本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





宮川寅雄

没年月日:1984/12/25

 日中文化交流協会理事長、和光大学教授、宮川寅雄(号・杜良)は、12月25日午後10時45分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京女子医大付属病院で死去した。享年76。1908(明治41)年10月10日、宮城県仙台市に生れる。1927(昭和2)年、早稲田第二高等学院に入学、会津八一の知遇を受け、以後その逝去にいたるまで師事する。1930(昭和5)年、早稲田大学政治経済学部経済学科入学、在学中、社会運動に参加、1931年、同大学中退、反軍国主義の闘いに参加し、検挙される。1940(昭和15)年、出獄。1951(昭和26)年、北海道より東京にもどり、日本近代史研究会、文化史懇談会などの活動に参加、1956(昭和31)年、日中文化交流協会の創立に参画、1973(昭和48)年、同協会副理事長、1979(昭和54)年、理事長に就任した。この間、1966(昭和41)年に創立した和光大学人文学部芸術学科長を歴任する。日中文化交流協会の活動を通じて、長期にわたり日中友好と日中文化交流のため尽力し、1962(昭和37)年2月以来、1983(昭和58)年10月まで、計28回にわたり中国を訪問、中国の文物や美術など各種展観の日本開催や、日本と中国の文化各分野の代表団の交流には常に中心となって尽力した。その学問と文芸の領域は広く、日中の古今の文化や美術に眼をむけ、また会津八一に師事して和歌や書をよくし、特に1970(昭和45)年代以後は、書・画を熱心にやり、作陶にもたずさわって個展もしばしば開催した。その主な著書は、『岡倉天心』(東京大学出版会 1956)、『近代美術とその思想』(理論社 1966)、『会津八一』(紀伊國屋書店 1969、1980)、『近代美術の軌跡』(中央公論社 1972)、『会津八一の文学』(講談社 1972)、『中国美術紀行』(講談社 1975)、『会津八一の世界』(文一総合出版 1978)、『秋艸道人随聞』(中央公論社 1982)、『歳月の碑』(中央公論美術出版 1984)、『風琴-宮川寅雄歌集』(短歌新聞社 1985)、『美術史散策』(恒文社 1987)他多数あるほか、『会津八一全集』(中央公論社)の編輯に尽力した。

安部栄四郎

没年月日:1984/12/18

 雁皮を用いた出雲民芸紙の創作者で人間国宝の安部栄四郎は、12月18日午前11時54分、クモ膜下出血のため島根県松江市の松江市立病院で死去した。享年82。明治35(1902)年1月14日島根県八束郡に製紙業家の二男として生まれる。9歳より手漉き和紙作りを手伝い始め、出雲国製紙伝習所で修業を積む。雁皮紙は雁皮の繊維を原料とし、その特質を生かした緊密でなめらかな紙質のもので、変色や虫害に強く永久保存などの記録用紙として適しており、和紙の王様とも言われる。昭和6年松江市を訪れた民芸運動の提唱者柳宗悦に出会い推賞されたことが契機となり、雁皮紙による出雲民芸紙の創作を始める。民芸運動を通してバーナード・リーチ、浜田庄司、河井寛次郎、棟方志功らとも親交を深めた。9年紙漉きとしては初めて東京の資生堂で個展を開催する。35年より3年間宮内庁の依頼により正倉院宝物紙を調査、同年島根県無形文化財の認定を受ける。42年日本民芸館賞を受賞、翌43年「雁皮紙製作技術保持者」として国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された。49年パリ、51年ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスで個展を開催し、和紙の文化を海外に紹介、また55年北京で行なわれた展覧会では「中国は紙漉きの先輩」と展示品348点すべてを中国側に寄贈した。58年10月自宅横に、70余年にわたり漉き上げた和紙のほか棟方志功の襖絵、河井寛次郎の陶器など約1500点を収蔵・展示する「安部栄四郎記念館」を開館、また紙漉きの技術を伝えるため60年秋の完成予定に向けて伝承所建設の計画も進行中だった。著書に『和紙三昧』『紙すき五十年』などがある。

楠部彌弌

没年月日:1984/12/18

 陶芸界の重鎮として活躍した文化勲章受章者、日本芸術院会員の楠部彌弌は、12月18日午後7時、慢性ジン不全のため京都市中京区の大沢病院で死去した。享年87。明治30(1897)年9月10日京都市東山区に、楠部貿易陶器工場を経営する父千之助の四男として生まれる。本名彌一。父はかつて幸野楳嶺に日本画を学び僊山と号した。明治45年京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所、同期生に八木一艸がいた。大正4年卒業、家業を継がせたい父の意志に反し、東山の粟田山にアトリエを構え創作陶芸を始める。7年粟田口の古窯元跡の工房に移り本格的に陶芸を始めると共に河井寛次郎、黒田辰秋、川上拙以、池田遥邨、向井潤吉らと交流を深める。国画創作協会の活動にも刺激され、9年八木一艸、河村己多良(喜多郎)ら5人と「赤土」を結成、陶芸を生活工芸から芸術へ高めるべく運動を始める。第1回展を大阪で開催し4回まで続けるが、12年同会は自然消滅。13年パリ万博に「百仏飾壷」を出品し受賞、一方木喰の展覧会準備を通じて柳宗悦を知り、「劃華兎文小皿」(13年)「鉄絵牡丹花瓶」(14年)など民芸運動の影響を示す作品を作る。しかしまもなくこの運動からも離れ、昭和2年八木一艸らと新たに「耀々会」を結成、また同年工芸部が新設された第8回帝展に「葡萄文花瓶」が入選する。8年第14回帝展で「青華甜瓜文繍文菱花式龍耳花瓶」が特選を受賞しこの年彌一を彌弌と改名。翌年帝展無鑑査となり、この頃朝鮮の古陶磁や仁清などの研究に没頭する。12年パリ万博で「色絵飾壷」が受賞、この年の第1回新文展に後年楠部芸術を特色づける「彩埏」の技法を用いた「黄磁堆埏群鹿花瓶」を出品する。彩埏は釉薬を磁土に混ぜ何度も塗り重ねることで独特の深い色あいを生むものである。戦後一時日展改革要求が容れられず京都工芸作家団体連合展を組織(23年)、日展をボイコットしたことがあったが、26年第7回日展「白磁四方花瓶」が芸術選奨文部大臣賞を受賞した。28年京都の若手陶芸家達を中心に青陶会を結成し指導にあたると共に伊東陶山らと搏埴会を結成する。同年の第9回日展出品作「慶夏花瓶」により翌29年日本芸術院賞を受賞、37年日本芸術院会員となる。また中国古来の彩色法を研究しながら早蕨釉、蒼釉(碧玉釉)などの発色法を考案し、「早蕨釉花瓶」(37年第1回現代工芸美術家協会展)「萼花瓶」(44年第1回改組日展)などを発表する。27年日展参事となって以後33年評議員、37年理事、44年常務理事、48年顧問、また54年日本新工芸家連盟を結成した。44年京都市文化功労者、47年毎日芸術賞、文化功労者、50年京都市名誉市民、53年文化勲章を受章。晩年は彩埏に一層の洗練を加え、52年パリ装飾美術館で「日本の美・彩埏の至芸楠部彌弌展」が開催された。『楠部彌弌作品集』(43年中央公論美術出版)『楠部彌弌展』(46年毎日新聞社)『楠部彌弌展』(52年講談社)『楠部彌弌』(56年集英社)などがある。なお、詳しい年譜は「楠部彌弌遺作展」(京都市美術館、同61年)等を参照。

黒田嘉治

没年月日:1984/12/12

 日展参与の彫刻家黒田嘉治は、12月12日脳血栓のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年3月29日東京市浅草区に生まれ、東京中学校を経て昭和6年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業。在学中の同4年第10回帝展に「立女」で初入選し、第12回「習作」、第15回「習作」で特選を受け、同8年帝展無鑑査となる。その後も官展に出品するとともに、同15年から戦後の同38年まで大須賀力と彫刻二人展を18回開催する。戦後は日展に出品した他、国立近代美術館主催「近代の彫刻展」(同28年)をはじめ、日本国際美術展(同32、34、38、40、42年)、現代日本美術展(同33、39、41、43年)、秀作美術展等にも出品。同33年日展評議員となり、翌34年改組第2回日展出品作「立つ女」で文部大臣賞を受賞した。同54年日展参与となる。主要作品は他に「靴下をはく女」(同36年改組第4回日展)、「立つ女」(同42年日本国際美術展)など。

竹林薫風

没年月日:1984/12/11

 奈良一刀彫りの第一人者竹林薫風は、12月11日午前6時8分、脳出血のため奈良市内の県立奈良病院で死去した。享年81。明治36(1903)年7月10日、奈良市に生まれる。本名薫。大正14(1925)年、東京美術学校鋳金科教授であった沼田一雅(勇次郎)、および木彫家吉田芳明(芳造)に師事する。昭和3(1928)年第9回帝展に「禿鷹」を出品して初入選、以後新文展、戦後は日展に出品を続ける。動物を得意とし、写実的で均整のとれた形体と切れ味の良いのみ跡をいかした仕上げを特色とする。同43年皇居新宮殿の宮内庁雅楽部舞楽用大太鼓の鼓縁に鳳凰、竜を彫刻、同48年には大阪石切神社の八道将軍像を制作した。『奈良の一刀彫』(同53年刊)を著したほか、奈良工芸協会理事長、奈良木彫家協会会長をつとめ、古くからの伝統を持つ奈良一刀彫りの保存と発展につくした。 出品歴 帝展第9回「禿鷹」、10回(昭和4年)「駄鳥」、11回「鹿」、12回「鹿」、13回「軍鶏」、文展昭和11年「満州白鹿」、同第5回(同17年)「大東亜の指導者」、日展第3回(同22年)「暁」、4回「飛火野」、6回「若兎」、7回「飛ぶ鹿」、11回「軍鶏」、改組日展第2回(同34年)「朝日ケ丘」

堀柳女

没年月日:1984/12/09

 「柳女人形」で知られる人間国宝の人形作家堀柳女は、12月9日午前7時40分肺炎のため東京都目黒区の厚生中央病院で死去した。享年87。明治30(1897)年8月25日東京都港区に生まれ、本名山田松枝。幼くして父を失ない、後運送業を営む堀家の養女となる。養父の事業の失敗、淡路島での女学校入学後まもなくの養父の死、大阪での家業復興と波乱に富む少女時代を送る。22歳の頃より荒井紫雨に日本画を学び、次いで少女雑誌に絵を応募したことから竹久夢二を知り、書生としてそのアトリエに出入りする。ここで夢二を中心に集まるグループの芸術思潮に影響を受け、しんこ細工に想を発した人形作りを始めた。これを土台に本格的な技法を取り入れ、仲間10数人と結成した「どんたく社」の昭和5年第1回人形展(銀座資生堂)に「袖」「幌馬車」を出品、8年銀座三越で第1回個展を開く。翌9年鹿児島寿蔵、野口光彦らと甲戌会を結成し、11年工芸部門に初めて人形が加えられた改組第1回帝展に「文殻」が入選した。13年第6回甲戌会「宇治の川舟」「鳥追舟」や同年第2回文展「怒る濤和む波」などで人形作家としての評価を確立、12年より18年まで人形塾を経営する。戦後22年、エキゾチックな雰囲気を漂わせる「後宮」を発表、24年第5回日展「静思」が特選を受賞し、翌年日展初の女性審査員となる。更に27年第8回日展「彩雲」は北斗賞を受賞、30年衣裳人形の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、また29年以降日本伝統工芸展に出品、審査員をつとめた。この頃より作風は円熟期に入り、異国的情緒の「木花開耶姫」(28年第9回日展)「瀞」(32年)「古鏡」(38年第10回日本伝統工芸展)、大胆なフォルムを見せる「鉦鼓」(37年第9回日本伝統工芸展)「黄泉比良坂」(39年第6回全日本女流人形展)「太陽に遊ぶ」(55年傘寿記念作品展)、ほのぼのとした愛らしさの「竹取物語」(38年)「縁日」(42年第1回棟会展)「うつらうつら」(43年)などの作品を発表する。また蝸牛会、細螺会を主宰し、42年紫綬褒章、48年勲四等瑞宝章を受章、58年ナンシー米大統領夫人来日に際し迎賓館で創作人形作りを披露した。著書に『人形に心あり』『堀柳女人形』(44年講談社)がある。

丸谷端堂

没年月日:1984/12/08

 日展参与の鋳金家丸谷端堂は、12月8日午後7時50分、心不全のため東京武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年84。明治33(1900)年5月26日、東京市浅草区に生まれる。本名修造。明治45年府立第三中学校へ入学するが中退。大正2(1913)年、絵画塾へ入るが父の勧めにより中退。翌年山本純民に師事し金工を学ぶ。同8年より山本安曇に師事。同13年より安曇の紹介により香取秀真に師事し公募展出品に志す。同15年東京府工芸展に「莨セット」を出品して三等賞、同年の鋳工展では「杵型花生」で褒賞を受賞。以後、昭和2(1927)年には東京府工芸展「喫煙具」一等賞、鋳金展「インクスタンド」銅賞、同3年には商工省工芸展「莨セット」銅賞、鋳金展「虞美人草花生」「一輪挿し」褒賞、同4年には日本美術協会展「電気スタンド」銅賞、鋳金展「魚鳥文花生」銀賞、同5年には日本美術協会展「香炉」銅賞、鋳金展「輪違い文花生」銅賞、商工省工芸展「電気スタンド」褒賞、同6年には日本美術協会展「寸筒文花生」銀賞、東京府工芸展「インクスタンド」三等賞、同7年には商工省工芸展二等賞、日本美術工芸展「水盤」銅賞、鋳金展「バンド金具」銅賞、同8年には日本美術協会展銅賞、商工省工芸展「魚文耳付花生」三等賞、同9年には日本美術協会展「瓶かけ」銀賞、商工省工芸展二等賞、同11年には東京府工芸展「胡銅花生」一等賞、鋳金展「青銅花生」銀賞、同12年には商工省工芸展「青銅花生」三等賞、同13年には東京府工芸展「七幅香炉」三等賞、日本美術協会展「花蝶文花生」銅賞、同14年には商工省工芸展「手取群蝶文花器」三等賞、日本美術協会展「虫文水盤」銀賞、東京府工芸展「竜耳付花生」一等賞と受賞を重ねる。同15年より帝展に出品し、同17年より同展無鑑査、以後も官展に出品を続け、戦後の日展では同24、30、34、39、48年の5回、審査員をつとめ、同50年日展参与となる。また、同年より東京デザイン専門学校顧問となる。同54年より腎不全を患う。花生や置物を得意とし、伝統を踏まえながらそれに縛られることなく、用の美を追求した。明快で整った形態と安定感を持つ、斬新なデザインの作品をつくりあげた。

鈴木亜夫

没年月日:1984/12/07

 小島善太郎の死後、独立美術協会創立会員の最後の一人となった鈴木亜夫は、12月7日午前7時30分、老衰のため、東京都調布の自宅で死去した。享年90。明治27(1894)年3月26日、工学博士鈴木幾弥太の次男として大阪に生まれる。同45年、東京の芝中学に入学、葵橋洋画研究所に学び東京美術学校西洋画科に入る。同校在学中の大正5(1916)年第3回二科展に「ターンテーブル」で初入選。以後、同会に出品を続ける。同10年、東美校を卒業し、同研究科に進み、藤島武二に師事する。万鉄五郎を中心とする円鳥会、および中央美術展に参加し、「葡萄と女」で中央美術賞を受賞する。昭和4(1929)年、一九三〇年協会に参加。同5年、里見勝蔵らの同志と独立美術協会を創立。フォービスム的色彩と自由な筆使いをとり入れつつ、日本的油絵を追求する。同19年、陸軍省の依嘱によりビルマに赴き記録画「ラングーンの防空とビルマ人の協力」を制作。戦後も独立美術協会に出品。同41年渡欧し翌年日動画廊で個展を開いてその成果を発表する。同57年には銀座、ギャラリーミキモトで米寿記念回顧展を開く。風景、静物のほか、人物をモチーフにとり入れた象徴的作品などを描き、詩情ある画風を築いた。 二科展出品歴 第3回(大正5年)「ターンテーブル」、4~6回出品せず、7回「花篭」、8回(同10年)出品せず、9回「赤日傘の女」「肩を拭く女」、10回「静物」、11回「花と少女」「風車のある丘」、12回出品せず、13回(同15年)「黒い船」「裸婦立像」「裸婦臥像」「硝子戸の中の少女」「花を生ける女」、14回(昭和2年)「樹蔭読書」「裸婦座像」「夏」「碇泊」、15回「バルコン」「編物するM子」、16回「露臺母子」「樹蔭午睡」「日傘さす婦人」「読書する少女」「グロキシニヤ」「龍洞院の百日紅」、17回(同5年)「母性」「池畔緑陰」「支那服の少女」「蕃布を配せる静物」「Y楽長補の像」 独立展出品歴 第1回(昭和6年)「鴨」「ヴァリエテ」「サーカスの娘達」「卓上静物」「女の顔」、2回「巌」「子供の顔」「二人の曲芸師」「少年と軍楽手」「女の顔」「渓流」「テレジーナの踊り」「伊豆下田風景」「オランダ人形」、3回「白馬」「牛に騎る女」「夏の少女」「舗道」「雨」「豹」「馬ト野獣」、4回「裸婦立像」「薔薇」「狩獵」「幼年像」「月と白馬」「薔薇」「人形を造る」、5回(同10年)「撮影」「馬と噴火口」「牡丹」、6回「猿と踊り子」「牡丹」「麦秋」「乗馬」「人形」、7回「草上画作」「競馬」「樵夫」、8回「TUBA」「丘の上」「桜」、9回「闘ひの譜」、10回(同15年)「渚」、11回「山湖秋色」「海濱の午後」「駒ケ岳新雪」「峠路」、12回「穂高初秋」「二人のアンコ」「朝岳」「上高地初秋」、15回(同22年)「海のアンダンテ」、16回「街の楽団」、18回(同25年)「お茶時」「裸婦習作」、20回「廃船」「志賀島風景」、21回「老婦人像」「手風琴」「化粧」、22回「室内婦人」「日傘」、23回(同30年)「朝顔A」「芋」「朝顔B」、24回「水をやる」「ばらの花」、25回「夏の午後」「夏の日」、26回「赤い牛舎」「ミサイル」「猩々の舞い」、27回「北海山湖(摩周湖)」「アイヌの長老」「地球岬」、28回(同35年)「廃船」「船のある静物」「船のある静物(桜島)」、29回「土器」「土偶」、31回「無人灯台」「人魚のいる風景」、32回「湖騒の村」「獅子」、33回(同40年)「能登の寒冷前線」「静物」、34回「メニール・モンタンの坂道」「巴里の壁」、35回「トレドの驢馬」「籘椅子に寄る」、36回「マルケン島の女」「石の馬(無力の抵抗)」、37回「槍」「新聞を読む人」、38回(同45年)「妖雲」「巴里の花屋」、39回「シャルトルへ行く」「実りの行進」、40回「暁雲白馬」「みどりの庭」、41回「亜夫山荘遠望(会津芦の牧温泉)」「ムウムウの満里子」、43回(同50年)「石狩川赤陽」「楽譜持てる少年」、44回「風紋」「室内」、45回「あじさい」「牡丹」、46回「桜島赤照」「薔薇図」、47回「五島大瀬崎の灯台」「砂丘」、48回(同55年)「紫陽花」、「葡萄実る頃」、49回「紫陽花の庭」「紫陽花」、50回「葡萄の秋」、51回「椅子に依るK夫人」、52回「甲斐駒ケ岳」

堀越隆次

没年月日:1984/12/05

 二科会監事の洋画家、堀越隆次は、12月5日午前6時50分、貧血病のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年68。大正5(1916)年6月26日、茨城県土浦市に生まれる。土浦中学を経て、昭和14(1939)年東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業。同年名古屋市日本陶器(現ノリタケ)に入る。服部正一郎に師事。同15年東満州に於て兵役に服し、同18年帰国。同年第30回二科展に満州風景「氷河」で初入選する。以後、ノリタケ・カンパニーに勤務する一方で同展に出品を続け、同26年第36回二科展「母と子と」(A)、(B)、(C)、三部作を出品して二科賞を受け、翌年同会会友となる。同30年第40回二科展には「罰」「母と子」を出品し会友賞を受賞。同39年二科会員となる。同41年第51回二科展に「とりとひと-B」を出品して会員努力賞を受賞。同54年同会評議員、同59年同会監事となる。同46年より53年まで中部国際形象展、同54年から56年まで中日展にも出品。社会の矛盾に耐えて生きる人々の生活に深いまなざしを注ぎ、プリミティブな味わいのある画風を示した。 二科展出品歴--30回(昭和18年)「氷河」、31回「筑波遠望」「水郷」、32回「家路」、34回「家族」、35回(同25年)「風の吹く日に」、36回「母と子と」(A)、同(B)、同(C)、37回「家族B」、同C、38回「路傍A」、同B、同C、39回「よる」「こまった」、40回(同30年)「母と子」「罰」、41回「母子A」、同B、42回「工場の母子」、43回「家族A」、同B、44回「枷B」、45回(同35年)「ささえるA」、同C、46回「傷ついた人(A)」、48回「母子」、49回「ぎせい」「白いみち」、50回(同40年)「鳥と人」、51回「とりとひと-B」、52回「鳥と人とA」、53回「はれた日」、54回「ある家族」、55回(同45年)「ある家族A」、56回「ある家族」、57回「ピエロ……たち」、58回「こわれた人形」、59回「家族」、60回(同50年)「どこへ」、61回「ささえる」、62回「廃船」、63回「回想」、64回「集積」、65回(同55年)「余★」、66回「サン・ミゲルの母子」、67回「ふたりと二人」、68回「聖家族」

村野藤吾

没年月日:1984/11/26

 日本芸術院会員、日本建築家協会終身会員、日本建築学会名誉会員の建築家村野藤吾は、11月26日心筋こうそくのため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年93。本名藤吉。建築界の重鎮で文化勲章受章者の村野は、明治24(1891)年5月15日佐賀県唐津市で生まれ、その後福岡県八幡市で育った。大正7(1918)年早稲田大学理工学部建築科を卒業し、同年大阪の渡辺節建築事務所に入りアメリカ風の建築実務を仕込まれ、大阪商船神戸支店、大阪ビルディング本店などの設計に参加した。昭和4年独立し村野建築事務所(同24年村野、森建築事務所と改称)を開設、大阪・そごう百貨店、宇部市民会館などを設計し戦前から既に建築界に不動の地位を築いていた。戦後は同28年の広島・世界平和記念聖堂で注目され、名古屋・丸栄百貨店(同29年)、日本生命日比谷ビル(同38年)で建築学会賞を受賞した。また、同28年には日本芸術院賞を受け、同30年日本芸術院会員となり、同42年文化勲章を受章する。その後も箱根樹木園休息所(同47年、建築学会建築大賞)、迎賓館改装(同49年)、日本興業銀行本店(同50年、第16回BCS賞)、小山敬三美術館(同52年、毎日芸術賞)ほか創造力豊かな建築を次々に手がけ、同57年に完成した新高輪プリンスホテルは生涯の総決算的な仕事となった。戦前の折衷主義から近代主義、ポスト・モダンへと旺盛で意欲的な作風は止まるところを知らなかつたが、一貫して現実主義者の姿勢を貫ぬき、その名声は晩年に至って一層高まった感があった。同48年早稲田大学より名誉博士の称号を授与されたのをはじめ、米国建築家協会、英国王立建築学会の各名誉会員でもあった。

生沢朗

没年月日:1984/11/22

 洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。

山本不二夫

没年月日:1984/11/02

 二科会理事、日本水彩画会理事の洋画家山本不二夫は、11月2日午前0時10分、脳血栓のため、千葉県八千代市の新八千代病院で死去した。享年79。明治38(1905)年2月1日、千葉県佐原に生まれる。千葉県立佐原中学校を経て、大正15(1926)年東京商科大学(現一橋大学)専門部を卒業後、昭和7年まで旅館、運送業を自営する。のち、同13年まで内務省土木部に務め、大戦中は海軍省の嘱託となる。この間、同9年に二科展、日本水彩展に初入選。以後同展への出品を続け、同14年日本水彩展に「佐原風景」「高楼聴蝉」を出品してキング賞を受賞、同16年同会会員、および二科会会友となる。戦後、本格的に制作に専念し、再編された同二団体に参加。同25年、再編後の新制度下の二科展で再び会友に推挙され、同30年同会会員となる。同36年、フランスのサロン・コンパレゾンと二科展の交流のため渡欧し、5カ月間美術品を視察。同38年二科展に「樹から生れた女」「ねんりん」を出品して会員努力賞を受け、同40年二科会50周年記念展では「あしたの女達」で総理大臣賞を受賞、同44年の同展には「山の湖で」を出品し青児賞を受ける。同45年ポルトガル、モロッコ及びヨーロッパを訪れる。水平線、垂直線を基調とする構図に女性の単身像あるいは群像を配し、抒情的作風を示した。二科展出品歴-21回(昭和9年)「佐原風景」、22回(同10年)「水辺(水彩)」、23回「監督船就航」、24回「佐原河港」、25回「総領息子」、26回「静か」、27回(同15年)「外堀線」「美しき佐原河港」、28回「陽気な女車掌」「佐原の跳橋」、29回「元気なエンヂさん」、31回(同21年)「夕陽の佐原」「十六島の娘」、32回「R夫人像」、34回「横臥裸婦」「帳りの中の裸婦」「二人のニンフ」、35回(同25年)「いこひ」、36回「森」「花と裸女」、37回「花をくわえた女」「二人」、38回「暗い海岸」「目覚めたる女」、39回「崩れゆく夢」、40回(同30年)「野のなやみ」「断想」「山のいのち」、41回「麦愁」「青い気圧」「岩の芽」、42回「静かなる谷間」「鳥と語れば」、43回「腰かける裸婦」「二人の裸婦」「立てる裸婦」、44回「朝粧」「花をもてる妖女達」「花にくちづけす」、45回(同35年)「土麗都」「楼夢」、46回「積寥」「組寂」、47回「黒い気流」、48回「樹から生れた女」「ねんりん」、49回「樹層」「巌の華」、50回(同40年)「あしたの女達」、51回「あじさいの咲く頃」、52回「三人の舞妓」、53回「霧は流れる」、54回「山の湖で」、55回(同45年)「あるつどい」、56回「赫い道」、57回「残雪の消える頃」、58回「猫を飼ふ女」、59回「髪」、60回(同50年)「梳づる女」、61回「鳥と戯れる」、62回「海の見える丘」、63回「紫陽花を愛す」、64回「月光のある部屋」、65回(同55年)「めざめ」、66回「集り」、67回「静かなる」、68回「砂の床」、69回「花をかざす」

麻田辨自

没年月日:1984/10/29

 晨鳥社顧問、日展参事の日本画家麻田辨自は10月29日午前4時、肝不全のため京都市上京区の京都府立医大附属病院で死去した。享年84。明治33(1900)年12月14日京都府亀岡市に生まれ、本名辨次。大正7(1918)年京都市立絵画専門学校に入学、在学中の10年第3回帝展に旧姓中西辨次の名で「洋犬哺乳」が初入選する。13年卒業と共に研究科に進学、昭和2年より麻田辨次の名で帝展に出品している。4年西村五雲に師事し、帝展と共に五雲画塾の晨鳥社展にも出品、また創作版画も手がけ、5年第11回帝展に日本画「こな雪の朝」と共に「燕子花其他」の版画作品を出品する。戦前の作品としては9年第15回帝展「南瓜畑」、12年第1回新文展「たにま」、15年紀元二千六百年奉祝展「白秋」などがあるが、概して師五雲風の練達した画風の小品に佳作を見る。13年師五雲死去の後暫時低迷するが、戦後、風景画に新境地を開き、25年第6回日展「樹蔭」が特選、27年第8回日展「群棲」が特選・白寿賞を受賞。28年以後たびたび審査員をつとめ、34年第2回日展「風霜」は文部大臣賞、更に36年第7回日展出品作「潮騒」により翌年第21回日本芸術院賞を受賞した。33年より日展評議員、47年理事、52年参与、55年参事となり、52年より名を辨自としている。また晨鳥社顧問をつとめ、38年、48年の2度にわたりヨーロッパを訪遊する。49年京都市文化功労者、50年京都府美術功労者となる。著書に『巴里寸描』(52年求龍堂)がある。 主要出品歴大正10年 第3回帝展 「洋犬哺乳」大正11年 第4回帝展 「遊鶴図」大正15年 第7回帝展 「鷲」昭和2年 第8回帝展 「花鳥」昭和5年 第11回帝展 「こな雪の朝」「燕子花其他」昭和6年 第12回帝展 「洋犬図」昭和7年 第13回帝展 「グレーハンド」昭和9年 第15回帝展 「南瓜図」昭和11年 第1回文展鑑査展 「土に遊ぶ」昭和12年 第1回新文展 「たにま」昭和13年 第2回新文展 「霧雨」昭和14年 第3回新文展 「花かげ」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展 「白秋」昭和18年 第6回文展 「澤辺」昭和21年 第2回日展 「馬」昭和23年 第4回日展 「たにま」昭和24年 第5回日展 「暮雪」昭和25年 第6回日展 「樹蔭」(特選)昭和26年 第7回日展 「樹間」(無鑑査)昭和27年 第8回日展 「群棲」(特選・白寿賞)昭和28年 第9回日展 「澗」(審査員)昭和29年 第10回日展 「樹園」昭和30年 第11回日展 「飛鴨」(依嘱)昭和31年 第12回日展 「水光」(審)昭和32年 第13回日展 「沼辺」(依)昭和33年 第1回新日展 「新樹」(評議員)昭和34年 第2回新日展 「風霜」(文部大臣賞、審、評)昭和35年 第3回新日展 「魚紋」(評)昭和36年 第4回新日展 「沼」(評)昭和37年 第5回新日展 「鴛」(審、評)昭和38年 第6回新日展 「無月」(評)昭和39年 第7回新日展 「潮騒」(評)昭和40年 第8回新日展 「山湖」(評)昭和42年 第10回新日展 「夕虹」(評)昭和43年 第11回新日展 「暈」(評)昭和44年 改組第1回日展 「曲水」(審、評)昭和45年 改組第2回日展 「飛鴨」(評)昭和47年 改組第4回日展 「虹立つ」(審、理事)昭和48年 改組第5回日展 「遠雷」(理)昭和49年 改組第6回日展 「馬」(審、理)昭和52年 改組第9回日展 「静謐」(参与)昭和53年 改組第10回日展 「聖火」(参与)昭和54年 改組第11回日展 「唐崎之松」(参与)昭和55年 改組第12回日展 「暮雪」(参事)昭和56年 改組第13回日展 「藤なみ」(参事)昭和57年 改組第14回日展 「樹木」(参事)昭和59年 改組第15回日展 遺作「樹下」(参事)

福田朝生

没年月日:1984/10/18

 日本建築協会会長、双星設計社長の福田朝生は、10月18日午前2時30分、肝臓ガンのため兵庫県西宮市の県立西宮病院で死去した。享年67。大正6(1917)年4月29日、京城に生まれる。昭和15(1940)年3月、京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同年4月より同大工学部講師をつとめる。同年12月より同22年3月まで応召。同年9月京都工業専門学校講師となり、同24年5月、同校教授となる。同24年7月、学制改革により京都工芸繊維大学講師となり、同26年同校助教授となって建築計画を講ずる。同31年3月、同校を退職し、双星社竹腰建築事務所(現称双星設計)に入り、同41年4月より同事務所社長をつとめる。昭和36年の大阪市立中央図書館、同45年万国博お祭り広場大屋根(共同設計)、同53年姫路聖マリヤ病院、同56年箕面市立病院、同57年金蘭会学園千里短大・中学・高校校舎、同58年石川県立中央病院などを手がけたほか、日本建築協会会長、日本建築家協会理事、日本建築学会評議員、大阪府建築士会理事をつとめ、日本の建築学の向上にも寄与した。

木村徳国

没年月日:1984/10/07

 明治大学工学部教授で建築史家の木村徳国は、10月7日急性呼吸不全のため東京都港区の東京船員保険病院で死去した。享年58。日本古代建築史と業績の高い木村は、大正15(1926)年5月9日京都府竹野郡に生まれ、東京府立第四中学校、静岡高等学校を経て昭和23年東京大学第一工学部建築学科を卒業、引き続き同大学院へ進み、同27年北海道大学工学部講師に就任、同年助教授となる。初期は日本近代建築史に関する論考が中心で、同35年、論文「日本近代都市独立住宅様式の成立と展開に関する史的研究」で東京大学より工学博士の学位を授与された。同40年明治大学工学部教授に就任、その後40年代の半ば頃から日本古代建築史(住宅史)を主な研究対象とし、同55年「日本古代住宅史に関する一連の研究」を理由に昭和54年度日本建築学会賞(第一部論文部門)を受賞した。著書に『古代建築のイメージ』(同54年、日本放送協会出版)他がある。

晝間弘

没年月日:1984/10/06

 日本芸術院会員、日展常務理事の彫刻家晝間弘は、10月6日狭心症のため東京都葛飾区の第一病院で死去した。享年68。初期の木彫から塑像、ブロンズ等へと領域を広げ、堅実な写実力で独自の造形をもとめた晝間は、大正5(1916)年3月5日東京都葛飾区に生まれた。東京美術学校在学中の昭和14年第3回新文展に「朝晨」で初入選し、翌年同校彫刻科木彫部を卒業、卒業制作「早蕨」で正木記念賞を受ける。同年の第4回東邦彫塑院展で彫塑院賞を受賞。北村西望に師事し戦後は日展に出品、同22年第3回展で特選を受けたのをはじめ、第5-7回展で連続特選となり、第5回展出品作「希望」は政府買上げとなった。同27年の第8回日展で初の審査員にあげられる。同33年社団法人日展会員となり、同37年評議員、同52年理事、同55年からは日展常務理事をつとめる。この間、同39年第7回日展出品作「大気」で文部大臣賞、同45年改組第1回日展出品作「穹」で日本芸術院賞を受賞し、同55年に日本芸術院会員となる。日本彫塑会(同47年理事)にも所属し、同51年から54年まで筑波大学教授をつとめた。

高須靱子

没年月日:1984/09/24

 元女子美術大学教授の洋画家高須靱子は、9月24日午後5時、老衰のため、東京都青梅市の青梅藤ケ丘病院で死去した。享年75。明治42(1909)年1月7日、鳥取市に生まれる。本名川澤雪枝。女子美術専門学校を卒業し、昭和4(1929)年に1930年協会展に出品。のち、独立美術協会に出品、同30年「花A」「花C」で独立賞を受賞、同34年、同会々員となる。また、同21年11月に設立された女流画家協会には、創立時から会員として参加し、のちに委員もつとめる。同23年までは、斎藤雪枝と称した。初期から花を描くことを好み、自由なタッチと豊かな色彩で装飾的な画面をつくりあげたが、同30年代後半から抽象的な傾向を示した。晩年は団体展への出品が少なくなり、同57年には独立美術協会会員を退いている。同30年より女子美術大学芸術学部で教鞭をとり、同46年より同49年まで同学部教授をつとめた。

手塚俊一

没年月日:1984/09/23

 舞台美術家の手塚俊一は、9月23日午後6時14分、小脳血管芽シュのため、東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年39。昭和19(1944)年10月15日東京都新宿区に生まれる。中央大学法学部在学中より舞台美術を志し、高田一郎に師事する。44年早稲田小劇場の研究生となり翌年入団、同年の「劇的なるものをめぐって2-白石加代子抄」では宙吊りにした古障子約50枚を可動させ日常と非日常を同一空間に交錯させた特異な装置を製作、「’70舞台美術フェスティバル」の銅賞を受賞する。49年早稲田小劇場を退団した後はフリーとして活動、転形劇場(「硝子のサーカス」)、演劇団(「邪宗門」)、斜光社時代を含む秘法零番館(「少年巨人」)、転位21(「漂流家族」)、黒色テント68/71(「与太浜パラダイス」)、不連続線、シェイクスピア・シアター、こんにゃく座など、現代の日本の演劇に重要な役割を果たす小劇場演劇を代表する秀作の舞台美術を手がけた。その数は最後の作となった秘法零番館出演「食卓秘法2、いただきまあす、別役実さん」まで50本以上に及ぶ。衣類や布団、トタン、電気器具などの古ぼけた最早廃棄物的な日用品を用い、一見演劇内容と無関係に見える装置で逆に舞台との緊張感と本質的な連繋を生む手法で注目を集めていた。

木幡順三

没年月日:1984/09/20

 慶応義塾大学文学部教授で美学者の木幡順三は、9月20日肝不全のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年58。大正15年(1926)年6月29日大阪市に生まれ、大阪府立北野中学校、第三高等学校理科甲類を経て昭和23年東京大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し同26年卒業した。同29年から東洋大学で講じ、翌30年同大専任講師、同32年同助教授となり同41年教授に昇任した。同51年慶応義塾大学文学部教授に転じ美学美術史学科で教鞭をとる。この間、同43年に東京大学文学部で講じたのをはじめ、東京芸術大学、東北大学、大阪大学、成城大学、学習院大学等の非常勤講師をつとめた。また、学会にあっては同44年以来美学会委員をつとめ、美学会の運営に尽力した功績は大きい。慶応大学在職中の死去であった。主要著作に『美と芸術の論理』(同55年、勁草書房)、『美意識の現象学』(同59年、慶応通信)等がある他、没後『求道芸術』(同60年、春秋社)、『美意識論-付作品の解釈』(同61年、東大出版会)が刊行された。

角南松生

没年月日:1984/09/12

 春陽会会員の洋画家角南松生は、9月12日脳こうそくのため東京都新宿区の駒ケ峰病院で死去した。享年92。本名松三郎。明治24(1891)年12月1日岡山市に生まれる。昭和8年から春陽会洋画研究所で学び、木村荘八、中川一政の指導を受けた。春陽会へは第10回展から出品し、同15年第20回展に「花」で春陽会賞を受賞、翌年春陽会会友、同22年春陽会会員となる。戦前の新文展には第4回から出品、戦後も第1回日展に出品したが翌22年には日展を離れた。同27、35、38、52年の4回にわり欧米を巡遊する。作品に「福沢諭吉像」(現慶応志木高蔵)などがある。また、村武らと浅草で天洋画会を設け、活動写真時代の映画館宣伝の草分けとして活躍したことでも知られる。

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