本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





小島烏水

没年月日:1948/12/13

 浮世絵版画の研究と蒐集家として知られた小島烏水は12月13日東京杉並の自宅で脳溢血のため死去した。享年74。本名を久太といい、明治8年高松市に生れ横浜商業を卒業後銀行員となつて外地にも勤務した。日本山岳会長として日本アルプスの紹介、紀行文の発表などと共に浮世絵の研究に努め、大正4年雑誌「浮世絵」を発刊主宰した。美術関係著書の主なものに「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」等がある。

清水南山

没年月日:1948/12/07

 帝室技芸員、芸術院会員として彫金界の元老であつた南山清水亀蔵は、12月7日腹膜炎のため練馬区の自宅で逝去した。年74。明治8年3月30日広島県豊田郡に生れ、明治29年東京美術学校彫金科を卒業、同年11月研究科に入つて加納夏雄、海野勝珉につき、さらに32年9月には塑造科に入学、藤田文蔵に師事した。35年研究科修了後は自営して彫金にはげみ、明治42年6月から香川県立工芸学校に奉職して約6年にわたつた。大正4年病のため教職を退き、四国八十八ヶ所の巡礼をなし、しばらく大和にあつて古美術の研究にふけつたが、法隆寺佐伯定胤にみとめられ、やがて上京して、大正天皇御即位記念に司法省より献納の金装飾太刀の製作半ばのものを岡部覚弥没後ひきついで完成した。その直後大正8年東京美術学校教授となり、以来昭和20年7月まで在職、その間昭和9年12月に帝室技芸員、昭和10年1月日本彫金会会長、6月には帝国美術院会員にあげられた。展覧会には昭和2年帝展第四科の設置以来、逝去の年にいたるまで審査員あるいは無鑑査として毎年かかさず出品し、多くの秀作を残している。代表作としては宮内省の依嘱によつて香椎宮及住吉神社に納められた黒味製鍍金の金燈籠、第10回帝展の「梅花文印櫃」、奉祝展に出た「鉄板衝立」などがあり、戦後の出品作には「切嵌平象嵌毛彫額面十二神将図」(日1)、「龍文花瓶」(日2)、「銀香炉」(日3)、「波上鉢」(日4)などがあつた。

大口理夫

没年月日:1948/11/10

 美術史家大口理夫は、11月10日都下桜町病院に於て没した。享年40。明治42年愛知県に生れ、昭和7年東京帝国大学文学部美学及美術史科を卒業した。はじめ日本国宝全集の編輯にたずさわり、のち脇本楽之軒の東京美術研究所或は国際文化振興会に勤務した。更に文部省国宝調査室に嘱託として勤め、機構改正に際し国立博物館に転じたが、この頃から病床に在り、遂に再び立たなかつた。彫刻史専攻の新進学者として又美術評論家として招来の大成を期待されたが、その逝去は惜まれる。その著書に「日本彫刻史研究」がある。

福原信三

没年月日:1948/11/04

 日本写真会々長、国画会同人福原信三は脳溢血のため11月4日品川区の自宅で死去した。享年66。明治16年東京に生れた。日本写真会を主宰し光とその階調を唱えて俳味を写真に取り入れようとした。日本美術協会第一一部委員もつとめた。

岡本一平

没年月日:1948/10/11

 漫画家岡本一平は疎開先の岐阜県加茂郡に於て10月11日脳溢血のため死去した。享年63。明治19年6月11日北海道函館に生れ、22年大阪に、25年には更に東京に居を移した。36年に商工中学校を卒業し、武内桂舟、徳永柳州、又藤島武二に就き洋画の指導を受けた。39年東京美術学校西洋画科に入学、43年に卒業、尚在学中帝展へ「トンネル横町」を出品入選した。卒業後和田英作の傘下に入り帝国劇場天井画、舞台背景、装置の仕事に携り約1年余を過した。次で45年東京朝日新聞社に入社し、漫画を描き始め遂に漫画を専門とするようになり大正昭和に亘つて活躍した。著書に「世界漫遊」「弥次喜多」「岡本一平全集」がある。

広瀬憲

没年月日:1948/10/10

 自由美術家協会々員広瀬憲は10月10日未明立川駅附近で交通事故のため死去した。享年40。抽象絵画に特異な個性をもち甘味ある色彩を示していた。

中西利雄

没年月日:1948/10/06

 新制作派協会並びに日本水彩画会会員、中西利雄は10月6日東京都中野区の自宅で肝臓癌のため死去した。享年49才。明治33年12月19日東京京橋に生れ、昭和2年東京美術学校西洋画科を卒業、研究科に一ヶ年在籍し、昭和3年5月渡仏、巴里にて昭和6年10月まで絵画研究、この間英、伊、西班牙、和蘭陀、白耳義等にて研究を重ね6年11月帰朝、帝展及び日本水彩画会にて滞仏作を発表、昭和9年帝展にて特選、翌10年第二部会展に受賞し、昭和11年新制作派協会結成に際し、会員として加わり、只一人の水彩画の会員として有力な存在であつた。不透明描法の明快な色調と近代的な感覚を持つ独自な画境を示す共に水彩画の新生面を拓いた。著作に「水絵」(技法と随想)、「中西利雄作品集」がある。

北島浅一

没年月日:1948/09/18

 文展に出品を続けていた洋画家北島浅一は9月18日東京杉並の自宅で逝去した。享年62。明治20年佐賀県に生れ、一時本郷研究所に学んだが明治45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正2年文展に「濁江の夕」を出品、その後同9年に渡欧、11年に帰朝した。滞仏仲にサロン・ドオトンヌに「踊り場」を出品入選した。帰朝後は主として官展に出品し、大正14年第6回帝展の「外出の後」は特選、同15年には無鑑査となった。

近藤光紀

没年月日:1948/08/09

 一水会々員近藤光紀は8月9日腸チフスのため長野県浅間温泉で死去した。享年48。明治34年東京本郷に生れ、川端画学校に学び、更に東京美術学校に入つたが中退し曽宮一念に師事した。大正13年第5回帝展以後続けて出品し、昭和10年には無鑑査となつた。昭和7年新美術家協会々員となり、昭和12年第1回一水会展以来毎年出品し、第3回展に一水会賞を受け、第5回展に於て会員となつた。一水会の文展参加によつて第4回文展に出品した「少女像」は黒田子爵洋画奨励賞を受けた。以後一水会委員、日展委員、新美術家協会々員等として活躍していた。第2回一水会展「秋果静物」第3回一水会展「白い手袋」等の作品を遺している。

入江波光

没年月日:1948/06/09

 日本画家入江波光は、6月9日京都市上京区の自宅で胃病のため逝去。享年62。明治20年京都市に生れた。本名幾治郎。同35年森本東閣に師事、この年京都市立美術工芸学校に入学、同38年卒業。同40年同校研究所に入学、同42年京都市立絵画専門学校新設され、その第2学年に入学し、同44年卒業した。この間明治40年第1回文展に「夕月」を出品入選した。大正2年京都市立美術工芸学校教諭に任ぜられ、同7年絵画専門学校助教授となり、国画創作協会に「降魔」を出品、授賞された。同8年同協会同人となり、第2回展に「臨海の村」、翌9年第3回展に「彼岸」を発表した。同11年京都府から英、米、伊へ出張を命ぜられ、同12年帰朝。同13年第4回国展に「虹」、同14年の第5回国展に「ローマ郊外」、昭和3年第7回国展に「摘草」を発表した。同11年京都絵画専門学校教授に進み、同13年北京、大同に出張、翌15年朝鮮美術展審査のため朝鮮に出張した。同15年文部省から法隆寺壁画の模写を依嘱され、晩年はほとんどこれに没頭した。その間仏画及び水墨画に、洗練された技法を示した。

松本竣介

没年月日:1948/06/08

 自由美術家協会会員松本竣介は6月8日肺炎のため東京都新宿区の自宅で37才で夭折した。明治45年4月19日東京青山に生れ、学齢前郷里盛岡に移る。盛岡中学卒業後昭和4年上京、太平洋画会研究所に入所し、昭和10年第22回二科展に初入選以来昭和19年解散まで毎回出品を続け、その間15年第27回展に特待賞をうけ翌16年度同展で会友に推挙された。18年新人画会を同志8人と結成し翌19年迄3回展覧会を催した。戦後21年美術家組合を提唱、戦争に疲れ沈退した全日本美術家の提携再起を促した。22年自由美術家協会に新人画会のメンバーと共に参加したが、翌23年5月毎日新聞主宰連合展出品の「彫刻と女」「建物」を絶作として同展開催中発病、間もなく没した。西欧近代絵画によつて培われた高い知性を基盤として近代的なモチーフを内面的に扱いユニークな作風を築きつつあつた惜しい作家であつた。

狩野探道

没年月日:1948/06/04

 日本美術協会審査員狩野探道は6月4日心臓麻痺のため東京中野の自宅で死去した。享年59。名を守久といい、明治23年東京に生れた。探幽を祖とする鍛冶橋狩野家の12世で、明治36年14歳で狩野応信に就き始めて狩野派の画法を学び、その没後荒木探令に師事した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業以降専ら日本美術協会に出品し、同会委員、同会第一部審査委員、展覧会幹事をつとめた。代表作に東京都養正館壁画「天孫降臨図」美術協会第100回展出品の「徐上小景」等がある。

田中豊蔵

没年月日:1948/04/26

 美術研究所長兼東京都美術館長田中豊蔵は4月26日肺炎のため世田谷区の自宅に於て没した。享年68。明治14年京都に生れ、第三高等学校を経て、同38年東京帝国大学文科に入り、支那文学を専攻、41年卒業した。同45年国華社に入り、「南画新論」以下30余篇の論文を国華誌上に発表した。大正9年文部省古社寺保存計画調査を嘱託され、翌年慶応義塾大学文学部講師を依嘱され、日本及び支那美術史を講じた。同15年東京美術学校講師となり、西域美術史を講じた。昭和2年在外研究員としてインド及び欧米に留学、翌年帰朝、京城帝国大学教授に任ぜられ、美学美術史第二講座を担当、同17年定年退官まで在職した。その間、昭和4年国宝保存会委員、同5年美術研究所嘱託、同8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会第一部員、同14年李王家美術館評議員に就任した。昭和12年以来画説誌上に多くの論文を発表し、同17年退官の後、重要美術品等調査委員会委員を依嘱され、さらに美術研究所長事務取扱に就任した。以後「美術研究」誌上に数篇の論文を発表した。昭和20年5月以降美術研究所と共に山形県酒田市に疎開、帰京後国立博物館の新設に際し、その附属美術研究所長に任ぜられ、また東京都美術館長を兼ねその逝去まで在任した。著書に「東洋美術談叢」がある。

小早川清

没年月日:1948/04/04

 日本画家小早川清は4月4日東京都大田区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年50。明治32年福岡市博多に生れた。大正13年第5回帝展に入選して以来帝展に出品を続け、第14回展の「旗亭凉宵」は特選となつた。昭和11年以後は文展無鑑査となり、その他日本画会、青衿会等にも会員として多くの作品を発表していた。専ら艶麗な美人画を画き、帝展時代には長崎を舞台とした異国情緒の溢れた画材を好んで画いた。帝展出品作に「長崎のお菊さん」「蘭館婦女の図」、文展に「春琴」「行く春」等がある。

御厨純一

没年月日:1948/02/07

 第一美術協会々員御厨純一は2月7日東京都文京区の自宅で急逝した。享年62。明治20年佐賀市に生れ、白馬会菊坂洋画研究所に於て長原孝太郎に学び、更に同45年東京美術学校西洋画科を卒業した。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となり、同13年には渡仏昭和3年に帰朝した。帰朝後昭和4年2月、青山熊治、濱地青松、片多徳郎等と第一美術協会を創設し力作を出品していた。昭和12年海洋美術会創立と共に会員となつた。代表作に第一美術協会展出品の「ガンの塔」「白菊」「坂」「菊庭」「夜の自画像」「静浦」等がある。

伊勢専一郎

没年月日:1948/01/13

 元東方文化研究所員として支那画論画史を研究した伊勢専一郎は1月13日京都市左京区の自宅で逝去した。明治24年長崎県平戸に生れ、大正8年京都帝国大学文学部美学及美術史科を卒業、支那の画論画史を専攻した。「有竹斎蔵清六大家画譜」「支那の絵画」「芸術の本質」「西洋美術史」「菫?蔵書画譜」「爽籟館欣賞第一輯」「自顧愷之至荊浩支那山水画史(東方文化研究所研究報告)」等の著書があり、東方文化研究所研究員、大阪市美術館嘱託などを勤めたが後年は農業に従事しつつ著述にふけつていた。

多田北烏

没年月日:1948/01/01

 商業美術家として著名な多田北烏は胃潰瘍のため1月1日沼津市の自宅で逝去した。享年60。本名は嘉寿計、明治22年松本に生れ、蔵前高工図案科選科、川端画学校に学び、凸版印刷図案部、市田オフセツト印刷意匠部長、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年実用美術研究所サン・スタデイオを創設し商業美術の向上と後進の指導に努力した。又新興日本童画協会常務委員、全日本産業美術連盟常任委員をつとめ、実用版画美術協会を主宰した。著書に誠文堂発行「多田北烏図案集」その他がある。

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