佐藤敬

没年月日:1978/05/08
分野:, (洋)

洋画家、新制作協会創立会員の佐藤敬は、母親の病気見舞のため帰国中の5月8日別府市の自宅で死去した。享年71。明治39年10月28日大分県大分郡に生まれ、大正14年県立大分中学校卒業後上京、この年一時川端画学校洋画部で石膏デッサンを学び、翌年東京美術学校西洋画科に入学。在学中の昭和4年第10回帝展に「若き男の像」が初入選、翌年の第11回展に「本を持てる少女」が入選し、同年卒業(翌年卒業)の準備を一切整えて渡仏した。同6年サロン・ドートンヌに「首巻をせる婦人」が入選、帝展にも出品を続け翌7年の第13回展では「レ・クルン(道化者)」で特選を受けた。滞仏中は鳥海青児海老原喜之助らと交友し同9年帰国した。同10年帝展改組にともなう第二部会の設立に参加、同展に「海辺裸婦」を出品し文化賞を受賞、新会員に推挙された。同年滞欧作品展を開催、また、声楽家佐藤美子と結婚した。翌11年文展復帰に反対する猪熊弦一郎脇田和小磯良平ら同志と新制作派協会を創立、同年の第1回展に「独唱」「制作」を出品した。以後同展に出品を続けた他、戦後は同23年から26年まで美術団体連合展に、26、27、30年には秀作美術展に出品、同27年にはカーネギー国際美術展(ピッツバーグ)に「栗とマリモ」、第1回日本国際美術展に「裸婦」「森」を出品した。この間、同27年に再渡仏してパリに居住、以後パリを拠点に制作し、画風にも具象から抽象へ転じ、当時ドイツにいた脇田和、ニューヨークの猪熊弦一郎、パリの佐藤として知られた。同35年第30回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展に「凝結土(1958)」などを出品、翌36年第6回日本国際美術展に出品した「内部の皮」でK氏賞を受賞した。また、欧米各地でしばしば個展を開催、同40年、51年、53年に一時帰国した。同51年勲三等に叙され瑞宝章を受け、同年パリのジャック・マッソール画廊で回顧展が開催された。

◆年譜
明治39年(1906) 10月28日大分県大分郡に生まれる。父通、母祥子。
大正5年(1916) この頃から絵を描くことに興味を示す。
大正8年(1919) 3月、別府北尋常高等小学校を卒業。4月、大分県立大分中学校に入学。図画教師山下鉄之輔に指導を受ける。
大正10年(1921) 山下鉄之輔の影響により、油彩を描くようになる。
大正11年(1922) 父に美術学校志望を打ち明けるが、強く反対され、法律家になるようにすすめられる。この年は留年する。のち美術学校に進むことを許可される。
大正14年(1925) 3月、大分県立大分中学校を卒業。上京し、川端画学校洋画部で一時石膏デッサンを学ぶ。夏、山下鉄之輔と耶麻渓(大分県下毛郡)に写生に行き、宇佐市から国東半島を廻って、はじめて富貴寺を訪ねる。
大正15年昭和元年(1926) 4月、東京美術学校西洋画科本科に入学。
昭和4年(1929) 10月、第10回帝展に「若き男の像」が初入選する。
昭和5年(1930) 10月、第11回帝展「本を持てる少女」。10月25日、門司港出帆の日本郵船諏訪丸で、美術研究のためフランスへ出発する。11月はじめリュ・ド・ヴァンブ(Rue de Vanves)34番地に住む。やがてリュ・アルマン・モアザン(Rue Armand Moisant)6番地のアトリエに転居。
昭和6年(1931) 3月、東京美術学校西洋画科本科を卒業。サロン・ドートンヌに「首巻をせる婦人」が入選。10月、第12回帝展「窓際」。
昭和7年(1932) サロン・ドートンヌ「泉」、「猫と女」。10月、第13回帝展「レ・クルン(道化者)」、(特選)
昭和8年 10月、第14回帝展「ル・ルツール(帰途)」。この頃、リュ・フランソア・ギベール(Rue Francois Guibert)のアトリエに転居。
昭和9年(1934) 10月第15回帝展「西班牙婦人(スペイン婦人)」。この年帰国する。
昭和10年(1935) 3月、東京府美術館開館10周年記念現代総合美術展に「レ・クルン(道化者)」を出品。帝展改組にともない7月の第二部会の設立に参加する。6月16日、木下郁夫妻の媒酌で、佐藤美子と結婚式をあげる。6月、佐藤敬滞欧作品展「レ・クルン」「ルクサンブルグの噴水」「道化役者」他。10月、第二部会展「海辺裸婦」を出品、文化賞を受賞し、新会員に推挙される。
昭和11年(1936) 1月、日本水彩画会展に出品。4月、第二部会新進作家17人によるミニオン展覧会に出品。7月猪熊弦一郎脇田和中西利雄等と新制作派協会を創立する。11月、新制作派協会第1回展「独唱」「制作」。この年、横浜市鶴見区に住む。
昭和12年(1937) 12月、新制作派協会第2回展「水の姿勢」「裸婦」。
昭和13年(1938) 11月、新制作派協会第2回展「人物」「雪」「月」。
昭和14年(1939) 5月、新制作派協会満3年結成記念展(三昧堂)「人物」。11月、新制作派協会第4回展「椅子に寄る人物」「水災に就いて」「人物」。
昭和15年(1940) 4月、佐藤敬近作展「座せる裸婦」「黒い帽子」等。9月、新制作派協会第5回展「暁」。10月、紀元二千六百年奉祝美術展「三人の家族」。
昭和16年(1941) 5月、中支派遣軍報道部の報道班員として猪熊弦一郎とともに従軍、3ヶ月後帰国する。9月、新制作派協会第6回展「安陸戦趾」「安陸前戦」「黄色い鳥」「難民区にて」。
昭和17年(1942) 海軍によって、フィリピン、クラークフィールドの海軍爆撃機の攻撃を記録画として制作することを命じられる。4月末、海軍の飛行艇でフィリピンに向う。セブを経てミンダナオ島、一週間後にマニラに到着。9月、新制作派協会第7回展「南方飛行」「コレビドール戦跡A」他。
昭和18年(1943) 5月、新制作派協会会員春季展「少年航空兵」。9月、新制作派協会第8回展「火の玉」「沐浴」「白い衣」「焔」「蝉の羽(バリンタワック)」「印度少女」。
昭和19年(1944) 神奈川県津久井郡吉野村に疎開する。
昭和21年(1946) 9月、新制作派協会第10回展「草上」「読書」「肖像A」「肖像B」「午後」。
昭和22年(1947) 9月、新制作派協会第11回展「人間(或は失楽園)」「裸婦」「人物」「子供」。
昭和23年(1948) 5月、第2回美術団体連合展「子供」「壺」。9月、新制作派協会第12回展「裸婦A」「裸婦B」「扉」「花輪」「黒い猫」「窓辺」。
昭和24年(1649) 5月、第3回美術団体連合展「画室」「絵」。9月、新制作派協会第13回展「裸婦A」「裸婦B」「赤い魚」「舞踏」。
昭和25年(1950) 5月、第4回美術団体連合展「灰色裸婦」「横臥裸婦」。9月、新制作派協会第14回展「空」「ピアノ」「白と黒(壁画として)」。
昭和26年(1951) 1月、第2回秀作美術展「ピアノ」。5月、第5回美術団体連合展「子供の時間」。9月、新制作派協会第15回展「ピアノと子供」「栗とたまも」「浴場」。
昭和27年(1952) 1月、第3回秀作美術展「子供の時間」。2月、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)「栗とマリモ」。5月、第1回日本国際美術展「裸婦」「森」。5月13日、朝日新聞特派員として渡航、パリでファルギェール街シテ・ファルギェールのアトリエ村に住む。
昭和29年(1954) 1月、佐藤敬個展(パリ、ミラドール画廊)「ノートルダム(バラ色)」「椅子」「モロッコにて」他。7月、在仏佐藤敬作品展(東京画廊)「影の反映」「ピカソのアトリエ」他。
昭和30年(1955) 1月、第6回秀作美術展「セーヌ」。
昭和31年(1956) 5月、佐藤敬フランス風景作品展(東京画廊)。5月、サロン・ド・メイ「切線」。9月、新制作派協会第20回展「作品A」「作品B」「作品C」。
昭和32年(1957) 5月、サロン・ド・メイ「潜在」。7月、現代美術10年の傑作展「赤のノートルダム(1952)」。9月、新制作派協会第21回展、水彩「白い月」「金の月」「青い月」。
昭和33年(1958) 9月、新制作派協会第22回展「夜の門」「黒い序説」「Temps des Visions」。
昭和34年(1959) 3月佐藤敬個展(パリ、ジャック・マッソール画廊)に17点出品。9月、新制作派協会第23回展「朝の生」「昼の生」「夕の生」。11月、日本書道展(パリ、ジャネット・オスチーユ画廊)に出品。
昭和35年(1960) 4月、佐藤敬個展(パリ、ジャック・マッソール画廊)に大作7点のタブローとグワッシュ10点を出品。6月、第30回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展「凝結土(1958)」「白亜紀(1959)」「風化(1960)」他。
昭和36年(1961) 4月、佐藤敬個展(パリ、ジャック・マッソール画廊)「囮(1957)」「石の誕生(1958)」他。5月、第6回日本国際美術展「内部の皮」、(K氏賞)。9月、新制作派協会第25回展「凝結天」。
昭和38年(1963) 5月、第7回日本国際美術展「石の分裂」
昭和40年(1965) 3月、佐藤敬個展(ニューヨーク、ワールドハウス画廊)「心の風景(1963)」「夜は漂う(1963)」「凝結した夜想曲(1963)」他。4月19日、帰国。5月、第8回日本国際美術展「結晶天」。8月3日、長女真弓とパリに出発する。10月、<在外日本作家展―ヨーロッパとアメリカ->「化石の黒(1964)」「空間運行(1965)」。
昭和41年(1966) 3月、第1回ジャパン・アート・フェスティバル「化石の黒(1964)」「人間の壁(1965)」「空間運行(1965)」。6月、近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)「赤のノートルダム(1952)」「風景(1956)」「内部の皮(1960)」。9月、新制作派協会第30回展「昨年の旅で(サッカラ)」「″(かいろ)」他。
昭和42年(1967) 5月、第9回日本国際美術展「流転化石」。
昭和43年(1968) 6月、佐藤敬個展(カンヌ、カバレロ画廊)「神話の壁」「終りなき人間の壁1」「終りなき人間の壁2」等。
昭和44年(1969) 5月、第9回現代日本美術展「内部の皮(第6回日本国際美術展)」。
昭和45年(1970) 3月、<万国博美術展-調和の発見->「二重空間」。4月、佐藤敬個展(パリ、ジャック・マッソール画廊)にグワッシュと油絵を出品。
昭和47年(1972) 1月、佐藤敬個展(カンヌ、カバレロ画廊)「青いピラミッド(1971)」「赤いピラミッド」「四幕物1」「太陽の蝕」他。10月、ヨーロッパの日本作家展に「四幕劇1」他。
昭和48年(1973) 5月、佐藤敬個展(パリ、ジャック・マッソール画廊)。6月、<戦後日本美術の展開-抽象表現の多様化->展「結晶天(1965)」。
昭和49年(1974) 4月、佐藤敬個展(ローマ、セッティミアーノ・アートセンター)「空間の通力」「四幕物」「太陽の蝕」他。
昭和50年(1975) 12月、ラッカーゼ、ザック、佐藤敬三人展(ルクセンブルグ、ポール・ブルック画廊)。
昭和51年(1976) 9月14日、パリより帰国。9月22日、新制作派協会満40周年祝賀パーティ(帝国ホテル)に別府より上京、出席する。10月18日、パリへ出発する。11月3日、勲三等に叙され、瑞宝章を授けられる。11月、佐藤敬回顧展(パリ、ジャック・マッソール画廊)。
昭和52年(1977) 5月、佐藤敬個展(ルクセンブルグ、キュター画廊)。9月、<大分県立芸術会館記念―大分の美術千年展―>に「内部の皮(1960)」「結晶天(1965)」。
昭和53年(1978) 1月、<日本人画家のフランス体験青い眼・黒い眼展―エコールド・パリからアンフォルメルへ->(国立国際美術館9「内部の皮」「切線」。4月11日、母親の病気見舞のため帰国。5月8日、午後2時半、急性心不全のため別府市中央町5―17の自宅で永眠。9月、第42回新制作展「スペイン婦人(1931)」「本質について(1960~63)」「人間の壁(白)(1964)」「四幕物2(1970)」「″3(1970)」「″4(1970)」「二重空間(1970)」「空間の通力(1973)」が遺作コーナーに陳列される。
昭和54年(1979) 2月、佐藤敬遺作展(パリ、ジャック・マッソール画廊)(パリ、吉井画廊)。4月、佐藤敬を偲ぶ展(東京、吉井画廊)。4月、第33回サロン・デ・レアリテ・ヌーベル(パリ、ルクセンブルグ美術館)カタログに物故者として紹介される。8月、佐藤敬遺作展(大分県立芸術会館)に油彩画60点、水彩画4点、墨彩画7点、グワッシュ11点、版画1点。計83点が陳列される。
本年譜は広田肇一、後藤龍二編「佐藤敬年譜」(「佐藤敬遺作展」図録所収、大分県立芸術会館、昭和54年)を参照した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(305-308頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「佐藤敬」『日本美術年鑑』昭和54年版(305-308頁)
例)「佐藤敬 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9665.html(閲覧日 2024-11-01)

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