本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





木崎好尚

没年月日:1944/06/26

木崎好尚は6月26日逝去した。享年80。本名愛吉。慶応元年大阪に生れ、明治26年大阪朝日新聞社に入社、22年間在勤し、大正3年退社後は専ら金石学研究を続け「摂河泉金石文」「大阪金石史」を著し、最後の「大日本金石史」は帝国学士院賞を送られた。晩年は頼山陽、田能村竹田の研究に没頭「頼山陽全書」外数著がある。

外狩素心庵

没年月日:1944/04/22

素心庵外狩顕章は4月22日急性肺炎の為逝去した。享年52。明治26年愛知県に生れ、曹洞宗大学を出て、大正2年二松学舎を卒業、同年中外商業新聞社に勤務、美術記者として独自の境を開いた。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に関する造詣深く、美術骨董界に貢献する所大きかつた。大正13年同社学芸部長、昭和3年参事、昭和18年嘱託となつた。又、多趣味で知られ、書道・絵に達し、詩や句も作つたが、ことに南画は数回展覧会に出品したことがある。遺著も数種ある。

渡辺一

没年月日:1944/03/23

美術研究所嘱託渡辺一は昭和15年2月応召、中支を経てビルマに転戦、インパール戦線に於て3月23日戦死した。享年41。明治37年新潟県長岡市に生れ、県立長岡中学から第一高等学校を経て、東京帝国大学美術史科を卒業、同時に京城帝国大学法文学部に赴任し、田中豊蔵、上野直昭教授の助手となつたが、同5年辞職し、次いで同6年帝国美術院附属美術研究所の嘱託となつた。その後草創当時の美術研究所のために正確綿密な頭脳と真摯な実行力を駆つて資料の蒐集、索引等の作成及び整備につとめ、又創刊当初の機関誌「美術研究」の編輯に力を注ぎ、昭和10年には九州帝大法文学部の依嘱をうけて「日本上代絵画史」の講義に赴いた。弱冠にして既に稀に見る博識をうたわれたが、特に研究題目は中国絵画史の禅宗系統のもの、引いて我が東山水墨画画ような枯淡な方面を選び、応召2、3年前頃から美術研究所の事業の一つである「東洋美術総目録」の作成に専心、先ずその一端として東山水墨画派の研究を個々の作家に就いて進めつつあつた。その成果は「美術研究」に発表されている。黙庵、如拙、周文、正信等がその主要なものである。用意周到で、明哲な学風は大いに注目すべきものがありその完成は特に学会の期待するところであつたが、その途上で斃れたことは返すがえすも遺憾なことであつた。遺族には養母、夫人二男一女が茨城県下にある。

飯田新七

没年月日:1944/02/03

高島屋前社長飯田新七は2月3日京都東山区呉竹庵本邸で逝去した。享年86。安政6年京都に生れ、高島屋四代目の当主として呉服貿易業に専念、今日の隆盛をなし、我国の染織業の指導者として大いなる功績を残した外、社会事業にも貢献する所が多かつた 第4回内国勧業博覧会に審査官となつて以来、しばしば各種博覧会の委員となり、昭和10年から大礼記念京都美術館の評議員でもあつた。

松本亦太郎

没年月日:1943/12/24

文学博士、帝国学士院会員松本亦太郎は病気静養中のところ12月24日長逝、享年79。慶応元年高崎に生れ、明治26年東京帝大文科大学を卒業、その後エール、ライプチヒ等の諸大学に心理学を専攻し、京都帝大教授となつた。美術史の造詣も深く、京都日本画壇興隆につくした功績は大きい。その後日本女子大、日本大学などに教鞭をとり、近来は東大航空心理部の嘱託でもあつた。著書も多いが美術方面のものとして、明治末大正初期の日本画壇の問題をあつかつた「現代の日本画」やその他「絵画鑑賞の心理」「山水人物画談」などがある。

新田章童

没年月日:1943/11/16

美術雑誌「都市と芸術」を主宰した京都の新田章童は11月16日逝去した。氏は「都市と芸術」を発行する事30年に及びその間京都美術界の発展に尽した。

中沢岩太

没年月日:1943/10/12

京都帝大および京都高等工芸学校の名誉教授、工学博士中沢岩太は病臥中のところ10月12日京都市上京区の自宅で逝去した。享年86。幼名東重郎、安政5年福井に生れ、明治12年東京理科大学の化学科を卒業、16年独逸に留学、20年帰朝とともに、東京工科大学教授、24年工学博士となつた。この間、内国勧業博覧会の審査官、特許局審査官、御料局技師として活躍、明治30年京都理工科大学創設と同時に学長として京都へ移つた。その後京都市工業顧問、陶磁器試験所顧問として工業の指導にあたり、35年京都高等工芸学校の創立とともに初代校長として久しくその任にあつた。43年には文展委員となり、第一部と第三部の審査主任をつとめ、その他各種の展覧会、博覧会等に審査長を依嘱されている。後年は趣味の生活に入り、日本画を狩野友信、前田玉英、洋画を浅田忠に学んだがことに美術工芸会に残した指導的功績は大きい。明治年間以来遊陶園、京漆園、道楽園、時習園の四園を設立して斯界の発展につとめたことは特記されるべきで、さらに昭和2年昭和工業協会となつて活躍をつづけていた。

田口掬汀

没年月日:1943/08/09

美術雑誌「中央美術」を主宰した田口掬汀は8月9日逝去した。享年6 9。本名鏡次郎。明治8年秋田県角館に生れ万朝報、大阪毎日、東京日日などの記者をつとめ、美術一般に造詣深く創作評論で知られた。中央美術を創刊し、大正5年金鈴社の結成には大いに力を尽した。同社が華々しい活躍をして当時の日本画壇に大きな影響を与えたのも、その努力の賜である。後、東京府美術館常議員となつた。田口省吾は子息にあたる。

奥平武彦

没年月日:1943/05/26

京城帝大教授奥平武彦は5月26日腸チフスの為逝去した。享年44。明治33年生れ、大正13年東大法学部卒業後同学部助手、大正15年京城帝大助教授となり政治学政治史を講じた。昭和3年から5年まで英仏独米諸国に留学、昭和5年同大教授となり、14年以降は朝鮮総督府宝物古蹟名勝紀念物保存委員、朝鮮博物館委員、李王家美術館評議員となり朝鮮美術のために貢献する所が少くなかつた。著書に「李朝」「朝鮮の宋元明板覆刻本」「李朝の壷」「朝鮮古陶」等がある。

大曲駒村

没年月日:1943/03/24

「浮世絵志」主幹大曲駒村は3月24日逝去した。享年62。明治15年福島県に生れ、中学校卒業後銀行員となり、傍ら作句や絵画に趣味を持つていたが後「浮世絵志」を主宰した。

中村雅真

没年月日:1943/02/21

奈良帝室博物館学芸委員中村雅真は2月21日奈良市山ノ上町の自宅で死去した。享年90。元貴族院議員であり、奈良の古老の一人として人柄を懐しまれた人である。

小野賢一郎

没年月日:1943/02/01

「やきもの読本」で親しまれていた放送協会業務局次長兼企画部長小野賢一郎は2月1日逝去した。号蕪子、明治21年福岡県芦屋に生れ、早く新聞界に入り、毎日新聞社に名をなした。多才多趣味をもつて知られ、ことに陶器鑑賞界の通人であつた。陶器に関する著書は多数にのぼるが、その最も大なる業績として陶器大辞典の編纂がある。

大原孫三郎

没年月日:1943/01/18

大原孫三郎は1月18日狭心症のため倉敷市の自宅で逝去した。享年64。明治13年に生れ早稲田大学専門部を卒業、実業界に重きをなしたほか、社会問題研究所、労働科学研究所、美術館を創立し、文化事業にも大きい功績があつた。その西欧絵画の蒐集品は大原コレクシヨンとして知られるが、また児島虎次郎その他美術家のよい後援者でもあつた。

藤井善助

没年月日:1943/01/14

京都有隣館長藤井善助は急性肺炎のため1月14日自宅で逝去した。享年71。衆議院議員当選3回、育英事業につくした他、実業界で活躍するとともに東洋美術愛好者として知られ、支那古美術を主とする多年の蒐集品をあつめて京都岡崎に有隣館を設立していた。

鶴巻鶴一

没年月日:1942/12/28

前京都高等工芸学校長正4位勲3等工学博士鶴巻鶴一は12月28日自宅で脳溢血のため急逝した。享年70。明治六年新潟県に生れ、同37年東京帝大応用化学科を卒業、京都市染織学校、京都高等工芸学校長などを歴任、独逸に留学、大正4年工学博士となつた。又京都商工会議所特別議員に推され、斯界に貢献するところがあつた。

安田禄造

没年月日:1942/12/16

東京高等工芸学校名誉教授前校長従3位勲2等安田禄造は胃腸障害のため藤沢市の自宅で静養中のところ12月16日逝去した。享年69。明治7年東京に生れ、明治35年東京高等工芸学校教員養成所を卒業、大正3年から5年へかけて墺国に留学、同10年東京高等工芸学校創立と同時にその教授となり、昭和3年校長に進み、同16年まで在職13年の長きに及んだ。この間帝国工芸会の理事として、又工芸展の審査委員長として、我国工芸界に残した功績は洵に大きいものがあつた。

山本広洋

没年月日:1942/10/20

「新美」編輯者山本広洋は腸狭窄症のため10月20日死去した。享年56。本名信太郎、明治21年3月15日姫路に生れ、同45年東京美術学校日本画科卒業、大正元年より神戸一中の図画教師を勤めたが、後新聞界に入り、神戸新聞、大阪時事新報等に関係した。久しく兵庫県美術協回を主宰し、本年1月兵庫県新美術聯盟結成されるやその幹事となつてゐたものである。

堀井三友

没年月日:1942/05/31

美術研究所嘱託堀井三友は昨秋来胃癌を病んで静養中のところ5月31日逝去した。享年58。明治18年4月10日富山市に生れ、中学卒業後上京、はじめ英文学に志したが、次いで東洋美術の研究に専念、中川忠順に師事した。昭和5年美術研究所嘱託、同13年には東京高師の授業を囑託された。この間古美術の発見、保護に努め、諸種の論文を発表してゐた。

金子堅太郎

没年月日:1942/05/16

日本美術協会々頭、枢密顧問官従1位大勲位伯爵金子堅太郎は、5月16日相州葉山の恩賜松荘に於て薨去した。享年90。伯は嘉永6年福岡藩士金子清蔵の長男として生れ、明治3年東都に遊学し、同4年選ばれて渡米、ハーバード大学に法律を学び、帰朝後東京大学講師、元老院権大書記官、同17年太政官権大書記を兼ね、憲法草案作成に参与し、総理大臣秘書官、枢密院、貴族院の書記官長、農商務次官等を経て、同31年農商務大臣、同33年司法大臣に歴任した。後枢密顧問官となり、大正8年以降は維新資料編纂会総裁として尽瘁した。美術に理解を有し、明治34年日本美術協会副会頭に就任、大正8年同会々頭に推され今日に至つた。危篤の趣天聴に達するや特旨を以て従1位宣下、並に大勲位菊花大授章を賜つた。

清水真輔

没年月日:1942/05/14

大阪三越美術部長清水真輔は盲腸炎のため5月14日逝去した。享年59。明治17年東京に生れ、同41年早稲田大学商科卒業後三越に入つた。「不断華楼画趣」等の出版物あり、日本画鑑賞会に活躍してゐた。

to page top