本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





榊本義春

没年月日:1971/01/09

前美術院国宝修理所長榊本義春は1月9日尿毒症で没した。享年79歳である。明治25年4月1日奈良県吉野郡に生れ、奈良県吉野工業高等学校卒業後明治42年4月岡倉天心が奈良につくった日本美術院(院長新納忠之介)に就職し、大正6年に技手となって全国の国宝修理事業に従事する。大正9年国宝修理技師となり、各地の寺院に出張して修理を行った。戦後昭和21年1月に三十三間堂内に「美術院国宝修理所」として発足する際に所長に就任し、奈良から移った同修理所を現在の京都国立博物館内に定着させた。昭和34年退任し、それ以後も顧問として後進の養成に努めた。紫綬褒章(31年)、勲四等瑞宝章(41年)受賞。主な修理物件は唐招提寺金堂諸仏、鎌倉地方の諸仏。蓮華王院(三十三間堂)十一面千手観音千体仏のほとんど全てを修理、鳳凰堂阿弥陀如来坐像など。

榧本亀次郎

没年月日:1970/12/14

榧本亀次郎は、明治34年2月27日奈良市に生れた。東洋大学国語漢文科中退ののち、大正8年奈良女子高等師範学校図書館に、次いで大正13年東京帝室博物館歴史課に勤務した。同14年東京美術学校文庫係となり、昭和5年には朝鮮総督府学務局宗務課長、兼同総督府博物館勤務となり終戦時迄楽浪古墳、古蹟などの発掘に従事していた。終戦により奈良に戻り、22年奈良国立博物館に勤務、26年同考古室長、27年東京国立博物館有史室長、35年奈良国立文化財研究所歴史研究室長を歴任し、39年同研究所平城宮跡発掘調査部長となり41年定年退職した。

細川護立

没年月日:1970/11/18

元文化財保護委員会委員、日本刀剣保存協会々長細川護立は、11月18日急性肺炎のため東京都文京区の自宅で死去した。享年87歳。明治16年10月21日熊本県に生れ、大正3年侯爵家の宗家を相続し、旧熊本細川藩主16代目に当る。洋の東西にわたる美術品のコレクションは有名で、国宝、重文級の所蔵品も多い。戦前貴族院議員を約20年つとめ、戦後は文化財保護委員、正倉院評議会々員、国立近代美術館評議員、国立西洋美術館評議員、東洋文庫理事長などの職にあった。またヌビア遺跡保護協力委員長として、同遺跡の保存にも力をつくした。

泉靖一

没年月日:1970/11/15

東大教授、東大東洋文化研究所々長泉靖一は、11月15日午後2時40分外出先で脳出血のため倒れ、東京都港区東洋病院で死去した。享年55歳。東京出身で、京城大学社会科を卒業した。戦後、明大を経て東大に入った。昭和39年東大教授となり、同45年1月東洋文化研究所長となった。南米アンデスのインカ研究は有名で、昭和35年から3回東大南米アンデス調査団長をつとめ、第2回東大アンデス地帯学術調査団長のとき、コトシュ遺跡を発見、無土器時代の神殿群として世界に話題をまいた。それにより同38年、ペルー政府から最高勲章「オルデン・ドスール」を受章している。文化人類学界の第一人者でその功績は大きく、日本人類学会評議員、日本民族学会理事をつとめる。著書に「インカ帝国」「フィールド・ノート」があり、後者は昭和43年第16回エッセイスト・クラブ賞を受けた。

仲田定之助

没年月日:1970/11/11

美術評論家仲田定之助は、11月11日急性肺炎のため東京都大田区の自宅で死去した。享年82歳。明治21年日本橋に生れ、日本橋城東小学を卒え、錦城中学中退後、実業界に入り高田商会に入社した。大正11年ドイツに留学し新興美術に興味をもった。バウハウスには日本人として最初の訪問者となり、美術雑誌にその紹介記事を載せた。昭和3年画廊九段に、創立者中原実と協力で、クレー、カンデンスキーの絵画を展示した。晩年は活動を一時中止していたが、昭和45年明治下町風俗を記録した著書「明治商賣往來」でエッセイスト・クラブ賞を受けた。なお、往年は批評のほか、彫刻作家としての活動もあり、三科の一員として「ブーベンコップのヴィナス」「男の首」「女の首」などがある。

安藤更生

没年月日:1970/10/26

早稲田大学文学部教授、本名正輝、10月26日、肺癌と尿毒症のため国立癌センターにて死去。享年70歳。明治33年、東京牛込に生まれ、大正2年、早稲田中学に入学、会津八一に師事し美術史を学び始む。大正11年、東京外国語学校仏語部を卒業、早稲田大学文学部仏文科に入学、生家を離れて一時、会津八一宅に居す。大正12年、会津八一と共に奈良美術研究会を創め日本美術史の本格的研究に専心、奈良飛鳥園に出居す。大正13年、学費に窮し早稲田大学を中退、出版業に従事しつつ論文を発表、昭和2年には飛鳥園より著書『三月堂』を刊行、継いで奈良に東洋美術研究会を創設し、同4年には雑誌『東洋美術』を発刊す。この年、飛鳥園より著書『美術史上の奈良博物館』を刊行、『東洋美術』4号に「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就て」、『仏教美術』12号に「東大寺要録の醍醐寺本とその筆者に就いて」、昭和5年『歴史と国文学』に「国宝本東大寺要録の書入れに就いて」を発表。また、昭和6年には、春陽堂より著書『銀座細見』を刊行。この年、平凡社に入社、『大百科事典』の審査部員となる。昭和10年『漆と工芸』408号に「唐招提寺鑒眞和上像は夾紵像なり」を発表、同12年『東洋建築』1の3号に「唐招提寺御影堂の研究」、『くらしっく』6号に「唐招提寺御影堂創建に就ての試論」など唐招提寺関係の論文を発表している。昭和12年暮、新民印書館設立準備の業務を帯びて中国に渡り、時に、北支派遣軍に従軍、中国各地を歩き、古蹟保存に尽力、軍部を説き戦火を免しむることあり。昭和13年、新民印書館編集課長に就任、北京に居を定め、以後終戦にて帰国までの間、出版事業を通じて日中文化交流に務めると同時に、「北京人文学会」、「興亜宗教協会」、「北京文化協会」、「在華日本文化協会」、「中国文化振興会」などに参与または設立し、両国文化の相互理解に尽した。一方、昭和15年には、揚州に赴き、鑒眞の遺蹟を探り、以後毎年揚州を訪れ、鑒眞伝の研究に没頭し、昭和20年にはほぼ草稿成るも、敗戦による帰国に際し、一切の資料とともに没収される。 帰国後の昭和21年、早稲田大学講師となり、文学部にて美術史を講じ、学生の指導に当る一方、昭和25年日向考古調査、同28年熊野地方綜合調査、同31年より伊豆地方学術調査、高千穂・阿蘇地方調査と、戦後に行なわれた一連の地方史研究に積極的に参加す。この間、昭和21年には『学会』3の7号に「嶺南の鑒眞」、同22年に明和書院より著書『正倉院小史』、同24年『史観』32号に「日本上代に於ける年齢の数え方」、同26年『綜合世界文芸』3号に「唐の人物画家李湊と鑒眞和上との関係」、同27年『史観』37号に「日唐交通と江浙の港浦・海島」、『古代』7・8合併号に「洛陽大福先寺考」など鑒眞関係の論文を発表、昭和29年には「鑒眞大和上傳之研究」により文学博士となり、同30年、早稲田大学教授となる。その後、昭和33年には美術出版社より著書『鑒眞』を出版、続いて同35年に平凡社より博士論文「鑒眞大和上傳之研究」を印行した。また、近鉄叢書『唐招提寺』に「唐招提寺の建築」を執筆、同寺創建に一説を掲げた。続いて同36年には『大和文華』34号に「唐招提寺御影堂再考」を発表。さらに、昭和37年には数々の論文のなかから奈良関係のものを編んで『奈良美術研究』と題し出版した。この間、昭和33年に『芸術新潮』に発表した「白鳳時代は存在しない」は、後の白鳳論争となって世の注目を惹いた。一方、かねてより日本にある入定ミイラの研究に志し、昭和34年ようやく機を得て、新潟県西生寺の弘智法印のミイラを調査したのを契に翌35年には「出羽三山ミイラ学術調査団」を組織し団長となり、鶴岡市一帯にある鉄竜海、鉄門海、眞如海、忠海、円明海、などのミイラを調査、日本ミイラの科学的研究に着手した。続いて、茨城県妙法寺の舜義上人の調査、同26年には新潟県村上市観音寺の仏海上人の入定塚を発掘し、これらの成果を著書『日本のミイラ』にて広く世に紹介した。 昭和37年9月、早稲田大学海外研究員として西欧を旅行、パリのギメエ博物館、ローマの日本文化会館などで講演、同38年帰国、次いで同年9月には鑒眞和上円寂一千二百年記念訪中日本文化界代表団々長として中華人民共和国を訪問、北京、西安、南京、揚州、抗州、広州などを歴訪、鑒眞記念集会に出席。昭和40年には二玄社より著書『書豪会津八一』を出版、これは先師に関する多くの執筆のなかで唯一の単行本であり、『会津八一全集』の編輯とともに会津八一の紹介の一端である。この他、書道関係の著作も多く、昭和29年『今日の書道』(二玄社)、同31年『定本書道全集』(河出書房)などにも多くの執筆を見る。なかでも昭和37年『美術史研究』1号に掲載した「毛筆の発達と書画様式変化との関係について」は広く文房具と芸術様式との関係を究めるためのものであった。 晩年は多摩美術大学理事を兼任していたが、新聞、雑誌などに美術、書道、中国関係の論説、随筆を多く執筆している。なかでも昭和44年、二玄社より出版した『中国美術雑稿』と没後、中央公論美術出版社から刊行した『南都逍遙』は豊富な体験と愛情によって語られた美術談義である。

相内武千雄

没年月日:1970/08/25

慶応大学工学部教授相内武千雄は、8月25日午後7時脳いっ血のため横浜国立病院で死去した。享年64歳。明治39年2月青森県南部郡に生れ、昭和3年慶応大学文学部哲学科を卒業した。同年母校文学部助手となり、同7年同校予科教員、同12年同予科教授になり、昭和24年同工学部教授となった。この間、昭和34・10月から9ヶ月に亘り欧米に遊学した。主な著作次の通り。昭和5年 レオナルドの寺院構想 史学 第9巻第3号昭和16年 Cappella dei Pazzi 三田文学 第16第10号昭和17年 遺稿編について 三田文学 第17第11号昭和26年 Palzzo Pitti その原作者の問題について 芸文研究 1昭和29年 クロピウスと現代建築 三田評論 第562号昭和30年 相内図絵(青森) 三田評論 第566号昭和33年 ブルネレスキの穹窿 芸文研究 8昭和33年 世界名画全集図版解説 3 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 5 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 6 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 8 河出書房昭和33年 世界名画全集図版解説 9 河出書房昭和36年 クイリナーレ広場にて 三田評論 第596号昭和36年 クリスマスの一夜 三色旗 第156号昭和36年 再びPalazzo Pittiについて 芸文研究 11昭和38年 沢木四方吉先生 三田評論 第611号昭和38年 ギリシヤの神々と神像 古美術 3昭和39年 エトルリアの首 古美術 6昭和41年 オリユンピアのフエデイアス工房遺跡の発掘 史学第40第4号昭和41年 すぽっと・小さな助言 慶應義塾大学報 1昭和42年 春の奈良見学 塾 22昭和43年 若き日の山脈 塾 29昭和43年 ユーモアを解した正義の人田中吟竜君の面影 三田評論 第674号昭和45年 窓(体育研究所長に就任した辰沼広吉君) 塾 45昭和45年 新アテッカ派のステーレ・ヘラクレーズ 古美術 31昭和46年 狐とスキー(遺稿) 塾 45昭和46年 犬も歩けば棒にあたる(遺稿) 三田評論 第701号

相見香雨

没年月日:1970/06/28

美術史家相見香雨は6月28日老衰のため東京都滝野川の自宅で逝去した。享年97。相見香雨(本名・繁一)は、明治7年12月1日島根県松江市で生れた。松江中学卒業ののち早大の前身東京専門学校に学び、卒業後松江新報の編集に従事した。明治40年、大村西厓のもとで東洋美術大観の仕事を手助けし古美術研究に入った。明治43~大正元年ロンドン、パリに滞在。帰国後大正元年から審美書院の事実上の責任者となって「群芳清玩」その他の刊行に当った。その後、「精芸出版」社の仕事を担当「柳営墨宝」などを出版した。昭和元年日本美術協会に入り、同会のため美術品の収録作業に従事した。戦後は、27年文化財保護委員会美術工芸部門の専門審議会委員に就任、36年、美術史学における研究における功績に対し紫綬褒章を授与された。著述目録(図録・単行本)○群芳清玩 10冊 芸海社 大正元11~10、11○池大雅 1冊 美術叢書刊行会(東京) 大5、8○浅野侯爵家宝絵譜 1冊 芸海社(東京) 大6、2○好古堂一家言 1冊(帙入) 大8、12○雲州餘彩 上・下 2冊(帙入) 芸海社 大11、2○木内翁小伝 1冊 木内翁記念会 大11、11○柳営墨宝 1冊(帙入) 精芸出版(東京) 大11、12○日本古画大鑑 前編、後編 各2冊(帙入) 美術社刊(東京) 昭2年秋と3年夏○抱一上人 1冊 美術協会報告6、抱一百年忌特集、昭2、11。○宋元名画集 2部 聚楽社(東京) 昭7、1、以降○罹災美術品目録 1冊 国華倶楽部、昭8、8○渡辺崋山 寓画堂日記 1冊 観文楼叢刊第一。昭8、11○光悦・松花堂1冊「宗達と光琳」アトリエ社。昭14前後○文晁 アトリエ社。昭14前後○光琳 みすず書房。昭33、6、

岡部長景

没年月日:1970/05/30

国立近代美術館初代館長で元文相の岡部長景は、5月30日急性心不全のため東京日比谷病院で死去した。号観堂で、明治17年8月28日東京赤坂に生れ、明治38年学習院高等科、同42年東京帝国大学法科を卒業した。岸和田城主の家系で、朝日新聞社主村山長挙の実兄にあたる。元子爵で、明治42年11月外交官補となり、米国ワシントン日本大使館在勤3年、英国ロンドン日本大使館在勤2年に及び、大正6年外務書記官となった。同13年外務省文化事業部長、昭和4年内大臣秘書官長兼式部次長となった。昭和5年貴族院議員に当選、同15年には帝室博物館顧問となった。昭和18年東条内閣の時文部大臣となり、戦後暫く伊豆に隠棲生活を送った。昭和27年東京国立近代美術館の発足にあたり、初代館長に就任、昭和39年11月ここを退いた。其他内閣美術振興調査会委員、日本育英会々長、国際文化振興会々長、日華絵画協会、日満文化協会々長、ローマ日本文化会館総長等を歴任し、現在社団法人尚友倶楽部理事長であった。

村田良策

没年月日:1970/01/11

東京芸大名誉教授村田良策は、1月11日脳出血のため神奈川県鎌倉市の自宅で逝去した。74歳。村田良策は、明治28年1月15日栃木県佐野市に生れた。大正8年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、昭和10年迄、法政大学、東洋大学の教授をつとめ、昭和8年~15年まで文部省社会教育局嘱託講師をした。昭和18年東京美術大学教授となり、同24年には東京美術学校長兼新制東京芸術大学美術学部長となった。同27年には、神奈川県立鎌倉近代美術館初代館長に就任、同37年東京芸術大学名誉教授となり定年退官した。同41~44年にわたり神奈川県立博物館初代館長をつとめた。同42年には文化勲章選考委員になり、同43年美学美術教育に尽くし、美術館の運営指導、美術界の発展に寄与した功績で勲三等旭日中授章を受けた。

加藤成之

没年月日:1969/06/30

女子美術大学学長、文化財保護審議会専門委員、加藤成之は、6月30日、肺気腫のため順天堂病院で死去した。享年75才。加藤成之は、明治26年(1893)東京都に生まれ、大正6年学習院高等科を卒業、同9年東京大学文学部美学美術史科を卒業、同10年大学院を終了した。大正10年東京美術学校講師となったが、大正11年~14年のあいだ、文部省より依嘱されてヨーロッパにおける美学教育を調査のため渡欧した。帰国後は、昭和3年私立東京高等音楽院、同5年私立日本音楽学校講師、同6年女子美術専門学校講師をつとめ、昭和9年には貴族院議員に選出された。昭和10年東北大学法文学部講師、同15年には女子美術専門学校副校長となり、同24年女子美術大学長になったが、同年辞職して昭和21年以降講師をつとめていた東京音楽学校校長に就任した。昭和27年以後は東京芸術大学音楽部長をつとめたが、同32年辞職して女子美術大学理事長兼学長に就任し、逝去まで在職した。長期のあいだ、音楽、美術の両域にわたる芸術教育へ貢献し、昭和41年には、勲二等瑞宝章をうけた。

小林剛

没年月日:1969/05/26

奈良国立文化財研究所所長の小林剛は、5月26日午前1時40分脳出血のため奈良市の自宅で死去した。6月4日午後2時から同研究所葬が行なわれ、従三位勲三等を賜わった。明治36年10月1日水戸市に生まれ、大正15年3月水戸高等学校文科甲類を卒業し、同年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、日本美術史を専攻した。昭和4年3月同校を卒業し、同年9月、東京帝室博物館美術課に入り鑑査官補となりこの頃から日本彫刻史の本格的研究に専心した。この頃の論文には昭和5年1月の「漆と工芸」344号に発表した「唐招提寺金堂本尊昆盧舎那仏像の作者について」がある。同5年2月には入営したが、11月には除隊となり、同6年1月には、日本美術の宝庫である奈良帝室博物館に転勤した。これより「東洋美術」「美術研究」に多くの論文を発表したが、殊に同8年11月に奈良帝室博物館から発行した「鎌倉彫刻図録」と同9年7月に岩波書店より発行した岩波講座「鎌倉時代の彫刻」はその頃の研究の成果を示すものである。 昭和10年6月には、再び東京帝室博物館にもどり、11年10月には、欧米に出張、翌12年7月に帰京した。昭和13年には帝室博物館鑑査官となり、これより昭和13年10月に臨時召集によりソ満国境に行くまでの3年間に発表した代表的な論文としては、14年5月発行の画説29にのせた「貞観彫刻の様式に関する一考察」や、同年9月発表の「建築史」1の5所載の「室生寺の貞観彫刻について」、同年8月発行の「考古学雑誌」30の8所載の「白鳳彫刻史論」等がある。単行本としては16年10月地人書館発行の「日本彫刻史」がある。 その後、大東亜戦争の勃発と共に同氏は再度、召集され、昭和20年10月8日に復員し、国立博物館調査課に勤務した。日本彫刻史の研究も、精力的に行なわれ、21年9月には、「国華」654に、及び655に「東大寺三月堂の研究」を発表し、22年7月には、「御物金銅仏像」の大著を国立博物館から出し、同年12月には、それまで書いた論文をまとめた「日本彫刻史研究」を養徳社から出版した。昭和25年9月には、東京国立博物館より文化財保護委員会保存部美術工芸課に移り、重要文化財の指定や保存の仕事に従事したが、奈良に新たに奈良文化財研究所が出来るに及び、同所の美術工芸研究室長として再び奈良におもむいた。この間発表した代表的論文としては26年3月発行の「仏教芸術」11号に「室町時代に於ける椿井仏所」、26年12月発行の「国華」717号所載の「仏師法印長勢」等があり、27年7月には藤田経世氏と共に、創元社より「日本美術史年表」を編集し、学会に寄与した。昭和28年12月には「日本彫刻史における仏師の研究」により文学博士となり、同36年2月には文化財専門審議会専門委員、同年7月には奈良国立文化財研究所所長となった。この間は最も研究活動の活発な時期で、代表的論文としては、28年3月発行の「大和文華」9号に「仏師法眼院覚」、同年4月には「国華」733、734号に「三条仏師明丹」、同年9月の「大和文華」11号に「円成寺の阿弥陀如来像と大日如来像」、同年10月発行の「大和文化研究」1号には「椿井仏師舜覚房春慶」、同年12月「大和文華」12号には「大仏師法印湛慶」等を発表した。さらに29年12月には、「仏教芸術」23号に「俊乗房重源の肖像について」、30年5月発行の「南都仏教」2号には「東大寺の天平彫刻雑考」、同年12月発行の奈良国立文化財研究所学報3には「国中連公麻呂」、32年3月発行の「仏教芸術」31号には「仏師善円、善慶、善春」、33年11月発行の「国華」800号には「六波羅蜜寺の十一面観音像について」、35年1月発行の「大和文化研究」21号には「東大寺中性院の弥勒菩薩立像」、同年2月発行の奈良国立文化財研究所学報8には「室生寺金堂五仏について」、37年5月発行の「大和文化研究」49号には「興正菩薩叡尊の文殊信仰とその造像」を発表した他、美術全集、日本歴史大辞典、世界大百科事典等の解説等多数執筆した。またこの時期の単行本としては29年9月奈良国立文化財研究所発行の「仏師運慶の研究」、31年3月同所発行の「西大寺叡尊伝記集成」等がある。昭和36年7月には奈良国立文化財研究所所長に就任、その後いくつかの委員を兼務し、文化財行政にたずさわった。すなわち38年11月には奈良国立博物館評議員、43年7月には文化財保存審議会専門調査会臨時専門委員、44年3月には日本万国博覧会協会美術展示委員会委員等がそれである。こうして多忙なうちにも研究活動は続けられた。38年2月には近畿日本叢書の「東大寺」に東大寺の彫刻」を発表、39年8月発行の同叢書「飛鳥」には「飛鳥地方の彫刻」を発表、41年10月「仏教芸術」62号には「西大寺における興正菩薩叡尊の事蹟」、42年5月の「仏教芸術」64号には「唐招提寺金堂の諸尊像」、43年12月発行の「仏教芸術」69号には「唐招提寺の鎌倉復興」を発表した。この間の単行図書としては、37年5月に奈良国立文化財研究所発行の「巧匠安阿弥陀仏快慶」、39年11月に宝山寺より刊行された「宝山湛海伝記史料集成」、40年奈良国立文化財研究所から刊行された「俊乗房重源史料集成」等がある。なお、同氏の研究業績の全貌は「故小林剛先生著作目録稿」として奈良国立文化財研究所有志により昭和44年6月に出版されている。

北川桃雄

没年月日:1969/05/19

美術史家で共立女子大学教授の北川桃雄は、19日血清肝炎のため虎ノ門病院溝ノ口分院で死去した。享年70才。明治32年東京芝に生れ、東京芝中学から大正10年仙台二高を経て、大正13年京都帝国大学経済学部を卒業した。経済学研究に従事し、また昭和12年まで京都第一工業学校教員をつとめ、昭和13年東京に移った。東京帝国大学文学部美術史科を昭和16年卒業、この年共立女子専門学校講師となり、昭和21年同女子大教授となり現在に至った。おもな著書に「法隆寺」昭17(アトリエ社)「秘仏開扉」昭19(矢貴書店)「斑鳩裸記」昭18(文芸春秋社)「禅と日本文化」(翻訳)昭15(岩波書店)「古塔巡歴」昭和22(東京出版社)「石庭林泉」昭27(筑摩書房)「中国美術の旅(一)古都北京」「中国美術の旅(二)大同の古寺」昭44(中央公論美術出版社)「いかるがの里・法隆寺」昭37(淡交新社)「敦煌美術の旅」昭38(雪華社)「室生寺」昭和38(中央論公美術出版)などがある。

桜井猶司

没年月日:1969/01/30

永年画商として活躍した兼素洞主人桜井猶司は、1月30日心筋こうそくのため港区の自宅で死去した。享年73才。明治29年群馬県安中に生れ、明治43年上京した。15才で三越呉服店美術部に入り、ここで美術への修練をつみ、鑑賞界に重きをなした「淡交会」「七絃会」「春虹会」などを手がけ昭和21年三越を辞めた。その後画商兼素洞として起ち、数々の展観を活発に主催して斯界における存在を知られた。

浅野長武

没年月日:1969/01/03

東京国立博物館長浅野長武は1月3日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年73才。明治28年東京に生まれる。東京帝国大学文学部国史科および同大学院を了え、旧広島藩主第16代当主の侯爵として貴族院議員、帝室制度史編纂、重要美術品等調査委員会会長など数多くの要務要職を経て、昭和26年東京国立博物館長に就任し、フランス美術展、正倉院展、オリンピック東京大会日本古美術展など戦後の美術界に大きな話題を提供した大展覧会を開催し、また法隆寺宝物館、東洋館の建設など大規模な事業を遂行する上で果した熱意と手腕を評価されている。また国際博物館会議日本委員会委員長、国立近代美術館、国立西洋美術館など公私の美術館、博物館の評議員、学会の顧問等を兼ね、美術全集の監修等にもしばしば名を列ねて、戦後美術界に大きな足跡を残した。明治28年7月5日 浅野長之侯爵の嗣子として東京に生まれる大正9年7月10日 東京帝国大学文学部国史科卒業同14年7月9日 東京帝国大学大学院終了昭和2年3月31日 学習院講師同15年12月28日 襲爵、貴族院議員同17年5月14日 重要美術品等調査委員会会長となる(24年7月5日まで)同18年7月1日 文部省委員(19年6月30日まで)同21年3月1日 従4位に叙せられる同22年3月28日 学習院評議員(26年3月31日まで)同23年3月22日 国立博物館評議員会評議員(24年6月1日まで)同年4月25日 東方学会会員同24年9月24日 国立博物館評議員会評議員(25年8月29日まで)同26年1月16日 国立博物館長に就任同年2月12日 日本考古学会顧問同年3月22日 正倉院評議会会員同年5月8日 国際博物館会議日本委員会委員同年9月1日 国立近代美術館評議会評議員同28年5月6日 国際博物館会議日本委員会委員長同年7~8月 イタリア、フランス、ベルギー、オランダ及び連合王国へ出張、国際博物館会議総会に出席同30年3月18日 フランス共和国政府よりオフィシエ・ド、ラ・レジオン・ドヌール勲章を贈られる同34年4月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年8月1日 日本ユネスコ国内委員会委員同35年6月8日 フランス共和国政府よりコマンドゥール・タン・ロルドル・デ・ザール・エ・レットル勲章を贈られる同36年4月20日 ヌビア遺跡保護協力委員会委員同年7月12日 オリンピック東京大会組織委員会芸術展示特別委員会委員同年9月7日 オランダ国女皇陛下よりコマンドゥール・イン・デ・オルデ・ファン・オランジ・ナッソー勲章を贈られる同37年7月18日 スペイン国政府よりラ・エンコミエンダ・デ・ラ・エクスプレサダ・オルデン・メリト・シヴィル勲章を贈られる同10月13日 紺綬褒章を賜わる同38年7月22日 カンボジア国政府よりコマンドゥール・ド・ノートル・オルドル・ロワイヤル・デュ・サーメートレ勲章を贈られる同40年10月30日 国際文化振興会評議員(同43年8月28日まで)同41年9月 随筆集「美術よもすがら」(講談社)同41年11月3日 勲1等に叙せられ瑞宝章を授けられる同42年5月1日 国立西洋美術館評議員会評議員同年10月1日 東京国立近代美術館評議員会評議員同43年7~8月 スエーデン、西ドイツへ出張、国際博物館会議総会に出席同44年1月3日 逝去

橘瑞超

没年月日:1968/11/04

浄土真宗本願寺派興善寺住職橘瑞超は、11月4日午後6時55分急性心臓衰弱のため、名古屋市中区西白山町の同寺で死去した。享年78歳。明治41年18歳で第2次大谷探検隊の隊員となり、トルファン、ローラン、ニヤ、コータン等の調査を行い、インドを経て英国に留学、43年帰国の途次第3次探険隊員として再度西域に入り、トルファン、ローラン、ミーラン、コータン等の調査を行った。その間タクラマカン砂漠の縦断を遂げ、アルチン山脈の登攀を試みるなど幾度も死線をさまよった末、辛苦をなめて敦煌に至っている。仏教東漸のルートを探る求道者の真摯な努力を物語るこの足跡は、我国が西欧諸国に伍して行った西域探険事業の成果として、同時に多くの貴重な収集品をも齎して、宗教、歴史、美術史の学界に大きく寄与した。昭和38年紫綬褒章、同41年勲三等瑞宝章をうけた。

湯川尚文

没年月日:1968/10/23

日本童画会会員、創造美術教育協会委員の美術教育家の湯川尚文は、10月23日、胆石のため死去した。湯川尚文は、明治37年(1904)5月22日、東京都に生まれ、東京豊島師範学校第二部を卒業、日本美術学校にも在学した。東京都文京区根津小学校に勤務し、20余年間にわたって児童の美術教育を担当して昭和29年退職した。以後、新宿区戸塚第1中学校美術科講師となった。この間に、日本水彩画会展、光風会展、日本童画会展にも出品したが、独立美術展には昭和7年第2回展から出品入選し、「卓上」(2回展)、「ギターその他」(4回展)、「機械を配せる風景」(5回展)、「樹木とオートバイ」(6回展)、「海浜と網」(7回展)、「建物」(8回展)、「廃墟」(12回展)、「画室の一隅」(17回展)などの作品を発表した。また、美術教育に関する評論、解説などを教育雑誌、美術雑誌に寄稿し、図工科教科書の編集にも従事し、国際学童水絵展(朝日新聞社主催)、「母と子」の児童展(森永製菓K.K.主催)、世界学生美術展(日本ユネスコ美術教育連盟)などの審査員をつとめた。著書に「児童と絵画」(綜合美術研究所)、「絵をかく子供」(誠文堂新光社)、「生きている児童画」(大蔵出版)、「図工科」(岩波教育講座・第6巻)などがある。

新村出

没年月日:1967/08/17

文化勲章受章者・学士院会員・文学博士新村出、号重山は8月17日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年90才。10月7日京都市名誉市民として市の公葬が営まれた。明治9年10月4日山口市で県令関口隆吉次男として生れた。22年新村猛雄に養子入籍した。29年7月第一高等学校卒業。32年7月東京大学文科大学博言学科卒業。35年2月より東京高等師範教授のかたわら東大大学院で国語学を専攻し、37年8月より同学文学部助教授として教鞭をとった。40年1月京都帝大助教授。同年3月より42年4月まで英・仏・独に留学し、帰国後42年5月より昭和11年10月停年退官まで京大教授。その問43年文学博士を授けられ、44年10月より京大図書館長となる。大正8年9月より10月にかけて中国旅行、10年5月より12月、および昭和7年3月より7月に欧米旅行を行う。昭和3年1月帝国学士院会員、9年12月より国語審議会委員を勤めた。以後昭和12年音声学協会、13年日本言語学会、17年日本民族学協会、25年日本ダンテ学会、26年日西文化協会等の会長を歴任した。昭和19年には学術会議会員となり、31年には文化勲章授章。言語学、国語学の分野における数多くの業績については「東方言語史叢考」(昭和2年)、「東亜語源表」(昭和5年)、「国語学叢録」(昭和18年)などの他、「広辞苑」(昭和30年)などの例をまつまでもなく、ここで立入る必要はないが、美術関係では「摂津高槻在東氏所蔵吉利支丹遺物」(京大考古学研究報告7大正12年)「日本吉利支丹文化史」(地人書院 昭和16年)、「吉利支丹研究余録」(国立書院 昭和23年)などの「キリシタン」関係のみならず、「船舶史考」中に載録された「エラスムスと貨狄」「エラスムス貨狄考拾遺」などに見られるように16・17世紀のヨーロッパ文物交渉史関係全般にわたって基礎的な研究を残したことを記さなければならない。

木村重夫

没年月日:1967/06/14

美術評論家、詩人の木村重夫は、6月14日、肺結核のため東京都中野区江古田の武蔵野療園で死去した。享年67才。筆名遠地輝武(おんちてるたけ)。木村重夫は、明治34年(1901)兵庫県姫路市に生まれ、大正12年日本美術学校西洋画科を卒業。大正15年からは詩作と美術批評に専心し、昭和4年以後はプロレタリア美術運動に参加し、昭和6年にはプロレタリア美術運動の理論機関誌「プロレタリア美術」「美術新聞」などの編集に参加した。戦後は、昭和27年頃から肺結核にたおれ、闘病生活のなかから昭和33年からは「近代美術研究」を主宰・発行してきた。美術関係の著書には「現代日本画家論」「国画の形成」「美と教養」「川端竜子論」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「新鋭の日本画家」「日本近代美術史」「小杉放庵」「生々流転の研究」「現代絵画の四季」などがある。その他、詩集に「遠地輝武詩集」「千光前町二五番地」などがあり、詩評諭に「石川啄木の研究」「近代日本詩の史的展望」「現代詩の体験」などの著書がある。

黒田鵬心

没年月日:1967/03/18

美術評論家黒田鵬心、木名朋信は3月18日脳軟化症のため都内世田谷区の自宅で死去した。享年82才。明治18年1月15日世田谷区に生れ府立一中、第一高等学校を経て明治43年7月東京大学文科大学哲学科を卒業した。明治44年2月から大正3年2月まで読売新聞社勤務、同年より6年9月まで「趣味の友」社、児童教養研究部主宰、7年8月より13年8月にかけて三越勤務、同8月より黒田清輝の推挙で日仏芸術社をフランス人デルスニスH.D’oelsnitzと共同主宰した。日仏芸術社は昭和6年まで9回にわたってフランス美術展を日本各地と満洲国で開催して新旧のヨーロッパ美術の輸入をはかり、かたわら雑誌「日仏芸術」(大正14年7月創刊、第2巻1号(通巻7号)より荒城季夫編集)を発行して美術の啓蒙に貢献するところが大きかった。昭和4年5月から9月に同社主宰のパリ日本美術展には代表として渡欧した。一方大正14年4月から昭和24年3月まで文化学院、東京女子専門学校教授、24年4月から41年10月まで東京家政大学教授として美学・美術史学を担当した。この問都市の美観や美術に関する時事的な問題について新聞等に投書して卒直な意見を表明することがしばしばあった。(主要著書、「奈良と平泉」(大正2年)「趣味叢書」(大正3年)「美学及び芸術学概論」(大正6年)「大日本美術史」(大正13年)「芸術概論」(昭和8年)「日本美術史概説」(昭和8年)「美学概論」(昭和9年)「日本美術史読本」(昭和9年)「黒田鵬心選集」十巻他。

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