山口薫

没年月日:1968/05/19
分野:, (洋)

 モダンアート協会会員、東京芸術大学教授、山口薫は、5月19日午前1時10分、胃ガンのため東京・新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年60歳であった。山口薫は、群馬県榛名山麓の旧家の11人兄弟の末子として生まれ、県立高崎中学卒業後、東京美術学校西洋画科に入学した。中学時代には、絵日記をかき残しており(没後に出版された)、また川端学校でデッサンを勉強した。美術学校在学中の大正15年(1926)には帝展に入選、早くから才能を発揮したが、昭和5年、美術学校を卒業して渡欧し、ヨーロッパ諸国を歴遊、帰国した翌年の昭和9年には、既成の団体から脱会して、村井正誠矢橋六郎長谷川三郎らの同志とともに昭和10年代前半に簇生した青年画家グループの先駆けとなった「新時代」社を設立し、近代的な絵画の創作運動を展開した。新時代社は、やがて「フォルム」「黒色」など他の青年画家グループを糾合して自由美術家協会に発展し、戦後は、自由美術協会となり、山口薫はその中心的な作家のひとりとして活躍したが、昭和25年(1950)には、村井正誠矢橋六郎長谷川三郎の旧同志とともに自由美術協会を離脱して「モダンアート協会」を設立している。以後、この会に主要な作品発表を続けると同時に、国内で開催された国際美術展や、サンパウロ、ヴェネツィアの各ビエンナーレ展にも出品した。また、文化学院、武蔵野美術学校の講師、昭和28年以降は東京芸術大学において美術教育に従事した。終始、詩情にとんだ清新で造型的な作品を発表し、毎日美術賞(昭和34)、芸術選奨文部大臣賞(昭和35)などを受賞し、高く評価された。なお、詩人集団「歴程」同人でもあった。
年譜
明治40年(1907)8月13日群馬県群馬郡に生まれる。
大正9~14年 群馬県立高崎中学に学ぶ。在学中、何冊かの絵日記をかいており、没後に出版されている。
大正14年 東京美術学校西洋画科に入学。
大正15年 帝国美術院展に「静物」入選。
昭和2年 帝国美術院展に「卓上静物」入選。
昭和4年 第4回国画会展に「静物」入選。
昭和5年 第17回二科展に「風景」入選。
東京美術学校卒業。
9月渡欧しフランス、イタリー、スイス、スペイン、エジプトなどを歴訪して美術の研究につとめた。(1933年まで)
昭和8年 パリより国画会展に「マルチック風景」「緑衣の女」などを出品し、国画会々友に推薦される。
8月、帰国した。
昭和9年 4月、矢橋六郎村井正誠長谷川三郎津田正周、大津田正豊と共に新時代展を創立し、5月に第1回展を開始、「巴里近郊の農家」などを出品、以来殆ど毎月紀伊国屋画廊(銀座)で展覧会を開催した(1936年まで継続)。この年、国画会には出品したが、5月に退会した。
昭和12年 2月、山口ら新時代展の同人が中心になり「フォルム」「黒色」などの同人をともなって自由美術家協会を結成した。7月、日本美術協会(上野)でその第1回展を開催、「黒耀石」「鏡」「紐」「夢」「森」「花ノ像」「古羅馬の旅」「花」などを出品した。
昭和13年 5月、自由美術家協会第2回展へ「山脈」「桃」「夏山(榛名)」「リンゴの曲」「壺A」「壺B」「形体」を出品した。8月、大阪、大和書房において個展を開催した。
昭和14年 5月、自由美術家協会第3回展に「蛸壺など」「南風」「泉」「紐」を出品した。
昭和15年 5月、自由美術家協会第4回展に「風景」「立像」「新緑」「顔」「人」「壺と鳩」を出品した。
7月、自由美術家協会を美術創作家協会に改めた。
昭和16年 4月、美術創作家協会第5回展を開催した。
昭和17年 1月、資生堂(銀座)において矢橋六郎森芳雄と3人展を開催し、「流水」「髪」などを出品した。
4月、美術創作家協会第6回展に「驟雨」などを出品した。
昭和18年 3月、美術創作家協会第7回展に「銃」などを出品した。
昭和19年 5月、美術創作家協会第8回展を開催した。
11月、戦時特別文部省展に「苔むす巌」を出品した。
昭和20年 郷里に帰っていたが、終戦となり上京した。
昭和21年 6月、大阪、大丸において自由美術家協会再建の展覧会を開催した。
昭和22年 6月、毎日新聞社主催の第1回美術団体連合展に「杉」ほか2点を出品した。
7月、自由美術家協会第11回展に「ブルターニュの追憶」などを出品した。
昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「ユーロップとゼウス神牛」を出品した。
7月、村井正誠矢橋六郎と3人展を開催した(日動画廊)。10月、自由美術家協会第12回展に「十和田紀行」「保谷クリスタル」「裸婦と風景」を出品した。
昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「残雪の木々」を出品した。10月、自由美術家協会第13回展に「画室の森」を出品した。北荘画廊(日本橋)で個展を開催した。
昭和25年 9月、長谷川三郎矢橋六郎村井正誠らとモダンアート協会を設立した。10月、フォルム画廊において植木茂と2人展を開催した。この年、文化学院教官となる。
昭和26年 1月、朝日新聞社主催秀作美術展に「少女の像」を出品した。
2月、第1回モダンアート協会展に「夜の宿」「幻想」などを出品した。
10月、第2回檀会展に「しののめの馬」「母子」「紐と紙箱」を出品、「しののめの馬」はロックフェラー近代美術館の収蔵となった。
この年、フォルム画廊で個展を開催、「幻想の行方」などを出品した。武蔵野美術学校講師となる。
昭和27年 1月、1952年サロン・ド・メエ出品発表展に「花子誕生」「手」「子供の遊び場」を出品した。
第3回秀作美術展に「母子」を出品した。3月、第2回モダンアート展に「子供のための楽曲“田園”」「クレタのユーロップ」「月光の顔」などを出品した。
「母子」は文部省買上げに決定した。
5月、毎日新聞社主催第1回日本国際美術展に「木と紐」「春の鳥」を出品した。
12月、フォルム画廊において山口薫1952年作品展を開催した。
国立近代美術館の開館記念、近代日本美術展-近代絵画の回顧と展望-に「母子」「杉」「木と紐」が陳列された。
昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「クレタのユーロップ」を出品した。
2月、第3回モダンアート協会展に「林の幻影」「ボタン雪と騎手」などを出品した。
3月、インド国際美術展に「花子誕生」が出品推薦され、国内展示会が催された。
5月、第2回日本国際美術展に「季節の哀歓“田甫と鳥”」「エリザベートの戴冠」を出品した。
この年、東京、サエグサ画廊及び大阪、梅田画廊で個展を開催した。
この年、東京芸術大学講師となる。
昭和29年 1月、第5回秀作美術展に「広場の十字架」「季節の哀歓」「水に映った2匹の馬」「林の幻影」「月光の顔」を出品した。
2月、第4回モダンアート協会展に「雪と少女」などを出品した。
5月、第1回現代日本美術展に「牛の頭」「顔」を出品した。
サエグサ画廊で山口薫巴里留学中の作品鑑賞展が開催された。
昭和30年 1月、第6回秀作美術展に「銅色の月」を出品した。
2月、国立近代美術館の戦後の絵画・彫刻、19人の作家展に「クレタのユーロップ」「季節の哀歓」「ダム・エリザベートの戴冠」「雪と少女」「少女の像」を出品した。第5回モダンアート協会展に「歌う鳥と壺」「季節の鳥」「雪山好日」を出品した。
5月、第3回日本国際美術展に「孤独者のすまい」「白痴の愛」を出品した。
昭和31年 2月、第6回モダンアート協会展に「水田を拓く」などを出品した。
5月、第2回現代日本美術展に「田園詩」「歳月の記録」を出品し、佳作賞を受けた。
9月、日本橋画廊の現代作家8人自選展に出品した。
昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「水田を拓く」を出品した。
2月、第7回モダンアート協会展に「森の二重像」「水質の像」を出品した。
第4回サンパウロビエンナーレ展出品国内展示が催された、これには「季節の哀歓」「ボタン雪と騎手」「聖母(ノートルダム)」「雪と少女」「孤独者のすまい」「田園詩」「歳月の記録」「広場の十字架」「水田を拓く」が陳列された。
5月、第4回国際美術展に「千手像-“黒夫人”」が出品された。
7月、現代美術10年の傑作展(東京渋谷、東横)に「花子誕生」が陳列された。
11月、東京銀座、松坂屋において橋本明治山口薫2人展を開催した。
昭和33年 1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「千手像-“黒夫人”」「牛頭」「アラブの月」を出品、その国内展示が催された。
国立近代美術館(朝日新聞社と共催)の戦後の秀作展に「水田を拓く」が陳列された。
2月、モダンアート協会展に「道化の馬」「船のような風景」を出品した。
5月、第3回現代日本美術展に「林と動物」を出品した。
山口薫橋本明治2人展を東京銀座、松坂屋で開催した。
6月、「林と動物」によりグッゲンハイム日本国内賞を受けた。
昭和34年 1月、第10回(昭和33年度)毎日美術賞が「林と動物」その他に対して与えられた。第10回秀作美術展には「林と動物」が選ばれたが、グッゲンハイム国際美術展に出品中のため不出品。
4月、第9回モダンアート協会展に「水と小舎」「幻想矢羽根と牛」「牛の親子」を出品した。
5月、第5回日本国際美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。
7月、山口薫村井正誠展が神奈川県立近代美術館において開催され、70点あまりが陳列された。
12月、ピッツバーグ国際絵画彫刻展に招待され「道化の馬」を出品した。
昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。
第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展への日本側出品作家に選ばれる。出品作品は「田園詩」「森の二重像」「林と動物」「矢羽根とぶ」「荒寥・焼野のきじ」「霧の沼」「娘の肖像おぼえがき」であった(国内展示は3月)
3月、「矢羽根とぶ」その他一連の制作活動に対して昭和34年度芸術選奨文部大臣賞が与えられた。
4月、第10回モダンアート協会展に「葬送」「沼面春の雨(乾拓地)」を出品した。
5月、第4回現代日本美術展に「サラサラ粉雪ふる」「氷湖の鳥」を出品した。
昭和36年 1月、第12回秀作美術展に「沼面春の雨」を出品した。
サエグサ画廊で山口薫・牛の主題展が開催された。
4月、第11回モダンアート協会展に「しろとちび」「しののめの木」を出品した。
5月、第6回日本国際美術展に「白い雨」を出品した。
この年、蓼科高原と保田に別荘をつくった。
昭和37年 2月、朝日新聞社主催により松屋(東京銀座)において山口薫デッサン展が開催された。
4月、第12回モダンアート協会展に「荒れた小さい菱形の沼」「甲斐虎のクマ」を出品した。
第4回国際具象派美術展に「牛と娘と猫」「丸沼の火山弾」を出品した。
5月、第5回現代日本美術展に「小さい氷湖」「五つの沼」を出品した。
昭和38年 1月、第14回秀作美術展に「荒れた小さい菱形の沼」を出品した。
4月、第13回モダンアート展に「廃船と菜の花畑」「晴れた日の林」を出品した。
5月、第7回日本国際美術展に「竹の園生」を出品した。
10月、第2回国際形象展に「ある都」「冠と顔の彫刻」「刀と矢と娘の顔など」を出品した。
12月、鎌倉近代美術館の昭和初期洋画展に「古羅馬の旅」「緑衣の女」が出品された。この年、東京芸術大学教授となる。
昭和39年 1月、第15回秀作美術展は秀作美術展の回顧展で「銅色の月」を出品した。
国立近代美術館の滞欧作とその後展に「クルニー美術館の裏庭」「緑衣の女」「紐」「母の葬送」「残雪の木々」「母子」が陳列された。
4月、第14回モダンアート展「矢筒と牛の顔」などを出品した。
5月、第6回現代日本美術展に「シンフォニー・ランドスケープー沼の樹」「丸い沼と春の雪」を出品した。
9月、第3回国際形象展に「水田を飛ぶカーチス式軽飛行機」を出品した。
昭和40年 4月、第15回モダンアート展に「春の滝」「弾けない楽器」を出品した。
5月、第8回日本国際美術展に「滝壺とやどりぎ」を出品した。
8月、ギャルリ・アルカンシェルで山口薫淡彩展を開催した。
12月、国立近代美術館京都分館において開催された、具象絵画の新たなる展開展に「十和田紀行「草原をとぶ翼」「ある都」「雪山好日」「水門の裏と表」が陳列された。
昭和41年 4月、第16回モダンアート協会展に「ある春の唄」「牛と幼き娘」を出品した。
5月、第7回現代日本美術展に「竹の林と娘の顔」を出品した。
10月、第5回国際形象展に「鱒池のほとり」を出品した。
昭和42年 1月、群馬県美術ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。
4月、第17回モダンアート協会展に「月と道産子」「夜間飛行」を出品した。
5月、第9回日本国際美術展に「春駒寄せと楽譜」を出品した。
6月、東京銀座、松屋で山口薫画業40年の回顧展を開催、この展観には各期にわたる代表的な作品など60点あまりが陳列された。
昭和43年 1月、群馬県美術館ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。
4月、第18回モダンアート協会展に「若い月の踊り」を出品した。
5月、第8回現代日本美術展に「おぼろ月に輪舞する子供達」を出品した。
5月19日死去
9月、東京芸術大学陳列館において山口薫教授追悼展が開催された。
昭和44年 4月8日~5月11日、京都国立近代美術館において山口薫回顧展が開催され、素描、版画を含めて261点が展観された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和44年版(61-64頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「山口薫」が含まれます。
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