北原大輔
没年月日:1951/05/22陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は5月22日脳溢血のため北区の自宅で逝去した。享年62歳。明治22年5月17日長野県下伊郡郡に生れ、大正7年3月東京美術学校を卒業、同11年7月帝室博物館に入つて以来昭和13年11月監査官補を退くまで勤務し、引続き学芸委員を仰付かつた。同15年1月重要美術調査委員を依嘱され、戦後25年12月文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前東京美術研究所、又日本陶磁協会にも関係した。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は5月22日脳溢血のため北区の自宅で逝去した。享年62歳。明治22年5月17日長野県下伊郡郡に生れ、大正7年3月東京美術学校を卒業、同11年7月帝室博物館に入つて以来昭和13年11月監査官補を退くまで勤務し、引続き学芸委員を仰付かつた。同15年1月重要美術調査委員を依嘱され、戦後25年12月文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前東京美術研究所、又日本陶磁協会にも関係した。
高島屋取締役飯田新太郎は5月3日京都市に於て逝去した。享年67歳。明治17年飯田新七の長男として京都市に生れた。同42年早稲田大学商科を卒業、家業に就き、大正15年取締役に就任、同年より2ケ年の間欧米を巡遊した。晩年居を京都に定め、美術工芸の技術向上に意を用い、斯界に貢献した。
元国民精神文化研究所員正木篤三は、10月25日新宿区の自宅に於て逝去した。享年46。正木直彦の二男として東京に生れ、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部国文学科に学び、昭和5年卒業、同年帝国美術院附属美術研究所嘱託となり、同13年美術研究所員に任ぜられた。同16年国民精神文化研究所に転じて所員となつた。終戦後は、繊維貿易公団に勤務したが、病を得て再び立たなかつた。その著書に「本阿弥行状記と光悦」があり、「美術研究」誌上に発表した論文に「弥勒来迎図考」「川合家本聖徳太子伝絵考」などがある。
元東京大学教授、国立博物館評議員児島喜久雄は7月5日逝去した。享年64。明治20年10月10日東京市四谷区に於いて児島益謙五男として生れた。同39年7月学習院中等科卒業、同年第一高等学校独文科入学、同42年東京帝国大学文科大学哲学科入学、美学を専攻、翌43年4月から白樺同人となり同誌に寄稿した。大正2年7月、東京帝国大学卒業、引続き大学院に入学し、大塚保治教授指導の許に欧洲美術史研究に従う。同4年4月独逸学協会中学校独逸語教師を、更に翌5年5月学習院講師を嘱託され、又この年矢代幸雄と美術新報の編輯に当つた。同7年4月東京女子大学講師、同9年3月東宮職出仕を嘱託せられ、6月には学習院の教授となつた。同10年8月アメリカ経由欧洲に留学、ヴエルフリン、ボーデ博士等と共に欧洲美術史の研究に従事、留学中、東北帝国大学助教授、文部省留学生となつた、同15年7月帰国東北帝大に赴任した。昭和7年9月、帝国美術院附属美術研究所嘱託となり同9年11月、九州帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同10年3月東京帝国大学文学部助教授兼東北大学助教授となつた。同13年12月ベルリン日本古美術展開催に際し、独、仏、伊、米に出張し翌年5月帰国した。同14年京城帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同15年美術振興会調査会委員となつた。同16年東京帝国大学教授となり、美術史学講座を担当、同21年6月国宝保存会委員となつた。同23年3月東京大学を停年退職、同月、国立博物館評議員、4月早稲田大学文学部講師、5月長尾美術館々長となり24年1月には大学設置委員会委員、東京工業大学講師となつて逝去迄在任した。著作に「レオナルド・ダ・ヴインチ」、「西洋美術館めぐり」「美術概論」「希臘の鋏」などあり、油絵肖像画、装幀などにも筆をとつた。
かつて世界的に有名であつた松方コレクシヨンの主松方幸次郎は、6月27日鎌倉市の自宅で逝去した。享年84。公爵松方正義の三男で川崎造船社長、松方日ソ石油社長、衆議院議員として実業界、政界に活躍した。第一次世界大戦後ヨーロツパ各国に於て、多くの西洋絵画及び彫刻、工芸品を購入し、松方美術館を計画したが、完成を見ずその蒐集品は四散した。しかし、わが近代美術の発達に与えた功績は極めて大きい。又彼の蒐集した浮世絵は戦時中帝室へ献上し今日国立博物館に移管されて、その量と質に世界有数のものとして知られている。
東京都美術館長尾川藤十郎は東京杉並の自宅で4月24日脳溢血のため死去した。享年64。明治20年群馬県に生れ、大正3年東京美術学校師範科を、更に広島高等師範学校教育科を卒業した。東京都美術館主事を経て館長をつとめた。
能楽研究家として知られた野上豊一郎は2月23日東京世田谷の自宅で脳出血のため死去した。享年68。明治16年大分県に生れ、同41年東大文学部英文科を卒業、法政大学教授を経て昭和21年法政大学総長となつた。「能・研究と発見」「幽玄と花」等の著書があり、能の海外紹介に活躍した。能面に関する造詣も深く、重要美術調査委員会の嘱託であつた。
元東京美術学校長芝田徹心は2月6日三重県の自宅で心臓弁塞のため死去した。享年82。明治12年三重県に生れ、同36年東大哲学科を卒業、八高校長 女子学習院長等を歴任した。昭和11年から15年迄東京美術学校長をつとめた。
東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。
国史学支那学等で知られた笹川臨風は4月13日東京本郷の自宅で死去した。享年80。本名を種郎といい、明治3年東京に生れ、同29年東大国史科を卒業した。明治43年頃より中央公論などで美術批評に活躍し、美術関係の著書としては「日本絵画史」等がある。再興日本美術院には院の幹理として尽力した。
美術印刷に功労のあつた田中松太郎は3月10日死去した。享年87。号を半七・★籟といい、文久3年富山県に生れた。印刷研究のために西洋を巡り、日本の印刷技術及び三色版印刷に一進歩をもたらし、昭和16年毎日新聞社から印刷功労賞を受けた。パンの会の会員でもあつた。
元内大臣牧野伸顕は1月25日千葉県葛飾郡の自宅に於て逝去。享年89。維新の元勲大久保利通の次男として生れ、外務書記官を出発点として官界に入り、内政外交の要職を経て、第一次大戦後講和全権委員、宮内大臣、内大臣を歴任した。美術行政にも関心を持ち、明治39年西園寺内閣の文相に任ぜられかねての抱負に従い、美術行政家、美術家とはかつて同40年文部省に美術審査委員会を創立し、文部省美術展覧会を開設して美術の発展に貢献した。また大正13年黒田清輝の逝去に際し、その遺言執行人となり久米桂一郎、正木直彦、矢代幸雄等と協議して、わが国唯一の美術研究所(現在文化財保護委員会所管)を創立した。
浮世絵版画の研究と蒐集家として知られた小島烏水は12月13日東京杉並の自宅で脳溢血のため死去した。享年74。本名を久太といい、明治8年高松市に生れ横浜商業を卒業後銀行員となつて外地にも勤務した。日本山岳会長として日本アルプスの紹介、紀行文の発表などと共に浮世絵の研究に努め、大正4年雑誌「浮世絵」を発刊主宰した。美術関係著書の主なものに「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」等がある。
美術史家大口理夫は、11月10日都下桜町病院に於て没した。享年40。明治42年愛知県に生れ、昭和7年東京帝国大学文学部美学及美術史科を卒業した。はじめ日本国宝全集の編輯にたずさわり、のち脇本楽之軒の東京美術研究所或は国際文化振興会に勤務した。更に文部省国宝調査室に嘱託として勤め、機構改正に際し国立博物館に転じたが、この頃から病床に在り、遂に再び立たなかつた。彫刻史専攻の新進学者として又美術評論家として招来の大成を期待されたが、その逝去は惜まれる。その著書に「日本彫刻史研究」がある。
美術研究所長兼東京都美術館長田中豊蔵は4月26日肺炎のため世田谷区の自宅に於て没した。享年68。明治14年京都に生れ、第三高等学校を経て、同38年東京帝国大学文科に入り、支那文学を専攻、41年卒業した。同45年国華社に入り、「南画新論」以下30余篇の論文を国華誌上に発表した。大正9年文部省古社寺保存計画調査を嘱託され、翌年慶応義塾大学文学部講師を依嘱され、日本及び支那美術史を講じた。同15年東京美術学校講師となり、西域美術史を講じた。昭和2年在外研究員としてインド及び欧米に留学、翌年帰朝、京城帝国大学教授に任ぜられ、美学美術史第二講座を担当、同17年定年退官まで在職した。その間、昭和4年国宝保存会委員、同5年美術研究所嘱託、同8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会第一部員、同14年李王家美術館評議員に就任した。昭和12年以来画説誌上に多くの論文を発表し、同17年退官の後、重要美術品等調査委員会委員を依嘱され、さらに美術研究所長事務取扱に就任した。以後「美術研究」誌上に数篇の論文を発表した。昭和20年5月以降美術研究所と共に山形県酒田市に疎開、帰京後国立博物館の新設に際し、その附属美術研究所長に任ぜられ、また東京都美術館長を兼ねその逝去まで在任した。著書に「東洋美術談叢」がある。
元東方文化研究所員として支那画論画史を研究した伊勢専一郎は1月13日京都市左京区の自宅で逝去した。明治24年長崎県平戸に生れ、大正8年京都帝国大学文学部美学及美術史科を卒業、支那の画論画史を専攻した。「有竹斎蔵清六大家画譜」「支那の絵画」「芸術の本質」「西洋美術史」「菫?蔵書画譜」「爽籟館欣賞第一輯」「自顧愷之至荊浩支那山水画史(東方文化研究所研究報告)」等の著書があり、東方文化研究所研究員、大阪市美術館嘱託などを勤めたが後年は農業に従事しつつ著述にふけつていた。
帝国芸術院長清水澄は9月25日熱海で死去した。享年80。明治元年金沢市に生れ、同27年東京帝大法学部を卒業した。法学博士で行政学の権威であり枢密院議長をつとめた。昭和13年初代帝国芸術院長となり、芸術振興にも力を尽した。
工学博士天沼俊一は、9月1日京都市上京区の自宅にて脳溢血により逝去。明治9年東京市に生れ、同35年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同39年奈良県技師に任じ、古社寺修理技師を命ぜられ、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員を嘱託された。同7年京都府技師に転じ、同8年工学博士の学位を与えられた。同9年京都帝国大学助教授、兼て京都府技師に任ぜられた。同10年建築史研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカ、ヨーロツパ、エジプト及びインドを巡歴して同12年帰朝、同年京都帝国大学教授に任じ、建築学第三講義を担任した。昭和8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員 同10年重要美術品等調査委員となつた。同年欧亜各国へ出張、同11年帰朝した。同年退官、京都帝国大学工学部講師となつた。晩年四天王寺の再建に尽力した。その著書、論文は多数にのぼるが、単行図書に「日本建築史図録」「日本の建築」「日本建築」「日本古建築行脚」「坡西土から坡西土へ」「成蟲楼随筆」等がある。
詩人、慶応義塾大学名誉教授野口米次郎は、7月13日茨城県結城郡の別荘で胃癌のため逝去した。享年73。愛知県に生れ、慶応義塾卒業後アメリカに赴き、ヨネ・ノグチとして米英詩壇に知られた。美術には関心をよせ「歌麿北斎広重論」「春信」「日本美術読本」「正倉院御宝物」「聖武天皇と正倉院」(英文)等の著がある。イサム・ノグチはその息。
「日本美術の知識」「泰西美術の知識」等の著書で知られた中村亮平は7月7日東京阿佐ヶ谷の自宅で死去した。明治20年長野県に生れ、長野県師範学校を卒業した。大正8年武者小路実篤による日向の新しき村に参加したが、大正10年脱退、その後美術関係の著作に専心していた。