本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





野間清六

没年月日:1966/12/13

文化財専門審議会専門委員、女子美術大学教授野間清六は、12月13日、脳軟化症のため東京信濃町の慶応病院で逝去した。享年64才。野間清六は明治35年2月12日、滋賀県、青山立愍の二男として生れ、のち野間家の養子となった。昭和5年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、翌年帝室博物館(現東京国立博物館)に鑑査官補として入り、以後、定年で東京国立博物館学芸部長を辞す迄同館に勤続していた。その後は女子美術大学教授となり、また以前からの文化財専門審議会専門委員の職にあった。その間、大学講師、展覧会審査員などもしばしばつとめ、著書も多い。略年譜明治35年2月12日 滋賀県蒲原郡、青山立愍の二男として生れる。幼名次郎。明治38年 野間家の養子となる。昭和5年 東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。昭和6年 帝室博物館鑑査官補昭和13年 帝室博物館鑑査官となる。昭和26年 東京国立博物館美術課長昭和29年 桑港日本美術展のため渡米。東京国立博物館普及課長昭和32年 東京国立博物館学芸部長シュヴァリエ・ド・ノワール勲章を受く。昭和34年 文化財専門審議会専門委員となる、埴輪展のため渡米。昭和38年 パリ日本古美展のため渡欧。昭和39年 東京国立博物館を定年退職。昭和41年12月13日 脳軟化症にて逝去、従四位勲三等旭日中綬章を賜る。(著書)日本古楽面(昭和10年)、日本美術大系-彫刻(16年)、日本彫刻の美(18年)、日本仮面史(18年)、古仏の微笑(21年)、美を慕う者へ(22年)、日本の名画(26年)、御物金銅仏(27年)、日本美術辞典(27年共著)、日本の面(28年)、日本の絵画(28年)、土の芸術(29年)、墨の芸術(30年)、飛鳥、白鳳、天平の美術(33年)、日本美術(33年)、日本美再発見(38年)、続日本美再発見(39年)、金銅仏(39年)、小袖と能衣裳(39年)、装身具(41年)、インターナショナル日本美術(41年)。

上田英次

没年月日:1966/10/26

奈良国立博物館学芸課美術室長兼資料室長の上田英次は、10月26日午後11時25分、京都第一赤十字病院で後腹膜部しゅようのため死去した。享年56才。上田英次は、明治43年(1910)7月17日、奈良市に生れ、奈良市立第一椿井小学校を経て郡山中学校を卒業、昭和6年京都市立絵画専門学校に入学、同10年同校を卒業。翌11年院展に「観測所の朝」を出品入選したが、昭和22年国立博物館奈良分館(現、奈良国立博物館)学芸課に勤務、同32年文部技官に任官、同年普及室長に任ぜられ、同39年資料室長、同40年美術室長兼資料室長を命ぜられた。その間、「西方寺蔵十王図」解説(大和文化研究第2巻第4号)、「柳里恭展観作品目録」「柳里恭印譜・落款」(大和文化研究第4巻第5・6合併号)、「長谷寺の肖像画」(大和文化研究第5巻第2号)などを執筆し、「聖徳太子絵伝展」(昭和40年・奈良国立博物館)の企画展観に参画した。なお、昭和37年以降は正倉院古裂調査員をつとめ、また奈良市史編纂調査員の役にあった。

船戸洪吉

没年月日:1966/09/05

美術記者、評論家船戸洪吉は、9月5日腸閉塞のため東京築地の国立がんセンターで逝去した。享年49才。大正5年10月21日朝鮮江原道洪川に生れる。昭和19年2月青山学院英文科中退後、毎日新聞社に入社、サンデー毎日の編集を経て学芸部に移り、美術関係を担当した。27年3月から9月迄欧州に美術見学のため留学し、帰国後は美術批評、評論に筆をとり、32年には「画壇」を美術出版社から出版している。36年毎日新聞副参事、37年学芸部副部長の職にあり、また39年からは事業部兼務となり、同年、国際美術展の作品収集並びに調査のため欧米に派遣され、同展はじめ各展覧会事業に尽力していた。

板垣鷹穂

没年月日:1966/07/03

東京写真大学教授、美術評論家の板垣鷹穂は、7月3日午前零時35分、ボーエン氏病のため東京・信濃町の慶応大学病院で死去した。享年71才。板垣鷹穂は明治27年(1894)10月15日、東京に生れ、独協中学、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部(美学専攻)に入学、在学中の大正9年、東京美術学校講師(西洋美術史、西洋彫刻史担当)となり(大正15年まで)、大正10年東京大学を中退、大正13年文部省在外研究員としてヨーロッパに留学、西洋美術史を研究し、大正14年帰国した。著作活動は、大正12年「新カント派の歴史哲学」(改造社)にはじまり、近世ヨーロッパ美術の研究を中心とした研究を数多く発表した。中期以後は、建築・都市・写真・映画などの新しい表現分野についても積極的に評価し、広い視野にたった評論活動を展開し、戦後は、東京大学講師、武蔵野美術大学講師、早稲田大学教授、東京写真大学教授などを歴任し、美学、美術史を講じて後進を指導、晩年は芸術家のの構造解釈に深い関心をよせ、最後の論文は「INDIVIDUALITY AND SOCIETY-A Methodological Essay on the History of Italian Art(個性と社会)」(ANNUARIO 3、ローマ日本文化館)であった。主要著作年譜新カント派の歴史哲学(改造社・大正12)、西洋美術主潮(岩波書店・大正12)、近代美術史潮論-民族性を主とする(大鐙閣・大正15)、フランスの近代画、西洋美術史要、K・シュミット:現代の美術(訳書)、芸術と機械との交流(岩波書店・昭和4)、国民文化繁栄期の欧州画界、イタリアの寺(芸文書店)、現代日本の芸術(信正社・昭和12)、ミケランジェロ(新潮社・昭和15)、造型文化と現代、建築(育生社弘道閣・昭和17)、芸術観想(青葉書房)、写実(今日の問題社)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(新潮社・昭和20年)、芸術概論(理想社・昭和23)、肖像の世界(六和商事出版部・昭和25)

安倍能成

没年月日:1966/05/07

学習院院長、安倍能成は、皮膚病のため東京、文京区の順天堂病院に入院治療中であったが、急性顆粒白血球減少症を併発、7日逝去した。享年82才。明治16年12月愛媛県松山市に生まれた。明治42年東大哲学科を卒業、慶応大学予科、法政大学、旧一高の講師をつとめるかたわら文芸評論を執筆、大正13年9月から哲学研究のため1年4カ月欧州に留学した。帰国後、旧京城帝国大学教授を経て、昭和15年第一高等学校校長に就任した。戦後は、20年貴族院議員、21年幣原内閣の文部大臣、国立博物館長を経て学習院院長に就任した。また21年4月から34年7月まで、皇太子の学問に関する参与となった。夏目漱石在職の松山中学の卒業生という縁もあり、阿部次郎、小宮豊隆、和辻哲郎らとともに漱石門下の逸材といわれ、カント哲学の権威として知られていた。「カント実践哲学」「西洋古代中世哲学史」「西洋近世哲学史」「西洋道徳思想史」「孟子荀子」「岩波茂雄伝」など多くの著書がある。39年には勲一等瑞宝章を受けている。

岸田日出刀

没年月日:1966/05/03

東京大学名誉教授・工学博士の岸田日出刀は、5月3日午後3時30分、心筋こうそくのため山梨県山中湖畔の別荘で死去した。享年67才。岸田日出刀は、昭和4年以降東京大学工学部建築学科教授をつとめ、建築意匠に関する論文を多数発表し建築の造型意匠の権威として知られ、また前川国男、丹下健三など現代日本建築界に活躍している建築家を育成した功績も大きく、日本建築学会会長、文化財専門審議会第二分科会専門委員、東京オリンピックの施設特別委員長などを歴任した。手がけた主要な作品には、故内田祥三との共作東大安田講堂(1922-25)、東大図書館(1928)、衆・参院議長公邸、高知県庁、西本願寺津村別院などがある。著書も多く主要なものに、「日本建築史」(昭和7年)「欧州近代建築史」(昭和8年)「第11回オリンピック大会と競技場」(昭和12年)「薨」(昭和12年)「堊」(昭和13年)「過去の構成」(昭和13年)「熱河遺跡」(昭和15年)「扉」(昭和17年)「日本の城」(昭和19年)「焦土に立ちて」(昭和21年)「窓」「縁」などがある。略年譜明治32年(1899) 2月6日、福岡市に生れる(郷里は鳥取県)大正5年 東京府立第三中学校卒業。大正8年 第一高等学校二部甲類卒業。大正11年 東京帝国大学工学部卒業。大正12年 東京帝国大学工学部講師。大正14年 東京帝国大学工学部助教授となり、ヨーロッパ諸国に出張(1年間)昭和4年 東京帝国大学工学部教授・工学博士。昭和11年 ヨーロッパのヴェルクブント運動に刺激されて創設された日本工作文化連盟に参加。昭和23年 日本学術会議会員に選ばれる。昭和25年 建築界につくした功績によって昭和24年度日本芸術院賞を受賞。昭和34年 東京大学工学部教授を定年退職。昭和41年 5月3日午後3時30分死去。

中井宗太郎

没年月日:1966/03/16

元京都市立絵画専門学校校長、立命館大学教授の中井宗太郎は、3月16日逝去した。享年87才。明治12年(1879)9月19日、京都市下京区に生れ、生家は代々油商を営み、はじめ家業に従事したが、学業を志して上京し、中学・第四高等学校を経て、東大文学部哲学科を卒業し、明治42年京都市立絵画専門学校講師に就任、以後、昭和35年立命館大学教授を退職するまで51年のあいだ、京都にあって日本、東洋美術史研究、美術教育、美術評論に活躍した。その間には、国画創作協会による近代日本画運動に協会の鑑査顧問として参加し、特に村上華岳と深い親交関係をもち、晩年には福田平八郎と特に親しい関係にあった。また、立命館大学においては奈良本辰也、林屋辰三郎、北山茂夫らによる日本史研究会に参加、民主主義科学者協会に属した。晩年は中国文化の研究に進み、現代中国に対して深い関心を示していた。 略年譜明治12年 9月19日、京都市に生れる。明治38年 東京大学文学部哲学科(美学美術史専攻)に入学。明治41年 卒業、大学院に入学。明治42年 京都市立絵画専門学校講師となり、美術史を講義する。大正3年 結婚。大正7年 1月、国画創作協会発会、竹内栖鳳とともに顧問として参加。大正8年 京都市立絵画専門学校教授に就任。大正9年 中国各地を視察旅行し、主として竜門石窟を研究、朝鮮を経由して帰国。大正11年 2月、ヨーロッパに留学、入江波光同道。大正12年 英・独・仏・伊・スペインの美術を調査研究し、8月帰国。大正14年 朝鮮美術研究のために出張。昭和17年 京都市立絵画専門学校校長に任命される。昭和23年 京都市立絵画専門学校教授を退職。昭和24年 立命館大学文学部講師となり「日本史研究会」グループに参加。昭和29年 立命館大学教授となる。昭和35年 立命館大学教授を退職。昭和41年 3月16日死去。著作:一立斎広重 大正5年 浮世絵研究会。東洲斎写楽 大正9年 浮世絵研究会。近代芸術概論 大正11年 二松堂書店。氷河時代とエジプト芸術 大正12年 市川美術図書出版部。ギリシャ芸術 大正14年 市川美術図書出版部。大同石仏について 大正14年 市川美術図書出版部。永徳と山楽 昭和2年 中央美術社。日本風俗画大成(桃山篇) 昭和4年 中央美術社。日本名画譜仏画篇解説 便利堂。司馬江漢 昭和17年 アトリエ社。華岳作品集 昭和17年 春鳥会。絵画論 昭和23年 日本科学社。京都の美術教育 高桐書院。浮世絵(岩波新書) 昭和28年 岩波書店。

森田亀之助

没年月日:1966/02/21

前金沢美術工芸大学長で美術史家の森田亀之助は、2月21日脳出血により金沢市の自宅で死去した。享年83才。号亀之輔、煙無形、冥霊子、光明、華明。明治16年1月20日東京京橋区に生れ、同39年東京美術学校西洋画科本科を卒業した。同校在学中とくに教授岩村透に就き西洋美術史と英語を修め、旁ら東京神田国民英学会、芝区セントアンドレウス夜学校で英語を修めた。美術学校卒業後は同校助手となり英語授業を分担し、大正4年には英語の外美術史担任となり、同6年助教授となった。大正14年欧州留学を命ぜられ、昭和2年帰朝したが、昭和4年再び暑中休暇を利用し欧州古写本絵飾調査の為渡欧し、同年教授となった。昭和19年東京美術学校を退職し、同年沢藤電機株式会社青年工員教育顧問として聘せられたが翌年これも退職した。同年戦災を蒙り家屋、書籍等悉く灰燼となったが、翌21年偶石川県金沢市において、美術工芸専門学校創立され、その校長として招かれたため金沢市に移住した。同25年同専門学校が短期大学になったので、その学長となった。美術学校卒業後同校勤務の外東京女子高等師範学校、多摩帝国美術学校、東京府立第一高女高等科第2学年等を兼務している。又金沢に在っては、金沢美術工芸大学長のほか、石川県文化財専門委員、北陸美術文化協会長などを兼ね北陸美術界のため活躍した。なおまた明治42年より美術学校勤務の余暇雑誌「美術新報」の編輯に参与し、大正3年頃迄毎月海外美術界消息、外国美術家評伝を執筆した。その他新聞雑誌等に美術関係の研究評論等を多く執筆している。主な寄稿誌は次の通りである。美術新報、美術週報、美術、芸術、中央美術、美術新論、アトリエ、南画鑑賞、旬刊美術新報、日伊文化研究、回教世界、中外、図画教育等。著書「芸術家と芸術運動」(大正4年)趣味之友社。「岡田三郎助作品集」本文評伝。(昭和21年)美術書院。

大下正男

没年月日:1966/02/04

美術出版社社長大下正男は、北海道より空路帰京の途次、全日空ボーイング機の東京湾上での事故により逝去した。享年66才。大下正男は明治33年1月10日、東京市小石川に生れた。父・藤次郎、母はる(春子)の長男、水彩画家として知られる父・大下藤次郎は、明治38年7月、水彩画の普及と発展を意図して水彩画を主とする美術雑誌“みづゑ〟を発行したが明治44年に没し、母の春子が刊行を継続した。(正男11才)。大下正男は、翌45年早稲田中学に進み、大正14年早稲田大学建築学科を卒業、曽根・中条建築事務所に勤務した。構造関係を主として担当し、昭和3年慶大医学部予防医学教室、昭和5年東京計器製作所、昭和10年慶応義塾幼稚舎、昭和11年三井銀行大阪支店、昭和12年慶大三田校舎新館などの建設にあたっている。昭和11年中条精一郎没したため昭和13年岡本馨とともに大下・岡本建築事務所を自宅に設け、家業の“みづゑ〟編集に従事しながら、昭和16年まで建築事務所を経営していた。大下・岡本建築事務所時代の作品には、川端竜子アトリエ、満州国立美術学校東京分校、橿原丸貴賓室・特別室等がある。一方“みづゑ〟も大正末頃から、これ迄大下春子を援けて編集にたずさわっていた水彩画家赤城泰舒に代わって次第に大下正男の編集となり、水彩専門の記事から一般洋画関係に内容は変ってゆく、昭和8年3月、初めて雑誌奥付に大下正男の名をあらわし、母、春子は発行人の名義となる。昭和16年建築事務所を解散し、美術図書出版に専念し、同年美術雑誌の戦時第一次統制に際し、“みづゑ〟は“新美術〟と改題し創刊号を出し、18年の第二次統制に際しては中心となって統合に当たり、藤本韶三とともに日本美術出版株式会社を設立し、“美術〟を19年1月から発行した。戦後、21年9月になって“美術〟を再び“みづゑ〟の名称に戻し、“三彩〟を発行、23年には新たに“美術手帖〟27年には“美術批評〟を創刊、更に美術単行図書の出版にも力を入れ、“美学〟、“ミューゼアム〟など研究雑誌の発行にも協力するなど、美術の普及、美術書の発展などに大きな功績をのこしている。晩年は、編集、出版の国際的交流に先鞭をつけ尽力していた。没後、大下正男編集委員会の下で、詳細な伝記、年譜、追想を収めた「追想・大下正男」(非売品)が同社から刊行されている。

式場隆三郎

没年月日:1965/11/21

ゴッホの研究家で異色芸術家の紹介者としても知られた医学博士式場隆三郎は、11月21日東京お茶の水順天堂病院で胃癌のため死去した。享年67才であった。精神病理学を研究し、大著「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻の他、数多い著作や講演、複製展など多面的な活動によって、ゴッホを日本に紹介した。それ以外にも武者小路実篤の「新しき村」運動を支持したり柳宗悦の影響下に「月刊民芸」を刊行したが、「二笑亭綺譚」に見られるように多少なりとも精神病理学的な芸術を研究対象とするところに独自性がある。世紀末芸術の鬼才ビアズレーやロートレック、あるいは18・9世紀スペインのゴヤの紹介活動もその一連のものと見ることができる。精神薄弱児童の教育活動からは山下清をクローズ・アップしたことも、特異児童に対する社会の偏見の一部を啓蒙するものとして貢献があった。略年譜明治31年(1898) 7月2日新潟県生大正10年 新潟医大卒。昭和4年 医学研究、ゴッホ研究のため欧州視察、西欧の民芸の基礎的調査中、医学博士の学位をうける。昭和7年 静岡脳病院長として勤務中「ファン・ホッホの生涯と精神病」2巻を聚楽社より刊行。昭和9年 「バーナード・リーチ」(建設社)、「テオ・ファン・ホッホの手紙」(向日庵)。昭和10年 ポール・ガッシェ編『印象派画家の手紙』翻訳昭和11年 市川市国府台に式場病院を創立。昭和14年 「月刊民芸」を刊行、「二笑亭綺譚」(昭森社)。昭和15年 文化映画「琉球民芸」「琉球の風物」。昭和16年 「焔と色」(S,ポラチェック著ゴッホ伝記小説翻訳、牧野書房)。昭和17年 「ロートレック、生涯と芸術」(二見書房)。昭和18年 「宿命の芸術」(昭和刊行会)昭和21年 日刊新聞「東京タイムズ」創刊。日本ハンドボール協会会長に就任。昭和23年 「長崎の鐘」(永井隆著、日比谷出版)を世に出す。昭和24年 厚生省中央優生保護委員、日本精神病院協会理事に就任。昭和25年 東京社会保険協会、労働省婦人少年局委員となる。「ゴヤ(H.ストークス著の抄訳)」(山雅房)。昭和26年 ゴッホ伝記小説「人生の情熱」(三笠書房)。劇団民芸公演ゴッホ劇「炎の人」製制委員長、ゴッホ展、ロートレック50年祭展を開催。総理府青少年問題協議会委員となる。昭和27年 P.ラミュール著ロートレックの伝記小説翻訳「ムーラン、ルージュ」(新潮社)。前年より創芸社近代文庫に「ゴッホの手紙」全4巻を翻訳刊行。昭和28年 ゴッホ誕生100年記念祭を開催。ゴッホ記念展。「ゴッホ巡礼」「ゴッホ画集」(3巻)昭和29年 「ヴァン・ゴッホ」(新潮社)、国立松方コレクション美術館建設連盟副会長に就任。募金のためゴッホ展。ロートレック展。講演会を開催。昭和31年 「山下清画集」(新潮社)。昭和30年 山下清作品展全国各地で開催はじめる。昭和33年 「はだかの大将」(東宝映画)監修。「山下清ぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和34年 「ロートレック」(現代伝記全集30、日本書房)。昭和36年 山下清をつれて渡欧。滞欧作品展。「ヨーロッパぶらりぶらり」(文芸春秋社)。昭和39年 財団法人日本近代文学館に白華文献千余冊寄贈。昭和40年 「炎の画家ゴッホ」(角川写真文庫)。決定版「二笑亭綺譚」(今野書房)。藍綬褒章授与さる。他に著書として「ビアズレー・生涯と芸術」、「マルキ・ド・サド、(評伝)」(昭森社)、「サド侯爵夫人」「ゴッホの素描(評伝と画集)」(アトリエ社)、「夜の向日葵(テオの手紙・向日庵版の増訂版)」(畝傍書房)、「ヴァン・ゴッホ(研究・戯曲・画集)」(美術発刊所)「光の信者・上(デ・フリース著レンブラントの伝記翻訳)」(冬至書店)、「琉球の文化」(日新書院)、「天才の発見」(山雅房)。

西本順

没年月日:1965/09/12

東京芸術大学教授西本順は、9月12日午前10時42分、新宿区の国立第1病院で胃かいようのため死去した。享年53才。明治45年(1912)2月5日、広島県に生れ、昭和5年広島県立広島第1中学校を卒業し、6年京城帝国大学に入学、11年京城大学法文学部哲学科美学専攻を卒業した。卒業論文「来迎芸術の研究」。11年4月京城大学助手を命ぜられ、法文学部美学研究室に勤務したが、12年兵役に入り、13年陸軍少尉に任官して中国の戦地で軍務に服した。15年戦地より帰還、召集解除、16年1月文部省教学局に勤務した。17年多賀工業専門学講師となったが、再び召集、19年解除となり多賀工専教授となる。戦後、21年東京美術学校教授、24年東京芸術大学助教授となり、美学、芸術学を講義した。38年教授となる。昭和31年「世界美術辞典」(河出書房)の美学関係項目を執筆、36年には玉川百科辞典「西洋美術」篇、美学事典(弘文堂)に執筆、主要論文に「現代造型の美学」(雑誌・理想・昭和39年3月現代芸術の美学特集号)がある。

杉栄三郎

没年月日:1965/06/08

東京国立博物館評議員、元帝室博物館総長法学博士杉栄三郎は6月8日文京区の山川病院で死去した。享年92才であった。略年譜明治6年(1873) 1月4日岡山県に生れる。明治33年 7月東京帝国大学法科大学政治科卒業。12月会計検査院検査官補となる。明治35年 清国政府の招聘により同国京師大学堂に赴任。45年満期歸国。大正2年 会計検査院検査官。大正7年 宮内省書記官、帝室制度審議会幹事。大正8年 10月宮内省参事官を兼任。12月法規整理委員。大正9年 帝室林野管理局主事。大正11年 図書頭。大正13年 諸陵頭事務取扱。臨事御歴代史実考査委員会委員。諸陵頭兼任。昭和7年 9月帝室博物館総長。昭和9年 8月同館研究室銓衡委員。昭和14年 5月依願免官。宮中顧問官。昭和26年 9月国立博物館評議員会評議員。昭和34年 9月同会会長。昭和40年 6月7日没。この間法学博士号をうけ、勲一等瑞宝章を授けられ、また昭和18年には正三位となった

松村政雄

没年月日:1965/05/17

奈良国立博物館美術室長松村政雄は5月17日、奈良市西浦病院で脳出血のため死去した。享年61才であった。京都絵画専門学校専攻科を卒業後、宮内省諸陵寮で模写事業にたずさわり、傍ら新文展に出品した。のち東京帝室博物館などで鑑査官補を勤め、昭和29年には奈良国立博物館鑑査委員、ついで資料室長、美術室長を歴任した。美術史学における研究の中心は垂迹美術であり、昭和37年4月、同博物館で開催された「神仏融合美術展」およびそれをまとめた大著「垂迹美術」はまさにライフワークの結晶であった。略年譜明治37年(1904) 1月3日福井市に生れる。大正12年 京都市立美術工芸学校卒。昭和2年 京都市立絵画専門学校専攻科卒。菊池契月に師事した。昭和3年 宮内省諸陵寮で古美術品の模写に従事。昭和11年 2月の第1回改組新帝展に「長雨のあと」が松村正雄として入選。昭和13年 東京帝室博物館に転任。昭和14年 第3回新文展に「牛」入選。昭和18年 4月帝室博物館鑑査官補に任ぜられる。昭和19年 10月奈良帝室博物館に転任。昭和20年 3月正倉院監理官補を兼任。昭和21年 4月帝室博物館出仕、正倉院監理署出仕を兼任。昭和22年 5月国立博物館奈良分館文部技官となる。昭和26年 2月同館学芸課長事務代理。昭和29年 同館は27年奈良国立博物館となり、この年8月同館陳列品鑑査委員に任ぜられる。昭和32年 5月同館資料室長。昭和36年 11月同館美術室長。昭和40年 5月没す。没後正六位勲五等瑞宝章を受けた。他に京都奈良文化財買取協議会協議員、奈良県文化財専門審議会専門委員、奈良市史編纂委員などを勤めた。主 著 論文春日宮曼荼羅(大和文華20号 昭和31年)新出の春日水谷社の衝立絵(同上26号 昭和33年)柿本宮曼荼羅図(同上32号 昭和35年)らくがき絵(同上35号 昭和36年)南倉和琴の所謂★★画について(書陵部記要7号 昭和31年)厨子扉絵天部2人物図(国華858号 昭和38年)春日大社、興福寺の絵画(春日大社興福寺 昭和36年近畿日本鉄道株式会社)垂迹美術(奈良国立博物館 昭和39年 角川書店)

岡直巳

没年月日:1964/08/28

文学博士岡直巳は8月28日胃癌のため死亡した。享年60才。明治37年4月22日宮城県宮城郡に生れ、昭和5年慶応義塾大学文学部美術史学科卒業。同8年8月同学大学院(東洋美術史専攻)修了。同13年4月高野山大学文学部仏教芸術科教授に就任し、17年には同学を退職して慶応義塾大学嘱託となり福沢全集の編集に協力した。19年に三十三間堂の仏像研究に体して日本諸学振興委員会より研究助成金を受ける。33年8月文部技官として国立博物館奈良分館に勤務し、その後同館は奈良国立博物館と名称を変えたが、36年4月に同館学芸課長となった。主要論文として昭和37年3月に東北大学より文学博士を与えられた「神像彫刻の研究」(参考論文「鎌倉時代彫刻論」)があり、他に「神像彫刻の一考察」(仏教芸術33、昭和32年9月)、「神像彫刻に就て」(古美術3、昭和38年10月)、「東大寺技楽面考」(大和文華研究47、昭和37年3月)のほか彫刻史関係で34の論文があり、また主として昭和13年ごろまに執筆した近世絵画に関するもの25編がある。著書は「興福寺の彫刻」(近畿日本叢書6、昭和37年4月)、「仏教彫刻」(鹿鳴荘、昭和26年10月)ほかである。

原田治郎

没年月日:1963/07/25

元東京国立博物館職員原田治郎は病気療養中のところ、肺炎を併発し、東京都台東区の自宅で逝去した。享年84才。明治11年12月2日山口県に生れた。若くして、米国カリホルニヤ大学に学び、同38年名古屋高等工業学校の講師となり、のち同校及び第八高等学校教授として英語を指導した。昭和2年帝室博物館の嘱託となって以来、戦後国立博物館の事務官に任ぜられ、28年にわたって、英文列品目録や解説の編集事務や渉外事務にあたった。この間、明治37年の米国セントルイズ万国博覧会はじめ、同43年の日米博覧会、大正3年の桑港博覧会、或いは第二次大戦後の再度にわたる米国に於ける日本古美術展覧会に要員として出張を命ぜられ、さらに昭和10年には交換教授として米国オレゴン大学に赴き、同時に諸大学、美術館に於いて、日本文化に関する講演を行い、オレゴン大学から名誉文学博士の称号を受けた。かように、その生涯の大半を日米文化の交流に献げた。その主なる著書に“Garden of Japan”London;1926“Hiroshige”London;1929“English Catalogue of Treasures in the Imperial Repository Shosoin”Tokyo,1932“Examples of Japanese Art in the Imperial Household Museum”Tokyo;1934“The Lesson of Japanese Architecture”London;1937“A Glimpse of Japanese Ideals”Tokyo;1937.

石川公一

没年月日:1963/05/30

学習院大学助教授で元国立近代美術館渉外調査係長、石川公一は5月30日原因不明の脳内出血の為、都下小金井市桜町の桜町病院で急逝した。享年42才、石川公一は大正10年1月10日東京府小石川区に生れた。昭和17年山形高等学校を卒業、同年京都大学法学部政治に学科入学した。翌18年12月、召集を受け海軍に入り、19年9月応召中のまま、京大法学部を卒業、20年に復員すると更に東大文学部哲学課に入学して美学を専攻した。卒業後は大学院において造型美術の理論を専攻、主にドイツ現象学派の美学を学んだ。27年に国立近代美術館調査渉外係長に就任、その後、陳列保存係長に代ったりしたが、38年3月迄同館に勤務、38年4月、学習院大学助教授として転任し同校の哲学科、史学科また大学院での講義を担任していた。尚33年から35年へかけてドイツに留学、ミュンヘン大学でゼーデルマイヤーに師事す、帰国後は、一層美学、美術史の問題に深い関心と研究を進めていたところで、その急逝が惜しまれる。略年譜大正10年1月10日 東京府小石川区に生る。昭和17年4月 京都大学法学部政治学科入学昭和18年12月 応召により海軍に入隊昭和19年9月 京都大学法学部卒業(応召中)昭和20年9月 海軍中尉として復員昭和21年4月 東京大学文学部哲学科入学(美学専攻)昭和24年3月 同卒業、4月大学院入学昭和27年11月 大学院退学し、国立近代美術館調査渉外係長に就任昭和33年12月~35年3月 ドイツ学術交換学生として渡独、ミュンヘン大学美術史研究室またバイエルン中央美術研究所等に学ぶ。昭和38年4月 学習院大学助教授に就任昭和38年5月 5月30日没。主要論文、著書等流行について(被服文化26年1月~27年5月)。作品の構造(美学8号、27年4月)、現代の美意識-近代芸術の変貌(文化服装学友会誌20号、27年3月)、未開芸術の問題(美学9号、27年7月)、明治大正の洋画(みづゑ4月号、28年)、表現の問題としてのリアリズム、その一(美学22号、24号、30年、31年)「近代洋画の歩み」(今泉篤男共著)東都文化出版昭和30年、「デーゼルマイヤー:近代芸術の革命」(美術出版社32年、絵画の時間性(文芸日本、32年1月)、浪漫主義の美術(近代思想史講座4巻、弘文堂33年)、浪漫主義の絵画(前同、4巻、34年)、抽象美術(前同、8巻、34年)、カンディンスキー(美術手帖7・8月号、35年)、前田寛治のリアリズム(みづゑ11月、35年)「ドイツ美術」(前川誠郎と共著)講談社37年〔翻訳〕「ゼーデルマイヤー:中心の喪失」(阿部公正と共訳)美術出版社近刊、「L.Venturi:Painting and painters-How to look at the picture」(和光功と共訳)みすず書房近刊、

小林太市郎

没年月日:1963/05/06

神戸大学文学部教授小林太市郎は5月7日狭心症のため京都市の自宅で急逝した。享年61才明治34年12月27日西陣の織元の家に生れ、染織中学に進んだが、同志社中学に転じ、京都大学文学部哲学科選科からフランスに留学してソルボンヌ大学で三年の課程を終えた。帰国後東方文化学院研究嘱託、大阪市立美術館学芸員を径て、昭和25年5月神戸大学文学部教授となり、この間29年度には京都工芸繊維大学工芸学部講師、33年度には広島大学文学部講師をつとめた。氏は和漢洋の豊富な語学力と駿博な知識及び深い洞察に基いて広汎な著作活動を行い、別表の如く多彩な内容を示している。37年3月31には「大和絵史論」により文学博士の学位を授けられたが、同書はまた第一回の毎日出版文化賞の受賞図書でもあった。なお神戸大学文学会編「研究」の34号は氏の追悼特集号である。主要著作目録ベルグソン「精神力」訳 (昭和7年 第一書房)支那と仏蘭西美術工芸 (昭和12年 弘文堂)ダントルマール「中国陶瓷見聞録」訳註 (昭和18年 第一書房)王維の生涯と芸術 (昭和19年 全国書房)柿右衛門と伊万里図説 (昭和19年 大雅堂)北斎とドガ (昭和 全国書房)大和絵史論 (昭和21年 全国書房)禅月大師の生涯と芸術 (昭和22年 創元社)漢唐古俗と明器土偶 (昭和22年 一条書房)中国絵画史論孜 (昭和22年 大八洲出版社)乾山・京都篇 (昭和23年 全国書房)東洋陶磁鑑賞録中世篇 (昭和25年 便利堂)乾山「過凹凸★記」訳注考証美術史34.25 (昭和34年35年)マラルメの詩論 美学42(昭和35年)芸術の理解のために (昭和35年淡交新社)光琳と乾山(世界の人間像) (昭和37年角川書店)王維(絶筆 集英社)

脇本楽之軒

没年月日:1963/02/08

東京芸術大学名誉教授、文化財専門審議会専門委員脇本楽之軒(本名十九郎)は2月8日老衰のため逝去した。享年80才。明治16年9月19日山口県防府市の生れ。京都市立美術工芸学校に入学したが中途退学して上京。明治35年ごろから藤岡作太郎に国文学、中川忠順に美術史を学んだ。大正4年美術攻究会を創立し、美術史研究のかたわら万朝報、東京朝日新聞に現代美術評論を執筆した。大正6年より同9年まで文部省嘱託として国宝調査に当り、同11年から昭和12年まで国宝全集の編集に従事、昭和6年より同8年まで美術研究所嘱託となり、「美術研究」に多くの論文を発表した。昭和11年美術攻究会を東京美術研究所と改め機関誌「画説」(のち「美術史学」と改題)を刊行、絵画、陶磁器等に関する研究論文、作品解説、史料紹介の筆をとった。昭和20年東京美術研究所を閉鎖、東京美術学校講師、同22年教授となり日本美術史を講じた。同24年国立博物館次長となったが間もなく辞任。同25年東京芸術大学教授となり、同34年停年退職。同37年名誉教授の称号を授与された。なお、昭和12年重要美術品等調査委員、同20年国宝保存会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となり文化財保護行政にも功績があった。同37年古美術研究および現代美術評論に関する業績により紫綬褒章を授与され、逝去に際し正4位勲4等瑞宝章を贈与された。水墨画・文人画および京焼の研究に業績が大きく、著書に「平安名陶伝」(大正10年洛陶会)がある。主な論文次の通り、破墨の意義の変遷について 美術研究 14「雑華室」鑑蔵印記について 美術研究 22日本水墨画壇に及ぼせる朝鮮画の影響 美術研究 28足利義満と宋元画 美術研究 38戦国武人画家山田道安 1~3 画説 10~12慶思か慶忍か 画説 15信貴山縁起の研究 画説 30仁阿弥道八 陶磁 2の4仁清と京焼 京都博物館講演集 13

春山武松

没年月日:1962/08/22

朝日新聞社客員、美術研究家春山武松は8月22日老衰のため芦屋市で逝去した。享年77才。明治18年7月15日姫路市に生れた。明治43年第一高等学校卒業、東京帝国大学文学部哲学科に学び、美術を専攻したが途中兵役のため遅れ大正3年卒業した。7年迄大学院に在籍したが、同年東京朝日新聞社客員として入社、8年大阪朝日新聞社社員に転じ学芸部美術担当となり、其後は関西に定住して、大正15年12月、美術研究の為印度、爪哇へ特派された。この間「宗達と光琳」「光悦と乾山」の著書があり、大正7年から昭和19年まで朝日新聞に美術批評を掲載している。昭和15年7月朝日新聞社を停年退職し、その後は客員となっていた。戦後の著書は、「法隆寺の壁画」(22年)、「蛍光灯下の法隆寺」(23年)「日本上代絵画史」(24年)、「平安朝絵画史」(26年)「日本中世絵画史」(28年)等がある。

鷹巣豊治

没年月日:1962/04/16

東京国立博物館調査員、東洋陶磁会理事鷹巣豊治は、4月16日久留米市に出張中、脳内出血のため急逝した。享年71。明治23年11月20日佐賀県西松浦郡に生まれ、有田工芸学校陶画本科に学んだ。のち東京美術学校日本画本科に入学し、大正5年3月卒業、さらに研究科に学んだ。その後日本画家として自活するかたわら、板谷波山の作陶をたすけた。同14年4月東京帝室博物館雇員となり、美術課に勤務して以来、終生同館に勤務した。昭和6年5月鑑査官補、同15年2月鑑査官となった。同22年国立博物館官制の制定により文部技官に任ぜられた。同29年3月東京国立博物館学芸部美術課長となり、同30年11月に至った。この間、ハワイのホノルル美術館で開催の日本古美術展に出張した。同33年4月本官を辞し、以後調査員として在職した。帝室博物館入館以来、同館の模本の調査にあたり、これを整理した功績は大きい。絵画史、陶磁史に造詣深く、著書に「柿右衛門・鍋島」(昭和36年平凡社)がある。また晩年には陶画にも手を染めた。

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