大辻清司

没年月日:2001/12/19
分野:, (写)
読み:おおつじきよじ

 写真家で筑波大学名誉教授の大辻清司は、12月19日脳出血のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年78。1923(大正12)年7月27日東京市城東区大島(現江東区大島)に生まれる。戸籍上の出生日は8月15日。1942(昭和17)年東京写真専門学校(現東京工芸大学)芸術科に入学。在学中の43年に陸軍に応召、終戦まで軍役に就く(44年9月卒業の認定を終戦後受ける)。終戦後に勤務した写真スタジオで斎藤義重と出会い、斎藤の勧めで『家庭文化』誌編集部に入り撮影を担当。47年新宿で写真スタジオを開業。49年第9回美術文化協会展に「いたましき物体」を出品、同協会員となる(52年の第12回展まで出品し退会)。52年「小川義良・大辻清司写真二人展」(タケミヤ画廊)開催。53年より実験工房に参加、同年グラフィック集団の結成に加わる。55年の第2回グラフィック集団展(銀座・松屋)には石元泰博、辻彩子との共作、武満徹・音楽による実験映画「キネカリグラフ」を出品。同年石元泰博との共著『カメラが把えた朝倉文夫の彫塑』(朝倉彫塑塾)刊行。56年「第1回国際主観主義写真展」(日本橋・高島屋)に出品、同年『芸術新潮』嘱託(60年まで)となり、以後90年代前半まで美術雑誌や企業PR誌、展覧会図録などさまざまな出版物のための写真撮影を担当する。58年シカゴに渡った石元泰博の後任として桑沢デザイン研究所の講師となり(75年まで)、以後、東京綜合写真専門学校(1960~70講師)、東京造形大学(1967~72助教授、1972~76教授)、筑波大学(1976~87教授)、九州産業大学(1987~96教授)などで教鞭をとる。1960年代から『カメラ毎日』、『アサヒカメラ』などの写真雑誌に写真評論やエッセーを多く寄稿。77年個展「ひと函の過去」(フォトギャラリープリズム)、87年「大辻清司1948-1987」展(筑波大学会館)、同年「大辻清司展」(東京画廊)開催。1989(平成元)年『写真ノート』(美術出版社)刊行。96年日本写真協会賞功労賞を受賞。99年「大辻清司写真実験室」展(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室)において初めてその業績の本格的な回顧がなされる。同年「大辻清司・静かなまなざし」(写大ギャラリー)開催、『日本の写真家21 大辻清司』(岩波書店)刊行。2000年作品掲載や執筆文章の書誌情報等を集成した『大辻清司の仕事1946-1999』(モール)が刊行される。02年「大辻清司写真作品展」(福岡アジア美術館交流ギャラリー)開催。戦前期の前衛写真運動に写真雑誌を通じて触れたことをきっかけに写真家を志した大辻は、シュルレアリスムと抽象を軸に展開した前衛写真の影響下に、被写体となるモノの存在を見つめる実験的写真で出発、実験工房やグラフィック集団の活動を通じて、メディアの枠を越えた表現を試みる一方、雑誌の嘱託としての撮影や商業写真、建築・美術・工芸作品写真などの仕事も数多く手掛け、多面的に写真に対する経験と思考を深めていった。また教育者、書き手として、後続の世代の写真家たちや同時代の写真表現に対する観察者・理解者としても重要な役割を果たした。60年代末に若手写真家のなかから現れた「コンポラ写真」に注目し、その動向に触発されるように、自らも小型カメラを用いたスナップショットによって表現主体としての「私」の位置を問い直していった一連の仕事に見るように、その写真家としての姿勢にはつねに、既成の写真表現の成果を踏まえつつ新たな展開を探ろうとする実験の姿勢が貫かれていた。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(252頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「大辻清司」『日本美術年鑑』平成14年版(252頁)
例)「大辻清司 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28245.html(閲覧日 2024-11-14)

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