本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





会津八一

没年月日:1956/11/21

美術史学者、歌人、書家として知られた会津八一は、胃潰瘍、心臓障害のため新潟大学附属病院に入院中、11月21日逝去した。享年75歳。号、秋艸道人、渾斎。自宅新潟市。明治14年8月新潟市に生れた。新潟中学在学中すでに俳句、和歌を学び、33年上京して更に、正岡子規の教えをうけた。39年早稲田大学英文科を卒業、有恒学舎、早稲田中学の講師をつとめたのち、早稲田大学教授となり、東洋美術史、奈良文化史を講じた。昭和4年天沼俊一、浜田青陵らと雑誌「東洋美術」を創刊、9年には「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」で文学博士の学位をうけ、また、早稲田大学内に東洋美術陳列室を創設した。昭和16年自作書画の最初の個展を鳩居堂でひらいた他、壷中居、或は京都大丸等に於て書道展を催すこと十数回に及んでいる。昭和20年戦災に遇い、早稲田大学教授を辞して郷里新潟に疎開した。同地では「夕刊新潟」を創刊、社長となるほか、「新潟日報」の社賓であつた。23年早稲田大学名誉教授に推され、26年には新潟市名誉市民に選ばれた。著書「南京新唱」(大正13年)「奈良美術史料、推古篇」(昭和3年)「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」(昭和8年)「古瓦集存」(昭和8年)「南京餘唱」(昭和9年)「鹿鳴集」(昭和15年)「渾斎近墨」(昭和16年)「渾斎随筆」(昭和17年)「山光集」(昭和19年)「遊神帖」(昭和22年)「寒燈集」(昭和22年)

奥田誠一

没年月日:1955/10/27

文化財専門審議会専門委員奥田誠一は、10月27日動脈硬化症に肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年73歳。明治16年6月15日三重県津市に生れた。号次郎坊。同43年東京帝国大学文科大学心理学科を卒業、同45年同心理学教室副手、大正3年同美術史研究室の副手となつた。同11年特許局技師兼農商務省技師に任ぜられ、昭和2年特許局意匠課長に進み、同17年退官した。この間、大正13年宮内省御物管理委員会臨時委員、昭和4年国宝保存会委員、同8年重要美術品等調査会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となつて重要文化財の保護に尽瘁した。また帝室博物館学芸委員、国立博物館調査委員をもつとめ、さらに東京帝国大学文学部美学美術史学科講師、東京工業大学窯業学科講師として後進を指導した。また大正13年には自ら東洋陶磁研究所を創設して東洋陶磁の研究、鑑賞のために尽力し、別に古陶磁研究会、彩壷会、亦楽会等に関係し、名実共に東洋陶滋研究、鑑定の第一人者であつた。主な編著書に「陶磁器百選」(便利堂)「東洋陶磁集成」(東洋陶磁研究所)「日本工芸史概説」(雄山閤)「呉須赤絵」(座右宝)「陶器の読み方」(創芸社)「陶器大学」(座右宝)「茶碗談義」(創芸社)「異説天目考」(座右宝)「安南古陶磁図録」(同上)「日本の陶磁」等がある。

辻善之助

没年月日:1955/10/13

東京大学名誉教授、学士院会員、元文化財専門審議会々長文学博士辻善之助は、10月13日肺炎のため東京都新宿区の自宅で逝去した。享年78。明治10年4月15日兵庫県姫路市に生れ、同32年東京帝国大学を卒業、大学院に学び、同38年史料編纂官となつた。同42年日本仏教史の研究で学位を得た。大正12年兼任東大教授、昭和4年から同13年まで史料編纂所長をつとめた。退官と共に東大名誉教授に推された。この間、昭和7年帝国学士院会員となつた。「日本仏教史の研究」で学士院賞を受け、同27年仏教文化史の研究の功績によつて文化勲章を受けた。また文化財専門審議会々長として戦後の文化財保護事業につくした。「大日本史料」「大日本古文書」「鹿苑日録」「大乗院寺社雑記」等の編修出版に多くの功績があり、そのほか主な著書に「日本仏教史」「日本文化史」「社寺領性質の研究」「増訂海外交通史話」等がある。

池長孟

没年月日:1955/08/25

旧池長美術館館長池長孟は、8月25日神戸市の自宅で胃潰瘍のため逝去した。享年64歳。明治24年11月24日神戸市兵庫に生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学法科を卒業し、のち暫く文科に学んだ。大正11年米、英、仏、瑞、伊、墺、独、白の8ケ国を巡遊し、翌年帰国した。同12年私立育英商業学校の校主兼校長となつた。この前後から「荒つ削りの魂」「開国秘譚」等の戯曲を著し、また大正9、10年頃から蒐集した南蛮美術を収載した豪華版「邦彩蛮華大宝鑑」を出版した。同15年神戸市に池長美術館を設立し、多年にわたる南蛮美術を収蔵陳列し、これを公開した。昭和23年第1回兵庫県文化賞を受けたが、同26年美術館並びに収蔵美術品を神戸市に委譲した。これ今日の神戸市美術館である。近世以降の洋風美術を蒐集し、その散佚を防いだ功績は没し難いものがある。

大串純夫

没年月日:1955/07/14

東京国立文化財研究所美術部研究員、文部技官大串純夫は、7月14日急逝した。享年43歳。明治45年7月18日東京に生れ、昭和12年3月東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。14年3月まで大学院に学ぶかたわら国華社編輯員、成蹊高等学校講師の職に在り、14年美術研究所嘱託兼東洋美術国際研究会嘱託に就任、同会のArt Guide of Nipponを編纂した。18年応召、終戦時満州からシベリヤに移されて抑留5年。25年引揚後成蹊大学講師を嘱託され、26年文部技官に任じ美術研究所勤務を命ぜられた。27年12月文化財保護委員会事務局美術工芸課に併任され、翌年7月アメリカに於ける日本古美術展覧会要員として出張、29年3月出陳美術品と同船して帰国した。平安・鎌倉時代の仏教絵画を専攻し、近年は説話を軸とする絵巻物研究に専念していた。主な論文は次の通りである。昭和15年8月-16年7月 来迎芸術論1-5 国華597 599 604 605 608昭和16年11月-12月 十界図考上・下 美術研究119 120昭和28年2月-3月 信貴山縁起絵巻の詞 国華731 732昭和28年9月 信貴山縁起関係説話 美術研究170昭和28年9月-11月 信貴山縁起絵巻画面解釈 国華738-740昭和29年9月 信貴山縁起絵巻の成立をめぐる歴史的諸条件 美術研究177

芝葛盛

没年月日:1955/07/13

文化財専門審議会専門委員、正倉院評議会々員、宮内庁調査員芝葛盛は、7月13日肝臓病のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年75歳。明治13年4月3日東京都新宿区に生れた。明治36年東京帝国大学文科大学卒業後史料編纂掛となり、大正3年宮内省図書寮編修官を拝命し、編修課長として昭和21年退官するまで、長年月にわたつて歴代天皇の実録編集を担任した。この間、東京帝国大学文学部講師、立教大学、国学院大学、日本女子大学等に国史を講じた。昭和21年帝国学士院帝室制度史編纂室主任、同24年再び宮内庁調査員となつた。同12年国宝保存会委員を仰付けられ、同25年文化財専門審議会専門委員を命ぜられ、第一分科会と第三分科会に所属し、長年月にわたつて文化財保護のためにつくした。また、昭和15年6月、同21年9月、同27年6月両陛下に御進講申上げた。著書に「皇室制度」「平安時代の風俗」等がある。

羽田亨

没年月日:1955/04/13

元京都大学総長、京都大学名誉教授、文学博士羽田亨は、かねて膵臓癌のため京都大学病院井上内科に入院中であつたが、肺炎を併発して4月13日逝去した。72歳。京都府に生れ、明治40年東京帝国大学文科大学を卒業した。同42年京都大学文学部講師となり、大正12年文学博士の学位を得、同13年教授に進んだ。昭和13年から同20年まで第10代京都大学総長に在任、同21年同学名誉教授となつた。28年東洋史の研究の功績によつて文化勲章を受け、29年には京都名誉市民に推された。また支那学研究に対し、27年フランス、アカデミーからジユリアン章、30年1月フランス政府からレジヨン・ド・ヌール勲章を授与された。著書には「西域文明史概論」「西域文化史」などがあり、晩年には開国百年記念会々長として明治文化史、日米文化交渉史の編纂を主宰していた。

柴田常恵

没年月日:1954/12/01

文化財専門審議会考古部会委員柴田常恵は、12月1日脳出血のため東京都練馬区の自宅で没した。享年77歳。明治10年7月18日愛知県名古屋市に生まれ、同32年史学館を卒業した。同35年東京帝国大学理学部人類学教室に入つて助手となり、大正9年内務省嘱託となつて史蹟名勝天然記念物調査会の調査員をつとめ、同10年東京帝国大学文学部標本室の調査嘱託となつた。昭和3年文部省嘱託として史蹟名勝天然記念物の調査に従い、同11年帝室林野局嘱託、同11年重要美術品等調査会委員、同25年文化財専門審議会委員となつた。この間、慶応義塾大学の考古学の講師をつとめた。

持丸一夫

没年月日:1954/03/18

東京国立文化財研究所美術部研究員持丸一夫は、昭和29年3月18日、心臓機能不全症による脳栓塞のため、大田区田園調布の中央病院で死去した。享年34歳。大正8年7月7日横浜に生まれ、静岡高等学校を経て、昭和17年9月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年10月美術研究所内の東洋美術国際研究会に入つて、英文日本古美術案内の編集に従事、兼ねて美術研究所嘱託として目本美術の研究にあたつた。19年3月応召、中支にて終戦を迎え、苦難の俘虜生活を約1年同地に送つた。21年5月帰還し、しばらく、旧職の東洋美術国際研究会の残務整理にあたつていたが、22年6月美術研究所に入つた。研究所に於ては、24年6月文部技官となり、大学の卒業論文(論文は司馬江漢の研究)以来手がけてきた、近世絵画史を専攻し、特に、桃山時代の障壁画の研究に力をそそいだ。その間、組合運動に、また、研究所の事務的な面にも仲々の手腕を振つた。また、研究には、きわめて実証的な方法をとつたが、啓蒙的な著述にも力をそそぎ、小山書店発行の「狩野永徳」や吉川弘文館発行の「日本美術史要説」などがある。論文目録昭和23年 狩野宗秀に就いて 美術研究147号昭和24年 豊臣秀吉画像と筆者狩野光信に就いて 美術研究153号昭和25年 犬追物図攷 国華693号昭和25年 狩野派 世界美術全集、絵画「日本」Ⅲ昭和25年 建仁寺障壁画 美術研究157号昭和26年 宗達と現代美術 三彩53号昭和26年 宗達筆舞楽図屏風解説 美術研究162号昭和26年 金碧障壁画の代表作智積院の襖絵について ミユーゼアム9号昭和27年 名古屋城障壁画筆者考 美術研究164号昭和27年 桃山時代の極彩色障壁画 ミユーゼアム10号昭和27年 洛中洛外図屏風 ミユーゼアム12号昭和28年 名古屋城本丸御殿障壁画 ミユーゼアム22号昭和28年 石山寺縁起と慕帰絵詞に現われた障壁画 美術研究169号昭和28年 法然絵伝に現われた障壁画 美術研究171号昭和29年 桃山時代の絵画 ミユーゼアム34号

後藤真太郎

没年月日:1954/01/27

株式会社座右宝刊行会取締役社長後藤真太郎は、腎臓炎で杏雲堂病院に入院加療中のところ、1月27日逝去した。享年60歳。明治27年5月28日、京都府に生る。京都絵画専門学校にて日本画を学んだが、この頃小出楢重と親交を結び、同じ頃「白樺」に刺戟され、また武者小路実篤の「新しき村」運動に参加した。およそ1年ののち昭和2年東京へ出た。この頃から白樺派の作家達と交つた。志賀直哉が「座右宝」(大正15年刊)を刊行したのち、同刊行会刊、岡田三郎助編纂の「時代裂」を手伝い、のち同会を引き継ぎ主宰者となる。以後、美学、美術史、建築、考古学関係の書籍及び画集等の専門的出版社として特異な存在となつた。此の間、日満文化協会評議員として中国・満洲方面へ毎年渡り、両国文化交流に出版面に於いて貢献した。又、昭和8年に創立した美術小団体「清光会」は、その会員にわが国の代表的な美術家を揃え、昭和29年の第19回展にいたるまで殆ど連年展覧会を開いて注目された。一方東西古美術品を愛し、陶器の蒐集家としても知られた。 主な刊行図書は、先の「座右宝」についで「聚楽」、「纂組英華」、「時代裂」、「Garden of Japan」、「熱河」、又、「考古学研究」を始めとする浜田青陵全集全4巻、伊東忠太の「支那建築装飾」(全9巻内6巻までで、博士死去のため未完成)水野清一・長広敏雄の「龍門石窟の研究」、池内宏「通溝」等である。戦後、雑誌「座右宝」を創刊したが、19号にして廃刊のやむなきに至つた。更に昭和26年より、水野・長広による「雲崗石窟」全15巻及び、田村実造・小林行雄の「慶陵」全2巻の刊行が始まり、両書共、夫々昭和27年、29年の朝日文化賞及び、日本学士院恩賜賞を受けた。自編著としては、「時代裂」(岡田三郎助共編)「華岳素描」「旅順博物館図録」等がある。

金井紫雲

没年月日:1954/01/19

元都新聞美術記者金井紫雲は、1月19日狭心症のため急逝した。享年66。本名泰三郎。明治21年1月2日埼玉県高崎に生れた。同35年上京、独学にて研鑚、この間坪内逍遙、田村江東等の薫陶を受けた。同42年中央新聞杜へ入社、社会部に勤務、大正10年都新聞社に移り、学芸部長となつて主に美術記者として活躍し、勤続15年に及んだ。その趣味はきわめて広く、美術だけでなく盆栽、花、鳥等にも専門的な研究を企て、多くの著書を遺した。主なものに「盆栽の研究」(大正3年)、「花と鳥」(大正14年)、「花鳥研究」(昭和11年)、「東洋花鳥図攷」(昭和18年)、「鳥と芸術」(同23年)、「東洋画題綜覧」(同16-18年)、「芸術資料」(48巻、同11年-16年)等がある。

樺山愛輔

没年月日:1953/10/21

日米協会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長樺山愛輔は、10月21日神奈川県の自邸で脳動脈硬化症に気管支肺炎を併発死去した。享年88歳。慶応元年故海軍大将伯爵樺山資紀の長子として鹿児島に生れ、若くしてアメリカ、ドイツに留学、壮年時代は実業界で活躍した。のち貴族院議員、枢密顧問官となり、また国際文化振興会、東洋美術国際研究会等の理事長として日本文化の海外紹介に尽し、戦後は社会教育事業のためグルー基金の創設や国際文化会館の建設に尽力した。また、黒田清輝の縁故者として美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)の創立と発展につくした。

矢崎美盛

没年月日:1953/04/07

東京大学文学部教授文学博士矢崎美盛は、4月7日胃癌のため世田谷の国立第二病院で没した。享年58歳。明治28年山梨県東山梨郡に生る。大正5年第一高等学校を、同8年東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。同12年ドイツ、フランス、イタリア等に留学し、同14年法政大学教授、同15年東京帝国大学文学部講師となつた。昭和2年九州大学法文学部助教授に任ぜられ、同10年教授に進み、この間、同3年ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ等に留学した。同16年京城帝国大学教授を兼任した。同23年東京大学教授に転じ、九州大学教授を兼ね、美学、美術史を担当した。また皇太子殿下御進講を嘱託され、大正大学、東北大学、法政大学、早稲田大学の講師となり、後進を指導した。著書に「様式の美学」(創元社)、「芸術学」(弘文堂)、「少年美術館」(岩波書店)、「マリアの美術」(岩波書店)、「絵画の見方」(同上)などがある。

山際靖

没年月日:1952/11/08

美学者、日本大学教授、東京国立博物館調査員山際靖は11月8日新宿区で急逝した。享年51歳。明治34年11月5日東京新宿区に生る。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部に入学して美学を専攻、大正14年卒業、のち同大学大学院に在学した。昭和3年東洋大学教授となり、また同5年から12年まで母校美学研究室の副手を勤めた。同19年東京帝室博物館に嘱託として勤め、22年国立博物館文部技官に任ぜられ、翌年同調査員となつた。この間、日本大学をはじめ和洋女子専門学校、日本女子専門学校、東京女子高等師範学校、明治大学、日本女子大学などに美学を講じた。その著書に「新講美学概論」「芸術通論」「美学」「芸術」「きものの話」「趣味の美学」などがある。

田沢田軒

没年月日:1952/11/08

美術記者界の長老、産業経済新聞社美術部主任田沢田軒(本名良夫)は、11月8日港区の自宅で没した。享年67歳。明治18年2月23日東京都港区に生る。中学校卒業後軍隊生活を送り、大正5年東京毎夕新聞社に入社、美術部を創設して美術部長となり、昭和12年以降同社の外交部長を経て編輯局長となつた。同15年同社を辞し、北京の東亜新報社に入つて東京支社駐在員として美術及び学芸方面の記事を担当した。同25年産業経済新聞社に入社、美術部主任となつた。

田沢金吾

没年月日:1952/09/26

文化財専門審議会工芸品部、考古民俗資料部会専門委員田沢金吾は、9月26日没した。享年59歳。明治25年1月12日兵庫県西宮市に生れ、兵庫県立工業学校を経て早稲田大学理工学科に入学、大正2年まで在学して退いた。同6年頃から考古学の研究に志し、同7年以来、和歌山県、内務省、東京帝国大学、文部省、国立博物館等の嘱託として史蹟名勝、重要美術品の調査に従事した。昭和24年文部技官に任ぜられ、国立博物館調査課に勤務し、同25年文化財保護委員会事務局の保存部美術工芸品課に転じ、27年退官した。25年文化財専門審議会専門委員となつた。著書に「楽浪」「鞍馬山経塚遺宝」「薩摩焼の研究」などがある。

一氏義良

没年月日:1952/02/21

美術史家一氏義良は2月21日世田谷区の自宅で脳溢血のため死去した。享年63歳。明治21年島根県に生れ、大正2年早稲田大学英文科を卒業。大正10年史学研究のため欧洲に留学、同15年古代史料見学のため再び渡欧、一生著述に従事した。昭和3年帝国美術学校、同16年には北京芸術大学教授となる。主たる著書に「立体派、未来派、表現派」、「エジプトの芸術」、「西洋文明史」、「東洋美術史」、等がある。

斎田元次郎

没年月日:1951/12/15

日本画専門雑誌の発行者として知られた斎田元次郎(号素州)は12月15日肺炎にて渋谷区の仮寓先で逝去した。享年58歳。明治26年8月17日兵庫県多紀郡に生れ、国学院大学師範部を出、はじめ新聞社社会部美術記者として大正8年より昭和6年末まで、やまと新聞、時事新報、読売新聞の各社に勤めた。昭和7年より雑誌「塔影」や「国画」を編輯発行し、美術ジャーナリズムの一方向を堅持し、戦後「純美」を主宰した。

大塚稔

没年月日:1951/10/13

美術印刷業者として著名だつた大塚巧芸社々長大塚稔(号、鈍重)は病を得て10月13日伊豆網代の療養先にて逝去した。享年64歳。明治21年1月1日長野県浅間山麓に生れ、幼にして両親を喪い、12歳にて単身上京、具さに辛酸を嘗めつつ克苦勉励、写真技術及びコロタイプ印刷術を習得した。大正8年神田裏に大塚巧芸社を創業、同年日本美術院関係の出版物一切の依嘱を受けた。続いて宮内省、内務省、文部省等より美術印刷物及び貴重な文献類多種の複製を下命され、同18年文部省より技術保存証を受領した。同16年より3年を費し、郷里上田郊外に独力にて信州夢殿を建立し宝蔵の国宝救世観音像を安置した。美術を深く愛好し、名画の複製、美術図書の出版多数に亘つた。戦後株式会社大塚巧芸社を復興し、没後なほ遺業が続けられている。

芳川赳

没年月日:1951/07/09

美術出版界に名のあつた芳川赳は7月9日脳溢血のため豊島区の自宅で逝去した。享年55歳。明治28年10月20日長崎県島原市に生れ、県立島原中学を経て明治大学卒業、出版界に入り各種の著書を発行したが、雑誌「美術春秋(月刊)」「日本画傑作年鑑」等の編輯発行者として知られ、戦後は「美術鑑賞」を発行した。

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