本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





長沼守敬

没年月日:1942/07/18

元東京美術学校教授、文部省美術審査委員会委員長沼守敬は、7月18日千葉県館山市の自邸に於て逝去した。享年86歳。安政4年9月23日岩手県に生れ、明治8年在京伊太利亜公使館に雇はれ、同14年渡伊ヴエニス美術学校に入学、エルジ・フエラリ、アントニオ・ダルソツトに就て彫刻術を学び、同18年同校を卒業した。此の間屡々1等賞碑を授与され、又ヴエニス王国高等商業学校に日本語を教授した。同20年帰朝翌21年一時東京美術学校雇、宮内省博物館雇を命ぜられたが間もなく退き同22年第3回内国勧業博覧会事務嘱託或は審査官となつた。此の間明治美術会の創立に参与し、その第1回展覧会に「美人半身」「童子」「肖像」を、第2回展に「肖像」「小女半身」を出品した。同25年明治美術会教場の彫刻科教師となつた。同28年第4回内国勧業博覧会審査官を仰付けられ、自らも「伊太利亜皇帝像」を出品、3等賞を授けられた。同25年山口藩主毛利一家の銅像製作に著手し32年完成した。又30年の明治美術会に「小児半身像」「ガリバルヂ将軍」を出品した。これより前同29年高村光雲の推薦によつて東京美術学校囑託となつたが、30年伊太利亜ヴエニス市設万国美術博覧会の本邦派遣員として渡伊せるため辞した。31年帰朝と共に東京美術学校教授となり、同校に於ける塑像科の基礎を築き、33年退官した。32年には臨時博覧会鑑査官(巴里万国博覧会)を仰付けられ、33年巴里万国博覧会に「老夫」を出品金賞牌を授けられた。同36年第5回内国勧業博覧会審査官、同40年文部省美術審査委員会の設置と共に委員を仰付けられ、第三部員として文部省美術展覧会出品彫刻の審査に当り、以後大正2年に亙つた。此の間、43年には伊太利亜万国博覧会鑑査員を囑託され、又同博覧会出品協会理事として渡伊、同45年帰朝した。斯く吾が彫刻術の発展に寄与する所大であつたが、前述の作品の外、渋沢栄一、山尾庸三、五代友厚、長谷川謹助、ダイバース、ベルツ等の銅像がある。大正3年千葉県館山市に隠棲し閑日月を送つて今日に至つたものである。

伊藤快彦

没年月日:1942/06/16

京都の早い洋画家として知られた若王子の伊藤快彦は6月16日逝去した。享年76。慶応3年7月8日京都に生れ、明治20年2月京都府画学校西洋画科を卒業、のち上京して原田直次郎に学び、爾後明治美術会、関西美術会、その他博覧会等に作品を発表した。関西美術院の幹事或は院長として久しく関西洋画会に尽力するところがあつた。しばらく若翁と号したこともある。

佐藤仁宗

没年月日:1942/06/15

構造社会員佐藤仁宗は6月15日急逝した。享年32。明治44年熊本県に生れ、昨年構造社展に構造賞を獲得第4回文展には「男」を出品して初入選と同時に特選に推され、将来を嘱望されてゐた。逝去と同時に構造社では会友から会員に推挙した。

堀井三友

没年月日:1942/05/31

美術研究所嘱託堀井三友は昨秋来胃癌を病んで静養中のところ5月31日逝去した。享年58。明治18年4月10日富山市に生れ、中学卒業後上京、はじめ英文学に志したが、次いで東洋美術の研究に専念、中川忠順に師事した。昭和5年美術研究所嘱託、同13年には東京高師の授業を囑託された。この間古美術の発見、保護に努め、諸種の論文を発表してゐた。

金子堅太郎

没年月日:1942/05/16

日本美術協会々頭、枢密顧問官従1位大勲位伯爵金子堅太郎は、5月16日相州葉山の恩賜松荘に於て薨去した。享年90。伯は嘉永6年福岡藩士金子清蔵の長男として生れ、明治3年東都に遊学し、同4年選ばれて渡米、ハーバード大学に法律を学び、帰朝後東京大学講師、元老院権大書記官、同17年太政官権大書記を兼ね、憲法草案作成に参与し、総理大臣秘書官、枢密院、貴族院の書記官長、農商務次官等を経て、同31年農商務大臣、同33年司法大臣に歴任した。後枢密顧問官となり、大正8年以降は維新資料編纂会総裁として尽瘁した。美術に理解を有し、明治34年日本美術協会副会頭に就任、大正8年同会々頭に推され今日に至つた。危篤の趣天聴に達するや特旨を以て従1位宣下、並に大勲位菊花大授章を賜つた。

吉田柳外

没年月日:1942/05/15

京都市上京区吉田柳外は京大病院で療養中のところ5月15日逝去した。享年64。岐阜県に生れ、明治27年美術肖像画を専門に創業、同42年京都美術肖像画学校を開設して今日に至つた。

清水真輔

没年月日:1942/05/14

大阪三越美術部長清水真輔は盲腸炎のため5月14日逝去した。享年59。明治17年東京に生れ、同41年早稲田大学商科卒業後三越に入つた。「不断華楼画趣」等の出版物あり、日本画鑑賞会に活躍してゐた。

井上脩

没年月日:1942/05/07

東光会々員井上脩は5月7日死去した。享年42。明治34年10月6日広島県高田郡甲立町に生れ、昭和5年東京美術学校卒業、在学中帝展に初入選、以後帝展、文展、東光会展に作品を発表し昭和13年より東光会会員であつた。

建畠大夢

没年月日:1942/03/22

帝国芸術院会員東京美術学校教授建畠大夢は昨年末より持病の喘息に悩んでいたが、肺気腫を併発し3月22日荒川区の自宅に於て逝去した。享年63。本名弥一郎、明治13年2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生れ、初め医学校に学んだが、間もなく京都美術学校に転じ、つづいて東京美術学校に入学、明治44年卒業した。在学中より文展に出品して存在を明らかにし、連年温和にして多感な優作を発表、次第に名声を挙げた。大正9年美術学校教授、昭和2年帝国美術院会員となり、昭和15年には門下を率ゐて直土会を組総、16年その第1回展を開いて益々精進を重ねていた。昭和17年3月30日特旨を以て位1級を追陞せられ、正4位に叙せられた。なほ俳句、絵画等にも嗜むところがあつた。略年譜明治13年 2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生る明治30年 大阪に出て医学校に学ぶ明治36年 京都市美術学校入学明治40年 東京美術学校入学明治41年 文展「閑静」、文部省買上となる明治42年 文展「ゆく秋」(褒状)明治43年 文展「埃」(3等賞)明治44年 3月彫刻選科卒業、文展「ながれ」(3等賞)大正元年 文展「ねむり」「磯の女」(3等賞)大正2年 文展「おゆのつかれ」大正3年 文展「のぞき」(3等賞)、大正博覧会「こだま」(2等賞)大正4年 文展「夜の深み」「まゝごと」(3等賞)大正5年 文展「絶望」(特選)北村西望、国方林三、池田勇八と共に八ツ手会を組織「山の男」「女の首」を同会展に発表大正6年 文展「子供」「激昂の人」(推薦となる)大正7年 文展「山の蔭から」「あやふき歩み」、結婚す大正8年 帝展審査員、以後毎年審査員となる、帝展「雀の子」「浴後の女」、日暮里にアトリエを建つ、下村観山、川端龍子等と南紀美術会を起す、「伊達巻」「虎」を同会展に出品大正9年 2月東京美術学校教授となる、帝展「地上の讃」大正9年 帝展「煩悶の人」「十八の女」、法隆寺舞楽面を作る、12月北村西望と曠原社を結成大正11年 帝展「破局」「悔悟」、竹内栖鳳像を作る大正12年 「ほたる」「柴田正重氏の首」「膝に吻する女」曠原社展に出品大正13年 帝展「幻想」大正14年 帝展「憩ふ女」、勧業銀行建築装飾を作る大正15年 帝展「陽炎」、聖徳太子奉讃展「腰かけた女」「考へる女」昭和2年 帝国美術院会員となる、帝展「生気」、北軽井沢に南紀美術倶楽部を新築、又楢ノ木山荘を建つ、「魔法使ひの女」「めだか」「花野」了了会展に出品昭和3年 帝展「女の胸像」昭和4年 帝展「若い女」昭和5年 帝展「壷」昭和6年 帝展「福原先生」昭和7年 帝展「感に打たれた女」、「木村静彦氏像」「岡米吉氏像」を作る昭和8年 帝展「H博士」昭和9年 帝展「谷愛之助氏像」、姫井繁次氏像を作る昭和10年 東邦彫塑院顧問となる、「牛の記念碑」を作る昭和11年 改組文展審査主任、「十七の女」出品昭和12年 帝国芸術院会員被仰付、文展「若い男」、「伊藤博文氏像」「本間氏像」「浜口吉兵衛氏像」を作る昭和13年 文展「幸ちゃん」昭和14年 文展「夢」、「藤山雷太氏像」を作る、東邦彫塑院展に「恩師の顔」「女の顔」を出品昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「頬杖」、「喜田君の首」(後に直土会に発表)「通洲事件慰霊碑」「今井五介氏像」を作る、直土会を組織昭和16年 文展「坐せる女」、直土会1回展「井原氏の体」「井原氏の顔」「睦奥宗光」、「天使」(後に直土会展に発表)を作る昭和17年 3月22日没

岡野栄

没年月日:1942/03/21

女子学習院教授岡野栄は3月21日糖尿病のため赤坂区の自宅で逝去した。享年63。明治13年4月7日東京に生れ、白馬会洋画研究所に学び黒田清輝に師事、つづいて東京美術学校洋画選科に入り35年卒業した。明治41年2月女子学習院に奉職、教授となり、34年の久しきに亘つて勤続、正4位勲4等に叙せられた。この間、明治43年には、中沢、山本等7名と共に光風会を創立、爾後同人として作品を発表し、大正14年には宮内省在外研究生として欧州に遊学したことがあつた。

西村雅之

没年月日:1942/03/16

文展無鑑査、正統木彫家協会々員西村雅之は疽膿炎のため3月16日逝去した。享年58。本名は平蔵、明治18年11月神田に生れ、明治45年木彫を林美雲に学び、その没後は高村光雲に師事した。また松岡映丘について大和絵風の彩色を研究するところがあつた。

丸山晩霞

没年月日:1942/03/04

水彩画家山岳画家として著名な大平洋画会員日本水彩画会理事丸山晩霞は、郷里長野県小県郡羽衣荘で静養中のところ3月4日死去した。享年76。本名は健作、18歳の時上京して神田の勤画学舎に学び、一旦帰郷の後彰技堂に入塾、洋画を修業した。吉田博、三宅克己と親交を結び、明治32年満谷、河合、鹿子木等と共に渡米、欧州を廻つて34年帰朝、翌35年には大平洋画会設立に尽力した。40年大下藤次郎等と日本水彩画研究所を設立、44年より再渡欧してアルプスを尋ね、大正3年大正博覧会には「白馬の神苑」を発表し好評であつた。爾後晩年まで製作を続け、各地風景画を描いて次第に南画的傾向も帯びたが、芸術上の活動は衰へた感がある。昭和15年には三笠宮殿下に末松中将を経て南洋風景画を献上し奉つた。略年譜慶応3年 5月3日長野県小県郡丸山平助次男として生る、名健作明治16年 一時児玉果亭に師事明治17年 上京して神田錦町勤画学舎に洋画を学ぶ明治18年 帰郷明治21年 上京、彰技堂入塾明治24年 自活に窮し帰郷明治29年 吉田博と飛騨へ写生旅行明治30年 定津院嘉部祖導師に参禅、居士号「晩霞天秀」をうく明治31年 明治美術会創立10周年記念展に「冬の日中」等十六点出品明治32年 明治美術会展「花野の朝」外水彩画多数出品、三宅克己と親交を結ぶ、10月渡米明治34年 帰朝明治35年 1月大平洋画会1回展に「初冬の朝」「森のもれ日」「野末の流れ」等出品、画室を作り、三宅克己の後任として小諸義塾に図画を教ふ明治36年 大平洋画会2回展「湯尻」其他出品明治37年 藤村の小説「水彩画家」新小説出づ明治38年 上京、駒込に仮寓明治39年 木下藤次郎と水彩画講習所開設明治40年 3月東京勧業博覧会「麦焼く夕」「夏の光」、5月住宅新築、十月木下藤次郎、河合新蔵、真野紀太郎等と日本水彩画会研究所設立、この年日本橋松声堂より絵葉書集刊行明治41年 1月小笠原島に写生旅行す、太平洋画展「薄日の妙義山」、文展第2回「真夏の夕」明治42年 太平洋画展「崖の上から」「初夏」明治43年 太平洋画展「森」明治44年 3月第2次外遊出立明治45年 7月帰朝、帝国ホテルに滞欧作品展開催(出品258点)大正2年 4月日本水彩画会改組大正3年 大正博覧会「白馬の神苑」大正12年 本籍を本郷に移す、平井武雄と共に日本水彩画会員作品を携へ中支、印度各地に巡回展開催大正14年 水彩画会展に中支、印度における作品を特陳昭和7年 日本水彩画会有志と共に国産水絵用材研究会結成昭和11年 羽衣荘落成昭和15年 10月23日三笠宮殿下に南洋風景画献上昭和17年 3月4日没

山村耕花

没年月日:1942/01/25

日本美術院同人山村耕花は昨年11月以来腎臓炎を病み、聖路加病院に加療中のところ1月25日逝去した。享年58。本名は豊成、明治18年12月品川の名刹不動様の家に生れ、初め尾形月耕に学び、後東京美術学校選科に入つて明治40年卒業した。同年第1回文展に「茶毘」入選、同第4回には「大宮人」を出して褒状をうけた。つづいて「お国と山左衛門」(7回)、「お杉お玉」(8回)、「春」(9回)等を発表して漸く世に知られるに至つた。大正5年第3回院展に「寂光の都」を出品、直に同人となり、以後連年出品を怠らず、「八朔」(4回)、「重陽」(5回)、「江南七趣」(8回)、「洛陽橋」(10回)、「向日葵」(11回)、「婦女愛禽図」(12回)、「軍茶利明王」(13回)、「腑分」(14回)、「菊酒」(16回)、「謡曲幻想-隅田川、田村」(17回)等の知名の作があり、そのほか米国博覧会出品の「梨花黄鳥」聖徳太子奉讃展出品の「ウンスン哥留多」改組第1回文展出品の「大威徳明王」等好評の作であつた。支那事変勃発するや「大地悠々」(13年)等の戦争画を発表、昭和15年には従軍して南支戦線を尋ね、陸軍省より各宮家へ献上した「南支汕頭上空より」「南支虎門動次島」等を描いた。同年紀元二千六百年を奉祝して画いた「皇紀萌芽」が最後の出品作となつた。なほ院展以外に嘗て烏合会、珊瑚会等に入つて作品を発表したこともあり、演劇の舞台装置等に携つたこともあつた。浮世絵、版画、人形、蒔絵、陶器などの蒐集鑑識についても一家をなしてゐた。

吉田白嶺

没年月日:1942/01/21

日本美術院再興第1回以来の彫刻部同人文展無鑑査吉田白嶺は心臓性喘息のため1月21日日暮里の自宅で逝去した。享年72。明治4年12月19日本所区に生れ、本名は利兵衛、最初商業に従事したが、弟芳明が彫刻家として名を成したのに発奮し、明治34年以来志を立てて独学、大いに斯業を研鑽、或は日本彫刻会に入り、又は平櫛田中内藤伸等と研究社を結び、遂に一家をなすに至つた。文展第3回に「念」を出品、同第7回に「寂静」を出して褒状に推され、大正3年再興院展第1回に「楽女」を発表、直に彫刻部同人に推挙された。以後今日まで院展に活躍、「清韻」(第7回)、「土部臣」(第14回)、「異教徒」(第20回)、「西行」(第21回)、「迦羅仙」(第23回)、「蓮月尼」(第25回)等は世に記憶されるところである。又好んで?毛の類を刻み独自の刀法を示した。

神坂雪佳

没年月日:1942/01/04

京都の工芸図案家として知られた神坂雪佳は1月4日嵯峨野の自宅で逝去した。享年77。本名は吉隆、慶応2年1月12日京都粟田の士族として生れた。明治14年鈴木瑞彦について四条派の絵を学んだが、23年岸光景に師事、各種工芸意匠図案及工芸製作の組織を研究し、傍ら光琳派の画風を修学した。32年京都市選任技師、34年にはグラスゴー博覧会に際して渡欧、38年京都市美術工芸学校教諭、40年には佳都美会を創立して工芸図案界に大きい功績を残した。爾後各種の工芸展覧会に審査員として活躍、大正11年には敘従6位、昭和12年には仏国よりオフイシエーカンボジユ勲3等章を贈られ、昭和13年から京都美術館の評議員であつた。この間諸種の工芸図案を製作、著書に「蝶千種」「海路」等がある。

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