本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





芹沢銈介

没年月日:1984/04/05

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、文化功労者の型絵染作家芹沢銈介は、4月5日午前1時4分、心不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年88。略年譜明治28(1895)年5月13日、静岡県静岡市の呉服太物卸小売商大石角次郎の次男として生まれた。明治41(1908)年 静岡県立静岡中学校に入学。中学時代、すでに美術好きの少年で、水彩画家山本正雄のよき指導を得ていた。大正3(1914)年 東京高等工業学校図案科入学。印刷図案を専攻。翌年、図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得した。この頃、雑誌「白樺」「フューザン」の挿画を通して西欧美術に感動、国内では梅原龍三郎、安井曽太郎、特に岸田劉生と中川一政に傾倒、また富本憲吉、バーナード・リーチの作品に惹かれた。大正5(1916)年 東京高等工業学校図案科卒業、静岡市の生家に帰る。大正6(1917)年 2月、静岡市の芹沢たよと結婚、友人太田三男と文金図案社を始め、店舗の装飾、広告、祭の花車等の依頼を受け、大工玩具の考案製造もした。11月からは、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行う。この年長女規恵出生。大正8(1919)年 小絵馬の収集始める。10月長男長介出生。大正10(1921)年 大阪府立商工奨励館募集のポスター図案に入賞、福助足袋屋のポスターで朝日新聞ポスター図案に入賞、等各府県、新聞広告の懸賞に入賞多数。このころ、子供の乗物、絵本を作り、劉生風の油絵を描き、自分の子供たちの衣服もデザイン、布染めして工夫して着せるなどした。大正11(1922)年 この年から近隣の子女を集めて「このはな会」と名付け、手芸の図案を与えて、絞り染めや刺繍、編物等の製作をさせた。この年の主婦之友全国家庭手芸展に出品させ、最高賞を受けた。このころ、雑誌「白樺」に柳宗悦の東洋美術紹介があったのに感銘を受け、特に「李朝の陶磁器号」に感動する。11月に次女和喜出生。大正13(1924)年 芹沢家は、親戚のための請判が原因で土地、家屋、山林、田畑のすべてを失い、借家住いとなる。この頃から蝋染を始める。昭和2(1927)年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが静岡市鷹匠町の宅へ来訪、収蔵の李朝陶器等に賛成する。4月、東京鳩居堂の第1回日本民芸展で古民芸の系列に接す。6月、柳宗悦編「雑器の美」(民芸叢書第一編、工政会出版部)の装幀をする(以後柳宗悦著述本の装幀多数)。この年、朝鮮京城の民族美術館、慶州佛国寺を訪れる。往路、船中で雑誌「大調和」(昭和2年4月創刊)に連載中の柳宗悦の論文「工芸の道」に感銘をうけ、生涯の転機となる。昭和3(1928)年 上野公園の大禮記念国産振興博覧会で、静岡県茶業組合連合会の展示を行う。この博覧会特設館の日本民芸館で初めて見る沖縄の紅型に瞠目する。前後して開かれた啓明会その他の沖縄工芸の展示を見て紅型への思慕を深めた。昭和4(1929)年 3月、京都大毎会館の日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等出品、また國画会展には〈手描蝋伏せ杓子菜文藍絹紬地壁掛〉を初出品、N氏賞受賞。昭和6(1931)年 雑誌「工芸」創刊され、表紙を1ケ年受け持つ。その型染布表紙は装幀の仕事への端緒となる。この年、三女とし出産。昭和8(1933)年 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊。倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける。昭和9(1934)年 東京市蒲田区蒲田町に移る。柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する。昭和14(1939)年 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う。同地壷屋の生地を取り寄せて赤絵を試み、また沖縄の景物を素材とした染絵を多く作り、これらを高島屋の沖縄展に出品。昭和20(1945)年 戦災で工房と全家具・家財を失う。山本正三の発案で型染カレンダーを創始する。昭和30(1955)年 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する。昭和31(1956)年 型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。昭和33(1958)年 倉敷の大原美術館工芸館のために、倉庫群の配置換え及びその内外装、展示用家具の設計をする。昭和36(1961)年 大原美術館工芸館第1期工事により陶磁館落成。この年、柳宗悦死去。昭和38(1963)年 大原美術館工芸館第2期工事により棟方志功、芹沢銈介の両館完成。昭和41(1966)年 スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊。この年、紫綬褒章を受章。昭和43(1968)年 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作、米国サンディエゴ州立大学の夏期セミナーに招請され、同地及びロスアンゼルス、カナダのバンクーバーで個展開催。昭和45(1970)年 大原美術館工芸館の第三期工事で東洋館完成。大阪大丸百貨店の濱田庄司、棟方志功との「巨匠三人展」に出品。この年、勲四等瑞宝章を受章。昭和46(1971)年 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催。「このはな会」寄贈によるケネディ記念館のための屏風「四季曼荼羅」を完成。パリ国立近代美術館長ジャン・レマリー氏来日、同館における芹沢銈介展の開催を要請する。昭和48(1973)年 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催。昭和49(1974)年 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作。岡山天満屋百貨店での展覧会「型絵染の巨匠芹沢銈介の五十年-作品と身辺の品々-」を開催。昭和51(1976)年 文化功労者となる。パリ国立グラン・パレにおいて「芹沢銈介展」を開催。昭和52(1977)年 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する。昭和53(1978)年 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催。国会図書館での「本の装幀展」に特別出品。静岡・西武百貨店で「芹沢銈介小品展-のれん・装幀とその下絵・挿絵-」を開催。静岡市民ホールの緞帳図案「静岡市歌」制作。横浜市港北公会堂緞帳図案「陽に萠ゆる丘」制作。大原美術館で「芹沢銈介の蒐集-もうひとつの創造-展」を開催する。昭和54(1979)年 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催。米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催。昭和55(1980)年 東京国立近代美術館の「日本の型染-伝統と現代-展」に出品。中央公論社より『芹沢銈介全集』の刊行を開始する。昭和56(1981)年 静岡市立芹沢美術館が開館。昭和57(1982)年 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催。天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作。大原美術館で「芹沢銈介作釈迦十大弟子尊像展」開催。紫紅社より『歩 芹沢銈介の創作と蒐集』刊行。昭和58(1983)年 フランス芸術文化功労勲章を授与される。新宿京王百貨店で「88歳記念芹沢銈介展」開催。4月19日に妻たよ死去。8月病に倒れる。昭和59(1984)年 4月5日午前1時4分心不全のため死去。4月26日、日本民芸館にて日本民芸館葬。正四位に叙せられ、勲二等瑞宝章を受ける。

片桐修三

没年月日:1984/04/02

 日本大津絵文化協会会長で、大津絵研究の第一人者であった片桐修造は、4月2日午後3時52分、結腸ガンのため、大津市の大津市民病院で死去した。享年81。明治35(1902)年11月15日、大津市に生まれ、昭和3(1928)年、同志社大学英文科を卒業。同5年、大津市役所に就職し、同20年、同所を税務課長として退く。同21年より40年まで滋賀県庁で図書館司書をつとめる。同45年、大阪で万博が開かれた際には、「大阪日本民芸館」に勤務する。民芸を再評価した柳宗悦に学生時代から師事し、郷土の生んだ大津絵について、広く交通・産業史や文化とのかかわりをも視野に入れて研究し、大津絵の名の由来や、絵画内容の変遷についての論考を残した。一幹を号とする。岩佐又兵衛を大津絵の開祖と考える論に対し、決定的証拠の欠如を理由に反論。また、大津絵の発展過程を、大津仏画がはじめに生まれ、これに大津浮世絵が加わり、大津絵が独自の様式を獲得する時代を経て、大津絵仏画と大津浮世絵が共存するようになったとする論を展開し、従来あいまいであった大津絵研究に、科学的、客観的態度であたり、貢献するところが大きかった。昭和47年より52年までは甲子園短期大学司書兼講師、同52年より55年までは滋賀女子短期大学非常講師をつとめ、教育にも力をつくしたほか、『大津絵について』『原色大津絵図譜』『大津絵講和』および『文献を基とした大津絵略年譜』(『柳宗悦選集』 第十巻 大津絵所収)などの著書がある。『大津絵講話』は昭和59年滋賀県文学祭で入賞している。また、同52年に設立された日本大津絵文化協会では、設立以来会長をつとめ、機関誌「大津絵」にも執筆した。

清水刀根

没年月日:1984/03/25

 二科会理事、元群馬大学教授の洋画家、清水刀根は、3月25日午後1時22分、肝硬変のため前橋市の群馬中央総合病院で死去した。享年79。明治38(1905)年1月10日、群馬県前橋市に生まれる。本名、刀根男。大正13(1924)年、日本美術学校洋画科を卒業。同15(1926)年第13回二科展に「卓上静物」で初入選。以後同会に出品を続ける。昭和6(1931)年第18回二科展に「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」を出品し、二科賞を受け、翌年同会会友となる。一方、同5年、太平洋画会会員となるが、同10年退会。同9年、前橋に絵画研究所を開く。同18年、二科会会員となる。戦後、二科会の再編に参加。同25年5月、群馬大学教授となり、同45年停年退職するまで長く後進の指導に尽くした。同36年第46回二科会に「街」「牛と子供」を出品して会員努力賞を受賞。同54年、同会理事となった。初期には忠実な写生にもとづく人物像を多く描いたが、戦後マチス風の画風を経て、直線を多用した形態把握と幾何学的に整理された緊密な構図に至った。二科展出品歴--13回(大正15年)「卓上静物」、14回「明石を着たる女」、15回「白布をまとへる裸婦」、16回「後向裸」「A煤煙の町」、17回(昭和5年)「裸体」「赤いペティコートの娘」「花畑」、18回「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」、19回「ホール」「裸体」「母子供」、20回「舗道」「素人写真」「緑蔭小亭」、21回「河原に働く男」「遊ぶ女」、22回(同10年)「海岸親子」「眠れる母子」「静物」、23回「庭上三人」「浴衣着の女」、24回「唄」「双鏡」、25回「砂上」「風呂」、26回「野」「緑庭」、27回(同15年)「温室」、29回「良民たち」、31回(同21年)「丘」「室内」、32回「室内」「静物」、34回「海辺三人」「画室の二人」、35回(同25年)「海辺裸女」「画室の裸女」、36回「夏」「水」「白裸」、37回「レダ」「娘と猫」「農人」「鳥篭」、38回「子供二人」「母と子」「憂愁」、39回「懐古」「鳩」、40回(同30年)「少年」「群像」、41回「楽器を持つ女」「街と学生」「漁婦」、42回「山の話」、43回「若者」「庭」、44回「山」「村」、45回(同35年)「曳」「プラカード」、46回「街」「牛と子供」、48回「鳥篭」「室内」、49回「親児」、50回(同40年)「親仔馬」、51回「屋外レストラン」、52回「巴里の街(A)」、53回「教会」、54回「聖堂」、55回(同45年)「屋外カフェー」、56回「踊子」、57回「壷」、59回「街の朝」

山口華楊

没年月日:1984/03/16

 花鳥画一筋に描き続けた日本芸術院会員の山口華楊は、3月16日午後6時28分、肝蔵ガンによる心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年84。明治32(1899)年10月3日京都市中京区に友禅彩色家の二男として生まれ、本名米次郎。45年格致尋常小学校卒業後、家業を継がせたい父の意志で西村五雲に入門する。大正5年京都市立絵画専門学校に入学、この年早くも第10回文展に「日午」が初入選し早熟ぶりを示す。8年同校卒業後、五雲のすすめで竹内栖鳳の私塾竹杖会の研究会にも参加する。10年頃には、かつて知恩院派と呼ばれた土田麦遷、小野竹喬らが国画創作協会結成前に住んでいた知恩院崇泰院に仮寓し、一時国展の運動にも強い関心を示した。昭和2年第8回帝展「鹿」、翌3年第9回帝展「猿」が連続して特選を受賞、動物画家としてその名を知られ12年第1回新文展に「洋犬図」を出品する。また11年長岡女子美術学校教授、京都市立絵画専門学校助教授となり、13年師五雲が没した際画塾はいったん解散したが、一門により晨鳥社を結成、総務となりこれを主宰した。17年京都絵専教授となり(24年まで)、翌18年には海軍省従軍派遣画家としてジャワなど南方に従軍する。新文展、日展とたびたび審査員をつとめ、また京都市展、大阪市展の審査員もつとめて25年日展参事、26年京都日本画家協会理事長となる。29年第10回日展に斬新で理知的なフォルムと構図、色彩対比を見せる「黒豹」を出品、師五雲の影響を払拭した独自の様式を確立すると共に、現代的な日本画の登場として話題を集めた。31年には前年の第11回日展出品作「仔馬」により日本芸術院賞を受賞、46年日本芸術院会員となる。円山四条派の写実を出発点とし、穏雅で淡々と描き出す対象の中に知的でシャープな現代的感性を盛り込んだ作風は、戦後の日本画壇の動向の中でも一つの指標となった。44年日展改組に際し理事、46年監事、47年常務理事、50年顧問となる。また50年「画業60年山口華楊展」、54年「山口華楊素描展」、55年「山口華楊回顧展」を開催、57年秋より翌年にかけてパリのチェルヌスキ美術館で個展が行なわれ好評をよんだ。日本国際美術展などにも出品している。46年京都市文化功労者、48年勲三等瑞宝章、55年文化功労者、56年文化勲章を受章、57年京都市名誉市民となる。なお、詳しい年譜に関しては「山口華楊回顧展」図録(昭和55年、京都市美術館)等を参照されたい。

岡田又三郎

没年月日:1984/03/02

 日展理事の洋画家岡田又三郎は、3月2日長野県北佐久郡の別荘のアトリエで椅子にもたれるようにして死んでいるのを、訪ねてきた知人により発見された。前月20日すぎから冬の軽井沢を描くために一人で来ていたもので死因は急性心不全らしい。厳格な写実を基本とし大担な筆触による自然描写で知られる風景画家岡田は、大正3年(1914)年8月2日東京都中央区に生まれ、昭和8年東京府立第一中学校を卒業、同13年東京美術学校油画科を卒業した。卒業の年と翌14年の光風会展で連続受賞し、同15年光風会会友、同18年光風会会員となる。戦後、同21年の第1回日展に「恩師像」を出品し特選、岡田賞を受け、同28年第9回日展に「教会への道」で特選、同30年から日展へ委嘱出品した他、日展、光風会展、新樹会展、北斗会展に出品する。同35年から38年まで渡仏し、同38年パリのル・サロンに出品し銀賞を受賞、同年サロン・ドートンヌ絵画部会員に推挙された。この間、同37年の第6回新日展で菊華賞を受けた。同39年日展審査員をつとめ、同年フランス・アカデミー賞を受賞。翌40年再渡仏し、同年のル・サロン展に「冬の箱根」で金賞を受賞する。同41年「岡田又三郎作品展」を東京・日本橋三越で開催、同45年には「ヨーロッパ風景をテーマに-岡田又三郎油絵展」を同じく日本橋三越で開催した。同46年「大地の詩」で芸術選奨文部大臣賞を受け、同51年には第7回日展出品作「ともしび」で日本芸術院賞を受賞した。

山崎覚太郎

没年月日:1984/03/01

 文化功労者で元日展理事の漆芸家山崎覚太郎は、3月1日午後0時45分心不全のため東京都杉並区のロイヤル病院で死去した。享年84。明治32(1899)年6月29日富山市に生まれる。「北堂」の雅号をもつ。大正4(1915)年高岡工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)漆工科★漆部に入学し、8年同校卒業と共に東京美術学校漆工科に入学する。在学中いずれも特待生となり、13年卒業。大正14年日本美術協会展に「衣裳盆」を出品し推奨、同年のパリ装飾美術博覧会で「柘榴の硯箱」が金賞を受賞する。また美術団体「无型」の結成に参加し、昭和2年美術工芸部門が加えられた第8回帝展に「化粧台」が初入選した。3年第9回帝展「衝立」、4年第10回帝展「蒔絵ストーブ前立」、6年第12回帝展「サイドボード」といずれも特選を受賞し、7年推薦、以後無鑑査となる。11年より翌年にかけて1年間、商工省、文部省の研究員として渡欧、帰国後『巴里漆芸家訪問録』を出版した。13年第2回新文展に「漆器奔放屏風」、14年第3回新文展に「(蒔絵屏風)猿」と現代的なデザインの作品を発表し、14年よりたびたび審査員もつとめる。この間大正14年東京美術学校助手、15年講師、昭和3年助教授、18年教授(21年依願退職)となった。戦後も日展に出品を続け、27年参事就任、28年第9回日展出品作「三曲衝立猿」により翌年日本芸術院賞を受賞し32年日本芸術院会員となる。一方、26年日本漆工協会初代理事長となり、36年には日展工芸部門の新傾向の作家を糾合して現代工芸美術家協会を結成し委員長に就任、翌年より日本現代工芸美術展を開催すると共に、40年同協会が社団法人となるに際し初代会長となる。また同協会は39年より48年まで北米、中南米、東南アジア、ヨーロッパなど各地で毎年海外展を開催し、日本工芸の海外への紹介につとめた。33年社団法人日展の発足と共に常務理事、44年理事長となるに及んで若返りをはかり日展の改革を敢行、49年会長、53年顧問となる。色漆の技法を開拓し漆芸に絵画的表現を導入、用の枠内にとどまっていた漆芸の近代化を進めて芸術表現の領域まで高めると共に、工芸界の現代派の総帥として大きな指導力を発揮した。代表作に上記作品のほか「群鹿」(昭和28年)、「(漆額面)疾風」(40年第8回日展)、「駛」(52年第9回改組日展)など、躍動する動物を描いた豪快な作風を得意とした。41年文化功労者、45年勲二等瑞宝章、52年勲二等旭日重光章受章。なお、詳しい年譜に関しては、「漆芸65年山崎覚太郎回顧展」(57年、銀座松屋)図録等を参照されたい。

伊本淳

没年月日:1984/02/27

 昭和36(1961)年の渡仏後、フランスを中心に活動していた彫刻家伊本淳は、2月27日午後1時15分、悪性リンパ腺しゅようのためパリのパッシー病院で死去した。享年68。大正4(1915)年、東京に生まれ、東京美術学校工芸科鋳金部に学ぶ。同校在学中の昭和12年第24回二科展彫刻部に「婦人首」で初入選。翌年東美校を卒業する。同21年復員帰国し、新制作派協会展に数年出品する。同29年画家野間仁根、彫刻家植木力、浅野孟府らによって創立された一陽会に会員として参加する。同36年春、渡仏、翌37年より42年までサロン・デ・ザンデパンダン展、同38年より42年までサロン・ド・ラ・ジュンヌ・スキュルプチュール展に出品、同40年ギャラリー・サン・ローラン(仏)で個展を開くとともに、ギャラリー・ラ・トゥールでの選抜展にピカソらに混じって出品する。同41年ギャラリー・オー・バットゥリエ(ベルギー)で個展。同42年には7年ぶりに帰国し、高島屋で個展を開いた。マイヨール風の写実的人体彫刻から出発したが、渡仏後、空想や文学から生まれた主題を、人体を基本としてデフォルメした形体で表現する作品に転ずる。金属、特に鉄を主な素材とし、鍵や釘などを熔接してアサンブラージュ的要素をとりいれている。箱根彫刻の森美術館の「断絶」や東京・田町の産業安全会館前の「黎明」などで知られる。一陽展出品歴 第2回(昭和31年)「女人柱像」、3回「女1」、4回「水(テラゾー)」「少女(テラゾー)」「踊る(鋳物)」、5回(同34年)「待望」、6回「作品」、以後出品せず。

黒木貞雄

没年月日:1984/02/23

 日本版画協会審査員の木版画家黒木貞雄は、2月23日午後6時50分、前立せんガンのため宮崎県延岡市の林医院で死去した。享年74。明治41(1908)年12月8日、宮崎県延岡市に生まれる。昭和5(1930)年3月宮崎県師範学校本科を卒業。翌年同校専科を卒業して上京し、川端画学校洋画科で同9年まで学ぶ。同科在学中の同8年より版画家平塚運一に師事。後に恩地孝四郎にも教えを受ける。同10年第4回日本版画協会展に「ふるさとの山」で初入選、翌年第11回国画会展に「むかばきの夕映」(版画)で初入選し、以後両展に出品を続ける。同13年第7回日本版画協会展に「青島」を出品し版画道賞を受賞。同15年同会に「浜木綿の花咲く青島」他2点を出品し2600年記念大賞次賞を受け、同会会員に推挙される。同17年第17回国画会展に「かんな」「浜ゆふ咲く島」を出品し褒状を受ける。同27年国画会会友となる。浦々庵とも号し、郷里宮崎にあってその風景、風俗に取材した木版画を制作しつづけた。国際展にも出品し認められる一方、郷里の文化発展にもつくした。同30年に画集『日向風物版画集』を刊行している。国画会展出品歴 第11回(昭和11年)「むかばきの夕映」、12回「霧島山早春」、13回「水郷の春」、14回「小雨ふるビロー島」、15回(同15年)「港」、16回「むかばき山遠望」、17回「かんな」「濱ゆふ咲く島」、18回「ひまわり」「さぼてん」、19回「風景」、21回「日向風景」、22回「ジャバ人形のある静物(A)」、24回「盆踊」「臼太鼓」、25回(同26年)「都井の馬」、26回「夜神楽」、27回「風神の舞」「雷神の踊」、28回「天主堂」、29回「七面鳥(A)」、30回(同31年)「公園」「草の中の鳥」、31回「城跡」、32回「石仏(青)」、33回「サボテン」「蕗」、34回「干網」「波状岩」、35回(同36年)「回想」「夜精の舞」、36回「はにわ」「鳥」、37回「群」「網」、38回「魚」、39回「作品」「浮遊」、40回(同41年)「解体された家」、41回「高千穂の曇海」、42回「石仏と鳥」、43回「五匹の馬」、44回「凶影」、45回(同46年)「桜島」、46回「聖者」、47回「巌」、48回「祖霊の山」、49回「仙境暁映」、50回(同51年)「米良三山」、51回「けし」「山波」、52回(同53年)退会

堀田清治

没年月日:1984/02/17

 新槐樹社代表、日展参与の洋画家堀田清治は、2月17日心不全のため東京都三鷹市の厚生会病院で死去した。享年85。明治32(1899)年12月6日福井市に生まれ、県立福井中学校卒業後上京、大正9年太平洋美術研究所へ入り高間惣七の指導を受ける。翌10年新光洋画展に出品し受賞、昭和4年には槐樹社展に「靴屋」を出品し槐樹社賞を受賞、その後「飢餓」「基礎工事」でも同賞を受けた。同8年第14回帝展に「炭抗夫」で特選を受け、同11年には新文展無鑑査となる。戦後は旺玄社を改称し同22年発足した旺玄会に同25年に入会し、のち同会代表をつとめたほか、日展には同31年から出品、同32年日展会員、同37年日展評議員、同44年からは日展参与をつとめる。この間、同33年に新槐樹社を創立し代表となる。翌34年から2年間渡仏し、主にアカデミー・ジュリアンに学ぶ。同50年の日展出品作「磨崖不動明王」で文部大臣賞を受賞する。

田崎廣助

没年月日:1984/01/28

 阿蘇山を描き続けた日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家田崎廣助は、1月28日午後6時、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年85。明治31(1898)年9月1日福岡県八女郡に父作太郎の長男として生まれ、本名廣次。大正5年父の反対で東京美術学校進学を断念し福岡師範学校に入学するが、卒業後画家を目指し9年上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事する。関東大震災を機に京都に移り、15年第13回二科展に「森の道」等3点が初入選、この年より廣助と号す。昭和2年一旦上京した後7年渡欧しパリにアトリエを構える。8年サロン・ドートンヌに「パリの裏町」など3点が入選、9年円相場暴落のため帰国し翌10年の第23回二科展に滞欧作7点を特別陳列する。11年石井柏亭らにより一水会が創設されると翌年の第1回展より出品、13年第2回一水会展に「丘の小松」等3点を出品し一水会賞を受賞する。14年一水会会員となり、16年佐分利賞を受賞。戦後一水会に出品を続けると共に日展、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品、四季折々の様々な阿蘇山を描き続ける。また24年自らを中心とする広稜会を結成する。26年日展審査員をつとめ33年評議員、42年常任理事となる。36年「夏の阿蘇山」「朝やけの大山」等の連作で日本芸術院賞を受賞し、42年芸術院会員となった。このほか一水会運営委員もつとめ、48年東郷青児らと中心になり日伯現代美術展を開催、その功績により同年ブラジル政府よりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール章を受け、54年日伯美術連盟会長に就任する。50年文化勲章を受章すると共に初の回顧展(日本橋高島屋)を開催した。重厚で確かな存在感のある山の表情を日本的情感を込めて描き出したその油彩画は、「阿蘇の田崎」の呼び名を生んだ。53年福岡市美術館に代表作30余点を寄贈、また長野県軽井沢町に財団法人田崎美術館(61年開館)の建設計画を進める。なお、詳しい年譜に関しては『田崎廣助画集』(田崎美術館編)等を参照。

杉原信彦

没年月日:1984/01/28

 前東京国立近代美術館工芸課長の杉原信彦は1月28日肺ガンのため東京都中野区の国際仁愛病院で死去した。享年63。大正9(1920)年11月12日山口県大島郡の医師の家に生まれ、昭和19年東京美術学校日本画科を卒業。学徒出陣し海軍に従軍。戦後、同22年帝室博物館に入り埴輪修理室助手をつとめ同25年文化財保護委員会事務局美術工芸課、同26年同記念物課を経て、同28年文部技官となり同無形文化課に勤務、同37年無形文化課工芸技術主査、同39年無形文化課文化財調査官となる。同42年京都国立博物館学芸課、翌43年文化庁文化部文化普及課に併任したのち、同44年福岡県教育庁文化課長に転出する。同46年文化庁文化財保護部管理課課長補佐、同50年同課国立歴史民族博物館設立準備調査室主幹を経て、同51年東京国立近代美術館工芸館設立準備室長となり工芸館設立に尽力し、翌52年同館工芸課長に就任する。同57年停年退官した。工芸、とくに染織研究家として知られ、著書に『染の型紙』(昭和59年、講談社)がある。

今泉篤男

没年月日:1984/01/19

 前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男は、1月19日急性心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年81。戦前から美術評論に従事し、戦後の美術評論界を先駆的に導き美術評論を独自の領域をもつ世界へ高め、また、国立近代美術館の創設に携わり美術行政でも多大の功績のあった今泉は、明治35(1902)年7月7日山形県米沢市に生まれた。山形県立米沢中学校、山形高等学校理科甲類を経て大正12年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、主に大塚保治の指導を受けた。昭和2年卒業後同大学大学院に在籍し、同7年に渡欧、はじめパリ大学、ついでベルリン大学へ転じデッソアー、ニコライ・ハルトマン、オイデベルヒトらの講義を受ける。滞欧中、佐藤敬、田中忠雄、内田巌、小堀四郎、森芳雄、野口弥太郎、佐分利真等の作家と知り会い同9年に帰国。帰国の年から美術評論の執筆を開始し、新時代洋画展感想」(同9年)、「梅原龍三郎と安井曽太郎」(同13年)、『ルノアル』(同)等、展覧会批評、日本現代作家論、西洋美術紹介などに精力的に従事した。また、同10年には「美術批評に就ての疑問」を発表、同13年には土方定一、瀧口修造、植村鷹千代、柳亮らと「美術批評の諸問題を語る座談会」を持つなど、はやくから美術批評の近代的な在り様に対して積極的な発言を行い、この間、同11年には美術批評家協会の創立に参加し会員となった。同10年から17年まで財団法人国際文化振興会に勤務、同15年には文化学院美術部長となる。戦後は、同25年跡見短期大学教授生活芸術科科長となり、翌年国立近代美術館設置準備委員に任命され、翌27年跡見短大を退職し同年創設の国立近代美術館次長に就任した。同26年美術調査研究のため欧米を歴訪。同年毎日新聞社主催のサロン・ド・メ日本展が大きな反響を呼び、翌年日本作家がパリの同展に招待出品されたのを見て、創刊間もない「美術批評」誌上に日本作品に対する率直で鋭い批判を行い論議を呼んだ。同29年美術評論家連盟創立に際し常任委員となり、翌30年には仮称「フランス美術館」設置準備協議会委員(33年まで)となる。国立近代美術館次長としては、「現代美術の実験」展(同36年)を開催し、荒川修作・中西夏之ら若手の作家をとりあげるなど意欲的な企画を主導した。また、日本国際美術展をはじめ各種展覧会に関与しその批評を行ったのをはじめ、浅井忠、梅原、安井、坂本繁二郎、熊谷守一から森芳雄、山口薫にいたる近代日本作家論の幅を広げていった。同38年国立近代美術館京都分館長となり、同42年同分館が独立し京都国立近代美術館となり初代館長に就任、これを機に工芸の世界へも強い関心を寄せ、以後、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、岩田藤七、芹沢銈介、志村ふくみらをとりあげ、工芸批評に新機軸をもたらした。同44年京都国立近代美術館長を辞任し、同46年からは跡見学園女子大学美学美術史学科教授として西洋美術史を講じ、同49年に退職。この間、同34年に国立西洋美術館評議員となったほか、国公私立の美術館の運営委員、評議員等を数多く歴任した。評論の中心は日本近代作家論にあり、絵画、版画、彫刻、工芸の各領域に及んだが、当初から従来の美術批評における感覚的な印象評を脱し、かつ美術評論を創造的な独自の領域として自立させるため、評論の言語も芸術作品同様の平明さと鋭さを備えなければならないとの信念をもっており、論理的でありながら、その体験に基づく平明な美文調の文章には定評があった。尨大な著述の主要なものは、『今泉篤男著作集』(全6巻 昭和54年、求龍堂)に収められている。

荒木哲夫

没年月日:1984/01/10

 銅版画を中心に多様な技法を駆使して心象風景を描いた版画家、荒木哲夫は、1月10日午前3時3分、クモ膜下出血のため、東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年46。昭和12(1937)年6月1日、東京府台東区に、皮革加工業を営む生家の三男一女の長男として生まれる。同20年、東京府本所区立業平国民小学校に入学、10歳の時、肋膜からカリエスという宿痾に襲われ、美術鑑賞や読書などを趣味とする内省的生活を送る。同26年東京都台東区立精華小学校を卒業。同30年、同区立福井中学校を卒業し、病気のため通信教育で学び同33年都立上野高校を卒業、同年武蔵野美術大学西洋画科に入学する。同校在学中、版画に興味を持ち、同35年東京国際版画ビエンナーレ展でフランスの版画家ジョニー・フリードランデルの作品に感銘を受ける。同37年武蔵野美術大学西洋画科を卒業。パリ留学をめざして英語、仏語を学び、同40年、パリへ留学、フリードランデル工房に入門。フリードランデルの指導を受けるかたわら、アカデミー・グラン・ショーミエール、パリ市立素描講座クロッキー室に学ぶ。同42年パリで個展。翌年はブリュッセルで個展を開くが、同43年病を得てパリで手術を受け、その後も体力が回復せず同45年に帰国する。帰国後もクラコウ国際版画展、ウィーン国際版画展に出品、受賞する他、国内外の展覧会に出品する。同51年東京芸術大学美術学部材料学研究室に学び、駒井哲郎に師事する。翌52年より日本版画協会展に出品。同53年、東京版画研究所でリトグラフを学び、銅版の他、モノタイプ、エンボーシュ、コラージュなど多彩な技法をとり入れた新たな展開を見せた。代表作に「夜想曲」(昭和42年)、版画集『夜との対話』『昼との対話』(同49年)がある。

高橋虎之助

没年月日:1984/01/08

 太平洋美術会会長の洋画家高橋虎之助は、1月8日胃ガンのため東京都練馬区の北町病院で死去した。享年93。明治23(1890)年7月4日高知県高岡郡に生まれ、高知県立農林学校卒業後、大正元年上京し太平洋画会研究所に入り中村不折、満谷国四郎らの指導を受ける。大正3年の大正博覧会に「漁村の斜陽」が入選、同5年第10回文展に「関川の春」が入選したのを始め、文展、帝展、新文展(無鑑査)に出品する。この間、大正12年から2年間渡仏し、同12年のサロン・ドートンヌに「ジャルダン」が入選した。太平洋画会に所属し、同展に出品するとともに太平洋美術学校で教えた。戦後は太平洋画会(現太平洋美術会)の重鎮として会の運営にあたり、のち同会会長となる。風景画を得意とし、作品は他に「春日の杜」(大正7年)、「アトリエの庭」(同13年)などがあるが、90歳を越してから裸婦像に取り組むなど晩年まで意欲的な制作を続けた。

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