本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





村田慶之輔

没年月日:2015/03/19

読み:むらたけいのすけ  川崎市岡本太郎美術館名誉館長で、美術評論家の村田慶之輔は、3月19日に死去した。享年84。 1930(昭和5)年10月11日に生まれる。56年3月、早稲田大学第一文化学部を卒業。59年11月に神奈川県教育委員会職員となる。64年、神奈川県立博物館準備室の学芸員となる。69年4月に文化庁文化部芸術課専門職員に転ずる。74年7月に文化庁文化部文化普及課の国立国際美術館設立準備室主幹となる。77年5月、国立国際美術館開館にともない学芸課長となる。1991(平成3)年3月に定年退官。同美術館在職中には、福井県立美術館運営委員会、西宮市大谷記念美術館運営委員会、愛知県美術館協議会、和歌山県立近代美術館協議会の委員を務め、また高知国際版画トリエンナーレ、安井賞、現代日本美術展、吉原治良賞の審査員も務めた。教育面では、愛知県立芸術大学、静岡大学等で非常勤講師として教鞭をとった。92年4月、高岡市美術館準備室長となるが、翌年3月に退職。99年4月に川崎市岡本太郎美術館館長となる。在職中は、岡本太郎をはじめとする各種の企画展の企画、監修などにあたった。2012年4月に同美術館名誉館長となる。また同時期に、軽井沢ニューアートミュージアムの名誉館長にも就任した。幅広い視野から、縦横に美術を語り、批評しつづけた美術館人であった。

金子國義

没年月日:2015/03/16

読み:かねこくによし  画家の金子國義は、3月16日、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月23日、埼玉県蕨市で織物業を営む裕福な家庭の四人兄弟(兄二人、姉一人)の末っ子として生まれる。幼少のころより図画工作、習字に秀で、華道、茶道、バレエのレッスンに通う。高校生のころは「映画狂時代」を自称するほど映画を観、『ハーパーズ・バザー』、『ヴォーグ』などファッション誌を購読、スタイル画に熱中する。56年、日本大学芸術学部入学。学業と平行して歌舞伎舞台美術家長坂元弘に4年間師事し、歌舞伎や新派、東をどりなどの舞台装置や衣装を学ぶ。57年、二十日会に参加し、第一回公演「わがままな巨人」の舞台を担当。59年、大学卒業後、グラフィックデザイン会社でコマーシャルなどの仕事に従事するが、3ヶ月で退社。60年、第37回春陽会展の舞台美術部門で「ある巨人の話」が入選。65年ころ、高橋睦郎を介して澁澤龍彦と知り合い、翌年刊行された澁澤の翻訳書『オー嬢の物語』(河出書房新社)の挿絵を担当。このころアングラ劇団「状況劇場」で舞台美術を担当したり出演する。67年、澁澤の紹介で初の個展「花咲く乙女たち」を銀座・青木画廊で開催(同画廊では69年「千鳥たち」、75年「お遊戯」、83年「オルペウス」の個展を開催)。68年、映画「うたたかの恋」(監督桂宏平、主演四谷シモン)で美術を担当。71年、ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。同年、雑誌「婦人公論」の表紙画を担当(1974年12月号まで)。75年、生田耕作訳『バタイユ作品集』(角川書店)の装幀・挿絵を担当。世紀末的・デカダンスな雰囲気を漂わせる妖艶な女性の絵を得意とし、60年代から70年代半ばを風靡したアングラ文化の一翼を担った。80年、バレエ「アリスの夢」(原宿ラフォーレミュージアム)で構成・演出・美術を担当。以後も、東京を中心に個展を多数開催、1998(平成10)年に自身がオーナーとなり神田神保町に金子による画集・リトグラフ・油彩・装丁本のほか金子が所蔵する書籍、美術品を展示するギャラリー兼古書店を開設(没後もオーナーを代えて存続)。晩年まで舞台美術、着物デザイン、写真など多岐にわたり、精力的に活動、18代目中村勘三郎(2005年)、6代目中村勘九郎(2012年)ら歌舞伎役者の襲名披露口上の美術、ロックバンド・L’Arc~en~CielのボーカリストHYDEのアルバム「FAITH」ジャケット原画(2006年、発売=HAUNTED RECORDS)を手がけた。 著書に『美貌帖』(河出書房新社、2015年)、絵本に『Alice’s adventures in Wonderland(不思議の国のアリス)』(イタリア・オリベッティ社、1974年)、作品集に『アリスの夢』(角川書店、1978年)、『金子國義アリスの画廊』(美術出版社、1979年)、『オルペウス』(美術出版社、1983年)、『青空』(美術出版社、1989年)、『お遊戯Les Jeux』(新潮社、1997年)、『よこしまな天使』(朝日新聞社、1998年、Asahi Art Collection)、『金子國義油彩集』(メディアファクトリー、2001年)、『Drink Me Eat Me』(平凡社、2004年)、『L’ Elegance金子國義の世界』(平凡社、2008年、コロナ・ブックス)など多数。特に一般には「富士見ロマン文庫」(富士見書房、1977年から91年)、『ユリイカ』(1988年から90年)をはじめとする多くの書籍・雑誌の装幀画・挿絵を手がけたことでも知られた。回顧展としては、「EROS’84」(渋谷・西武百貨店アートフォーラム、1984年)、「EROS ’90楽園へ」(キリンプラザ大阪、1990年)がある。没後、『ユリイカ』2015年7月臨時増刊号や『KAWADE夢ムック文藝別冊』(2015年8月)などで特集された。

灰外達夫

没年月日:2015/03/14

読み:はいそとたつお  重要無形文化財「木工芸」の各個認定者の灰外達夫は3月14日脳内出血のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年1月3日、石川県珠洲市に生まれる。56年に中学を卒業し正院町にて建具の修業を始める。建具の製作に携わる中で、指物、挽曲等の木工芸技法を身につける。 その後、77年、重要無形文化財「木工芸」の各個認定者である氷見晃堂の遺作展に感銘を受け、木工芸の創作を始める。81年、第28回日本伝統工芸展に「欅十六角喰籠」が初入選。 1989(平成元)年には日本伝統工芸展正会員となり、同年、金沢大和画廊アートサロンにて個展を開催。92年、第39回日本伝統工芸展で「神代杉造木象嵌短冊箱」が奨励賞を受賞。 97年には灰外達夫木工芸展をさいか屋(横須賀)で開催。99年には日本橋三越にて個展を開催。石川県立美術館で開催された石川県作家選抜美術展へ出品。 2000年、第9回日本伝統工芸木竹展で「神代杉挽曲造木象嵌箱」が文化庁長官賞を受賞。03年の第50回日本伝統工芸展で「神代楡挽曲造食籠」がNHK会長賞を受賞(文化庁買い上げ)。 07年には第54回日本伝統工芸展で「神代杉造食籠」が保持者賞を受賞。翌年の08年には紫綬褒章を受章。12年、重要無形文化財「木工芸」の各個保持者に認定される。同年、菊池寛実記念智美術館において「茶の湯の現代-用と形-」大賞を受賞。翌年の13年には伊勢神宮式年遷宮献納。14年旭日小綬章を受章。15年には和光ホールにて開催された「北陸発工芸未来派」に出品。 挽曲とは神社の鳥居等に用いられた技法で、木材の薄板に鋸で挽き目を入れ、部分的に曲げて造形する技法である。同技法は挽き目の深さや角度を調整する技術が肝要といえる。灰外は特殊な鋸を用いて挽き目を入れ、精緻な多角形等を正確に表現する。神代杉、神代楡などを素材に用い、柾目の木目を生かした作風といえる。「デザインありきではなく、まず技術ありきであり、技術がデザインを作る」という言葉を残している。 制作は木工芸だけに留まらず、80年には独学で陶芸をはじめ、日本最大の径1,82mの大皿焼き上げに成功し(当時ギネス世界記録)、82年には灰外達夫大皿展を高島屋で開催。1983年には日本最大の陶板焼き上げに成功し、95年には日本陶磁協会賞を受賞している。  自身の製作だけでなく後進の育成にも尽力しており、98年から09年まで石川県立輪島漆芸研究所の講師を務める。また、石川伝統工芸展、日本伝統工芸木竹展、日本伝統工芸展の監査委員なども歴任する。 作品は茶道を嗜む人々等に愛用された他、文化庁、金沢市立中村記念美術館や石川県立美術館に所蔵されている。 参考映像にDVD「シリーズ北陸の工芸作家 石川の匠たち 灰外達夫 道」北陸メディアセンター(2014年)等がある。

濱本聰

没年月日:2015/03/13

読み:はまもとさとし  下関市立美術館長で、美術史研究者の濱本聰は、3月13日に死去した。享年60。 1954(昭和29)年8月1日山口県萩市に生まれる。岡山大学大学院文学研究科修士課程(日本近現代美術史専攻)を修了後、84年に下関市立美術館学芸員に採用される。1992(平成4)年11月には、第4回倫雅美術奨励賞の「美術評論・美術史研究部門」において、展覧会「日本のリアリズム 1920s-50s」の企画及びカタログ中の論文によって、共同企画者である大熊敏之とともに受賞した。97年、同美術館学芸係長に昇任。2004年に館長補佐、10年から館長となった。同美術館在職中は、香月泰男をはじめとして地域出身の美術家の回顧展等を企画担当して顕彰につとめ、美術、文化振興のために美術館の運営にあたった。近代美術の研究にあたっては、岸田劉生、香月泰男、桂ゆき、殿敷侃等の作家研究を中心に、作品に対して冷静な観察と的確な分析に基づく論考を多く残しており、これらは今なお参考にすべき業績である。主要な研究業績並びに担当した展覧会は下記の通りである。主要論文並びに担当展覧会:「岸田劉生と草土社」(「岸田劉生と草土社」展、下関市立美術館、1985年)「香月泰男-1940年代の作品から-」(「香月泰男」展、下関市立美術館、1987年)「長谷川三郎とその時代概説」(「長谷川三郎とその時代」展、下関市立美術館、1988年)「日常的な呼吸の中の版画」(『香月泰男全版画集』、阿部出版、1990年)「桂ゆきの作品をめぐる螺旋的な記述の試み」(「桂ゆき展」、下関市立美術館、1991年)「新しいリアリズムへ―1940年代以降の展開」(「日本のリアリズム 1920s-50s」展、北海道立近代美術館、下関市立美術館巡回、1992年)「殿敷侃・現代の語り部」(「殿敷侃展 遺されたメッセージ・アートから社会へ」、下関市立美術館、1993年)解説「宮崎進-透過する眼差し-」(「宮崎進展」、下関市立美術館、笠間日動美術館、平塚市美術館、三重県立美術館、新潟市美術館巡回、1994-95年)「香月泰男の造型的模索―1950年代の作品を中心に―」(「香月泰男展」、愛知県美術館、下関市立美術館、そごう美術館(横浜)巡回、1994-95年)「『初年兵哀歌』が語るもの」(「浜田知明の全容」展、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館巡回、1996年)「岸田劉生試論-静物・風景・人物- 所蔵油彩作品を中心に」(『研究紀要』8、下関市立美術館、2001年)「作品解説-画風の展開とその特質-」(『香月泰男画集 生命の讃歌』、小学館、2004年、同書では安井雄一郎とともに編集委員をつとめる)「下関の戦後美術(洋画篇)」(「戦後美術と下関」展、下関市立美術館、2005年)「香月泰男・1940-50年代の展開~モダニズムから新たな地平へ~」(「没後35年 香月泰男と1940-50年代の絵画」展、下関市立美術館、2009年)「桂ゆきの眼差し-その批評精神をめぐって-」(「生誕百年 桂ゆき-ある寓話-」展、東京都現代美術館、下関市立美術館巡回、2013年)

辰巳ヨシヒロ

没年月日:2015/03/07

読み:たつみよしひろ  漫画家の辰巳ヨシヒロは、3月7日悪性リンパ腫のため亡くなった。享年79。 1935(昭和10)年6月10日、大阪府大阪市天王寺区に生まれる。本名辰巳嘉裕。中学時代に手塚治虫の漫画に出会い、また手塚宅を何度か訪ねたことから本格的に漫画を描くようになり、『漫画少年』などに投稿をする。52年に描いた『こどもじま』(鶴書房、1954年)で単行本デビュー。54年、大阪の貸本漫画出版の八興社・日の丸文庫でスリラー『七つの顔』を発表、以後同出版社でスリラーものを手がけていく。56年、日の丸文庫が刊行した短篇誌『影』に主要な描き手として活躍、後に編集にも関わる。同年上京。57年頃に貸本漫画界は探偵・推理ものブームとなり、辰巳は、少年向けの楽しい、明るい、笑いを中心とした漫画と自分たちの系譜を分けるために「劇画」という名称を打ち立てる。59年に東京・国分寺ことぶき荘で「劇画工房」の設立に参加、短編誌の発行と自主出版を目指したが1年ほどで解散となる。63年出版社「第一プロダクションを」を設立。60年代末からの劇画ブームのなかで、自身の位置を模索しつつ、週刊誌で原作付き連載をこなすが、辰巳本来の特徴を示すのは、「おれのヒットラー」(『劇画マガジン』、1969年)などにみられるように、おもに社会の下層労働者や鬱屈した人々を描いた暗いムードの作品である。青年漫画誌『ガロ』や自身の出版社「ヒロ書房」を舞台として発表を行なう。楕円形の顔立ちの無口な男性主人公が多く、とくに短編集『人喰魚』(ヒロ書房、1970年)は、ブルーフィルムの「写し屋」、ラッシュアワー電車の「押し屋」、籠の鳥に自分をみる男の「ひも」、タレントに異常な恋慕をする男の「事故死」など、彼の劇画色が発揮されている。同書は72年第1回日本漫画家協会賞努力賞受賞。90年代にはひろさちや原作で仏教漫画に取り組む。2000(平成12)年以降、海外での評価も高まり、主な作品が英語、フランス語をはじめ8カ国語に翻訳出版されている。大人の漫画をつくった功績により、05年にはフランスのアングレーム国際コミック・フェスティバルで、06年にはサンディエゴ・コミック・コンベンションで特別賞を受賞。11年にはシンガポールの映画監督エリック・クーによって辰巳の作品を原作としたアニメーション『TATSUMI』が製作されている(日本公開2014年)。自身の伝記的要素を踏まえた『劇画漂流(上下)』(青林工藝社、2008年、のち講談社漫画文庫、2013年)は、『まんだらけマンガ目録』などに12年にわたり連載された劇画史を描いた力作で、09年手塚治虫文化賞大賞、10年アイズナー賞最優秀アジア作品に選出された。『劇画漂流』の活字版といえる『劇画暮らし』(本の雑誌社、2010年、のち角川文庫、2014年)もある。

小川知二

没年月日:2015/03/02

読み:おがわともじ  元東京学芸大学教授で美術史研究者の小川知二氏は、3月2日死去した。享年71。 1943(昭和18)年8月30日、神奈川県横浜市に生まれる(本籍は茨城県牛久市)。京都大学文学部哲学科美学美術史専修を修了し、茨城県立歴史館に勤務。日本中世絵画史、とくに常陸画壇史や雪村周継の研究において優れた業績を残した。小川による基礎資料の真摯な調査、画家の基準作を丹念に追求する精緻な研究は、雪村をはじめ、林十江、立原杏所、佐竹義人などによる常陸画壇の軌跡に新たな光をあてるものとなった。 茨城県立歴史館では、雪村の大規模な企画展として「新規会館記念特別展 雪村―常陸からの出発(たびだち)―」(1992年)を担当した。また、同館『茨城県立歴史館報』に「近世水戸画檀の形成(上)(中の一)(中の二)」「『日乗上人日記』に登場する画家たち」を連載し、祥啓、雪村とその周辺画家を水戸美術の黎明期に位置づけ、水戸藩成立後の狩野派絵師の活動や、徳川光圀が招いた東皐心越などの動向など、貴重な基礎資料を提示した。 1995年より東京学芸大学教育学部教授となり、教育活動に力を注いだ。その間、2002年に千葉市立美術館など4館で開催された特別展「雪村展:戦国時代のスーパーエキセントリック」に特別学芸協力を行い、「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)、「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)などを発表し、2004年には『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版)を刊行した。同著は先学の福井利吉郎、赤澤英二の諸研究をふまえた雪村研究の集大成をなすものとなった。05年に同大学を定年にて退任する。 小川はまた、「学芸員とは何だろう」(『MUSEOLOGY』16、1997年)において、学芸員の専門性について強調しているように、地域社会における博物館学芸員の役割について重要な提言を行った。とくに1970年代に「博物館問題研究会」において、わが国の博物館の歴史的・社会的位置づけに関する議論を深め、同研究会に「文化論学習会」を設立し、吉本隆明『共同幻想論』、丸山眞男『超国家主義の論理と心理』などをとりあげ、人文科学系博物館における歴史観・芸術観の課題について論じた。熱心な教育普及活動によって地域においても人望篤く、また学生や後継の研究者への細やかな配慮によって尊敬をあつめた。芸術を探求した小川の真摯な姿勢は、祖父小川芋銭の血を受け継ぐものであったのかもしれない。 主要な編著書・論文は下記の通りである。編著書『奇想のメッセージ 林十江』(日本放送出版協会、1993年)『江戸名作画帖全集―探幽・守景・一蝶:狩野派』4(安村敏信・小川編、駸々堂出版、1994年)『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版、2004年)『もっと知りたい雪村―生涯と作品―』(東京美術、2007年)「常陸画檀史断章――佐竹義人の登場と伝説、そして忘却へ――」(吉成英文編『常陸の社会と文化』ぺりかん社、2007年)論文「林十江、立原杏所とその作品」(『古美術』61、1982年)「「蝦蟇図」の作者林十江」(『国華』1058、1982年)「立原杏所筆 夏天急雨図」(『国華』1081、1985年)「立原杏所の「北越山水図巻」と「写生画巻」について」(『国華』1103、1987年)「近世水戸画檀の形成(上)」同「(中の一)」同「(中の二)」(『茨城県立歴史館報』12・13・16、1986年・1989年)「林十江筆 十二支図巻」(『国華』1120、1989年)「『日乗上人日記』に登場する画家たち」(『茨城県立歴史館報』19、1992年)「立原杏所の『袋田瀑布』について―再出現の作品紹介を兼ねて―」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』45、1994年)「雪村の造型感覚―初期の作品から「風濤図」に至るまで」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』1、1996年)「学芸員とは何だろう」(『Museology(実践女子大学)』16、1997年)「林十江の造形意識―「蝦蟇図」再考」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』49、1998年)「一瞬の造形表現―林十江筆「柳燕図」の紹介を兼ねて」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』2、1998年)「雪村の作品の編年に関する問題点」(『国華』1242、1999年)「雪村筆 葛花、竹に蟹図」(『国華』1242、1999年)「岡倉天心と雪村」(『東京学芸大学造形芸術学・演劇学講座研究紀要』3、2001年)「雪村の画論『説門弟資伝』について」(『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』55、2004年)「雪村は雪舟に傾ける周文風なり―岡倉天心の言説を巡って―」(『五浦論叢』14、2007年)「奥原晴湖の生涯と作品~「繍水草堂」の時代を中心に~」(『奥原晴湖展』古河歴史博物館、2010年)「林十江筆 昇龍図」(『国華』1390、2011年)「雪村周継「布袋図」と「山水図」(『聚美』2、2012年)「近世の水戸画檀とは」(茨城県立歴史館『近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・喬展』、2014年)「谷文晁、酒井抱一、菅原洞斎の雪村崇拝―雪村の画論『説門弟資云』の謎をめぐって―」(『特別展 雪村 奇想の誕生』東京藝術大学大学美術館、MIHO MUSEUM、2017年)

宮崎徹

没年月日:2015/02/20

読み:みやざきとおる  鎌倉市鏑木清方記念美術館副館長兼主任学芸員の宮崎徹は2月20日死去した。享年53。 1961(昭和36)年5月13日、埼玉県浦和市に生まれる。85年立正大学文学部英文学科卒業。翌86年から88年まで中国・鄭州大学に留学。1993(平成5)年財団法人鎌倉市芸術文化振興財団に入職。鎌倉芸術館の運営にかかる施設課を経て、総務課在職中に鎌倉市鏑木清方記念美術館(1998年開館)の設立に関わる。2000年より同美術館に学芸員として奉職。04年より主任学芸員、13年より副館長兼主任学芸員を務める。 同美術館では01年より鏑木清方の画業についての調査研究の成果を叢書図録として刊行し始め、主担当として執筆と編纂を行なう。肉筆画のみならず新聞・雑誌に掲載された口絵・挿絵をも網羅したその内容は、卓上芸術を標榜した清方のカタログレゾネとして高く評価される。教育普及活動にも力を入れ、09年には子供向けに日本画の画材や技法をやさしく解説した冊子『日本画を描いてみよう!』を制作・発行。また館外でも美術館「えき」KYOTOでの「鏑木清方の芸術展」(2008年)の監修・企画をはじめ、サントリー美術館(2009年)、平塚市美術館(2012年)、佐野美術館(2014年)、千葉市美術館(2014年)等での鏑木清方関連の企画展に協力。2008年、別冊太陽『鏑木清方 逝きし明治のおもかげ』を執筆、編集協力を行ない、14年には『鏑木清方 江戸東京めぐり』(求龍堂)、『鏑木清方 清く潔くうるはしく』(東京美術)を刊行、清方の魅力を広く伝えることに努めた。その業績については、有志による『宮〓徹氏追悼文集』(2017年)に詳しい。

榮久庵憲司

没年月日:2015/02/08

読み:えくあんけんじ  インダストリアル・デザイナーの榮久庵憲司は、2月8日洞不全症候群のため死去した。享年85。 1929(昭和4)年9月11日、東京に生まれる。父・鉄念は広島の永久寺の僧侶で、その関係で幼少期をハワイで過ごす。37年帰国。広島の海軍兵学校を出て応召、復員した後に仏教専門学校に入るが中退し、50年東京藝術大学工芸科図案部に入学する。その頃、広島に民間情報教育局のCIE(アメリカ文化センター)図書館が設置され、借り出したウォルター・ドーウィン・ティーグの『デザイン宣言』やレイモンド・ローウィの『口紅から機関車まで』などを翻訳しながら読み込み、インダストリアル・デザインを学んだ。52年同大学工芸科助教授の小池岩太郎(インダストリアル・デザイナー)のもとで、岩崎信治、柴田献一、逆井宏らとGK(Group of Koike)インダストリアル研究室を結成し、毎日新聞社が主催し初めて公募した第1回新日本工業デザインコンペティションに応募するなど、デザイン活動を始める。54年第3回同コンペで特選3席入賞、翌年第4回同コンペでは特選1席、2席、3席を受賞して注目を集めた。55年東京藝術大学を卒業してGK事務所を新宿区下落合に構える。同年ヤマハ発動機が設立され、オートバイ1号機である「YA-1」をデザインし、以降、「VMAX」等のオートバイのデザインを手がける。56年海外貿易振興会(現・ジェトロ)のデザイン留学派遣募集に合格し、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで1年間自動車デザインを学んだ。1957年有限会社GKインダストリアルデザイン研究所を創立して代表取締役所長となり、以降、プロダクトから万博や市街地のサイン計画、「成田エクスプレスN’EX」(2009年)等、実に広域のデザイン分野で活躍するGKデザイングループを世界最大規模へと発展させた。そして、戦後の社会・生活の復興のなかで誰もが美しいデザインを享受できる「モノの民主化」「美の民主化」を原点に唱えて、野田醤油株式会社(現、キッコーマン)「しょうゆ卓上びん」(1961年)をはじめ、多数の一般家庭用の生活用具のデザインに携わる。59年建築家や都市計画家の川添登、菊竹清訓、黒川紀章らが結成したメタボリズム・グループに参加。60年東京で世界デザイン会議のテーマ実行委員長を務め、62年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)理事、70年理事長就任、70年大阪の日本万国博覧会でストリート・ファニチュアの統括責任を担当、1989(平成元)年名古屋の世界デザイン博覧会でも総合プロデューサーを務めるなど、戦後日本の工業デザインの牽引役となりその発展の重要な役割を担った。98年世界デザイン機構を設立し初代会長に就任。著作『道具考』(鹿島研究所出版会、1969年)や『インダストリアル・デザイン』(日本放送出版協会、1971年)を刊行するなど、こころとこと、ものとを三位一体に融合させるデザイン学や道具学といったデザインの領域を押し広げその理論の体系化や推進に尽力した。『デザイン』(日本経済新聞社、1972年)、『日本的発想の原点 幕の内弁当の美学』(ごま書房、1980年)、『道具の思想―ものに心を、人に世界を』(PHP研究所、同)、『モノと日本人』(東京書籍、1994年)等の多数の著作を発表した。人間と道具の関わりへの思いを深めて、2000年に『道具論』(鹿島出版会)を刊行し、未来へ向けたものづくり日本の精神の復権を念じた道具寺道具村建立を掲げて自らのデザイン思考を明らかにした。06年東京新宿・リビングデザインセンターOZONEで「道具寺道具村建立縁起展」開催。13年世田谷美術館「榮久庵憲司とGKの世界――鳳が翔く」展、14年広島県立美術館「広島が生んだデザイン界の巨匠 榮久庵憲司の世界展」を開催。79年国際インダストリアルデザイン団体協議会のコーリン・キング賞や93年JIDA大賞を受賞、97年フランスの芸術文化勲章、00年勲四等旭日小綬章を受章、14年イタリアからデザイン界のノーベル賞といわれるコンパッソ・ドーロ(黄金のコンパス賞)国際功労賞を受賞するなど、戦後日本のデザイン界の発展及びその国際化とともに国際的なデザイン界の振興に尽力した功績が高く評価された。

江坂輝彌

没年月日:2015/02/08

読み:えさかてるや  慶應義塾大学名誉教授である考古学者の江坂輝彌は2月8日、老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年12月23日、現在の東京都渋谷に生まれる。幼少期より考古学に関心を持ち、近隣の畑などをめぐって土器や石器の採集をしていたほか、大学進学以前から研究グループを結成し、活動を行っていた。また、日本における旧石器時代研究の第一人者である芹沢長介とは同年であり、この当時から親交があった。 1942(昭和17)年、慶應義塾大学文学部史学科(東洋史)に入学。同時に陸軍に応召し、敗戦まで中国大陸等で軍務に就いた。その間にも軍当局の許可の下で調査活動を行っており、現地で表面採集した土器を戦後に資料として報告した後、中国浙江省博物館に寄贈している。敗戦後は46年に慶應義塾大学文学部史学科に復学し、55年に慶應義塾大学文学部助手、64年同専任講師、66年同助教授、71年同教授を歴任。85年3月、慶應義塾大学を定年退職と同時に、同名誉教授に就任。その後は、1996(平成8)年まで松坂大学政経学部教授を務めた。 生涯を通して縄文時代を中心とした考古学に深い関心を持ち、全国的な視野をもって各地に自ら足を運び、資料の収集・研究を行った。自らの発掘調査で出土した土器に新たな型式を設定命名することもあり、そのような作業を通して縄文土器の全国的な編年を確立したことの意義は大きい。代表的な業績として山内清男と共著の『日本原始美術第1巻―縄文式土器』(講談社、1964年)が挙げられる。また、82年に提出された学位論文『縄文土器文化研究序説』は、同年に六興出版より書籍として刊行されている。さらに、こういった編年研究を通じて、縄文海進について論じたことも特筆される(「海岸線の進退から見た日本の新石器時代」『科学朝日』14巻3号、1954年)。 このほか、土偶の研究にも精力的に取り組み、『土偶』(校倉書房、1960年)、『日本原始美術』第2巻(共著、講談社、1964年)、『日本の土偶』(六興出版、1990年)などの著作を残している。破損個所がなく完全な例の土偶が全くないこと、すべてが女性をかたどったものであることなどの学説は、現在でも広く受け入れられている。 さらに、先史時代における日本と大陸との交流について研究するなど、その視野や問題意識は国内にとどまらなかった。代表的な著作として『韓国の古代文化』(学生社、1978年)、『先史・古代の韓国と日本』(共編、築地書館、1988年)などが挙げられる。また、そのような研究活動の一環として、国交が正常化する前の66年、韓国の研究者を招いて、熊本県内の貝塚遺跡にて共同調査を実施している。その後も留学生の受け入れなどを通して交流を深め、後進の育成に努めたほか、自身も韓国へ頻繁に赴き、視察などを行っていた。 同じく66年には芹沢長介、坂詰秀一らと月刊誌『考古学ジャーナル』を創刊し、自身も論文だけでなく、動向や講座など多岐にわたる原稿を寄せた。同誌は日本唯一の考古学月刊誌として、2017年7月に第700号を発刊するに至っている。 江坂はそれ以外にも、様々な場所で広範なテーマに関する個別論考を発表したほか、各地の遺跡発掘調査報告書の執筆に名を連ねるなど、その業績は膨大な数にのぼる。また、そのような専門的な調査研究を行う一方で、『縄文・弥生:日本のあけぼの』(共著、小学館、1975年)、『縄文式土器』(小学館、1975年)、『日本考古学小辞典』(共編、ニュー・サイエンス社、1983年)、『考古実測の技法』(監修、ニュー・サイエンス社、1984年)、『考古学の知識:考古学シリーズ1』(東京美術、1986年)など、多くの解説書や入門書の刊行にも関わり、日本における考古学という学問の普及に努めた。

庄司栄吉

没年月日:2015/02/07

読み:しょうじえいきち  日本芸術院会員の洋画家庄司栄吉は肺炎のため2月7日に死去した。享年97。 1917(大正6)年3月20日大阪に生まれる。生家は東南アジアから亜鉛を輸入し、酸化させて白色粉を生産する工場を経営しており、家業の関係で転居が多く、小学校高学年から中学校3年生まで奈良に居住。1935(昭和10)年、大阪外国語学校フランス語部に入学。同校在学中に赤松麟作の主宰する赤松洋画研究所に通い、38年に大阪外国語学校を卒業して東京美術学校油画科に入学。池袋パルテノンと呼ばれた椎名町に下宿し、41年、文展出品を目指していた制作中であった「庭にて」の下絵を見てもらうため、藤本東一良の紹介で寺内萬治郎を訪ねて以後、寺内に師事する。同年第4回新文展に「庭にて」で初入選。42年第5回新文展に「F嬢の像」で入選。同年、第29回光風会展に「M嬢の像」で初入選し、レートン賞受賞。同年10月に美術学校を繰り上げ卒業となり、44年に海軍教員としてセレベス島に派遣される。46年復員し、しばらく大阪に居住。47年寺内萬治郎の勧めで上京し、同年の33回光風会展に「読書」「小児像」を、第3回日展に「バレリーナ」を出品。50年光風会に「室内」「母の像」を出品してO氏賞受賞、翌年同会会員に推挙される。52年、当時の神学の権威であった熊野義孝(1899-1981)をモデルとした「K牧師の肖像」によって日展特選及び朝倉賞受賞。56年第42回光風会展に「画室の女」「青い服の肖像」を出品して南賞受賞。58年藤本東一郎、渡辺武夫、榑松正利らと北斗会を結成し、第一回展を東京銀座・松屋で開催し、以後毎年同展に出品を続ける。58年第1回新日展に「人物」を委嘱により出品。同作品は対象を色面に分割してとらえる方法で描写され、それまでの穏健な再現描写を踏まえた画風の展開が見られる。翌年の第2回新日展出品作「家族」はバイオリンを弾く少女を囲む群像を簡略化した人物描写でとらえており、音楽を奏でる、あるいは聴く人物像というモチーフとともに、晩年まで続く作風を方向付ける作品となっている。67年日展にチェロを弾く男性を描いた「音楽家」を出品して菊華賞受賞。70年日展審査員。71年日展会員。81年第67回光風会展に長いドレスの女性とギターを持つ男性を並立するように描いた「踊子とギタリスト」を出品して辻永賞受賞。86年日展評議員。同年12月資生堂ギャラリーにて個展。87年第19回日展に弦楽カルテットを描いた「音楽家たち」を出品し文部大臣賞受賞。2000(平成12)年3月に日展出品作「聴音」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞し、同年12月に日本芸術院会員となった。赤松麟作、寺内萬治郎を師と仰ぎ、穏健な再現描写を基盤とし、穏やかな色の筆触を重ねて対象を浮かび上がらせる作風で音楽家や踊り子などを描いた。【新文展出品歴】新文展第4回(1941年)「庭にて」(初入選)、第5回(1942年)「F嬢の像」、1943年、44年は不出品【日展出品略歴】第1、2回不出品、第3回(1947年)「バレリーナ」、第4回不出品、第5回(1949年)「室内」、第6回「画室の父」、第7回「坐像」、第8回「K牧師の像」(特選・朝倉賞)、第9回「婦人像」、第10回(1954年)「青衣少女」、第11回「赤い服の女」、第12回「腰掛けた女」、第13回(1957年)不出品【社団法人日展】第1回(1958年)「人物」、第5回(1962年)「耳野先生像」、第10回(1967年)「音楽家」(菊華賞)【改組日展出品略歴】第1回(1969年)「作曲家」、第5回(1973年)「白鳥」、第10回(1978年)「すぺいん舞踊家」、第15回(1983年)「舞踊団の人たち」、第19回(1987年)「音楽家たち」(文部大臣賞)、20回(1988年)「ギタリスト」、第25回(1993年)「ピアニスト」、第30回(98年)「調弦」、第35回(2003年)「ヴィオロニスト」、第40回(2008年)「聴音」、第45回(2013年)「セロ弾き」【改組新日展出品歴】第1回(2014)年「演奏家」、第2回(2015年)「バレエ団の人たち」(遺作)

大倉舜二

没年月日:2015/02/06

読み:おおくらしゅんじ  写真家の大倉舜二は2月6日、悪性リンパ腫のため死去した。享年77。 1937(昭和12)年5月2日、東京市牛込区袋町(現、東京都新宿区袋町)に生まれる。母方の祖父は日本画家川合玉堂。56年独協高校卒業。幼少期より昆虫に興味を持ち、とくに蝶に親しむ。高校在学中、近所に住んでいた画家・植物写真家の富成忠夫に写真の基礎を学び、富成の仕事を手伝う。その成果は後に、富成との共著『蝶』(ぺりかん写真文庫、平凡社、1958年)として刊行された。この経験をきっかけに写真家を志し、高校卒業後、兄の紹介で写真家三木淳の事務所に短期間通い、その後佐藤明の助手を約三年務めた後、60年に独立する。 60年代は主に『装苑』や『婦人画報』などでファッション写真を手がけつつ、『カメラ毎日』などに自らの作品を発表するようになり、71年最初の写真集『emma』(カメラ毎日別冊、毎日新聞社)を刊行。同シリーズから写真集を出した立木義浩や沢渡朔らとともに気鋭の写真家として評価を確立する。一方、60年代末には料理写真に仕事の領域を広げ、日本の料理を、器や配膳、作法など文化的背景もふまえて撮影し、高く評価された。72年、ファッション・料理に関する一連の写真に対し第3回講談社出版文化賞を受賞。その後、78年、『ミセス』誌での連載をまとめた『日本の料理』(文化出版局)刊行。また1993(平成5)年には、前作が料亭などの「ハレ」の料理であったのに対し、日常の和食を対象とした『日本の料理』(セシール)を刊行した。 また70年代の半ばから約10年をかけて日本に生息する24種のミドリシジミ蝶の生態の撮影を重ね、86年『ゼフィルス24』(朝日新聞社)を刊行、これにより87年、第37回日本写真協会賞年度賞を受賞した。他に80年代には、『ONNAGATA 坂東玉三郎』(平凡社、1983年)、『七代目菊五郎の芝居』(平凡社、1989年)など一連の人物写真の他、生け花の撮影など、コマーシャル写真家としての豊富な経験と卓越した技術に裏打ちされた、多彩な仕事を展開した。 90年代後半からは東京をめぐって『武蔵野』(シングルカット、1997年)、『Tokyo X』(講談社インターナショナル、2000年)、『Tokyo Freedom』(日本カメラ社、2005年)の三部作を発表、世紀転換期の東京の様相と社会に対する批判的な視点を提示した。 2002年にはその仕事を振り返る個展「大倉舜二展:仕事ファイル1961-2002」(東京・ガーディアン・ガーデン、クリエイションギャラリーG8)が開催された。

石井和紘

没年月日:2015/01/14

読み:いしいかずひろ  建築家の石井和紘は1月14日、急性呼吸促迫症候群のため死去した。享年70。 1944(昭和19)年2月1日、東京都に生まれる。67年東京大学工学部建築学科卒業、同大学院に進学ののち、72年より米・イェール大学に留学。75年に東京大学大学院工学系博士課程およびイェール大学建築学部修士課程を修了。76年に石井和紘建築研究室(1978年に石井和紘建築研究所に改称)を設立。 東大大学院在籍中に香川県直島町から吉武泰水研究室に依頼された文教地区計画の一環として「直島小学校」(1970年竣工)の設計を担当して町長の目に留まり、以後「直島幼児学園」(1974年、難波和彦との共同設計)、「町民体育館・武道館」(1976年)などを次々と手掛けた。多様性をテーマにした「54の窓(増谷医院)」(1975年、難波との共同設計)でポストモダン建築家として一躍注目を集めた。また同じ頃に、装飾の象徴性を否定した近代建築を批判してポストモダン建築を提唱したロバート・ヴェンチューリ他著『ラスベガス-忘れられたシンボリズム』の翻訳(鹿島出版会、1978年、伊藤公文との共訳)も行っている。 シンボルとしての屋根を記号化した「54の屋根(建部保育園)」(1979年)やファサードが記号化された「ゲイブルビル」(1980年)などを経て「直島町役場」(1983年)で世間にも強烈な印象を与えた。ここでは京都西本願寺飛雲閣の屋根をはじめ、近代も含む日本建築史上の様々な名建築から意匠や形態が直接的かつ強引に引用されており、造形としては相当に破綻しているが、このような時に過剰なまでの諧謔性は石井作品を通底しており、ポストモダニズムがもてはやされた当時の時代の空気と強く共鳴し合う部分でもあった。その究極と言えるのが「同世代の橋」(1986年)で、石井と同世代の建築家13組の特徴的意匠要素がファサードに脈絡なく組み込まれている。 重伝建地区内において既存のRC造公民館を醤油蔵の外観で覆い隠した「吹屋国際交流ヴィラ」(1988年)を経て、続く「数寄屋邑」(1989年、日本建築学会賞(作品)受賞)「清和村文楽館」(1992年)などの作品においては数寄屋や木造といった日本的伝統が大きなテーマとなり、「くにたち郷土文化館」(1994年)や「宮城県慶長使節船ミュージアム」(1996年)では建物のボリュームを地中に埋没させ、主張の強かった初期の作風からは大きく変容を遂げるに至った。 著作に『イェール 建築 通勤留学』(鹿島出版会、1977年)、『数寄屋の思考』(鹿島出版会、1985年)、『私の建築辞書』(彰国社、1988年)などがあり、中期までの作品は『SD』編集部編『現代の建築家 石井和紘』(鹿島出版会、1991年)に収録されている。

江見絹子

没年月日:2015/01/13

読み:えみきぬこ  日本絵画史上、先駆的な抽象表現を試みた女性画家の江見絹子は1月13日、心不全のため死去した。享年91。 1923(大正12)年6月7日兵庫県明石市二見町に生まれる。本名荻野絹子。1940(昭和15)年3月兵庫県立加古川高等女学校卒業。翌年から43年まで、後に二紀会会員となる洋画家伊川寛の個人教授を受け、45年から49年まで神戸市立洋画研究所に学ぶ。この間の48年7月から50年9月まで神戸市立太田中学校に勤務。49年第4回行動展に「鏡の前」で初入選したのを機に神戸市から横浜市に転居。50年第5回行動展に「三裸」「ポーズ」を出品し「三裸」で奨励賞受賞。51年第6回同展に暗い背景の中に群像を描いた「夜の群像」を出品して新人賞受賞、会友推挙。52年第7回行動展に臥裸婦と座す群像を組み合わせた「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し「むれ(2)」で行動美術賞受賞。同年女流画家協会展に「むれ(1)」「むれ(2)」を出品し、同会会員となる。53年第8回行動展に「三立婦」を出品し、行動美術協会で初めての女性会員となる。53年11月渡米。54年2月にアメリカ・カリフォルニア州サウサリトで個展を開催し「むれ(2)」等を展示。後、ニューヨークを経てヨーロッパに渡り、55年8月までパリを拠点にヨーロッパに滞在。ルーブル美術館に通い、西欧絵画を研究する一方で、当時パリで隆盛していたアンフォルメル様式や抽象絵画にも触れた。54年南欧を旅行し、ラスコーとアルタミラの壁画を見て衝撃を受け、「芸術とはなんであるか」を深く考えたことを契機として、作風が大きく変化し、対象を簡略化した形体でとらえる半抽象へと向かう。55年秋に帰国。56年8月シェル新人賞展に黄褐色の背景に茶色のフォルムを配した抽象画「生誕」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。58年第2回シェル美術賞展に「象徴」を出品し、シェル美術賞(3等賞)を受賞。同年アメリカ・ピッツバーグのカーネギー研究所で開催された第41回ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に「錘」を出品。60年第4回現代日本美術展に「リアクション1」「リアクション2」を出品、以後、5,6,7,9回同展に出品する。61年第6回日本国際美術展に「作品」を出品し、以後第8回展まで出品を続けた。61年神奈川県女流美術家協会を創立。62年第5回現代日本美術展に「作品Ⅰ」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。同年6月第31回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展に杉全直、向井良吉、川端実、菅井汲とともに出品。日本の女性作家として初めての同展参加となった。同展に出品された「作品」「作品1」~「作品7」は、57年頃から行っていた、自作の油絵を池に浸しておき、支持体から剥離した絵具をすりつぶし、ふるいにかけて粒子をそろえて溶剤に浸した絵具を用いる方法で制作され、抑えた色調と重厚なマチエルを持つものであった。ヴェネチア・ビエンナーレ後は鮮やかな色彩が用いられるようになり、75年から86年までカンバス上にテレピン油ないし溶かした絵具を流す技法を取り入れて、画材の性質に委ねる表現を画面に取り込んだ。この頃、江見は「水、火、土、風の四大元素が私の主要なモチーフを形成してきた。今後もそれらを統合したところにあらわれるであろう宇宙的な空間を目指してゆくことになるだろう」(『現代美術家大百科』茨城美術新聞社、1980年)と語っており、形と色によって画面に動きや光が宿る制作を続けた。1991(平成3)年、横浜文化賞受賞。96年3月「江見絹子自選展」(横浜市民ギャラリー)、2004年4月に「江見絹子展」(神奈川県立近代美術館)、10年11月に「江見絹子」展(姫路市立美術館)が開催されており、04年、10年の展覧会図録に詳細な年譜が掲載されている。

木之下晃

没年月日:2015/01/12

読み:きのしたあきら  写真家の木之下晃は1月12日虚血性心不全のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年7月16日、長野県諏訪郡上諏訪町(現、諏訪市上諏訪町)に生まれる。55年長野県諏訪清陵高校卒業。日本福祉大学社会福祉学部卒業後、中日新聞社、博報堂に勤務、広告写真などに携わる。音楽好きで演奏会に通ううちに、勤務地の名古屋で開催される音楽演奏会の記録撮影の仕事を得、それをきっかけに、音楽をめぐる写真の撮影を行うようになる。70年『音と人との対話 音楽家 木之下晃写真集』を自費出版、これにより71年日本写真協会賞新人賞を受賞。73年、フリーランスの写真家となる。 初期は主としてポピュラー音楽の演奏会を対象に、広告写真での経験を生かし、ブレやゆがみなどの効果を駆使し「音の映像化」というテーマを追求したが、80年代にはクラシック音楽を対象に、音楽家の演奏中のポートレイトにとりくむ。その後、オフステージの音楽家たちの肖像や、音楽の歴史をたどる紀行、世界各地のコンサートホールや歌劇場など、音楽をとりまく幅広いテーマに仕事の領域を展開し、音楽写真家として国際的に高い評価を受けた。85年、『世界の音楽家』(全3巻、小学館、1984-85年)により第36回芸術選奨文部大臣賞、2005(平成7)年第55回日本写真協会賞作家賞、07年第18回新日鐡音楽賞特別賞を受賞。 上記以外の主な写真集に『SEIJI OZAWA―小澤征爾の世界』(講談社、1981年)、『巨匠 カラヤン』(朝日新聞社、1992年)、『渡邊暁雄』(音楽之友社、1996年)、『朝比奈隆―長生きこそ、最高の芸術』(新潮社、2002年)、『カルロス・クライバー』(アルファベータ、2004年)、『武満徹を撮る』(小学館、2005年)、『マエストロ 世界の音楽家』(小学館、2006年)、『ヴェルディへの旅』(実業之日本社、2006年)、『MARTHA ARGERICH』(ショパン、2007年)、『石を聞く肖像』(飛鳥新社、2009年)、『最後のマリア・カラス』(響文社、2012年)、『栄光のバーンスタイン』(響文社、2014年)など。 個展での発表も多く、06年には茅野市に代表作104点を寄贈したことを記念して「木之下晃写真展 世界の音楽家」(茅野市美術館)が開催された。

西和夫

没年月日:2015/01/03

読み:にしかずお  建築史家で神奈川大学名誉教授の西和夫は1月3日、東京都内にて死去した。享年76。 1938(昭和13)年7月1日、東京都に生まれる。武蔵高等学校を卒業後、早稲田大学理工学部建築学科に入学。62年に卒業後、東京工業大学大学院に進学して藤岡通夫に師事、67年に同博士課程を「近世日本における建築積算技術の研究」で学位取得修了。同年日本工業大学助教授。77年神奈川大学助教授、78年より2009(平成21)年まで同教授。 近世日本建築史を専門とし、大学院在籍中から大工文書の解読等に基づいて江戸幕府による造営に関わる生産組織の実態を明らかにする論考を精力的に発表した。一方、書院建築における障壁画への着目に始まって、美術史と建築史を架橋する研究も早くから手掛けている。さらに、81年に神奈川大学に日本常民文化研究所が招致・設立されると、その中心的メンバーであった宮田登や網野善彦とも協力し、芸能に関係する建築や絵図にみられる建築などにも研究対象を拡げた。83年、「日本近世建築技術史に関する一連の研究」で日本建築学会賞(論文)受賞。 学位論文をもとにした『江戸建築と本途帳』(鹿島研究所出版会、1974年)や『工匠たちの知恵と工夫』(彰国社、1980年)などで研究成果をわかりやすく語るとともに、『日本建築のかたち』(彰国社、1983年)や『図解古建築入門 日本建築はどう造られているか』(彰国社、1990年)などで日本建築の構造をビジュアルに説いたことは入門者にも大きな助けとなった。『日本建築のかたち』は『What is JAPANESE ARCHITECTURE』(Kodansha International、2012年)として英訳され、海外の人々の日本建築への理解の増進にも貢献している。 研究のもう一つの柱が既に失われた建造物の復原研究で、これはやがて史跡等における建造物の実物大復原として結実した。西が学術的検討を主導した代表的成果としては、足利学校、佐賀城本丸御殿、出島和蘭商館跡などを挙げることができる。 99年より2年間にわたり建築史学会会長、03年より09年まで文化審議会委員を務めたほか、各地で文化財保護指導委員等として、文化遺産の保存と活用、歴史遺産を活かした町づくり等に尽力した。 最晩年は松江城調査研究委員会の委員長として粘り強い調査から天守の建立年を示す祈祷札の発見を経て国宝指定への道筋を付けたが、その答申をわずか4か月後に控えての急逝であった。 編著作は多数に上り、上記以外の主な著書に『わが数寄なる桂離宮』(彰国社、1985年)、『建築史研究の新視点一~三』(中央公論美術出版、1999~2001年)、『海・建築・日本人』(日本放送出版協会、2002年)、『建築史から何が見えるか 日本文化の美と心』(彰国社、2009年)などがある。

三上晴子

没年月日:2015/01/02

読み:みかみせいこ  アーティストで多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース教授の三上晴子は1月2日にがんのため死去した。享年53。 1961(昭和36)年静岡県に生まれる。高校卒業後、上京。カセット・マガジン『TRA』の編集に携わり、アートの評論も執筆。84年から鉄クズ、コンクリート片などの廃棄物を素材にしたオブジェを用いたパフォーマンスを開始。「ナムジュン・パイクをめぐる6人のパフォーマー」(原宿ピテカントロプス)にナム=ジュン・パイク、坂本龍一、細野晴臣、立花ハジメらとともに出演するなど、東京のアートシーンで華やかな存在として注目を集めていたという。翌年5月、サッポロビール恵比寿工場跡で初個展「滅ビノ新造形」を開催、展覧会終了後に『朝日ジャーナル』の連載「筑紫哲也の若者探検 新人類の旗手たち」に取り上げられる。86年、飴屋法水が主宰する劇団「東京グランギニョル」の最終公演「ワルプルギス」で舞台装置を担当。その後も「BAD ART FOR BAD PEOPLE」(東京・飯倉アトランティックビル、1986年)、「Brain Technology」(東京・作家スタジオ、1988年)で、神経や脳を思わせるケーブルやコンピュータの電子基板を使ったオブジェやインスタレーションを発表。その後、ロバート・ロンゴによるキュレーション展への参加を経て、戦争や情報といった生体を超えるネットワークへの関心を募らせ、それまでのモチーフであったジャンクと合体させ、1990(平成2)年にこの時期の集大成となる「Information Weapon」(1:Super Clean Room 横浜・トーヨコ地球環境研究所、2:Media Bombs 東京・アートフォーラム谷中、3:Pulse Beats 東京・P3 art and environment)を開催。91年に渡米、95年にニューヨーク工科大学大学院情報科学研究科コンピュータ・サイエンス専攻を修了、2000年までニューヨークを拠点とし、欧米のギャラリーやミロ美術館(スペイン)、ナント美術館(フランス)などの現代美術館、またトランス・メディアーレ(ベルリン)やDEAF(ロッテルダム)、アルス・エレクトロニカ(リンツ)をはじめとする世界各国のメディアアート・フェスティバルで発表。国内では、92年、NICAF92で池内美術レントゲン藝術研究所のブースで展示。93年、個展「被膜世界:廃棄物処理容器」(ギャラリーNWハウス、Curator’s Eye ’93 vol.3、キュレーター=熊谷伊佐子)、福田美蘭との二人展「ICONOCLASM」(レントゲン藝術研究所)を開催。コンピュータサイエンスを学ぶなかで、不可視の情報と身体の関係へと興味が移行、90年代なかばからは知覚によるインターフェイスを中心としたインタラクティヴな作品として、視線入力による作品「Molecular Informatics: Morphogenic Substance via Eye Tracking」(キャノンアートラボ、1996年)、聴覚と身体内音による作品「存在、皮膜、分断された身体」(NTTインターコミュニケーション・センター常設作品、1997年)、重力を第6の知覚と捉えた作品「gravicells―重力と抵抗」(山口情報芸術センター、2005年)、情報化社会における身体性と欲望を表現した「Desire of Codes―欲望のコード」(山口情報芸術センター、2010年、第16回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞)を発表。2000年に多摩美術大学情報デザイン学科に着任。作品集に『ALL HYBRID』(ペヨトル工房、1990年)、『Jae‐Eun Choi, Seiko Mikami』(都築響一編、京都書院、1990年、Art random 34)、『Seiko Mikami Art works: Molecular Informatics』(Diputacion Provincial De Malaga(スペイン)、2004年)、『gravicells:グラヴィセルズ作品集』(山口情報芸術センター、2004年)、『欲望のコード:Desire of Codes作品集』(NewYork Artist Archives and Books、2011年)などがある。没後、浅草橋のパラボリカ・ビスで「三上晴子と80年代」展が開催され、追悼記事として椹木野衣「追悼・三上晴子―彼女はメディア・アーティストだったか」(ウェブマガジン『ART iT』)などが寄せられた。

中岡吉典

没年月日:2015/01/01

読み:なかおかよしすけ  東邦画廊主中岡吉典は、1月1日、肺炎のため東京都内で死去した。享年87。 1927(昭和2)年1月5日、愛媛県西宇和郡(現、八幡浜市)に生まれる。41年喜須木尋常高等小学校卒業後、47年家業の指物師から中岡製材所を起こす。この頃、叔父が表具店を営む関係から美術への興味が起こり、前川千帆や畦地梅太郎の版画を収集する。51年広島市に材木商を起業するが、57年製紙工場の倒産の波をかぶり廃業し、58年上京、図書販売業へ転身する。59年、版画家の永瀬義郎、画家の山口長男と知り合う。60年永瀬の紹介もあり、ホテルニュージャパン開業にともないホテル内の画廊に勤めるが、2年後に閉廊となり、64年、山口長男と南画廊の志水楠男の指南を受け、東邦画廊を開廊する。場所は千代田区日本橋通2丁目、当初の案内状に「〓島屋新駐車場裏」とあり、小さな建物の2階へ上がると、画廊主自らが言う「日本一小さな画廊」があった。座るお客にはまずお茶、しばらくすると珈琲がでて、中岡は客とひとしきり話しをするのが常だった。扱う作品は大きなミュージアムピースでなく、それを彼は「見せるもの」とし、自分が扱うのは「売るもの」であり、「銀座の画廊とはちがい場所代を乗せない」とよく言っていた。初期には三岸黄太郎の個展を4回開催し、68年5月、難波田龍起の個展を開催、この出会いで画廊の方向性が見え、難波田も定期的に東邦画廊で個展を開催していく。主に扱った作家に建畠覚造、杢田たけを、深尾庄介、吉野辰海、小山田二郎、大沢昌助、山口長男、平賀敬、谷川晃一、豊島弘尚、馬場彬、橋本正司、建畠朔弥らがいる。展覧会の会期は一回が20日間程度、二つ折りのパンフを出し、良く寄稿したのは針生一郎である。針生が推薦したノルウエーの画家ラインハルト・サビエの個展を1994(平成6)年から定期的に開催、外国作家を扱わない中岡にしては異例のことだった。93年春から、中央区京橋2丁目5番地で営業、さらに99年からは京橋3丁目9番地に移転した。

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