本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





蕗谷虹兒

没年月日:1979/05/06

挿絵画家で童謡『花嫁人形』の作詞者としても知られる蕗谷虹兒が、5月6日急性心不全のため静岡県田方郡の中伊豆温泉病院で死去した。享年80、本名一男。1898年(明31)年12月2日新潟県新発田市に生れ、少年の頃母の死去とともに奉公に出された。翌年の1912年新潟市長の世話で、同郷の日本画家尾竹竹坡の内弟子となって上京した。しかし父の病のため急遽帰郷し映画館の看板描きの仕事に就いた。のち樺太に渡り放浪5年にして再び上京したが、車中勉学費用の全てを盗難に遇という不幸に見舞われた。その日の糧を得るため竹久夢二の紹介により挿絵の仕事にたずさわった。はじめ「少女画報」に描いたが、読者への反響が大きかったため「婦人画報」「婦人倶楽部」にも筆をふるった。1921年東京、大阪朝日新聞連載の吉屋信子の長篇小説『海の極み』で挿絵を担当して著名となり、また「令女界」にも執筆した。ついで絵と文章による長篇小説『氷中の金魚』を「主婦の友」に連載し、1924年詩画集『睡蓮の夢』『銀砂の汀』を、1925年には同じく詩画集『悲しき微笑』を出版した。その後渡仏し研究所に通い、サロン・ドートンヌ等に出品したが、1929年弟嫁病のため帰国した。1935年詩画集『花嫁人形』を宝文館より出版し、また絵と文による長篇小説『二女妻』を「令女界」に連載した。戦時下の1942年には短歌雑誌『防人』を主宰し、また大日本航空美術協会の会員として、絵入り少年小説『大空への道』を出版した。1944年神奈川県山北町に疎開し、町の教育委員をつとめ、地元各新制校の校章のデザイン、校歌の作詞等を依頼されつくった。戦後は再び児童物に復帰し、1950年東映動画スタヂオで『夢見童子』を制作し、65年には郷里新潟日報に長篇『花嫁人形、海鳴り』を連載し、翌年新潟市西堀通りに『花嫁人形詩碑』が建立された。同年詩碑記念の個展が同市大和デパートで開催され、翌67年には長篇小説『花嫁人形』(絵・文講談社)が出版され、さらに翌年同社から『蕗谷虹兒抒情画集』が上梓された。また同じ年、新宿小田急デパートで『画業50年記念蕗谷虹兒抒情画展』が開催され、その後も東京三越ほか各地に個展を開催し、また出版活動も行った。1975年3月静岡県中伊豆町に移転した。彼の作品は、繊細で深い叙情性を秘めた画風で、モダンで洗練された独自の様式は、平俗な感傷的挿絵とは一線を劃すものであった。大正末から昭和初年にかけての出版界に活躍し、夢路についでの一時代をつくり挿絵界の寵児となった。代表作「オランダ船」(新潟県立美術博物館)「花火」(同)ほか。

バーナード・リーチ

没年月日:1979/05/06

英国人陶芸家で、日本にも深い関わりをもち、かつ国際的にも知られるバーナード・リーチは、5月6日イングランド南西部の漁村セントアイブスで死去した。享年92。リーチは1887(明20)年植民地の判事を父に香港で生まれ、生後間もなく母と死別し、京都在住の祖父のもとに引取られた。90年香港に戻り、97年帰国してロンドンのスレート美術学校でエッチングを学んだ。1909年再度来日し、新しいエッチングを紹介するつもりのところ、翌年陶芸家富本憲吉を知り、陶芸に興味をもつに至った。12年六代目尾形乾山に入門し、また白樺派の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦、浜田庄司らと親交を得、柳宗悦の民芸運動にも参加して、16年には柳宗悦邸内に仕事場を設けて作陶にはげんだ。20年親友浜田庄司を伴って帰国し、セントアイブスに窯を築いた。戦後は米国、北欧などでも陶芸を指導し、また日本でも屡々の個展を開催するなど陶芸を通じて東西両文化の橋渡しの役割を果たした。セントアイブスに窯を築いて以来50年以上にわたる陶芸活動はイギリスをはじめ世界の陶芸界に大きく貢献したが78年浜田庄司死去のころから視力衰え健康もすぐれなかった。生涯の作陶は10万点以上といわれるが、手元に置いていた作品の殆どは、イングランド西武バス市の20世紀工芸博物館に寄贈したといわれる。死去時新聞報道による哲学者谷川徹三氏の談話では、1974年来日した際殆ど失明状態であったという。またリーチは日本から多くの影響を受けたが、一方では彼の紹介による英国の民芸から浜田庄司が影響を受けたということもあり、日本の陶芸界にとっては忘れられない恩人であるとその死を悼んでいる。そしてその作品は、浜田庄司にも河井寛治郎にも及ばないが、世界的作家であることも確かであると述べている。著書に「陶工の本」(1940)「日本絵日記」(1955)「乾山」(1967)等があり、1969年来日時東京新聞に「十年目の日本」(1~5、1・3、4、5、6、9)を寄稿している。なお長男デービットも現在陶芸家として活躍中である。

吉川観方

没年月日:1979/04/16

日本画家で、風俗研究とその収集家として知られる吉川観方は、4月16日心不全のため京都市内の病院で死去した。享年84。1894(明27)年京都に生まれ、8歳で四条派の西堀刀水に絵を学び、また浮世絵研究を始め、中学校卒業後役者似顔の小版画つくり、1914年京都市立絵画専門学校予科に入学し、在学中木版役者絵を刊行した。同じく在学中の17年第11回文展に「舞台のかげ」が入選し翌年絵専本科を卒業した。この年、松竹合名会社に入社し、舞台意匠顧問となった。第12回文展に「花は散る日は暮るゝ」を出品し落選となった。20年同校研究家を卒業し、翌年前回に引つづき浮世絵を刊行した。25年より故実研究を中心に風俗研究及びその資料蒐集をすすめ晩年に至る。主著-「観方創作版画集」「衣服と紋様」上、下「2600年風俗図史」「写真日本風俗史」三巻ほか。72年2月奈良県文化会館で作品展が開催された。 略歴1894年 京都に生まれる1900年 岡阪鉄山に書を習う1901年 四条派の西堀刀水に日本画を習う1907年 藤原重浪に和歌の添削を受ける。上代様仮名を独習1909年 浮世絵の研究を始める1913年 京都府立第一中学校卒業。役者似顔の小版画を出す。これ以来関西に版画の復興を思い立つ1914年 京都市立絵画専門学校予科に入学1916年 京都ではじめて木版役者絵を刊行1917年 第11回文展に「舞台のかげ」入選1918年 絵画専門学校本科卒業。松竹合名社に入社、舞台意匠顧問となる。第12回文展に「花は散る日は暮るゝ」を出品するが落選となる1920年 絵画専門学校研究科卒業1922年 関西で初めて雲母摺大錦版舞妓大首図を刊行、ついで役者大首図も刊行1923年 故実研究会を創立。『観方創作版画集』を刊行1924年 泰東書道第1回展に入選受賞1925年 三木翠山と創作版画展を開催。これ以後は展覧会等に作品を発表せず、以来によって作品を描くようになる。又、故実研究会の活動を中心に、風俗研究や風俗資料の蒐集が盛んになる。1943年 この頃から、京都の今井氏と親交、同氏のために多くの作品を描く1945年 日本美術工芸交驩協会発会に参加1947年 この頃身延山に遊び日蓮宗管長の肖像画を描く1948年 この頃大分市の一丸氏の依頼で大作に取り組む1954年 春日大社の画所預となり、現在に至るが、その後はあまり描かず風俗研究・風俗資料蒐集・著作等に精力を傾ける。又、全国各地で風俗資料展を盛んに開催する1966年 京都新聞社から文化賞を受ける1968年 京都市から第1回文化功労者賞、金杯を受ける(奈良県文化会館開催展目録抜萃)

滝秋方

没年月日:1979/04/16

日本画家の滝秋方は胃ガンのため名古屋市の名鉄病院で死去した。享年76。本名甚一。1902(明35)年島根県に生まれ、1923年より27年まで韓国、満州、中国及び印度に旅行した。1931年より38年まで大阪朝日新聞社絵画嘱託の仕事にたずさわった。津田青楓、矢野橋村らにより1937年創立された、墨人会倶楽部の会員で、また秋方ほか小杉放庵、渡辺大虚により1939年創立された圏外社を主宰した。

青木大乗

没年月日:1979/04/05

日本画家青木大乗は、4月5日心不全のため兵庫県加西市の自宅で死去した。享年91。本名精一郎。1894(明治27)年5月1日大阪天王寺区に生れ、天王寺中学校卒業後京都関西美術院に洋画を学び、また京都絵画専門学校で日本画を学んだ。1924年新燈社洋画研究所を開設し、展覧会を開催した。35年これを解散し、以後日本画に転向した。37年結城素明、川崎小虎と大日美術院を創立して、新日本画の創造につとめ公募展を開いた。52年同院を解散し、欧米及び中国に旅行し取材作を発表した。69年東京、大高島屋にて回顧展を、78年には朝日新聞社主催にて「米寿展」を開催した。写実を基本にした深沈たる趣の画面は独自の画情を漂わせた。代表作「香心」(1924)、焚火(1937)、「古代土器」(1959)、「鯛」(1967)、「大鯛」(1977)、「大自然の微笑」(1978)。

由来哲次

没年月日:1979/03/28

哲学者で、日本浮世絵協会理事、古美術蒐集家の由良哲次は、3月28日食道ガンのため東京都練馬区の小山病院で死去した。享年82。号は白幽。1897(明治30)年2月7日奈良県添上郡に生まれ、滋賀県立師範学校、東京高等師範学校専攻科を経て京都帝国大学文学部に入学し、西田幾多郎、田辺元の下で哲学を専攻した。同学部では内藤湖南の史学科のゼミナールを好んで傍聴し、この頃買い求めた曽我蕭白の山水画の小幅が後の古美術蒐集のきっかけになったという。1927年同学部哲学科を卒業し、同学院を経て翌年ハンブルグ大学哲学科へ入学した。同大学ではカッシィラーの下でディルタイの解釈学を中心に研究をおこない、1931年学位論文『精神科学方法論の研究』にてドクトル・デァ・フィロゾフィの学位を受けた。帰国して同年東京高等師範学校教授となり、34年に東京文理科大学講師を兼任した。38年に日本大学芸術科教授を兼任して芸術認識論及び鑑定法を講義し、43年には神宮皇学館大学講師を兼任して日本思想史及び古神道を講義したが、45年に敗戦責任をとり東京高等師範学校を辞職した。戦後派1954年頃より日本思想史、美術史、日本古代史の研究に専念し始め、在野学者として活躍した。美術史の分野では昭和73年長野県上高井郡小布施町岩松院の大天井絵に着目して北斎研究をおこない、翌年二月その成果の一部を朝日新聞紙上に発表した。その後ボストン美術館改修費に三千万円の寄附をおこなったのをはじめ、1975年に奈良県学術振興に一億円を、77年に同県橿原考古学研究所に三億円を寄附し、78年には曽我蕭白、葛飾北斎の作品を中心とした生涯の美術品蒐集「由良コレクション」を奈良県に寄贈して79年3月勲三等瑞宝章を受章した。80年3月には奈良県立美術館増築落成を記念して、同館にて「由良コレクション展」が開催された。川端康成、中山義秀らと親交があったが、中学同級の横光利一との親交は特に篤く、横光没後三十年の追悼記念集の出版に際し自ら編集の任にあたった。著書は『歴史哲学研究』(1937年、目黒書店)、『南北朝編年史』(1964年、吉川弘文館)、『総校日本浮世絵類孝』(1980年、画文堂)、『邪馬台国は大和である』(1981年、学生社)など50点を超える。

青山二郎

没年月日:1979/03/28

美術評論と装丁家として知られる青山二郎は、心臓病のため東京渋谷区の自宅で死去した。享年77。少年時代から李朝陶器に関心を寄せ、収集して陶器の図録「鴎香譜」を刊行するなど陶磁器研究でも知られる。また若い頃は文学にも親しみ、小林秀雄、中村光夫、河上徹太郎、中原中也ら文章化や詩人などの交遊があった。著書に「陶経」「眼の引越」があり、戦後小林秀雄とともに創刊した「創元」に梅原龍三郎論、富岡鉄齋論を発表した。また装丁では中原中也「在りし日の歌」をはじめ多くの作品がある。

河井清一

没年月日:1979/03/26

日展参与、光風会名誉会員の洋画家河井清一は、3月26日肺ガンのため横浜市港北区の自宅で死去した。享年86。1891(明治24)年2月1日奈良市に生まれ、1916年東京美術学校西洋画科を卒業する。在学中の14年第8回文展に「幻想」が初入選、以後、文展、帝展、日展に制作発表を行う。22年第4回帝展出品作「こかげ」、28年第9回帝展出品作「休みの日」がいずれも特選を受け、33年帝展無鑑査となる。この間、光風会展に出品し、17年今村奨励賞、25年光風賞を受賞し、26年光風会会員となり、戦後も光風会で活躍する。また、32年から翌年にかけてフランス、オランダ、スペインに遊学し、帰国後の33年に資生堂で滞欧作記念展覧会を催す。46年日展会員となり第1回展に「T嬢の像」を出品、56年と64年の二度審査員をつとめる。66年日展評議員となり、70年日展参与となる。 日展出品目録1946年 T嬢の像(1回特選) いこい(2回)1947年 腰かける女(招待)1948年 更紗の前坐像(依嘱)1949年 熱海の冬(作嘱)1950年 安田氏像(作嘱)1951年 立てる少女(作嘱)1952年 朝のレッスン(作嘱)1953年 脚を拭く女(作嘱)1954年 朝(作嘱)1955年 休みの朝(作嘱)1956年 姉妹(審査員)1957年 女(依嘱)1958年 緑陰少女(会員)1959年 夏野朝(会員)1960年 洋子(会員)1961年 少女(会員)1962年 明るい部屋(会員)1963年 夏休みの朝(会員)1964年 麦秋(審査員)1965年 ひととき(会員)1966年 白樺の木陰(評議員)1967年 洋子座像(評議員)1968年 読書(評議員)1969年 お人形と少女(評議員)1970年 雪後白馬三山(参事)1971年 お花畑(参事)1972年 夏衣(参事)1973年 丘のながめ(参事)1974年 花もよう(参事)1975年 昼さがりの窓(参事)

志水楠男

没年月日:1979/03/20

南画廊主の志水楠男は、3月20日心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年52。1926(大正15)年4月29日東京都に生まれる。44年自由学園高等科を中退、翌年応召する。48年数寄屋橋画廊につとめ、50年山本孝と共同で東京画廊を設立、翌年日本橋に南画廊を創設する。その後海外の前衛美術を積極的に紹介し、サム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズ、アンドレ・デュシャンなどの作品を輸入する一方、山口長男、オノサト・トシノブ、堂本尚郎、飯田善国らの業績を紹介した。また、日本洋画商協同組合理事をつとめ、のち同組合から分離し東京相互会理事となった。

渡辺孝

没年月日:1979/03/14

二紀会同人の洋画家渡辺孝は、3月14日心筋硬ソクのため福島県伊達郡の自宅で死去した。享年52。1926(大正15)年7月21日福島県伊達郡に生まれ、1945年福島県立川俣工業学校染織科を卒業し教職に就く。49年から二紀会同人丸樹長三郎に師事し、51年同二紀展に「酒屋裏」が初入選、没後まで同展に制作発表を行い、62年二紀会同人となる。また、同68年からは新作家展にも出品を続ける。66年渡欧する。二紀展への出品作に「菓子工場」(6回)「砂による絵画群・無土著文化7」(第15回)「原始の祭祀」(18回)「蒼の季節A」(33回)などがある。

岡本爽太

没年月日:1979/03/13

挿絵画家岡本爽太は、3月13日スイ臓ガンのため東京渋谷の日赤医療センターで死去した。享年57。本名次郎。1921(大正10)年3月15日静岡県浜松市に生まれ、1941年東京美術学校油画科に入学したが、43年10月学徒出陣し45年帰国、46年卒業する。同48年まで学徒出陣した学生のために開設された教室で油絵研究を行う。47年第3回日展に「着物スリーブの女」、国画展第21回に「着物習作」(1)(2)がそれぞれ入選したが、その後挿絵に転じ、59年から翌年にかけて報知新聞に連載された尾崎士郎作「雷電」の挿絵で出版美術連盟賞を受ける。主な新聞小説挿絵に檀一雄作「海の竜巻」、山本周五郎作「風流太平記」、松本清張作「野盗伝奇」、遠藤周作作「快男児・怪男児」があるほか、単行本、雑誌等の装幀、口絵、挿絵も多い。

寺田春弌

没年月日:1979/03/12

洋画家、東京芸術大学名誉教授、寺田春弌は、3月12日午後3時20分、胃ガンのため熱海市の国立熱海病院で死去した。享年67。寺田春弌は、1911(明治44)年3月26日、横浜市に生まれ、神奈川県立横須賀中学校から同湘南中学に転じて1929年同校を卒業、1931年東京美術学校本科油画科に入学、藤島武二に師事、1936年3月同校を卒業した。1936年4月から名古屋市私立東海中学校に奉職したが、翌37年1月近衛師団高射砲第2聯隊に入営、4月砲兵科幹部候補生、11月傷疾により兵役を免除され、再び東海中学校に復職した。1939年夏、高砂族服飾の調査のため台湾に出張、1940年からは愛知県立岡崎中学校教諭、43年愛知県立明倫中学校教諭となったが、同年8月、生徒主事補、翌年7月からは助教授として東京美術学校に奉職した。一方、1936年第3回光風会展に「緑陰」が入選し、兵役の後1939年第26回展以後、44年まで毎回光風会に出品した。1946年光風会会員に推挙されたが、翌47年に一水会に転じ会員となり、1956年まで毎回出品、57年退会した。1949年東京芸術大学美術学部助教授となり、1953年11月ヨーロッパ留学し、ルーヴル美術館極東科学研究所において油彩画保存及び古画修復技術、材料研究に従事し、また諸国を歴遊した1955年2月に帰国した。1957年、国際具象作家協会創立に参加し運営委員となり第1回展から第5回展まで出品した。以後、作家活動としては、個展において作品を発表した。1961年9月~11月ヨーロッパ・アメリカへ出張し、このとき、I.I.C.(歴史美術資料保存国際学会)会員となる。1969年東京芸術大学美術学部教授となり、同年重要文化財「慶長遣欧施設関係資料」の調査修復に従事し、また、ボッティチェルリ作「シモネッタの肖像」の科学的調査研究にも従った(のちに西欧学芸研究所から報告書刊行)。そのほか、1971年高松塚古墳絵画の恒久保存対策委員、赤坂離宮迎賓館天井壁画の壁画の修復などにあたり、1974年には東京芸術大学附属芸術資料館館長をつとめ78年退官、同年東京芸術大学名誉教授となった。

八木一夫

没年月日:1979/02/28

京都市立芸術大学教授の陶芸家八木一夫は、2月28日心不全のため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年60。1918(大正7)年、7月4日京都市東山区に生まれ、37年京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業する。その後陶芸に専念し、47年第3回日展に「白瓷三彩草花文釉瓶」が入選したが、同年「青年作陶家集団」の趣意書を発表、その第1回展を行い、48年同集団解散後、美術陶芸グループ走泥社を結成主宰し、伝統にとらわれない自由な陶芸をめざし、オブジェ焼きという新分野を開いた。50年パリ・チェルヌスキー博物館での現代日本陶芸展、51年イタリアのファエンツァ陶磁器博物館に出品、59年第2回国際陶芸展(オステンド)、62年第3回国際陶芸展(プラハ)に出品しいづれもグラン・プリを受賞した。71年京都市立芸術大学美術学部教授となり、同年第11回オリンピック冬季大会入賞メダルのデザインを担当する。73年には京都市立芸術大学シルクロード調査隊隊長としてイラン、アフガニスタン、パキスタンに赴く。また、66年ロサンゼルス、74年ギャラリー射手座(京都)、78年伊勢丹(東京)で個展を開く。没後の81年京都国立近代美術館、東京国立近代美術館で、「八木一夫展」が開催された。主要作品に「金環触」(48年)「ザムザ氏の散歩」(54年)「雪の記憶」(59年)「碑妃」(62年)「壁体」(64年)「素因の中の素因」(69年)「メッセージ」(73年)「密着の距離」(74年)「教義」(78年)など。 年譜1918年 7月4日、陶芸家八木一艸(栄二)の長男として、京都市東山区に生まれる。1925年 京都市立六原尋常小学校に入学する。1931年 六原尋常小学校を卒業と同時に、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学する。彫刻を石本暁海、松田尚之、矢野判三に、デッサンを太田喜二郎に、美術史を加藤一雄に学ぶ。1937年 美術工芸学校彫刻科を卒業し、商工省陶磁器試験所の伝習生となる。また、この頃同試験所の指導にあたっていた沼田一雅の日本陶彫協会が結成され、これに入会して陶彫を学ぶ。1939年 1月、三越(東京・日本橋)で日本陶彫協会第1回展が開かれ出品する。5月、大阪歩兵第八聯隊に補充兵として入隊する。8月、南支広東方面へ派遣されたが、9月に発病し、現地で入院ののち帰国する。1940年 8月、補充兵免除となり、除隊する。1943年 神戸市立中宮小学校の図工科教員となり、ついで、京都の立命館第二中学校助教諭となる。1946年 立命館第二中学校を退職し、陶芸に専念する。9月、中島清を中心とし、若い陶芸家による「青年作陶家集団」が結成され、伊東奎、大森淳一、田中一郎、山田光、山本茂兵衛、松井美介、斉藤三郎らとともに、その創立に加わる。11月には鈴木治も参加する。1947年 2月、「青年作陶家集団」の趣意書を発表する。5月、青年作陶家集団第1回展(京都・朝日画廊)に«掻落向日葵図壺»を出品する。10月、第3回日展に「白瓷三彩草花文釉瓶」で初入選する。青年作陶家集団第2回展(朝日画廊)に「春の海」を出品する。1948年 5月、京展工芸部に«金環触»を出品し、京都市長賞を受賞する。第1回パンリアル展(丸善画廊)に出品する。6月、前年、富本憲吉を中心に結成された、新匠工芸会の第1回展に出品する。7月、青年作陶家集団は第3回展ののち、会員間の芸術上の見解の差異から解散し、八木は鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫とともに「走泥社」を結成する。9月、第1回走泥社展を大阪・高島屋で開催。1949年 この年、京都、七彩工芸の嘱託となり、マネキンを造る。八木一艸・一夫二人展を朝日画廊で開く。1950年 3月、ニューヨーク近代美術館に«少女低唱»«飛翔するカマキリ»など4点が陳列される。4月、京都市美術館事務所で第2回走泥社展を開く。11月、パリのチェルヌスキー美術館で「現代日本陶芸展」が開かれ、出品する。1951年 3月、イタリアのファエンツァ陶磁博物館で日本部が新設されることになり、楠部弥弌、近藤悠三、清水六兵衛、宇野三吾、石黒宗磨、鈴木治らとともに八木の作品が送られる。走泥社展-京都市美術館、京都府ギャラリー、東京和光1952年 染織作家高木敏子と結婚する。須田剋太、津高和一、植木茂、中村真らを中心に非形象と抽象造形を目ざす、現代美術懇談会が結成され、これに参加する。他に吉原治良、森田子龍、早川良雄らが参加した。走泥社展-京都市美術館、毎日新聞社京都支局ホール、東京和光。1953年 走泥社展-京都市美術館、東京和光。1954年 8月、京都府ギャラリーで個展を開く。11月、現代美術懇談会の展覧会ゲンビ展(京都市美術館)に出品する。同展は吉原治良、津高和一、須田剋太、宇野三吾、森田子龍らの作品百数十点を展示。12月、フォルム画廊(東京)で個展を開き、この時«ザムザ氏の散歩»を出品する。走泥社展-京都市美術館、東京和光。1955年 3月、長男 明誕生。4月、個展。この年から、無釉焼締のオブジェ作品を造る。走泥社展-京都市美術館、東京和光。1956年 6月、タケミヤ画廊(東京)で個展。7月、次男 正誕生。11月、京都市美術館主催「新人グループ展」に出品する。走泥社京都展はこれをもって代行する。1957年 京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)彫刻科非常勤講師となる。この年、初めて黒陶作品を造る。走泥社展-京都市美術館、東京高島屋。1958年 今東光が工房に来訪し、八木の器に絵付をし梅田画廊(大阪)で二人展を開く。走泥社展-京都市美術館、丸越デパート(金沢)。走泥社クラフト展-白木屋(東京)。1959年 4月、国立近代美術館(東京)の「現代日本の陶芸」展に出品する。10月、第2回国際陶芸展(ベルギー・オステンド)に出品の«鉄象嵌花壺»がグラン・プリを受賞する。走泥社展-京都市美術館、西武百貨店(東京)。1960年 走泥社展一京都市美術館、西部百貨店(東京)。1961年 京都・パリ交歓陶芸展に選ばれる。同展は2月京都市美術館で披露され、5月、セーブル付属博物館で開かれる。走泥社展-京都市美術館。1962年 8月、第3回国際陶芸展(チェコスロヴァキア・プラハ)に«碑・妃»を出品しグラン・プリを受賞する。走泥社展-京都市美術館、新宿画廊(東京)。1963年 4月、国立近代美術館京都分館の開館展「現代日本陶芸の展望」展に«作品1»«作品2»を出品する。10月、国立近代美術館京都分館の「工芸における手と機械」展に«花器»«鉢»を出品する。フジカワ画廊(大阪)で個展。走泥社展-京都市美術館、新宿画廊(東京)1964年 8月、国立近代美術館・朝日新聞社主催の「現代国際陶芸展」に実行委員を委嘱され、同展«黒陶»を出品する。同展は以後、京都、久留米、名古屋を巡回。9月、国立近代美術館京都分館の「現代日本の工芸」展に«書簡»を出品する。紅画廊(京都)で個展を開き、黒陶オブジェ、クラフトなど20数点を出品する。11月、銀座松屋で個展を開く。この頃から焼締とともに、黒陶による皺寄せのオブジェ作品が多く見られる。『信楽・伊賀』(日本のやきもの・淡交社、共著)が刊行される。走泥社展-京都市美術館。1965年 翌年にかけて、サン・フランシスコ、デンヴァー、ニューヨーク等、アメリカ8都市巡回、ニューヨーク近代美術館主催の「日本の新しい絵画と彫刻」展に招待出品する。«雲の記憶»がニューヨーク近代美術館に収蔵される。9月、丸善画廊(仙台)で「八木一夫・照倉順吉二人展」を開催する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。1966年 3月、ロサンジェルスでの個展を披露する展観を山田画廊(京都)で開く。3・4月、ニューヨークで開催の「ジャパン・アート・フェスティバル」に招待出品する。4月、フェイガン・パルマー画廊(ロサンジェルス)で個展。5月、京都市美術館で「八木一夫作品展」(平常陳列として、「近代フランス・ポスター」展、宇野三吾作品展」と併陳)11・12月、壱番館画廊(東京)で「八木一夫・壺展」を開き、信楽焼作品を中心に発表する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。1967年 11月、京都市美術館での第30回走泥社展にガラス作品を発表する。12月、壱番館画廊(東京)で「辻晋堂・八木一夫展」を開き«帽子»«環境の指»などを発表する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1968年 2・5月、京都・東京国立近代美術館の「現代陶芸の新世代」展に出品。4月、京都教育大学非常勤講師となる(1971年4月まで)。10月、伊勢丹(東京)での「陶」個展に«髪のデザイン»«頭は先に進む»を発表する。『風月』(日本の文様・淡交社、共著)が刊行される。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹(東京)。1969年 1月、『「八木一夫作品集』(求龍堂)が出版される。2月、壱番館画廊で「八木一夫作品集刊行記念展」が開かれ、«碑・妃»(1962)から«みんなさかさま»(1968)まで10数点を出品。11-12月、伊勢丹で八木一夫銅器展を開き«花の花生»«知恵の輪»«ニュートンの耳»など30数点を発表する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1970年 10-11月、京都国立近代美術館開催の「現代の陶芸-ヨーロッパと日本」展に«投石»を出品する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1971年 3月、天満屋(岡山)で個展。4月、京都市立芸術大学美術学部陶芸科教授となる。10-12月、12-1972年1月、京都、東京国立近代美術館での「現代の陶芸-アメリカ・カナダ・メキシコと日本」展に«頁1、2、3»3点を出品。11月、第34回走泥社展で「本のシリーズ」を発表する。田中一光とともに、札幌での第11回冬期オリンピック冬季大会の入賞メダルのデザインを担当する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1972年 6月、伊勢丹で「八木一夫個展」を開き、本のシリーズ«頁1»«とり»«ブラック・メッセージ»などを発表する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1973年 7月、京都市立芸術大学シルクロード調査隊隊長として、パキスタン・アフガニスタン、イランに赴く。9月2日、父、一艸が死去し、帰国。日本陶磁協会金賞を受賞する。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1974年 5月、立体ギャラリー・射手座(京都)で「八木一夫個展」を開き、黒陶による手のシリーズ«流離»«喝采のスペース»など約40点を発表する。走泥社展-伊勢丹、天満屋(岡山)、京都市美術館。1975年 5月、益田屋(東京・新宿)で「八木一夫花の器展」を開く。平安画廊(京都)で「八木一夫版画展」を開き、エッチングなどを出品。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1976年 7月、宇治市炭山に開窯し、米★居、牙州窯と命名する。8月、エッセイ集「懐中の風景」が講談社より刊行される。9-翌年1月、東ドイツ・ロストック、ドレスデンで開かれた「日本陶磁名品展」(日本経済新聞社主催)に«信楽土管»(1966)«名月»(1969)«NO»(1972)を出品。10月、益田屋開催の「茶陶五人展」に楽茶碗を出品。走泥社展-京都市美術館、伊勢丹。1978年 10月、FIAC’78(パリ画商展)に陶板「俳句シリーズ」による個展(カサハラ画廊主催、グラン・パレ)10月、益田屋で「八木一夫・鈴木治茶陶二人展」を開く。11月、伊勢丹で還暦記念の「八木一夫展」を開き、«ザムザ氏の散歩»«盲亀»«アリサの人形»など新旧作品を対比した展示を行う。翌年にかけて、デュッセルドルフ、ベルリン、ストゥットゥガルト巡回の「日本陶芸展」(文化庁主催)に«花をもつ少女»を出品。走泥社展-京都市美術館・伊勢丹。1979年 2月28日、心不全のため急逝する。3月2日、自宅で密葬、3月10日、天龍寺慈済院で告別式を行う。(本年譜は「八木一夫展」-京都国立近代美術館、東京国立近代美術館編、1981年-収載の年譜を一部添削し掲載した。)

土肥刀泉

没年月日:1979/02/23

日展参与の陶芸家土肥刀泉は、2月23日急性肺炎のため千葉市の椎名病院で死去した。享年80。本名卓。1899(明32)年3月31日千葉県印旛郡に生まれ、1917年旧制成田中学を卒業、19年頃から陶器の試作を行い、23年千葉市へ移り独学で研究を続ける。27年東陶会創立に参加し会員となる。帝展、文展に出品し、戦後は日展に出品を続けた。50年第6回日展に「牡丹文辰砂花瓶」が入選、52年第8回日展に「釉彩花瓶」を委嘱出品、55年第11回展に審査員をつとめ「仙果文手付花瓶」を出品、58年会員となり、64年評議会員、74年参与となった。また、72年勲四等瑞宝章を受章する。日展への出品作は他に、「釉彩手付花瓶」(62年)、「琅瓷釉際花瓶」(74年)など。

加藤春二

没年月日:1979/02/15

陶芸家、愛知県無形文化財保持者の加藤春二は、2月15日老衰のため愛知県瀬戸市の自宅で死去した。享年87。1892(明治25)年2月11日愛知県瀬戸市の葵窯々元の家に生まれ、幼時から製陶に従事する。1926年二代春二を襲名、31年加藤唐九郎らと瀬戸六作展(東京ほていや)、34年には加藤作助、加藤唐三郎と阪急で三人展を開催する。40年戦没者の慰霊のための観音像を依頼され熱海伊豆山に「興亜観音」を制作する。戦後は67年名古屋松坂屋で個展を開催する。75年古瀬戸、織部焼で愛知県無形文化財保持者に認定される。また、瀬戸陶芸家協会に所属し、参与、顧問をつとめた。古瀬戸釉、織部釉による茶碗、水差し、茶入れなどの茶陶を中心に独自の作品を制作した。

上田弘明

没年月日:1979/02/14

京都市立芸術大学教授、無所属の彫刻家上田弘明は2月14日死去した。享年51。1928(昭和3)年1月9日奈良市に生まれ、県立奈良中学校卒業後松山海軍航空隊に入隊、戦後の46年京都市立美術専門学校日本画科に入学、翌年彫刻科へ転じ、52年卒業と同時に同校彫刻科実習助手となる。55年日本美術院院友に推挙され、翌年の第41回展から43回展まで「蝙蝠」「松籟」「牛車」を出品する。57年京都市美術展で市長賞を受賞、以後同展で須田賞を受賞、審査員も歴任する。60年、洋画家、彫刻家、評論家からなるZEROの会の結成に参加し、研究会を行い毎年作品を発表する。70年、京都市立芸術大学助教授(美術学部彫刻科)となり、75年教授となる。この間、71年ニュージーランド国際彫刻シンポジュームに参加しオークランドへ赴き、73年の「花と彫刻展」(大阪エキスポランド)、74年神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「開く石」を出品参加する。一貫して石彫を続け、花崗岩による作品を多く残す。没後、80年京都市美術館で遺作展が開催され、82年『上田弘明の石彫』が刊行された。

望月春江

没年月日:1979/02/13

日本画家望月春江は、2月13日心不全のため東京慈恵医大付属病院青戸分院で死去した。享年85。本名尚。1893(明26)年11月13日山梨県西山梨郡の教育者の家に生まれ、1913年山梨県立甲府中学校を卒業した。医学を志して上京し、たまたま美術史学の大家であった中川忠順にその画才を認められ、1914年東京美術学校日本画科に入学した。教授陣に川合玉堂、寺崎広業、結城素明、小堀鞆音、松岡映丘等が居り、1919年卒業後は結城素明に師事した。この年文部省文部大臣官房図書課の嘱託となり、翌年東京女子師範学校の講師となった。のち教授となったが1927年退職し、実践女子専門学校講師をつとめる。1921年第3回帝展に「春に生きんとす」が初入選し、第5回以後連年同展に出品し、第9回「趁春」、同10回「明るきかぐのこの実」は特選となった。1937年新文展開催後は、同展に出品したが、1938年は同士とともに日本画院を結成し、創立同人となった。1941年文展審査員となり、同年第4回文展に「蓮」を出品した。1945年戦局の酷しさとともに山梨県の生家に疎開したが終戦後東京に戻り、1948年には台東区谷中清水町に転居した。作品は日展及び日本画院展に発表し、1958年第13回日展出品作「蓮」では日本芸術院賞を受賞した。1977年9月には東京セントラル美術館において、日本経済新聞社主催により画業60年回顧展が開催され画業の全貌がはじめて公開された。作品は専ら花鳥画の探求にあり、ことに花卉図を多く描いた。作風は日本伝統的流れに立もので、堅実な写実を基礎とし、琳派や近代的感覚を投入した花卉図等は重厚にしてかつ新鮮な特色を示した。代表作-「趁春」「黄牡丹黒牡丹」「蓮」ほか。略年譜1893(明治26年) 11月13日山梨県西山梨郡に、望月宗正、もとの二男として生まれる。本名尚、兄弟は男3人女7人の10人。父宗正は山城尋常高等小学校長を最後とし、県下の諸小学校長として教育につくした。1908 山城尋常高等小学校高等科を卒業し、山梨県立甲府中学校に入学する。1913 山梨県立甲府中学校を卒業(特待生)し、医者を志して上京したが、そのころ中学のときに描いた人物画が美術史家中川忠順の目にとまり画家になることをしきりに勧められる。1914 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学。当時の日本画科の教授は川合玉堂、寺崎広業、結城素明、小堀鞆音、松岡映丘。1919 東京美術学校日本画科を首席で卒業。卒業制作は「春」、卒業後も研究科に残り結城素明に師事する。文部省文部大臣官房図書課の嘱託となる。1920 東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)講師となる。のち教授となり、昭和2年退職する。1921 第3回帝展に「春に生きんとす」が初入選。この作品の制作中に中川忠順より春江の雅号を受ける。1924 第5回帝展に「果樹二題」を出品入選。1926 第7回帝展に「暁霧」を出品入選。1927 第8回帝展に「小春の末」を出品入選。実践女子専門学校講師となり、昭和7年まで勤める。1928 第9回帝展に「趁春」を出品、特選となる。1929 遠藤芳子と結婚する。東京府荏原郡大井町坂下に住む。第10回帝展に「明るきかぐのこの実」を出品、特選となる。1930 帝国美術院の無鑑査に推薦される。長男幸夫誕生。第11回帝展に「朝露の畑」を出品。1931 東京府大森新井宿に移転。第12回帝展「短かき秋日」出品。外務省買上げ。1932 長女澄子(美江)誕生。東京府本郷区駒込千駄木町に移転。第13回帝展「春の光」出品。外務省買上げ。1933 第14回帝展「香山盛夏」出品1934 第15回帝展「晨明」出品1936 文展招待展「霜おく頃」出品二女みどり誕生。1937 第1回文展「白雨」出品。この年東京府養生館「鈴の屋の本居宣長」完成。1938 同士と共に日本画院を結成し創立同人となる。第2回文展「美ヶ原」出品。1939 第1回日本画院展に「花と古玩」、第3回文展「ダリヤ」出品1940 紀元2600年奉祝美術展「雁来紅」招待出品。1941 文展審査員。第4回文展「蓮」出品。1945 戦況悪化し山梨県住吉村の生家に疎開、終戦後東京に戻る。1946 まだ福島に疎開中の恩師結城素明の本郷西片町の画室に家族と共に生活する。春、第1回日展「百合」出品。秋には第2回日展「ざくろ」出品。1947 日展公選審査員に当選。第3回日展「紅蜀葵」出品。1948 東京都台東区谷中清水町(現在は池之端)に移り住み、空き地に種々の草花を植え画材にする。この庭の花を画材にした主な作品に「カンナ」(第5回日展)、「鶏頭花」(第6回日展)、「花げし」(第3回日本美術協会展)、「リラ」(第13回日本画院展)、「庭の花(鉄線花)」(第8回日展)などがある。第4回日展「白桃」出品。1949 日本美術家連盟委員となり、以後理事をつとめる。1950 日展審査員。第10回日本画院展「蝶と花」出品。朝日選抜秀作展出品。1951 第11回日本画院展「春韻」出品。選抜秀作展出品。1952 第12回日本画院展「つばき」出品。選抜秀作展出品。1953 第9回日展「れんげつつじ」出品。1954 第10回日展「ぶどう」、第7回日本美術協会展「花」出品。選抜秀作展に選ばれる。1955 第11回日展「だりあ」出品。1956 日展審査員。第12回日展「黄牡丹黒牡丹」、第16回日本画院展「黄牡丹」出品。「黄牡丹黒牡丹」選抜秀作展出品。1957 第13回日展「蓮」出品1958 第13回日展出品作「蓮」により日本芸術院賞を受ける。日展改組により評議員となる。改組第1回日展「麦穂」、第3回現代日本美術展「菊」出品。1959 日展審査員。第2回日展「棕梠の花」、第19回日本画院展「棕梠」、国際美術展「ねぎの花」出品。1960 日本橋三越に個展開催。第20回日本画院展「睨(サーバルキャット)」出品。第3回日展「鷺」、現代日本美術展「花(椿)」出品。「黄牡丹黒牡丹」(第12回日展出品作)を中国で開催された「現代日本画展覧会」に出品。1961 第4回日展「山に咲く」、第21回日本画院展「筍」、国際展「翔(鷺)」出品。1962 第5回日展「牛」、第23回日本画院展「棲む(鮒)」、現代日本美術展「実と花」出品。「実と花」選抜秀作美術展に出品。1963 第6回日展「天翔」、第23回日本画院展「実をつけし茨」、国際展「地」出品。1964 第7回日展「仙人掌」、第24回日本画院展「はこえび」、現代日本美術展「鳥」出品。1965 第8回日展「咲く」、第25回日本画院展「庭」出品。1966 第9回日展「百合」、第26回日本画院展「鯉」、第1回日春展「春花譜(チューリップ)」出品。1967 第10回日展「寿石」、第27回日本画院展「花菖蒲」出品。1968 第11回日展「泰山木」、第28回日本画院展「ぶどう」、五都展「麗日」出品。1969 改組第1回日展「夕べに匂う」、第29回日本画院展「黄色い霜」出品。1970 日本美術家連盟理事長になる。(昭和49年まで)東京純心短期大学教授となる。第2回日展「胡蝶」、第30回日本画院展「立夏」出品。1971 勲四等旭日小綬章を受ける。第3回日展「菖蒲郷」、第31回日本画院展「菖蒲」出品。1972 第4回日展「喜雀春光」、第32回日本画院展「金雀」出品。1973 日本経済新聞連載小説、立原正秋「残りの雪」の挿絵を284回にわたり担当する。第5回日展「香柚暖苑」、第33回日本画院展「香果白猫」出品。1974 日展参与第6回日展「山の百合」、第34回日本画院展「初霜」出品。1975 皇居新宮殿のために「花菖蒲」を制作。第7回日展「秋の陽」、第35回日本画院展「はつなつ(桐)」出品。山梨県特別文化功労者となる。1976 第8回日展「白梅譜」、第36回日本画院展「寒月梅花」、第11回日春展「冬日」出品。1977 第9回日展「水仙の里」、第37回日本画院展「春の詩」出品。1978 第104回日展「向日葵」、第38回日本画院展「惜春」出品。1979 2月13日没(略年譜 画業六十年望月春江展カタログに拠る。)

桑原実

没年月日:1979/02/11

二科会会員、東京芸術大学教授の桑原実は、2月11日午前7時45分、脳内出血のため東京板橋区中村町の木村病院で死去した。享年66。久原実は、新潟県刈羽郡の出身で、1912(明治45)年3月10日に生まれ、1929年新潟県立長岡中学校を卒業、翌30年東京美術学校図画師範科に入学し、1933年3月に卒業した。同年、東京市下小岩尋常小学校代用教員となり、1935年同校訓導、39年池袋第5小学校、1946年東京第二師範学校、49年東京学芸大学となり、51年東京学芸大学附属豊島小学校教諭、54年東京大学教育学部附属中学校、同高等学校教諭、67年東京芸術大学助教授に転出、同大附属音楽高校教諭を兼務した。1970年東京芸術大学教授となり美術教育過程を担当した。作家活動としては、1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品、1942年会友、47年会員に推挙された。その間、ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事などをつとめた。 二科展出品年譜1935年 22回展 「父と子」1936年 23回展 「起重機」1937年 24回展 「窓」1938年 25回展 「カルスト」1939年 26回展 「彫刻家」1940年 27回展 「自転車」1941年 28回展 「勢揃へ少年群」1942年 29回展 「黙想する少年達」1946年 31回展 「散髪」「食べる人達」「路傍の兒」「建物」1947年 32回展 「夏の子供」「人々」「真昼」1948年 33回展 「アパート裏」1949年 34回展 「ロータリー」「カルスト」1950年 35回展 「街」1951年 36回展 「夜」「プール」「一偶」1952年 37回展 「夜のプール」「お化け煙草」「原っぱを通る若い夫婦」「屋上で褌を干す子供」1953年 38回展 「踏切番」「水の上の群像」1954年 39回展 「双生児の学園」「スポーツの後」「街頭の人」1955年 40回展 「双生児連弾」「甲冑」「昼の花火」1956年 41回展 「エキスパンダー」「背負う人」1957年 42回展 「鴉」「塑像する小女と」1958年 43回展 「テトラポット」「鳩と老人」「働く人」1959年 44回展 「シャワー」「漁港の群像」「テトラポット」1960年 45回展 「岩と青年」「犬と青年」1961年 46回展 「野焼」「火山灰地」1962年 47回展 「高原」「青年集う」1963年 48回展 「プールサイド」「運ぶ人」1964年 49回展 「ピカドール」「アクロポリスの石工」1965年 50回展 「尼のいる構図」「ハタハタ水あげ」1966年 51回展 「ピカドール行進」1967年 52回展 「HATAHATA」「JOREN」1968年 53回展 「石を刻む」「セベリアの道路工夫」1969年 54回展 「断絶の子ら」「漁獲」1970年 55回展 「コルドバの老人」「断絶の母子」1971年 56回展 「ドウォモ広場の風船売」1972年 57回展 「生えの祷り」1973年 58回展 「International Airport Waiting room」1974年 59回展 「モスクの人々」1975年 60回展 「メデイナの外壁(モロッコ)」「メデイナの入口(モロッコ)」1976年 61回展 「メデイナの父子(モロッコ)」「ルクソールの休日(エジプト)」1977年 62回展 「ジェルバ島の渡し(チュニジア)」「遊牧の人々(チュニジア)」1978年 63回展 「オアシスの洗濯(チュニジア)」「ラクダの馭者(チュニジア)」1979年 64回展 「ラクダの馭者(チュニジア)」

池辺陽

没年月日:1979/02/10

東京大学教授、建築家の池辺陽は、2月10日食道ガンのため東京都新宿の東京女子医大付属消化器病センターで死去した。享年58。1920(大正9)年4月8日釜山に生まれ、42年東京帝国大学工学部建築科を卒業、44年坂倉建築研究所に入所、46年東京帝国大学第二工学部講師となる。47年新日本建築家集団(NAU)の創立に参加、翌年新制作協会建築部(現スペースデザイン部)創立に参加し同協会展に制作発表する。49年東京大学第二工学部助教授となり、50年財団法人建築工学研究会理事に就任する。58年日本建築学会のメートル法と建築モデュール委員会委員、60年ISO(国際標準化機構)TC59(建築)会議日本代表となる。62年「空間の寸法体系、GMデュールの構成と適用」により学位(工学博士)を受ける。63年日本建築学会設計方法小委員会主査となる。64年東京大学宇宙航空研究所における地上施設を担当、秋田道川、鹿児島内ノ浦宇宙観測基地の全施設の設計にたずさわる。65年東京大学生産技術研究所教授となり、同年環境と工業を結ぶ会(DNIAS)を創立する。67年通産省産業構造審議会専門委員に就任、68年身体障害者のための施設研究組織(TESTEM)を創立する。71年通産省Gマークユニット部門審査委員長、科学技術庁テクノロジーアセスメント委員会高層建築部門主査となる。73年東京国際見本市協会東京国際グッドリビングショーの基本計画に従事、74年には日本建築学会建築計画委員会委員長となる。戦後の住宅近代化の推進者の一人で、厨房器具、サッシ、洗面器具など建築部品の規格化、工業生産化を指導し、その功績で78年に通商産業大臣賞を受賞した。95の住宅設計もある。主要作品に住宅作品No.1~95(48-78年)、渋谷都市計画(46年)、下関復興都市計画(46年)、別府都市計画(47年)、沼津産業会館(53年)、東京大学宇宙航空研究所宇宙観測基地地上施設群(56年-72年)、秋田県立中央病院(57年)、キッチン’58(58年)、籐椅子(60年)、基本ユニット家具(60年)、身体障害者の実験住宅(71年)など。著者に『すまい』(54年)、『デザインの鍵-人間・建築・方法』(79年)などがある。 新制作展出品目録14回 「キッチン・ユニット住宅」15 「写真、図面」16 「二戸建鉄筋コンクリート住宅」「N市共同商店街」17 「N市公会堂」「住宅No.14、№15」16 「イス試作2題 力学的曲面と人間の動作の関係」25 「籐椅子」27 「洋服ダンス」28 「東京大学鹿児島スペースセンター」29 「1500人の居住ユニット-自然と人間の共存計画の一部」30 「東京大学宇宙空間観測所壁画」31 「生活パッケージ・シズニット」33 「集合住宅」34 「TESTEM(身体障害者の家)」「住居ユニット」35 「TESTEM実験住宅№1」36 「原型(宇宙のための建築群より)」37 「住宅93・94」「宇宙科学のための展示場」「インテリア」39 「住集合-VALVITS」「まるい ちがい棚」45 「かたらい。イスと壁の空間」41 「PIX4 “FOREST”」42 「キッチン78プロトタイプ」「タウンハウス」

不破章

没年月日:1979/02/06

水彩画家不破章は、2月6日肺ガンのため東京文京区の順天堂大学附属医院で死去した。享年77。1901(明34)年12月東京神田三崎町に生まれ、1923年日本水彩画会第10回展に初出品し、この年光風会第10回展にも出品して今村氏奨励賞を受賞した。翌24年日本水彩画会会員となり、25年の頃より石井柏亭に師事した。26年7回帝国美術院展に「西郊風景」を初出品し、28年には光風会々友、30年には水彩画会委員となった。戦後一水会再建に際して会員に推挙され、60年には委員となった。日展にも出品し、第9回「二女」で特選、朝倉賞、第12回「姉妹三人」で岡田賞となった。66年日展審査員、翌67年には日展会員となった。また74年には日本水彩画会理事長となり、77年勲四等瑞宝章を受章。代表作品「霙降る日」(1919)「婦人像」(1941)「二女」(1953)「姉妹三人」(1956)「ハンブルグ」(1963)「台湾の農村」(1978)

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