へ帰れ」(理事、審査員)昭和46 日展第3回「草原を行く」(理事、審査員)昭和47 日展第4回「農場の朝」(理事)昭和48 日展第5回「団欒」(理事、審査員)昭和49 日展第6回「晴間を待つ」(理事、審査員)「森の幻想」(佐賀市森林公園)昭和50 日展第7回「浴後」(理事、審査員)昭和51 日展第8回「猫と女」(理事)「想」(佐賀総合グランド)昭和52 日展第9回「飛」(とぶ)(理事、審査員)昭和53 日展第10回「異国の女」(顧問)

山口猛彦

没年月日:1979/06/06

日展会員、光風会評議員山口猛彦は、6月6日肺ガンのため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年76。1903(明治36)年1月1日佐賀県伊万里市に生まれ、県立佐賀中学校を経て上京し、川端画学校に学ぶ。1923年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し28年卒業する。その後長野県松本中学校の教諭をつとめたが、30年再上京し制作活動に専念し、33年第14回帝展に「黒い風景」が初入選する。また、光風会に出品し、同年会友、40年会員となる。43年から陸軍報道班員としてシンガポール、スマトラに従軍、46年帰国する。戦後も光風会、日展に発表し、49年第35回光風会展に「春」「早春」で光風特賞、51年第7回日展に「黒い椅子の部屋」で特選を受け翌年依嘱となる。63年日展会員となり、65年と72年に審査員をつとめる。この間、61年から翌年にかけて第1回の渡欧を行う。また、文芸春秋画廊(63年)、日動サロン(67年)、資生堂画廊(70年)、ギャラリー・ジェイコ(道74、75、78年)で個展を開催する。日展への出品作に「秋果」(48年)「アッシジ風景」(63年)「古本屋」(69年)「街頭」(77年)など。没後、81年4月、佐賀県立博物館で遺作展が開催された。

野本昌男

没年月日:1979/05/31

洋画家野本昌男は、5月31日死去した。享年64。本名正男。1914(大正3)年12月13日埼玉県加須市に生まれ、40年埼玉師範学校専攻科美術科を卒業。47年東京美術学校で寺内万治郎に師事し、同年紅士会を創立、日本橋三越で第1回展を開催する。48年から光風会に出品し、51年第7回光風会展出品の「陳列館」「S議事堂」でS賞を受け、54年光風会会友、58年同会員となる。この間、50年第6回日展の「陳列館」以来、日展にも入選を続け、56年から翌年にかけて渡欧、アカデミー・ド・ラ・グランショミエールで学び、57年三越で滞欧作品展を開催する。68年光風会を退会後無所属となる。作品は他に「白壁の家」(第10回日展)など

淡島雅吉

没年月日:1979/05/28

ガラス工芸家でしづくガラスの創案者、淡島雅吉は、5月28日胃ガンのため東京文京区の東大医学部付属病院分院で死去した。享年66。本名正吉、旧姓小畑正吉。1913(大正2)年3月17日東京都新宿区に生まれ、33年日本美術学校図案科を卒業後広川松五郎の助手となり、翌年講師となる。35年東京各務クリスタル製作所図案部に入所、ガラスの研究を始める。47年東京保谷クリスタル硝子製造所に工芸部創設され工芸部長となり、50年淡島ガラス・デザイン研究所をおこす。53年皇太子殿下外遊記念切手図案に入選し毎日新聞社賞、同年から57年まで通産省意匠奨励審議会専門委員をつとめる。翌年淡島ガラス株式会社を創立、日本インダストリアルデザイナー協会の創立会員となり、桑沢デザイン研究所講師となる。56年工業デザイン調査団の一員として渡米、帰途欧州各国を巡歴する。59年国際ガラス展「GLASS 1959」(アメリカ)に「しづくガラス」を出品し受賞する。60年日本パッケージデザイン協会(J・P・D・A)に参加、64年第1回展から出品する。この間しばしば個展を開催する。79年、「しづくガラスの創案を中心とするガラス器デザイン」で第6回国井喜太郎賞を受賞する。

田中重久

没年月日:1979/05/24

仏教美術研究に生涯をかけた田中重久は、5月24日心筋こうそくのため京都市右京区の自宅で死去した。享年73。1905(明治38)年7月17日滋賀県に生れ、1925年県立膳所中学校卒業。同年4月東京美術学校に入学、26年3月中退。1931年早稲田大学国文科卒業。33年11月聖徳太子奉賛会研究員となる。36年6月、京都市文教局文化課勤務。これより京都の古美術案内の著書を逐次発表。 聖徳太子関係の研究の成果として、1942年「聖徳太子」を著わし、版を重ねた。その後、京都府立一中、洛北高校教諭の傍ら飛鳥時代より奈良、平安、鎌倉時代に及ぶ仏教美術関係の論文を多数発表した。川勝政太郎主宰「史迹と美術」誌に掲載論文は70篇に及ぶ。 「日本壁画の研究」は第二次大戦中に執筆、1944年に刊行されたものを79年に追補、復刻した。日本壁画の土、板、岩各壁画の総目録を意図、実査研究を行った。「日本に遣る印度系文物の研究」においては仏伝芸術、釈迦像、塔、堂、壁画の源流を追求した。 「別尊京都仏像図説」は、如来像彫刻をまとめ、その後の各地方の文化財調査の先鞭をつけた。1972年停年退職後も、死去の日まで、在野の硯学として健筆をふるった。主要著書京都の古建築 昭13年4月 京都市京都の彫刻 14年5月 同京都の庭園 15年5月 同西の京 薬師寺・他 16年5月 近畿観光会京都の仏画 16年5月 京都市京都史蹟古美術提要 16年9月 同京都仏画図説 16年10月 京都桑名文星堂奈良朝以前寺院史の考古学的研究 上・下 16年12月 東京考古学会京都古美術入門 17年5月 京都市聖徳太子 17年11月 大阪 東光堂別尊京都仏像図説 18年1月 京都臼井書房聖徳太子絵伝と尊像の研究 18年8月 京都山本工芸部日本に遣る印度系文物の研究 18年9月 大阪 東光堂広隆寺大鏡(英文) 25年9月 ユネスコ協会弥勒菩薩の指 35年1月 京都山本工芸部観音像 昭52年11月 京都綜芸舎奈良朝以前寺院址の研究 53年8月 白川書院日本壁画の研究 54年5月 京都綜芸舎

内藤春治

没年月日:1979/05/23

東京芸術大学名誉教授の鋳金家内藤春治は、5月23日心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年84。1895(明28)年4月1日、岩手県盛岡市に生まれる。1910年釜師有坂安太郎に入門、16年南部鋳金研究所に入って松橋宗明に学んだのち、19年に上京し香取秀真に師事する。この間、20年東京美術学校に入学、25年鋳造科を卒業、研究科へ進み、28年終了後同校の助手となる。26年、高村周豊らと「旡型」を結成し、津田信夫らの昭和初期における新工芸運動に参加する。27年、第8回帝展に美術工芸部が新設され「壁画への時計」を出品し入選、29年第10回帝展出品作「花挿のある照明装置」で特選を受け翌年から無鑑査となる。35年、旡型同人を中心に実在工芸美術会を結成、翌年文展鑑査展に招待出品し、以後新文展、日展に出品を続ける。44年東京美術学校教授、(49年東京芸術大学教授)となる。戦後も日展に出品し、52年日展参事、58年日展評議員、60年日展参与となる。また、全日本工芸美術協会、日本鋳金家協会などの団体に所属した。55年、昭和29年度日本芸術院賞を受ける。62年度東京芸術大学を退官し名誉教授となり、同年5月完成した皇居新二重橋の照明飾台、橋ゲタなどの装飾デザインを担当する。また、正倉院御物の鏡の研究と仏像修理でも知られ、奈良薬師寺の薬師三尊、鎌倉大仏の修理委員などを歴任する。日展出品作の他に、伊勢神宮御神宝の鏡、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に安置されている恩賜の骨壺などの製作がある。年譜1895 4月1日、現在の岩手県盛岡市愛宕町20(当時岩手郡米内村三ツ割五番戸)において、内藤運吉・サトの二男として出生。1902 4月、盛岡仁王小学校に入学。小学校時代は学校が終わると神社の祠に鞄をかくしておいて、野山を駆け廻るわんぱくであった。1906 3月、盛岡仁王小学校を卒業4月、盛岡市立高等小学校に入学1910 3月、盛岡市立高等小学校卒業この頃、向学心旺盛となり講義録を懐中にしていることが多かった。釜師・有坂安太郎に南部鋳金技術の手ほどきを受ける。1914 4月、盛岡市立商業学校入学1916 3月、盛岡市立商業学校2年終了南部鋳金研究所入所、松橋宗明に師事南部鋳金研究所において、来訪の香取秀真をはじめ、美校関係者を知る。1919 4月、南部鋳金研究所退所上京、香取秀真に内弟子として師事9月、東京市立工芸学校夜間部に入学1920 9月、東京市立工芸学校夜間部2年中退9月、東京美術学校鋳造選科入学1922 大矢春と結婚1923 農商務省展(第10回)に出品、2等賞となる3月、長男淳一郎誕生1924 農商務省展(第11回)に出品、3等賞を受け同省買上げとなる。9月、長女・澄子誕生。1925 3月、東京美術学校鋳造科卒業、引き続いて研究科に在籍する。香取家を出て本郷区駒込神明町20に住む。松崎福三郎、三島億三郎、今井千尋ら同僚学生とともに工芸団体「方壺会」を結成。商工省・農商務省展改称(第12回)に出品、三等賞を受け、宮内省買上げとなる。パリ万国装飾美術博覧会に出品、銅牌を受領する。1926 6月、工芸団体「旡型」結成に同人として参加11月、二男・恒道誕生。商工省展(第13回)に花瓶を出品1927 帝展第四部(工芸)設置壁面への時計(帝展8回)1928 4月、東京美術学校助手となる工芸化学教室勤務「方壺会」を「凸凹」と改称するあかりのある噴水塔(帝展9回)1929 7月、東北帝国大学金属材料研究所に研究のため出張花挿のある照明装置(帝展10回)特選1930 富山県高岡に研究のため出張、帝展無鑑査。照明装置(帝展11回)1931 6月、鋳造科兼務となる球を持つ噴水(帝展12回)1932 6月、東京美術学校講師となる、鋳造科鋳造実習授業担当7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張この年「凸凹」解散1933 3月、東京美術学校助教授となる 鋳金実習授業担当4月、「旡型」解散6月、工芸化学教室勤務7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張鋳銅方形花挿(帝展14回)1934 7月、東北大学金属材料研究所に研究のため出張この頃北区田端114に製作アトリエを持つ喫煙具(帝展15回)文鎮“梅”1935 3月、一家北区田端114に移る6月1日、「凸凹」のメンバー「聚工会」を結成客員となる7月、学術研究のため東北大学へ出張10月、「実在工芸美術会」結成に参加1936 青銅花瓶(文展鑑査展)電気スタンド(実在工芸展)1939 7月・8月、学徒勤労報国団引卒教官として美校学生と共に満州愛渾地方に行く鋳銅金魚花挿(文展3回)無鑑査金魚花瓶(実在工芸展4回)1940 実在工芸美術会、美術会統制の中に活動中止暁鶏置物(紀元二千六百年奉祝美術展)1941 文展審査員となる。翼のある花瓶(文展4回)1942 静かなる緊張(文展5回)無鑑査1943 花瓶(文展6回)1944 6月、東京美術学校教授となる。守護神陸海空(戦時特別展)1945 5月、妻はる死亡5月、空襲により被災家屋全焼、親戚に仮寓秋、美術学校倶楽部2階に子女と共に仮住まいする1946 日本学術振興会第98委員会委員となる11月、鈴木つゆ子と結婚狐置物(日美展2回)長女・澄子結婚1947 日美展審査員となる鼠香炉(日美展3回)1948 兵庫県・隆国寺梵鐘1949 6月、東京芸術大学美術学部教授となる烏伏香炉(日美展5回)依嘱1950 鋳銅水瓶(日美展6回)依嘱正倉院金工品の調査(昭和27年まで)1951 東京都美術館参与となる(昭和36年まで)日美展審査員となる鳬(花瓶)(日美展7回)1952 北区に移る花器(日美展8回)参与 長男・淳一郎結婚日美展参与となる。この年から昭和29年まで伊勢神宮御神宝鏡制作1953 二男・恒道結婚1954 日美展審査員、伊勢神宮御神宝鏡、東京亀有・見性寺梵鐘、兵庫県・長楽寺梵鐘青銅花瓶(日美展10回)1955 芸術院賞受賞(対象作品・昭和29年日美展「青銅花瓶」)薬師寺・国宝薬師三尊修理委員会委員となる(昭和32年まで)青銅花瓶(日美展11回)1956 工業技術院名古屋工業技術試験所顧問となる(昭和36年まで)鋳金家協会副会長となる(昭和46年まで)青銅、鳥(日美展12回)1957 日美展審査員となる青銅、花挿(日美展13回)1958 日展評議員となる。鳥花器(日展1回)1959 美術工芸(特に金銅仏)調査研究のため、ビルマ・タイ・フィリピンに出張国宝鎌倉大仏修理委員会委員となる千鳥ヶ渕無名戦士墓范御下賜納骨壺室内装飾、鴉(日展2回)1960 日展審査員となる群塊(ホールへの花挿)(日展3回)1961 花挿、魚(日展4回)1962 3月、東京芸術大学を停年により退職する10月、東京芸術大学名誉教授となる皇居二重橋の主桁飾り高櫚その他の意匠設計及び原型青銅花瓶(日展5回)1963 方形花器(日展6回)1964 魚花挿(日展7回)1965 西洋美術研究のため、エジプト及びイタリア・ギリシャなど欧州諸国を視察若獅子の塔原型1966 チンパンジー(日展9回)1967 日展審査員となる。赤とんぼ(日展10回)1968 臥牛(日展11回)1969 11月、勲三等瑞宝章を授ける改組日展参与となる1970 虎(改組日展2回)1976 7月、くも膜下出血の疑いで入院、9月、退院10月、妻・つゆ子死去。虎(未完成)1979 5月23日、心不全のため自室で死去正五位に叙せられる東京亀有・見性寺鐘楼前の墓に葬る戒名・宝鏡院春覚龍雲大居士6月15日、従四位に叙せられる〔本年譜は「内藤春治作品展」(1981年、東京芸術大学芸術資料館)図録所載の年譜を転載したものである。〕

江本義数

没年月日:1979/05/18

微生物学者、学習院大学名誉教授、理学博士江本義数は、胃癌のため5月18日東京杉並区の浴風会病院で死去、享年86。1892年(明治25)年10月28日、東京市本所区に生まれ、学習院を経て、1917年東京帝国大学理科大学植物学科を卒業、34年「硫黄酸化細菌の生理」により理学博士の学位を授与され、同年学習院教授に任官、53年学習院女子短期大学教授(58年まで)、国士館短期大学教授に就任、61年国士館大学教授となり、学習院大学名誉教授の称号を授けられた。同49年天皇陛下に「温泉と硫黄バクテリア」について御進講、同年紺綬褒章を受章した。58年より74年まで東京国立文化財研究所保存科学部の調査研究員となり、法隆寺金堂焼損壁画、高松塚古墳壁画の微生物の調査と防除処理の研究を行った。主著は終生の研究を集大成した『日本変形菌原色図譜』(英文、1977年、産業図書)である。

須藤雅路

没年月日:1979/05/17

東京芸術大学名誉教授、東海大学教授の須藤雅路は、5月17日脳血センのため東京杉並区の西荻中央病院で死去した。享年78。1900(明治33)年10月2日福岡県宗像郡に生まれ、福岡県立中学修猷館を卒業後、20年東京美術学校図案科に入学、25年卒業する。同年香川県立工芸学校教諭となり27年まで在職、28年東京白木屋本店室内装飾部に転じたが翌年退き、福岡県商工技手となり福岡工業試験場(のち久留米工業試験場、内務省商工課に転ず)に勤務する。37年から大阪府商工技師となり大阪府工芸奨励館に勤務し、52年同館第三部工芸課長となる。53年東京芸術大学美術学部図案科教授に就任、68年に退官するまで東京芸術大学評議員を5度つとめる。またこの間、57年から60年まで意匠奨励審議会委員、59年デザイン奨励審議会委員、60年から62年まで東京都立工業奨励館評議員、64年教科用図書検定調査審議会調査員、65、67年に大学設置審議会専門委員等をつとめる。わが国デザイン教育の草分け的存在として後進を育成したほか、一時構造社絵画部に会員として所属した他、商工省図案展などに作品を発表する。68年に退官後、東京芸術大学名誉教授の称号を受け、引き続き東海大学教授として教鞭をとる。69年紺綬褒章、71年勲三等旭日中綬章を授けられる。

西八郎

没年月日:1979/05/11

自由美術協会会員の洋画家西八郎は、5月11日肝硬変のため東京立川市の川野病院で死去した。享年50。1929(昭和4)年10月24日京都府舞鶴市に生まれ、46年大阪市立美術研究所油画部に学ぶ、49年第13回自由美術展に「若い男」を初出品、以後没年まで同展に制作発表し、57年自由美術会会員となる。65年と73年に安井賞展出品、67年第1回靉光賞受賞、71年現代の幻想絵画展(朝日新聞社主催)に出品、翌72年から新鋭選抜展(三越)に出品し3回優秀賞を受ける。74年から77年まで雷典に毎年出品、また、同59年の夢土画廊を最初に、日本画廊(同69、70、78年)、ギャラリーヤエス(73年)などで個展を開催した。自由美術展への出品作に「人」(29回)「陽影の風景」(31回)「食卓」(32回)「冬」(35回)「群れ」(39回)「森」(40回)「森の貌」(41回)などがある。

小野竹喬

没年月日:1979/05/10

日本画家小野竹喬は、5月10日胃ガンのため京都市内富田病院で死去した。享年89。本名英吉。1889(明22)年11月20日岡山県笠岡市の小野才次郎の四男として生れた。1903年京都に出て竹内栖鳳の門に入った。1907年第1回文展に「山家の春」が初入選後、1909年には創立間もない京都市立絵画専門学校に入学した。在学中から新傾向の日本画を模索し、当時の旧芸術の行きずまりによる新しい芸術思潮や動向に強い関心をよせた。京都では1909年新帰朝の美術史家田中喜作や京都絵専教師の中井宗太郎等を中心に新しい芸術創造に主眼をおいたグループが結成されたが、そのうちの一つである黒猫会や仮面会の会員として竹喬も参加している。このような動向はやがて1918(大7)年土田麦僊、村上華岳らにより日本画革新を目指し、反官展派として結成された國画創作協会の旗上げとして実を結んだ。竹喬は麦僊、華岳らとともにこの会の中心作家として活躍したが、1928年同会解散後は官展に復帰し、戦後は専ら日展を舞台に活躍した。作品は専ら風景画で、初期の後期印象派の影響を受けた明るく豊かな感覚的画面から、次第に平面清新な作風へと移行し、晩年は「奥野細道」をテーマに連作を続けた。明治以降日本画の近代化は多くの画家たちによってすすめられたが、竹喬の画業もその歩みは日本画近代化の歴史そのものであった。そして竹喬は、日本画界の最長老として、淡々とした画境を若々しい彩筆により表現した。日本芸術院会員。文化勲章受領。代表作「島二作」「冬日帖」「仲秋の月」「宿雪」「池」「奥の細道、句抄絵-象潟や雨に西施がねぶの花」ほか。 年譜1889(明22) 11月20日、岡山県笠岡市に父小野才次郎母ハナの四男として生まれ、英吉と命名される。生家は浜中屋を屋号とする文具商であったが、のち、ラムネ製造業を始める。1902 笠岡小学校高等科を卒業し、家業を手伝う。1903 父の希望であった商人になることを嫌い、新劇俳優か、画家を志望する長兄益太郎(後に坪内逍遙の創立した文芸協会の第1回生として卒業)の勧めで画家になる決心をし、11月2日京都に出て、竹内栖鳳の門に入る。御幸町錦下ルの長兄の下宿に同居する。1905 竹内栖鳳から「竹橋」の雅号をもらう。油小路御池西入ルの寺で自炊生活を始めたが、許可を得て、栖鳳宅寄宿生となる。間もなく土田麦僊も寄宿生となり、親交が始まる。日本美術協会展に「月宵」が入選する。1906 4月、第11回新古美術品展に「夏の夕」を出品する。1907 4月、第12回新古美術品展に「雨の木屋町」を出品、4等褒状を受ける。10月、第1回文部省主催美術展覧会(文展)に「山家の春」を出品し、入選する。1908 栖鳳寄宿室を出て、下河原の益太郎宅に寄宿したのち、9月、富小路上ルに間借りする。4月、第13回新古美術品展に「春宵」を出品し、3等となる。10月、第2回文展に「落照」を出品する。1909 4月、土田麦僊とともに京都市立絵画専門学校別科に入学する。同科には他に野長瀬晩花がおり、本科2年には村上華岳、榊原紫峰、入江波光がいた。同月、第14回新古美術品展に「花の山」を出品し、5等となる。1910 4月、第15回新古美術品展に「暮るる冬の日」を出品し、3等となる。日の出新聞紙上で田中喜作に好評され、以後田中との親交が始まる。12月、田中喜作を中心とする懇談会「黒猫会(シャ・ノアール)」結成に参加。会員は津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也、泰輝男、土田麦僊らであった。1911 3月、京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作に「まつり」を出し、絵専美工校友会展で銀賞を得、学校の所蔵となったが、のちに仮面会展に出品した「南国」と取りかえる。4月、黒猫会は展覧会を開くことになったが、会員間の意見の相違のため解散し、5月、黒田、新井、田中(善)、土田と共に「黒猫会」の発展として「仮面会(ル・マスク)」を結成する。その第1回展を京都三条柳馬場京都青年基督教開館で開き、「南国」「朝」を出品する。10月、第5回文展に「港」を出品する。1912 5月、第2回仮面会展に「紺屋の裏」「学校」「棕梠」を出品する。この後、同会は会員の多くが京都を離れ、自然消滅する。同月、麦僊と共に知恩院山内崇泰院に移住する。1913 4月、第18回新古美術品展に「南島-春夏秋冬」を出品する。5月、岡山市郊外大供に移り、文展出品作を制作する。晩秋、再び上洛する。10月、第7回文展に「麦秋」を出品する。1915 10月、第2回院展に前年度文展の落選作「黍熟るゝ頃」を出品し、入選する。居を粟田口三条に移す。1916 10月、第10回文展に「島二作」を出品し、特選を受ける。居を室知恩院山内林下町に移す。1917 10月、第11回文展に「郷土風景」を出品したが鑑別される。居を室町出水上ルに移す。1918 1月20日、京都倶楽部で「国画創作協会」の結成を発表(この後1月21日、東京上野精養軒でも発表)。11月、第1回国画創作協会展(国展)を東京・白木屋で、引き続き京都・岡崎第一勧業館で開き、「波切村」を出品する。1919 11月、第2回国展に「夏の五箇山」「風景」を出品する。1920 11月、第3回国展に「海島」を出品する。1921 10月4日、土田麦僊、黒田重太郎、野長瀬晩花らと共に神戸出航の賀茂丸にて渡欧の途につく。途中、香港、シンガポール、マラッカ、ボンベイ等を経て、11月16日、マルセーユに着き、アビニヨン、リヨンを見学し、同18日パリに到着、ノートルダム寺院に近いセーヌ河畔のオテル・ビッソンに投宿する。1922 1~2月、イタリア、2月スペイン、3月イギリスを訪れ、4月5日帰国の途につき、5月20日に帰国する。帰国と同時に住居が、市電烏丸線の延長計画にかかり、立ち退きを迫られていることを知り、居を等持院南町に移し、アトリエを等持院北町に定める。雅号の「竹橋」を「竹喬」と改める。1923 11月、大阪毎日新聞社主催 日本美術展覧会に「村道」を出品する。1924 11月、第4回国展に「春耕」を出品する。3月、第5回国展に「長門峡」を出品する。1926 5月、第1回聖徳太子奉讃展に「八瀬村頭」を出品する。1927 4月、第6回国展に「青海」「波涛」を出品する。1928 4月、第7回国展に「冬日帖」を出品する。7月28日、東京・帝国ホテルで国画創作協会第1部(日本画)の解散を発表。11月、国画創作協会第1部会員ら26名によって設立された、新樹社の賛助会員になる。1929 9月、帝国美術院推薦となる。10月、第10回帝展に「山」を出品する。1930 10月、第11回帝展に「風浪」を出品する。7月、翌年1月、ベルリンで開催される日本美術展の国内公開展に「冬の室戸岬」を出品する。1931 等持院北町に移転する。1932 10月、第13回帝展に「立獅子峡」を出品する。1933 10月、第14回帝展に「はざまの路」を出品する。11月、竹内栖鳳の主宰する竹杖会が解散する。1934 5月、大礼記念京都美術館美術展覧会に「出靄」を出品する。1935 4月、春虹会(京都の帝展系作家16名に院展の冨田溪仙を加えた17名を会員として組織される)第1回日本画展に「稲」を出品する。10月、帝展出品無鑑査の指定を受ける。1936 9月、新文展審査委員に任命される。11月、新文展招待展に「室戸岬」を出品する。1938 4月、第3回京都市美術展覧会に「雪後」を出品する。1939 10月、第3回文展に「清輝」を出品する。同作品は京都市美術館に買上げられたが、終戦後の同館接収時に行方不明となる。1940 2月、大阪・高島屋にて個展を開催。「山峡の月」「溪潤」「帰樵」「洛北の春」「奈良早春」「喧春」「春霞」「深春」「富嶽」「松巒」「蔬菜」「石榴」「早晨」を出品する。7月、京都・佐藤梅軒画廊で入江波光・小野竹喬・榊原紫峰新作展が開かれ、「清宵」「層巒」「秋霽」「春暁」を出品する。9月、都市と芸術社主催、池田遙郎・小野竹喬山水画新作展が東京・銀座資生堂で開かれる。大阪毎日新聞社主催紀元2600年奉祝美術展覧会の審査員になる。1941 5月、第6回京都市展に「晴日」を出品する。9月、第4会文展審査員を委嘱される。1942 5月、岡山県の依頼で同県護国神社本殿用四季山水屏風を完成奉納する。11月、第1回十宜会展を東京・日本橋三越で開催(同会は京都作家10氏の会)1943 10月、第6回文展に「冬」を出品する。同作品を政府に買上げられ、ラウレル・フィリピン大統領に贈られた。1944 7月、平安神宮御鎮座50年、平安遷都1150年奉祝京都市美術展覧会に「月」を出品する。11月、文部省戦時特別美術展に「太平洋」を出品し、京都市に買い上げられる。1945 11月、第1回京都市主催美術展覧会(京展)に「新冬」を出品する。1946 9月、第2回日展の審査員を委嘱される。1947 3月、京都市美術専門学校教授となる。4月、帝国芸術院会員となる。6月、第3回京都市美術展覧会に「麓」10月、第三回日展に「仲秋の月」を出品する。1948 9月、第4回日展の審査員を委嘱される。10月、第4回日展に「新秋」を出品する。1950 4月、京都市美術専門学校が新制大学の京都市立美術大学として新発足し、その教授となる。1951 6月、第7回日展の審査員を委嘱される。10月、第7回日展に「奥入瀬の渓流」を出品する。1952 10月、第8回日展に「雨の海」を出品し、国立近代美術館に買い上げられる。1953 6月、第9回日展の審査員を委嘱される。10月、第9回日展に「夕空」を出品する。11月、京都市立美術大学教授を依願退職し、以後非常勤講師となる。1954 1月、第5回秀作美術展に「雨の海」が出品される。2月、東京・上野松坂屋にて「契月、翠嶂、竹喬」日本画展を開催される。7月、国立近代美術館で「大正期の画家」展が開催され、「島二作」が出品される。1955 1月、第6回秀作美術展に「夕空」が出品される。6月、第11回日展の審査員を委嘱される。日展参事となる。10月、第11回日展に「深雪」を出品する。1956 5月、第8回京展に「残照」を出品する。6月、第12回日展の審査委員を委嘱される。10月、第12回日展に「高原」を出品する。1957 1月、第8回秀作美術展に「深雪」が出品される。7月、東京・銀座松屋にて「小野竹喬写生展」(朝日新聞社主催“スケッチ展シリーズ”第11輯)を開催、「高原」など30点を出品する。9月、京都府ギャラリーにてスケッチ展を開催。1958 3月、社団法人日展の発足にあたりその常務理事となる。5月、第10回京展に「木」(スケッチ)を出品する。11月、第1回日展に「山月」を出品する。1959 11月、第2回日展に「曇り日の海」を出品する。1960 4月、東京・日本橋三越にて「小野竹喬日本画展」を開催。6月、日本中国文化交流協会・朝日新聞社共催の「日本現代画展」が中国各地で開催され、「高原」が展示される。9月、文部省、毎日新聞社主催明治・大正・昭和美術秀作展に「高原」が選ばれる。11月、第3回日展に「夕映」を出品する。1961 11月、第4回日展に「樹」を出品する。1962 1月、現代画壇の20人展に「深雪」を出品する。4月、現代美術京都秀作展に「夕映」が選ばれる。5月、第5回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「ヨウシュヤマゴボウ」を出品する。5月、第14回京展に「冬樹」を出品する。11月、第5回日展に「残照」を出品する。1963 9月、国立近代美術館の「近代日本美術における1914年」展に「島二作」が出品される。11月、京都市美術館の国画創作協会回顧展に「波切村」「海島」「冬日帖」が出品される。1964 1月、郷土出身芸術院4人展が岡山県総合文化センターで開催され、「雨の海」「深雪」「山月」「黎明」「彩秋」「夕映」「樹」「雲」「ヨウシュヤマゴボウ」「比叡」が出品される。1月、第15回記念秀作美術展に「残照」が選ばれる。4月、現代美術京都秀作展に「残照」が出品される。7月、昭和31年より38年まで続けられた朝日新聞主催の「スケッチ展シリーズ」完結記念の「50人画家展」が東京・銀座松屋で開かれ、「茜」を出品する。7月、国立近代美術館の「京都の日本画-円山応挙から現代まで-」展に「波切村」が出品される。11月、第7回日展に「洩れ日」を出品する。1965 11月、第8回日展に「夕雲」を出品する。京都の日本画展に「洩れ日」を出品する。1966 1月、現代美術京都秀作展に「洩れ日」が出品される。2月、毎日新聞に随想「絵画十話」を20回にわたり、連載する。6月、東京・高島屋にて「喜寿記念小野竹喬展」(毎日新聞社主催)が開催され、自選38点(大正2~昭和41年)が展示される。9月、三彩社より『小野竹喬作品集』が刊行される。11月、第9回日展に「宿雪」を出品する。11月、岡山県笠岡市の名誉市民章を受ける。1967 6月、京都国立近代美術館の「近代日本画の名作」展に「冬日帖」「残照」が出品される。11月、第10回日展に「池」を出品する。1968 5月、第8回現代日本美術展に「夕茜」を出品する。11月、文化功労者の表彰を受ける。1969 5月、京都市美術館において京都市主催「小野竹喬回顧展」が開催され、自選53点(大正2~昭和44年)、スケッチ50点(うち、滞欧作5点)が展示される。11月、勲二等に叙せられる。1970 4月、大阪・大丸の「日本巨匠20人展」(毎日新聞社主催)に「池」「宿雪」「夕茜」が出品される。11月、第2回日展に「沼」を出品し、京都市に買い上げられる。1971 9月、「天皇の世紀」原画展が東京・銀座吉井画廊新館で開催され、80点を出品する(朝日新聞連載、大佛次郎原作「天皇の世紀」の原画)。11月、兼素洞主催小野竹喬画展が開催され、8点を出品する。日本橋三越主催の彩交会展は6名の会員中2名死去したため、24会は新作展ではなく会員自選による回顧展となり、第17回出品の「湖山早春」と第22回出品の「晨」を出品する。この年、中央公論美術出版より『竹喬挿画』を刊行する。1972 4月、第24回京展に「交叉」(のち「樹」と改題)を出品する。11月、第4回日展に「1一本の木」を出品する。1973 9月、東京国立近代美術館の「開館20年記年現代の眼-近代日本の美術から」展に「雨の海」「山月」が出品される。10月、京都市名誉市民の称号を受ける。10月、岡山・高島屋で「小野竹喬展」(山陽新聞社主催)が開催される。10月、笠岡市市民会館の緞帳の原画「朝の海」完成。11月、東京・銀座松屋にて「竹喬素描展」が開催される。11月、京都市美術館の「開館40年記念昭和期における京都の日本画と洋画」展に「冬日帖」「夕映」「沼」が出品される。1974 4月、日本の四季・山本丘人との2人展(“日本の四季シリーズ”第1回)が北辰画廊にて開催される。5月、26回京展に「阿蘇火口」(スケッチ)を出品する。11月、第6回日展に「樹間の茜」を出品する。昭和19年、戦時特別展に出品し、京都市に買い上げられた「太平洋」を改作し、「海」として京都市美術館に納める。1975 2~3月、東京、大阪の三越で「画業60年記念小野竹喬展」(読売新聞社主催)が開催され、大正初期より昭和49年にいたる53点の主要作品と34点のスケッチを出品する。3月、京都・朝日画廊の開廊記念展として「小野竹喬墨彩画・スケッチ展」が開催される。4月、東京・銀座資生堂ギャラリーで「小野竹喬の画室展」(「作家のアトリエ」シリーズ)が開催される。5月、「奥の細道句抄絵」制作のため、山形県にスケッチ旅行し、最上川上流の隼、碁点にまで足をのばす。9月、2度目の「奥の細道」取材のため、単身、山形県及び秋田、新潟へ旅行する。1976 4月、山種美術館開催の「第2回現代日本画の10人展」に「春の湖面」「川の辺り」「京の灯」「樹間の茜」を出品する。山種美術館10周年記念展に「冬樹」を制作する。6~7月にかけて、朝日新聞社主催「奥の細道句抄絵展」を東京・大阪・京都・岡山の高島屋で開催する。11月、文化勲章を受章する。12月、心筋梗塞のため京大病院に入院する。1977 3月末、退院。6月、奥の細道ゆかりの酒田市本間美術館で「奥の細道句抄絵展」が開催される。10月、米寿記念『小野竹喬画集』が朝日新聞社より刊行される。第9回日展に「沖の灯」を出品する。1978 3月、京都・朝日画廊で「小野竹喬墨彩展」を開く。4月、山種美術館開催の「第3回現代日本画10人展」に「奥の細道句抄絵」より「田1枚」「笠嶋は」「涼しさや」「象潟や」「あかあかと」「暑き日を」が出品される。9月、白浜に転地療養する。10月、京大病院に入院、11月に退院する。1979 1月、冨田病院に入院する。4月、求龍堂より随筆集『冬日帖』が刊行される。5月10日胃癌のため、冨田病院で死去する。12日、自宅で密葬が行われ、5月22日北区の上品蓮台寺で告別式が行われ、同寺に葬る。法名・実相院殿覚法竹喬大居士。(小野竹喬遺作展図録に拠る。)

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