合田清

没年月日:1938/05/06
分野:, (版)

西洋木版画の先覚合田清は5月6日逝去した。享年77歳。
 文久2年5月7日東京赤坂に生る。明治13年兄に随つて渡仏、始め農業学研究を志望したが、当時滞仏中の山本芳翠の勧めで西洋木版の研究に転じ、パリーのサン・ニコラ工業学校の教師で木版の大家なるバルバンの工場に約5年学び、次でチリア教授の下に職工として傭はれ、その間にサロンに入選した。
 滞仏中松岡寿、原田直次郎、黒田清輝、五姓田義松、藤雅三等と交遊があり、同20年山本芳翠と共に帰朝し、帰国後、山本芳翠の下絵、合田清の製版で文部省教科書の仕事をした。その頃芝桜田本郷町に山本と共同で生巧館を新築し、2階を山本の画室、階下を製版工場とし、両人共門弟を養成、山本の方は生巧館画学校と称し、之は白馬会の前身となり、合田の方は生巧館木版部と称した。当時の日本橋金港堂、及び博文館出版物の挿絵、東京朝日新聞、東京毎日新聞等の附録木版を彫つた。会津磐梯山の爆発の際は朝日新聞の依頼で、山本が大形な木版台木を携へ、現地に急行写生して持帰り、合田が二日一晩で彫上げ新聞附録としたこともあつた。その後多数の門弟を養成、同22年には印刷局の依頼で、同館より暹羅へ木版講師を派遣した。一方版下に写真を応用する技術を写真師成田常吉に依頼研究の結果写真膜転置法が考案され斯界に大進歩を促した。尚当時朝日新聞の新年附録に応学筆「猛虎図」を新聞一頁大に彫刻印刷し賞讃を博した。其後同館は麻布簟笥町、赤坂溜池、渋谷伊逹跡等に次々に移転された。同29年東京美術学校に洋画科設置されるに及び、合田は仏語の講師に就任、爾後30年間勤続し、静かな余生を送つた。著述に「西洋木版昔話」(アトリエ社版)がある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和14年版(108頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「合田清」『日本美術年鑑』昭和14年版(108頁)
例)「合田清 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8444.html(閲覧日 2024-04-20)

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