猪熊弦一郎
新制作派協会創立会員の洋画家猪熊弦一郎は、5月17日東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。国際的な抽象画家として知られた猪熊は、明治35(1902)年12月14日香川県高松市に生まれた。本名玄一郎。大正10年香川県立丸亀中学校を卒業後上京、本郷洋画研究所へ通い、翌年東京美術学校西洋画科に入学した。美校の同期生には、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、山口長男らがいた。一時、病を得て休学したが、同14年から藤島武二教室に学ぶ。翌15年片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構え、同年の第7回帝展に「婦人像」で初入選したが、この年再び健康を害したため東京美術学校は中退した。昭和2年、美校の同期生岡田、荻須らと上杜会を結成、また、帝展、光風会展に制作発表を行い、同4年第16回光風会展で光風賞を、第10回帝展に「座像」で特選をそれぞれ受けた。同6年光風会会員、同8年第14回帝展に「画家」で再び特選を受ける。同10年新文展発足に反対する有志と第二部会を組織し第1回展に「海と女」を発表したが、翌11年第二部会の新文展参加に反対し同会を脱退、光風会も退会し、小磯、佐藤敬、中西利雄ら同志と新制作派協会を結成し、第1回展に「二人」「馬と裸婦」を出品した。同13年渡仏し、同15年までの滞在の間、サロン・デザンデパンダン展に出品、また、この間ニースにアンリ・マチスを訪ねその指導を受け、藤田嗣治とアトリエを共にしたりした。同15年藤田、荻須らと同船し帰国、第5回新制作派協会展に「黄色い葉」「S氏の像」などの滞欧作を発表、以後、半具象によるモダニズム絵画の旗手として画壇をリードするに至る。一方、同15年には中国文化親善のため佐藤敬と南京方面に派遣され、同17年に陸軍省派遣画家となり、寺内萬次郎とフィリピン戦線に赴いた。戦後は同21年の第10回展から新制作派協会展に出品した他、美術団体連合展に毎回出品、日本国際美術展、現代日本美術展(第6回展に「ENTRANCE A」で国立近代美術館賞)にも第1回から出品した。同26年慶応義塾大学学生ホール及び名古屋丸栄ホテルホールの壁画制作で、第2回毎日美術賞を受賞する。また、同26年の第1回サンパウロ・ビエンナーレ展、翌27年米国ピッツバーグ市のカーネギー美術館における国際美術展に出品したのをはじめ、以後しばしば海外の国際展に参加した。同30年パリに向う途次立ち寄ったニューヨークに魅せられ、同地にアトリエを構え、翌年からニューヨーク・ウィラード画廊の所属画家となる。以後20年間ニューヨークを足場に制作活動を展開、この間に半具象のモダニズム絵画から幾何学的構成による抽象へと転じ、明るい色彩と単純な点や線による明快な構成に独自の作風をうち立て、戦後を代表する抽象作家の一人となった。同48年脳血せんを患ったため、同50年にニューヨークのアトリエを閉じ、翌年からは冬期をハワイで静養につとめた。夫人を亡くしてからの晩年は「顔」のシリーズに意欲を燃やし、人間の表情を曼陀羅風の構成で描いていた。戦後の作品に「猫と住む人」(第1回日本国際美術展)、「WALL STREET」(同41年、新しい絵画彫刻展、ニューヨーク他)、などがある他、JR上野駅コンコース壁画「自由」、東京会館ロビー壁画(モザイク)及び電灯装飾をはじめ数多くの公共空間の仕事にも従事し、また「小説新潮」の表紙絵でも親しまれた。なお、没後平成5年6月11日東京・青山葬儀所において、脇田和を葬儀委員長に新制作協会葬が執り行われた。
略年譜
1902 12月14日 猪熊八太郎、マサエの長男として高松市に生まれる。本名玄一郎。
1921 3月:香川県立丸亀中学校(現丸亀高等学校)を卒業、上京し、本郷洋画研究所に通う。
1922 4月:東京美術学校西洋画科に入学。(同期生に牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、等)まもなく病気のため休学し帰郷。
1924 上京し、美校の1年下のクラスに再入学(2年生)。代々木の駒場に住む。
1925 4月:藤島教室において藤島武二に師事。
1926 5月:片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構える。
10月:第7回帝展に「婦人像」初入選。
この年再び健康を害し東京美術学校西洋画科を中退。
1927 大分市のきむら画廊で最初の個展を開く。
3月:岡田謙三、荻須高徳等と「上杜会」を結成。
10月:第8回帝展「眠れる女」入選。
1928 10月:第9回帝展に「赤き服の少女」入選。
1929 2月:光風会第16回展で光風賞を受賞。
10月:第10回帝展に「座像」特選。
1930 2月:光風会会友となる。この頃より「弦一郎」と号す。
10月:第11回帝展に無鑑査として「コンポジション」を出品。
1931 2月:光風会会員となる。
7月:田園調布にアトリエを移す。
10月:第12回帝展に「二人」入選。
1932 10月:第13回帝展に「画室」入選。
1933 10月:第14回帝展に「画室」特選。
以降帝展無鑑査となる。
1934 10月:第15回帝展に無鑑査として「ピアノの前」を出品。
1935 7月:新帝展に反対し不出品の盟を結んだ旧帝展第2部無鑑査の有志と第二部会を組織する。
10月:第二部会第1回展に「海と女」を出品。
1936 7月:第二部会の新文展参加に反対して同会を脱退、また光風会からも退会する。同月25日、志を同じくする、小磯良平、佐藤敬らと新制作派協会を結成する。その後脇田和、鈴木誠も加盟する。
11月:第1回新制作派協会展を開く。「二人」「馬と裸婦」を出品。
1937 12月:第2回新制作派協会展に「昼」「黄昏」「夜」を出品。
1938 5月:靖国丸で渡欧、主としてフランスに滞在し、イタリア、スイスなどに旅行する。
滞欧中にサロン・デザンデパンダンに2回出品。また、ニースにアンリ・マティスを訪ね指導・助言を受ける。
1939 藤田嗣治と共にアトリエを構えるなど渡仏中の日本人画家と交友。「パークの子供達」「葉をくわえた女」「ホテルクロマニヨン」などの作品を描く。戦争避難のため藤田嗣治夫妻とドルドーニュ州レゼジーに疎開する。
1940 パリ空襲のさなか「マドモアゼルM」を描く。この作品はフランス滞在最後の作品となる。
6月:欧州大戦の難を避けて白山丸で藤田嗣治、荻須高徳らと共にマルセイユを出発。アフリカを経て8月横浜着。
9月:第5回新制作派協会展に滞欧作品「黄色い葉」「S氏の像」「白い鳩」「絹の首巻=葉を持つ女」(宮城県美術館蔵)を出品。
中国文化視察のため佐藤敬と南京方面に派遣される。
10月:紀元2600年奉祝美術展覧会に「女と木の葉」を出品。
1941 9月:第6回新制作派協会展に「長江埠の子供達」「ジプシーの子供達」「ルロットのある風景」「二人」を出品。
1942 3月:陸軍省派遣画家の一人に選ばれる。ニューグランドで朝日新聞社主催の南方派遣画家壮行会に出席。
フィリッピン戦線に寺内萬治郎と共に取材のため派遣される。
9月:第7回新制作派協会展に「B17の残骸」「飛行機の残骸」「戦争の後(コレヒドール)」「マニラ港」を出品。
1943 6月:新戦場従軍画家26名の中に選ばれ、小磯良平とビルマに派遣される。
8月:第8回新制作派協会展に「篭を頭にのせる女」「椅子によれる女1」「椅子によれる女2」「南の子供」を出品。
1944 3月:東京都美術館で開かれた陸軍美術展に「○○方面鉄道隊」(泰面鉄道建設)「肉迫」を出品。
腎臓を煩い千葉医科大学病院に入院、手術を受ける。その後、神奈川県津久井郡吉野町に疎開する。藤田嗣治、荻須高徳、佐藤敬、中西利雄、脇田和らも同地に疎開する。
1946 6月:日動画廊で開かれた新制作派協会会員展に出品。
9月:第10回新制作派協会展に「二人」「N氏の像」「初秋」「山と樹」「裸婦」「楽器と女」「緑陰」を出品。
1947 6月:第1回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に出品。
田園調布美術研究所を開設する。(昭和30年3月閉鎖)
9月:第11回新制作派協会展に「二人」「立てるダンスーズ」「窓」「丸い顔の娘」「扇を持つ女」を出品。
1948 9月:第12回新制作派協会展に「正面裸婦」「窓と裸婦」「緑衣」「横たはる裸婦」「臥裸婦」を出品。
1949 9月:第13回新制作派協会展に「コレクショナーK氏の像」「赤い服と猫」「黒い鳥と海」「箱の中の小猫」「青い服」「皿の上の猫」を出品。また建築部に出品した「敷物」が入選。
1950 1月:現代美術自選代表作15人展(読売新聞社主催)に「赤い上着」(香川県文化会館蔵)「葉をくわえた女」(同)「娘と葉」「箱の中の小猫」「婦人と猫」を出品。
9月:第14回新制作派協会展に「バレリーナ夢想」「六つの顔」「絵を描くN氏」を出品。
イサム・ノグチが来日、親交を結ぶ。
昭和24年から昭和25年にかけて名古屋丸栄ホテルにおいて大ホールの壁画「愛の誕生」を制作。
1951 1月:慶応義塾大学学生ホール壁画、名古屋丸栄ホテルホール壁画に対して第2回(昭和25年度)毎日美術賞を贈られる。
9月:第15回新制作協会展に「立てる群像」「座せる群像」を出品。
10月:第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。1951年秀作美術展(朝日新聞社主催)に「座せる群像」を出品。
12月:津田山商工省技術研究所において上野駅中央ホールの壁画「自由」を制作、完成す。12月27日除幕式。
1952 5月:サロン・ド・メに「猫と二人の子供」「子供と猫」「坐れる二人」を出品。
5月:第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「猫と住む人」を出品。
9月:第16回新制作協会展に「猫によせる歌」を出品。また、建築部に家具デザイン「寝椅子」を出品。アメリカ、ピッツバーク市のカーネギー美術館における国際美術展に「猫と花」を出品。
1953 5月:第2回日本国際美術展に「からす」を出品。
東京八重洲口に壁彫を制作。
9月:第17回新制作協会展に「人と猫No.1」「人と猫No.2」「猫と鳥」「魚と猫」「鳥と猫」「猫達」「子供・猫・魚」を出品。
また建築部に「サイドテーブル」「テーブル」「椅子」「アケサイドテーブル」を出品。
1954 5月:第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「鳥と遊ぶ子供達」を出品。(5/4~6/12)
6月:ブリヂストン美術館において近作展を開く。「猫達C」「鳥・猫・子供・魚」「二匹の猫B」等を出品。
9月:第18回新制作協会展に「鳥・人・魚」「四匹の猫」を出品。
1955 5月:ニューヨークのブルックリン美術館における第18回国際水彩画ビエンナーレに出品。
5月:第3回日本国際美術展に「馬と道化」を出品。
10月:勉強のためパリに向う途中に立ち寄ったニューヨークの街に惹かれ、以来20年間同市にアトリエを構え創作活動を続ける。ピッツバーグ美術展に出品。
1956 4月:ニューヨークのウィラード画廊において新作の個展(第1回)(4/3~28)を開き「埴輪」等を出品。以来ウィラード画廊の所属作家となる。
5月:ボストンのコルドヴァ美術館において個展(5/13~6/19)を開く。アメリカ水彩画展に出品。ニューヨーク・リンカンセンターのジャパントレードセンターで開かれたジャパン・インフルエンス・イン・モダン・ハウス・デザイン展に出品。
夏:メキシコを旅行する。
1957 7月:現代の美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「コレクショナーK氏」(1949年作)を出品。
8月:ヴェネズエラのカラカスで、11月プエルトリコのデゴ・ディボギャラリーで個展を開く。ニューヨークにおいて、日米協会運営委員を帰国するまで続ける。また、ニューヨークの日本総領事館の顧問(文化交流)、日本貿易振興会(JETRO)の顧問(文化交流係)を委嘱される。
1958 ボストン近代美術館におけるニッポニズム展(現代日本作家展)、シンシナティ美術館におけるアメリカの2世紀展、ピッツバーグ国際美術展にそれぞれ出品。
香川県庁舎(丹下健三設計)に四面の陶画、ニューヨーク高島屋に壁画、日本航空ニューヨーク支店に室内装飾(金属による噴水)を制作する。
1959 1月:東京国立近代美術館における戦後の秀作展に「コレクショナーK氏」を出品。
1月:インディアナポリスのジョン・ヘレン美術館の現代アメリカ水彩画展、ブルックリン美術館における国際ビエンナーレに出品。
9月:第5回サンパウロ・ビエンナーレに「極地設立」「極」等、7点を出品。
フィラデルフィア美術館においてB.D.Bernstein夫妻のコレクションによる猪熊弦一郎展を開く。
1960 日米親交100年祭のカタログをデザインする。
12月:エール大学のアートギャラリー展に出品。
1961 5月:第6回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「太陽の環境」を出品。
第42回ピッツバーグ国際美術展に出品。ニューヨークギャラリー展に出品。
9月:第25回新制作協会展に「作品(赤)」「作品(茶)」を出品。
1962 10月:メアリー・ワシントン大学展に出品し賞を受ける。
1963 5月:第7回日本国際美術展に「無重力」を出品。
10月:メアリー・ワシントン大学展で前年の受賞を記念し、イノクマルームが設けられ、「御神楽」等15点を特別出品。
1964 ニューヨークにおいて朝日生命ビルにモザイク壁画「愉快な散歩」を制作。
5月:第6回現代日本美術展に「ENTRANCE-A」(国立近代美術館賞受賞、東京国立近代美術館蔵)「ENTRANCE-B」(神奈川県近代美術館蔵)を出品。
グッゲンハイム美術館に作品「UN TITLED」(1963~64年作)が収蔵される。
10月:第43回ピッツバーグ国際美術展に「BIRTH OF GRAY」(1962年作)を出品。
1965 4月:サンフランシスコとニューヨーク近代美術館主催の新しい絵画彫刻展(1966年にかけて巡回展を開く)に「WALL STREET」200号(現在サンフランシスコ美術館蔵)を出品。
5月:10年ぶりに帰国する。
5月:第8回日本国際美術館に「都市計画」を出品。
10月:東京の国立近代美術館における在外日本作家展に「Confusion and Order」(東京国立近代美術館蔵)「夜祭」を出品。
1966 3月:ニューヨークに帰る。
5月:第7回現代日本美術展に「都市概念」「都市配分」を出品。
この年に開場した新帝国劇場(谷口吉郎設計)のロビーにステンド・グラス「律動」を制作。ほかに彫刻的オブジェ「熨」及びライティングのデザインを行う。また、大阪のアメリカンビル(吉村順三設計)にも二つのオブジェ(噴水彫刻・壁画彫刻)を制作。
第1回ジャパン・アートフェスティバルに出品。ニューヨーク近代美術館に作品「SUB WAY」(1966年作)が収蔵される。
9月:第30回新制作協会展に「PARAD(A)」等を出品。
1967 5月:第9回日本国際美術展に「桃色の地図」を出品。
9月:第31回新制作協会展に「BLUE CITY」を出品。
10月:第44回ピッツバーグ国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。
ニューヨーク、チェスマンハッタン銀行に作品「歌舞伎No.2」(1958年作)「CITY PLANNING-E」(1964年作)、「CITY COMPOSITION」(1966年作)が収蔵される。
1968 5月:第8回現代日本国際美術展に「HIGHWAY GREEN」を出品。
1969 3月:帰国する。
5月:猪熊弦一郎展(毎日新聞社主催、毎日美術賞の受賞者を対象とした個展)を東京高島屋で開く。(5/27~6/1)
9月:第33回新制作協会展に「驚くべき風景B」を出品。
1970 2月:文化庁優秀作品買上として「驚くべき風景B」が買上げられる。(東京国立近代美術館蔵)
12月:大阪万国博美術館に招待出品する。
1971 2月:フィラデルフィア・ミューゼアム・オヴ・シビックセンターで開かれたジャパン・アート・フェスティバルで「猪熊弦一郎の芸術」を紹介される。
5月:帰国(第3回目)する。
8月:シルクスクリーン展をムカイ・ギャラリーで開く。
東京会館のロビー壁画(モザイク)及び、電灯装飾を制作する。
1972 7月:小田急ハルク画廊で開かれた新制作協会スペースデザイン部グループ展に「AIR OF NEW YORK」を出品。
10月:グッゲンハイム美術館に作品「LANDSCAPE AZ」が収蔵される。
1973 東京国立近代美術館(1/5~2/17)及び、京都国立近代美術館(9/24~11/14)に開かれたアメリカの日本作家展に「風景CX」(京都国立近代美術館蔵)等を出品。
グッゲンハイム美術館の「20年間のアメリカ作家展」に出品。
10月:日本に帰る。
11月:ニューヨークに帰るにあたり新制作協会の会員と送別会を開いた席上、脳血栓により倒れる。
1974 9月:第38回新制作協会展に「二つの岸A(黄)」等を出品。
1975 5月:健康を害し、ニューヨークでの活動が困難となったので、アトリエを閉じるためニューヨークへ赴く。
9月:ニューヨークを離れ、ハワイで静養する。
9月:第39回新制作協会展に「LANDSCAPE-D」「Landscape E」を出品。
1976 9月:第40回新制作協会展に「RAINBOW Z1」「RAINBOW Z2」を出品。
昭和51年の冬から避寒のためハワイで静養をする。
1977 9月:第41回新制作協会展に「角と丸BX」「角と丸CW」を出品。
1978 9月:第42回新制作協会展に「丸角都市」「地図でない地図」を出品。
1979 3月:東京国立近代美術館の評議員となる。
4月:第1回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図でない地図」を出品。
6月:箱根の彫刻の美術館にモザイクによる大壁画(音の世界=10m×5m)を制作。
6月21日、胃潰瘍のため東京女子医大で手術を受ける。
9月:第43回新制作協会展に「地図の中の日曜日」「花嫁のスケジュール」を出品。
1980 3月:第2回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「地図の中の日曜日」を出品。
9月:第44回新制作協会展に「絵の中に住む絵」(香川県文化会館蔵)「透明なる都市」を出品。
11月:勲三等瑞宝章を受章。
1981 3月:第3回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「絵の中の絵」を出品。
9月:第45回新制作協会展に「宇宙は機械の運動場No.1」「宇宙は機械の運動場No.2」を出品。
9月:朝日生命ギャラリーで開かれた、現代日本絵画の流れ展に出品。(ポーランドに巡回)
1982 2月:ホノルルのアカデミー・オブ・アートにおいて個展を開く。(2/5~3/7)
3月:第4回日本美術秀作展(読売新聞社主催)に「観客のいないサーカスB」を出品。
9月:香川県文化会館において回顧展を開く。第45回新制作協会展に出品。
1983 4月:第5回日本秀作美術展に「エネルギッシュな対話」を出品。
9月:第47回新制作展に「星からの手紙ラブNo.1」「星からの手紙ラブNo.2」を出品。
1984 6月:第6回日本秀作美術展に「宵の遊詠都市」を出品。
9月:第48回新制作展に「遊泳する窓」「宇宙胚胎」を出品。
1985 6月:第7回日本秀作美術展に「宇宙胚胎」を出品。
9月:第49回新制作展に「窓と星座」「形の対話」を出品。
1986 5月:第8回日本秀作美術展に「形の対話」を出品。
9月:第50回新制作展に「通信衛星」「銀河旅行」を出品。
1987 5月:第9回日本秀作美術展に「銀河旅行」を出品。
7月:和光ホールで小説新潮の表紙絵原画展を開く。(18日~25日)
9月:第51回新制作展に「太陽は待って居る」「原始鳥と機械」を出品。パリ・サントル・ジョルジュ・ポンピドゥーで行われた前衛の日本展に出品。
10月:丸亀市が市制90周年事業として猪熊弦一郎美術館の建設を発表。ギャラリーミキモトで個展を開く。(30日~11月10日)香川県立丸亀高等学校図書館壁画「風車と太陽」を制作。
1988 1月:妻文子死去。
6月:第10回日本秀作美術展に「太陽は待って居る」を出品。
9月:香川県県民ホールの壁画「21世紀に贈るメッセージ」緞帳「太陽と月の住むところ」を制作。香川の置県百年を記念して香川県へ作品100点を寄贈。第52回新制作展に「太陽と原始鳥」「ポートレイトの会話」を出品。
10月:地下鉄半蔵門線三越前駅のホーム壁画に、壁画「創造の街」36面を制作。版画集「惑星通信88」を制作。
11月:3日香川県文化功労者として香川県より表彰される。
1989 3月:パリ・グラン・パレ美術館で開催されたSAGA89展に「惑星通信88」を出品。
6月:第11回日本秀作美術展(読売新聞社主催)に「顔(FACES)10」を出品。
9月:第53回新制作展に「三つの言葉」「三つのヴィーナス」を出品。
1990 6月:第12回日本秀作美術展に「二つのヴィーナス」を出品。
9月:第54回新制作展に「鳥達とヴィーナス」「鳥達の日記帳」を出品。
1991 3月:25日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ゲートプラザ壁画「創造の広場」除幕式、美術館定礎式。丸亀市名誉市民証を授与される。
5月:香川県多度津町町民会館ホール緞帳「明日に生きる」の原画制作。
6月:第13回日本秀作美術展に「鳥達の日記帳」を出品。
第55回新制作展に「顔・犬・鳥」を出品。
11月:22日丸亀市猪熊弦一郎現代美術館が落成する。開館記念猪熊弦一郎展を開催、60点出品。
12月:20日第1回よんでん芸術文化賞を受賞する。
日本アイ・ビー・エム本社ビルに壁画「極点」を制作。
1992 3月:横浜パシフィコの第1回NICAF(国際コンテンポラリーアートフェア)に出品。
5月:所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する旨の文章を認める。以降、順次丸亀市猪熊弦一郎美術館に搬入。
6月:第14回日本秀作美術展に「顔・犬・鳥」を出品。
9月:ギャルリーMMGにて猪熊弦一郎モノタイプ展開催。第56回新制作展に「顔達の祭日」を出品。
11月:猪熊弦一郎画集「FACES」刊行。卆寿記念猪熊弦一郎リトグラフィ集「顔ファミリー」発行。
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて猪熊弦一郎卆寿記念心友イサムノグチとともに展を開催、25点出品。
1993 1月:祝90祭猪熊弦一郎展に対して第34回毎日芸術賞を授けられる。
5月:17日逝去、90歳。
6月:第15回日本秀作美術展に「ロボット・顔・犬」を出品。
9月:川崎市第三庁舎市民ホール壁画「ロボット誕生」落成。
第57回新制作展に遺作9点が出品される。(本年譜は「猪熊弦一郎遺作展」-丸亀市猪熊弦一郎現代美術館-図録所収年譜によった。)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「猪熊弦一郎」『日本美術年鑑』平成6年版(321-326頁)
例)「猪熊弦一郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10454.html(閲覧日 2024-11-11)
以下のデータベースにも「猪熊弦一郎」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1936年03月 オリンピツク芸術競技参加
- 1936年07月 第二部会六会員脱退
- 1936年07月 新制作派協会結成
- 1950年11月 毎日美術賞第二回受賞者決る
- 1951年08月 ブラジル国際美術展出品作の内示会
- 1951年12月 上野駅に大壁画
- 1953年09月 日本流行色協会発足
- 1940年08月 荻須高徳等仏蘭西より帰朝
- 1942年11月 竹頭会結成
- 1946年04月 火の会結成
- 1949年01月 西洋名画横領事件
- 1957年04月 米国に開催の日本水彩画展
- 1958年12月 サンパウロビエンナーレ国際美術展(5回)出品作家決定
- 1970年01月 文化庁買上げ作品
- 1981年10月 上野駅の大壁画保存決定
- 1991年07月 近現代作家の個人美術館開設あいつぐ
- 1993年01月 毎日芸術賞決定
- 2008年08月 西洋美術振興財団賞受賞者決定
- ■物故者記事
- 田中田鶴子 中川幸夫 田淵安一 荻太郎 赤穴宏 脇田和 風間完 相原求一朗 村井正誠 小堀四郎 牛島憲之 加藤金一郎 和田徹 伊藤継郎 橋本兵藏 横溝洋 岡田謙三 山口長男 伊勢正義 荻須高徳 山東洋 小磯良平 長谷川仁 佐藤敬 山口文象 藤岡一 三田康 古茂田守介 内田巌
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