本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





足立康

没年月日:1941/12/29

 法隆寺新非再建論者として知られた工学博士足立康は12月29日湘南茅ヶ崎南光院の病舎にて永眠した。享年44、明治31年7月10日神奈川県中郡足立留次郎の三男として生れ、後年家族と共に東京へ移つた。五高を経て東京帝大工学部造兵学科に入学、大正13年同科卒業、翌年同大学文学部美術史科に入り、昭和3年卒業後、工学部大学院に於て建築史を専攻した。昭和8年大学院卒業論文「薬師寺塔婆の研究」によつて工学博士の学位を受け、同年より日本古文化研究所理事として最後まで藤原宮阯の調査に力を竭した。「藤原宮阯伝説地高殿の調査」2巻はその成果である。13年より「建築史」を創刊してその主幹たり、昭和16年には「法隆寺再建非再建論争史」を編纂したところであつた。このほか「薬師寺伽藍の研究」「日本建築史」等の著がある。

宮永東山

没年月日:1941/12/15

 文展無鑑査宮永東山は12月15日動脈硬化のため京都東山の自宅において逝去した。享年74。本名は剛太郎、明治元年石川県に生れ、東京独逸語学校ならびに仏語学校にまなび、又独逸人ベンケー、岡倉覚三、林忠正等について得るところがあつた。明治28年には東京美術学校に奉職、30年農商務省に入り、32年千九百年巴里万国博覧会に際し出張を命ぜられて滞欧2年、各国の美術工芸を視察、仏国政府より「オフイシエー・ダカデミー」章を贈られた。34年帰朝後、京都錦光山製陶所の聘に応じ、陶界に投ずるに至つた。36年には浅井忠指導のもとに遊陶園を組織、42年伏見稲荷山麓深草に陶窯を築き研鑽をすすめて次第に名声をあげた。その作品はあらゆるものに及んでゐるが、就中青瓷を得意とし、近くは仁清系の粟田陶器を復興して優麗の作をなし、好評であつた。又京都陶磁器工業組合副理事長として斯業につくすところが大きかつた。

中村七十

没年月日:1941/10/20

 文展無鑑査中村七十は10月20日脳溢血のため板橋の自宅で逝去した。享年31。本名永男、明治44年長野県に生れ、昭和9年東京美術学校卒業、在学中より構造社展、文展等に出品し、卒業後も連年文展に発表して早くも無鑑査となつた。没前の航空美術展には「荒鷲」を出品した。

八木岡春山

没年月日:1941/08/27

 日本美術協会理事兼審査長文展無鑑査八木岡春山は8月27日杉並区高円寺2ノ92の自宅で、狭心症のため死去した。享年63。本名亮之助、明治12年東京深川に生れ、明治29年下条桂谷に師事、北斎を学び、古画の模写研究に従事した。日本美術協会展覧会、内国勧業博覧会等に出品して屡々受賞し、文展にも2回出品、大正8年には日本美術協会第一部委員となり、昭和10年には高松宮妃殿下に日本画御進講を仰付けられた。その後日本美術協会理事、評議員第一部委員主任、審査長として協会のために尽力、連年協会展其他文展個展等にも出品して、伝統の筆墨を主とする画風を発表し、画壇特異の地歩を占めてゐた。昭和14年の米国ニューヨークにおける万国美術展覧会には破墨の力作「暮靄」を出品し優賞を受けた。主要作には次のやうなものがある。画題   年代   所蔵者竹渓六逸 大正7年 益田男爵家瀟湘八景(襖) 大正8年 鶴見総持寺花鳥杉戸 大正8年 鶴見総持寺薔薇 昭和2年 団男爵家雨後 昭和2年 団男爵家朝霧 昭和2年 団男爵家鷺 昭和5年 三笠宮家蓬来山水 昭和7年 閑院宮家春秋花鳥 昭和8年 藤山愛一郎湖畔小禽 昭和9年 大宮御所奥多摩春景 昭和9年 牧田環樫鳥 昭和9年 川崎八右衛門江山雨後 昭和10年 藤原銀二郎渓山帰樵 昭和11年 帝室博物館芦山 昭和11年 川崎八右衛門薄暮 昭和11年 (文展出品)春冬花鳥 昭和12年 野間左衛子瀟湘八景 昭和12年 野間左衛子烟雨 昭和12年 (文展出品)黎明 昭和13年 (文展出品)朧月 昭和15年 (文展出品)夕月 昭和16年 高松宮家雨後 昭和16年 (仏印巡回展)

高木保之助

没年月日:1941/08/16

 文展無鑑査高木保之助は8月16日敗血症のため死去した。享年51。明治24年本郷湯島に生れ、34年より川端玉章に師事、39年には川端画学校に入つた。後感ずるところあつて東京美術学校に入学、大正8年に卒業、その後松岡映丘に師事して木之華社及び新興大和絵会の同人たり、帝展第1回より連年入選した。同9回「はまなすの浜」10回「夏の粧」はいづれも特選、昭和5年には推薦となつた。その後帝展、文展をはじめ、東台邦画院、国画院、日本画院等に連年出品、昭和12年国画院1回展の「燎乱の四季」は努力の大作であつた。昭和16年仏印巡回に本絵画展出品の「鬼罌粟」がその絶作となつた。

安孫子真人

没年月日:1941/08/12

 美術文化協会同人安孫子真人は8月12日逝去した。享年29。山形県に生れ大平洋画会研究所に学び、昭和12年渡仏、14年帰朝後右同人となつた。

内藤三郎

没年月日:1941/08/08

 奈良帝室博物館長内藤三郎は胃潰瘍のため8月8日急逝した。享年51。山口県出身、皇宮警察部長、滋賀、福島両県経済部長等歴任後、本年3月奈良帝室博物館長に転じたものである。

鳥居清忠

没年月日:1941/08/03

 鳥居家七世清忠は脳神経麻痺のため8月3日牛込の自宅において逝去した。享年67。明治8年3月28日清貞の長男として生れ、劇画を父に学び、同22年8月川辺御楯に入門して土佐派を修めた。鳥居家七世を継ぐや家業の芝居絵看板に古様を守り、又劇演出に貢献するところ少からず、斯界に重きをなした。先年業を嗣子清言に譲り悠々自適してゐた。

田崎延次郎

没年月日:1941/07/28

 旧工部美術学校出身で囃子の研究家として知られてゐた田崎延次郎は7月28日逝去した。享年80。文久2年の生れで明治16年工部美術学校修業後、東京職工学校、農商務省専売特許局等に奉職し、明治32年には陸軍助教となり43年休職、その他諸種の学校に図画授業を担当、晩年は謡曲に関する著述に没頭してゐた。

松田黎光

没年月日:1941/07/25

 国民総力朝鮮美術家協会理事松田黎光は7月25日腸チブスのため逝去した。行年43。本名正雄、鮮展初期以来の作家で鮮展参与となり帝展文展にも出品し、また江西双楹塚壁画の模写を成したので知られる。

佐藤功一

没年月日:1941/06/22

 工学博士早稲田大学教授佐藤功一は肺炎症状で小石川区の自宅で療養中22日心臓衰弱を起して午後3時逝去した。享年64。明治11年栃木県に生れ、36年東京帝大建築科卒業後、42年には早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学、43年同大学教授となつた。大正8年工学博士の学位をうけ、爾来わが国建築学会の重鎮として活躍、幾多の建築を残した。過去39年間に建設された作品数は233の多きに及んだといふ。その他工芸審査会委員、日本学術振興会委員、会計検査院技術顧問員、大日本忠霊顕彰会顧問等となり、去る5月には建築界を代表して帝国芸術院会員に推薦されたところであつた。略年譜明治11年 7月2日栃木県下都賀郡に生る、大越東七郎次男、後佐藤茂八の養子となる明治36年 7月東京帝国大学工科大学建築科卒業、9月三重県技師明治41年 6月宮内省内匠寮御用掛明治42年 1月早稲田大学より建築学研究のため欧米へ留学明治43年 9月帰朝、早稲田大学教授大正8年 6月工学博士の学位を受く大正10年 9月東京女子高等師範講師大正12年 11月帝都復興院建築局事務嘱託大正14年 4月日本女子大学校教授昭和4年 8月大礼記念京都美術館建設委員会委員昭和8年 3月日本学術振興会学術部第十一常置委員昭和10年 12月帝国飛行協会評議員昭和11年 10月会計検査院技術顧問員昭和14年 3月国史館造営委員会委員昭和15年 5月大日本忠霊顕彰会顧問昭和16年 4月大日本国防衛生協会理事 6月22日死去主要作品には、宮城県庁舎、帝室林野局庁舎、栃木県庁舎、滋賀県庁舎、三会堂、東京市公会堂、飛行館、東京動産火災保険株式会社、日清生命保険株式会社本社、共同建物株式会社マツダビルデイング、藤本ビルブローカー証券株式会社東京支店、東京府農工銀行、不動貯金銀行本店、早稲田大学大隈記念講堂、津田英学塾校舎、駒沢大学講堂、日清製粉株式会社鶴見工場、神田神社、頼山陽先生遺蹟顕彰記念館等がある。

四谷正美

没年月日:1941/05/20

 彫金家四谷正美は糖尿病のため5月20日逝去した。享年66。明治9年1月5日岡山県に生れ、明治32年東京美術学校彫金科卒業、大正14年には商工省東京府の依嘱をうけて外遊し、巴里万国工芸博覧会の審査員を命ぜられた。昭和9年帝展審査員となり、その他日本彫金会顧問、日本美術協会委員等にあげられてゐた。作品には帝展文展等の出品のほか、昭和4年作伊勢大神宮御神宝消金火桶や昭和10年作満洲国宮内府御用品銀製花瓶等がある。

鹿子木孟郎

没年月日:1941/04/03

 京都の洋画家鹿子木孟郎は脳溢血のため左京区の自宅で静養中、尿毒病を併発し4月3日逝去した。享年68。明治7年岡山市に生れ、早く洋画に志して松原三五郎、小山正太郎にまなび、その後渡欧3回、ローランス、ルネ・メナールに師事した。第2回文展に出品した滞欧作「ローランス画伯の肖像」等は良く知られる作で、このほか明治神宮絵画館の「奉天入城図」支那事変に際して遊就館に納めた「南京入城図」等の大作がある。忠実な手がたい作風を示し、ことに肖像画は得意であつた。昭和7年には仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈られた。略年譜明治7年 11月9日岡山市東田町に生る、父は池田藩士宇治長守明治14年 この頃伯父の家をつぎ、鹿子木を姓とす明治21年 岡山高等小学校卒業、松原三五郎の天彩学舎に入る明治23年 東京に遊学せしも脚気のため帰郷、岡山中学予備校図画教員となる明治24年 10月肖像画家として岡山香川、徳島諸県を漫遊明治25年 11月東京へ再遊学、小山正太郎の不同舎に入る明治28年 中等教員図画免許状をうく、6月滋賀県彦根中学助教諭明治29年 8月三重県津中学校助教諭、教諭明治32年 4月埼玉県師範学校助教諭明治33年 11月渡米明治34年 4月渡米、6月仏国着、ジヨン・ポール・ローランスに師事、10月住友家の給費を受くるに決す明治36年 ベルギー、スヰス、イタリアに遊ぶ明治37年 4月帰朝、京都室町に住し、画塾をひらく、9月京都高等工芸学校講師明治38年 11月中沢岩太、浅井忠等と関西美術院創立明治39年 2月住友家の後援にて再渡仏、ローランスにつく 滞仏中仏国サロンに入選、アカデミー・ジユリアン一等賞牌をうく明治41年 1月帰朝、京都工芸高等学校講師、6月関西美術院長、第2回文展審査委員「ローランス画伯の肖像」「漁夫の家」「ノルマンデーの海岸」文展出品明治42年 第3回文展審査委員「新夫人」「浅間山中」「河原氏の肖像」文展出品明治43年 第4回文展審査委員、9月伊太利万国博覧会美術品出品監査委員「紀州勝浦」「林泉」文展出品明治44年 第5回文展審査委員、9月名古屋高等工業学校講師「アンスピラシオン」「舞子の浜」文展出品大正元年 第6回文展審査委員「鴨東の妓」「若王寺滝」「某未亡人の肖像」文展出品大正2年 第7回文展審査委員「加茂の競馬」文展出品大正3年 「水の流れ」「逍遥」文展出品大正4年 4月京都名古屋両学校講師辞職、6月関西美術院長辞職、12月渡仏、「札幌郊外」「書斎に於ける平瀬介翁」文展出品大正5年 2月仏国着、ローランスに師事、滞仏中ルネ・メナールにつく大正6年 11月出発、スペイン、米国に寄る大正7年 3月帰朝、5月京都下鴨に住し下鴨画塾を創む大正11年 11月京都美術協会常設委員「ボア・ド・ブーロンニユ」「牛」帝展出品大正13年 帝展審査員「加茂の森」「牧童」帝展出品「大正十二年九月一日」大正14年 「赤手空拳」帝展出品昭和元年 9月明治神宮絵画館壁画「奉天入城図」成る、11月京都美術協会評議員「和辻博士像」「紀州潮の岬」帝展出品昭和2年 「尾張磯浦」帝展出品昭和3年 1月大阪画塾を創む、8月大礼記念京都大博覧会美術鑑査員、12月国際美術協会美術展覧会審査員 帝展審査員 「田島博士」帝展出品昭和4年 8月大礼記念京都美術館委員、12月日仏協会京都支部理事「一つの林檎」帝展出品昭和5年 北海道へゆく、「北海道層雲峡」帝展出品昭和6年 6月大阪画塾閉鎖、帝展審査員「マドモアゼル喜多」帝展出品昭和7年 10月仏国政府よりシユヴアリエ・ド・ロルドル・ナシヨナル・ド・ラ・レジオンドヌール勲章を贈らる、帝展審査員「大台ヶ原山中」帝展出品昭和8年 11月京都美術館評議員「大台山中の渓谷」帝展出品昭和9年 2月大阪三越にて個展、3月京都美術館美術展覧会顧問、同委員「浴女」帝展出品昭和11年 「陸中中野海岸」文展招待展出品昭和12年 「白薔薇」文展出品昭和13年 松風嘉定より「南京入城図」を依頼さる昭和15年 「南京入城図」成る、12月陸軍省へ献納昭和16年 4月3日没

山本瑞雲

没年月日:1941/03/13

 彫刻家山本瑞雲は3月13日中野区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年75。号護月、慶応3年9月13日静岡県熱海市に生れた。明治13年出京、15年高村光雲の門に入り、明治23年内国勧業博覧会には「亀」を出品し、東京彫工会競技会には「鹿」を出して共に褒状を得た。25年大阪に移り33年再び上京したが、この間の諸種の展覧会に出品し、米国シカゴ博覧会出品の「垣野王」は銅賞牌を得た。その後仏像の製作補修にあたり、また諸種の模型を製作し、明治41年には東京彫工会競技会審査員におされ、43年には日英博覧会のため東京市から依嘱をうけて英国へ出張した。大正6年栴檀社を組織して木彫界の新運動のため気を吐いた。大正11年聖徳太子奉讃委員となり、昭和に入つてからも本郷東片町大円寺の聖観音、六臂如意輪観音、八臂不空羂索観音、八臂馬頭観音、十八臂準捏観音脇侍二龍人等を製作し、昭和11年には浅草寺待乳山祥天の毘沙門天、三方荒神両脇侍を作つて努力精進を重ねてゐた。

斎藤八十八

没年月日:1941/03/04

 南支沿岸封鎖作戦に従軍中の洋画家斎藤八十八は3月4日西江右岸地区で戦死をとげた。年50、明治25年東京麻布に生れ、東城鉦太郎に師事し文展にも出品した。支那事変以来上海方面をはじめ、漢口、山東方面にも従軍し、今回は4回目の従軍であつた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

大塚金吾

没年月日:1941/03/04

 南支沿岸封鎖作戦に従軍中の画科大塚金吾は3月4日西江右岸地区で斎藤八十八とともに戦死をとげた。年48、仙台に生まれ大正元年葵橋研究所に入学、黒田清輝に師事し、その後河北新報社東京支局に勤務してゐた。戦死と同時に海軍省嘱託を命ぜられた。

渡辺小五郎

没年月日:1941/02/28

 二科会の彫刻家渡辺小五郎は2月28日逝去した。享年31、明治44年宮崎県延岡に生れ、昭和10年東京美術学校卒業、同年以来毎年二科会に出品死後二科会々員におされた。

伊藤赳

没年月日:1941/02/16

 帝室博物館鑑査官伊藤赳は2月16日東京滝野川の自宅において脳溢血のため急逝した。享年54。明治21年広島県に生れ大正9年東京帝大国史科卒業、翌年より帝室博物館に入り、服飾調度を担当して今日に及んだものである。

阿部七五三吉

没年月日:1941/01/23

 図画手工教育に多数尽瘁した阿部七五三吉は1月23日逝去した。享年68。号見山。明治7年大分県に生れ、大分県師範学校を経て明治34年東京高等師範学校卒業、同年佐賀県師範学校教諭となり、38年東京高等師範学校助教授に転じた。大正14年同校教授となり、昭和10年退官、その後日本手工研究会々長、創作工芸会々長として斯界に貢献するところが大きかつた。著書多く「高等小学校手工科新指導」「小学校手工作方教方の実際」「手工作業工業、木材加工法」等々がある。

坂谷良之進

没年月日:1941/01/04

 国宝建造物の調査と保存に一生を捧げた坂谷良之進は1月4日逝去した。享年59。明治16年坂谷明廬先生の孫として東京市に生る。明治40年東京美術学校卒業後内務省に入り、古社寺保存調査を嘱託せらる。大正7年奈良県技師に任ぜられ、同10年京都府技師に転じ、国宝建造物の修理を監督すると共に、京都帝国大学工学部及び神戸高等工業学校に建築史或は工芸史を講じた。昭和4年文部技師に任ぜられ、国宝建造物保存事業の技師的統率者として、専ら意を修理技術の向上と、後進の指導とに致した。国宝建造物修理技術が今日の如き発達を見るに至つたことは一に氏の努力の賜物である。昭和15年12月病によつて官を辞した。

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