榊莫山
書家の榊莫山は、10月3日、急性心不全のため奈良県天理市内の病院で死去した。享年84。1926(大正15)年2月1日、母方の実家である京都府相楽郡大河原村(現、南山城村)で生まれる。戸籍は三重県名賀郡古山村(現、伊賀市)。本名齊。1937(昭和12)年、伊賀の花垣尋常高等小学校6年次に伊賀学童競書会で「聖恩與天高」が特選受賞。38年、旧制上野中学校に入学し、松本楳園に書を、佐々木三郎に油彩画を習う。43年、三重師範学校に入学。45年、終戦後に復員し、小学校教員となる。46年、奈良で日本書芸院設立者でもある書家の辻本史邑に師事。また、この時期には、京都大学文学部に内地留学し、井島勉のもとで美学を学ぶ。50年から、日本書芸院公募展に出品。51年、第5回日本書芸院公募展に出品した「放蕩」、翌年第6回展の「何将軍山林詩」で、最高賞にあたる推薦一席を二年連続受賞。このころ、伊賀の文化人菊山当年男の勧めによって、大阪に転居している。また、奎星会展では、52年の第1回から3回連続で最高賞にあたる奎星会賞を連続受賞。20代の若さにして、日本書芸院と奎星会の審査員となる。しかし、書を他の造形芸術を含む広大な領域の中で捉えていた莫山は、書を他の諸芸術から区別し、その独自性を確保しようとする保守的な書壇に対する疑問を抱き、57年11月に師の辻本史邑が死去したことをきっかけに、日本書芸院を離れる。61年には、奎星会同人も辞退し、無所属となる。その後は、「土」「女」「花」などの一文字にイメージを重ねる作品などで独自の道を模索。画廊や百貨店で個展を開くのみならず、同郷の元永定正をはじめとする他分野の美術家との合作や二人展などを行うほか、テレビやラジオへの出演、多数の著作を執筆するなど広範な分野で活躍する。68年、書の研究グループである山径社を主宰(77年解散)。76年、大阪成蹊女子短期大学教授を務める。81年、両親が相次いで死去し、郷里の伊賀へと戻る。故郷の山野を歩き、自然に着想を求めたことで、「大和八景」(84年)や「伊賀八景」(94年)といった連作を生み出し、詩書画一体の作風を確立。1989(平成元)年、近畿大学文学部教授。92年、東大寺南大門仁王像阿形像像内に納入する宝篋印陀羅尼経などを制作。93年から96年にかけては、焼酎のテレビCMに登場し、広く一般にもその人柄が親しまれるようになる。死去の翌年2011年、遺言により作品108点が三重県立美術館に寄贈され、12年4月に同館で榊莫山展が開催された。
出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(450-451頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「榊莫山」『日本美術年鑑』平成23年版(450-451頁)
例)「榊莫山 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28513.html(閲覧日 2024-10-08)
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