山本鼎

没年月日:1946/10/08
分野:, (洋)

 洋画家山本鼎は長野県の疎開先で腸閉塞のため10月8日没した。享年65。山本鼎は東京美術学校洋画科在学中、級友森田恒友と常に首席を争つた位で、早くから油彩技術には頭角を現し、渡欧後は一そう優れた技術を示し、院展洋画部、春陽会、官展等で活躍したが、画風からいへばアカデミツクな系統に立つ作家であつた。又明治の末、創作版画の運動を起し、のち日本創作版画協会を結成、現代版画発生の端緒を作つた外、欧州留学後は農民美術や自由画運動を起し、多方面に功績を残した。然し、洋画家として最後迄油絵を描きつづけた人で、晩年も尚「時化の朝」などの濶達適確な描写による優れた代表的作品を残している。
略年譜
明治15年 10月14日愛知県岡崎市に生る。父山本一郎(医師)長男。
明治19年 森鴎外の許に入門していた父を尋ねて母と上京。三河島に住む。
明治25年 11才。西洋木版家櫻井氏の内弟子となる。
明治33年 櫻井氏の許を離れ、独立して報知新聞に入社す。
明治39年 東京美術学校西洋画科選科卒業。森田恒友と同期。
明治40年 26才。雑誌「方寸」を石井柏亭、森田恒友、小杉未醒等と発行。この頃から又、パンの会等にも関係す。42年頃、油絵「柿日和」の作などあり。
大正元年 渡欧。
大正5年 ロシアを経て帰朝。
大正6年 日本美術院洋画部同人となる。第4回院展に滞欧作10数点を出品。9月、北原白秋の妹、家子と結婚。
大正7年 戸張孤雁と共に日本創作版画協会を起す。第5回院展に「ナチユールモルト(一)(二)」「トマト」「夏の山」「温泉路」を出品。
大正8年 長野県小県郡に日本農民美術研究所設立。第6回院展に「町長の肖像」「ダリヤの花」
大正9年 第7回院展に「ブルトンヌ」を出品。この年日本美術院を脱退。
大正10年 自由学園創立と同時に美術部教授となる。
大正11年 春陽会の創立に加わり会員となる。
大正12年 春陽会第1回展に「唐松の港」出品。
大正13年 台湾に旅行。「台湾の女」
大正14年 春陽会第4回展に「松林」「梅(一)(二)」「台湾の少女」出品。
昭和2年 春陽会第5回展に「独鈷山雪景」「雪の常楽寺」出品。
昭和3年 春陽会第6回展に「温泉場即興」出品。
昭和4年 春陽会第7回展に「から松山」を出品。
昭和5年-昭和7年 春陽会に出品作なし。
昭和8年 春陽会第11回展に「ばらの花」「卓上薔薇」「白菜と玉葱」「アルプスの農家」出品。
昭和9年 春陽会第12回展に「朝鮮の壺へ活けた花」「朝の白馬山」「菊」「盆栽のつつじ」「メノコのクロツキー」「海」出品。
昭和10年 春陽会第13回展に「大瀬即興」「白菜図」「読書」出品。7月日動画廊で近作展を開催。熱海風景など10数点を出品。この年、帝国美術院改組に際し、帝国美術院参与に推され、山崎省三、前川千帆等と春陽会を退会す。9月山崎省三等身辺の人と催青会を設立。
昭和11年 5月、日動画廊で個展を開催小品等約30数点を出品。文展招待で「多瓜」出品。
昭和12年 第1回文展に「園長の像」三越洋画小品展に「雪ふる海」出品。
昭和13年 3月、日動画廊で個展開催、近作サムホールを出品。
昭和15年 1月、日本橋三越で新作油絵の個展を開催「カトレヤ」他20数点を出品。紀元二千六百年奉祝展に「時化の朝」出品。
昭和16年 第4回文展に「霧の湖畔」、9月仏印巡回展に「雪の日入江」を出品。
昭和17年 第5回文展に「たばこ一ぷく」出品。11月、榛名山に写生旅行中脳溢血で倒れ左半身不随となる。
昭和18年 第6回文展に「紅富士」出品。春陽会に復帰。
昭和19年 春陽会第22回展に「あかときの富士」出品。
昭和21年 腸閉塞となり、手術の結果悪く遂に10月8日死去した。
昭和22年春陽会展に「Y婦人の像」を出品。翌23年春陽会第25回展に山本鼎の遺作室を設けた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和22~26年版(132-133頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「山本鼎」が含まれます。
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