井波唯志

没年月日:2011/01/25
分野:, (工)
読み:いなみただし

 漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。
 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。
 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。
 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。
 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。
 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。
 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。
 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。
 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成24年版(425頁)
登録日:2015年12月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「井波唯志」『日本美術年鑑』平成24年版(425頁)
例)「井波唯志 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204349.html(閲覧日 2024-04-24)

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