本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





楢崎宗重

没年月日:2001/07/18

 浮世絵研究の第一人者で立正大学名誉教授の楢崎宗重は7月18日午後0時15分、心不全のため死去した。享年97。 1904(明治37)年6月26日、佐賀県唐津市の農家に生まれる。1927(昭和2)年旧制第五高等学校(現熊本大学)を卒業し、東京帝国大学文学部に入学。30年に同大学文学部美学美術史学科を卒業し、当時文部省宗教局に在籍していた藤懸静也の門に入る。32年より『浮世絵芸術』(大鳳閣)編集に携わり、36年には雑誌『浮世絵界』(浮世絵同好会)を創刊、当時未だ趣味的な分野と見られがちだった浮世絵に美術史研究の対象として取り組むとともに、多くの研究者に発表の場を提供し、研究のレベルアップを推進するという姿勢を終生貫くことになる。42年立正大学文学部講師に就任し、日本美術史を教える。45年、戦争で中断していた『国華』の、朝日新聞社による復刊にともないその実務を担当。46年日本浮世絵協会(第二次)を設立、常任理事を務める。同年に雑誌『浮世絵と版画』(渡邊木版美術画舗)を創刊。54年立正大学文学部教授に就任、「近世初期風俗画について」で文学博士号を取得する。60年日本風俗史学会副会長に就任。62年日本浮世絵協会(第三次)を設立、理事長、会長(82年より)として浮世絵研究と普及の両面で活発な活動を展開する。その範囲は海外にも及び、調査を基に72年『在外秘宝』(学習研究社)を刊行、同年浮世絵協会創立十周年を記念した「在外浮世絵名品展」を各地で開き、また東京での国際シンポジウム開催にも尽力した。77年立正大学教授を定年退官、名誉教授となる。同年勲四等旭日小綬章を受章。80年浮世絵専門美術館の草分けである太田記念美術館が開館し、名誉館長に就任。80~82年には多年の構想を経て、海外を含めた浮世絵界の総力を結集させた『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)を刊行する。80年第1回内山賞(内山晋米寿記念浮世絵奨励賞)受賞。1989(平成元)年青山学院女子短期大学図書館に蔵書を寄贈、“楢崎文庫”と命名される。94年東海道広重美術館の名誉館長に就任。95年研究の過程で集まった古美術品480点を東京都墨田区(北斎館)に寄贈。98年浮世絵協会が国際浮世絵学会と改めるにあたり、名誉会長に就任。没後の2001年11月には同学会が発行する『浮世絵芸術』141号で追悼号が編集され、各関係者の追悼文および稲垣進一「楢崎宗重先生略年譜」、酒井雁高「楢崎宗重/著作目録」が掲載、同年9月発行の『北斎研究』29号にも略年譜と編著目録が掲載されている。墓所は研究対象として取り組んできた浮世絵師、葛飾北斎と同じ東京都台東区元浅草の誓教寺。 主要著書 『日本風景版画史論』(近藤市太郎と共著 アトリエ社 1943年) 『北斎論』(アトリエ社 1944年) 『浮世絵史話』(巧芸社 1948年) 『北斎と広重』(講談社 1963年) 『肉筆浮世絵』(講談社 1970年) 『浮世絵の美学』(講談社 1971年) 『楢崎宗重 絵画論集』(講談社 1978年)

真野満

没年月日:2001/07/01

 日本画家で日本美術院評議員の真野満は7月1日、老衰のため死去した。享年99。1901(明治34)年9月27日、東京浅草に生まれる。父は河鍋暁斎門下の日本画家真野暁亭で、兄松司も日本画家の道を歩んでいる。15、6歳の頃一時、尾竹竹坡に絵の手ほどきを受ける。1918(大正7)年太田聴雨、小林三季の結成した青樹会に参加し、第1回青樹社展に「凝視」を出品。その後22年第一作家同盟に青樹社の一員として参加し、第一回展に歴史画を出品したが、この同盟は数年にして解散となる。その後父の勧めで京都市立絵画専門学校に進み1927(昭和2)年卒業。再び上京して37年安田靫彦に師事、翌38年第25回院展に「貴人愛猫」が初入選した。41年第28回院展「七おとめ」が日本美術院賞第三賞を受賞、また40年より法隆寺金堂壁画の模写に文部省嘱託として従事し、中村岳陵の班で五号壁を担当した。戦後、『源氏物語』や『伊勢物語』などの平安文学に材をとり、52年第37回院展「小墾田宮」、54年第39回「伊勢物語」、55年第40回「泉(伊勢物語)」が奨励賞を受賞。57年第42回「羽衣」が再び日本美術院賞となり、同年日本美術院同人に推挙された。71年第56回院展「伊勢物語」が文部大臣賞、80年第65回「後白河院と遊女乙前」は内閣総理大臣賞を受賞する。一貫して神話や文学、歴史画にモティーフを求め、師靫彦の伝統を継ぐ流麗にして明快な筆線の美しさを基調とした作品を発表。78年より日本美術院評議員をつとめる。1991(平成3)年には「大和絵六十年の歩み 真野満展」が日本橋三越で開催された。

川端実

没年月日:2001/06/29

 洋画家川端実は、6月29日、東京都渋谷区の病院で老衰のため死去した。享年90。1911(明治44)年5月22日、東京市小石川区春日町に日本画家川端茂章の長男として生まれる。川端玉章は、祖父にあたる。1929(昭和4)年4月、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。34年に同学校を卒業、36年には文展監査展に「海辺」が入選して、選奨となり、39年には光風会員となった。同年8月、渡欧の途につく。パリに入るが、第二次世界大戦の勃発により、退去命令をうけ、ニューヨークに渡る。しかし、ヨーロッパが急変する様子がないことを知り、再びフランスに戻った。その後、戦渦の拡大によりイタリアに移ったが、イタリアも参戦したことから、41年9月に帰国した。戦後の50年、多摩美術大学教授となり、52年には、光風会を辞して、新制作協会会員となった。また、51年には、第1回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に選出され、「キリコをつくる人」を出品した。53年には、長谷川三郎、吉原治良、山口長男等とともに、日本アブストラクト・アート・クラブを結成した。50年代から、具象的な表現をはなれ、ダイナミックで、構成的な抽象表現を模索しはじめていた。58年9月、渡米してニューヨークに居を移し、翌月にひらかれた第2回グッゲンハイム国際展に「リズム 茶」を出品して、個人表彰名誉賞を受賞した。また、同年、新制作協会からはなれた。61年、第31回ベェネツィア・ビエンナーレに「強烈な赤」等を出品した。戦後、欧米の美術界を席巻した抽象表現主義の影響をうけた作品となっていったが、60年代末頃より、明快な色彩とシンプルな幾何学的なフォルムによる抽象絵画に展開していった。その後、国内外での個展のほか、種々な国際展に出品した。75年には、神奈川県立近代美術館において、50年から近作にいたる作品80点、デッサン59点によって構成された回顧展が開催された。92年には、京都国立近代美術館、大原美術館において、作品59点とドローイング22点によって構成された近作を中心とする「川端実展」が開催された。70年代から80年代には、明快な色面の構成ながら、筆によるストロークの跡を画面に残しているため、暖かい抒情性をただよわせる作品を残したが、しだいに即興的でダイナミックな線による表現に展開していった。戦後の抽象絵画のなかで、いちはやく国際的な評価をうける作品を残した。

松本英一郎

没年月日:2001/06/17

 洋画家で、多摩美術大学教授の松本英一郎は、6月17日午前9時51分、心筋症のため山梨県富士吉田市の病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年7月8日、福岡県久留米市に生まれる。57年、東京芸術大学美術学部油画科を卒業、ひきつづき専攻科にすすみ林武に師事し、59年に同科を卒業した。57年の第25回独立展に初入選し、60年の第28回展では独立賞を受賞し、同年、同協会会員となった。同展には、2001年の第69回展まで、毎回出品をつづけた。69年、多摩美術大学グラッフィックデザイン科の講師となり、72年には同大学助教授となった。83年には、同大学教授となり、1993(平成5)年には油画科に所属が変更した。在職中は、寡黙ながら包容力のある指導で、学生からの人望もあつかったことで知られた。60年代末には、日常のなかの不安や不条理を、人間のシルエットの形の反復によって表現した「平均的肥満体」のシリーズを制作し、70年代から80年代にかけては、「不思議なことだが、私には襞のある形状の方がより自然に思えるのである。生あるものはやがて老い、そして収縮していく。収縮しながら襞を作る。」という言葉どおり、「退屈な風景」のシリーズによって、漠としてひろがる風景のなかに自然の摂理や人間の内面を投影した表現をつづけた。つづく90年代には、「さくら・うし」のシリーズによって、桜の花のはなやかさに幻惑された体験をもとに、さらに幻想的な独自の世界を展開していった。この間、各地の美術館の企画展、コンクール展に出品したが、90年には青梅市立美術館で「松本英一郎展」が、93年には池田20世紀美術館で「松本英一郎の世界」展が開催された。没後の2003年6月に多摩美術大学美術館において「松本英一郎展 Works1968-2001」が開催され、その芸術があらためて回顧された。

糸園和三郎

没年月日:2001/06/15

 洋画家糸園和三郎は、6月15日午後6時5分、肺炎のため東京都杉並区の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年8月4日大分県中津町(現・中津市)の呉服商の家に生まれる。中津南部尋常小学校5年生の時に骨髄炎にかかり手術を受ける。一年遅れて小学校を卒業した後は、病気のために進学を断念。1927(昭和2)年上京し次兄と共に大井町に住む。この年、父に絵を描くことを勧められ、川端画学校に通い始めた。1930年協会展に出品されていた前田寛治の作品に感動し、29年には前田の主宰した写実研究所に学ぶ。同年第4回1930年協会展に「人物」が、続いて30年には第8回春陽会展に「赤い百合」「上井草」が初入選する。31年第1回独立美術協会展に初入選。独立美術研究所にも通い、同年には研究所の塚原清一、高松甚二郎、山本正と四軌会を結成、展覧会を開く。32年ころ下落合に移り、伊藤久三郎と同じアパートに住む。34年四軌会に斎藤長三が加わり、飾畫と改称。飾畫展には飯田操朗、米倉寿仁、土屋幸夫、阿部芳文(展也)らが参加した。このころからシュルレアリスムの傾向を示す作品を描き始める。38年、飾畫展は創紀美術協会に合流するため発展的に解散、続いて39年福沢一郎を中心に美術文化協会が結成されると、創紀美術協会もこれに参加した。41年、第2回展を前にした福沢及び瀧口修造の検挙は同会への威嚇となったが、糸園は2回、4回、5回の美術文化協会展に出品した。43年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、寺田政明、大野五郎、松本竣介、麻生三郎と8人で新人画会を結成。これは戦時下であっても自主的な表現活動をするための場であった。45年、笹塚の家が東京大空襲にあい、郷里にあった数点をのぞいて作品を焼失する。46年日本美術会創立に参加、47年美術文化協会を退会して新人画会のメンバーと自由美術家協会に参加した。一方で、46年頃から郷里中津で絵画塾を開いた。53年第2回日本国際美術展に「叫ぶ子」を、同年第17回自由美術家協会展に「鳥をとらえる女」、57年第4回日本国際美術展に「鳥の壁」(佳作賞受賞)を出品、生きるものの姿を緊密な構図で描出した。57年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。64年自由美術家協会を退会、以後無所属となる。68年第8回現代日本美術展に、人間と、アメリカ国旗やベトナムの地図を配した「黒い水」「黄いろい水」を出品、「黄いろい水」でK氏賞を受賞。70年前田寛治門下による「濤の会」、自由美術家協会の友人との「樹」を持ち、展覧会を開いた。77年、飾画を復活させている。56年から単身上京、三鷹に住む。57年から81年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。76年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成、以後糸園は同展に賛助出品をする。 この間、59年脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右目を患っている。心に浮かんだ映像を長い時間をかけて醸成させ、キャンバスの上に写し換えるという糸園の作品は、画面から余計な対象物が排除されて静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせるものである。油彩画のほか、ガラス絵の制作もした。76年と83年に『糸園和三郎画集』が求龍堂から刊行。70年代以降は、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌展」(東京国立近代美術館 1972年)をはじめ、「日本のシュールレアリスム1925―1945展」(名古屋市美術館 1990年)、「昭和の絵画第3部 戦後美術―その再生と展開展」(宮城県美術館 1991年)など、洋画の変遷を展望しようとする企画展に作品が出品された。78年北九州市立美術館と大分県立芸術会館で糸園和三郎展が、1995(平成7)年、大分県立芸術会館で「糸園和三郎とその時代展」が開催された。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。

斎藤義重

没年月日:2001/06/13

 現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去した。享年97。1904(明治37)年5月4日に生まれる。本籍は、東京市四谷区左門町。1920(大正9)年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになる。1933(昭和8)年、東郷青児、阿部金剛、古賀春江が主宰する「アヴァンガルド洋画研究所」に入り、桂ユキ子を知る。36年、第23回二科展に初入選する、同年、第14回黒色洋画展にも出品。38年、解散した黒色洋画展の山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成、また同年には、二科会内の前衛的な傾向の作家によって結成された九室会に会員として参加。翌年、美術文化協会が結成され、参加することになり、九室会を退く。53年、美術文化協会を退き、以後、団体に属することはなかった。57年、第4回日本国際美術展で「鬼」がK氏賞を受賞、翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊での最初の個展を開催。59年、第5回日本国際美術展に出品した「青の跡」によって、国立近代美術館賞を受賞。同年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年、第4回現代日本美術展に出品した「作品R」によって最優秀賞を受賞。同年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。61年には第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品、国際絵画賞を受賞。60年代からは、ドリルをつかって、画面を掘り込む平面作品を制作するようになり、さらに「クレーン」、「ペンチ」シリーズなど、合板にラッカーを塗った明快な作品へと展開していった。64年、多摩美術大学の教授になる。在職中は、その後現代美術の分野で活躍することになる多くの学生を指導したことで知られる(73年に退職)。78年には、東京国立近代美術館において「斎藤義重展」(出品作品・資料点数108点)が開催された。80年代にはいると、立体と平面にわたる「反対称」、「反比例」のシリーズがはじまり、84年、東京都美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した「斎藤義重展」(出品点数98点)が開催された。85年1月、実験的制作活動による現代美術への貢献を評価され、昭和59年度朝日賞を受賞。80年代末からは、黒い木を連結したインスタレーションである「複合体」シリーズがはじまり、平面、立体の区別なく、空間を構成した作品を発表した。1993(平成5)年、77点の作品によって構成された「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space・Wood」が、横浜美術館と徳島県立近代美術館において開催された。99年には、神奈川県立近代美術館において「斎藤義重展」(出品点数53点ほか)が開催された。没後の2003年1月から翌年3月まで、岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館の全国5館を巡回する回顧展が開催され、戦前の作品から遺作まで158点によって構成された内容によって、その弛むことのなかった「前衛」の軌跡が回顧された。日本の戦後から現代美術を顧みるとき、欠くことのできない多くの作品の残し、また「もの派」をはじめ、多くの作家に影響を与えたことも忘れられない。

伊藤清永

没年月日:2001/06/05

 洋画家伊藤清永は、6月5日午後6時35分、急性心不全のため長野県軽井沢町の病院で死去した。享年90。伊藤は、1911(明治44)年2月24日兵庫県出石郡の禅寺、吉祥寺の三男として生まれる。中学の図画教師に岡田三郎助を紹介され、本郷洋画研究所に学んだ後、1929(昭和4)年東京美術学校西洋画科に入学。在学中の31年第8回槐樹社展に「祐天寺風景」が初入選し、33年には第10回白日会(白日賞受賞)と第14回帝展に入選、その後も白日会と日展を舞台に活躍した。二度の応召から復員し生家の寺で住職代理をしていたが、制作を一からやり直すつもりで裸婦の制作に取り組み始める。46年第1回展から日展に出品、47年「I夫人像」が、48年「室内」が、第3回、4回の日展で連続して特選となる。56年からは同審査員。53年画室で伊藤絵画研究所を開設、57年には愛知学院大学教授となって後進の指導に当たった。62年、51歳で初めて渡欧、パリとオランダに滞在して制作する。帰国後は、色彩豊かな柔らかい描線を交差させて、女性の肌の美しさをあらわした裸婦や、バラを描いた。戦前は着衣の群像を多く描いたほか、大画面への意欲も強く壁画も描いていて、年を隔てて84年には愛知学院大学講堂に「釈尊伝四部作大壁画」を完成させている。76年「曙光」が第8回日展で内閣総理大臣賞を受賞したほか、同作が翌年には日本芸術院恩賜賞を受賞した。84年日本芸術院会員、86年白日会会長となる。1991(平成3)年に文化功労者、96年には文化勲章を受章した。71年の『伊藤清永作品集』をはじめ、89年と91年にも画集が刊行され、2001年には日本橋高島屋を皮切りに全国5会場で卒寿記念の個展が開催された。89年、郷里の出石に町立伊藤美術館が開館。

山根有三

没年月日:2001/05/22

 美術史家で東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授の山根有三は5月22日午後2時28分、敗血症のため死去した。享年82。山根は1919(大正8)年2月27日、大阪府に生まれた。父は花道家の山根廣治(号翠道)、母は百合子。1940(昭和15)年3月第三高等学校文科甲類卒業、同年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。42年9月同学科を繰上げ卒業、同年10月同大学大学院入学。44年4月恩賜京都博物館(現京都国立博物館)に工芸担当の鑑査員として勤務。同年6月教育召集により神戸の高射砲中隊に入営。45年9月除隊して恩賜京都博物館に復職。51年10月神戸大学文理学部助教授、55年7月東京大学文学部助教授、69年5月同教授、79年3月定年退官。翌80年4月群馬県立女子大学教授、85年3月退職。この間、61年4月より66年3月まで文化財保護委員会事務局美術工芸課調査員を併任、68年5月より69年12月まで学術審議会専門委員、76年7月より86年5月まで文化財保護審議会専門委員、86年6月より1994(平成6)年6月まで文化財保護審議会委員、90年4月より99年4月まで『国華』主幹などを歴任した。84年4月より出光美術館理事、99年4月より『国華』名誉主幹を務めていた。99年に朝日賞を受賞、00年に文化功労者に選ばれた。戦後、恩賜京都博物館に復職した山根は46年に絵画担当の鑑査員になると智積院障壁画の研究を始め、49年に発足したばかりの美術史学会の関西支部例会で等伯研究の成果を発表。同学会誌『美術史』創刊号(50年)に掲載された「等伯研究序説」が出世作となった。しかし、38年に土居次義が唱えた「等伯信春同人説」(それまで等伯の子久蔵と同一人と考えられていた信春を等伯の前身とする新説)が戦後の学界に受け入れられるようになると、自らの鑑識眼と様式的判断から同人説に納得できなかった山根は等伯研究を中断し、宗達光琳研究に転じた。54年4月から東京大学史料編纂所に1ヶ年の内地留学を行い、『中院通村日記』『二條綱平公記』など未刊の古記録から宗達光琳関係の史料を見出した。58年11月に開催された「生誕三百年記念光琳展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋白木屋百貨店)では田中一松とともに作品の調査と選定に当たり、同展を機に刊行された田中一松編『光琳』(日本経済新聞社 1959年)に「光琳年譜について」「落款と印章」を発表した。続いて61年5~6月に開催された「俵屋宗達展」(日本経済新聞社主催、於東京日本橋高島屋)では自ら作品の選定に当たり、研究成果を『宗達』(日本経済新聞社 1962年)にまとめた。また同年、55年以来取り組んできた『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究-資料』(中央公論美術出版 1962年)を刊行。『桃山の風俗画』(日本の美術17巻 平凡社 1967年)では、それまで町絵師の手になる初期肉筆浮世絵として評価されていた慶長から寛永年間の風俗画の優品を狩野派主流の作とする見解を示し、以後定説化された。編集に携わった『障壁画全集』(全10巻 美術出版社 1966~72年)では、障壁画を単なる大画面絵画とせず、建築との関係を重視した障壁画の総合的な共同研究を提唱し、同全集『南禅寺本坊』(1968年)によって自ら実践した。また当時一世を風靡した『原色日本の美術』(全30巻 小学館 1966~72年)の企画に加わり、『宗達と光琳』(第14巻 1969年)を著した。75年には琳派研究会を組織して同年6月から1ヶ月に及ぶ米国調査を敢行。成果を『琳派絵画全集』(全5巻 日本経済新聞社 1977~80年)にまとめた。また、美術雑誌『国華』の編集委員として89年3~5月の「室町時代の屏風絵―『国華』創刊100年記念特別展」(於東京国立博物館)を成功させ、「国華賞」の創設(1989年)に尽力した。90年に主幹に就くと、遅れがちだった同誌の刊行を軌道に乗せるなど、『国華』の経営改善に当たった。94年より『山根有三著作集』(全7巻 中央公論美術出版 ~1998年)を刊行。晩年は長谷川派の研究に復帰し、著作集第6巻『桃山絵画研究』(98年)に新稿「等伯研究―信春時代を含む等伯の画風展開」を書下ろしたほか、長谷川派についての論考を相次いで発表し、それまで埋もれていた等秀、等学らの画跡を見出した。01年の「狩野興以の法橋時代の画風について―名古屋城・二条城障壁画筆者の再検討を背景に」(『国華』1264)号)が絶筆となった。桃山時代を中心とした近世絵画史と、とりわけ琳派の研究に大きな成果をあげた山根の学風は、個々の作品に対する直観を重んじる一方で、史料の博捜と綿密な読解による裏付けを欠かさず、互いに相容れにくい美的直観と客観的実証とを両立させるところに特色があり、無味乾燥な様式論とは無縁な、人間味ある議論を展開して魅力があった。また、長い教壇生活を通じて数多くの研究者を育てた。山根の年譜と著作については、『山根有三先生年譜・著作目録(抄)』(東京大学文学部美術史研究室、1989年および98年)、『山根有三年譜・著作目録(抄)』(山根かほる 2001年)の3冊の目録がある。履歴については、自ら記した「わが美術史学青春記」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館 1989年)と『私の履歴書 日経版 決定本』(小学館スクウェア 2001年)がある。

中村溪男

没年月日:2001/05/19

 美術史家、美術評論家の中村溪男は5月19日午前6時50分、心不全のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年8月26日、日本画家中村岳陵の長男として生まれる。本名は秀男で、横山大観が自らの本名秀麿より一字をとって命名したもの。1947(昭和22)年慶應義塾大学文学部国史学科を卒業。その前年より帝室博物館(現東京国立博物館)列品課金工区室員、48年より同課絵画区室員を経て、49年東京国立博物館学芸部絵画部文部技官に任官。この頃より溪男の筆名を用いるようになる。博物館では56年の雪舟展、74年の雪村展を担当するなどとくに室町水墨画についての見識を有し、数々の著作を行なう一方、父の先輩でもあった早世の画家今村紫紅の評価につとめるなど近代日本画史の形成にも貢献した。59年より博物館勤務の傍ら日本女子大学文学部史学科の講師に招かれ日本美術史を担当、84年まで教壇に立つ。81年東京国立博物館学芸部主任研究官に任ぜられ、同館名誉館員となる。翌年同館主催のボストン美術館蔵・日本絵画名品展に際し、同展の総責任者を務め、ボストン美術館で「祥啓画山水図について」と題し講演を行なう。83年東京国立博物館を停年退官し、山種美術館副館長(85年より事務局長)となる。その傍ら85年には宇都宮文星短期大学教授美術学科長に就任。86年にはデトロイト美術館主催のシンポジウムに招待され、「雪舟の周防行きについての意義」と題する講演を行なう。1995(平成7)年から98年まで成田山書道美術館副館長を務める。同美術館退職後は自宅の傍らに「アトリエ 悠・然」を開設主宰、日本画の実技指導や美術講演、美術談義を行なっていた。 主要著書 『雪舟』(大日本雄弁会講談社 1956年) 『永徳』(平凡社 1957年) 『日本人の表情』(社会思想研究会出版部 1958年) 『日本の絵画』(社会思想研究会出版部 1959年) 『墨絵の美』(明治書房 1959年) 『日本近代絵画全集20 今村紫紅』(講談社 1964年) 『日本の美術17 明治の日本画』(至文堂 1967年) 『カラーブックス194 絵画に見る日本の美女』(保育社 1970年) 『東洋美術選書 祥啓』(三彩社 1970年) 『日本の美術63 雪村と関東水墨画』(至文堂 1971年) 『近代の日本画 菱田春草』(至文堂 1973年) 『日本絵画全集4 雪舟』(集英社 1976年) 『茶画のしおり』(茶道之研究社 1979年) 『抱一派花鳥画譜』(紫紅社 1978~80年) 『古画名作裏話』(大日本絵画 1986年) 『冷泉為恭と復古大和絵派』(至文堂 1987年) 『四季の茶画』(求龍堂 1990年) 『今村紫紅』(有隣堂 1993年)

堀内正和

没年月日:2001/04/13

 彫刻家で、京都市立芸術大学名誉教授の堀内正和は、4月13日午前2時、肺炎のため東京都渋谷区神宮前の自宅で死去した。享年90。1911(明治44)年3月27日、父堀内潔、母寿賀の次男として京都市に生まれる。1926(大正15)年、東京市雑司ヶ谷に転居、中学時代から独学で立体作品の制作を試みていた。1928(昭和3)年、東京高等工芸学校工芸彫刻部に入学、翌年第16回二科展に「首」が初入選し、同年10月に同学校を中退、番衆技塾に移り、藤川勇造に指示した。この後、二科展に出品を続けたが、33年、肺疾患となり、一時制作を中断し、回復後も、40年から45年まで、戦意高揚を促す美術界の動向に疑問をもち、作品発表を中断した。ことに終戦をはさんだ2年間は、哲学書などの読書と思索をかさねることですごした。47年、第32回二科展に出品して復帰、同会彫刻部会員となった。以後、66年に退会するまで、同展に出品を続けた。50年には、京都市立美術大学講師となり、58年に同大学教授となり、74年に退任するまで、後進の指導にあたった。50年代から鉄を素材に熔接彫刻をはじめ、線と面による幾何学的な構成の作品を作り続けた。60年代には、円筒、円錐の形を展開させた作品となり、63年に円錐の局面をしなやかに変化させた作品「海の風」で、第6回高村光太郎賞を受賞した。その後、「D氏の骨抜きサイコロ」(64年)、「箱は空にかえってゆく」(66年)など、ウィットに富んだ作品とともに、「ななめの円錐をななめに通りぬける円筒」(71年)など、フォルムのシャープな作品を発表した。60年代以降の野発表活動としては、美術館、画廊での個展、グループショウのほか、国内外の現代美術展に出品され、その評価を高めていった。生前の主な美術館での個展としては、つぎのとおりである。63年4月から9月、神奈川県立近代美術館にて、「堀内正和彫刻展」が開催された。69年には、第1回現代国際彫刻展(箱根、彫刻の森美術館)において、「立方体の二等分」を出品、大賞を受賞した。78年6月から7月、神奈川県民ホール・ギャラリーにて、「堀内正和展」が開催され、新作10点と50年以降の彫刻作品30点が出品された。80年4月から6月、東京国立近代美術館にて、「日本の抽象美術のパイオニア-山口長男・堀内正和展」が開催され、30年以降の彫刻作品、ドローイング等75点が出品された。86年9月から11月、渋谷区立松涛美術館において、「堀内正和展」が開催され、31年以降の彫刻作品51点などが出品された。著述集に『坐忘録』(美術出版社、1990年)、作品集に『堀内正和 作品資料集成 ユーレーカ』(同前 1996年)がある。なお、没後の2002(平成14)年2月から3月には、「彫刻家佐藤忠良・堀内正和展」が、府中市美術館市民ギャラリーにて開催された。03年11月には、彫刻作品82点とドローイングと多数のペーパースカルプチャーによって構成された「彫刻家堀内正和の世界展」が、神奈川県立近代美術館鎌倉館を皮きりに、京都国立近代美術館、茨城県近代美術館、芸術の森美術館(札幌市)に巡回している。「日本の抽象彫刻のパイオニア」と称せられたように、戦後から一貫して抽象形体を追求した作家だったが、きわめて知的でありながらも、諧謔味やユーモアをただよわせる柔軟な思考にうらづけられた作品を残した。それは、堀内のアトリエに残された多数の小型のマケット(ペーパースカルプチャー)をみてもわかるように、手を通じた思索のなかから生まれたものであったといえる。

鈴木治

没年月日:2001/04/09

 陶芸家で、戦後の日本の陶芸界をリードした走泥社の創立メンバーであり、京都市立芸術大学名誉教授の鈴木治は、4月9日午後1時10分、食道がんのため死去した。享年74。1926(大正15)年11月15日、京都市生まれ。生家のあった五条坂界隈は清水焼の中心地であり、父鈴木宇源治は永楽善五郎工房のろくろ職人であった。1943(昭和18)年京都市立第二工業学校窯業科卒業。戦後、46年中島清を中心に、京都の若手陶芸家が集まって結成された青年作陶家集団に参加。47年日展初入選。48年青年作陶家集団は第3回展をもって解散し、八木一夫、山田光らとともに走泥社を結成する。50年現代日本陶芸展(パリ)に出品、52年第1回現代日本陶芸展で受賞。54年第1回朝日新人展に、器の口を閉じた「作品」を出品する。用途をもたない、器の口を閉じた陶芸作品の出現は、陶芸の分野においては画期的な出来事であった。60年日本陶磁協会賞受賞。62年第3回国際陶芸展(プラハ)に「織部釉方壷」を出品し、金賞受賞。63年現代日本陶芸の展望展(国立近代美術館京都分館開館記念展)に「土偶」、翌64年現代国際陶芸展(国立近代美術館、東京)に「フタツの箱」を出品、いずれも白化粧の上に幾何学的な文様や記号をあらわした作品である。65年の個展以後は自らの作品を「泥像」と呼び、この頃から、信楽の土を主とした胎土の上に、赤化粧を施し、部分的にや灰をかけた焼き締め風の作品を制作する。67年個展に「馬」を出品、馬は鈴木にとって重要なモチーフであり、その後もしばしば馬を題材とした作品を制作する。70年ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ展(フランス)に「ふり返る馬」を出品し、金賞を受賞。71年走泥社東京展で青白磁(影青)の作品を出品、同年の個展で青白磁の「縞の立像」を出品。同年ファンツア国際陶芸展(イタリア)に「四角なとり」を出品、貿易大臣賞を受賞。79年京都市立芸術大学美術学部教授となる。82年個展に「雲」の連作を出品。83年の個展から、自らの作品に「泥象」という言葉を使いはじめる。「泥象」とは泥のかたちの意であり、人や動物だけでなく、雲や風や太陽といった自然現象をモチーフに制作を行う鈴木の造語である。同年、第7回日本陶芸展に「山の上にかかる雲」を出品、日本陶芸展賞を受賞。84年1983年度日本陶磁協会金賞、第一回藤原啓記念賞を受賞。85年毎日芸術賞を受賞。同年、伊勢丹美術館(東京)にて回顧展「泥象を拓く 鈴木治陶磁展」(大阪、岡山を巡回)が開催される。87年第五回京都府文化賞功労賞を受賞。同年、個展に「掌上泥象百種」、「掌上泥象三十八景」を出品。88年個展に、穴窯で制作した「穴窯泥象」を出品。1989(平成元)年「鈴木治展」(京都府立文化会館)が開催される。90年京都市立芸術大学美術学部長となる。92年京都市立芸術大学を退官、名誉教授となる。93年京都市文化功労者となる。94年紫綬褒章受章、第7回京都美術文化賞を受賞。98年第30回日本芸術大賞を受賞。同年、50周年記念’98走泥社京都展をもって走泥社は解散。同年、個展に「木」の連作を出品。99年第69回朝日賞、第17回京都府文化賞特別功労賞を受賞。同年、東京国立近代美術館工芸館にて回顧展「鈴木治の陶芸」展が開催される(福島、京都、広島、倉敷を巡回)。走泥社の創立メンバーであり、革新的陶芸の旗手として戦後を通じて日本の陶芸界の第一線で活動を続けた鈴木治は、馬や鳥、雲や太陽などをモチーフにした抽象的フォルムの詩情あふれる作品で高く評価される。『鈴木治陶芸作品集』(講談社 1982年)。

塩出英雄

没年月日:2001/03/20

 日本画家で日本美術院常務理事の塩出英雄は3月20日午後2時29分、脳しゅようのため東京都杉並区の病院で死去した。享年88。1912(明治45)年4月6日、広島県福山市の菓子舗に生まれる。中学時代には福山の古刹明王院で龍池密雄僧正より真言宗の教義について教えを受け、深く感化される。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年帝国美術学校日本画科に入学、主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事。37年第24回院展に「静坐」が初入選し、以後入選を重ね39年院友となった。戦後49年第34回院展で「賀寿」が奨励賞、翌50年第35回「泉庭」が日本美術院賞・大観賞を受賞。その後も51年第36回「茗讌」、60年第45回「清韻」が奨励賞となり、61年第46回「渡殿」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同人に推挙される。この間59年には同じく院展の小谷津任牛らと藜会を結成。69年第54回院展に出品した「春山」が内閣総理大臣賞を受賞。日本画顔料の純粋な発色を生かした平明清澄な風景画の世界を繰り広げた。70年日本美術院評議員、73年理事となる。制作に傾注する一方で、36年帝国美術学校卒業と同時に同校助手となり、41年講師、51年武蔵野美術学校助教授を経て、43年武蔵野美術大学教授、84年同校名誉教授となり、69年より80年まで愛知県立芸術大学講師を務めるなど、長年にわたり後進の指導育成にも尽力。また宗教や哲学に造詣が深く、短歌や能、茶道もたしなみ、59年に歌集『山草集』(古今書院)、1989(平成元)年喜寿記念歌集『清明集』を出版、86年には宮中歌会始の儀に参列した。91年には日本橋三越他で、99年には練馬区立美術館・ふくやま美術館で回顧展が開催されている。

上村松篁

没年月日:2001/03/11

 花鳥画の第一人者として活躍した日本画家で文化勲章受章者の上村松篁は3月11日午前0時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年11月4日、京都市中京区四条御幸町西入ルに、美人画で知られた女流日本画家、上村松園の長男として生まれる。本名信太郎。画家の母のもとで幼少より画に親しむ。動物好きで花や虫、鳥を好んで描き、その後も花鳥画への道を歩むことになるが、終生貫き通す格調の高さは母譲りのものであった。1915(大正4)年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、都路華香、西村五雲らに学び、特待生となる。21年卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、国画創作協会の会員で同校の助教授だった入江波光よりリアリズムの洗礼を受ける。また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入った。21年第3回帝展に「閑庭迎秋」が初入選、以後帝展、および青甲社と名乗るようになった翠嶂画塾の塾展である青甲社展に出品し、24年第5回帝展に克明なリアリズムの描写による「椿の図」を出品する。24年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科に進み、1928(昭和3)年第9回帝展で、古典的な画題をアレンジした「蓮池群鴦図」が特選を受賞した。30年研究科を修了し、京都市立美術工芸学校講師、36年には京都市立絵画専門学校助教授となる。この間33年帝展無鑑査となり、43年第6回新文展で委員をつとめ、また36年池田遥邨、徳岡神泉、山口華楊らと水明会を結成した。この時期、アルタミラの洞窟壁画や古代エジプトの浮彫など、美術史上の古典をふまえた動物画や人物画を試みている。戦後47年第3回日展に再び出品、審査員も務めるが、翌48年日本画の革新を目指して東京の山本丘人、吉岡堅二、京都の向井久万、奥村厚一らとともに日展を離れて創造美術を結成、世界性に立脚する日本画の創造を標榜する同団体において、抒情性よりも構成的な美を志向する花鳥画を生み出していく。49年京都市立美術専門学校教授となり、翌年より京都市立美術大学助教授を兼任、53年同大学教授となった。創造美術は51年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、以後同会に出品。56年第20回展「草月八月」、57年第21回展「桃実」などを出品し、58年第22回展出品作「星五位」により翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。その後もインドや東南アジアでの熱帯花鳥写生で画嚢を肥やし、59年第23回「鷭」、60年第24回「熱帯睡蓮」、62年第26回「鳩の庭」、64年春季展「ハイビスカスとカーデナル」、65年第29回「鴛鴦」など、明るい色彩を用いた品格ある花鳥画を発表。66年第30回「樹下幽禽」により、翌67年日本芸術院賞を受賞した。68年京都市立美術大学を退官、同大名誉教授となる。同年皇居新宮殿に屏風「日本の花・日本の鳥」を描く。またこの年から翌年にかけて『サンデー毎日』に連載された井上靖の小説「額田女王」の挿絵を担当、70年近鉄奈良駅の歴史教室壁画「万葉の春」では大画面の歴史人物画に取り組んでいる。72年京都市文化功労者、73年京都府美術工芸功労者となる。74年新制作協会日本画部は同協会を離脱し創画会を結成、以後同会に出品する。81年日本芸術院会員、83年文化功労者となり、84年文化勲章を受章、同年には京都市名誉市民の称号も受けている。没後の2002(平成14)年には京都市美術館にて回顧展が開催された。作品集に『上村松篁写生集(花篇・鳥篇)』(中央公論美術出版 1973年)、素描集『上村松篁―わが身辺の鳥たち』(日本放送出版協会 1979年)、『上村松篁画集』(講談社 1981年)、現代日本画全集『上村松篁』(集英社 1982年)、『上村松篁画集』(求龍堂 1990年)、著書に『鳥語抄』(講談社 1985年)、『春花秋鳥』(日本経済新聞社 1986年)がある。長男の淳之も日本画家。

北代省三

没年月日:2001/02/28

 多分野にわたり表現活動をした美術家の北代省三は、2月28日午後5時15分、埼玉県熊谷市の病院で脳出血のため死去した。享年79。1921(大正10)年、東京市芝区白金に生まれる。1939(昭和14)年、麻布中学校を卒業、同年新設された新居浜高等工業専門学校機械科に入学。41年、太平洋戦争勃発にともない、同学校を繰り上げ卒業する。翌年、陸軍に応召、終戦をサイゴンで迎える。47年に復員。48年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ主催のモダンアート夏期講習会に参加、同じ受講生であった福島秀子、山口勝弘を知る。同年10月、第12回自由美術家協会展に初出品し、また岡本太郎の勧めによりアヴァンギャルド芸術研究会に参加する。50年、この年より福島、山口とともに音楽家の鈴木博義、武満徹、福島和夫らと交流する。同年9月には、芥川也寸志の依頼により横山はるひバレエ・アート・スクール公演「失楽園」(日比谷公会堂)の舞台美術、ポスター、プログラムのデザインを手がけた。翌年、上述のグループに、さらに音楽家の秋山邦晴、山崎英夫が参加し、音楽、美術、写真、照明などによる総合芸術グループとして活動をすることになり、瀧口修造によって「実験工房」と名づけられた。同年10月、瀧口の企画により第1回個展(タケミヤ画廊)を開催した。11月、ピカソ祭バレエ「生きる悦び」(日比谷公会堂)の舞台美術とプログラムをデザインし、これが「実験工房」の第1回発表会となった。同グループは、実質的に57年まで活動をつづけた。52年1月の第2回発表会では、モビールによる舞台美術を制作し、個展でも、それまでの透明感のある幾何学的な抽象絵画にくわえてモビールを発表した。その後、モビールから、次第に写真への関心がたかまり、56年7月には、写真による最初の個展を開催した。66年には、アラビア石油カレンダーの写真を担当し、第17回全国カレンダー展で大蔵省印刷局賞を受賞。70年、石元泰博、岩宮武二と撮影にあたった写真集『日本万国博の建築』(朝日新聞社)を刊行したが、これ以後、商業写真から遠ざかった。かわって模型飛行機製作に熱中し、76年には、『模型飛行機入門』(美術出版社)を刊行した。81年、「現代美術の動向Ⅰ 1950年代―その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、86年には「前衛芸術の日本1910―1970」展(ポンピドー・センター)に旧作を出品したことから、再評価を背景に旧作への関心がたかまり、1989(平成元)年には40年代から50年代の作品を再制作し、個展(村松画廊)で発表した。没後の2003年4月には、「風の模型―北代省三と実験工房」展が、川崎市岡本太郎美術館において開催され、生前の再制作作品を含む128点によって、旺盛な実験精神にうらづけられた、その多彩な表現活動が回顧された。

弦田平八郎

没年月日:2001/02/15

 神奈川県立近代美術館館長、横浜美術館館長を歴任した美術評論家の弦田平八郎は2月15日午前11時55分、肺がんのため横浜市金沢区の病院で死去した。享年72。1928 (昭和3)年7月3日、東京都大田区新井宿4丁目994に生まれる。麻布中学校、旧制第四高等学校を経て東北大学文学部に入学し、美学西洋美術史学科に学んで美学を専攻し、52年3月に同科を卒業した。その後一時白木屋に勤務する。59年8月から60年7月まで白木屋の用務によりアメリカハワイ州に滞在。67年に神奈川県立近代美術館学芸員となる。当時の同館の構成は、土方定一館長のもと、佐々木静一、朝日晃、酒井忠泰、副島三喜男、そして弦田が学芸員として勤務していた。明治百年をむかえた68年前後から高まった日本近代美術の再評価を背景に、日本で最初に設立された近代美術館であり、日本近代美術史について確固たる独自の視点を有した土方定一の牽引する企画で注目された同館の学芸員として、弦田は様々な展覧会に関わるとともに、当時さかんになった日本の近現代美術を紹介する全集その他の出版物に筆をふるった。85年3月から1992(平成4)年3月まで同館館長、92年4月から翌年まで横浜美術館館長をつとめた。 主要編著書 著書 『龍のおとし話』1、2 (自費出版 1999年) 編著  『日本の名画 21 土田麦僊』(講談社 1973年)    『池上秀畝画集』(信濃毎日新聞社 1984年)    『小阪芝田画集』(信濃毎日新聞社 1986年)(矢島太郎と共編・共著)    『日本素描大観10』(講談社 1983年)    責任編集 『加山又造全集 4』(学習研究社 1990年)    『昭和の文化遺産 2 日本画』(ぎょうせい 1991年)    『現代の日本画 6 片岡球子』 (学習研究社 1991年) 解説  『現代絵巻全集 7 富田渓仙・今村紫紅』(小学館 1982年)    『現代日本の美術 2 平福百穂・富田渓仙』(集英社 1975年)    『現代日本の美術 14 速水御舟』(集英社 1977年) 共編  『20世紀日本の美術』1~18 (集英社 1986~1987年)    『明治・大正・昭和の仏画仏像』(小学館 1986~1987年)

関野克

没年月日:2001/01/25

 文化功労者で東京大学名誉教授でもあった建築史家関野克は、1月25日午前1時肺炎のため東京都西東京市保谷町の自宅で死去した。享年91。1909(明治42)年2月14日、建築史家関野貞(せきのただし)を父に東京に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校理科甲類を卒業し、翌30年東京帝国大学工学部建築学科に入学する。当初は建築デザインに興味をいだくが、33年同学科を卒業して大学院に進学すると建築史を専攻とし、日本の住宅史研究に力を注ぎ、「日本古代住居址の研究」(『建築雑誌』1934年)を皮切りに古代、中世の住宅建築に関する調査・研究に優れた業績をあげる。東京大学大学院在学中の35年9月より東京美術学校の非常勤講師をつとめる。37年藤原豊成功殿の復元などを含む「古文書による奈良時代住宅建築の研究」により第一回建築学会賞を受賞する。38年4月25日東京帝国大学大学院を満期退学。40年1月同学工学部助教授となり、41年同学第二工学部設立準備委員会常務幹事、翌42年同学第二工学部勤務となる。この間、我国における住宅史建築のはじめての通史となる『日本住宅小史』(相模書房)を刊行。43年2月応召。45年9月召集解除となり、同年同月「日本住宅建築の源流と都城住宅の成立」により工学博士となる。46年東京帝国大学第二工学部教授、49年東京大学生産技術研究所教授となる。51年登呂遺跡の竪穴式住居部材の発掘を機に、日本ではじめての古代住宅の復元となる登呂遺跡竪穴式住居復元を行い、敗戦間もない我国において太古の住居イメージを実証的に提示して注目された。一方、49年の法隆寺金堂炎上によって貴重な文化財を保存することへの意識が高まる中で50年文化財保護委員会事務局が設置されると関野はその建造物課初代課長に任ぜられ、57年4月まで東京大学生産技術研究所教授との兼務を続ける。これ以後、建築史学の調査研究と文化財の保存との両分野にわたって活躍。52年4月から東京国立文化財研究所保存科学部長をも兼務する。57年4月文化財専門審議会専門委員(61年8月まで)、60年宮内庁宮殿造営顧問(68年11月まで)となる。また、姫路城、松本城など大型建造物の解体修理などにも従事した。65年東京国立文化財研究所所長となり、69年3月東京大学を定年退官し、同学名誉教授となるまで東大教授と兼務する。70年財団法人万博協会美術展示委員、72年4月高松塚古墳保存対策調査委員となる。73年「腐朽木材に科学的処置を加えて耐用化し、再使用することによる古建築復元の一連の業績」により日本建築学会賞を受賞。78年東京国立文化財研究所を退任し、博物館明治村館長となる。79年長年にわたる国宝・重要文化財建造物の修理、復元の功績により勲二等瑞宝章受章。戦後まもなくより文化財保護に関する国際交流にも尽力し、86年「文化財保存修理技術の近代化と国際交流における功績」により日本建築学会大賞受賞。1989(平成元)年「イコモス(国際記念物遺跡会議)国内委員会設立の業績」によりイコモスよりピエロ・カゾーラ賞を授与される。90年、長年の文化財保護における政策、行政、人材育成の功績により文化財保護の分野においてはじめて文化功労者として顕彰された。その経歴、著作目録および残された史料の所在については藤森照信「関野克先生を偲ぶ」(『建築史学』37号 2001年9月)に詳しい。

源豊宗

没年月日:2001/01/17

 国内最高齢の美術史家であり、関西学院大学教授、帝塚山学院大学教授、文化財保護審議会専門委員、美学会委員等を歴任して、我が国における美術史研究の活性化に努めた源豊宗は、1月17日午前0時43分、老衰のため京都市左京区の高折病院で死去した。享年105。源は1895(明治28)年福井県武生市に生まれ、1921(大正10)年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。卒業後は京都帝国大学の講師を務め、この間の教え子に井上靖や河北倫明がいる。24年に創刊された研究雑誌「仏教美術」の主幹を1933(昭和8)年まで努め、多数の論文を発表するかたわら、地方の仏教美術作品等を積極的に紹介し、美術史研究の体系化と活性化に努力した。40年に初版を刊行した『日本美術史年表』(星野書店)は、年表という形式によって、日本美術の流れを世界美術史や国内外の諸文化の事象と対比しつつ体系化する試みであった。美術史研究の折りの必須な資料として高く評価され、72年、78年に座右宝刊行会から増補改訂された版が刊行されたが、源はその後もさらにそれを充実させる努力を続けていたという。82年、日本美術研究における多大は業績が評価され、朝日賞が授与された。また84年には京都市文化功労賞表彰を受けている。源の日本美術研究は、古代から近現代にまで及ぶ広汎なものである。中でも、日本美術における美意識の伝統の追求に力を注いだ。季節や時の移ろい、無常観の表現こそが日本美術の特質であり、その典型が秋草であるという「秋草の美学」を独自に展開させた。広範囲にわたる美術研究の成果は、『日本美術論究 源豊宗著作集』全7巻(既刊第1巻~第6巻 思文閣出版 1978~1994年)にまとめられた。その他の主な著書としては、『桃山屏風大観 附解説』(中島泰成閣 1934年)、『南禅寺蔵花鳥扇面画集』(芸艸堂 1936年)、『大徳寺』(朝日新聞社 1956年)、『大和絵の研究』(角川書店 1961年)、『光悦色紙帖』(光琳社 1966年)、『光琳短冊帖』(光琳社 1967年)などがある。源は、大学で美術史研究者を育成するかたわら、39年の秋以来、大阪を拠点とした日本美術愛好家のための講座である「金葉会」を毎月開催し、その講師を務めるなど、日本美術研究の普及の面でも大きな功績があった。『日本美術論究 源豊宗著作集』第7巻の執筆も既に終わっていたとのことで、現役の美術史家として、常に意欲的に活躍した人であった。

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